変化する消費文化の未来像―地方創生へのヒント

立教大学教授 間々田孝夫

<梗概>

 今や先進諸国を中心に豊かな社会が築かれるとともに,その恩恵は途上国にまで及ぶ中,近年右肩上がりの成長主義的な経済成長への展望が不透明となり,「資本主義の終焉」や「定常社会」ということがいわれている。日本においても百貨店の凋落傾向に見られるように大量生産・大量販売の一時代に区切りをつけ,人々の幸福や喜びといった精神的・文化的なものをより志向するような消費社会へとその質を変化させつつある。しかし,これまでの消費社会に対する分析はその総体をとらえきれず,今後の経済社会のあり方に対して有効な知見を提供できずにいる。そこで消費社会の動態を多元的にとらえる消費文化論からの視点を提案したい。

はじめに

 近代を開いた産業革命は,19世紀に西欧先進国を中心に諸産業分野において発展し,二つの世界大戦という困難を経ながらも,戦後には高度経済成長がもたらされた。工業化の高度進展による大量生産・大量販売の経済社会体制が急速に進展した結果,先進諸国のみならず途上国にまで広範囲に物質的な繁栄がもたらされ,20世紀は「消費の世紀」と呼ばれるほどの過去に類を見ない繁栄を達成した。
 最初は衣食住といった水準向上のレベルから始まり,それに加えて健康,娯楽,スポーツ,余暇など精神的な楽しみを満足させる方向も加わり,今日ではさまざまな消費活動が各方面に展開しつつある。
 ところが,物質的繁栄の陰で,それに伴う負の側面が世界的に現れ深刻な問題をも引き起こすようになって,大量生産・大量消費社会のあり方とそれに基づく生き方に対する反省の声も大きくなってきた。
 さらに近年の日本においては,これまでのような景気循環論では説明できない経済停滞が見られ,百貨店の閉店や量販店・スーパーなどの売上げ不振も顕在化しており,今後の消費社会の行方に関心が向けられている。また日本では少子高齢化と人口減少が急速に進行するなか,経済成長政策をめぐってさまざまな議論が出ている。
 そこで21世紀の経済社会のあり方を考える上で,消費文化研究の立場から,これまでの消費文化を考察しつつ消費観についての新しい見方を提示してみたい(詳細は,間々田孝夫『21世紀の消費―無謀,絶望,そして希望』ミネルヴァ書房,2016を参照のこと)。

1.消費文化研究の課題

(1)成長主義的消費観
 消費生活の向上という部分だけを見れば,20世紀は先進諸国において史上最も幸福度が上昇した時代だったといえる。そして21世紀に入ってからもその流れは基本的に維持されているので,多くの人々は消費は生活を幸福にする好ましいものであり,より豊かな消費生活を実現することは望ましいとの価値観を共有している。さらにそれはそのための生産性向上と所得上昇,それを実現するための経済成長と結びつけられ,成長主義や物質主義といった先進資本主義諸国に共通のイデオロギーを形成した。
 これを「成長主義的消費観」と呼ぶとすれば,その特徴には次のような要素がある。
• 消費財は量が多いほど価値があり,人間により多くの満足や幸福をもたらす。
• 消費は絶え間なく,おそらく果てしなく増大する。
• 消費は善いものであり好ましい結果を生む(消費の性善説)。
• 消費は個人の主体的判断(意思)に基づく行為である。

(2)批判的消費観
 一方,20世紀における消費の発展を好ましくないもの,警戒すべきものとしてとらえる見方も存在した。歴史的に遡れば,古代から過度の物質的な放縦に対して宗教は禁欲的態度(反消費主義)を奨励する傾向が見られた。近代社会成立以降,世俗化の進行によって宗教の影響は弱まったが,反消費主義的な考え方は,宗教を離れて道徳,思想,教育,学問の世界に引き継がれて今日に至っている。例えば,欧米ではマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」やキリスト教的な禁欲主義などである。
 とくに20世紀になり,反消費主義的な考え方を引きついで,目覚しい消費の拡大を批判的にとらえようとする見方が少なからぬ影響を発揮し始めた。大衆的な物欲,華美,贅沢などは否定的にとらえられ,消費に積極的関心をもつこと自体も好ましくないと考えられ,消費を支える工業や商業に対しても価値の高いものとはみなされなかった。このような考え方を「批判的消費観」と呼ぶことにしよう。
 この基本認識は次のようなものである。
• 生活上の必要を満たす以外の消費は特段の価値をもたず,むしろ否定的にとらえる。
• 消費者は生産者(企業)の欲望喚起によって過剰な消費に導かれているに過ぎない(生産者主権論)。
• 社会的な競争や同調というメカニズムによって必要でないものを多く消費している。
(見栄,流行,差別化,顕示的消費,記号的消費)
• 企業の販売促進や消費者の競争などにより消費が際限なく増大する。

