いのちへの感謝から生まれる新たな倫理
―生態系倫理学のすすめ

哲学者 八木 雄二

<梗概>

 永年,東京港野鳥公園の自然環境保全のためのボランティア活動に汗を流してきた。わたしはその体験を通して生命の本質に気が付いた。動物と植物は相互依存の共生関係にある。人間も同じ関係の中で生きている。ところが,人間は,この関係の中でいのちをいただいていることへの感謝を忘れてしまった。この人間の傲慢さが,自然破壊,環境破壊をもたらし,今や深刻な生活破壊となって自らに降りかかっている。今こそ生態系に基礎をおく生態系倫理学を自覚して,新しい生き方へとパラダイム転換するときである。

はじめに

 都会育ちの私が自然を学ぶ機会となったのは,30年以上も前から東京都大田区にある東京港野鳥公園で環境保全作業のボランティア活動をしてきたこと,そして母親の実家の庭における草むしりや落ち葉整理などであった。私はもともと哲学が好きだったので,そうして自然とかかわりながらも,いろいろなことを哲学し,それが普通の人が考えないようなアイディアの生まれるきっかけとなった。とくに単なる頭の中だけの思考ではなく,自然相手に汗を流す30年以上にわたる体験が,自然についての新たな理解を生じただけに,自分が見出した理解には確信をもっている。
 そこでここでは,野鳥公園での経験をもとに,自然と人間のかかわりについてわたしが得た理解の内容を説明し,そこから新しい倫理学が生まれることを明らかにしたい。

1.東京港野鳥公園

(1)野鳥公園造成の経緯
 私が関わってきた大田区にある(東京都立)東京港野鳥公園は,一般にイメージされる野鳥公園,すなわち,自然が残っているところを保護するために作られた公園ではない。羽田空港に近いこの公園は,特殊な経緯から生まれた自然公園である。周知のように,もともと羽田空港も埋立地にある。
 戦前の東京湾にはあちこちに干潟が広がっていた。東京湾内では,河口の付近は川の上流から運ばれてきた砂や泥が堆積し,やがて広大な干潟をつくる。干潟には,ゴカイ,カニ等の小動物が繁殖し,エサを求めてたくさんの渡り鳥がやってきた。ところが,1960年代から高度成長時代を迎えて大規模な埋め立てが始まった。その基本的な工法は,まず大きな鉄の壁を浅瀬の周囲に設置し,その中へ真空ポンプで外側の海底の土砂を海水と一緒に汲みあげて注ぎ込み,その壁の中が海底の土砂で海面まで埋まったら,しばらく置いたあと,その上に陸上の道路工事などで出た土砂を盛る,というやり方だった。
 海水を含んだ土砂を下にして土砂を積み上げた土地は,しばらくして水が抜けていくと凹凸ができるので,それを地ならしする。ところが,70年代に世界経済を揺るがすオイルショックが起きてその工事がストップしてしまい,凹凸がそのまま残った。そのへこんだ部分に雨水がたまり,大きな池ができて,やがてそこにたくさんの鳥がやってくるようになった。その鳥の群生をバードウォッチャーが見つけ,この地域を保全して自然公園にしてほしいと役所に願い出た。
 その地域は,東京都が大規模な卸売市場を作る目的で埋め立てをしたところで,開発か自然保護かで激しい議論が交わされた。当時は,公害問題が深刻化しており環境問題が重要な政策となっていた時代であったことも手伝って,大石武一元環境庁長官(在任1971-72年)への働きかけが実り,一部が野鳥公園(24ヘクタール)として造成されることになった。(詳しくは,加藤幸子著『鳥よ,人よ,甦れー東京港野鳥公園の誕生,そして現在』藤原書店,2004年)
 この公園は,そのようにして埋立地にできた。それゆえ,全く「自然」ではない。例えば,山がないところに川を作ろうとすれば,ポンプを利用して水を循環させることになる。そうすると川といっても水流も弱く「どぶ」のようなものだからすぐにヘドロがたまっていく。夏には水温が高まり30℃以上にもなる。そういう環境には,繊細な水棲昆虫などは生息できない。しかしそれでも,1989年,世界的にも珍しい人工の「野鳥公園」が作られたのであった。

