国家の壁を超える歴史教育―「新しい世界史」の提唱

東京大学東洋文化研究所教授 羽田 正

<梗概>

 現代世界は,情報,経済・金融,環境などの急速なグローバル化が進展する一方で,近年はトランプ大統領のAmerica Firstや英国のEU離脱,極右勢力の台頭,移民・難民の排除など主権国民国家を単位とする内向きのベクトルが行きかう混沌とした状態にある。東アジア地域における日韓中の対立などを見てもわかるように,内向き中心の思考だけでは,そうした葛藤・対立の解消には限界がある。その第一歩として「地球の住民」というメタ意識を形成することが重要であるが,それにはこれまでのようなバラバラで個別の地域史の集積である世界史の見方では限界がある。そこで国や地域という時系列史を描くための歴史の縦糸と,同時代の世界を横に見て各地の過去の関連性や不連続性を一つのストーリーとして描く歴史の横糸を絡めて織り込む,グローバルヒストリーによる「新しい世界史」を提唱するものである。

1.現代世界の潮流と主権国民国家

 現在の国際社会は,主権国民国家を基本単位として構成されている。EUやアセアンのような共同体形成の動きも見られるが,戦後から少なくとも1980年代ごろまでは,陸地だけではなく(南極や公海を除いた)海洋も含めて地球上の全ての領域は,主権国民国家の支配によって覆われていると当然のことのように認識されていた。
 主権国民国家は「国際法人格」をもつ存在で(国家の権利及び義務に関する条約=モンテビデオ条約),それぞれ独自の歴史的背景があり,固有の権利と義務をもつとされ,国際連合においては,加盟国の主権の平等と国内管轄事項への不干渉を原則としている(国連憲章第2条)。
 しかし主権国民国家が形成されてきた18世紀以前の世界を考えてみると,全く違った社会であった。例えば,帝国の時代は,譬えてみれば,卵の黄身のような中核部分と白身のような辺境や植民地から成っており,国境すらもはっきり定まっていたわけではなかった。
 政治権力が意思決定をするプロセスについても,主権国民国家のように唯一の主体が意思決定をして国民を支配するというしくみではなく,複数の意思決定主体が同じテリトリの中に多層的に混在している状態にあった。田中明彦によれば(『新しい「中世」―21世紀の世界システム』),ヨーロッパ中世はまさにそのようなしくみの社会だったという。つまり,ある領域をみると皇帝や王,諸侯だけではなくローマ教皇という支配者がいる一方で,ギルドによる都市の自治,自由都市という自治組織もあって,人々はさまざまなレベルの支配を受けていた。
 私たちが当たり前だと思っている主権国民国家の連合体という今日の世界は,歴史性をもつものであることがわかる。しかしある時期までは,主権国民国家体制が国際社会の最終形であると多くの人々が考えていた。ところが1990年代になると,EUのように主権国民国家や国境の枠を超えた共同体を形成しようという動きが活発化してきた。21世紀には,アラブの春以降のいくつかの国に見られるように,誰が主権をもつのかすらもはっきりしない破綻国家がでてきたし,イスラム国(IS)のような主権国民国家の枠を超えた「国家」を指向する存在も現れた。一方で,最近では,米国トランプ大統領のAmerica Firstや,英国のBrexitのように,主権国家内のことは自分たちで決めるという潮流も顕著で,それはまるで一昔前の時代に逆戻りしたようにも見える。
 以上は政治分野の話であるが,情報,経済・金融,環境,インターネットなどの世界に目を転ずれば,主権国民国家を象徴する国境をいとも簡単に超えて繋がっている。国際テロリズム,グローバル企業,NGOやNPOの活動,世界同時経済不況,地球温暖化と環境問題,情報爆発とその管理・操作など,現代世界を特徴づけるさまざまな要素や問題群は,地理的な意味での国や地域の境界を超えている。
 このようにグローバル化が進む現代に生きる私たちにとって,「世界」という枠組みは着実に重要性を増している。主権国家にだけ注目して世界を見ていると,現代世界で生起する諸現象を十分に理解することは難しい。世界を単位として,問題の所在や解決の方法を議論することが重要である。

