グローバル人材育成とリーダーのもつべき資質

学習院院長・元国連大使 波多野敬雄

<梗概>

 多極化する21世紀世界の中で,各国は政治,経済,文化などさまざまな面で熾烈な競争を繰り広げている。国民国家体制が維持される限り,国家レベルのリーダーの役割はますます大きなものになりつつある。近年“グローバル人材の育成”が叫ばれているが,その中身は何か。グローバル・リーダーのレベルでいえば,国際競争に勝てる人材の養成であり,そのポイントは,道徳性と品格の上に築かれた言葉の力とともに現地体験に基づく外国に対する見識の涵養である。

1.語学力をどう考えるか

 熾烈な競争が展開する21世紀世界において「グローバル人材」とは,“世界で通用する人材”という意味よりも,“競争に勝てる人材”だと考えたい。それでは世界の競争に勝てる人材はどういう人間か。
 まず言葉の能力である。よく「言葉(外国語)はツール(道具)に過ぎない」といわれるが,現代のようなグローバル時代においては,言葉は“必要不可欠な”ツールだ。そのツールがないために,日本人は世界の舞台でどれだけ損しているか分からない。まずは,その自覚からスタートすべきだ。
 日本で外国語教育の話になると「言葉よりも中身だ」という議論になりがちだ。しかし中身をもっていてもツールがないために,中身を伝えられない。日本人のほとんどがそうではないか。やはり言葉は極めて重要であると考える。
 先日,ペレス=デ=クエヤル第5代国連事務総長(在任1982-91年)が招集した少人数の会議がギリシアの山中で開かれ参加した。そのとき「潘基文・現国連事務総長の英語は聞くに堪えない。あんな下手な英語をしゃべっている事務総長に,いい仕事ができるはずがない」という話が出た。私自身は,彼の英語がそれほど下手だとは思っていないが,英語圏の優秀な大使からみるとそういう評価なのだろう。それは英語の発音の問題と言うよりは,言葉遣いのレベルを指していた。問題は使える単語の数である。読める単語の半数は使いこなしたい。日本人から見るとかなりの英語力がないといけないということになる。ビジネス関係であれば,商売や交渉に必要なレベルの英語力で十分やっていけると思う。しかし,国際舞台での議論の中で外国から高い評価を受けようとすれば,そのレベルでは不十分なのである。
 国連安全保障理事会はあらゆる重要案件を扱う場であり,国連の中枢機能を果たしている。安保理のメンバー国になると,毎日のように会議が行なわれる。その会議では,英語圏の国は言うに及ばず,それ以外の(非英語圏の)国もとくに英語の上手い人を参加させて議論している。
 私が国連大使を務めていた当時,日本は安全保障理事会のメンバー(非常任理事国)で私は議長も務めた。安全保障理事会では,常任理事国と非常任理事国の大使たちが円卓を囲んで喧々囂々の議論を展開する。よく見ていると,メンバー国の中には英語の実力がもっとある人物を大使に差し替えて議論させるところもあった。
 普通に英語ができる日本人が使う語彙が3000語とすれば,その倍以上の語彙を駆使して彼らは議論を展開する。もちろん少ない語彙でもそこそこの用は足せるのだが,英語の上手な大使たちは類義語をうまく駆使して表現してくる。例えば,シェークスピアや有名な詩句をよく知っていて,それをうまく引用しながら話をするので,(外国人には)よく分からないことが少なくない。グローバルに活躍する人であれば,そうした分野も含めて,しっかり勉強する必要がある。
 国際舞台では,欧米の社交界に入って交わる機会が少なくないが,日本人は欧米の社交界に加わってうまくやることが非常に難しい。それは先ほど述べたような文学などの知識や教養に乏しいために,日本人の話題は非常に限られているからだ。もちろん,20~30年位前であれば日本のことを聞きたがった時代もあり,日本のことを話すだけでも関心を持ってもらえた。しかし今はそういうことはない。となると,言葉で勝負していかないと,社交でさえもスムーズにいかないのだ。「日本人は内容はあっても上手に表現できない」「言葉より内容だ」,というのは正しくない。

2.外国に対する“見識”

