「近代化」の限界を超えて
―家族のつながりと宗教的価値観の調和を目指す社会の構築

元立教大学大学院特任教授 倉沢 宰

<梗概>

 近代化が始まって数百年が経過した。今やその功罪について考察する時機に差し掛かっている。途上国社会において,近代化の功罪のうち罪の側面は,様々な葛藤を生み出している。近代化をうまく受容したとされる日本のような先進国でも,その問題は現在の家族や社会変容やそれに伴う混乱の根底にあると思われる。近代化の進展に伴う「個人主義」と「宗教排除主義」の問題を取り上げ,その新しい方向性のヒントとして,家族のつながりを重視することや公の場から宗教を排除しない社会のあり方について,社会学的な立場からアジア諸国を観察しながら考えてみたい。学術的論考よりも,長年東南アジア研究に関わったことから少々大胆に見解を述べる。

1.近代化の功罪

(1)個人主義と政教分離
 近代化は,英国における産業革命を前後に生じたもので,産業化,すなわち生産過程の合理化を求める諸変化の総体であり,それに適合した社会をどう作っていくかが問われた。その後の長い歴史と時空的な連続性を経て,20世紀後半までには途上国を含めて世界的に“近代化”が追い求められるようになる。
 近代化を体系的に捉えると,①技術・経済的側面の近代化,②政治の近代化(民主化),③社会的側面の近代化(近代産業を育てるのに必要な要素として人々の自由と平等の実現),④文化的側面(合理主義,合理的考え方の定着)など,多方面にわたる。
 産業化の過程で起きる近代化,特に技術的側面の近代化については,基本的に肯定的にとらえられてきたが,社会全体に及ぼす影響としていくつかの軌道修正が必要になる場合がある。要するに,近代化を社会の現実に適合するためには,近代化プロセスや価値体系の修正が必要となる。
 西洋社会から始まった近代化の特質のなかで,その軌道修正を迫られ無視できない二つのポイントがある。一つは個人主義。西洋近代化では個人主義は人間の自由とともに重要な概念であり,大きな流れとして「個人」を基礎とする社会的理念や,それに基づく社会制度の形成に繋がっている。産業化を進めるときに,労働力確保のため個人を中心に進めることは極めて合理的なやり方であった。それに付随して,所得税を納める単位,社会福祉を受ける単位を個人におくという考え方や制度が確立した。もう一つの特徴が,政教分離である。簡単にいうと,政治と宗教が相互に介入し合うことを禁ずることを求めて,「公」の場から宗教的特色あるいは宗教的道徳を排除するというプロセスである。しかしそれはたやすいものではない。
 イスラーム社会では宗教と他の領域を完全に分離することが難しい。例えば,イランのパフラヴィー国王は,西洋近代化(白色革命)を進め,世俗化政策,女性解放(ヒジャブ着用の禁止など)を強硬に推し進めたため,ホメイニーを中心とするイスラーム法学者の反発を招き,政変が起きた(イラン革命,1979年2月)。その後の経緯を見ても明らかなように,イランの人々が求めていたのは,宗教を排除した世俗化を中心とする体制ではなく,宗教的価値観とのバランスをとった近代化であった。
 なお,イスラーム社会は全て一律のものではない。各国の事情や歴史的背景によって様々な動きがみられる。今日のイラクやシリアの混乱は,近代化の過程で下から民主化が起こる前に,米国が上からの民主化を強制しようとしたところに原因がある。イラクの場合,サッダーム・フセイン大統領を強制的に排除したことで空白が生じた。その政治的空白の状態では,民主化(社会や国家のあり方に対する合意形成プロセス)は自然と起こることはない。部族的な勢力を超えた市民意識,国家観,価値観の涵養がないと民主主義に繋がらない。しかも,民主化を望んだ米国が途中で手を引いてしまうことで,なおさら混乱が拡大した。
 一方,東南アジアのマレーシアやインドネシアでは,近代化が様々な問題を抱えながらも比較的にうまく進んでいる。ちなみに,東南アジア諸国では宗教をおおやけ公の場から排除したわけではない。「宗教は近代化や経済発展の妨げになる」と考える政治・経済学者がかつては多かった。しかしそれとは違うパターンが東南アジアの国々で見られる。まだはっきりと理論的に構築されたわけではないが,宗教的価値観と近代化の融合を目指すパターンが生まれつつあることは確かである。現在のトルコの場合も同様な現象がおきている。

