統一思想から見た日本・朝鮮の「万国公法」(近代国際法)の受容・認識とその適用(上)

韓国・鮮文大学校教授 柳 在坤

Ⅰ.はじめに
Ⅱ.19世紀の万国公法の世界
• 西欧型国際秩序
• 文明国,野蛮国,未開国
Ⅲ.万国公法の受容と認識及びその適用
• 日本における受容
• 朝鮮における受容(以下,次号掲載予定)
• 日本の万国公法認識
• 朝鮮の万国公法認識
• 日本の万国公法適用
• 朝鮮の万国公法適用
Ⅳ.統一思想から見た万国公法の出現
• 統一思想の歴史観
• 万国公法の出現の意味
Ⅴ.終わりに

Ⅰ.はじめに

 『万国公法』は19世紀のヨーロッパ世界(キリスト教世界)を中心に作られた国際法であり,1864年(清国の同治3年),米国人宣教師のウイリアム・マーチン(William Alexander Parsons Martin, 中国名は丁韙良,1827~1916)が,ヘンリー・ホイートン(Henry Wheaton, 1785~1848)の国際法の教科書,Element of International Lawを漢訳したものである。ホイートンの原著は,当時の米国で最も広汎に用いられた国際法の概説書であり,『万国公法』は清国,朝鮮,日本に国際法を体系的に紹介した最初の書物である。「万国公法」という言葉が清国,朝鮮,日本において広範に用いられたのは,19世紀後半から20世紀初頭にかけてのほぼ半世紀間であった。
 国際法学史上,19世紀後半は自然法的国際法学から実定法的国際法学への過渡期とされるが,ホイートンの原著は自然法的発想を濃厚に残した作品であり,その基調は訳書にもそのまま引き継がれている。万国公法とはすべての国家に適用されるべき「公法」の意味である。
 本稿は,日本と朝鮮における「万国公法」(近代国際法)の受容と認識,そしてその適用について調べ,「万国公法」が19世紀後半から20世紀初頭にかけてのほぼ半世紀間であった理由について,統一思想の歴史観(統一史観)の立場から考察する。 

Ⅱ.19世紀の万国公法の世界

• 西欧型国際秩序
 19世紀まで東アジアの国際秩序の体系の基本は,清王朝のもとに形成されていた<華夷秩序>であった。それは清王朝=「中華帝国」を中心に周辺の<夷狄>=野蛮国政権が,清王朝が与える外交文書によって各<国王>として形式的な<承認>を受け(冊封),<夷狄>の王たちを<覊縻>するということを原理とした国際秩序である。朝鮮は当時,清国「禮部」管轄の朝貢国と見なされていた。
 近世の日本は,清国を中心とする<華夷秩序>体制から逃れており,独自的な<大君外交>体制を形成していた。この体制は<大君>(将軍)の<武威>(軍事力)を中軸に,朝鮮・琉球・蝦夷地など,近隣の諸国や地域との通交関係を形成するが,その基礎には自国を中心とする<華夷秩序>の意識を持つ<日本型華夷秩序>を構築していた。
 他方,<西欧型国際秩序>の原理は,主権をもっている国家が「万国公法」という国際法をもとに外交関係を結ぶことを基本とするが,その実際の関係は,<力の政治>によると言える。
 シューマン(Frederick L. Schuman)は西欧型国際秩序に対して,「国家主権の概念,国際法の原理および力の均衡の政策は欧米国際体制がその上に依拠するようになった三つの礎であるとみることができる」と定義している。
 ここで,<主権国家>として認定を受けるためには,<西欧型>の<近代法>の体系が成立されなければならないということが前提とならなければならない。そうでない場合には<野蛮>国とみなされ,領事裁判権など不平等な条約を結ぶようになることが当然であると考える構造であった。
 西欧型国際体系の三つの礎としての主権・国際法・勢力均衡の原型は,16・17世紀の政治的な展開の中で形成された。西欧型国際体系は16世紀頃,その芽が発芽し,1648年のウェストファリア会議で形式上成立したというのが通説である。各国家は対内的には最高性,対外的には独立性を主張し,国内のさまざまな階級,さまざまな階層の特権を国家に統合しようとしたし,他の国家に対しては対等な存在として各自の国家理想を追求しようとする状況であった。その後18,19世紀を経て,西欧型国際体系は世界的に拡散され,さまざまな形態に変化し成長しながら現代に至った。
 16世紀から17世紀にわたって,ヨーロッパの中央主権国家の形成とその相互関係の展開とともに,主権や国際法の概念が次第に明瞭な輪郭を持つようになった。同時にこの時期における国家間の関係は,勢力均衡(balance of power) が原則であった。英国の歴史家H.バターフィールド(1900-79)は「勢力均衡は主権概念による近代国家が成長した産物である」と言った。
 勢力均衡の原理は強大国による弱小国の共同分割,あるいは植民地化の正当化としても援用された。勢力均衡政策は国際関係の変動の基礎を「力」にあるという国際関係観に置いているのである。
 特に欧米勢力が他の地域や国家に進出する場合,勢力均衡政策はそのまま植民地建設,帝国主義的な侵略の原理として適用されたことが歴史的な事実である。当時の西欧型国際秩序は<暴力の無限界的な行使>を認める国際法によって認められていた。
 欧米列強はヨーロッパ以外の地域に対して国家主義・国家平等をかかげながら,場合によっては平和的に,場合によっては武力行使による通商条約によって不平等条約を強要するとか,場合によっては侵略戦争を起こして植民地化を企てたりもした。国際秩序は暴力を許す国際法と「力」それ自体によって維持された。すなわち,国際社会の「力は正義」という原理が支配するようになったのである。19世紀後半はまた,帝国主義の絶頂期であった。欧米列強以外の国家である日本が,欧米諸国による分割,侵略を抜け出ることができたのは,帝国主義競争に参加したことを意味する。
 そうして日本は福沢諭吉が主張したような,<脱亜入欧>の立場に立って,侵略国家として英国と米国の「力」を背景に韓国に対する植民地化を推進して行くと同時に,中国など,アジア地域に対する侵略の道を進むようになった。

