北朝鮮の核・ミサイル開発
―過去・現在・未来

元原子力委員会委員長代理 遠藤哲也

<はじめに>

 北朝鮮の核開発が国際的に表面化してから四半世紀にもなる。ミサイルの開発はそれ以上である。この間北朝鮮は,地下核実験や弾道ミサイル発射実験などの核・ミサイル(両者は不可分である)を利用しての瀬戸際政策を駆使し,また必要に応じて対話政策を織り交ぜ国際社会をゆさぶって来た。
 国際社会は,国連安保理を通じ,六者協議を通じ,また二国間で北朝鮮の核・ミサイル開発を止めさせるためあの手この手を講じてきたが,未だ功を奏していない。北朝鮮の核・ミサイル開発の現状は,その性格上公開される部分が少なく,加えて北朝鮮の極端な閉鎖性の故によくわからないが,いずれにせよ時間とともに発展していくのは間違いないだろう。
 本稿は,北朝鮮の核開発の歴史をマクロ的に振りかえり,それを踏えて国際社会として,特に安全保障上最も影響を受ける国の一つである日本として如何に対応すべきかを考えてみたい。
 なお,本稿では「原子力」と「核」という言葉が混在して使われているが, 双方とも英語ではNuclear であり,日本語では平和利用は「原子力」,軍事利用では「核」が使われることが多い。だが,原子爆弾,原子力発電のための燃料は通常核燃料と呼ばれるように,この区別は必ずしもはっきりしたものではない。日本語の「核」と「原子力」の使い分けについてはあまり神経質になる必要がないように思う。

1.原子力(核)開発への取り組み

 北朝鮮の原子力(核)開発は,金日成,次いで金正日の圧倒的なイニシアティブによるとみられるが,1950 年代の開発の黎明期は極めて初歩的な段階であったから,民生用,軍事用を区別することなく一般的な原子力技術を習得することに精力が注がれたとみられる。
 北朝鮮は鉱物資源に恵まれている国で,石炭,鉄鉱,及び銅,亜鉛,黒鉛などの非鉄金属,マグネシウム,タングステン,モナザイトなどの希少鉱物を産出する。良質のウラン鉱山もある。しかし北朝鮮のエネルギー源は,国内で賄えるのは石炭,水力が主で石油は全量輸入である。
 ソ連崩壊前の標準的な年を例にとると,年間の原油需要は250 万トン位で,そのうち100 万トンずつをソ連と中国から友好価格で調達し,残りを中東から輸入していたと推測される。ソ連崩壊後はロシアからの輸入はほぼなくなり,近年は中東からの輸入も難しくなり,中国からの輸入に頼っているようだ。だが,輸入の量はかなり厳しいようだ。
 このようなエネルギー事情であるから,当初より北朝鮮が原子力発電に関心を抱くようになったのは,けだし当然と言える。加えて,北朝鮮には上述の通り,良質なウラン鉱がある。北朝鮮の原子力利用はソ連からの協力を軸として進められたが,その主な流れは次のとおりである。
(1)北朝鮮は1956 年にソ連と原子力研究協定を結び,人材育成のため,科学者,技術者を大量にソ連に留学させた。モスクワ大学,モスクワエネルギー研究所,バーマン高等技術学校,ドゥブナ合同原子核研究所などで研修を受けさせたほか,ソ連,東独,ブルガリアなど東欧共産圏諸国の原子力発電所でも研修を受けさせた。
(2)60 年代(1962 年頃)に,ピョンヤンの北90 キロほどの地点(寧辺)に原子力研究センターを建設し,ソ連はこれに対し65 年にIRT-2M と称される小型の研究炉と核燃料を提供し,この研究炉は67 年に運転を開始した。
(3)70 年代に入り,製錬,転換,燃料加工といった核燃料サイクルにも取り組むようになった。
(4)80 年代には,本格的な原子力発電のため,ソ連から加圧水型軽水炉VVER-440 タイプ4基の導入を計画した。このためソ連の強い勧奨により,85 年には核拡散防止条約(N PT)に加盟した。しかし,このプロジェクトはソ連崩壊,ソ連経済の破綻により“幻”に終わってしまった。

 ところで,北朝鮮の「原子力の父」は,李升基(イ・スンギ)と言われる。李博士は朝鮮南部の生まれで,戦前京都大学で工学博士号を取得し,京大で研究を続けていたが,終戦とともに韓国に帰り,ソウル大学の初代工学部長を務めた。朝鮮戦争勃発後間もなく,北朝鮮にわたり,金日成の親密な友人,側近となり科学顧問となった。60 年代には,寧辺に設立されたばかりの原子力研究センターの初代所長を務めた(李博士は,合成繊維ビナロンの発明者としても有名である)。草創期の北朝鮮の原子力開発の中核グループには朝鮮半島南部の出身の二人と北部出身の二人がいたといわれる。前者の二人は,戦前日本で物理と化学の教育を受け,後者の二人はモスクワ大学で核物理学を専攻している。これら第一世代の学者が種をまいた原子力開発を本格的に軌道に乗せたのは,ソ連に留学した第二世代の学者であった。
 それでは,当時の北朝鮮は原子力の軍事利用をどのように考えていたのだろうか。金日成は,広島,長崎の惨禍を通じて原子爆弾の巨大な威力を十分に知っていたはずだし,特に朝鮮戦争を通じて米国要人の言動から米国が原子爆弾使用を現実に考えていたことを肌で感じていたに違いない。北朝鮮としても核兵器の入手を考えたわけだが,盟邦ソ連は北朝鮮への原子力協力が民生用に限定されるとの立場を固持し,前述の小型研究炉供与に際してもIAEA の保障措置(INFCIRC-66 タイプ)がかかることを求めたし,本格的な協力についてはNPT 加盟を求めたのであった。今一つの盟邦である中国については,中国が1964 年に初めての原爆実験を行った直後から支援を要請したが,毛沢東自身,北朝鮮は小国で核兵器など必要でないと断った由である。
 当時の北朝鮮は,軍事利用を望みはしてもソ連と中国からの協力が得られない以上,現実には自力では不可能で,とりあえずは基礎的な研究を指向したものと思われる。ちなみに,原子力の平和利用と軍事利用は同じコインの裏表であり北朝鮮はこの事を十分に認識していたのではないか。