(2)生態系の自然な循環
 一般の公園とは違って,この公園は「自然の維持」のために,造園業者がマニュアル通りに植物の手入れや環境整備をすることはできない。自然のためのマニュアルはないからである。そのため,一部はボランティアがやることが起こる。わたしは「いのちある存在」に対して,具体的に「切る」という行動を取ってみた。そのことを通して,じつに多くのことを学んだ。
 埋立地に自然公園がつくられたとき,たくさんの木が植えられた。その木の下には草が自然と生えてくる。太陽光は十分に当るから,あっという間に草はしっかり育つ。草の種類によっては2メートルにもなるから,最初の頃は,ほかから移植されて根が弱っている木が負けてしまう。そこで草を刈る。数年間,つづけた。すると,木も回復して成長し始め,今度は隣の木の枝とぶつかり合うほどになっていく。そうなると,つぎに枝の剪定が必要になる。
 枝を剪定する一番いい方法は,その木に上ることだ。地上から見て切ると全体が変な格好になってしまう。木に上ると,剪定者と木とが,同じ高さになり,視線がいっしょになるので,その位置から見るとどの枝を切ればいいのか,自ずと分かってくるものなのだ。
 木の剪定をしていたあるとき,みしょう実生の木(注:種子から発芽したばかりの木)が地面に出ていることに気づいた。大きな木の枝葉が生い茂っていると,その下が暗くなり,実生は育たない。芽は出ても,普通は2~3年で枯れてしまう。そこで上を覆っている枝を切る。すると,太陽に育てられて実生の木は伸び,なんとか膝くらいの高さまで育つ。するとそのあとなら実生は薄暗い中でも光を見つけて育っていく。
 どのような生物であれ,子どもが育たなくなればその種は絶滅する。これは野生動物に限らず,人間も例外ではない。大人だけが生き延びても,いずれ死んでいくだけで,社会の持続可能性はない。林も同じである。ところが子供が育つ環境は,樹木の場合,適当に枝葉が落とされることによって,はじめて成立するのである。