• 文明国,野蛮国,未開国
 西欧型国際秩序の原理をもとにした近代国際法,すなわち『万国公法』は,清国の同治3年(1864年),ウイリアム・マーチンがヘンリー・ホイートンの『国際法の原理』(Elements of International Law)を漢訳したものである。
 ホイートンは米国の国際法学者であり,マーチンの「凡例」と原著第8版の著者の紹介によれば,外交官として長い期間プロシアに赴任し,ヨーロッパ諸国をめぐり国際関係の見識が豊富であったという。
 原著は1838年にフィラデルフィアで刊行され,1848年にフランス語版が刊行され,著者が死んだ後にも英国と米国で増版された。また,翻訳者のマーチンは米国の長老教会の宣教師であり,1850年に清国に行って清国の外交を担当する総理衙門の同文館(外国語学校)で国際法を教えた。『万国公法』の翻訳,その他の物理,科学書として広く読まれるようになった『格物入門』(7巻,1868年)などの著書がある。
 もともとマーチンは清国にキリスト教を普及するために派遣された宣教師であった。しかし清国政府が宣教を許可しなかったので,『万国公法』の漢訳を通してアジアの漢字文化圏の三国である清国,朝鮮,日本を米国,ヨーロッパに連結させようとしたのであった。そうすれば早い時期に清国,朝鮮,日本がキリスト教国家に変わり得るのではないかと期待したのであった。
 マーチンの漢訳版は四冊本であり,北京の崇実館で発刊された。漢訳作業には何師孟,李大文,曹景栄ら中国人が協力して総理衙門の批閲を受け,清国政府の出資によって開板された。また,漢訳においては原著の条例はすべてが訳出されたが,具体的な事例を検討した結果,若干無駄な部分だけ削除したという。
 日本には漢訳版の刊行後すぐに長崎に輸入された。刊行された翌年の1865年には受容に合わせて開成所が返り点と振り仮名を付け加えてこれを覆刻したという。日本で覆刻された六冊本はあちこちでその残存を多く確認できるが,マーチンの漢訳版四冊本を見ることはごく少ない(日本の東北大学付属図書館の狩野文庫に四冊本が保存されている)。日本で全国に流布したのはこの開成所版によることが多い。
 日本招来の『万国公法』は中国では流布しなかったが,日本では輸入が需要に追い付けず,1865年に開成所の覆刻版が出版され,「経典のような権威をもって」広く普及した。