(3)二つの消費観の対立とその限界
 20世紀,経済恐慌や世界大戦などさまざまな蹉跌を経験しながらも,大きく見れば資本主義経済は成長し続け,人々の消費水準を高めてきた。その中で成長主義的消費観は一般常識化した。しかしそこに潜んでいた現実の美化や誇張,思い違いがあり,それを明るみに出し,警鐘を鳴らすために対立的な言説を展開したのが,批判的消費観であった。
 20世紀末以降,現代社会はますますせわしなく変化し,それにつれて消費のあり方も大きく変わった。しかしそれに対して二つの消費観は,その立場を凝固,硬直化させてしまい,現実の消費の実態をとらえきれなくなってしまった。
 ここ数十年のとくに大きな変化とのずれは何かといえば,「消費の限りない増大」という成長主義的消費観と批判的消費観に共通した認識が揺らいでいることである。おおむね対立的な見方をしていた二つの消費観であるが,この点については同じような見方をしていた。ところがその大前提が最近の消費社会では怪しくなってきたのである。
 例えば,マーケティング関係者の間では以前から「モノ離れ」がささやかれてきた。先進諸国では,消費分野によっては(食料や衣類,白物家電など)必要が満たされ消費量が頭打ちになっているものが少なくない。
 他方,エコやグリーンというキャッチフレーズのもと,環境に配慮しないもの,あるいは実質的に役に立たずムダなものは購入しないという動きも出てきて,その点から消費にブレーキがかかったものもある。また「若者の消費離れ」が話題にもなった。
 脱物質主義化の一つのきっかけとなった環境問題は,消費=善という成長主義的消費観の認識に大きな変更を迫った。それに伴って,グリーン・コンシューマリズム,フェアトレード,エシカル・コンシューマリズムなど,さまざまな消費文化の動きも派生してきた。本来であれば,そのような動きにいち早く注目して取り上げてもよさそうな批判的消費観の論者は,あまり熱心には関心を向けてこなかった。
 以上のような,脱物質主義化によるモノ消費の停滞,環境問題の制約,消費社会の諸問題に対処する動きなどは,不活発で停滞的な消費社会の到来を予想させるものである。しかしそれとは違った動き,すなわち消費に関する「深化」も同時に起こっている。
 先進諸国の消費は,量的には確かに停滞している。しかし消費の「質」や「対象」に注目すると,そこには無視できない大きな変化が生じつつある。例えば,あらゆる分野における品質の向上や多様化,過去の常識にとらわれないファッション化,多様な文化活動などである。これらは消費金額はそれほど大きくはなく,物資的経済活動としての意味はあまり強くないが,消費者に精神的充足感をもたらし,生活の質向上に大きな役割を果たすようになった。
 こうした変化に対して,成長主義的消費観の立場からは,量的拡大を伴わないために見過ごされやすく,批判的消費観の立場からは,必要を超えた消費についてそれほどの価値はないとの基本前提が潜んでいる。消費が単なる物質の供給という域を超えて,複雑な人間的欲求を実現するようになった現代の状況に対して対応できていないばかりか,人間にとっての消費の意味を,うまくすくい取れていないのではないか。さらにそのような既存の枠組みは,ITの進展による情報革命によってさらに現実適合性が疑われるようになっている。
 そこで私はそうしたこれまでの特定の解釈枠組みの限界を超えて,以下,新しい消費観を示して見たい。

