災害史に学ぶ「創造的復興」と困難を生き抜く智慧

帝塚山学院大学教授 安田政彦

<梗概>

 日本は世界有数の地震国であり火山も多く,温暖多雨の気候の影響で毎年台風が襲来するなど,古来多くの自然災害に見舞われてきた。近年は気候変動に伴う自然災害も加わって,新たな自然災害の活動期を迎えているかのようである。日本列島に暮らす人々は,災害に遭って多くの犠牲を出しながらも必死の努力を傾けて立ち直ってきた。時代とともに科学・技術が発展し防災・減災の程度は上がってきてはいるが,自然の威力の前には微力な人間存在である。過去の災害史に学びながら,一人ひとりを大切にする創造的人間復興へのヒントと自然災害活動期における生き方の智慧を見出せれば幸いである。

1.創造的復興への道

(1)新しい町づくりへの可能性
 災害の後,復興への道のりにおいては<もとの生活を取り戻すこと>が第一となる。しかし厳密に言えば,災害以前と全く同じ状態の生活を取り戻すことは不可能なことだ。原状とは違った形ではあるが,(被災者たちや為政者が災害に遭ったことを「チャンス」と捉えたかどうかは別にしても)人々は必死になって新しい道を切り開いていこうと努力してきた。
 まず,災害をきっかけにした新しい町づくりの例をいくつか見てみる。
 秀吉の時代に起きた慶長伏見大地震(1596年)は,マグニチュード7.5と推定され,京都盆地南部から大阪平野北縁を通り,淡路島に至る約80キロの活断層が一斉に活動したもので,広範囲に被害をもたらした。秀吉の居城である伏見城も倒壊したが,2年余りで元の場所から約1キロ北東の木幡山に再建された。当時は,為政者に直結するインフラの再建が優先されたから,諸大名の屋敷もこれに準じたと思われるが,庶民の場合は簡単にはいかなかった。京都では町衆が,堺にあっては会合衆など富裕層を中心に自治組織によって町の再建が進められた。新しいプランに基づく復興への取り組みとして,大坂では秀吉の命によって,城下町の大改造が行われた。例えば,新たに三の丸を造成して,町屋をその外に移転させ,新たに整備された地域に整然とした町屋を造って人々を移住させた(現在の大阪市中央区北船場)。
 江戸という都市は火災の頻発した町で,明暦の大火(1657年),明和の大火(1772年),文化の大火(1806年)は「江戸三大大火」といわれる。とくに明暦の大火は,関東大震災以前では日本史上最大ともいわれ,ローマ大火(64年),ロンドン大火(1666年)とともに「世界三大大火」の一つと数えられている。
 この火災による被害は,延焼面積・死者ともに江戸時代最大で,外堀以内のほぼ全域,大名屋敷,市街地の大半を焼失。町屋の焼失400町余り,焼失総面積は2万574ヘクタール,死者10万7000人とも言われる。大火後,保科正之が本所牛島新田に10万数千人の無縁の屍を舟で運んで埋葬し無縁塚を築いた(回向院の始まり)。また回向院(現,墨田区両国)に「明暦大火横死者等供養碑」が建立された。
 明暦の大火を契機に,江戸の都市改造が行われた。道路などの区画整理を前提として建築制限令が出され,御三家の屋敷が江戸城外へ移され,それに伴い武家屋敷・大名屋敷を移して跡地を防火用空閑地とした。寺社も中心部以外は,浅草・駒込・三田・品川などへ移転。防衛上,千住大橋しかなかった隅田川に両国橋や永代橋などが架橋され,隅田川東岸に本所,深川などの市街地が拡大した。道路の道幅は5間(約10m)以上とし,とくに日本橋などでは7間とされ,火除地や延焼を遮断する防火線として広小路,火除堤,火除あきち明地が設置された。また町屋の屋根を土塗りから瓦葺に改めさせた。
 このように江戸の町並みは防火上の観点から計画的に復興され,それによって被災民は強制的に移住させられることもあった。
 近いところでは関東大震災(1923年)がある。
 この地震で東京市は市域面積の42%(3342ヘクタール)が消失,震災復興としては世界最大規模の事業だった。震災直後に成立した山本権兵衛内閣は,復興を担う「帝都復興審議会」を置き,その執行機関として「帝都復興院」が設置された(同復興院総裁には内務大臣後藤新平が就任)。
 復興は,①都市基盤や公共施設の整備を図る都市復興,②住まいや暮らしの確保を図る住宅復興,③経済や産業の回復を図る経済復興などに分けられるが,とくに被害の甚大だった東京市と横浜市の都市復興については帝都復興院があたり,②③については府県が中心となって行った。
 後藤総裁は,①遷都の否定,②復興費に30億円をかける,③欧米の最新の都市計画を適用,④都市計画実施のために地主に断固たる態度を取る,の四つの基本方針を掲げて復興を目指した。同総裁は,50億円の「焼土全部買上案」という大胆な構想も挙げたが,当時の財政状況などもあって内容は大幅に修正され多くが骨抜きになってしまった。それでも予算は5億7000万円ほどで,当時の一般会計予算の38%に相当するものであり,その復興事業は大きな成果を挙げた。
 主な成果としては次のようなものがある。
• 焼失区域の約9割に相当する区域で土地区画整理事業が実施され,街路や公園が整備された近代的な街並みが造られた。
• 幹線道路が174路線260キロにわたって整備,今日の東京の骨格をなす道路網が形成された(明治通り,大正通り,昭和通りの3本が東京道路網の骨格となった)。またこの復興事業によって,都市街路の設計思想が確立した。例えば,幹線道路の多くはグリーンベルトを伴ったもので,都市景観面,防災面からも評価された。
• 大小の公園が整備(大公園と共に,小学校に隣接する形で復興小公園を新設)。公園は,市民の健康や行楽目的のほか,防災帯や避難地としての目的を持つ。
• 近代的な公共施設やインフラの整備。
ただし,計画の縮小に伴って,非焼失区域のインフラ未整備,無秩序に郊外に拡張した脆弱な市街地の形成などの課題も残した。
このように大災害は,見方によっては未来に繋がる創造的復興への道という考え方も可能だろう。