(2)近代化が見落とした精神的満足
 人間が生きてきた長い歴史のなかで,近代化を迎えたのはわずか数百年前のことであり,近代化と経済発展を進めるときに,「西洋的パターン」をそのまま普遍的に当てはめようとしてうまくいくとは限らない。
 前節で述べた西洋近代化の特質のなかで,個人主義をベースとする社会のあり方について考えてみたい。東南アジア諸国を考察すると,その多くの国々では「家族や集団を中心とする社会構造」を基礎とする社会が形成されていた。人々の意識や行動には,家族的な伝統主義と個人主義をベースとした近代化が交錯するなかで,ある種のずれが生じている。
 ちなみに,ブータンでは1972年以来,国王が「幸福度」(正式には「国民総幸福量」GNH:Gross National Happiness)という尺度を提唱し,国の政策に活用してきた。幸福度調査指標の一つに「集団性」の要素(自然環境,コミュニティ,仏教的価値規範など)がある。人間は集団の中にいると,金銭的に若干の貧困であっても不幸でなく,ある種の安心感を抱く傾向が見られる。
 ブータンの幸福度の調査では,田舎よりも都市部では生活が物質的には豊かであるのに,幸福度は農村の方が高いという結果がある。日本でも似たような状況が見られる。東京などの大都市では収入は地方より高く,物質的にも豊かであると思われるが,幸福度は地方(例えば,福井県)より低いという現象が見られる。最近はこういうことにようやく目が向けられるようになった。近代化の文脈で,このような現象は何を意味するかと考えることが求められている。
 近代化は人間主体に「生きる」ということをあまり重要視してこなかったのではないか。合理主義,利便性,個人主義が強調され,個人間の競争を高めることで社会の発展を促す。その結果,人々の生活は多忙を極めるようになった。物質的な豊かさを享受しながらも,人々の本当の満足を充足させられなくなっている。
マレーシアの人々の働く姿を見ると(イスラーム的価値観,そして家族と過ごす時間を重視する影響もあって)勤勉さは日本人よりは劣っているように見える。果たしてそれが悪いことなのか。経済成長という指標だけで見ればそうかも知れないが,幸福に生きるという視点から見るとどうだろうか。
 もちろん,近代化が今日の繁栄に大きな貢献をしたことは間違いない。近代化によって生活の豊かさがもたらされたことは事実である。経済的豊かさを抜きに,精神的な豊かな生活はあり得ない。腹ペコで精神的な満足を感じる人はまずいないだろう。しかし近代化に伴う社会的価値観の喪失,孤独,モラル・ハザードなどを避けるためには,近代化とのバランスを求める軌道修正を考えることが必要であろう。
 最近,資本主義の問題を指摘する学者も現れつつある。数十年前では,このような議論は浮上することはなかった。近代化と経済的発展がある段階に到達し,ようやくその罪についても議論する状況になりつつある。資本主義を含めて,これまでの近代化の在り様を軌道修正していくことにつながる動きや議論を期待したい。新しいパラダイムを取り入れ,社会(歴史・宗教的価値観・伝統)とどう適合させるかが,問われている。