2.四つの消費文化

(1)消費が実現すべき価値
 消費は何らかの価値を実現するものであるが,その内容には次のようなものがある。
• 生理的価値:消費財,あるいは消費の対象となるサービスが,人間の生理的欲求を満たす役割を果たす場合に,そのような財やサービス,あるいはそれらの消費行為がもつ価値。
• 道具的価値:道具やその他の消費財がもつ,人力に代わる有効な手段としての価値。
• 機能的価値:何らかの消費財やサービス,あるいは消費行為が,消費者の目的達成にとって,明確な手段的役割を果たす場合,その消費の価値。道具的価値は機能的価値に含まれる。
• 関係的価値:消費が他者や所属集団,一般社会などの社会環境との関係を調整する役割を果たす場合,そのような意味での消費財やサービス,および消費行為の価値。
(例えば,見せびらかしの消費,社長らしい車,人並み消費,流行など)。
• 精神的価値:人々が消費を通じて何らかの精神的な充足感や興奮,安定など,当人にとって好ましい精神状態を実現するとき,そのような消費のもつ価値。
• 文化的価値:精神的価値の中で,社会的に好ましくないと判断される部分を除いたもの。
現代では,一般に消費は楽しいもの,精神的欲求を満たすものと考えられており,文化的価値を実現する消費が当然に浮かび上がってくるが,これまで学問の世界ではあまり注目されてこなかった。
 文化的価値は,特定の物的消費財の単純な利用によって実現されるものではなく,人,モノ,空間などが統合されたシステムによって提供される,複合的な消費対象となることが多いという特徴がある。そのため物的消費財と結び付けられることの多い消費分析において,物的消費財に偏らない分析が重要であるとともに,文化的価値の追求が物的消費財への需要を停滞させ,脱物質主義化を招く可能性を示唆するものでもある。
 文化的価値の中には,消費者の能動的かかわりによって実現するものが多い。消費財はその一コマに過ぎず,むしろ消費者(行為者)こそがその主役だということにも注意する必要がある。
なお,消費とは,消費行為の過程自体によって諸価値を実現することであり,一般的な価値実現や欲求充実のリストとは必ずしも一致しない。それゆえ消費を通じては実現できない価値については,本節では取り上げないこととする(例えば,名誉の回復,地位の達成など)。

(2)消費文化の類型化
 前節の6つの価値をもとに消費文化を類型化し分析する。6つの価値のうち,道具的価値は機能的価値に,精神的価値は文化的価値にそれぞれ類似しており,それぞれ後者に代表させられると考えられるので,ここでは三つの価値を中心に消費文化を整理し,その価値に随伴する原則もあわせて示す。
• 第一の消費文化(機能的価値)
 現在の消費社会の基調をなす文化であり,消費者の日常生活の中に,また消費財関連の企業活動の中に,無意識の常識となって定着している。先進国はもとより,開発途上国においても第一の消費文化は広がり,第一の消費文化が実現されることによって,エリート層から一般庶民に至るまで,消費の豊かさを実感できるようになる。
<第一原則>機能的価値をより高い基準で実現することを目指す。
<第二原則>消費の量的拡大を志向する。
• 第二の消費文化(関係的価値)
 早くから消費を研究対象としてきた(理論)経済学は,第一の消費文化に焦点をしぼることによって,高度に理論的で体系的な理論を構築するという方針をとった。そのため第二の消費文化は,基本的に他の人文社会科学分野に任されて取り上げられてきた。その際,第二の消費文化はしばしば批判の対象という位置づけにされてきた。
<第一原則>関係的価値をより高い水準で実現することを目指す。
<第二原則>非機能的な消費行為または非慣習的な消費行為を自己目的的に追求する。
*非機能的な消費行為とは,機能的価値を持たない,あるいは低下させた消費のことであり,非慣習的な消費行為とは,常識化,慣習化して誰もが半ば無意識的に採用していた消費パターンにあえて逆らおうとするもの(例えば,奇抜なデザインの家具,ミスマッチなアイテムの組み合わせなど)である。
③第三の消費文化(文化的価値)
 現代の消費においては,一方で利便性や量的拡大ではなく精神的な充実が得られるような消費が求められ(文化的価値の追求),他方では社会問題を回避し,あるいは解決するような消費が求められている(社会性の追求)。これらは既に現実化していると同時に,今後の消費社会が追求すべき方向性でもある。ゆえにそれらを同時に実現しようとする第三の消費文化は,まさに現代の消費文化をリードする理念と言える。
<第一原則>文化的価値を深く,あるいはより幅広く追求する。
*具体的には,ファッションに「こだわる」,美食を「極める」,趣味に「没頭」するなど。
<第二原則>社会的配慮を伴った消費を行い,消費が社会に与える好ましくない影響を回避しようとするもの。
*社会的公正,環境保全,被害者支援,文化財保護,動物愛護,フェアトレード商品の消費,エコ消費,震災応援消費など。
④ゼロの消費文化
 消費社会は基本的に消費の拡大,あるいは発展を目指している。それに対して消費社会の中にありながら,消費の積極的な価値を認めず,消費の充実も求めないような動きも存在する。現在の消費水準と消費文化を否定的にとらえようとする傾向は根強く,消費社会がさまざまな問題を引き起こすにつれて,このような傾向はむしろ強まっているように思われる。
<第一原則>消費のさまざまな価値を積極的に追求せず,現状の消費水準,消費内容にとどまろうとする。
<第二原則>消費のさまざまな価値を積極的に追求することを(自己批判も含めて)批判し,消費を抑制しようとする。
*<第一原則>は現状水準にとどまることであり,<第二原則>はそこからさらに消費水準を低下させようとするものである。