(1)『万国公法』の構成
漢訳版の構成の大きな枠はホイートンの原著とほぼ同じである。即ち,巻と章の区別は平時公法から戦時公法としての展開などすべて原著と同一である。節は原著が総数500を超えるのに対して,漢訳版は231と少ない。漢訳版が原著の節を合わせて具体的な事例に対する詳細な検討を省略しているからである。
 まず,第1巻 釈公法之義,明其本源,題其大旨(Definition, Sources, and Subjects of International Law)の第1章 釈義明源では主に「万国公法」(近代国際法)の形成過程を説明している。
 グロチウスを発端にした近代国際法の形成史は自然法学派(naturalists, 性法学学派)と実定法学派(positivists, 公法学派)に二分して説明される。
 登場する人はグロチウス(<虎哥>),プーフェンドロフ(<布番多>,自然法学派),バインケルスフーク(<賓克舎>,実定法学派)などであり,主権国家<自主の国>を基本的な前提とするヴァッテル(<発得耳>,グロチウス学派)によって近代国際法思想として確立する過程が詳細に説明されている。これは近代国際法形成史の伝統的な叙述であり,更に原著書のホイートンはヘフター(<海付達>)を最近のすぐれた国際法学者として紹介する。
 第10節では,近代国際法はヨーロッパのキリスト教諸国(<耶蘇を崇向し下に服する諸国>)の中で生じ,その当時トルコ,中国などはその中に包摂されていると認識している。
 次に,第2巻 論諸国自然之権(Absolute International Rights of States)第1章 論其自護・自主之権では国家の基本権(Absolute International Rights of States,<自然の権>)としていわゆる自存権を説明し,第2章 論制定律法之権では国家の自主自治権(Nations and Sovereign States)を説明し,第3章 論諸国平行之権では国家の平等権(Rights of Equality,<平行の権>)について説明している。国家代表者の公式訪問,国家代表者の国際会議での席順,外国軍艦の礼砲など,いわゆる国際儀礼(プロトコール)に対する説明である。
 この平等権思想も近代国際法が外交において,平等権の機能を強く主張し,現代国際法では国際機構の平等権として更に発展している。それ以前には国際会議での代表者の席順などは時には深刻な紛争を引き起こした。第3節に叙述されているように,1814~15年のウィーン会議でこの問題については,一旦解決されたのであった。
 そして,第4章 論各国掌物之権では,主に領海と公海(high sea<大海>)に対して論ずる。
 ただ近代国際法の特色として現代国際法では否定された法理である占有権(occupation),征服論を認めている(第5節,その他)。征服や発見,移民などによる領有を正当であるとする。また,取得時効の原則,漁業権,河岸使用権などを詳細に叙述している。
 領海10里の原則を「大概砲弾が及ぼすところは国権が及ぶ」(第6節)と説明しているのはいわゆる,当時のcannon shot理論である。
 次に,第3巻 論諸国平時往来之権(International Rights of States in their Pacific Relations)第1章 論通使之権では外交特権(Rights of Legation,<通使の権>)が説明される。
 外交特権は16世紀末から国際法学者の間で論議され始め,近代国際法の形成に大きく寄与した。この章の外交特権も不可侵権,治外法権,随員,家族の特権,特権の始期と終期,領事の特権などを言及するなど詳細に説明されている。
 第2章 論商議立約之権は条約に関する説明である。
 近代国際法では重要な批准という手続きの形成や条約の永続性が論議されている。ホイートンの原著はこの問題に対して具体的に叙述しているが,漢訳版はそれらを多少削除している。漢訳版で大きなスペースを占めるのは軍事同盟条約,特に防衛条約に関したものが第15節であり,それに対する具体的な例も詳しい。
 最後に,第4巻 論交戦条規(International Rights of States in their Hostile Relations) 第1章 論戦始では戦争開始の意義・手続き・効果を説明している。手続きというのは宣戦布告など,効果というのは通商関係,自国内の敵人及び敵の財産の取扱などである。
 第6節で「公法から見ても傾かず,またその曲直を変えないし,万一この国に何等の権(戦争権)を許せば必ずかの国にも何等の権を許すことを原則とする」という規定は18世紀以後,近世の正戦理論が否定されるのであり,無差別の戦争理論が形成されることを意味する。近代国際法は他の一方では戦争を肯定し合法化させたと評価される。
 第2章 論敵国交戦之国は交戦時の国際法に対する説明である。
 加害行為の制限,戦闘員と非戦闘員の区別,捕虜交換,陸戦と海戦での敵国財産の取り扱い,特に海上保護に対して原著は多くの節で極めて詳細に記述している。漢訳版では原著の膨大な具体的な例に伴う理論は若干省略されているが,基本的な事項を論じた節はそのまま翻訳されている。
 第3章 論戦時局外之権は局外中立(neutrality,<局外>)に対して論ずる。
 国外中立の定義,中立領域の不可侵,中立国の権利と義務,海上保護,戦時禁制品,封鎖などが叙述されている。局外中立が実定法上の制度として確立されたのは19世紀の近代国際法においてであるが,主権国家はすべて「自らを局外におき,そのこと(戦争)に関与しない」権利を持つと説明される(第3節)。
 「約款し局外の輩に敵貨を積むものを論ずる」(第23節)とする国際法上の複雑な問題に対して,漢訳版では具体的な例の検討は省略されているが,法理に関した部分が基本的な具体的な例はすべて翻訳されている。
 第4章 論和約章程は講和条約に対する説明である。定義,手続き,効果などが叙述される。第4節「各守所有」は占有地や保護財産などに対して特別な規定がなければ現有法によるという当時の国際法的な取扱に対する説明である。
 北京から導入された『万国公法』は幕末日本に広く流布した。