(2)自助・共助・公助
 歴史的に見て,人間の生命力から復興が始まっていくことを考えると,復興の第一は自助だと思う。まずは自分で何とかしていかないと生き残っていけない。そうやって人々は生き延びてきた。とくに大災害の直後は,そのような厳しい環境だ。生きようという意欲が何よりも大切だ。この点はいつの時代も変わらない。
 実は,人間は軟弱なようだが,厳しい環境におかれると意外にも強い生命力を発揮する。阪神淡路大震災でも,何もないところに置かれても互いにあるものを持ち寄りながら,工夫して生活を始めて生きてきた。人間にはそのような生命力があるし,かえって(結果的に)災害を通して生命力が蘇ってくることもある。
しかし自助には限界があるから,周囲の人々の助け,ボランティアなどの共助を得ていく。大規模災害となれば,それでも難しい面があるから,そこを担うのが公(政府)の役割だろう。
 しかし,前近代の為政者の目は,庶民には向いていなかった。すなわち,庶民を助けようという視点はなかった。江戸時代になると少しはそのような視点も出てきたが,それ以前の為政者は税収がどうなるかなど,まず国の都合を考えて,そのために被災者を支援するという発想だった。動機が現代とは違っていた。そこで庶民としては,為政者が特段の助けの手を差し伸べない中で,被災しながらも生き残っていこうとすれば,まずは自助・共助でいくしかない。
 中世では宗教集団がその役割を果たしたり,近世では多少裕福な人々が資金を提供したりする例も見られた。これらはあまり表面には現れにくいが,社会の根底にはこうした助け合いの精神があったと思う。
 例えば,15世紀の室町時代には応永,寛正の大飢饉があったが,諸国の難民が飢民となり京都に大勢流入して京都の流通経済の状況悪化を招いたほか,長雨と冷害による餓死者が続出するなど,京都の街に屍が溢れるほどだった。そこで足利将軍の命により,飢疫の民に施行(施し)が行われ,ついで施餓鬼(追善供養,施し)が行われたが,それらを担ったのは勧進僧集団で,財政調達から施行,死体の処理までも行ったのである。このように,被災した民衆の復興には,宗教的結びつき,あるいは宗教集団のかかわりもあったと思われる。
 また1847年の善光寺地震(マグニチュード7.4と推定)は,6年に一度の本尊御開帳に全国から多くの参詣者が集まるところに発生し,多くの建物が倒壊,出火で門前町の大半を焼失。夜の発生のため被害が拡大し,総計で村人の8000~1万人ほどが死亡したほか,1700人ほどの旅人も犠牲になった。この地震で大きな被害を受けた飯山藩(本多家2万石)では,震災後,道路を拡張してその中央に用水路を配するなど,藩の承認のもと,町人たちが自主的に城下町形成にかかわったという。当時の支配構造からみれば注目すべきことである。これは開明的な藩主を擁したがゆえに実現可能なことであったといえる。
 被災直後からの復旧には,江戸時代以来の施しの習慣が,お互いを助け合う共助の形で,被災者の自助努力を支援したが,その共助はボランティアとして全国規模で行われた。江戸時代にもお手伝い普請のように,他藩の協力が得られたこともあったが,明治以降には日本赤十字をはじめ,宗教関係,青年団,在郷軍人会といった集団などによって,全国的かつ組織的にボランティア活動が行われたところに大きな違いがある。 
近いところで言えば,阪神淡路大震災(1995年)を契機に「ボランティア元年」と言われたような,草の根ボランティア活動に繋がる精神が見出される。もちろんこれは日本だけのことではないだろうが,日本に古くから顕著に見られる風土に根ざしたものではないかと思う。
 近年では,外国からの救済ボランティア,外国からの義捐金,自衛隊によるライフラインの復旧,救援物資の輸送,避難民の輸送など,組織立って行われるようになり,大きな力を発揮している。