(3)消費三相理論
 前述の消費文化の類型は,さまざまな消費文化に適用することが可能だけではなく,新しい消費現象が発生したときに,どのタイプか分析することで,その意味を考えるのに有用だろう。さらに消費文化のタイプの変化を通じて,消費社会の様相の変化もとらえることが可能となる。そのことは,消費に熱心になることを,従来のように必ずしも批判的にとらえるのではなく,積極的な意味を見出すことにつながるのである。
 これらを比喩的に表現すれば,光の三原色にたとえることができよう。消費文化は,第一から第三までの消費文化(場合によってはゼロの消費文化も含む)によって構成されており,色相を分析することで,当該消費文化の特徴や変化をより精緻に分析することができるのである。

3.第三の消費文化

(1)意義
 第三の消費文化は,20世紀末以降の消費社会の中で力強く発展している。従来,文化的価値はほとんどの場合,関係的価値と混同されていたが,それを切り離し,その代わりに従来あまり注目されなかった社会的配慮と連結させることで,これまでにない独特な消費文化のとらえ方をしたのが,「第三の消費文化」の概念である。生産力が増大し,消費水準が上昇する限り,第三の消費文化は趨勢的に拡大していくと考えられ,他の消費文化よりも活発な動きが見られ,次第にその影響力を強めていくものと予想される。
 消費における社会的配慮と文化的価値の追求は,もともと別個のものであるが,しばしば同じ消費行為が両方の意味をもつ場合が存在し,また意図的にその両者を実現する消費財が供給されることも多い。二つの原則が重なり合うことにより,まさに第三の消費文化らしい消費文化が形成されつつある。第三の消費文化は数値としては明示しがたいところがあるが,発展を続けており,それ自体が自立的に活性化し普及するとともに,第一,第二の消費文化にも大きな影響を与えているという意味では,現代消費社会において主導的な役割を果たしているのである。
 また文化的価値が,現代社会の人々が消費を通じて強く実現を求めているものであり,内発的であるのに対して,社会的配慮は,肥大化した消費社会を持続可能なものにするため,否応なく社会に要請されているものである。前者は消費者が「したい」ことであり,後者は消費者が「すべき」ことである。この両者を一つの消費文化の中で同時に実現しようとする第三の消費文化が,現代消費の理念としてふさわしいことは明らかだろう。
 現代社会では,個人の私的欲求充足を越えた公共的な価値の実現が重要となるが,その一部を消費の中に取り込んだのが第三の消費文化の<第二の原則>(社会的消費)といえる。また現代社会において求められる精神的充足を消費以外ではなく消費自体によって実現しようとするのが,第三の消費文化の<第一の原則>(文化的消費)である。これらの価値は消費の外部でも内部でも実現可能であるが,消費の外部のみ,あるいは内部のみでこれらの欲求や価値を実現できないことはおそらく確かであろう。

(2)第三の消費観
 現在の重要問題は何かといえば,「物的消費がなぜ伸びるか」ではなく,「なぜ伸びないのか」を説明することであり,また,物的消費が伸びない中で何が求められ,何が変化しているかを明らかにすることである。
 消費観が古いままだと現実の変化を過小評価させ,学問上,および実践上(政策,企業の対応,社会運動等)の遅滞をもたらし,結局のところ現実の消費の変化を妨げる方向に作用することであろう。そのことは現代社会にとって決して好ましい事態をもたらさないように思われる。その意味で,現実にあわせた新しい消費観の確立は重要なことであり,それこそが第三の消費文化と結びついた「第三の消費観」なのである。
 第三の消費観は,成長主義的消費観とは違い,消費の量的増大ではなく質的発展に注目する。批判的消費観とは違い,消費が人間を幸福にする側面を重視する。しかし他方では,成長主義的消費観と同じく消費文化を肯定的にとらえ,批判的消費観と同じく消費の否定的側面にも目を配る。
そして第三の消費文化が中心になるとしても,他の消費文化を駆逐するとは考えないのである。ゆえにこれからの消費社会は,第三の消費文化が中心になるものの,第一の消費文化と第二の消費文化を含む多元的なものであり,複数の消費文化が影響しあって,従来の消費文化とは異なった構造と内容をもつようになるだろう(多元的消費観)。