2.歴史学の挑戦としての「新しい世界史」の意義

 日本では「世界史」という歴史理解の枠組みが,戦後高校教育課程に導入されたが,この世界史は,国や地域の歴史の総和として理解されている。つまり世界史と言っても,その主役は国と地域なのである。各国の歴史はそれぞれ縦(時系列)に構成されており,それらを紐でしばれば世界史になるという考え方だ。古い時代にさかのぼれば主権国民国家よりも大きな単位(地域,文明)になっていくけれども,それをコンテナのように閉じた世界として理解する。もちろん横の交流を無視はしていないが,基本は主権国民国家や地域,文明の縦の糸(歴史)を基本とする構造となっている。
 このような「世界史」は,これまで当然視されてきた主権国民国家を基礎とする世界の理解において,この時代の世界の動きを非常にうまく説明ができるし,現状理解に都合のよい枠組みを提供していた。
 国民はある国に属し,その閉じたコンテナの中にいる。コンテナの歴史は隣国のそれと近いとは言っても,やはり違う。日本には日本の歴史があり,それは朝鮮半島の歴史とは一線を画している。国に対するアタッチメント(愛着)は,その国民のアイデンティティを強化する方向に作用する。したがって,このタイプの世界史は国民のアイデンティティ強化には役に立つ。この構図はどの国でもほぼ同じであって,基本的には自国の歴史と他国の歴史を区別するので,自分の国という意識(帰属意識)を獲得するには非常に都合がよい。
 しかし,前節で述べたように,現代世界の大きな潮流として,国や地域の境界を超えた世界規模でとらえるべき事象がごく普通に生じ,世界の様相が数十年前と比較して大きく変化している現代において,過去と対話を行うための基本的な枠組みと手法が,これまでのままでよいはずがない。国や地域とは別に,世界それ自体を検討の対象としてその過去を解釈し理解することが,今こそ求められているのではないか。
 そのためには「自分は地球の住民である」という意識を強く持つ必要がある。「私は日本人だ」「私は中国人だ」「私はフランス人だ」と(違いだけを)主張していては,この種の世界規模の問題解決に向けた議論はうまく噛み合わない。「国民」という意識に加えて,みんなが「地球の住民」だという意識を持って,グローバルな問題をどうやって解決するのかを話し合う必要がある。つまり一つ上の次元でものをみて解決する方法でお互いに考えていかないと,おそらくものごとはうまくいかない。
 別の言葉で言えば,もう一つ上の次元のアイデンティティを作らないといけないということだ。そのために歴史家は,何か貢献することができるだろうか。歴史家が人々に「新しい世界史」を提示して地球の住民である自覚を持たせ,世界の見方を変えることができる機会を提供できるとすれば,それこそが「新しい世界史」の貢献といえるのではないか。
 新しい世界史は,それを学ぶことによって,この世界認識をはっきりと意識できる内容を備えるべきだ。日本人だけではなく,欧米人だけでもなく,世界中の人々が,これが自分たちの過去だと思える世界史であることが大事である。「自」と「他」の区別を強調せず,どこかの地域や国だけが中心になるのではなく,人間は地球上で共に生きることが分かる世界史が理想である。もちろんそれだけで全てが変わるとは思わないが,それでも何もやらないよりはよいだろう。
 ここで,「新しい世界史」と「グローバルヒストリー」との関係について簡単に述べておきたい。21世紀に入るころから,世界の歴史研究者の間で,グローバルヒストリー(global history)という言葉がしばしば話題に上るようになった。英語圏を中心に,独仏などの大陸ヨーロッパ諸国や中国などで,言語ごとに表現は異なるが,日本語のグローバルヒストリーに近い手法をとる研究への指向が強まっている。研究者によってその定義に違いがあるが,私のいう「新しい世界史」とほぼ同じような意味で,(従来の世界史を刷新するものとして)グローバルヒストリーを使っている場合が多いようだ。
 しかし最近私は,「グローバルヒストリー」は「新しい世界史」を実現するための一つの方法だと考えている。世界史というのは,世界の過去を見る,説明して理解する大枠を示すものだが,それを説明する際に「グローバルヒストリー」という方法を用いると,今まで見えてこなかったことが見えてくる。世界史というのは,世界の過去史であって,それをどう認識するか,どのように説明するかに当たっての方法の一つがグローバルヒストリーという理解である。