2.核兵器への道

 北朝鮮の原子力開発は,上述のとおり当初は基礎的な面に力を注いでいたが,1970 年代半ば頃と思われるが,軍事利用にウエイトをかけるようになった。軍事利用については,ソ連からも中国からも協力が得られない以上,やるとすればあらゆる手段を使って独力でやるしか方法がない。
 北朝鮮は何故核兵器開発にひかれたのだろうか。その背景の一つは,北朝鮮経済は70 年代までは韓国を凌駕していたのに70 年代後半以降低迷し始め,他方韓国経済は高度成長軌道に乗ったため南北の経済格差が次第に大きくなり,ミリタリー・バランスも不利になって来たことがあげられる(1990 年代以降は中露の軍事的な後楯もなくなった)。このような劣勢を挽回するため,切り札ともいわれる核とミサイルにひかれるようになったのではないかと思われる。
 今一つは,韓国の動きも北朝鮮を刺激したと思われる。朴正煕大統領は在韓米軍撤退の動きもにらみ,核兵器開発を考えたようである。プルトニウムを抽出するための再処理施設を仏からの導入を図ろうとしたが,核拡散をおそれる米国の強い圧力を受け,78 年には導入をあきらめざるを得なかった。この韓国の動きは,逐一北朝鮮の知るところとなったであろう。また,1994 年のインドの核実験も何らかの影響を与えたのではなかろうか。

(1)プルトニウム型原爆とウラン型原爆
 核弾頭を作るには,使用済み燃料を再処理してプルトニウムを抽出する方法と,ウランを高濃縮化する方法がある。この二つの方法には一長一短がある。前者は使用済み燃料を小さく切って硝酸で溶かしプルトニウムを分離するという比較的単純な化学処理である。それが大変な作業になるのは放射線による被曝を避けるため安全面に配慮を払うためで,安全をほどほどにすればそれ程難しいことではない。しかも,プルトニウムの場合は少量でも臨界に達するので,弾頭を小型化してミサイルに搭載することが容易である。ただ,どうやって爆発させるかで,その爆発方法は爆縮法と言いなかなか難しい。核実験をしてみないと狙い通りの爆発エネルギーが得られるか確証が得られない。ちなみに,長崎に投下された原爆はこのプルトニウム型であり,投下に先立って米国はニューメキシコの砂漠で実験を行っている。
 他方,ウラン爆弾の方は,超高速で回転する遠心分離機をカスケードに並べるというウラン濃縮による方法で,技術的にかなり厄介である。だが,ちなみに広島に投下された原爆はこのウラン型であり,事前に爆発実験は行なわれていない。
 また,プルトニウム抽出の方は大きな場所が必要であるのに対して,ウラン濃縮は広い場所を必要とせず,容易に地下にでも建設できる。プルトニウム抽出の際には,クリプトンなどの放射性物質が空中に放出されるので,外部から探知されやすいのに比べて濃縮の方は何も放出されないので,探知が難しい。北朝鮮の濃縮疑惑に対して濃縮場所が特定できていないのもこの故である。
 核弾頭構造上,上記二つの方法のうち,いずれを選ぶかは各国それぞれの事情によるので,例えば,インドはプルトニウムを,パキスタンはウランの方法を選んだ。もっとも,これは当初の段階であって,やがては双方を追求するようになる。北朝鮮は当初はプルトニウムの道を選択したが,追ってパキスタンのA.Q.カーン博士の協力を得て濃縮の道も追求するようになった。

(2)プルトニウム生産炉と再処理施設の建設
 北朝鮮は70 年代の終わり頃から80 年代にかけて,寧辺の原子力研究センターに自力で5 メガワットの小型炉の建設を始め,86 年から運転を開始したものとみられる。この小型炉は燃料として国産の天然ウランを使い,炭酸ガス冷却,黒鉛減速で,英国のコールダー・ホール型の原子炉とよく似ている。従って,日本原子力発電の東海1号炉(目下廃炉中)にも似ている。この炉には,冷却塔(2008年6 月に破壊されたままである)もあり,一応発電もできるようになっているが,外部への送電線もなく,このタイプの炉は純度の高いプルトニウム(兵器級プルトニウム)を生産するのに適しているので,発電炉というよりはプルトニウム生産炉として作られたとみられる。
 また,北朝鮮は80 年代の中頃から放射化学研究所(Radio-Chemistry Research Institute)と称される再処理施設の建設にとりかかった。まだ原子力発電所がほとんど稼働しておらず,本格的な核燃料サイクル計画も存在しない北朝鮮にとって,大規模な再処理施設は,核兵器用プルトニウム抽出としか考えようがない。このように,兵器級プルトニウム生産に適した原子炉と再処理施設の建設は,北朝鮮が核の軍事利用に向かったことを示している。
 更に後述するように,北朝鮮はウラン濃縮にも乗り出した。これで北朝鮮は核軍事利用がすべて揃ったことになる。

(3)NPT との関係
 北朝鮮が,1965 年にソ連(当時)からIRT-2M なる研究炉を導入した時に,前述の通り,ソ連側の要求によってこの炉に対しINFCIRC-66 と呼ばれるIAEAの部分査察を受け入れ,1967 年以降IAEA の査察官が定期的に寧辺を訪れている。だが,寧辺への立入りは夜間に限られ,滞在はこの炉の所在するサイトにだけ許され,自力建設中の小型炉や再処理施設については,北朝鮮側は黙して一切語らなかった。
 しかしながら,次第に国際社会から北朝鮮の核疑惑に対する声が出始めた。そうこうしているうちに,米国の衛星写真などで再処理施設らしい建物の存在が浮び上り,北朝鮮は85 年にN PT に加盟しているのに,原子力施設の申告もしなければ,全面査察(INFCIRC-153)も受けないのはNPT の義務違反であるとの声がIAEA 理事会などで大きくなってきた。筆者は,当時IA EA 理事会の理事,理事会議長(89-90 年)を務めていたので,この時の模様を今でも鮮明に記憶している。
 こうした指摘に対し北朝鮮は少しずつ譲歩するという「サラミ戦術」を取り,92 年1 月になってようやくIAEA との保障措置協定に調印し,4 月になって批准の手続きを済ませ,名実ともにNPT の正式な一員になったが,NPT 加盟から実に6 年以上が過ぎていた。ちなみにN PT(第3 条)によれば,非核加盟国は加盟後18 カ月以内にIAEA との間で保障措置協定を結び,自国内のすべての原子力活動をIAEAに申告し査察を受けることが義務付けられている。
 これは単純明快な技術的規定であって,別途の解釈のしようがない。だが,北朝鮮は米国の戦術核兵器が韓国に配備されていて,核の脅威にさらされているなど,条約上は理由にならない政治論を展開して事態の引き延ばしをはかった。
 この間,北朝鮮の代表,陳忠国・巡回大使がIAEA 理事会での筆者の発言に反発して理事会から退場してしまった。陳大使は「遠藤発言は,挑発行為であり,国家主権の侵害」などと報道陣に述べたそうである。しかし,他方,筆者は陳大使の求めに応じて二人きりで会談し,仕事の話のほか,同大使の日本留学の話も含め,四方山話を日本語で行なったなどのエピソードもあった。外交の裏表である。