(2)文明国,野蛮国,未開国
近代国際法はヨーロッパで発達したのであり,ヨーロッパ文明を持つ国だけが文明国とみなされ,国際法上の主体として認められた。そして文明国即ち,主権国家(当時の表現として<自主の国>)は開拓,征服,割譲によって新しく領土を獲得する権利を持ちそれらを互いに承認し確定した。(表1)

 近代国際法,即ち<万国公法>は世界の国,地域を次のように三つに分類する。
• 「自主の国」=文明国
• 「半主の国」=半未開国
• 未開人(国)

国際法上①は完全な政治的な承認が付与され,②は部分的な政治的な承認が付与され,③は「自然の,または単純な人間としての承認」となる。
 ③はたとえそこに人間が生きており,独自的な国家が形成されているとしても国際法上は<無主の地>であるとみなし征服の対象になり,<先占の法理>によって①の文明国の中の先占(先占取得)した国の領土になる。
 ②の<半主の国>は<文明国>としての条件を持っていないが,③よりもはるかに強力な国家機構を持ち,またある程度の社会的な発展をなした国であり,文明国はいったん彼らの国を承認し一定した条約関係に入る。しかし,彼らの国の国内法を承認することではなく,自分の国の国民を保護するために領事裁判権制度を中心とする不平等条約を締結する。そしてこのような不平等条約を拒否する場合には武力に訴えることは正当,また一度締結された不平等条約が遵守されない場合もあり,同様である。
 第一に,<文明人>の国というのは当時の国際法=万国公法の中で「自立した国家あるいは政府」として完全に「承認」される国家である。
 もう少し具体的に国際法上互いに拘束力のある約束ができるという相手であり,外国人の生命,自由,財産を保護する。そのために文明国各国の国内法は相互承認される。
 第二に,<未開人>の国はたとえそこに人々が住み独自的な国をなしていても,国際法上では,<無主の地>であると言って,それを最初に占拠した<文明人>の国家の領土として取り扱われる<先占の法理>という原理が適用される地域である。即ち,文明国が未開国の領土を<無主の地>として獲得することは正当であるとしている。事実は,これら多くの地域は相次いで<文明国>の植民地に変わっていく。
 第三に,両者のいわゆる中間にある<野蛮人>の国である。
 <未開人>の国よりもはるかに進歩した文化と強力な国家を形成し,<無主の地>として取り扱うことができない。しかし,文明の段階にないために<文明人>の国から外交上の相手としてみなされるとしてもその政治的な承認は<部分的>なものに過ぎない。即ち,その国の国内法は不十分であるとして認定されない。<文明国>の国民の裁判などは到底まかすことができない。そこで領事裁判権などの不平等条約の対象となる。
 それは資本主義の世界市場をつくっていこうとする欧米の<文明国>において「国境を超越した人間,商品及び資本の移動」を可能にするための「最低限の秩序,予測可能性及び安定」の確保に必要であったからである。
 日本はペルシア,中国などのように<野蛮人>の国に含まれている。
 福沢諭吉は『掌中万国一覧』(1869年)で混沌,野蛮,未開,開化文明という四つに区分している。
 第一に,開化文明の民は米国,英国,フランス,ゲルマン(ドイツ)人たちである。
 第二に,未開の民は其民耕作のほうを知って若干,巧みに至り芸妓の道を理解し,人間に有効なことが多いし,村落をたて都府を開き,文学が非常に栄えるとしてもその人情は外国人を忌避し,婦人を軽蔑し,小弱を超える風がある。支那,土耳格,ペルシアが属する。
 第三に,野蛮の民は(蒙古),アラビア(亜刺尼亜),アフリカ(亜非利亜)北方の土人たちである。
 第四に,混沌の民はアフリカの中央ニューギニア及びオーストラリア(墺太利)の土民達である。
 この分類で福沢は,日本は言及していない。