 言葉の次によく言われるのが教養の問題だ。「国際人」の前にまず「日本人」でなければならない,つまり日本の歴史と伝統・文化に対する理解がなければならないということである。しかしあるレベル以上の高等教育を受けた人であれば,そうした内容はかなり身につけていると思う。私が強調したいのは,日本人が身につけていないのは,むしろ「外国に対する見識」である。
 「見識」とは見聞きすることだが,それは(机上で)勉強することもあるだろうが,最も重要なポイントは外国に住むことによって身に付く見識である。もっと言えば,外国人の考え方や異文化に対する理解力である。それは万巻の本を読んだとしても本当の理解にまで到達することには限界があるということだ。
 私はかつて仕事でスイスに住んだことがあった。スイス人は,周辺の大国に占領された歴史を持つために,“ひがみ根性”をもち,スイス人独特の“もの言い”をする。このようなことは,本を読んだだけでは分からない。その現地に住んでこそわかることだと思う。
 私は外務省勤務40年の内,24年の在外生活を経験した。ただ,中近東・アフリカ地域には勤務したことはなかった。外務省退官後に,米国のNGO,Population Councilの役員を引き受けた。米国のNGOは,資金を集めることを積極的にやっている。米国には大きな各種財団があって,NGOのいいプロジェクトには何百万ドルという単位で援助してくれる。そこで多くのNGOがプロジェクトを企画し競って財団から援助を引き出す努力をしている。その競争に勝つためにいいプロジェクトを企画するには,ハーバード大学出身者など優秀な人材を入れなければならない。
あるとき私が(Population Councilの役員として)アフリカ支援プロジェクトを企画してある財団にもって行き,財団担当者にプレゼンすることになった。その説明を聞いた財団担当者は「なかなかいい企画だから,100万ドルを出しましょう」と言ってくれた。
 その後,同財団の理事長が「われわれ(財団)のスポンサーに対して,あなた方のプロジェクトになぜ援助するのかという説明責任がある。このプロジェクトは,あなたの説明を聞く限り,アフリカの悲惨な貧困者に対する良い支援活動のように見えるが,あなた自身はアフリカのスラムに生活したことがあるのか?」と聞いてきたので,私は「ありません」と正直に答えた。すると理事長は,「そんなことではわれわれとしてもスポンサーに説得力を持って説明することはできない。こちらで手配するから,数日でもスラムに滞在しその様子を数枚のレポートにまとめて報告してくれ。それを添付してスポンサーに話をしよう」と言った。
 1週間くらいしてロンドン経由ケニア・ナイロビ行のエコノミー・チケットが私の元に届いた。その飛行機で現地に向かい,到着翌日に手配された現地スタッフが四輪駆動車で迎えに来てくれた。その車でナイロビの近くにある世界でも最大といわれるスラム街に向かった。そこには30万人もの人々がひしめいて住んでおり,その中のエイズ患者がいるところに行って彼らと話をした。
 実はこんな大きなスラム街に病院とよばれるものは,わずか4つしかない。それぞれに医者と看護師が一人ずついる。また学校にも行ってみたが,学校も体をなしていないようなところだった。そこの子どもたちに会ってみると,日本からの援助で鉛筆やノートなどをもらったことがあるので日本という名前は知っていた。
 スラム街の惨状の現実を肌で感じた経験をした翌日,あるNGOが手配してケニア大統領に面会する機会が与えられた。面会した時に私は前日の体験を踏まえてその改善を要請したが,それに対して大統領は次のように語られた。「ケニアの田舎や隣国で内戦に直面する人々に比べれば,スラム街の生活はそれでもましな状態だ。トイレがないことは何でもない。あなたはスラム街の惨状を嘆いているが,それ以上に悲惨なところがアフリカにはまだまだたくさんある。ここのスラム街をもってアフリカの貧困を見たと思わないでほしい」と。
 この経験は,非常に短いものではあったが,私にとっては大きな価値あるものだった。もし外務省時代(の若いころ)に,この経験をしていれば,海外援助を考える上で,あるいは国連で人権や貧困,エイズ撲滅を論じるときに,もっと有効な手立てを考えることができたのではないかと思った。
 もう一つの経験は,私が外務省中近東アフリカ局長をしていたときのことだった。当時,ケニアの田舎に行って援助物資を手渡す仕事を経験した。海外への援助というと,普通はお金をその国の政府や関係機関・団体に渡すことを考える。しかも日本の得意な分野は,インフラ整備への援助である。しかし,私は貧困な人に直接援助物資が届くことが重要なことだと考えて,英国大使と一緒にケニアの田舎に出かけた。私は“お土産”として携帯ラジオやカメラなどを持って行ったが,英国大使は車にたくさんのパンとオレンジを積み込んで行った。村に到着すると多くの村人や子どもたちが群がってきて,英国大使は男にはパン1個,女にはオレンジ1個を手渡した。私は携帯ラジオ等を村長に手渡したのだが,英国大使に比べて恥ずかしい思いをした。つまり自分の思い至らなさを感じるとともに,英国は長年の(植民地経営の)経験を活かして援助のポイントが分かっているのだと感心したのだった。
 こうしたことからも痛感したのだが,現地に行ってそこに“住む”ことの意味,つまり,外国を知るという見識をもつときに現地に住んで現地人と生活を共にすることが極めて重要だということなのである。積み上げた知識が経験により深められ,そこに最初に述べた道具としての言葉が加味されれば,本当のグローバルな活動ができるのだと思う。経験の第一はまず短期間でも現地に住んでみることである。