3.核危機の到来

(1)第一の核危機(1992-94 年)

1)IAEA との衝突とNPT 脱退通告
 保障措置協定がようやく締結されると,それに基づいて締約国は自国の原子力活動をIAEA に申告する,いわゆる「冒頭報告」を提出し,IAEA はその報告が正しいかどうかの在庫照会ともいうべき「特定査察」を行う。
 北朝鮮の場合も,それに従って手続きが進められ,1992 年5 月から特定査察が始まったが,査察が進むにつれて北朝鮮が冒頭報告したプルトニウムの量と組成がIAEA が現地で実際に確認した結果と食い違い,IAEA の言葉で言えば「重大な不一致」が生じた。さらにサイト内に核廃棄物貯蔵庫とおぼしき施設が発見されたので,IAEA は北朝鮮に対して説明を求めるとともに,この二つの施設への立ち入り調査を求めた。核廃棄物を調べれば,プルトニウムの量と組成について疑問を解く手がかりになると考えたからであった。しかし北朝鮮は,これらの施設は原子力活動とは全く関係のない軍事施設であると抗弁して査察を拒否し,逆に米国に振り回されるIAEA は不公平であるとの批判を展開した。これがやがて1994 年6 月のIAEA からの脱退につながってゆく(北朝鮮は現在もIAEA に戻っていない)。
 ちなみに軍事施設はIAEA の査察外であるとする北朝鮮の主張は,NPT の非核兵器国に関する限りあてはまらないというのが,IAEA 事務局法律部の解釈であった。なお,同様の問題は最近のイランについても生じている。
 これに対して,IAEA はIAEA に未申告の施設であっても事務局長及び理事会が必要と判断すれば特別査察を実施できるという92 年のIAEA 理事会決議に基づいて,93 年1 月に施設に対して特別査察を要求した。北朝鮮はこれを拒否し,さらに3 月12 日に国の最高利益を守るための措置としてN PT 第10条の規定によりNPT からの脱退の意思を表明した。

2)米朝交渉と「枠組み合意」の成立,KEDO の発足
 N PT 第10 条によれば,脱退はその通告から3 カ月後に効力を発生する。これは,70 年にN PT が発足してから初めてのケースであり,しかも95 年にはN PT の運用検討会議が予定され,条約の延長問題がとりあげられることになっており,国際社会は北朝鮮に対して脱退通告の撤回を求めた。これに対し,北朝鮮は従来からの持論である核問題は米国との二国間交渉によってのみ解決できるとの主張を繰り返し,米朝直接交渉を求めるキャンペーンを執拗に展開した。米国は二国間交渉には乗り気でなかったが,時間の切迫もあり止むを得ず直接交渉に応じ,北朝鮮は脱退通告が効力を生ずる日の前日の1993 年6 月11日に,N PT 脱退の通告を「中断」することを「自主的」に決定したと発表した。このようにして,波乱はとりあえず収束したが,北朝鮮はこれは「中断」であって脱退通告の撤回ではなく北朝鮮はN PT に対して「特殊な立場」にあるとの主張を始めた。北朝鮮一流の特殊な解釈であった。
 かくして,北朝鮮のN P Tからの脱退は何とか回避されたものの,-件落着というわけにはいかなかった。引き続いて行われた米朝直接交渉で,北朝鮮はN PTに対して今や通常の加盟国とは異なり「特殊な立場」にあるのだからIAEA の査察を全面的に受け入れる義務はないと執拗に主張し,交渉は難航した。94年5 月には原子炉から使用済み燃料棒を一方的に引き抜くという証拠隠滅ともいうべき暴挙に出た。
 他方,米側においては寧辺のピンポイント攻撃とか,安保理における経済制裁決議などが検討され始め,朝鮮半島は非常な緊張に包まれた(第一の核危機)。
 しかし,北朝鮮は強硬な対決姿勢ばかりを取ったわけではなく,対話姿勢も巧みに織り交ぜて来た。まさに巧みな“瀬戸際外交戦術”であった。94 年6 月にカーター元米大統領が訪朝し,金日成主席(当時)との会談が行なわれ,これによって状況は一転し,武力衝突の可能性は後退した。その直後の7月に金日成は死去したが,米朝交渉は再開され,94年10 月の米朝の「枠組み合意」が調印された。
 これを受けて日米韓三国は,北朝鮮がプルトニウムによる核兵器開発を凍結するのと引き換えに,北朝鮮に100 万キロワット級の軽水炉二基建設し,それが完成するまでの間,年間50 万トンの重油を無償で供給するための国際コンソーシアムを設立するべく交渉を開始し,95 年3 月に朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が発足した。
 枠組み合意及びKEDO については,米側の譲歩し過ぎ等との批判があったものの,あの時点で事態を収め得るその他の現実的な方法があったであろうか。日本政府代表としてKEDO の設立に直接関連した筆者は今でもそのように思っている。

(2)第二の核危機(2002 年~現在)

