新教皇誕生の意義と変革への期待

イエズス会神学院院長(在日本) ホアン・アイダル
杏林大学客員教授・元駐バチカン大使 上野 景文

 2013 年3 月,ローマ教皇庁はベネディクト16 世の退位に伴う新教皇選出会議「コンクラーベ」で,アルゼンチン人でブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(76)を,第266 代ローマ教皇に選出した。二千年のカトリックの歴史の中で,初のアメリカ大陸出身,初のイエズス会出身の,異色の教皇誕生となった。それらを背景に,新しい風をバチカンにもたらすのではないかと期待される中,かつてベルゴリオ枢機卿の下で学んだ経験のあるJ.C.アイダル神父と駐バチカン大使を務めた上野景文教授に新教皇誕生の意義と今後の展望について語ってもらった。

「非バチカン的」教皇の誕生

司会●新教皇フランシスコの誕生について,どのような感想を持ったか?
アイダル● 13 年9 月にローマに行ってみたが,街全体に教皇フランシスコの写真が溢れており,祭りのような雰囲気だった。私にとって教皇フランシスコの誕生は,驚きと同時に大きな喜びであった。そして新しいタイプのリーダーの登場という点で,希望にも感じた。
 現代の世界は,庶民から大統領に至るまでどこを見ても,さらに宗教世界までもお金や力に頼ろうとする雰囲気に溢れており,多くの人々はそれを「絶望的」に感じている。それを変えるためにはいろいろな方法があるだろうが,それをやってくれる(と期待される)人物が新教皇に選ばれたことで,しかも私自身直接面識のある人物であったからなおさら希望に感じた。またカトリック教会が,このような(旧来とは違ったタイプの)人物を選ぶことができたことについても希望を感じたのである。

(2)EUの実力と日中韓
 ここで世界の国と地域レベルのGDPを比較してみたい。2010年は,前述したように,GDPで中国が日本を追い抜いたターニングポイントの年であり,パワー・シフトが目に見える形で本格化した年だった。日本人は多くが落ち込み,自信を無くし,反中国意識が高まった。2012年のGDP(2013年春発表)を見ると,日本のGDPが3.11の影響で横ばい状態なのに対して,中国は2兆3000億ドルほど増やして8兆2270億ドルとなって米国の半分を超えて米国に迫っている。
 しかしこれを別の角度から,地域レベルでみると,別の像が見えてくる。
「ユーロ危機」が表面化して以降,日本では“欧州経済はダメだ”と言われるが,地域統合と拡大を果たしたEUは,04年のEU25カ国への拡大以降,一貫して世界第一位を維持している。5億人の人口を超え,ユーロ危機が激しかった2010-2012年においても各々16兆2800億ドル,16兆4100億ドルで,米国を1兆7000億ドル,7300億ドルほどしのいで,世界第一位である。こうしたことは日本ではほとんど知られていない。メディアが報道しないからだ。
 他方,世界でも最も仲が悪いといわれる日中韓のGDPを合計すると,2012年の日中韓3国のGDP総額は15兆3500億ドルとなり,米国の15兆6800億ドルにほぼ並んでいることだ。2013年のGDPで,米国を超える可能性もある。日中韓のGDPを合計すると米国にほぼ並ぶことも誰も知らない。経済界もメディアも報道・発信しないからだ。
 またASEAN+3は,既に米国もEUも凌ぎ,ASEAN+6では,EU,米国をはるかにしのぎ,21兆2000億ドルとなっている。
 既にアジア全体を合わせずとも,日中韓を合わせるだけで,米国のGDPに並び凌ぐ時代に入っているのだ。しかし誰もそれを知らない。

