大都市圏の大災害にどう対処すべきか―リスク危機マネジメントの発想

東京都市大学客員教授 宮林正恭

<梗概>

 最近国会でおいて,大規模な自然災害に対応するため憲法に緊急事態条項を設ける必要性に関する議論があったが,危機に対応するハード,ソフト面の整備はまだまだ遅れているのが実情である。1998年に内閣危機管理監という官職が設けられたが,危機発生前のリスク分析から危機発生後の対応に至る一貫したトータル・システムとしての考え方とその実践は不十分だ。そうした一貫した発想の必要性を基とした「リスク危機マネジメント」の考え方のポイントとともに,それによる大規模自然災害に関しての具体的な考え方を紹介する。

 2014年,日本では風水害・火山噴火などの自然災害が多発し,多くの犠牲者が出た。また,西アフリカのエボラ出血熱,日本におけるデング熱などの感染症の発生と拡散で,社会が動揺する事態もあった。人災も含めると,近年さまざまな種類の「危機」が発生しており,適切な危機対応が願われながら,後手に回ることが少なくない。事後になってようやく教訓を得て対策を講じることが多い。
 全世界的に急速な変化が起こっている現代社会では,各組織体のみならず各個人も含めて,危機に対する対応能力の向上が求められている。そこで危機発生以前のリスクの段階から,その後の危機への対応までを一貫した流れとして扱う「リスク危機マネジメント」の考え方に基づき,とくに大都市圏の大規模な自然災害(パンデミックを含む)について具体的な考え方を述べたい。

1.リスク危機マネジメントの基本的考え方

 日本において「リスク危機マネジメント」的な考え方が非常に不足しているように思う。そこでまず,「リスク危機マネジメント」の考え方の基本事項をいくつか挙げてみる。
 第一に,リスクと危機の関係の理解があいまいなためではないかと思われるが,これまで,リスクばかりに焦点を当てる傾向にあった。従来のリスクや危機のマネジメントに関する多くの本を見ると,リスクの分析およびマネジメントと危機についてそれらが分離して別々に論じられているものがほとんどである。実際には,リスクと危機は連続した関係にあるのに,それを全体として見ていない。それらをトータル・システムとして考えていこうというのがリスク危機マネジメントの考え方である。
 第二に,リスクや危機を取り扱うのは,基本的に人間(あるいは,その集団である組織)であるが,これまでの議論ではその視点が非常に弱かった。実は,人間とはどのような心理的存在で,どのような性向をもつのかということが,リスク危機マネジメントにおいては大問題なのである。
 第三に,これまで「すべて矛盾のない体系立ったシステムとして管理運営する」という前提の下にリスクおよび危機におけるマネジメントが議論されてきた。とくに,学者は,学問的な視点からのみ議論するので,そのような傾向が顕著だ。しかし,学問と現実世界との間には「乖離」がある。現実社会は複雑系であるのに,学問では,(すっきりとした論理でまとめようとするために)単純系に置き換えて論じてしまいがちだ。人間生活と係わったときに,そのようなやり方は大きな問題を孕むことになる。学問の世界の議論を現実世界に応用しようとする場合に,単純系だけで議論できるほどことは簡単ではない。
 例えば,現実問題においては,大きなターゲットに向かって進む際,それが達成できればよいのであって,その途中経過には,若干の矛盾があったり,問題が生じたりしてもやむを得ないのが現実だ。そう言うと「犠牲を出すことをよしとするのか」という批判が出てくるだろうが,現実社会はきれいごとの議論だけではできない複雑なものだということを前提にしなければ,リスク危機マネジメントはできない。ここで重要なことは,犠牲者(敗者)を出さないということばかりに力点を置くのではなく,やむを得なく生ずるかもしれない犠牲者(敗者)に対してどのような対応・手当てをすることができるかについて別途に考えることが現実的かつ建設的であるということである。
 第四に,とくに学問の世界では目標を達成するまでの「時間のファクター」を軽視する傾向が見られる。出来さえすればいいと考えてしまう。しかし現実問題を扱うリスク危機マネジメントでは,時間軸を無制限にして対応することはできない。これは隠れた問題であるのかもしれない。

2.大規模自然災害への対応

 おそらく,われわれ(日本人)が直面する大きな自然災害は,①地震,②パンデミック(感染症の大流行),③気候変動の三つに集約されると思う。それ以外は,それらの応用編としての対応が可能だろう。以下,それらについて「リスク危機マネジメント」の立場から,見落としがちな視点を具体的に挙げながら説明しよう。

(1)地震(津波を含む)