1)再燃した核開発問題
 「枠組み合意」とKEDO によって,北朝鮮のプルトニウム生産はとりあえず押えられたものの,その後も北朝鮮の核開発のうわさは絶えず,すっきり「白」とはゆかずに推移した。
 そのような状況の中,2002 年10 月に北朝鮮の高官が訪朝中のケリー米国務次官補に対し,ウラン濃縮の存在を認めたことは国際社会に大きな衝撃を与えた。その後北朝鮮はウラン濃縮を表明したことはないと前言を撤回し,公にはウラン濃縮を否定した。その一方で核兵器開発自体は米国に対する抑止力として認めるようになり,ある意味で開き直ったと言うべきであろう。
 このウラン濃縮計画の露呈により,日米韓を先頭に国際社会は反発し,中露もある程度国際非難の一翼に加わった。KEDO の進捗も大きく影響を受けた。これに対し,北朝鮮は米朝枠組み合意で約束した核関連施設の凍結を解除,IAEA の封印を除去し,監視カメラの撮影を妨害し,常駐していたIAEA の査察官を追放,さらに2003 年1 月にはNPTからの脱退を表明した。KEDO も2005 年9 月には正式に崩壊した。
 第二の核危機の発端はウラン濃縮だが,ウラン濃縮はN PTとそれに伴う保障措置協定に違反し,南北非核化共同宣言にも背馳する(枠組み合意は,文言上はウラン濃縮に明示的に言及していない)にもかかわらず,ウラン濃縮に手を出したのは90 年代初め頃ではなかったかと推測するが,何故これに着手したのだろうか。
 一つには,「枠組み合意」によってプルトニウムによる核兵器開発が制約を受けた北朝鮮として,今一つの核開発の手段であるウラン濃縮に手をつけたこと,ウラン濃縮の方は露見した場合でも民生用の原子力発電のためと開き直ることが出来ること,既述のとおり場所の秘匿が易しいことなどがあげられよう。

2)六者協議の開始と漂流
 一段と深刻さを増した第二の核危機に対して,米国(当時はブッシュ政権)は,北朝鮮とは直接交渉しないとの方針をとり,主要関係国を含む多国間で話合うとの方法を選んだ。これは,クリントン政権が米朝二国間交渉で決めた「枠組み合意」が北朝鮮のウラン濃縮によって一方的に破られたとの苦い経験が背景にあったのではないかと思われる。
 米,中,露,日,韓,北朝鮮からなる六者協議は,2003 年8 月に中国を議長として北京で始まり,中断,休会を繰り返しつつ文字通り紆余曲折を経ながら,10 年以上が過ぎている。もっとも2008 年12月に第6 回六者協議が中断してからは協議はすでに5 年以上も開かれていない。この間の特筆すべき出来事は時系列的に次のとおりであった。
< 2005 年9 月19 日の共同声明>
 この共同声明は,北朝鮮の非核化の大筋を決めたもので,一見前向きとみられるが,総論についての合意で,具体的な措置について順序立てて整理されているものでなく,甚だあいまいなものである。たとえば,北朝鮮は「すべての核兵器および現有の核計画を放棄する」と約束しているが,すべての核兵器,既存の核計画とは何か,民生用の計画も含まれるのか,ウラン濃縮は放棄の対象となるのかなどには全く踏み込んでいない。極めて重要な検証問題についても,具体論は先送りである。その後,共同声明の実施について,段階を第一,二,三の三つに分けてとるべき措置を合意したが,非核化において肝心な第二段階の原子炉の無力化や核計画の申告については甚だあいまいであった。いずれにせよ,北朝鮮は現在,共同声明を“死滅した”としている。
< 2005 年9 月~ 2007 年3 月>
 米国政府がマカオの銀行(バンコ・デルタ・アジア)をマネー・ロンダリング疑惑の金融機関に指定した金融制裁。
 米国政府は,北朝鮮の三大違法ビジネスといわれる麻薬,偽札,偽タバコを追及し,それから生じる資金の洗浄(マネー・ロンダリング)の摘発に全力をあげていたが,その一つとしてマカオの「バンコ・デルタ・アジア」をつきとめ,マネー・ロンダリング疑惑金融機関に指定し,同銀行の北朝鮮の口座を凍結した。金額自体はそれほど大きくなかったが,米国の金融制裁は世界中の金融界に北朝鮮との取引に対する不信感を呼び起こし,北朝鮮の外貨取引に深刻な影響を与え,特に北朝鮮の権力の中枢部に大きな衝撃を与えた。北朝鮮は,米国に対してこの解除を執拗に繰り返し求め,結局米朝間の協議を通じて妥協的な解決が図られた。
< 2008 年10月>
 米国が北朝鮮を「テロ支援国家」から指定を解除。
 米国のテロ支援国家指定は,北朝鮮にとって国家としての威信上不名誉なばかりでなく,このため世界銀行,アジア開発銀行などの国際金融機関へのアクセスを拒否されていることからも実際上の問題があり,指定解除を強く求めていた。これに対し,米国は核計画の検証手段に関して口頭合意が成立したことをもって,日本の反対にもかかわらず解除に踏切った。結局この米朝間の口頭合意は六者協議で文書化できず宙に浮いてしまい,指定解除は,米国の詰めの甘さを示すものであり,時期尚早であったとしか言いようがない。
<北朝鮮の度々のミサイル発射>
<地下核実験3回(2006年10月,09年5月,13年2月)>
<国連安保理による対北朝鮮制裁決議>
 北朝鮮の弾道ミサイルは次第に距離も伸び,命中精度も向上してきているとみられ,2012 年12 月には小型の人工衛星を地球周回軌道に投入することに成功している。他方,核実験の方は,初めの2 回はプルトニウム型の爆発であったと推測され,特に第1 回目の実験は不成功ではなかったかとの見方が強い。3 回目は,今のところ放射能も検出されておらず,プルトニウム型の爆発かウラン型かわからない。