2.大災害の記憶・経験知の伝承

 古来災害があるたびに,その経験は伝承されてきたと思う。それが後世にしっかりと伝えられている限りにおいては,防災・減災も可能だった。東日本大震災でも話題になった過去の被災を記した石碑があっても,それを守った地域とそうでなかった地域では被害に差が出てしまった。
 そのほかの地域でも石碑をはじめいろいろな形で後世に伝えようと努力して来たに違いない。しかし石碑にしても,石碑があることすら忘れられてしまうほどの時間の長さがあって,そうしたときに災害に襲われると「(天災は)忘れたころにやってくる」ということになる。残念ながら人間の歴史はその繰り返しだったのではないか。
 災害には波,周期があるように思う。現代のわれわれは,たぶん「災害の活動期」の真っ只中にいるように思う。そういう中にいると,次は東南海地震,富士山の爆発などと予測しながら対応し防災に気を使うようになる。ところが,(災害の少ない)平和な時代が長く続いているうちに,災害のことを忘れてしまう。それが人間(の性)なのではないか。
 ここで江戸時代の富士山噴火についてみておこう。
 宝永4年(1707年)11月,富士山の南東側山腹から突如大噴火が起こった。静岡県富士見市付近から見上げると,その向かって右側に大きなくぼみ(海抜2700m,1300m×1000m,深さ1000m)が見えるが,それが宝永火口・宝永山と呼ばれるものだ。吹き飛ばされた山体の容積は10億立方メートルに及ぶ。
 噴火によって焼け石や焼け砂がひっきりなしに降り注ぎ,東麓の村々はたちまちその下に埋まってしまった。火口に近い須走村はほとんど全滅。村全体が黒雲にすっぽり覆われ,空からは焼け石(直径40-50センチほど)が激しく降り,地上に落ちると粉々に砕けて燃え上がり,直撃された家はたちまち炎上した。
 そのほかの村々も大きな打撃を受け,50カ村が一面火山礫地と化した。須走村では3メートル以上の焼け砂が積もり,噴出物は偏西風に乗って静岡県北東部から神奈川県北西部,さらには房総半島まで飛び,江戸でも6センチ積もったという。
 噴火後,村に帰った人々を待っていたのは焼け砂に埋もれた農地や家であり,収穫を奪われたことによる深刻な飢饉だった。そして積もった火山灰の除去(砂除け)が復興の大きな課題となった。降灰の多かった地域の多くは,当時小田原藩だったが財政問題などの理由で独自の対応ができず,被災村は幕府直轄領に編入されてしまった。担当奉行などの努力も十分及ばず,深砂地域の住民たちは自力で砂除け,再開発を行わざるを得なかったという。この噴火災害から立ち直るのに,30年余りが必要だった。
 さらに噴火災害はこれにとどまらず,広範囲に降り積もった焼け砂は,次第に押し出されて川に集中し川下に運ばれていった。そして防水堤に堆積した焼け砂は,翌年の豪雨によって一気に決壊し,濁流は瞬く間に足柄平野をなめつくしてしまったのである。
 このように噴火災害は,洪水を伴う複合災害となり,被災した人々は公的支援を受けたとはいえ,自力救済を行わなければならず,半世紀以上にわたる長い苦しみに耐えなければならなかった。巨大災害からの復興は決して容易なことではない。
 伝承の最たる営みが教育だが,過去の災害の事例について教育の現場で学ぶことも大切だと思う。学生に災害史を教えていて思うに,今の学生はすでに阪神淡路大震災を知らない世代だ。彼らの記憶にはそれはない。ないということは即ち,存在しないことに等しい。そのまま時間が経過すれば,完全に忘れ去られていく。あれだけの大震災であっても,忘れ去られていくとすれば,防災につながっていかない。そこで教育を通じて次の世代に伝える努力を常にやっていかなければならないと思う。
 災害の記憶について言えば,個々人が具体的なイメージをいかにしてもてるかだ。具体的なイメージがもてない人が,災害の只中に置かれたときに,慌てるだけで何をどうすべきか分からない。こう揺れた場合はこう行動するなどと,具体的なイメージをもって予測ができれば,それに対応する動きに結びついていく。こうしたイメージ化することは,防災・減災に非常に重要だ。その意味で実際に体を動かしてみるという避難訓練は,イメージを形成する上で非常に重要だ。防災・避難訓練を通じて体で覚える。最近は具体的な揺れを模型空間を使って体験できる施設があるので,それをもっと広く各地につくって多くの人が体験するのもよい。