<複雑系現象という認識の欠如>
 地震の議論において,地震現象のほとんどが科学的に解明されているという前提に立って議論することが多いように見受けられる。しかし地震学は,蓋然性の高い科学的推測をもとに組み立てられているだろうが,(地震発生後にしか)立証できない仮説によって構築されているところが多い学問だ。地震は複雑系の現象でありながら,さもわかったかのような単純系の思考で説明し,対応策をとる。学問のレベルならそれでもいいかもしれないが,実務として扱う場合はそれでは不十分だ。この点を指摘する人はほとんどいない。
 東日本大震災の起こる前,地震学者の多くは「日本ではマグニチュード9を超える地震は起きない」と主張してきた。それを前提に津波の高さを計算し,それに基づいた高い堤防を築いた。そのことでそこの住民たちは「安心」してしまい,柔軟な危機対応ができなかった。実際に想定外の地震・津波が起こると,「千年に一度の地震(津波)だ」と弁明する。
 津波に備えて大堤防を築くという考え方に関して言えば,それは危険な発想だと思う。いくら高い堤防を築いても,それを超える津波の可能性は否定できないし,平素の生活の便益との関係から十分機能しないこともあり得る。自然破壊でもある。そこで考え方としては,海岸地域から安全な地域への住宅の移転などの視点が必要ではないか。
 このように複雑系である地震対応策について,トータルに見るもう一段深い考え方(多様なリスク想定)が必要だ。そうしていれば,これまでの地震においてもいくつかのバックアップ措置が講じられていたに違いない。
 最近,「近い将来,東海・東南海・南海が3連動する地震が起きる可能性がある」という議論が活発化している。もしそれが起きた場合,日本の心臓部が壊滅的打撃を受けるから,被災後の日本の社会・経済がどうなってしまうかは想像したくもないというのはわかる。しかし,そうした現実を直視しない議論,まるで国民に放り出したような議論がほとんどという印象を受ける。例えば,三つが同時に起こる可能性はどのくらいなのか,連続して起こる可能性はどうかなど,もっと緻密なリスクに関する議論が不足している。ここにサイエンスと実社会との乖離の問題がある。

<自助・共助と公助の関係>
 今の災害時対応の考え方には,「外部から助けに来る」という(暗黙の)前提がある。もし首都圏,あるいは東海などで大規模な大地震が起きた場合には,どれだけ助けが来られるだろうか。大都会の周辺に,果たして,十分な助けができる部隊のみならず,それを担う人員供給の能力があるだろうか。助けに来てくれるのは非常に限られたものになる可能性があることを国民に知らせなければならない。
 私自身,リスク危機マネジメントの学者でありながら,その限界・弱さを感じている。政府の審議会には学者が多く呼ばれその専門の立場からの議論には熱心だが,その実行可能性,実際の効果はどうであるかなどの点を抜きにしたものであることが多いように思う。また役人(官僚)は役人で当事者意識が低くなっている。近年の「役人たたき」によって役人は考えるなという風潮があり,審議会でメンバーの学者等がすべて考えてくれるはずという仕組みになっている。つまり縦割りの専門家という限界のある学者と当事者意識の低下した官僚が対応を考えているところから,現実との間に深い谷間が生じており,私はそれを憂慮している。これまでの行政は,方向さえ示せば,優秀な中堅以下の日本国民がなんとかそれをこなすという発想で進められて来た。しかし,それは限界に来ている。どのようにその目的が達成できるかまで含めて考える必要がある。
 今までの一般的認識では,災害のときは全部「公」がやるというスタンスだったように思う。ところが最近<自助・共助>が盛んに強調されるようになった。一般庶民の目から見ると,これまで国や地方自治体がすべてやってくれるという認識できたのに,急に自助・共助でやってくれと言われると,政府・地方自治体に対して,冷たい,責任逃れとの印象が生まれる。多くの国民は,自助・共助といわれても,それが具体的にどのようなことなのか,よく考えていないと思う。こういう場合は,「公はぎりぎりふんばって,ここまでやる」と公のやる範囲を明確・具体的に示すことが重要だと思う。そして不足なところに関しては,自助・共助を含めて追加の対応策を考える。時には公助の能力拡大のために,役所のシステムを見直すこともあり得るであろう。