3)六者協議の評価
 政治,外交は結果責任である。この観点からするとすでに10 年も経過し,2008 年12 月から1 回も会議が開かれていない六者協議はまさに“漂流状態”にある。寧辺の原子炉や再処理施設は再稼働しようとしているし,プルトニウムは増え,少なくとも数個の核弾頭には十分な量になっているのではないかと思われるし,ウラン濃縮の場所は特定化されず,核計画の全貌も全く明らかでない。核実験はすでに3回も行われているし,ミサイルの発射も繰り返されている。事態は以前より悪くなっていて,六者協議は失敗であったといわないまでも,うまくいっていない。
 その最大の原因は北朝鮮にある。北朝鮮は非核化に口先では同意しているものの(2005 年9 月の六者協議の共同声明),核カードとして,これまで存分に効力を発揮してきた「虎の子」をそうやすやすと手放す筈がない。放棄したふりをして,何らかの形で温存するか,瀬戸際政策を巧妙に行使しつつ,経済的譲歩を引き出すための時間稼ぎをしている。繰り返し核実験を実施し,自称「核兵器保有国」となった現在,核の放棄はますます難しくなってきている。「六者協議からの離脱」とか「六者協議の非核化共同声明は死んだ」との北朝鮮の表明は,いつものように必ずしも額面通り受け取る必要はないかもしれないが,これまでの行動と合わせ北朝鮮の態度を示唆していると思われる。
 だが,六者協議の五者側にも少なからず問題があった。韓国の金大中,盧武鉉と二代にわたった対北朝鮮宥和政策,日韓間の軋轢,米韓関係もしっくりしていなかった。現在は韓国は中国へ前のめりになってきているような気がする。中国については,安保理での審議や決議の採択,執行などにおいて北朝鮮に対して,概して微温的な態度をとってきた。
 六者協議の主役である米国にも問題があった。一貫しない態度,北朝鮮の圧力に押されての度々の譲歩などである。例えば,核計画の「完全」かつ「正確」な申告を求めていたのだが,次第にトーンダウンして来たり,マカオの銀行にあった北朝鮮関連の口座の無原則な凍結解除など,目先の成果を優先して前のめりの姿勢があげられる。また,米国の交渉代表は北朝鮮のしたたかな外交テクニックを知らないはずがないのに,玉虫色や抜け道の多い合意を結ぶなど多くの疑問が残る。日本については残念ながら六者協議の端役だが,拉致問題だけにとらわれて核問題には真剣でないとの批判がないわけではなかった。
 このような状況であるから,六者協議がうまくゆくはずはなく,“漂流状態”にあるのもいわば当然かもしれない。しかし,そうはいうものの,六者協議はこれを続ける意味はある。何よりも,北朝鮮に対して最も影響力を持つ中国が熱心な議長であること,北朝鮮を巡る主要関係国が全て顔を揃えていることである。また,北朝鮮との数少ない対話の場でもある。特に日本にとってはそうである。北朝鮮に対して非核化を迫る「テコ」になるし,少なくとも北朝鮮の核開発を幾分かは牽制しうることなどを考えると,六者協議に過大な期待をかけるべきではないとしても,これをやめる必要は全くない。但し,六者協議を再開するだけのために,北朝鮮に代償を与えるようなことはすべきでなかろう。

4.ミサイル開発

(1)北朝鮮のミサイル開発の現状

 核弾頭の運搬手段としては,地上発射のミサイル,潜水艦発射のミサイルと爆撃機の三つがあるが,北朝鮮については第一が現実的な方法である。従って,北朝鮮の核開発を論じる時は,不可分のものとしてミサイル問題を取り上げなければならない。
 北朝鮮のミサイル問題は,ミサイルに搭載可能な核弾頭の小型化,軽量化とともに,ミサイルの長射程化,高精度化,テロリストを含む第三国への密輸のおそれが現在の国際社会にとって大きな懸念の一つである。
 北朝鮮のミサイル開発は,1960 年代までさかのぼる。当初は,旧ソ連,中国からの技術供与を受けていたが,北朝鮮はこれらのロケットを分解,研究,再組立てするというリバース・エンジニアリングによって技術力を習得し,1970 年代には初歩的なロケット・エンジンの製造技術を確立した。短距離弾道ミサイルのソ連型スカッドB はエジプト経由で入手したといわれ,リバース・エンジニアリングによって1980 年代前半には独自生産に成功しスカッドの配備を始めた。独自といっても,部品や機材は日本や中国など諸外国から調達していた。スカッドB は射程距離が約300 キロで,韓国全域を射程に収めており,すでに数百基(約600 基と推定される)が配備されている。北朝鮮はこのスカッドB をベースにスカッド(C 射程約500 キロ),スカッド(D 射程約700 キロ)とスカッドミサイルの改良を重ねている。
 さらに北朝鮮はスカッドをベースにノドンを独自に開発し,1998年には日本海中部に向って発射した。ノドンは,液体燃料,移動式の準中距離弾道ミサイルで,射程距離は1,300 キロであるから,日本全域が射程に含まれ,発射後約10 分で日本に到達する。北朝鮮は,200 基程度を配備しているとみられる。
 ノドンは単段式ミサイルだが,北朝鮮は一段目をノドン,二段目をスカッドにした二段式の中距離弾道ミサイルのテポドン1(射程距離約2,500 キロ)を開発し,1998 年に発射実験を実施している。この実験は日本列島の上空を越えて-部が三陸沖の太平洋に落下している。さらに,北朝鮮はハワイやアラスカを射程に収め得るテポドン2(射程距離6,000キロ以上,1 万キロ位と推定)長距離弾道ミサイルを開発した。一段目は新型ブースター,二段目はノドンの組み合せである。テポドン2 の第一回の実験は2006 年に実施されたが,結果は失敗に終わっている。北朝鮮は,さらに米国本土全域に到達可能なテポドン2 改良型の開発を続け,2009 年には人工衛星打上げ用と称する発射実験を行った。
 この実験は人工衛星打ち上げには失敗したが,発射物体は東北地方上空を通過し,太平洋に落下しておりある程度は成功かとも見られる。テポドン2 改良型の実験はその後も失敗を繰り返したが,2012 年12 月には人工衛星を一応地球周回軌道に打上げることに成功している。北朝鮮のミサイル開発は着実に進歩しており,米国の「国家情報見積り」(NIE) によれば,2015 年頃までに米国本土に到達可能な大陸間弾道ミサイル(ICBN)開発の公算が高いと予測されている。そうなると,核弾頭の軽量化,小型化,弾頭の大気圏再突入時に発生する6,000~ 7,000 度の高熱に耐え抜く技術の開発が問題となってくる。
 最近,北朝鮮のミサイル・ムスダンが話題にのぼっている。北朝鮮は未だこのミサイルを実際に発射したことがないので,射程や性能は明らかになっていないが,外見は1960 年代にソ連が保有していた潜水艦発射ミサイルSS-N-6 に酷似していて,陸上移動式のミサイルである。SS-N-6 の技術を入手したのではないかとみられている。射程距離はノドンの2 倍以上,従って3,000 キロを越えるようだ。
 また,「K N-08」と呼ばれる新しいミサイルが登場している。このミサイルは,2012 年4 月15 日の金日成誕生百周年慶祝閲兵式で公開された。北朝鮮はこれをICBM としているが,発射実験が行われていないので,どのくらいの射程距離か分からない。
 今一つ,北朝鮮のミサイルが国際社会にとって脅威なのは,北朝鮮にとっては外貨獲得の手段だが,外国への輸出である。エジプト,イラン,シリア,リビア,パキスタン,イエメンなどが輸出先としてうわさされている。特に,イランとの関係は密接で,イランのミサイル「シャハブ」はスカッドB 及びノドンの改良型と見られる。また,パキスタンについては,A.Q.カーン博士の核の闇市場を通じて,ウランの濃縮技術を受けるかたわら,ミサイル(ノドン)の輸出を行っているようだ。ちなみに,パキスタンの「ガウリ」と呼ばれる射程1,300 キロの中距離弾道ミサ
イルはノドンの派生型とみられる。

