混迷するシリア情勢の「真実」

元駐シリア大使 国枝昌樹

<梗概>

 「アラブの春」の余波を受けて以来,混迷を深めるシリア情勢は,和平に向けた交渉が何度も進められながらもなかなか実を結んでいかない。ここ数年,欧州への大量難民問題の発生によって,シリア問題はグローバル・イシューとなり,国際社会が取り組むべき重要課題となった。しかしメディアで報じられるシリア情勢の図式は,シリアの真の姿を正しく反映しているとは言えず,情勢認識の誤りから生じる問題も指摘されている。シリア情勢の真実はどこにあるのか,現場第一主義の立場から報告する。

はじめに

 2010年12月にチュニジアに端を発して始まった「アラブの春」は,またたくまにエジプト,リビアなど近隣中東諸国に拡散し,シリアもその余波を受けたが,イスラーム過激派や反体制派の運動,欧米諸国の介入も加わって混沌状態に陥ったものの,アサド政権は現在まで持ちこたえている。しかし,欧州への大量の難民というできごとを通じてシリア問題は,それまでのリージョナル・イシューからグローバル・イシューと認識されることになった。
 私は,2006年から2010年までの約4年間,駐シリア大使として赴任し,現アサド政権の動きとシリア情勢の現状をつぶさに見てきた。日本で報道されるシリア情勢についていうと,外交官と学者・評論家の視点には大きな違いがある。もちろん,両者とも現実を理解しようという姿勢においてその目的・方向性は同じだろうが,そのアプローチの仕方,考え方には大きな差が見られる。とくに学者や評論家は,分かりやすい図式を掲げてそれに当てはめながら情勢を説明する傾向がある。一方,私のような外交官は,現地政府の要人にも会う機会が多く,その国のトップ(大統領等)を含め,情勢を動かすキーパーソンたちに肉迫して,彼らが何を考えて何をしようとしているのかという視点から見つめることが多い。
 例えば,1990年の湾岸危機で日本人約240人が人質にされたとき,当時私は駐イラク大使館公使参事官として現地におり,イラク政府や秘密警察などとの交渉に当たった。そのとき私は,「フセイン大統領は何を目的に人質を取ってどう使おうとしているのか,私がフセイン大統領だったら,刻々と変化する情勢の中で今はどのような手を打つだろうか」などと,フセイン大統領の立場に立って分析し,その行動を読み解こうと努力した。それはかなり有効で,フセイン大統領の打つ手を予測するのに役立った。他の国に赴任したときも同様で,私は外交の現場にあって常にそのような思考をしながら外交交渉にあたってきた。そこには既に描いた図式や特定の見立てではなく,できる限り情報を集めて事実を事実としてありのままに見つめ,現実を現実として認識しようと努力し,このような作業を積み重ねることによってその国の情勢を理解しようとしてきた。
 以上のような現場第一主義の立場から,混迷するシリア情勢について,あまり報道されることがないアサド政権の分析を通じ,その現状を見ながら今後の和平について展望してみたい。