上野●新法王の誕生の意味に関し,三点述べる。まず第1 に,カトリック世界には,バチカンに代表される「王朝文化」と,イエズス会をはじめとする修道会が体現する,清貧,謙虚,無私を旨とする「前線文化」とがあると云われている。両者は対照的な文化を形成しているところ,これまでは「王朝文化」を代表する人物が歴代法王に選ばれてきたが,今回のコンクラーベで後者を体現する人物が選ばれたことは画期的。
 第2 に,1300 年ぶりに欧州以外から,しかもラテンアメリカから初めての法王誕生によって,従来の欧州中心主義的体質に変革がもたらされる可能性があること。
 第3 に,バチカンが「大きな壁」にぶち当たっている中で,バチカンを始めとするカトリック世界全体の改革の必要性が叫ばれるときに,最も「非バチカン的」,つまりバチカンとしがらみの薄い人物が選ばれたこと。「カトリック文化」をどう築いていくかの問題と云ってもよかろう。もちろんそれらが結実するかは,別次元のことでもあり,当面は事態の推移を見守るほかないが。
アイダル●今の意見のとおり,新教皇は「外から来た人」だ。例えば,バチカンの外から,欧州の外から,さまざまな価値観が溢れるこの世界の外からという意味だ。イエズス会の文化とも関係するかもしれないが,新教皇はいつも「外に出ましょう」という言葉を使っていた。私がかつてベルゴリオ神父(=新教皇,かつて,マクシモ神学院院長を務めた)の下で神学生として勉強していたころも,「問題があるときには外に出るべきだ」とよく言っていた。例えば,現在教会が抱える問題に対して,枢機卿たちは「新しいルールを作って対処しよう」などと論議するわけだが,そうではなく,われわれは何のために集まっているのかと本来の目的を問い直して(敵と和解するため,人を助けるためなど),外(現場)に出て行き,具体的な実践から取りかかろうというのである。
 現在の教会は組織も大きく,力もあるから,議論をして賛成する人だけで何かを進めてゆこうとする。賛成しない人を排除し,教会の「聖なる部分」を守ろうとする。教皇フランシスコは,「問題を抱えた人」を求めて外に出かけ,その人に寄り添うようにして解決策を見出そうとする。新教皇は,相手がどのようなイデオロギーを持っていたとしても,その人のよさを信じて寄り添うところから解決を見出そうとする。これはより大きなレベルにも当てはまる。戦争や紛争も,善悪二元論だけでは,敵対する者同士の和解は絶対成されない。そこに私は新たな希望を見るのだ。
司会●キリスト教精神の原点,あるいは信仰の原点に戻ったアプローチとも言える。
アイダル●教会から遠ざかったからダメだという先入観を持って人を見ないで,どんな人でもその人を信頼するところから平和が始まるし,平和のために働くことができる。
上野●今の点を私の言葉で表現すれば,「白黒をつける」のではなく,グレー部分を見よということになる。旧来の教会文化は,「ポジティブな部分」を見るという視点が不足しており, 「ネガティブな部分」に目が向いていた。今までは「排除の論理」が働いていたが,法王は(周辺に追いやられた人をも含めて)「(全てを)取り込む」姿勢を目指しているように感じられる。
 (2013 年)11 月に法王は「使徒的勧告」(theApostolic Exhortation “Evangelii Gaudium”)を発表したが,それを見ると,「イデオロギーより現実を重視する」という姿勢がはっきり出ている。自分のドグマを押し付けるのではなく,まずは「聞く」ところから始めよとも述べており,これまでの姿勢からの転換が見える。
 新法王誕生で思い出したのが,グレアム・グリーン(英国の小説家,1904-91 年)だ。彼は女性関係が盛んな「ダメ男」だったが,「ダメ」になるにつれ「神を(強く)感じる」ようになった。彼のような放蕩息子,「ダメな人間」にこそ光を当てるべきだ,貧しい人を含めて今まで光が当たらなかった人々に光を当ててゆこうということだ。その辺の優先順位の置き方に新鮮味を感じる。