<緻密なリスク議論の必要性>
 東日本大震災では,政府は被災者のために避難所をどんどん作った。しかし首都圏など大都市での大災害のときに,厖大な人口に対応した避難所を果たして作り,維持できるかどうか疑わしい。つまり,被災者を避難所に収容して対応することを中心とした発想それ自体が,間違っているということだ。前提の認識を変えなければならない。まず前提から見直し,この場合はここまでやるという緻密なリスク議論をすべきだ。
 東日本大震災以降,「レジリエンス」(resilience=精神的回復力・抵抗力・復元力)という言葉が流行った。2005年8月にハリケーン「カトリーナ」が米国南部を襲ったのとき,それまで「大規模ハリケーンが襲っても大丈夫だ」と言っていた米国の防災専門家の言葉が見事に打ち砕かれてしまった。被災後に「レジリエンス」ということが盛んに言われ復興が語られた。しかし,それはある種のごまかしではないか。
 「復元力」とはどういうことか。誰がそれを担うのか。そうした具体的なことを論じないで,レジリエンスというカタカナ語を情緒的に使ってごまかしているように感じる。カタカナ語を使わなくとも内容は通常の日本語で十分表現できる。情緒的なことだけで,果たしてしっかりした地震対策が行われ,復興ができるのか。
 これがリスク危機マネジメント的発想である。リスクを緻密にしっかり解析し,その中でどう対応するか現実的対応策をとる。危機の只中においては,想定外のことが十分起こり得るが,少なくともリスク分析をしっかりやることで,複数のシナリオが作られるから,それによって対応の可能性が広がるのである。

<プライバシーの見直し>
今後日本社会が急速に高齢化していく中で,生産年齢の人たちは日中,住宅地にはいない。地震発生時刻によっても被害の程度は大きく変化する。そのような各種の条件(ケース)を前提としてリスクを分析し,対応策を考える必要がある。
 例えば,日中,家にいる主婦が災害発生時にどのような役割を果たせるか,比較的動ける老人はどうすべきか。
動きに不自由な老人・弱者が一番の問題になるが,弱者の人たちには「助けてもらえて当たり前」という考え方も根強い。しかし,それが困難なこともありうることを考えるべきだ。なお,最近はプライバシー保護の名目で個人情報が開示されないために,一人ひとり,一軒一軒の具体的事情・状況が分からなくなっている。独居老人にとっての助け手は周囲の人しかいない。危機に遭遇したときに安全のためには,状況によっては「プライバシーも絶対ではない」という考え方も必要だろう。危機に限定して個人情報を開示していくという発想だ。そのような冷静な議論と実践努力がまだ不足している。
 老人など弱者を避難所に連れて行くということ自体も難しい場合,連れて行かない前提で助ける方法とはどういうものか。そのような議論も必要ではないか。従来の流れの延長線上の議論ばかりで,全体を見た発想がない。問題は前提条件をしっかりチェックしていないことだ。政府の審議会でもそのような議論はできていない。その結果,実際に危機が来てからでないと分からないと言うことになるのではないかと危惧する。

<非常時における一般公務員の役割>
 災害時の組織のあり方として,「情報はすべて上に上げ,それに基づいてトップが判断する。現場の公務員は,情報を上げるほかは指示があるまで通常業務を遂行せよ」という考え方が主流になっている。しかし,大災害(非常事態)が起きたときに,それでよいのだろうか。
 情報を上げてから首長がすべて判断し,それから行動を起こす,それを待っているというのでは遅い。そうなると現場は情報を上げることしか考えない。東日本大震災では,行政の人たちが自分で判断して行動することができたが,それはみな地元の人たちばかりの小さい組織で,顔見知りとか,地元の人たちに対して何をすべきか良く分かっているからできたのだと思う。しかし東京・横浜など大都市圏では,そういうわけにはいかない。
 非常事態となれば通常の業務ではないはずだ。警察や消防などは災害の対応で余力がない。そうなると最も若くて柔軟な行動ができるのは一般行政職の公務員だ。地域の住民を危機から誘導して守っていく戦力の役割を担えるのは区市町村の一般行政職の人たちだと思うが,これまでそういう教育をしてこなかった。そのためにも,何をなすべきかを明確に示しておくことが必要だ。
 そのほかに機動力があるのは大学生だろうが,今の大学は学生に統一行動を指示することは難しい仕組みにある。それでも危機となって呼びかければそれに応ずる人たちが現れてくると信じる。ここで言いたいことは,基本のところをもう一度しっかり見直すべきだということだ。