1.アサド政権をどうみるか

(1)正則アラビア語を駆使する大統領
 シリアの現アサド大統領(Bashar al-Assad,1965年~ ,在位2000年~ )とはどのような人物なのか。アサド大統領が独裁者であることは事実であるが,一般的なイメージの独裁者とはだいぶ違っている。
 一般にアラブ世界の特徴として,最高権力を握った人々,あるいはその周辺の人々を含めた国家中枢部の人々には,はっきりとした一つの傾向がみられる。それは,彼らが「アラビア語しかできない人々」だということだ。シリアのアサド大統領やヨルダンのアブドラ国王は英語を話す。だが,そういう指導者であっても支える中枢グループのメンバーたちは英語などを話さない。イラクのフセイン大統領とその権力中枢の人々はアラビア語しかできなかった。
 裏で実権を握っている人,シリアで言えば,アサド大統領と常に面と向って仕事をしている人たちは極めて少数であるが,現実として英語やフランス語が話せず,アラビア語しか話せない。
 例えば,エジプトのサーダート大統領(在位1971-81年)は無骨な英語だったが,とにかく話せた。だが彼の権力の中枢メンバーは,外部にほとんど姿を現さず,アラビア語しか話さなかった。英語などを話し積極的に外部で発言する人がいるが,彼らはだいたい本人がいうほどの影響力はなく,よくて政権の広告塔である。
 湾岸諸国の王族はほとんどアラビア語しかできない。アラビア語には正則アラビア語(クルアーンで使われるアラビア語)とその地域のアラビア語(いわゆる方言の類)があるが,アラブ世界に向けて話をしたり,正式な会合・発表・演説では正則アラビア語を使うことになっている。しかし湾岸諸国の王族の正則アラビア語は到底上手とはいえない。
 次のような話がある。イラクのサッダーム・フセイン大統領(1937~2006年,大統領在位1979~2003年)が,1990年7月末にクウェート侵攻をしようとしたとき,その直前にエジプトのムバーラク大統領がフセイン大統領と単独会談を行い,その後の記者会見で「これで(クウェート侵攻の)危機は遠のいた」と述べた。ところが,その数日後,イラク軍がクウェートを侵攻。それで面子を失ったムバーラク大統領は,「フセイン大統領は大うそつきだ」と非難し,それに対してフセイン大統領は,「ムバーラクは低脳だ」と応酬した。
 なぜそうなったのか。実は,二人とも正則アラビア語は下手で,エジプト方言のアラビア語を話すムバーラクと,バグダッド方言のアラビア語を話すフセインが会談したものだから,意思疎通が不十分で相手の言い分を正しく理解できずにそうなったのだと。ただ,これは単なるオモシロ話に過ぎない。なぜならフセインはカイロ大学で学んでいるからエジプト方言に通じていた。それでも両者ともに正則アラビア語があまり得意ではなかったことはその通りだ。
 このようにアラブ世界で教養のある人(あるいは為政者)は正則アラビア語を使うのだが,アラブ世界の王族の中で正則アラビア語を正確に話せる人はほとんどいない。ところが,アサド大統領は,アラブ世界の指導者の中で最もきれいで正確な正則アラビア語を話すことができると評価されている。また彼は眼科医でもあり,細かいことに拘泥するところがあって,自分が語ったアラビア語が間違うと,わざわざその後に訂正したりするほどだ。彼はアラビア語,アラブ文化の振興に関心を払っていた。

(2)はじめは開明的な政策
 アサド大統領はダマスカス大学医学部出身の眼科医でもある。シリアの教育制度では,バカロレア(大学入学資格試験)の試験結果でどの大学の何学部を受けられるかが決まってしまうが,成績の最上位層が受けられるのが医学部だ。ちなみに,シリアの反政府過激イスラーム主義組織ヌスラ戦線の指導者アブー・ムハンマド・アル=ジャウラーニー(Abu Mohammad al-Jawlani)も,ダマスカス大学医学部出身だ。
 シリアのバアス党は,青少年教育は国家の重要な礎を築くことだとして,初等・中等・高等教育は国がバアス党の指導の下に行い学校は公立のみだった。ところが,アサド大統領は,大統領に就任するとすぐにその方針を転換し,私学教育の導入を断行した。その後,バアス党は,教育行政の基本部分に関して関係省,関係機関に対して勧告を行うだけで,とくに大学に関しては個々のケースについて大学行政に任せている。
 また各国立大学の予算の中には,学生や教職員の中から奨学金による外国留学枠が設けられていて,学内で独自の選考を行い,本人の希望も聞いて留学先を決めるしくみがある。前大統領の時代は,留学先としてロシア(ソ連),東ドイツが圧倒的に多かったが,バシャール・アサド大統領時代になると旧東側諸国に行く人は激減し,ドイツ,フランス,イギリスなど西欧諸国に行く人が多くなっていった。ただ米国は学費が高いのでなかなか行けないが,ごく一部の優秀な学生を送っている。ちなみに今でも日本にもシリア政府給費の留学生が来ている。
 以上のような観点から見ると,現アサド大統領は独裁政権の大統領であることは事実であるが,中東諸国の並みいる独裁者(大統領,王族など)の中でも,比較ができないほど「開明的」な政策を追求していた。アサド大統領は1年半の英国留学経験があり,夫人は英国で生まれ育ったシリア人でロンドンのシティーで仕事をした経験があるから,西欧の民主主義の表裏,光と影をよく知っている。
 彼は独裁者なりに体制内改革を目指し,体制の中の抵抗勢力と戦いながら,改革を進めてきた点は見過ごすべきではない。ただしあくまでも体制内改革(官制改革)であるから,徐々にしか進められないが,それでも一つひとつ布石を打ちながら進めていた。それだけに,新聞・TVのトップを飾るような派手で見映えのよい改革はあまりなく,国民の一部に不満が常に残っていたのは事実だ。
 経済政策において,現アサド政権になってからは(社会主義計画経済をやめて)2005年6月のバアス党大会で守旧派などの抵抗を排して経済新路線(自由市場経済体制)に転換した。
 私はアサド大統領とクルド人問題についてさしで話をしたことがある。シリアには無国籍のクルド人が相当滞留しており,彼らをどう処遇すべきか,人道問題の観点から聞いてみた。すると彼は,「(シリア国内に滞留する無国籍クルド人にシリア国籍を与えるという)自分の腹は決まっているが,それを発表するタイミングを見計らっている。ただし数十万人単位なので,一気にやるか,段階的選択的に行うかは思案中だ」と答えた。実際,「アラブの春」の動きがシリアでも始まった直後の4月7日に,クルド人に国籍を付与することを発表した。外から見ると思いつきでやった政策のように映るが,実はそうではない。同大統領に対して欧米では「その場の思いつき」で政策を行っているとの評価があるが,的を得ていない。彼は治安組織,軍の改革についてもかなり進めていた。だが,過去5年間ですべて旧態依然に戻ってしまった。