2.植物と動物の共生関係

(1)相互依存の平等な関係
 自然の中では,動物と植物が不思議な仕方で相互依存の共生関係を維持していることが見えてくる。
例えば,サルは樹上に登って葉を食べる。人はサルが果実食であると勘違いしている。秋に実る果実には,糖分や脂肪分が多く,それは動物が冬を過ごすための栄養分になる。しかし通常,動物は植物と異なりタンパク質を多く必要とする。そのタンパク質はむしろ葉に多く含まれるのである。ゆえにサルは枝を伝って柔らかく甘みのある若葉を好んで食べようとする。するとサルは枝先の葉を取るために,登る途中にしろ,枝を伝う途中にしろ,進路をじゃまする小枝を払う。すると樹木は,幹近くに出てしまった小枝や大枝から出た中途半端な枝が払われて風通しが良くなる。
 光合成のためには大気中に0.03パーセントしかない二酸化炭素を必要とする。したがって樹木にとって,風通しは死活問題である。ゆえに,サルが小枝を払うことは,サルの「勝手」というものではなく,樹木に対するサルのとても「親切な行為」なのである。
 また樹木は,サルに枝先の葉を食べてもらうことを通じて,枝が伸びすぎてしまうことを避けることができる。こうして樹木は,サルに葉を食べてもらうことによってそれぞれの枝を適度に張りながら,幹を高く延ばすことができる。樹木は,動物が訪れることによって初めて太陽の光と二酸化炭素を最も効率的に得ることができる樹形をもつことができるのだ。したがって樹木は,むしろ動物に食べられることによって光合成の働きを最高度に行えるようになる。つまりサルはその食餌行動を通じて樹木の剪定を行い,結果として,樹木が最も効率的な光合成のはたらきをして養分をつくり,サルも,樹木自身も,栄養を得ることができるようにしている。
 山野の樹木も草類も,日本では梅雨期に著しく繁茂する。この時期はまた昆虫が増殖し,動物たちの子育ての時期でもある。柔らかい草や葉は多くの昆虫や動物の子や親を養い,反対に,昆虫や動物に食べられることによって,山野の樹木や草類はバランスよく繁茂している。もしも食べる動物たちがいなければ,勢いよく生い茂った草で地面もその上も覆い尽くされて,息もつけない状態になってしまうだろう。そうなれば,地面は成長の早い植物のみで覆いつくされ,他の植物はその陰になり,光合成がうまくできなくなり,植物自身の体内の循環もおかしくなって,植物自身が枯れてしまう。つまり動物がいなければ,成長の早い植物と弱った植物を食べる虫のために山野は荒れてしまうのである。
 他方,柔らかい葉を食べる昆虫その他の虫が増えれば,それを食べる鳥類がそれを抑制する。こうして植物は,一部を食べてもらいながら,別の動物を捕食者として呼び込み,食べられすぎることを巧みに避けている。また冬になれば,イノシシたちがクズなどの根を掘り出して食べる。こうすることによってイノシシは,クズが樹木に巻きついて樹木を枯らしてしまうことを抑制しているのである。植物にとって動物に食べられることは,マイナスではなく,プラスだということができる。この事実を見ると,生態系を構成している食物連鎖が,生態系の健全な持続のためにあることが,よくわかる。
 同じことは草についても言える。成長の早い草と成長の遅い草が一緒にある場合,成長が遅い草は成長の早い草に覆われてしまい,やがて枯れていく。結果として,自然状態に放置しておくと,特定の種類だけが繁茂する。本来の自然では,そこに草食動物がやってきて成長した草を食べてくれる。動物は増えすぎたものを取って食べる。増えすぎるものをとって食べることによって,なかなか増えにくい種類が,生きていける環境をつくっている。
 こうして生態系の自然な循環が生まれていく。われわれの周囲に多彩で美しい,そうした自然がなくなってしまったのは,周囲に動物が暮らさなくなってしまった結果だ。そのような自然になってしまったとき,動物の代役を務めなければならないのが人間だ。そうしないと林もちゃんとした林にはならない。実際やってみると,動物がいかに大変なことをやってくれているのかが実感できる。動物は自然の営みとして植物を食べることで豊かな生態系を維持してきたのに,人間は都会生活のために動物が来ないようにしてしまったのである。
 ふつう人間が自然に手を入れることは,自然を壊す環境破壊と考えられているが,人間が自然のしくみをよく理解して手を入れれば,むしろ自然を豊かにできる。人間の考え方次第で,人間はむしろ自分の手でもっと豊かな自然へ変えていくことが可能なのだ。そのことをほとんどだれも研究しない。生物学者にしても,自分の関心となる動植物しか見ていない。しかも見るだけで人為が加わることを毛嫌いする。しかし,自然の中では,無機物から始まって,微生物,植物,昆虫,小動物など,いろいろな生物が多様性を帯びて互い相手に対して何事かを為している。何かを為すことで共生しており,そのトータルが自然なのだ。生物学者にはその観点が欠落している。
 以前,この公園に樹木医が来て,その生理現象など説明してくれたことがあった。しかし,部分的な樹木の剪定や病気については詳しいのだが,剪定のために肝心な樹木全体の見立てなどは,あまり分からないようだった。
 里山の知恵は,田畑での作物作りと,他の生物とが,互いに共生するためにぎりぎりの努力をした中から生まれたものだ。人間の家とその周囲にある田畑,そして自然としての山,その中間を占める場所としての雑木林は,人間が積極的に利用することで,互いに共生し,里山になったのである。
 野鳥公園で最近あったことを紹介しよう。数年前の夏,クズが樹木の下を覆っている場所があり,わたしたちがそれを取り除いたら,そこにキンラン(注:ラン科キンラン属の多年草。地生ランの一種)が数本生えてきた。その後,わたしは自分の感覚で樹木の枝葉を剪定して,そこに差し込む自然光の加減をした。キンランは今のところ100本近くにまで増えている。じつは専門家の間では,キンランは人為的に生やそうとしても現在の技術ではできないとされている。移植が不可能なのである。それゆえどんなに珍しくとも,街中で鉢植えにされて売られていない。商品にできないのである。しかも自然のキンランは落葉樹の雑木林にしか生育しないといわれる。ところが,わたしが増やした場所は常緑樹の林だった。常緑樹の林でも適切に枝葉の剪定ができれば,生育可能なのだ。郊外にある里山の雑木林を除くと,東京都でキンランが生えている公園はここしかないと思う。