Ⅲ.万国公法の受容と認識及びその適用

 19世紀の国際社会に仕方なく包摂された後発国である日本が国際社会に登場するためには,世界に似た国家を形成する必要があったし,「万国公法」に依拠する国際社会への登場が必須であると考えられた。国際社会で「万国公法」であるという国家間の規範に日本を便乗させることが重要な課題であった。
 旧韓末当時,清国と日本では『万国公法』を始めとして公法に関するさまざまな漢訳書が刊行された。朝鮮にも公法書を直接学んだとかあるいは間接的に知っていたと考えられる三つの部類があった。第一は,西洋人の宣教師と通交できた朝鮮のキリスト教徒であった。第二は,既に公法秩序に含まれていた日本との交易の窓口であった東莱港の官吏達がいた。第三は,朝鮮の開化派を育成させた朴珪壽(1807~1877)と彼の友人,弟子達であった。
 しかし上記のような三つの部類による万国公法受容の可能性は朝鮮の公法受容の契機になりえなかった。朝鮮での本格的な公法の受容がなされたのは開国以後であった。

1.日本における受容
近代国際法(国際公法)すなわち,<万国公法>の日本における受容は次のような三つの特徴的な過程を経た。
 第一は,ペリー以後の開国時,幕府の条約交渉を引き受けた人たちによる受容である。彼らは当初,「万国公法」に関した知識はほとんど皆無であった。しかし,条約交渉過程での実務を処理する過程でその法的知識を徐々に習得したのである。そしてそれが第二,第三の受容の大前提になった。
 ペリーの日本来航が主導したままになされたのは周知の通りである。ペリーが締結した,1854年3月の日米和親条約(そして追加条約としての下田協約)は先行条約として米国,清国間の望厦条約(1844年)をモデルとしたものであることからもわかるように,米国側は既に国際条約に関した知識を十分に持っていた。
 1856年4月に赴任したハリス総領事は下田協約を端緒に<和親>から<通商>への交渉を進める過程で,1857年11月6日,日本側の交渉委員が<万国之法>即ち,「万国公法」というのは,どのようなものであるかを交渉相手であるハリスに直接尋ねている。
 日本側の交渉委員達の発言には国際法に関したハリス側と日本側当事者との大きな差異点がよく現れていた。

 彼らの質問の主要な点は,外国に公使を派遣する目的,その職務,国際法に認められている公使の権限に関したものであった。これらのすべての質問に対して,私はできる限り明瞭に答えた。接待委員達はまた貿易に対して質問し,私が語る管理の仲介なしにされる貿易というのはいかなる意味を持つのであるかと質問した。これに関しても私は説明し,十分に彼らを満足させるのに成功した。彼らは,われわれ日本人はこの問題に完全に暗く子供のようなものであるために尊い我々は耐えなければならないと語った。そして私のすべての陳述にて全幅的に信頼すると付言した。