2.メディアの報じる視点とシリア情勢の「真実」

 2010年12月にチュニジアから始まった「アラブの春」は数カ月後にはシリアにも及んだ。11年3月,シリア南部ダラアでの民衆蜂起の第一幕を契機としたいわゆる「アラブの春」の動きが全国に広がり,そこに外国が積極的に介入して,その後,政府と反体制派組織の対立に発展して混迷を深めている。
 現在に至るシリア情勢についての一般的な見方は,「民衆の平和的な蜂起に対して政府側が治安軍を動員して実力行使に出て,その際の発砲や攻撃によって民衆に多数の犠牲者が出て,民衆側では自衛のためにやむなく武器を取り,その後,泥沼の状態に至っている」というものだ。ここでシリアの現状を実際見てきた立場から,シリア情勢は果たして一般にマスコミが報道するような図式で本当に展開してきたのか検証してみたい。

(1)民衆蜂起第一幕
 シリアにおける「アラブの春」の始まりは次のような経緯であった。
シリアでは,政権党であるバアス党とムスリム同胞団との間で深刻な抗争が長年続いてきた。1970年代後半以降,同胞団は組織的テロ活動を行って政権に挑戦してきた。それは1982年のハマーの蜂起で頂点を迎えたが,政権により徹底的に弾圧された。有識層メンバーは国外に逃れた。シリア国内では過度に自由な言論への警戒からインターネット環境に対して厳しい規制がかけられていたが,「アラブの春」の動きが起きたころの2011年2月,政府はインターネットに対する規制を撤廃した。すると国外に居住する反体制派シリア人たちはインターネットを通じて国内のシリア人に政権への蜂起を呼びかける働きを強めた。
 同年3月,ダラアでチュニジアやエジプトなどでの模様をテレビで見ていた中学生たちが軽い気持ちで学校の壁に政権打倒の落書きをすると,治安当局に捕まえられどこかに連れ去られた。安否を心配する親たちや同情する市民が街頭に出てデモを始めたが,これを阻止しようとした治安当局との混乱の過程で4人の死者が出たことをきっかけに,またたく間に全国主要都市における示威行動へと拡大していった。
 当時,シリア情勢を報道する国内外のメディアは(シリア国営通信を除き),数千人の民衆が平和的にデモをしているところに治安当局が一方的に介入し,発砲して死者を出したとし,いよいよシリアでも「アラブの春」の動きが始まったと盛んに報道した。そして,政権側の軍事力による弾圧に対して,市民側は自己防衛を図るためやむなく武装化し,政権側との間で武装抗争に発展した。また国内の空白に乗じてイスラーム過激派武装組織が介入して混乱を極めていると解説した。この見方は,現在でもほぼ踏襲されているといえよう。
 一方,政府側の報道では,武装グループが治安部隊と医療部隊を襲い,医師,運転手そして治安部隊員が殺されたと伝えたが,国際社会から関心を引くことはなかった。