2.家族を支えるしくみの制度化

(1)東南アジアから学ぶこと
 東南アジア諸国の社会学的研究を通じて気づくことは,家族が社会の基礎的単位として重要な機能を果たしており,社会の安定につながっている。その原因として第一に,政府による公的な年金制度や社会福祉政策,セーフティーネットが十分に整っていないことと,第二に,家族に対する家族成員の思いは極めて強いことである。年金制度は公務員の場合は準備されているが,民間企業の場合はまだ立ち遅れている。まして,自営業や貧困層の場合,年金制度は全く存在しないに等しい。
 このような不十分な状況を家族が補っている。年金を受けられないような人たちを基本的には家族が支えてきた。例えば,子どもが親の面倒を見る。しかし一人の子どもが親の面倒を見るという「個人主義」ではなく,何人かの子ども(兄弟姉妹)が協力して面倒を見る。東南アジアでは,ゆるやかで自発的な家族の支えは大きい。
 このような発展途上の状況下で,家族のあり方が変化した場合どうなるか。“近代化”に伴って,個人主義,都市化の進展などで核家族化が進み,家族による支えの仕組みが機能しなくなると,戸惑う者や犠牲になる人々が増加する。日本では個人主義が進み,高齢化社会の到来に伴って,公的制度だけではもはや間に合わないことが最近懸念されている。こうした状況を見ると,西洋社会のような「個人中心」の社会的仕組みがベストなのかとの疑問が生じる。
 個人主義に重点を置く近代化ではなく,アジアの社会構造に見合った家族を中心とする発展のしくみや可能性を模索することが必要ではないか。家族を支えるような制度やシステムが構築されると,家族が<心のよりどころ>となり,家族の強化と再生にもつながる。
 少々大胆な発想として,税制度や社会福祉制度にについて考えてみたい。近代化以降の制度では,所得税の基本単位は「個人」におかれている。それを「家庭単位」に改めるということは可能かも知れない。昔は,税は家族(家庭)単位で行われていた。企業は企業という集団の単位として法人税を払っている。人々についても同様に「家庭単位」の税金制度を設けることで,家族をベースとした社会福祉策を展開することも可能となる。とは言え,日本は明治維新以降,一世紀半をかけて敷いた路線を簡単に変えることは難しい。そのためには,長期的な展望と覚悟が必要だろう。

(2)「頼る」存在としての人間性の構築
 以上見てきたように,現代社会では人間の存在は個人単位が基本となっている。しかし,人間は「他の人びとに頼って生きる」運命を抱えている。この「頼る」というパラダイムを現代の社会制度にどのように取り入れるかが課題である。国家がやることの限界が見えている。国民が主体的に家族集団やコミュニティと連帯して生きているという意識と行動をもっと育成すべきである。
 個人を中心とする流動社会になって,コミュニティが弱体化している。コミュニティの弱体化を止めるすべは中々見つからないのが現状である。家族がしっかり支えられることが進むと家族を中心とした地域コミュニティも復活する。家族をベースにして,家族員が遠く離れても精神的紐帯があって,地元への帰属意識と安定感をもたらす。
 インドで体験した事例を紹介しよう。
<例1>ビハール州の地方都市に住む中流階級(middle class)の家族の事例である。定年退職したエンジニアの父親と母親と3人の息子,それぞれ結婚し家庭を持っている。次男と三男はIT関係と石油関係のエンジニアとしてプネーとムンバイで独立して生活している。両親は足の不自由な長男と一緒に住んでいる。彼は大学院博士課程に通う傍らNGO活動をしており,父親も手伝っている。兄の事情を理解する二人の弟が中心となり,家族名義の銀行口座を開設し,収入を全て一つの口座にプールし,そこから家族全体の計画や個人用にも使う仕組みを作り上げた。身体的に不自由な兄と高齢化しつつある両親を家族全体で支えるという意思の現れであろう。家族名義の銀行口座を持つことで,離れていても家族員の連帯は強く,ある種の「ジョイント・ファミリー」として精神的つながりが構築されている。機会ある毎に,家族員みんなが集まる。地域社会に対する関心度も高い。
<例2>デリーに住む中流階級の家庭で,父親は最近定年退職し夫婦で年金生活をしている。一人息子はオーストラリアの大学へ留学して,結婚した後もオーストラリアに住むことを選んだ。インドへ帰るつもりはない。父親はこのような状況を見て,「家族がばらばらになってしまった」と慨嘆していた。
 一般的に近代化のプロセスでは,後者のようなケース(核家族化への移行)は多く見られると思う。前者のようなケースを制度的に奨励することが可能ならば,家族中心の社会のしくみが形成されることになる。
 世界的に今後高齢化が進むので,家族が互いに支え合う意識とそれを支える基盤の形成が必要である。重要なのは,モデルは一つではなく多種多様な試みが望ましい。ところが,西洋的な近代化モデルでは,一つのモデルしかないことが問題である。西洋的なモデルでは近代化は個人主義や核家族化への転換をもたらすものである。日本も西洋的なモデルを遂行してきたことは言うまでもない。