<建物対策と火災の課題>
 地震には,家の倒壊に伴う問題がある。家の倒壊で住民が圧死する恐れがある。1981年に施行された(建築基準法の)新耐震基準に沿って建物が作られていればそれを防げる。各建物が,その基準に沿っているか,もっと厳しくチェックすべきだ。高齢者家庭の場合,「あと何年も住まないから,いまさらお金をかけるのはいやだ」という人も少なくない。しかし,これは本人の自己責任の問題に留まらず,家が崩壊して閉じ込められれば,周囲は助けに行かなければならない。そのような社会的な負担を考えたときには,新耐震基準の適用を「強制する」ことは,「周囲にとっての当然の権利」ではないかと思う。少なくとも瞬時を争って助けに行かなければならない状況は作らないでほしいということである。
 火事の話はこれまでの地震災害においてあまり議論の対象とならなかった。東日本大震災でも気仙沼市街の大火災などがあったが,津波の被害が余りにもひどくて注目点から消え去ってしまった。しかし首都圏など大都会における火事となると,事は別で大問題である。関東大震災(1923年)でも火災が大きな被害を出した。
 大都会の場合,火災が発生すると救急救命は行われない状況が生まれる可能性が大きい。大火災の恐れがある場合は,救急救命行為を一時中止しても火事の拡大・延焼を防がないといけない状況もあり得る。少しぐらいの怪我では救急車は来てくれない。持病持ちの人たちは,緊急の助けが来ないことを前提に対応を準備しておく必要がある。そのための居場所として少なくとも家が倒壊しないことが大切になる。
 いざとなったら,放置自動車などを後の補償なしで強制的に撤去することができるくらいの法的整備をすべきだ。いわゆる非常事態法の整備である。
 もう一つは,火事発生時の通報システムの整備である。独居老人の場合,火事が発生しても認識が遅れ,通報が遅れることもありうる。その場合は,周囲の住民がそれを発見し通報する。その意味でも町内会の役割が大きいし,普段から近所づきあいを密にしておくことが大切だ。とくに男性は近所との人間関係が希薄なことが多いので,関係性を深める機会を普段からつくっておく。
 何を強調して,何を優先すべきかを平時からよく検討しておくことだ。危機はきれいごとでは対処できない。実態をよく考えて対応を準備することは,行政機関もやっていないし,当事者(市民)もやっていない。

(2)パンデミック
 2014年のエボラ出血熱への対応でも見られたように,「水際で防ぎ止める」「感染者を隔離する」という発想(前提条件)ですべてを進めようとしている。これらは第一段階の措置としてはふさわしいことだが,もしも感染症が国内に入って蔓延し始めたときには,おそらくそれでは対処できなくなる。そのときは,逆の発想,つまり感染者が広範囲に拡大しないように「正常な人を隔離する」という発想も必要になる。とくに抵抗力の弱い子どもや高齢者などの弱者の場合である。
 エボラ出血熱の問題で米国では,保健衛生当局と市民との間で激しい議論が展開され,とくに人権の扱いが問題になった。これに関しては,誰もが認める正解はない。少なくとも感染が広がって行かないことが重要な点だ。
 パンデミックは,犠牲をゼロにすることはできないから,ある程度大きな領域で隔離して犠牲を少なくするという発想も必要だ。これは人道・人権の観点からは問題になる微妙なテーマでもある。しかしパンデミックも「危機」の一つであるから,その対応は,危機に伴う犠牲・被害をどれだけ小さく収めるかという点に集約される。そこでは主義主張とは別に,被害を少なくするという現実問題に焦点を合わせることが重要だ。
 もう一つは,薬についての考え方である。
 病気の種類や状況によっては薬に要求される安全性の程度が違ってくるという発想をすべきだ。現在の薬の認可は,どこでもどのような場合でも安全でなければならないという厳しい基準で行われている。平時の場合はそれでもいいだろうが,パンデミックの場合は,若干の副作用が出てくることを恐れるよりも,全体の安全を守りきるためにはやむを得ないというくらいの判断をしなければならない。
 具体的にいえば,未承認薬使用の問題である。今回日本で(エボラ出血熱関連で)話題になったのは,未承認といっても抗インフルエンザ薬としては承認されたものだった。突き詰めていえば,薬が効くか効かないかということだ。患者にとって重篤な状態は「危機」である。何でもかんでも100%安全サイドでやれという議論は,そろそろ変えていかなければならない。
 ガンの場合でも他に手の施しようがなくなったときには,未承認薬でも民間療法でも手当たり次第試みる人もいる実態を理解すべきだ。ただし,マーケット・メカニズムが働くとその新薬を強制的に使わせたり,医師が功名心から新薬を使うこともあるから,それを避けたいというのは理解できる。本人が承諾すれば,ある程度使っても良いというくらいのことで考えるべきだろう。もちろん使うときには医師の管理と説明の下に厳格に進めなければならない。
 本人の人権保護だけではなく,周囲の人の人権保護という観点もあり,それらが衝突するケースも起こり得る。そういうケースをどう解決するか。例えば,西アフリカでエボラ出血熱に感染した人を国内に入れる件について,その人の人権を問題とするか,そこから感染が拡大することによる周囲の人々の人権を守ろうとするのかという葛藤がある。こうした微妙な問題に対しては,人権学者は口をつぐんで何もいわない。人権問題は,ある面で相対的な概念であり,相互関係性の中で考えなければならないということをもっと自覚するべき時がきたと思う。