(2)ゆがめられたシリア報道
 2011年を中心にシリア情勢の「真実」を探ってみよう。
①デモ参加者数の過大報道
 英国に本拠をもつNGOシリア人権監視団(代表者は反体制派)は,7月22日に「ハマーで65万人以上,デレゾールで55万人以上の市民によるデモが行われた」と報じた。ハマー市の人口は80万人,デレゾール市は50万人に満たないので,ハマー市では市民の8割以上が参加し,デレゾール市は人口を上回る市民がデモに参加したことになる。しかも20歳以下の若者が人口の多くを占めるシリアの人口構成を考えれば,デモ参加者の多くが若い人でなければならないのに,実際の映像を見てもそういうことはなかった。ちなみに,政府側の見解では,(当然過小評価になるだろうが)最大規模の民衆参加の時点でも全国で13万5000人程度であったという。
②治安警察要員の死者の方が多い(初期)
 4月8日,シリア国営通信は,ダラアのオマリ・モスク近辺で武器を携行せず警備していた治安警察軍を武装集団が襲い,治安軍兵士と警察官19人が殺され,75人が負傷し,多数の市民に犠牲者が出たと報じた。
 10月にはアルジャジーラ衛星TV放送が,シリアのスンニー派最高位導師バドルエッディーン・ハスーン大法官の「民衆蜂起の最初の月には,反対派の死者よりも政府側の死者の方が多かった」との発言を報じた。アルジャジーラは民衆蜂起を焚きつける一方的な放送を行っていたが,その放送局が大法官の映像を放映した際,カットし忘れたようだ。
③外国の介入
 3月の事件で殺された市民の葬儀に弔問使として参加したミクダード外務副大臣は次のように語った。
「政権打倒の落書きをした子どもたちが逮捕取調べを受けたのは事実だ。その取調べは隣接県のスウェイダで行われた。だが,当時報道されたように治安当局が子どもたちを何日間にもわたって拘束した事実はない。親たちが子どもたちの釈放を願ってデモに出たというのも事実ではない。ダラアの出来事は,自分には事前に外国から介入があってのものとしか考えられない」。
 また,ある政府関係者は,「反体制派は宣伝にたけており,何でも直ちにユーチューブやフェイスブックに掲載して宣伝するが,ダラアの民衆蜂起のきっかけにされた落書きをして捕まったという子どもたちは騒動が長引いても誰一人としてその種の宣伝画面に出てこず,また釈放を訴えたという親たちも同様だ。これは何を意味しているのか,考えて欲しい」と語った。
 英国のオックスフォード大学セント・アンソニー・カレッジの上級研究者シャルミヌ・ナルワーニは「シリア:隠された虐殺」とする記事を発表し,2011年3~4月にかけてダラアでの民衆蜂起で多数の政府側要員が殺された事実を詳細に報じた。
 シリア社会は部族社会であり,とくに国境地帯ではサイクス・ピコ協定(1916年)で一方的に引かれた国境線をまたいで部族が存在し,現在でも部族内の結束を軸とした密輸活動が幅を利かせている。その多くの場合,彼らが武器を所持する武装密輸集団であることも知られている。またムスリム同胞団と密接な関係を有し,エジプトやリビアでの騒動に深く関与してきたカタールに在住するカラダウィ導師による扇動的な言動と活動はよく知られるが,同導師がダラア蜂起前に蜂起を促す電話を同地の説教師にかけている。
④いい加減なメディア報道
 ダラアで民衆蜂起があった当時,国際メディアが報道した際の情報源は,いずれもが外国からの電話取材を受けたダラアの「住民」,匿名を希望する「活動家」,あるいは現場にいたと説明される「人権運動活動家」などであり,彼らはいずれも人物が特定されず,情報源としての信憑性を吟味しようにも吟味できない。
 当時おびただしい量の動画がユーチューブ,フェイスブックなどに載り,メディアは積極的にこれを利用して報道したが,ほとんどはその信憑性を吟味されることもなく利用された。写真も同様である。アルジャジーラ衛星TV報道局の本部にはシリアに関する動画や写真,それにニュースをモニターする部署が設けられ,未経験の若者職員が四六時中つめて関心を引く動画や写真があれば信憑性を検討することなく即座に報道部に持ち込んで報道されていた。
⑤アルジャジーラ衛星TV
 そもそも中東のメディア「アルジャジーラ衛星TV」は,小国カタールがその存在を国際社会の中で確保し全うするためのソフト・パワーの一手段として1996年に発足させたもので,反アサド色を鮮明にしている。
 例えば,アルジャジーラ衛星TVがシリアのどの町のどこでデモが行われていると報道すると,その時点ではそこには民衆の動きは何も見られなかったのに,1時間もしないうちにデモが起きるという事例が何件も発生していた。アルジャジーラが反体制派の指令を放送しているとシリア政府は憤った。
2011年4月,アルジャジーラ衛星TVの一連の報道姿勢に抗議して同ベイルート支局長ガッサン・ベン・ジャッドが辞職した。その後任となったアリ・ハシェム支局長は,着任直後の4月にはカラシニコフ銃などの武器を携えたレバノン人グループがシリア国内で武力活動をするために国境を超えてシリア国内に出入りしている事実を取材し,5月には映像とともに報道しようとしたが,アルジャジーラ本部は映像を放映しなかった。その後も同支局長はレバノンの武装グループがシリアで活動する様子を報告するが本部の幹部は取材を不必要と指示した。
 アラブ世界で真のジャーナリズムが生まれたとして期待を持ってBBCを辞めてアルジャジーラ衛星TVに移籍した同支局長であったが,アルジャジーラ衛星TVは結局資金提供元のカタール首長の影響下にあり,報道の独立性は全く確保されていないとして抗議の辞職をしたのだった。2011年から12年にかけてアルジャジーラ衛星TVの報道姿勢のあり方に幻滅して,同TV局から辞職した有力記者は13人余りに上った。