(2)「いのちの交換」で成り立つ自然
 特定の植物に依存する動物は,その植物を食べ尽くしてしまうことは絶対にない。そんなことをしてしまえば明日から食べるものがなくなるから当然である。つまり動物が植物を食べるといっても,実際にはその「ごく一部を食べる」だけであって,大部分は食べたりしない。その上,動物は植物から栄養分を摂取した後は,アンモニアと二酸化炭素を排出する。それらはまた植物の栄養源となる。従って逆の立場から言えば,植物は自分の一部を動物に提供し,それによって動物を存続させ,また動物が植物の一部を食料にすることを利用して,不必要な余剰分となる糖分を動物に分解してもらい,それを新たな成長の糧にする。このほか,例えば動物の移動能力を使って種を運んでもらう。あるいは,さまざまにその行動を導いて環境を整えさせ,植物自身を存続させている。
 このように私の経験からの学びによれば,植物を土台とした生態系の生物種は,「食」の関係で結ばれ,お互いに「いのちを育み合う」関係を持っている。なぜなら,植物のはたらきによって動物の食べ物が作られ,動物がそれを食べることによって,植物のいのちが多様に育まれる関係があるからである。そして多様な植生は,それを食べる動物を多様に進化させる。こうして多様でしかも多彩で美しい自然が生まれる。しかも,それぞれが互いの「いのちの交換」を通してお互いを成り立たせている。それゆえここには平等な相互関係があるのみであって,一方的な搾取の関係はまったくない。どちらかが損をして,他方が得をする,ということではない。お互いが得をして,生きているのである。いわゆる完全な共生関係なのである。
 ところが一般には,生命の働きは「生存をめぐる戦いである」と理解されている。文明社会の中で戦争に反対し,徹底的に平和主義を貫こうとする人でさえ,「生きることは戦いである」といってはばからない。これに対して私が見出した生命の本質は,「生きることは戦いではなく,偶然をとらえて互いのいのちを発展させること,偶然を活かして進化をすすめるものである」ということだ。
 考えてみれば,生物の生活が戦いになるのは,限られた場面においてだけである。例えば,一匹のサルが森の中を移動してエサを見つけるのは,たんなる偶然である。そこに遅れてきたサルは,エサを見出さない。この場合,エサをめぐる戦いは起こらない。戦いがあり得るのは,二匹のサルが同時に同じエサを見つけるという条件の中だけである。こういう条件が整うのは,二匹の個体が同じ群に属する場合ぐらいしか日常的ではない。
 私は動物の種の進化は,動物どうしの競り合いによるのではなく,動物に食料を提供している植物の進化に伴うと考えている。偶然的に動物に食べられることで植生に多様な地域特性が生まれ,その結果,それを食べる動物の側で,多様な種が進化するのである。したがって,私が見るところ,植物との共生が動物の種を進化させてきたというべきであろう。