3.新しい世界史

(1)「地球の住民」という意識
 「新しい世界史」の枠組みを作るために注意しなければならないことは,歴史を書く人,読む人の立場性という問題である。
 例えば,私が(新しい世界史を)日本語で考え日本語で表現し,(読者に)日本語で理解してもらうとする。日本語の世界は,日本語独自の論理の立て方,常識があり,単語の意味にしても日本語独自のものが少なくない。例えば,日本語の「国際化」を英語で表現するとinternationalizationということになるだろうが,日本語の「国際化」とinternationalizationの意味するところは全く同じではない。
 最近は,国際語といわれる英語で議論することが多いが,同じ英語の単語を使っても,言葉を使う人の各々の違ったバックグランドで理解するために微妙な違いが生じて,議論が噛み合わないこともある。
 このように言葉の問題もあるから,世界中がみな同じ世界史を共有できるとは思わない。世界は一つだが,そこに住む人の個性,境遇,考え方はさまざまだから,各様な世界史の理解と叙述がある方が自然なのではないか。同じ地平に立ってさえいれば,全員が同じ方向を向く必要はない。世界史の書き方は複数あってもいい。
 もう一つ「新しい世界史」を構想する際に重要なことは,人々はアイデンティティを複数持つべきであるということだ。とくに日本や韓国,中国など東アジア諸国の人々は,国というアイデンティティが非常に強く,しかもそれが最上位のアイデンティティとなっている。日本人というアイデンティティの上位にさらに広い空間のアイデンティティがあるだろうか。「(東)アジア人」というアイデンティティを考えても,ほとんどの日本人はそのような意識はない。かつて岡倉天心が「アジア主義」を唱えたことがあるが,それが日本の人々のアイデンティティを形成するには至らなかった。
 日本人の場合,国以外のアイデンティティは,日本(人)というカテゴリーの中にすべて回収されてしまう。例えば,東京都民,○○家の人など,ほとんどが日本という空間の中に入ってしまう。日本という空間は,物理的空間はもちろん,言語も閉じており,顔かたちも似た人たちが多いので,典型的な主権国民国家の体をなしている。日本は宗教面でみても,キリスト教徒やイスラーム教徒などは極めて少なく,神道と仏教が習合したような「日本教徒」が大半の国だ。あらゆる空間が日本という傘の下で閉じてしまっている。
 しかし,世界の他の国を考えてみよう。イラクという国は,その領土内の人々がみなイラク人という意識だけかというと,そうではない。アラブ人というアイデンティティは,イラクの領土を容易に越えるし,イスラーム教徒というアイデンティティはもっと広い空間に及ぶ。同じイスラーム教徒でも,スンナ派,シーア派というアイデンティティもある。アラビア語を話す人だけではなく,別の言語を話す人々もいる。このように実にさまざまなアイデンティティが幾重にも錯綜している。世界を見渡してみると,イラクのような複数のアイデンティティを持つ国民の方がむしろ多くて,日本のような国は非常に稀といえる。
 世界で日本と非常に似た一つのアイデンティティの状況に置かれている国が,隣国の韓国だと思う。日本人と韓国人は,「自(self)」が非常にかっちりしており,「自」と「他」を非常に分けやすい意識構造をもっている。日本と韓国は世界的に見ると相当特殊ではないか。
 そこでは「自」意識が非常に強く現れている上に,それが国と1対1で完全にオーバーラップして一体化しているために,日本人/韓国人意識が非常に強烈に出てくる。日韓がしばしば対立する原因に,そのような背景があると思う。
 日本や韓国には国を超えた上位意識がない。お互い同じ地球の住民なのだから,同じ地球の住民としていろいろな問題に対処しよう,どうやって解決しようかと一緒になって考える必要がある。ちょうど鹿児島の人と福島の人が,日本の諸問題を一緒に議論するのと同じようにできればよい。言い換えれば,「日本県」の住民と「韓国県」の住民が一緒になって課題について話し合い議論するというイメージである。そのためには両者が共通にシェアーできる上位意識としてのアイデンティティがなければならない。しかし現実には,そのような上位意識(メタ意識)がないために,衝突して厳しい対立状況が生まれてしまうのであろう。
 韓国の場合,加えて日本の植民地支配という歴史的経験があって,戦後も<植民地支配=絶対悪>という意識や考えがずっと残っていて,自分たちは犠牲者だという認識が,韓国人の基本的な意識レベルを形成している。一方,日本人の韓国に対する見方や立ち位置はそれとは全然違うので,過去について同じ歴史解釈は決してできない。そのような立場で議論しても議論がかみ合うはずがない。
 そこで重要なことは,それぞれの立場,考え方を理解することが第一歩である。そうした積み重ねの上で,国を超えた地球の住民としての意識に至れれば,もう少しお互いに同じ土俵で議論ができるようになるのではないか。互いの立ち位置を尊重し,それを理解する。互いに「正しい」「間違い」という主張だけをしていてはダメだ。ヨーロッパの共通歴史教科書は両論併記し,ドイツの主張はこうで,フランスの主張はこうだと記している。それを通して相手国の人々の主張を理解する機会になり,それがメタ意識へ向う一歩となるのである。
 メタ意識を「地球の住民」とした場合に,それを形成するために世界史が重要になってくる。世界全体の歴史を私たちの歴史としてどうとらえるか,それを提案できればよいと考えている。いま私たちに必要なことは,世界の諸問題を「彼ら」の問題ではなく「私たち」の問題としてとらえ,一緒になって解決に取り組もうとする姿勢である。そこに「自」と「他」の区別はあっても,その上にさらに大きな「私たち」を思い描くことが肝要なのである。
 ある面でこれは理想論ともいえなくはないが,歴史家が寄与できるとすれば,こうした点ではないかと思う。ある中国人研究者とこのような話をしていると,ある程度理解は示すものの,「そうは言っても,やはり中国の歴史は必要だ」と述べた。その考えにも一理がある。いくつもの意識の層があって,そのアタッチメントの一つが中国の歴史だということだ。しかし今日のような時代だからこそ,国を超えたレベルの意識を持つことがなおさら必要だと思う。