3.関係諸国の関与

(1)シリア情勢を見誤った欧米諸国
 2010年12月17日にチュニジアで始まった民衆蜂起から,わずか1カ月あまりでチュニジアのベンアリ政権が崩壊。続いてエジプトのムバーラク政権が2011年2月に崩壊し,カダフィ政権もあれよあれよという間に崩壊してしまった(2011年8月)。そのような急展開した「アラブの春」の動きを目にした(トルコのエルドアン首相を含めた)欧米諸国は,同年暮までにはシリアのアサド政権もまもなく倒れるに違いないと見た。中東アラブ諸国も同様で,その展望の下,カタール,サウジアラビアやトルコは,シリアの反体制派を強力に支援し始めたのだった。ところがあにはからんや,シリアのアサド政権は持ちこたえてしまった。
 一方,ロシアはアサド政権が一気に倒れるとは毛頭考えていなかった。なぜか。ロシアは,前のアサド政権時代から多くの軍事顧問団を派遣しており,現アサド政権になってその数は減ったものの,一定の軍事顧問団がシリア政府軍の中枢部,あるいは主要な地方の軍に駐留して顧問団活動を展開していた。もうひとつは,2011年の段階で,旧ソ連の国籍を有する人およびソ連崩壊後のロシア国籍を持った人たち約6万人がシリア全土にいた。彼らがもたらす情報は,膨大なものがあった。
 欧米諸国にはロシアのような地方までの情報網はなく,米国やイスラエルは傍聴や軍事偵察衛星などからの情報や反体制派からの情報があるくらいで,ロシアとは比較にならないほどの差があった。シリア情勢を正確に判断する情報はロシアが圧倒的だった。ゆえに国連安保理でシリア問題に対する西欧諸国の対応に対してロシアが拒否権を行使したのには,そのような背景からくる判断があった。
 米国は,自分たちの情報が不十分であることは感じていたようだが,オバマ政権のシリア政策は非常に揺れ動いていた。

(2)ロシアの狙い
 ロシアはシリア問題がグローバル・イシュー化する中で,シリア国内の圧倒的な情報網をもとに「大きなチャンス」がきたと捉えた。つまりソ連が瓦解した1991年以降,とくにエリツィン時代は経済の困難さに加えて,米国からあごで使われるような惨めな立場だった。その後2000年にプーチンが大統領になると,彼はもともとKGB出身であったから,旧ソ連時代へのノスタルジーもあって,米ソ二大国時代のようなロシアの立場を米国(及び世界に)に認めさせたいという思いで国づくりをはじめたと思う。
 2011年にシリア問題がクローズアップされて,シリア情勢に関する情報では圧倒的に米国に優位な立場を持っていることから,外交攻勢をかけ始めて大成功した。結果的に,オバマ政権は(少なくともシリア問題および中東問題では)ロシアを米国と対等な相手国として認識せざるを得なくなり,世界の二極構造が現出することになったのである。現在も同様で,英仏独はその脇役に追いやられる格好になった。
 このようなロシア外交の勝利をもたらしたプーチンにとって,シリア問題はロシアを再びグローバル・パワーとして米国及び国際社会に認知させる「大きなてこ」だと認識した。ロシアは,あくまでも国益実現のためにシリア問題を利用している。ゆえにロシアは「(ロシアが)シリアを支援しているのはアサド(個人)を支援しているのではなく,シリアという正統政権を支援しているのだ」という。そこには次のような意味も込められているように思う。
 「アラブの春」で崩壊したエジプトのムバーラク政権は正統政権であったが,米国は最後は手を切っ(て見捨て)た。リビアのカダフィ政権も一応正統政権であったが,最後には(米国から)見捨てられた。このような経験を通してアラブ諸国は,米国,西欧諸国に対して,いざとなれば正統政権といえどもそれに敵対する立場になり得るとの不信感を抱くようになった。しかしプーチンは,正統政権であれば最後まで支持し抜くという強い意思表示を(シリア問題を通して)示したことになる。この意味合いは非常に大きい。
 また,IS(「イスラム国」)にはロシアからチェチェン人が相当数馳せ参じており,ISの外人傭兵の中で非常に活躍している。ISの幹部は(旧イラク・バアス党,軍人を含めて)みなアラブ人であり,頭目バグダーディの仲間だ。その中でチェチェン人は軍事分野でかなり影響力を持っている。このことはロシアにとって非常に危険なことであるから,国内の治安維持のためにもチェチェン人を含むISを叩く必要性がある。ロシアの狙いは,はっきりしている。自国の利益だ。
 もうひとつは,イランがシリア情勢に関与してアサド政権を左右するような存在になっては困るという判断もある。イランの中には,急進派と穏健派があるが,現ロウハーニー政権は穏健派で,イスラーム革命防衛隊は急進派だ。後者がシリア内でも活躍しており,ロシアはその急進派の影響力を何とかして無害化したいと思っている。ロシアはシリア情勢に強く関与することでイランの急進派の関与に歯止めをかけようとしているようだ。