(3)社会へのインパクト
 第三の消費文化の発展は,それを生産する産業の成長を促す。文化的価値に関連する産業としては,文化産業,情報産業,人的サービス産業,環境関連産業,グルメ向け飲食店,嗜好品産業,各種デザイン業などが,社会的配慮に関連するものとしては,リペア産業,リユース産業,省エネ産業,自然エネルギー産業などがある。
そして産業構造の変化は,生産体制と企業のあり方にも変化をもたらす。現代の主要な生産体制は,第一の消費文化に適合したものであるために,大企業による機械化され合理化された体制となっている。そこでは大量生産のために機能的価値は追求されるものの,規格化・単純化され,コスト面から文化的価値の追求は徹底されず,ほどほどのレベルとなる。しかし第三の消費文化の<第一原則>は,それとは逆の生産・流通のあり方を要請する。すなわち,消費者ごとの個性や生活体験の相違が顕在化し,価値観と嗜好の多様化が生じるため,それに応じた多様な消費財が求められるのである。このようなニーズに対して大企業の大量生産的供給システムは十分対応することが難しい。
結局,第三の消費文化が強まる社会では,小規模の企業が活性化し,大企業が満たしえない高度で多様なニーズに応える仕組みが求められる。近年の生産技術の深化により個別の消費者の特徴や嗜好に合わせてカスタマイズすることも可能になってきているが,それが本当の意味で多様性のある製品となりうるかは未知数である。
 また,流通業とサービス業においても,小回りがきき,高品質の商品を供給し,多様なニーズに対応する小規模店舗が支持を集めている。インターネット上の専門家した小売サイトやネットオークション,物々交換,消費者自身による製品の加工・改変などが盛んになっている。
 以上のような状況を踏まえて,これからの生産体制の見取り図を描いて見よう。
 多くの消費分野において,第一の消費文化を志向する大企業的な供給と第三の消費文化を志向する小規模企業からの供給が並存することになる。文化的価値をもつ消費財の分野では,効率化と大量生産,大量販売を旨とする大企業と,文化的価値の高度な達成,個別的対応,そして先取りに長けた小規模企業の複雑なせめぎあいの中で,財とサービスの供給が行われることになるだろう。
 社会的消費を実現する消費財の生産は,環境技術に見られるように大規模な技術開発を必要とする場合が多いことから,<第一原則>の場合よりははるかに大企業が活躍する領域が多いといえるだろう。しかし,有機農産物の生産・流通,地産地消の推進,修理業,古着などのリユース品の流通に見られるように,小規模の企業が活躍しており,今後も活躍の余地が大きいと思われる分野は少なくないだろう。
 さらに第三の消費文化の影響は,もともと消費とは縁の薄かった精神生活の分野にも現れる。これまで非物質的で純粋に精神的な価値の実現は宗教が担ってきた。しかし第三の消費文化が発展すると,そういった宗教の役割の一部を消費が担うようになってくる。20世紀後半から,精神医学,臨床心理学などが宗教の代替機能を担う傾向が強まり,また宗教と類似してはいるが宗教とはいえないニューエイジや精神世界と呼ばれる文化的な動きが広がったが,それは次第に消費と結びついていった(例えば,各種カウンセリング,自己啓発に関する出版物・セミナー,占い,ヒーリンググッズなど)。従来宗教が果たしてきた役割が,第三の消費文化的な消費にとって代わられる傾向が進んでいる。
 以上述べたとおり,第三の消費文化は着実に広がり,社会に影響を与えている。その動きは「自生的なもの」であり,とくに何もしなくても静かに浸透していくだろう。しかし第三の消費文化は,これからの消費文化を主導すべきものであり,現代消費社会にとって必要なものであるから,何もしなくていいわけではなく,例えば,政策を通じても(文化産業への補助など),その普及をさらに速め促進することが望ましいように思う。