3.災害と共に生きる

(1)人間の復興
 過去からの災害史とその復興の歴史を研究してみると,確かに紆余曲折を経ながらもそれなりに復興し今日に繋がっているわけだが,その復興の過程で,被災者の立場がどれだけ反映されてきただろうかという思いがある。とくに前近代の場合は,被災者の気持ちや立場はほとんど考慮されず,為政者の目線で復興が行われてきた。
 近いところでは阪神淡路大震災のころに,こうした人間復興の視点が注目されるようになった。やはり人間が復興しないと,本当の復興にはならない。今度の東日本大震災でもそうだが,箱物やモノの復興はすぐにでもできる。しかし災害によって大変な思いをした被災者の心は,本当に立ち直っているのか。心の復興が何よりであろう。そのためには彼らの要求をできる限り取り込んだ形で復興を進めていかない限り,昔の復興と変わりないような気がする。
 ところで阪神淡路大震災(1995年)の場合,都市復興の速さについて外国から驚きの声が上がったといわれる。神戸は日本の中でも重要な都市の一つであり,港湾機能をはじめとして多くのインフラが被災したために,(国の威信をかけて)短期間のうちに復興させたのだろう。あれから20年近くが経過するわけだが,今では何もなかったかのような町並みとなり都市の機能を回復している。
 一方,東日本大震災の場合は,恐らくそれほどのスピードでは進まないのではないか。そこには都市としての重要度の差が作用しているのではないか。さらに原発問題も絡んでいる。やはり大都市は被害を蒙っても復興が早いが,地方の場合は,過疎地も多いので復興は遅い。そこに不公平感・アンバランスが生まれるわけだが,それは国の運営を預かる為政者として,国全体の復興を優先的に考えるという側面があるからだろう。
 ただし,復興が早ければ早いほどいいということに直結するわけではない。早くても庶民の声が受け入れられなければ,切り捨てられる部分も出てくる。その一つの現れが被災地における孤独死の問題であろう。
 このように現代でも「開発復興」に重点が置かれ,「生活復興」がなおざりにされる傾向が見られる。生存権がクローズアップされ,直接被災者の立ち直りを支援する,いわゆる「人間復興」が切に求められている。