(3)トルコの動向
 2011年6月に,トルコのエルドアン首相(当時,首相在位2003-14年)は,アサド大統領に「ムスリム同胞団関係者に閣僚枠の4割を与えるならば反政府運動を展開するムスリム同胞団の動きを鎮める用意がある」と伝えた。しかしアサド大統領はその申し出を拒否した。エルドアン首相とアサド大統領とのそれまでの蜜月関係は6月以来すでに修復が難しい程度まで悪化していた。それでも国家安全・外交分野で首相の強い信頼を得ていたダウトオール外相(トルコ)を派遣して説得を試みたわけだが,成功しなかった。03年以来関係を深め戦略的互恵関係まで結んでいた両国であったが,これ以降エルドアン首相はアサド政権との関係を一切断ち,同政権打倒に向けて反体制派諸グループを積極的に支援するようになった。
 そもそもトルコは,「アラブの春」によってチュニジア,エジプト,リビアの例を見ながら,シリアでも国民が国内外で蜂起して大規模に立ち上がれば,アサド政権を短期的に崩壊に導くことができるだろうと見通し,崩壊後のシリアに対する影響力の扶植に向けてムスリム同胞団を支援し,シリア国民評議会へのテコ入れも惜しまなかった。
 そのような中,トルコは2015年11月24日,ロシアの爆撃機を撃墜してロシアと敵対関係になった。怒ったプーチン大統領は対トルコ経済制裁をかけた。ロシアも経済制裁で困ったとはいえ,より困ったのはトルコの方だった。トルコはエルドアン政権になってその初期においては経済のパフォーマンスもよかったが,2011年ごろから経済成長率が2~3%台に落ち込んだ。同政権は経済の調整期だと言いつくろっているが,その状態がすでに5年以上も続いている。それはなぜか。シリア問題が大きな原因であることは明らかだ。
 トルコが高度成長を遂げていた2000年代,外国貿易の物流をみると重要な部分がトルコ=シリア=湾岸諸国というルートを経由していた。大型トラックが1日300~400台シリアを通り抜けていた。シリア情勢混乱以降,そのルートが断絶されてしまった。そこでトルコは,海路(エジプトのアレクサンドリア経由)を使ってアラブ湾岸諸国へのルートを取るようになったが,到底シリア・ルートの代替になるものではない。その結果,湾岸諸国との経済関係が非常に薄くなってしまった。それによるトルコ経済の苦境があった。
 そのような局面の中で,トルコにとってロシアからの観光客,ロシア貿易は相対的に重要になっていた。ところが,ロシアとの関係悪化によってそれも厳しくなってしまった。さらにエルドアン大統領(在位2014年- )の外交姿勢によって,欧米との関係もぎくしゃくしており,四面楚歌の状況だった。ここで欧米諸国に頭を下げるわけには行かないエルドアン大統領は,まず対ロシア関係の改善に乗り出した。
 エルドアン大統領はその立ち位置はあくまでも西側ではあるが,ロシアの顔色を伺わなければやっていけない状況になった。つまりトルコは,ロシアの意向を無視した行動をとることができなくなったのである。さらに,EUともギクシャクして,アラブ諸国や中央アジア諸国へも活路を求めている。