(2)北朝鮮のミサイル開発に対する国際社会の反応

 核兵器,化学兵器,生物兵器といった大量破壊兵器(W M D)については,程度の差はあるがこれを規制する国際法規範があるが,ミサイルについての国際法規範は非常に不十分である。簡単に言えば,ミサイル技術の開発もミサイル技術の移転も国家が行う限り,また移転の相手が国家である限り,つまりテロリストが関係しない限り,国際法上一般的に禁じられた行為ではない。弾道ミサイルの開発,取得,移転,配備を規制する一般国際法は存在しないからである。
 しかしながら,イラン・イラク戦争の際にスカッド・ミサイルの応酬が行われたことを契機にG7 を原加盟国として1987 年に発足したミサイル技術管理レジーム(MTCR)は,ミサイル技術の供給サイドから技術の拡散を防止するため輸出管理を行っている。しかし,北朝鮮のように,MTCR の非加盟国から第三世界へのミサイルの拡散が目立つようになって来た。
 このような中で,1991 年の湾岸戦争を契機としてMTCR の非参加国も含めた国際行動規範の成立が求められるに至った。このようにして2002 年に弾道ミサイルの拡散を阻止するためのハーグ行動規範(HCOC)が成立した。これが現状では唯一の国際規範であるが,これは国家間の紳士協定で国際法上の法的拘束力があるわけではない。
 HTCR に参加しようと,HCOC に加盟しようと,ミサイル開発自体は国際的に禁じられておらず,せいぜいミサイルの関連技術の第三国への移転に際してのみ,厳しい自制と慎重な判断が求められているに過ぎない。ミサイルについては,これまでも様々な議論が行われているものの,各国の安全保障上の利害が複雑に絡みあって,これまでのところ具体的な話合いは進んでいない。
 さらに問題をややこしくするのが,一部の技術を除き,弾道ミサイル開発と,宇宙ロケット開発,人工衛星打上げとは,ほとんど同じ技術開発のプロセスだということである。従って,平和目的の人工衛星の打上げのためのロケット開発が,軍事目的のミサイル開発を隠蔽するカバーとなりうる。
 それでは北朝鮮のミサイル開発の動きに対し,国際社会はどのように対応しているのか。前述のとおり,ミサイル開発と発射に関する一般的な国際法規はないが,北朝鮮については国連安保理の決議が存在する。強制力を持つ安保理決議は,北朝鮮に対し弾道ミサイルに関連するすべての活動の停止を求め,ミサイルの発射のモラトリアムも求めている。また,北朝鮮への及び北朝鮮からのミサイル関連物質,技術の移転を禁じている。
 これに対し,北朝鮮は平和目的の人工衛星の打ち上げを含むロケットの発射は宇宙の平和利用の権利として認められていると主張しているが,仮に人工衛星という名目であっても,すべての弾道ミサイルの停止を求める安保理決議に違反するものである。だが,最近北朝鮮がこの事についても次第に開き直って来ており,大陸間弾道ミサイルの発射も自衛措置としてならば可能との主張をはじめ,ミサイル発射に関し仮面を脱ぎ捨ててきたと思われる。

5.核・ミサイル開発の見通しと対応

 北朝鮮は,1950 年代に原子力に関心を抱いてから,半世紀以上着々と開発を進め,1970 年代からはもっぱら軍事利用に重点を置いて来た。その結果,再処理,プルトニウムの抽出,再三の核実験,ウラン濃縮にともかく成功し,今や事実上の核兵器保有国になった。運搬手段のミサイルについても,早くから開発をはじめ,進歩著しく,未だ米国本土に届くには至っていないが,それも時間の問題である。核弾頭の軽量化,小型化への努力とあわせ北朝鮮の核武装化は目を見張るものがある。
 北朝鮮は経済的にも大きな負担がかかり,国際社会からも反対される核に何故固執するのだろうか。北朝鮮は少なくとも公式には,かつ条件付ながら非核化を唱えているが,本当に核を放棄するつもりがあるのだろうか。我々はこの問題に如何に対応してゆくべきか。