3.宗教と調和した社会

 一般に「近代化が進むと,人々が宗教に頼ることは減少し,宗教は廃れていく」という仮説が常識とされ,優位を占めていた。しかし現実は必ずしもそうではないように感じる。イスラーム社会の世代間の意識を考察するとよく理解できる。
 マレーシアの社会変動を考察すると(エジプトやトルコも同様であると考えられるが),国家の独立に関わった世代と独立以降に育った世代とでは,宗教に対する姿勢は異なる。独立を達成した世代は,世俗的な考え方で国の発展を図ろうとして努力してきたが,独立後の世代は宗教に目覚め,社会のイスラーム化を求める「宗教リバイバル世代」と名付けても過言ではない。
 彼らは,独立以降の新教科書を通じて,ナショナリズムと自己アイデンティティの強い歴史観に基づく教育を受けた。その結果,伝統文化や宗教に目覚めた若い世代が育った。マレーシアの場合,69年に人種暴動があり,その後「ブミプトラ」(土地の子,マレー人)優遇政策を進めるようになる。マラヤ大学を始め高等教育機関ではマレー人学生が急増したが,町の中は依然として華僑の世界で,大学のキャンパスとは異質な世界であった。大学から一歩外の世界に出るとイスラーム教徒として様々な不便に出会う。そこで,マレー人学生中心にイスラーム復興運動が展開された。
 従来,宗教を知覚していなかった学生たちは学内にイスラーム勉強会などのサークルを作った。後に副首相にもなるアンワル・イブラヒムも当時の学生リーダーの一人である。イスラームについてあまり勉強してこなかったことを改め,自覚的にイスラームと向き合うようになったのである。
 その結果,彼らは親の世代と違う意識を持つようになる。田舎の両親は,息子の成功を祝って,息子が結婚するときに盛大な祝賀会に行うとしたときに,息子は「クルアーンの教えに反する」として拒否したという事例もある。
 ところがこの新世代やその後の世代は近代教育を受けているので,保守的なムスリムになりたいとは考えていない。イスラーム的価値観と近代化をあわせようとする。要するに,現代社会をイスラームのしきたりに合わせたような近代化(西洋化とは一線を画す)制度を模索しようとしている。そのような運動がイスラーム・リバイバル運動の基軸となっている。
 マレーシアでは,宗教に目覚めた学生たちと近代化を進めようとする政府の間で衝突は起きなかった。政府は学生たちの欲求を抑えることをせずに,率先してイスラーム化政策を進めることで,主導権を握りながら,保守的なイスラーム化運動や近代国家建設に逆行する動きを牽制している。1980年代末にはイスラームの過激組織を非合法化し,穏健派を抱き込んでさまざまな政策を進めたのである。その一環として,イスラーム大学を設立し,イスラームと近代科学,イスラーム的価値観と近代化の両立を研究する大学として位置付けられている。西洋諸国では宗教を排除して近代化を進めてきたが,マレーシアではそうではないプロセスが展開しようとしている。あえて言うならば,“進歩的イスラーム社会”の実現を模索しようとしている。
 近年,トルコでも同様のことが起きている。20世紀前半には(ケマル・アタテュルク,トルコ共和国初代大統領の路線を受け)政府は世俗化を推進し,当時のエリート層はそれを受け入れたが,現在の若い世代はそれには異論を唱えた。政府はこのような要求やうねりを背景にし,もっと住みやすい社会を目指すことが急務となった。そうした政治の動きのなかに,宗教のファクターが入ってくることに対し,西洋社会は不信の念を抱いている。しかし,トルコでは物質主義一辺倒に走らないで,イスラーム的価値観を取り入れ,調和を目指そうと考えているようである。
 近代化は悪いものではないし,西洋社会では近代的な価値観とうまく適合している。西洋以外の社会でどのように適合させていくかがポイントとなる。日本では昔「和魂洋才」として西洋的近代化と調和を模索した。マレーシアでもそのようなことを考えているのではないだろうか。
 過激派組織に走っていく若者の多くは近代教育を受けずに,イスラームの伝統教育のみを受けた人たちだと考えられている。このような教育では,クルアーンの朗誦や宗教儀礼などを教えるが,現代社会に役立つような化学などを教わることはほとんどない。