(4)政策のぶれる米国
 米国はシリア情勢に関する情報収集に限界があってピントはずれの外交をやっており,自縄自縛のところがある。2011年8月18日に,オバマ大統領はアサド大統領の退陣を正式に要求した(ちなみに,EUも8月19日に同様の声明を出すとともに,英国,フランス,ドイツ,そしてカナダは別途声明を発表してアサド大統領の辞任を強く求めた。わが国も同様である)。それはアサド政権が1年も持たないだろうという前提の下に外交政策を立ててやったことだった。さらにそれに基づいた手も打っていたために,それを覆すようなことは(体面上からも)することができない。しかしそれでも何とか現実に合うように政策を修正してきたわけだ。そのために政策がぶれてしまった。
 一点,言及しておきたい。
 シリア国内の戦闘現場では,2013年春ごろから化学兵器使用例が見られ出した。同年3月,アレッポ市西部郊外で反体制派が政府軍に向け化学兵器を使用して犠牲者が出たとシリア政府が非難声明を出したが,反体制派は政府軍が行ったと反論して,国連が調査に乗り出すことになった。
 そのような中,2013年8月21日,反体制派武装グループが占拠するダマスカス郊外でサリン事件が起きた。アルジャジーラ衛星TVなどはシリア政府軍の仕業だと報じる一方,シリア政府側は化学兵器を使用したことはないと主張する。とりわけネットを含む映像や写真に子どもたちの死体の映像が流れたことに加えて,国連の調査団が宿泊するホテルの近くで起きたことから,世界の重大関心事となった。
 米国は8月30日に,ホワイトハウスの声明文を出して,アサド政権の仕業だとした。このステートメントは,世界に大きく報道されたが,実はメディア報道ではステートメントの中の重要な一点が抜け落ちていた。すなわち,「われわれの強い確信は,確認ができない中でもっとも強い立場である。事実を明らかにする上でこの(確認と評価の)隙間を埋めるためわれわれは今後もさらに情報を求めていく」という部分である。
 米政府の報告書は広範な関心を引き,これでシリア政府軍による化学兵器の使用が明確になったと受け取るのが一般的な反応だった。しかし,米政府がこの報告書の中で明確に書いているとおり,米政府は事件がシリア政府軍の行為であったことを証拠立てる直接的情報を持っていなかったのである。この報告書は,事実の報告ではなく,発表時点での評価に関する中間的報告書だった。中間的で曖昧さが残る中で,オバマ大統領としては軍事行動に打って出ることはできない。
 上述の米大統領府発表の報告書に関する報道ぶりはまさにフレーミングそのものだったといえる。メディアが一色になって同じ枠組みでしか考えず,同じような議論しか展開しなかった。シリア問題ではそのようなことが余りにも多い。明々白々な情報すらも見ていないのである。