(1)北朝鮮は何故核に固執するのか

 北朝鮮の核開発の目的には,次のような軍事的動機と政治・外交的動機が入り交じっているのではないかと考えられる。
 一つ目は,南北の通常戦力のバランスが次第に北に不利な傾向にあり,この劣勢を挽回する手段として,核・ミサイルは有効な手段である。北の主導による南北の統一は,北の最大の国家目標であり,このためには南に対する軍事力の優位が不可欠である。
 二つ目は,対米抑止の手段である。米国本土への攻撃には今少し時間がかかるとしても,在韓,在日米軍,米国の同盟国である日本と韓国をいわば人質にとっている。北朝鮮にとって,イラク戦争でのイラクの完敗とフセイン政権のあっけない崩壊,リビアのカダフィ政権の崩壊は非常な衝撃であったと思われ,核の必要性を痛感したかもしれない。
 三つ目は,核のない北朝鮮はアジアの最貧国の一つであり,「破綻国家」に過ぎない。このような国が,「枠組み合意」において,あるいは六者協議において米国をはじめ世界の大国とわたりあえるのは正に「核」の力である。このことを北朝鮮はよく知っている。
 四つ目は,体制維持のためである。特異な世襲体制を維持するためには,軍の支持が必要不可欠であり,先軍政治,核武装などによって軍の支持を固める必要がある。特に金正恩のように経験に乏しく若い指導者にとってはそうであるかもしれない。
 今一つは,核及びミサイルの輸出による外貨稼ぎである。ミサイルについては,これまでも相当の実績をあげてきたが,今後は核についてもそのおそれがないとは言えない。他方,近年国連安保理決議等によって核・ミサイル関連の輸出入が厳しく制限されるようになり,また,PSI(ProliferationSecurity Initiative)によって輸送に対する監視が強化されているので,次第に難しくはなっている。
 このように,北朝鮮なりに核・ミサイル開発のレゾン・デートルがある。この点,北朝鮮の立場に立って国際情勢を見た場合,どのように写るだろうか。まず,南北の間で,その差が今や決定的なものとなっている。韓国はすでに先進国の入り口に差しかかっている。北朝鮮は閉鎖国家であり,いくら情報統制をしても一般市民は徐々に韓国の実情を知り始めており,情報にアクセスできる指導層は韓国の実力を十分に認識していると見られる。
 次に,現在の北朝鮮には,本当の友好国,あるいは同盟国が存在しない。冷戦時代には,中ソの狭間で苦労したこともあったが,中ソという後ろ盾があった。中国との間には朝鮮戦争を通じて「血で結ばれた」関係があった。ところが,現在は,ロシアとは普通の国同士の関係になっているし,中国からは食糧と石油など命綱ともいうべき経済援助を受けてはいるが,昔のような関係にはない。それに引き換え韓国の方は,米国と強い同盟関係にあるし,米国は日本とも同盟関係にあって一旦事あるときには,日本は有力な後方支援基地の役割を果たし得る。しばしば行なわれる米韓合同軍事演習は,北朝鮮の目にはどのように写るだろうか。
 湾岸戦争,イラク戦争で使われた米国の精密誘導兵器の破壊力は凄まじく,北朝鮮としては核・ミサイルに頼らざるを得ず,それも何とかして米本土に届く核・ミサイルを開発したいと思うようになっているのではなかろうか。
 このような「虎の子」を北朝鮮が安々と手放すとは考えられない。これまでの核の歴史を見ても,一旦核を手に入れた後に,核を放棄した前例は南アフリカだけである。南アフリカは,白人政権から黒人政権に移行したという極めて特殊なケースであった。北朝鮮の核の放棄は至難の業だと思われるが,それでは何故,非核化を口にしたり,六者協議への復帰をほのめかしたりするのだろうか。北朝鮮は外交技術が極めて巧みな国で,強硬姿勢と対話姿勢を巧みに織りまぜる瀬戸際政策はお手のもので,それによって経済的利益さえも得ている。非核化といっても「完全かつ検証可能,不可逆的な放棄」(CVID)を考えているわけではなさそうだし,その前提として北朝鮮だけでなく,朝鮮半島全体の非核化,米国の敵視政策の解消などを主張している。いずれにしても核しか頼るものがない北朝鮮にとって,本当に核を放棄すれば誰も見向きしなくなるばかりか,リビア等のように政権が崩壊することを恐れているのではなかろうか。
 北朝鮮が本当に核放棄を考えるのは,レジーム・チエインジの場合か,現政権の下では金王朝の存亡がかかった極限状況の場合ではなかろうかと考える。

(2)対応策:一般的な考え方

 現状を放置すると,おそらく事態はますます悪化するであろう。核については,ミサイルに搭載可能な小型化,軽量化が進み,プルトニウム,ウラニウム双方の核弾頭の数も増えてゆくであろう。ミサイルの方も,射程は長距離化し,米国本土に到達する大陸間弾道弾が開発され,命中精度も向上しよう。核・ミサイルの拡散の可能性もある。
 このような状況にどのように対応すれば良いのか。核の完全放棄は最終目標として,これを求め続けるべきではあるが,これまで述べて来たとおり実現は至難の業である。現実的には事態をこれ以上悪化させないことと,核の拡散を防止することに焦点を絞るべきではなかろうか。そのための対応策としての一般的な考え方を以下に例示的に述べてみる。
①日米韓の結束が何よりも大切である。これに関連して日韓関係の改善が望まれるし,最近の韓国の中国への前のめりの姿勢も心配である。
②北朝鮮へのアプローチにおいては,中国の影響力が限定的であるとはいえ,決定的に重要である。中国がより協調的,積極的な態度をとるよう働きかける。最近の中国の北朝鮮に対する姿勢にはやや期待が持てる。
③米国の政策の一貫性が是非とも必要である。
④北朝鮮に対して,必要に応じ(例えば合意したことが破られたような場合)金融制裁も含めた一層強い複合的な圧力を加える。
⑤イランの核問題について一歩踏み出した米国としては,北朝鮮の核・ミサイル問題についても,一層の関心を払うべきである。