(2)ヨーロッパ中心史観
 現代日本における世界史の見方の問題にはいくつかあるが,中でも「世界史」に内包されているヨーロッパ中心史観について取り上げてみたい。すなわち,世界の歴史はヨーロッパを中心として動いてきたと考える態度がなかなか改まらないのである。その基本的立場は,「自」(私たち)と「他」(彼ら)を分けるところにあって,ヨーロッパと非ヨーロッパを区別して物事を考えようとする。日本はそのような思考の枠組みを学問として輸入し,再生産した。ヨーロッパからすると非ヨーロッパに属する日本人が,彼らと同じ方法で歴史を研究しようとすると,「彼ら」に属していた日本人が「私たち」になって歴史を論じることになる。
 今までの歴史研究は,自分たちのアイデンティティを作るために,他者を措定して自分たちの歴史をつくってきた。それには(主権国民国家を中心とした)縦の歴史を中心に展開するのが非常に都合がよい。歴史を記述する際の手続き,ものの見方,基本的前提などすべてが,ヨーロッパと非ヨーロッパという構図の原型をとどめている。日本もそれを輸入して同じやり方でやってきたら,日本がある種の「自」となり,ヨーロッパも半ば「自」となってしまって,それ以外が「他」になるという見方を,日本の歴史学者はやってきたように思う。
 これは「自」と「他」を区別することを根本的に変えない限り克服するのは難しいのではないか。グローバルヒストリーの手法は,世界は繋がっていると考えるので,基本的には「自」と「他」の区別をしない。横に繋いでいこうという視点に立って,全体を統合化(integrate)し,全体の関連性が説明がつくような横の歴史を書こうとするので,結果としてヨーロッパ中心史観が改まっていくことに繋がると思う。

4.グローバルヒストリー

(1)歴史の縦糸と横糸を織り込む
 それでは具体的な「新しい世界史」の叙述の方法について,そのポイントを述べてみたい。
 私は地球をあたかも宇宙から眺めるような感覚で,ある時代の人類社会全体の見取り図を描いてみることが有効ではないかと考えている。これまでの世界史は,国や地域の歴史を時間軸に沿って縦に紡いで叙述してきたが,新しい世界史では,ある時期の人類社会を横につないだ叙述を試みたい。
 国や地域の時系列史を描く単位は,歴史の縦糸である。これに対して同時代の世界を横に見て,各地の過去の関連性や不連続性を一つのストーリーとして描くことは,歴史の横糸である。縦糸と横糸を上手にからめて織り込むことによって,美しい図柄を持つ織物が出来上がる。そうして出来上がった新しい世界史は,全体が統一的な観点で総体としてとらえられるので,これまでのような縦糸だけが太い図柄とは相当異なったデザインをもつに違いない。この世界史を実現するには,まず歴史家が横糸を上手につむげるようになることが大切である。
 歴史家の作業は一次史料というテキストを読み解き解釈することから始まるわけだが,史料言語は世界各地で異なっている。グローバルヒストリーは,横糸をつむいでいく作業であるので,当然,一次史料となるものも複数の言語にまたがってくる。一人の研究者が,ある時代に関わる異なった言語の史料をすべて読み込んで独自につむぐことはほとんど不可能に近い。
 これを解決する方法の一つは,関連する研究者の研究成果を使うことだが,そのような二次史料を使って研究することに対しては,伝統的歴史学者からは「歴史研究とは言えない」との批判もあった。そこでもう一つの横糸つむぎの方法としては,複数の研究者の共同作業という手法も有効である。諸外国に比べ,外国史研究者の層の厚い日本は,この点で有利な立場にあるといえる。