 これは国際法に関してすべての知識を吸収しようとする日本側の委員の積極的な姿とそれに対するハリス側の対応を表しているといえる。日本側の資料によれば,

・ミニストールを置くが,各国ではどのような式で取り扱っているのか。
・万国普通之法にしたがって取り扱っている。
・万国之法というのはいかなるものか。
・すべてのことを語れば大部分之書程があり,まず要点を簡単に語る。
・大法は国内法として拘束できないことを第一とする。
・ミニストールは国内法の管轄外であり,管内に外国人が入ってくることができないし,また家族までその国の国内法に拘束を受けない。
・住居などはある国に対しては狭小であるが,管内はすべてが自国のように用いるようになっている。

「万国之法というのはいかなるものであるか」すなわち,「万国公法」というのはいかなるものであるのかを交渉相手に直接尋ねているのは日本側の国際的な知識が皆無であったという事実を表している。
 その後を見ても国際法に関するさまざまな知識を米国側から得ていた。ハリス側も日本側に一定した知識を与えるために<覚書>を老中に提出した。このような実際の交渉過程は幕府側の国際法に関する知識水準を高めるのに大きな手助けになったし,またそれは直面している現実問題であったために幕府の国際法の基礎知識を着実に蓄積するようになった。
 第二に,マーチンの漢訳本の日本版による受容である。
この漢訳本は清国の人たちによるものであったために,その日本版による導入はヨーロッパにおける近代国際法が清国を通して日本に受容されたことを意味する。1867年3月,神奈川奉行の上申を見れば,領事裁判権に関する実際の運用に対して大目付・目付派と勘定奉行派という幕府の実力官僚層の内部で意見対立をしているほどに日本人の「万国公法」に対する理解の水準は高揚されていた。
 第三に,ヨーロッパにわたって行った日本人留学生による積極的受容である。
 幕府が留学生を派遣し,ヨーロッパの近代的な知識を積極的に受容したのは「万国公法」を日本人のものとするのに効果があった。その代表的な人物が1862年に幕府が派遣した和蘭留学生15人の中の一人,西周(西周助,1829~1897)であった。彼は津田真道(1829~1903)とともにライデン大学法学部教授のフィセリングから約2年間,法律学,経済学,哲学に関する講義を受け,1864年末に帰国し,翌1865年開成所教授になって,『万国公法』の翻訳に着手した。それが1868年,『万国公法』として刊行された。
 内には言論の自由と普通選挙制度の上に基づいた政党政治の樹立を主張し,外には,軍国主義的な侵略政策を攻撃し,青年知識人層に大きな影響を与え,官僚勢力の一大敵手になった民本主義者の吉野作造(1878~1933)は,「万国公法」受容方法の思想的,政治的な意味を次のように述べている。

 この『万国公法』も初めには単純に国際公法に関する本として取り扱われたが,それが明治に入ってまったく違った意味で扱われるようになった。それは鎖国攘夷の基地としての幕府を倒した明治新政府は元来,攘夷を実行するのに意図がなかったし,結局は天下を取るや外国と交通するようになったが,その豹変した態度を天下にどのように説明すれば良いのかあわてた。幕府に代わった新政府こそ真に攘夷を断行すると信じたが,その新政府が恥ずかしいことも知らずに外夷と交通することは何たることかと悲憤慷慨する者たちも多かった。(中略)そこで新政府は苦労した。その結果発見した一条の活路は,外夷は禽獣のようなものであると考えていたが,よく調べてみると,必ずしもそうではない。彼らは<宇内の公法>によって我々に接しようと我々に語っている。そうすればあえてこれを排斥しなければならないのではなく,我々もまた正義公道に接することが礼ではないのか,という道理であった。したがって結局,民間の不平を抑制するのに成功したが,そこで自ら<宇内の公法>という一つの形而上学的な規範が存在するような観念が生じたのである。そこでその当時の人に<公法>は正に<天道>というようなものであり,公法の本は一つの経典と同じであるとみなされたのである。公法や天道は儒学書でも教えるようになった。しかし,新しい時代に対応するためにはこれだけでは不足である。西洋で言う<公法>を知らなければならないというようになり,このように『万国公法』はその当時まさに宗教の経典のような権威をもって多くの人に読まれるようになったのである。