4.第三の消費文化と地方創生

(1)地方創生を考えるヒント
 1990年代半ば以降,イオンなどが中心となって全国にショッピングモールが次々にできてきた。車社会化の進行に伴う一つの大きな変化の動きであり,それはまた消費文化の広がりを見せた現象だった。消費文化の観点からいえば,これは第一の消費文化が地方の隅々まで行きわたったことであり,同時にそこには(ブランド品など)第二の消費文化の要素も含まれていた。
 しかし第三の消費文化の観点からするとショッピングモールはまだまだ単純である。環境配慮の点では,車社会の産物で高エネルギー消費型でありその<第二原則>に逆行しており,第三の消費文化にはショッピングモールは向かない。
 地元住民は果たしてこれに満足しているだろうか。90年代ごろは満足していただろうが,いまはそうとも言えない。何か足りないものを感じ始めている。もちろん消費者にはいろいろなレベルがあるから,いまでも毎週のようにショッピングモールに行って買い物するのが楽しみという人もいるだろう。しかし経験の深い消費者にとっては,それだけでは何か物足りなさを感じている。
 それが証拠には,辺鄙な山奥にかなりの高い技術を持ったベーカリーができると,通常の2倍もするような価格設定でも,いままでショッピングモールに行っていた人たちの中にはこのような店に集まってくる人がいる。大量生産的でないものに対する欲望はかなり高まってきており,それに対する供給もある。
 かつて「東京にあるものはショッピングモールに行けばあるから,東京に対する憧れはなくなるだろう」と言われたことがあった。ある面でそれはそのとおりなのだが,逆に地元のショッピングモールに行って東京にも来てみると,ひと通りのスーパーやデパートという点では同じなのだが,下北沢や神楽坂などちょっと町外れに行くと町の光景が全く違っていることに気づく。つまり,地方都市には,シッピングモールしかなく(第一・第二の消費文化),東京の都心部を離れた小さな盛り場の多様な消費文化(第三の消費文化)が皆無の状態なのだ。都会には地方にない新たな消費文化が発展してきたので,地方住民は,地方がいかに単調で第一の消費文化的なところでしかないかということにいま気が付き始めているのである。結局今後は,地方都市も第三の消費文化的なものを広げなければやっていけないし,実際そういう気運が高まりつつある。
 これからも今まで同様にショッピングモールがなくなるわけではないが,それだけでは全部の需要を満たせないし,第三の消費文化がないことによる単調さが地方創生の緊急の課題となっている。そのような楽しみのないところには住みたくないということに繋がって人口減少を招いているのではないか。
 逆に東京の人たちが,人口の少ない地方都市に行ってまっさきに不満に思うことは,どこでも買えるようなものは買えるのだが,楽しい町歩きや,変わったモノが買えるところに乏しいということだ。例えば,飲み屋に行こうとすれば,都会と同じチェーン店しかないという感じである。
 ところで,近年デパート(百貨店)の凋落が指摘されて久しい。元来デパートは,三つの消費文化の全てを兼ね備えているところだった。生活に便利な品から始まって(第一の消費文化),ステータスシンボルのようなブランド品(第二の消費文化),さらには高品質で多様な商品などである(第三の消費文化)。ところが時代の流れの中で,最初に第一の消費文化が抜け,それらは量販店やスーパーに移っていった。とくに顧客層に高所得者が多いデパートは第二の消費文化に力点を置いてきたが,最近ではそれも行き詰まりを見せつつある。消費者がいつまでも第二の消費文化だけを追い求めていると考えてしまうと,経営戦略を見誤ることになってしまう。
 ボリュームゾーンとして,高所得者層は絶対数としてそれほど多くはないわけだから,彼らに焦点を当てているだけでは限界だろう。高所得者と目の肥えた層は重なりある部分が多いとはいえ,そのずれが大きくなりつつある。
 広範な中間層は第二の消費文化に相当する商品を求めていると同時に,第三の消費文化に関連するものも求めている。ところがデパートの経営者が第三の消費文化的なものを積極的に取り入れようとしていたかというと,その点で不十分だったのではないか。
 消費者の中には目の肥えた人がいるので,彼らに評価されるようなことを意識することが必要だろう。洋服であれば,値段が高く利益幅が大きいものを軸に据えるよりは,もう少し価格は抑えているが,品質がよくてデザインも無難だという実質的価値を中心にすることである。例えば,ユニクロは衣類に関心のない人,あるいはどちらかというと中低所得層で稼いでいる。第一の消費文化に近いタイプだ。それよりは上質の層を狙うのがよいのだが,しかしデパートはそれでは儲からないと考えているようだ。