3.ホームステイの価値

 外務省退官後,日本でもいくつかのNGOの仕事をしたが,その一つが日米間で毎年交互に100名前後の若者を相手国に送り出しホームステイさせる事業を行うNGOだった。私自身の体験から言っても,一番勉強になったのは,米国に留学した時にホームステイしたことだ。大学寮でルームメイトと酒を飲んだり話をしたこともいい経験ではあったが,ホームステイはそれ以上の価値あることだと感じた。
 日本で100名の若者を受け入れるとなるとなかなか大変だが,それでも日本では幸い広島県や広島市のように非常に理解がある自治体があるので,そうしたところに任せたりして何とか受け入れが可能になる。一方,米国では組織的にはできないので,個別に受け入れ先を捜していかなければならない。そこで有力な協力者を探して何人かずつに分散して受け入れ先を見つけてもらう。
 日本の特徴として,ホームステイで外国人を迎えると,いわゆる「お客さん」扱いをしてしまい毎日多彩なプログラムを準備して歓待しようとする傾向が見られる。そのため三日も経つと,やることがなくなると同時に,受け入れ側も疲れてしまう。一方,欧米の場合は,ホームステイでホスト・ファミリー宅に向うときから,普通の交通手段で来るように指示があるだけだ。ホスト・ファミリーに到着すると,生活する部屋を案内され,その家の生活の大体の日程を示されるだけで,あとの行動はその人の自由に任せられる。夕食は家族全体が一緒に集まって食べる重要な交流の場であることが伝えられ,食後はリビングルームで歓談し交流する。ホスト・ファミリーは普段の生活そのもので特段の変化はなく,ほとんど余計な犠牲を払うことはない。
 そうしたホスト・ファミリーの普段の生活の中に溶け込むことを通して,私は米国人の考え方,生活の仕方を体験的に知ることができた。またウィークエンドは,家族と一緒に外出するが,そのアウトドアの経験も米国の生活を理解するいい機会となった。

4.教養としての道徳性

 日本人の教養というと,一般には日本の歴史や文化に対する知識を指すことが多いと思うが,私は「日本的道徳観」を“教養”に含めて考えている。ここで学習院のことを若干紹介してみたい。
 学習院は明治時代に東京に再興するときに,知力,体力,道徳,品格の4つの指針(徳目)を掲げた。前者二つはどこでも言われるような徳目だが,後者二つは,前者と並んで,あるいはそれ以上に重要な徳目だと認識されている。そしてそれが学習院の伝統であり,また「学習院らしさ」を形成している。外部の初等学校出身者には,その辺はわからないようで,大学教員の間でも(学習院出身者とそうでない人との間で)認識のギャップがみられる。
 四つ目の「品格」についていうと,学習院はもともと華族会館が宮内省の協力を得て創設した背景があって,イギリスを見本としレディーやジェントルマンを模範とした人格像を考えたようだ。ある面で「品格」は,学校の校風を通じて身に着くものだから,学習院の初等部から高等部まで通えば,その中で自然と身についていく。
 戦後の初代院長(第18代院長)を務めた安倍能成は,第一高等学校長や文部大臣を歴任して院長になった人物で,哲学者でもあった。一校のころはカントのことばかり話していたようだが,学習院に来てからは,幼稚園児に対しても,大学生に対しても「人間は正直であれ」「うそをついてはいけない」と,繰り返し強調していた。それは人に対するいたわり,相手の感情を考えなければならないということでもあろう。それはまた道徳の基本であり,人間の持つべき基本的徳目・資質であるという意味だ。このように道徳観が学習院の伝統にある。
 教養と言っても,何も日本の文学を極める必要もない。道徳や品格を身につけた後は,自分の趣味に打ち込んでもよい。私自身,学習院高等部のころは野球ばかりをやっていた。スポーツを通してもいろいろなことを学ぶことができる。
 数年前に「球際に強くなれ」と院長訓示をしたことがあった。例えば,野球でショートをやっていると,飛来するボールに合わせてグローブをもっていくことは誰でもできるのだが,キャッチする最後の瞬間で,グローブにキャッチするか,はじいてしまうかは,わずか数センチの差でしかない。つまり人間は,個々人の能力は大きく見ればそれほど差はないのだが,ここぞというときにあと一息の勝負ができるかどうかが分かれ目となる。それが「球際に強い」ということだ。試験本番で上がってしまって実力を発揮できないのは,それが弱いことになる。そのためには何十回,何百回と繰り返し練習をして自信を持つ必要がある。
 同様に,外国と競争して勝ち抜くためには,それだけのやる気,負けん気,闘争心が必要だ。安保理で議論をするときに,どうしても自分たちの意見を通そうとすれば,議論のための技術だけではなく最後はこちらのやる気(覇気)によって決まる。それが相手の心(琴線)を溶かして説得していく。
 (2013年秋の)南米アルゼンチンでの2020年東京オリンピック誘致合戦では,国際的実力とはどういうことかということについて,多くの人がテレビで直接に観察する機会を得たと思う。外国人に対して魅力があり,説得力があるというのはこういうことかと分かったと思う。説得力を持つこと,その一つはやはり英語力だ。そこから始まって内容的に関心を持たれることを話すこと。そして教養があること。そこには日本的な教養がないと,日本人としては魅力がない。日本の歴史についてもある程度は知らなければならない。しかし,外国のことも知っていることが大事だ。日本史においては明治維新のことが重要な出来事だが,米国史においては南北戦争を知らなければ話にならないし,欧州あるいは世界史で言えば,フランス革命を知らなければ国際的人間とは言えない。このような意味での広い意味の教養をもって欲しい。