このような「万国公法」が受容される方法に対して次のように言及している。

法体系が全く異なった日本では当然変容して解釈され,儒教思想との関連で国際法が遵守される根拠が国際法それ自体と見る一部の人たちが現れたのである。すなわち,自然の理法,天理,公道という意識とローマ法やキリスト教と渾然一体をなす法として認識された。それ故に従来の通説的な認識とみなされた国際法はマーチンによって性法(自然法)として日本に導入したと断定するよりはむしろ日本の法意識(たとえば朱子学派の理論)と類似性を持つ自然法的な思想と極めて容易に結び付いたと考えられ,その原因があったと考えられる。

日本に最初に導入された国際法の体系的な解説書はマーチンの 漢訳版の『万国公法』であった。著者のホイートンによれば,国際法は国際社会の性質によって合理的に演繹された準則が見られるのであり,合意によって限定され,修正を加えるとしても自然法を否定するのではなかった。「万国公法」は後続の訳者によって徐々に形而上学的な規範を教えるものと解釈されて行った。
 このような認識を最も極端に表明したのが大国隆正『新真公法論』(1867年)であった。彼は儒教,仏教 を旧公法とし,西洋の国際法を新公法と定義し,真正な公法は,「天皇を地球上の総帝とする」という世界の公法を主張した。

2.朝鮮における受容
 1875年9月に,日本側の野欲によって起こった江華島事件を契機に朝鮮開国の交渉を推進した副大臣の井上馨(1835~1915)は,朝鮮側の代表の申ホン((木憲)1810~?)に次のような条約案を説明している。

 この条約は貴国も自主の国であり,日本国と同等な権利を持つために万国交際普通の礼に依拠し,天地の公道に従って調査したのはまず猜疑心を除外して考案されなければならない。

 交渉中,申ホンは,「我が国は従来貴国との交流があるだけである。外国と通商したことがないために万国交際の法も不案内である」と告白した。
 1876年2月,日本は朝鮮の万国公法に対する無知を利用し朝鮮を開国させた。朝鮮側の万国公法に関する理解が公的に現れたのは,条約締結直後,修信使として日本を訪問した金綺秀(1832~?)の復命記録『日東記游』を報告した時からであった。

 そのいわゆる万国公法というのは,諸国が盟約を結んだ春秋六国の連衡之法のようなものである。ある国が混乱に陥れば万国はこれを助け,ある国が過ちをすれば万国はこれを攻撃し愛憎や攻撃に傾かない。これは西洋人の法であり,必ず規律に従うためにあえて誤ることがない。

 上で見たように金綺秀は万国公法の<実定法的>な側面を詳細に把握できず,春秋大義による<自然法的>なものと理解していた。金綺秀が日本訪問から帰国した後,1876年 8月24日に,朝鮮は日本と条規付録と貿易規則を調印した。これを通して朝鮮は日本に治外法権と関税権を許し,不平等条約関係に入ってきた。
 朝鮮に『万国公法』などの公法の漢訳書が入ってきたという公式記録が現れたのは 1877年 17日頃である。
 万国公法と万国公法の秩序に対する朝鮮側の反応は大きく三つに分けられる。第一は,公法と公法秩序を排撃する人たちであり,第二に,公法と公法秩序に対する不信感を持ちながらも現実国際政治の武力に対処するために公法を受容し公法秩序に参加することを容認する人たちであり,第三に,公法の<実定法的>な側面と現実国際政治を理解した上で両側を導入して公法秩序に参加し近代国家建設を図る人たちであった。
(2014年1月30日)
プロフィール Yoo Jae-kon
京都大学法学部卒業,韓国精神文化研究院(現・韓国学中央研究院)韓国学大学院修了。文学博士。現在,鮮文大学校教授。専門は,近・現代日韓関係史。