(2)第三の消費文化による地方都市の活性化
2015年夏に,米国の西海岸,シアトルの南方にあるポートランドという町に行ってきた。この町は,オレゴン州の北西部に位置する人口60万人ほどの都市で,第三の消費文化を重視した街づくりをしている。まず,車を増やさないように路面電車を増やすなど環境配慮型の都市である。ダウンタウンはほとんど路面電車で回ることができ,中心部の川の近くにあった高速道路を撤去するという思いきったこともやった。さらにリサイクル,リユースなどをさかんに推進している。
 またポートランドは,サード・ウェーブ・コーヒー(第三の波のコーヒー)と言われるコーヒー生産とコーヒー販売店とを直接的に結ぶコーヒーのメッカで,全米から注目されている(Stumptown Coffeeなどが有名)。芸術も非常に盛んな街で,米国の手工芸品は一般にあまり有名ではないが,ポートランドは手工芸品の盛んな地域だ。リサイクル,リユースも盛んで,自然環境に恵まれた中でオーガニック農業も活発に行われている。さらにエスニック料理など世界中の料理を集めている。このように絵に描いたような第三の消費文化の町として注目されており,米国で最も住みたい都市の一つになっている。
 ポートランドの成功は,自生的なところから生まれた側面だけではなく,オレゴン州知事,ポートランド市長が第三の消費文化的な意識が高く,民間と協力して進めたという経緯もあったようだ。それだけではなく,そのような雰囲気,市民の意識の高さなどが背景にあったと思う。米国全体もそのような方向に行こうとしているようだ。
 一方,日本では市町村という行政単位ではそのような斬新なことを実行しにくいところがある。市町村議員が昔からの産業の権益に関わっていることもあるだろう。むしろ市町村内の○○町や○○通りという狭い範囲で成功しているところがある。例えば,長野県諏訪市の御田町は,全くの田舎町だったが,手工芸の店が集まり周辺から人を集めてにぎわっている。また東京では,高円寺の古着屋,清澄白川のコーヒーなどである。このように日本の場合は,小さな単位でうまくやっている事例が見られる。

最後に

 既に述べたように,大事なことは,これまで規模の経済,大企業化をひたすら進めてきたが,これからも大企業主導ですべてをやればいいということではなく,どちらかといえば,中小企業が活躍する社会になっていくだろう。ただ中小企業は経営が不安定で難しいところがある。しかし第三の消費文化がリードする社会においては,そちらの方がより大きな役割,機能を果たすべきで,そのような経済環境を整えていかないと,大企業だけが稼ぎ一般の消費者にはありがたくないような社会になってしまいかねない。もし行政が果たすべき役割があるとすれば,そのような中小企業が活躍できる環境や支援策をしてバックアップすることだろう。
 さらに言えば,日本の指導者(政治家)や役所の人たちは,一般に消費生活が単調なきらいがあり,自分自身が第三の消費文化に合うような生活をしていないことを指摘したい。為政者がそのような感覚で施策を進めていては,第三の消費文化に基づく発想をすることができない。彼ら自身が自分の立ち位置をよくわかっていないし,時代の変化を理解していないことが多いように思う。日本の中高年男性は一般に,消費に対するとらえ方が古めかしく単調で,これでは若い人と女性を満足させられない。まずはその辺の意識改革が必要だろう。産業政策となれば,一方に稼ぐ産業も必要だし,他方で与える産業,皆に喜ばれる産業も必要だから,しっかりそれらのバランスとってやっていくことが求められる。その意味でも女性の社会進出は好ましいことだと思う。
(2016年11月29日)

■プロフィール ままだ・たかお
1974年東京大学文学部卒。79年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。その後,金沢大学助教授などを経て,現在,立教大学社会学部教授。専攻は,消費社会論,経済社会学,社会行動論。主な著書に,『行動理論の再構成―心理主義と客観主義を超えて』『消費社会論』『消費社会のゆくえ―記号消費と脱物質主義』『第三の消費文化論―モダンでもポストモダンでもなく』『21世紀の消費―無謀,絶望,そして希望』他編著書多数。