(2)高校新教科「歴史総合」の活用
 昨年(2016年),中央教育審議会が数年をかけて議論してきた小中高校の次期学習指導要領の基本方針がまとまったが,その中で高校課程では,日本史と世界史を総合した新科目「歴史総合」が創設されることになった。私もその審議会に呼ばれて,このテーマに関して議論に加わった。
 日本における教育の内容は,基本的に(国家機関として)文部科学省が決定し,日本国を前提にした日本国民の養成のためにやっているので,その立場を反映したものにならざるを得ない。その立場は理解するとしても,最初に述べたように,グローバル化した世界に生きる私たちにとって,一国のみにアイデンティティを置くような人材を育成するだけではだめで,それに加えて「地球の住民」という意識をもつ人材育成につながるしくみを整える必要がある。
 そのための教科として今度の「歴史総合」をとらえ,日本人というアイデンティティに加えて,地球の住民であるという意識を持った人材を育成するために,歴史の学習・授業を活用すればよいのではないか。そのことは「世界に貢献する日本」を謳う現政府の方向性とも合致していると思う。
 日本人であると同時に地球の住民であるという人材を生み出すことは決して悪いことではない。現実には,「歴史総合」は,従来日本史と世界史に分けていた教科を一つにして,世界の過去を見る際に,日本のことも注目しながら見るというもので,扱う範囲は基本的に19-20世紀となっている。時系列に扱うのではなく,ある時代の特徴を取り上げ,その特徴に日本はどのような役割を果たしたのか,日本との関係はどうだったのかなどを扱う。課題としては,教科書作成とともに教える教師の力量の問題がある。
 以前,私は「地球市民」という言葉を使っていたが,最近は「地球の住民」という言葉を使っている。日本語の「市民」は英語のcitizenとは完全に同じ意味ではないように,地球市民とglobal citizenという言葉も意味のずれがある。日本で「地球市民」という言葉はいいイメージの軽い言葉となっているが,global citizenは(英語圏では)政治哲学の分野で学問的にしっかり議論された用語であった。その辺の学問的すり合わせもないままに,同じ意味の言葉として使うことにためらいを感じるようになった。そこで「地球に住んでいる住民」(⇒residents of the Earth )という意味であればニュートラルであり,深く議論せずに使ったとしても,多くの人に同じ意味として理解してもらえるのではないかと考えてのことであった。

5.最後に

 近代の学問は,「私」と「あなた」と区別して,違いを明らかにする傾向が強かった。もちろん「私」と「あなた」の違いも重要ではあるが,その上に「私たち」という意識レベルがあってしかるべきではないかと思う。19世紀以来現代に至るまで,世界各地で繰り広げられてきたさまざまな争いや戦いの原因の一つは,この「自」と「他」を区別する世界観にあったと思う。
フランス文学はフランス語で書かれた文学の特徴を明らかにするものだが,その上の「世界文学」となれば,国という意識を超えた文学となる。近年,そうした「世界文学」の研究もさかんになりつつあるようだ。「世界文学全集」に見られるような世界文学は,各国の文学を寄せ集めたものに過ぎないが,ここでいう「世界文学」は,個別的研究の中にも共通性があると認識して,各言語を超えた文学的考え方や解釈,文学の書き方などを扱っている。また思想分野でも,「世界思想」という考え方が出てきた。各国の独自の思想を超えるような,もっと人間の全体に関わるような思想の研究である。こうした傾向がいろいろな分野に及んでいけば,私の提唱する「新しい世界史」ももっと広く理解されていくに違いない。
(2017年2月22日)

■プロフィール はねだ・まさし
東京大学理事・副学長。1976年京都大学文学部史学科卒。その後,京都橘女子大学助教授,ケンブリッジ大学客員研究員等を経て,東京大学東洋文化研究所教授。現在は同職を兼務。この間,東京大学東洋文化研究所長を務める。専門は,近世イスラーム史,比較歴史学,世界史。主な著書に,『イスラーム世界の創造』『モスクが語るイスラム史』『新しい世界史へ』,編著に『グローバルヒストリーと東アジア史』他多数。