3.いのちに感謝する心が倫理の基礎

 このような共生の理解にもとづいて,わたしたちは自分たちの生き方を考えなければならない。なぜなら,このような共生こそが自然な人間の生き方であったはずだからである。よく考えてみれば,人間もこれまで自然によって生かされてきたことは,明らかである。そうであるなら,自然に対して,恩返しをするのは当然である。恩返しすることでこそ,自然から生まれた人間は,本当の生の充実感が得られるのであって,恩返しをせずに自分のことだけで楽しみを得ようとすれば,人間の生活がむなしいものになるのは,当然なのである。
 自然によって生かされてきたという思い,これが「感謝」である。感謝するなら恩返しがある。そして,恩返しができるかどうかは,人の生活の中で,一番重大かつ本質的な問題だ。なぜなら,それは自分のいのちの問題だからである。
 わたしたちは,生きたものをいただいて生きている。食べ物はいのちを捧げている。逆に言えば,われわれはいのちを奪ってこそ,生きていくことが可能だ。見ているだけでは生きられない。ゆえに,本来,わたしたちはいのちを食べ物として提供してくれている自然のすべてに,恩返しする義務がある。そういう生活をする必要がある。
 「お金を払っている」と主張する人がいるかもしれない。例えば,魚を買う場合,そのお金は,魚を獲ってくれた漁師や流通業の人たちの労苦に対する対価としてある。お金を使えるのは生きている人間だけだからである。魚のいのちに対する対価ではありえない。しかし,食べておいて,おいしかっただけでいいのか。それで恩を返したことになるのか。魚が減ったのなら,今まで自分を生かしてくれた分,保護していこうと思わなければ,辻褄が合わない。植物や動物に対してそのような思いで生活していかないと,われわれの生活は自然を破壊するだけに終わってしまう。親孝行せずに親を失ったときのように,自然を失ってようやく「恩返ししたかったのに」という後悔が生じるだけだろう。
 人間が傲慢になるのはなぜか。他の自然の生き物に支えられて生きていることを忘れてしまうところからくる。自然破壊の根本もそこにある。(いのちに対して)ありがたいと思って魚を食べていれば,目の前の魚が枯渇すると聞いたら,何もせずにいられないはずだ。そういう心情の土台がないと,本当の生命倫理,自然保護は,成立しない。
 自分がどのようなところでどのように支えられているかを自覚し,その恩に気付いてこそ,恩を返したいという気持ちが湧いてくる。それは人間どうしの間だけではなく,自然と人間との間の倫理問題でもあり,それこそが倫理の基礎なのである。
 昨今では,悲しいことに,現代人がものを食べるときの基準は,「美味しいかどうか」,「栄養があるかどうか」でしかない。食べるということが,自然との間にどれほど深いつながりがあるかを考えないから,「ありがとう」と,いのちに感謝する心がなくなってしまう。「いただきます」の意味も,今や作ってくれた人に対する礼の意味しかない。本当は,「いのちに対するありがたさ」であるはずなのに,そこまで心が命の関係をたどれない。本当は,食べ物のいのちと結びつく関係を,膚で感じられる生活こそが,自然との共生なのである。自然との共生は,自然のいのちの恩恵に対する感謝を基盤とする行動によって,はじめて実現する。現代の利便性追求の経済生活には,恩恵と感謝の関係は一切ない。
 自然との共生の生活においては,食べることには,「美味しいものが食べられてうれしい」という気持ちと同時に,「(いのちを)食べなければ生きていけない」という,一つの悲しみ,つらさがある。いのちは,殺さなければ食べられない。そのように自覚しながら「食べることの意味」をかみしめることができなければ,わたしたちにとって「ありがたい食」はない。美味しいという感覚だけで食べているから,食べ過ぎてしまう。生き物のいのちを殺さなければならない自分の立場をかみしめて,そこにありがたみを感じながら食べる。「生態系倫理学」は,食べることが悲しみであるとの自覚から始まる。食べることは楽しいことであるが,われわれが生きていくうえで,食べることは命をいただいていることであることを,しっかりとかみしめなければならない。それでこその「食事」なのである。
(2015年10月11日,一般社団法人南北米福地開発協会主催「環境問題研究会」における発題を補填,整理した)

■プロフィール やぎ・ゆうじ
1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(哲学専攻)。91年文学博士。立教大学講師などを経て,現在,東京港グリーンボランティア代表理事,清泉女子大学講師,早稲田大学講師。専攻は,西欧中世哲学。主な著書に,『イエスと親鸞』『中世哲学への招待』『古代哲学への招待』『天使はなぜ堕落するのか』『生態系存在論序説』『生態系存在論の構築』『生態系倫理学の構築』『地球に自然を返すために』他多数。