6.日本として何をなすべきか

 前述の通り,北朝鮮に対しては,米国を中心に日米韓が共同して,そして中国を巻き込んでことに当たるべきだと思うが,日本として北朝鮮の核・ミサイル開発に対してイニシアチブをとって何をすることができるか,何をなすべきかである。
 北朝鮮の核・ミサイル開発が最終的に狙っているのは米本土であろうが,とりあえずの目標は日本であり,在日米軍,在日米軍基地であると思われる。これらはすでにノドン・ミサイルの射程に入っている。ミサイルへの核弾頭装填も時間の問題と考えられるし,「汚い爆弾」(dirty bomb)ならば今でも可能である。韓国全域は,とっくにスカッド・ミサイルの射程に入っており,韓国ならばあえて核を使用しなくても,通常弾頭で十分で,文字通り「ソウルを火の海にする」ことができる(北朝鮮の発言)。とすれば,北朝鮮の核・ミサイルの脅威に直面するのは,現時点では日本ということになる。
 これに対して,日本として如何に対応するか。日本の一部には,核武装を主張する声がある。確かに日本の場合,技術的には核弾頭の製造も可能だし,運搬手段にも問題はないが,日本が意味のある核武装に着手することは,経済的にも自殺行為だし,また,外交的にも破滅的な打撃を与えかねない。日本が,北朝鮮の核・ミサイルに対抗するには,軍事的には米国の傘(拡大抑止)に依存すること,ミサイル防衛システムを強化することの方が賢明である。
 しかし,これでは問題の本質的な解決にはならない。本質的な解決とは,北朝鮮の核・ミサイルの脅威を完全に取り除くことだが,既に述べてきた通り,それができなくとも脅威のレベルをできる限り減らすことである。その点で,日本独自として何ができるか,何をすべきであるかを考えてみたい。
 北朝鮮との関係調整である。一衣帯水の地にあり,歴史的にも深い関係のある北朝鮮と国交のない状態というのは,極めて「不正常」である。関係調整の第一歩は,日朝国交の正常化である。国交がないと,二国間ベースでは正式な話し合いはできない。
 日朝国交正常化交渉は,1991 年の年明けから始まったが,その後,中断を繰り返し(交渉より中断期間の方がはるかに長い),行き詰ったまま20 年を越える超マラソン交渉になっている。2002 年9 月の小泉総理(当時)訪朝の際に交渉の突破口が開かれると期待されたが,結果は逆で,日朝間の雰囲気は拉致問題をめぐって一層悪くなってしまった。
 日朝交渉の大きなハードルとして,拉致問題,核・ミサイル問題,「過去の清算」としての経済協力問題の三つが挙げられるが,そのうち拉致問題は,ノドに刺さった棘のようなもので,この問題をめぐって日朝は正面からぶつかり,交渉に行き詰ったまま目途が立っていない。
 拉致問題は,日本では国民感情がからんで政治問題化しているのに対し,北朝鮮側では前述の日朝首脳会談で決着したとして,一応加害者としての責任と非は認めたものの,その後は木で鼻をくくったような態度で終始している。
 さらに,日本の拉致被害者の家族は高齢化が進み,解決の目途が見えてこないことに焦燥感を募らせている。日本は,拉致問題の解決なくして国交正常化なしとの基本的な態度を持しているが,関係国の一部には,日本は結局,二国間問題である拉致問題にのみ没頭して,核問題等には大きな関心を示さないとの批判があることも念頭に入れて置くべきであろう。
 いずれにせよ,日本としては,日朝交渉を速やかに再開させ,拉致問題はもちろんのこと,核・ミサイル問題,北朝鮮が最も関心を抱いているであろう経済協力・資金協力問題の解決に向けての前進を図るべきである。見通しは難しいが,主体的に打開の途を模索すべきである。
 以下,そのいくつかを例示して見る。核・ミサイル問題は日本だけで解決できるような問題でないが,既に脅威を正面から受けている日本として,日朝交渉上の重要な案件の一つとして,解決に向けて努力していくべきである。
①まずは,日朝交渉を再開させなければならない。話し合いを始めなければ物事は進まない。対話が必要である。当面大切なのは,水面下の対話であり,小泉訪朝に先立つ日本外務省の田中均氏と北朝鮮X 氏との接触は,前例として参考になるのではないかと思われる。
②北朝鮮は,核・ミサイルについては,相手国は米国であって日本とは話し合う必要なしとの従来からの態度を取ってくると思われるが,この問題は日本の安全保障に直接に関わるものであり,また,核開発を進める北朝鮮に日本として資金提供ができるかという問題がある。日本としては,粘り強く問題を提起すべきである。
③拉致問題については,北朝鮮側も2008 年8 月の瀋陽での日朝実務者会議で約束している再調査を実施を求める。このステップなくしては,次の段階へと進めない。
④しかし,受動的に北朝鮮の出方を待っているのでは,おそらく事態は進まないであろう。むしろ,日本がイニシアチブを取って,例えば,人道援助を開始し,対話の糸口を作ることで,北朝鮮に拉致再調査を進めさせ,国交正常化交渉を再開させることはできないだろうか。人道援助については,例えば,現在,北朝鮮に300 人位いるといわれる原爆被爆者の支援,従軍慰安婦問題については,関係者の高齢化が進んでいることもあり,特に考慮が払われるべきである。
 最後に,核を巡る北朝鮮の外交姿勢について筆者の個人的な見解を述べておきたい。北朝鮮は激しいレトリックを使うことが少なくないが,行動は案外慎重で計算ずくで行っていることが少なくない。従って,レトリックに一喜一憂する必要はない。他方,国際約束などは,自国にとって必要とあれば国際社会の常識とはかなり違う独特の解釈を打出して来ることが少なくない。従って,北朝鮮と相対するには「信」ということではなく,物事を利害得失の観点から判断し,常に約束が破られる場合に備えておくのが得策のような気がする。

(後記)
 この論文を脱稿したのは,張成沢失脚の前であった。張成沢は,金日成と最初の妻の間の娘で,金正日の実妹である金敬姫を妻とし,北朝鮮権力機構の要職を占め,金正恩の後見人,金正恩に次ぐ政権ナンバー2 と称されてきた。その張成沢が,12 月8 日,朝鮮労働党の政治局拡大会議の席で,つまり衆人環視の中で,警官に連行され軍事裁判の後,直ちに処刑されるという衝撃的な事件が起こった。その理由は,反党,反革命行為等の故とされているが,未だ真相は分からない。しかしながら,いずれにせよ張成沢の失脚は,北朝鮮の政治史上最も重大な事件の一つであり,国内政治に与える影響(政治の不安定化,軍事強化路線,経済路線などを含め),外交路線(米国との関係,中国との関係など)に与える影響は極めて大きいと思われる。
 本稿の主題である核ミサイルの開発についても,今後注視していく必要があるが,あえて,筆者の考えを述べれば,そのいずれについても,これまでの路線を踏襲していくのではないかと思われる。
(2013 年12 月16 日)

■プロフィール えんどう・てつや
1935 年徳島県生まれ。58 年東京大学法学部卒。同年外務省入省。89 年ウィーン国際機関日本政府代表部初代大使。93 年日朝国交正常化交渉日本政府代表,95 年朝鮮半島エネルギー開発(KEDO)担当大使,96 年駐ニュージーランド大使等を歴任。その後,原子力委員会委員長代理,福島原発事故独立検証委員会委員等を経て,現在,日本国際問題研究所特別研究員。専攻は,国際政治,外交,原子力。名誉法学博士( 米国デポー大学)。主な著書に,「北朝鮮問題をどう解くか」など。

<主な参考文献>
1) 遠藤哲也「北朝鮮の核開発について」(上)(下),『世界週報』時事通信社,2004 年12 月28 日号,05 年1 月4-11 日号
2) 遠藤哲也「日本核武装論の問題点」,『エネルギー政策研究』エネルギー政策研究所,2007年7 月号
3) ドン・オーバードーファー『二つのコリア』共同通信社,1998 年
4) 船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』(上)(下)朝日文庫,2011 年
5) 吉田文彦編『核を追う―テロと闇市場に揺れる世界』朝日新聞社,2005 年
6) 伊豆見元ほか『北朝鮮―その実像と軌跡』高文研,1998 年
7) 日本経済新聞社編『北朝鮮クライシス』日本経済新聞社,2006 年
8) 松本太『ミサイル不拡散』文春新書,2007 年
9) 在ロンドン国際戦略研究所『ミリタリー・バランス』IISS,2013 年
10)伊豆見元『北朝鮮で何が起きているのか-金正恩体制の実相』,ちくま新書,2013 年
11)Jonathan D. Pollack, NO EXIT: North Korea, Nuclear Weapons, and International Security , IISS, 2011
12)Charles L. Prichard, Failed Diplomacy:Tragic Story of How North Korea Got the Bomb , Brookings Institution, 2007
13)Gordon G. Chang,