(2)人々の心の問題と絆の回復
 大災害によってたくさんの人が亡くなると同時に,生き残った人々の心も傷を負う。このたびの御嶽山の噴火でも見られたが,生き残った人が責任を感じることが少なくない。合理的に考えれば,そこまで考える必要はないのだろうが,大災害の中で自分だけが生き残ったことに対して,心の責めを感じるという心の傷を負うことがある。そのような心のケアーをきちっとしないと,次の復興に繋がっていかないと思う。
 かつて浅間山の大噴火(1783年)では,噴火に伴う火砕流よって地元の鎌原村が埋まってしまった。その村で生き残った人たちの中には,親を失った子ども,子どもを失った親,配偶者の喪失などさまざまなケースがあって,そういう人たちの中で夫婦縁組や養子縁組などの家族再編を進めて「擬似家族」を作り,それによって新しい人生を歩ませたことがあった。当時は,イエ制度が重要だったためにできたことでもあったと思う。もちろん現代でそういうことは簡単にはできないだろうが,家族や係累を失ってひとり身寄りなく生き残った人々の処遇をどうするかという課題は大きい。彼らを一人ぼっちにしておいて,本当に幸せなのだろうかと考えてしまう。
 擬似家族を作るのが難しいとすれば,小さな共同体,例えば,マンションや仮設住宅で一つの共同体を形成して助け合って生きていくしくみを考えていくことも,「人間の復興」の一案だろう。仮設住宅の間で相互協力を進めていくことは,試みられているようだが,さらにもう一歩踏み込んだ「共同体」形成まで試みてはどうかと思う。

(3)災害と日本人の生き方
 災害は怖いものだが,災害多発国・日本にいると災害から逃れることはできない。個々の気持ちは別にして多くの日本人は,災害とともに生きていく,付き合っていくということに知恵を使うしかなかった。大災害が起こることを前提にした生き方を考えていくしかなかった。
 江戸の大火,これは自然災害というよりも人災ではあるが,江戸の町が半分近く消失したことも何度もあった。そうした経験から,江戸の庶民は「宵越しの銭は持たない」という江戸っ子気質をもつようになった。いくら大金を持っていても焼けてしまえば,何も残らない。手に入った金はその場で使ってしまおうという風潮が生まれる。そのように災害と折り合いをつけながら生きてきた。これが日本人の生き方である。普段は災害のことを忘れているようだが,いざ大災害が襲ったときには・・・という意識は,頭の片隅にでも残しながら生きてきた。
 ある意味での「諦念(あきらめ)」である。これは今でも通じるところがあるように思う。最近でも何度も台風に襲われ風水害に遭うと,「また洪水か」といいながらも生き抜いていく。そこに巻き込まれた場合には,「仕方ない」と思う。それが日本人的な無常観を生む背景になっているのではないか。
 しかし,これからはそうした諦念観に留まらず,現代は予測可能な部分もあるから,きちんとした備えを積極的に取って教育やコミュニティーの中で活かしていけば,防災や減災に繋がりもっといい方向に行くに違いない。

4.最後に

 現代は自然災害の活動期にあるように感じる。江戸時代,とくに18-19世紀は大災害が頻発した。その後,300年余りを経て再び自然災害の活動期に入ったのではないか。東南海大地震はそれほど遠くない将来にまちがいなく起こるだろう。御嶽山もその一つかもしれない。それだけに過去の経験知を学び,継承していく営みを継続していくことが求められる。
 また外国人が多く来日する「観光立国」を目指す時代を迎えて,自然災害の少ない国の人にとっては大災害経験が少ない分,もし日本に来て自然災害に遭った場合には当惑するに違いない。日本は,地震,風水害,台風,火山噴火などさまざまな災害を経験している。今後,そうした未経験者に対して,災害の経験をどう伝え,防災・減災に役立てていくかということである。観光地に行っていて災害に遭遇したときに,外国人を含む観光客の生命と安全をどう守っていくかという課題もある。
 今後,2020年東京オリンピックなどの大きな国際イベントが予定されており,それを前後して多くの外国人が日本にやってくる。彼らが災害に遭遇したときの対応,行動について,どのように伝えていくかを今からでも対策を立てておく必要があるだろう。
(2014年10月21日,文責編集部)

■プロフィール  やすだ・まさひこ
1958年石川県生まれ。85年関西学院大学大学院博士課程後期課程単位取得退学。現在,帝塚山学院大学リベラルアーツ学部教授。専攻は日本史。博士(歴史学)。主な著書に,『平安時代皇親の研究』『平安京のニオイ』『災害復興の日本史』ほか。