5.東アジア諸国を見る視点

 中国は,ある意味で米国が大好きだ。中国語で米国のことを「美国」というが,同じ発音の漢字がたくさんある中から「美」の漢字を選んだところに中国人の米国に対する心性が象徴的に現れているように思う。欧州の国々は,英国をはじめとしてみな(近代史において)中国を侵略した。ところが日本に対してよくいう「歴史を忘れるな」という言葉は,彼らに対しては言わない。
 欧州と日本が中国大陸に侵略したとき,米国は南北戦争に没頭していて海外に進出する余裕がなく,中国進出が出遅れた。そこで出遅れた米国は中国の「門戸開放」を唱えた。「自分だけの植民地にしてはいけない,中国をすべての国に門戸を開放すべきだ」と主張した。それによって中国は,米国が助けてくれたと感じた。またアジア太平洋戦争で日本が中国に侵略したときに,米国が中国をサポートして応援してくれたので,中国はがんばれたという側面があった。そういう意味で,体制は違っても中国にとって米国は絶対的な友好国なのだ。
 中国共産党のエリートの多くが,欧州ではなく米国に留学している。ハーバード大学のケネディー・スクール(大学院)はエリート大学院だが,そこが十年ほど前に中国政府と提携して200人の共産党エリートを受け入れるという提携をした。中国共産党のエリートは,ハーバード大学に留学させてもらえるという誇りを感じている。それゆえ,中国は米国とは本心で喧嘩しないし,米国の言うことはあてにして聞く姿勢を持つ。中国にはそのような側面がある。
 一方,米国から見ると日本よりは中国の方と,歴史的に強く結ばれているのではないだろうか。私がプリンストン大学に入ったときに(1954年),東洋史の教授の専攻分野は中国だった。当時米国で,日本の歴史を教えていたのはハーバード大学(ライシャワー博士)とシカゴ大学くらいだった。そういう狭間の中で日本は,戦後米国と結ばれるようになり,米国の友人となった。しかし米国の中では中国に対する思いいれは意外に強い。
 米国の社会学者エズラ・ヴォーゲルは『日本経済新聞』(2013年9月25日付)のコラムで次のようなことを書いていた。中国と日本は,対立する関係にある中でも何とか仲良くなるべきだ。そして「靖国神社にお参りするという“変なこと”はやらないで・・・」とまで書いた。彼は日本のことをよく知る知日派の学者で,『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』を書いたが,その彼でも靖国神社へのお参りは「変なこと」に見えるのだ。米国が日本のことを(本当は)よく知らないことの証拠であるかもしれない。
 台頭する中国を見ながら日本が,米国を頼りにすることは当然だし,そうせざるを得ないと思うが,基本的に米中は相互に理解しあう関係にある国同士であることを忘れてはいけない。その狭間にあって日本は,ここしばらくは米国に助けてもらいつつ,中国に対峙して行くのが賢明な選択だと思う。そのうちに(十数年の間に)中国も変化していくだろう。そう期待する。
(2013年9月26日)
(『世界平和研究』No.200,2014年2月1日号より)