(3)気候変動
 気候変動に関する議論の中で気になる点を指摘しておきたい。
地球温暖化の解決策としてCO2削減だけが集中して論じられているが,それは間違いだと思う。先進国がCO2削減のための努力をすることは悪いことではないが,温暖化の原因を温室効果ガス一つに特定してしまい,CO2をシンボリックに扱い,これの削減だけ進めれば解決だと単純化してそのことばかり議論している。そこが問題だ。それよりは地球温暖化の影響対策にもっと力を注ぐべきだ。
 先進国のCO2削減は,これからの増分をなくしていこうという話だが,その一方で中国などの新興国は削減どころか今現在もどんどん排出している。CO2削減にたくさんの資金を投じるよりは,すでに温暖化の影響を受けてしまった島国などの現実,気候変動の悪影響の被害をいかに少なくするかに投資した方がより現実的対応だと思う。また,最近,気候変動に伴い世界的に水害が多発しているので,もっと治水対策に投資して総合的な対応策を講じていく。
 CO2削減によって新しい技術が生まれ,新たな産業の方向が生まれるのなら歓迎だ。ただし,排出権取引というのは,極論すれば単なる数字合わせのための議論に過ぎないし,金融商品のビジネス増につながるだけで,実際の地球環境の改善とは関係ないとの批判もある。
 このように基本・前提の緻密なリスク議論がすっぽり抜けている。どれが一番効果的か,何が一番問題かという議論を抜きにして,表層だけを捉えてきれいごとで議論している。おそらく気候変動は,すでにスタートして動き出してしまっている現象だ。それはそんなに簡単に阻止し変えられるものなのか。気候という複雑系の最たる現象を単純化して議論しているところが問題なのである。

3.最後に

 首都圏および東海・関西圏など大都市圏で大地震が起きたときには,日本の社会・経済状況が想像できないほどに激変してしまうだろう。そのときに備えてどうすべきか。それを考えておかないといけない。気の遠くなるような話かもしれないが,それを避けてはいけない。災害対策や復旧・復興を考えるときに,今と変わらない経済力があると無意識に考えて議論しているように思う。
 具体的な対策を考えるときに,いま日本の国力が落ちつつあることを含めて考えることも大切だ。ときには,中世の城郭都市のように城壁によって外部環境を遮断するコンパクトシティーの発想が必要になるかもしれない。そのときには生活パターンを変えなければならなくなることも起こるであろう。
 リスクというのは,ある面で相対的だ。一方のリスクが減れば,別のリスクは増えることが多い。その対策には膨大な費用が必要ということもある。ただし,うまくやれば,両方のリスクを同時に減らせるというケースもある。その場合,意識改革や社会構造改革,あるいは生活スタイルの変更が必要ということになることも少なくない。全体を見ながら,バランスを取って考えなければならない。しかし,そうした視点がすっぽりと抜けている。
 こうしたいという「願望思考」ではなく,(前提条件の再検討も含めて)根本に立ち返ってリスクを解析して考えることが必要になる。そのときにタブー視してはっきり言わないのはダメだ。きれいごとで議論するのではなく,トレンドもよく見ながら,真実と真剣に向き合って考え対応していくのである。
(2014年11月5日)

■プロフィール  みやばやし・まさやす
1967年東京大学工学部卒。同年,通商産業省入省。科学技術庁,外務省在米日本大使館,宇宙開発事業団などを経て,95年科学技術庁原子力安全局長,96年科学技術政策研究所長,97年科学技術振興局長,98年理化学研究所理事を務め,2004年千葉科学大学教授,副学長・危機管理学部長を歴任。現在,東京都市大学客員教授,リスク危機マネジメント研究所長。工学博士。専攻は,リスク危機管理論。主な著書に,『危機管理―リスクマネジメント・クライシスマネジメント』『リスク危機管理―その体系的マネジメントの考え方』『リスク危機マネジメントのすすめ』他。