 例えば,パキスタンでは「マドラサ」(注:アラビア語で「学校,学ぶ場所」を意味する)という伝統的イスラーム学校が多く存在する。公的普通教育の学校が不足し,貧困のため学校へ通えない子どもたちの多くはマドラサに通い宗教教育と読み書きだけを学ぶ。そして現代社会が抱える諸問題の根源は,西洋的風潮にあるのだと教え込まれる。パキスタンでは,多くの若者がこのようなマドラサで教育を受けているので,そこには過激派が生まれやすい環境がある。
 最近は欧州でイスラーム過激派組織ISなどへ参加する若者がいるようであるが,欧州へ渡った移民の子ども(移民二世,三世)の中には西欧社会に溶け込めず,西欧の教育を受ける過程で,自分のアイデンティティに目覚めたときに,社会から差別・蔑視を受けたり,警察の監視を受けたりして,反西洋的感情を抱くようになると考えられる。
 西欧社会はそうなってしまう広範囲な要因を考えないといけない。コミュニティとして彼らをどう受け入れるかがポイントであろう。
 マレーシアの宗教別人口構成はイスラームが60%,その他は仏教20%,キリスト教9%,ヒンドゥー教6%などである。国家の安定のためには異教徒間の態度や関係が重要である。現在,新興工業国として,互いの宗教に対する不干渉やモダニティの意識が生まれつつある。政府は,治安維持法(ISA:Internal Security Act)を行使して,過激的な宗教運動を牽制する場合もある。
 近代化を求めるイスラーム教徒は,宗教を排除した社会を求めていない。この点を各国の政府がどこまで理解できるかが重要である。西洋的理念では政教両立は理解しがたく,欧米はマレーシアやトルコのような動きを批判する。東南アジアの良いところは,かつて欧州が経験してきた血なまぐさい宗教戦争の歴史がないことである。異教徒同士がうまく共存してきた。
 中東地域でも,かつては同じコミュニティの中に異宗教徒が共存していた。ユダヤ教もキリスト教も住んでいた。しかし,西洋との対立やかつての国家の解体などの歴史的経過のなかで,勢力争いと排他的な雰囲気が生まれてきたと思われる。西洋社会では,勢力争いの最大の原因は「国家」であり,国家に対する強い意識のもとで繰り返された勢力対立の歴史が長い。
 東南アジアでは,歴史的に国家意識が弱いものであった。港を中心とした緩やかな国家,領土国家よりも「ネットワーク国家」群があった。そこでは国家統一の圧力が少なかった。多様な民族が住んでいた。西洋による植民地化に伴って,明確な国境線が引かれるようになる。そして近代化のプロセスの中で,一つの言語による国民統合,統一的なやり方やその方法論が重視されるようになる。同化の圧力が少数民族にもかかってくる。日本社会がアイヌを同化させたように,近代化はそういうプロセスを避けて通れない。
 ポスト近代化やグローバル化する社会では,“多様化”が主流なフレーズとなっている。しかしそこには自ずと限界がある。それぞれの社会で適した近代化を取り入れるためにも,まず家族を中心とする,そして宗教的価値観を排除しない,要するに西洋的近代化理念とは異なる多様な近代化の在り方を模索することが必要かも知れない。
(2015年5月19日)

■プロフィール くらさわ・さい
バングラデシュ生まれ。1968年国立ダッカ大学大学院修士課程修了。バングラデシュ農村開発研究所(BARD)などを経て,70年日本国費留学生として来日,78年慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程満期退学,82年から愛知学泉女子短大に勤務,93年愛知学泉大学教授。2010年立教大学教授,同大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授等を歴任。イスラミックセンタージャパン理事も務める。専攻は社会変動論,アジア地域研究。主な著書に『東南アジアの社会変動と教育』(共著),“Bhumiputra Policy and Islamization in Malaysia”, 『現代における人の国際移動』(共著)など。