4.噛み合わない停戦合意交渉

 2016年に入ってシリア情勢に関しての停戦合意が,2月に続き9月にもなされた。2月の停戦合意はよくできたものだったが,基本的問題を孕んでいた。2月合意は,ISとヌスラ戦線をターゲットとして軍事活動を展開し,その他の反体制派とは停戦をするというものだった。その他の反体制派については,テロ組織と見做されるものがあるかどうかについて,ヨルダン政府がリストを作るとした。しかしヨルダンのような小さくて実力のない国にリストを作らせること自体がおかしかったし,実際できなかった。
 ヌスラ戦線は他の反体制派組織と密に連絡して共同戦線を組んでいるために,ヌスラ戦線を攻撃すれば,それ以外の反体制派も一緒に巻き込んで攻撃してしまう。その結果,それが停戦合意違反となってしまう。ロシアとシリアは,早くリストを作れと催促したができないままに合意がダメになってしまった。
 9月の合意では,ISとヌスラ戦線を叩くことは同じだが,その他の反体制派過激派組織については今後の戦況状況によって米露が中心になって判断するとした。
シリア政府とロシアは,ヌスラ戦線と非常に近い関係があり共同戦線も展開するアハラール・シャーム(保守主義イスラーム主義組織で,1万人ほどの軍隊をもつ)をテロ組織として認定せよ米国に要求した。ときにはヌスラ戦線の戦闘員がアハラール・シャームの戦闘服を着て騙すこともある。しかし米国はそれに対して,「アレッポ市東部の反体制派が支配する地域を包囲しているシリア政府軍は,包囲網を解いて援助物資がいくようにせよ,それをしないから停戦が崩れている」と応じた。互いの主張が絡み合っていない。そのような中で,停戦合意は反故にされてしまった。
 ここでアレッポ東部地域の封鎖について考えてみたい。シリア政府軍が包囲網を敷いているアレッポ東部地域は人口が25万人ほどだが,アレッポの西側は150万人で,そこは政権側が支配している。アサド政権からすると,反体制派が握っているのは一部に過ぎないという見立てになる。
 アレッポ東部の包囲は,2016年7月に始まったことではなく,この2年以来そこにいる反体制派が包囲網をかいくぐりながら軍事攻撃を積極展開している。ということは,それだけの武器があることを意味する。ところがそこの市民は(武器は供給されるのに)食べ物がなく飢えていると主張するのは,つじつまが合わない。武器が外部から入ってきているのに,食べ物が入らないことがあるだろうか。電気の供給が途切れている状況なのに現場から電話のみならず動画発信も積極的に行われている。矛盾するような事態に誰もちゃんとした説明を行わない。
 本当に食べ物がないのならば,かなり長期間にわたって包囲網を敷いているのだから,かなりの人が餓死してもいいのにそうなってはいない。そこから判断すると25万人はどれほどの飢餓状況にあるのかどうか。誰が飢餓状況にあるのか認定したのかという疑問もある。そもそも,シリア軍による包囲網は完全なものではなく,抜け道はいくつもあるのが現状だ。
 ところでこれを報道しているのは,ロンドンに拠点を置くNGOシリア人権監視団で,その代表者は反体制派の人間だ。監視団は,どこでどのような戦闘が行われ,何人が死亡したなどの詳細な情報を毎日発表している。しかし,アサド政権側は,戦闘が行われている最中にどうして正確な情報がわかるのかと疑問を呈している。情報の偏りがある中で一方的にシリア政府を非難している。
 ここで参考までに戦闘状況の中での人道支援の難しさについて説明しておきたい。
例えば,国連関係団体が支援物資をシリアまで持ってきてそれを現場に実際届け配布するのは,シリア赤新月社とその関係者である。支援物資が向う先は反体制派武装グループが占拠する地域である場合が多い。そのような地域に物資を搬入するためには,武装グループとあらかじめ協議し細部をつめて調整しておく必要がある。ところが,武装グループは1団体ではなく,多い場合は数十の武装グループと配布先・配布手続き・安全確保などについて協議する必要がある。普通,武装グループごとに主張や要求が異なる。彼らはえてして自分たちのグループの兵士たちや彼らの家族が住むところへの配布を要求する。しかし国連の支援物資は最も脆弱な人々を対象にするので,多くの場合武装グループの要求に応えられない。さらに対象地域に向う道路,地域内で移動する道順なども武装グループから指定されるので,常に複数の武装グループと調整して決定しなければならない。このように人道支援に関わる赤新月社の仕事量は膨大なものになり,支援すべき人々にまで届けられるのは非常に困難を伴うのである。

5.今後への展望

 私のシリア情勢に関する基本的な現状認識は,「終わりの過程の始まりが,いよいよ始まった」というものだ。その象徴が,2015年9月2日,トルコの海岸の浜辺であたかも昼寝の最中のような姿で発見された3歳の幼児の溺死体が世界中に報道されたことだった。これによって難民問題が一気にグローバル・イシューとなり,その難民の元であるシリア問題とISを解決することが重要だということが欧米諸国に広く共通認識されるようになったのである。さらに,同月30日にはロシアが空軍を投入して,それ以来アサド政権のテコ入れを図っている。
 シリア情勢を巡る基本的な展開の方向性は,まずは目前のISなどの反体制派過激派集団への攻撃をしながら,(最初の段階ではアサド政権を含めた)移行政権を準備し,ゆくゆくはアサド大統領にも身を引いてもらうというものである。しかし,反体制派の主張は,アサド退陣を認めない限りは和平交渉には参加しないというものだ。そこにはすでに自分たちだけではアサド政権を倒すことができないことがわかっているので,交渉の中でアサド政権の排除を(前提条件として)狙っている。そこには勝算はないと思う。今後の展望に関する国際社会の大体の認識が形成されており,今はどのようにそれを実行に移すかに関して綱引きが行われているという状況といえる。
(2016年9月27日)

■プロフィール くにえだ・まさき
1970年一橋大学経済学部卒,外務省入省。78年駐エジプト日本大使館一等書記官,その後,駐イラク参事官,駐ヨルダン参事官,ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部公使,駐ベルギー公使などを経て,2002年駐カメルーン大使(駐チャド・中央アフリカ共和国大使を併任),06年駐シリア大使を歴任。10年退官。主な著書に『イスラム国の正体』『シリア アサド政権の40年史』『シリアの真実』ほか。