パワーで動く世界にはない価値観を提示する宗教

司会●現代世界が抱える哲学的な課題は何か。
アイダル●現在の世界を見ると,世界各地のさまざまなレベルで暴力,紛争,葛藤,ぶつかり合いが溢れており,パワーを信仰する動きが顕著だ。戦争のレベルだけではなく,経済レベルでもそうだ。われわれが今のままでこの世の中に残る限り,暴力や戦争・紛争は容易にはなくならないと思う。だからこそパワー中心の世界観にはない価値観を教えてくれる宗教に,非常に重要な役割と期待がある。
 例えば,『新約聖書』(ルカ福音書15:4-7)を見ると,100 匹の羊の中で1 匹が迷ったら残りの99 匹を野原に残しても探し出すという譬え話がある。パワーの支配する社会にはない観点だ。グループよりも一人の個人を大切にするという価値観である。群を中心として行動する動物の世界には,個を尊重する考えはない。しかし,この世のダイナミックな動きの中で「,迷える一人」を救ってやるという姿勢,それこそが宗教の本髄を示すものだ。
 それを直接に表しているのが今度の教皇だと思う。教皇フランシスコは,先日,ローマの街に出て行き疲れた顔をしていた守衛兵を見て,「疲れていますね」とやさしい声をかけた。それは今の世界を支配する価値観とは違ったものだ。グループより人を大切にし,お金・富よりは清貧さを,正義より赦しを重んじる。それが今日の世界を変えていくのではないかと感じる。そこに希望と解決の道がある。
 この世とは別の価値観でないと人間が人間らしい世界をつくれない。自分だけを大切にする独立志向の考え方は,最終的に戦争につながるだけだ。「神様はこの世を越える」ということは,そういう視点を持つという意味ではないかと思うし,神様に出会った人はこの世を支配する価値観とは違ったものの見方をすることができるということだろう。そのときに,本物の宗教が重要な役割を果たす。こうした価値観は,政治,経済,科学からは出てこないと思う。
上野●米国的なグローバリズム,あるいは米国的資本主義に対する批判は,これまでの法王も標榜してきたことだが,それらはイデオロギーの観点からの批判であった。例えば,前法王ベネディクト16 世も,市場原理主義,貨幣の偶像化に対する批判を隠そうとしなかった。しかし今度の「使徒的勧告」を見ると,それを超える次元からの批判という感じがする。ある種の「文化革命」の予感がする。
 同時に,「バチカンの非バチカン化」という動きに注目したい。これまでのバチカンは,中央集権的なやり方で,ネガティブな面を排除するやり方が目立った。今度は,「前線文化」を重
視する姿勢に転換することで,バチカンを立て直そうとしているのではないか。「前線文化化」を別の言葉で表現すれば,「イエズス会化」,つまり修道院を中心とした最前線の文化を重視するということだ。中央集権に対する「現場重視」の姿勢である。そしてそれを自ら実践しているのが,新法王だ。
 更に,暴力に関連して,暴力そのものではなく,その「根」を見なさいとも指摘している(「使徒的勧告」)。そこに「ラテンアメリカ的」なトーンが感じられる。どういう意味かと言えば, 「解放の神学」的な精神が表出しているということだ。法王フランシスコは,「解放の神学」に政治論としては与しなかったが,根っこの部分で彼らに通じるものを持つ。そこが,ヨーロッパ出身の法王の資本主義批判と一味違うところだ。
 最近,米国の保守派から新法王の言説に対して「マルクス主義的」との批判が出た。しかし私は, 「本当の貧困」が存在する中南米の出身者だからこそ云えたことであって,マルクス主義とは云えないと理解している。ここにも,グレアム・グリーンを想起させるものがある。グリーンは「解放の神学」の人たちに共感し,彼らもグリーンを自分たちを代弁してくれていると評価していた。

「ラテンアメリカ的」スタイル

(司会●「ラテンアメリカ的」とは,具体的にどういう意味か。
アイダル●「ラテンアメリカ(中南米)的」というとき,カトリックや欧州の長い伝統を背負っていないことがある。例えば,バチカンに入ってみると,どれほど世界を変えようという大きなことに取り組む「重み」を感じる。今までの(ヨーロッパ出身の)教皇たちは,ひとつひとつの制度ややり方に込められた歴史的な背景やその重みをよくよく知っているだけに,実際にはそれを大きく変えることはできなかった。今度の教皇フランシスコが,そうした歴史的,伝統的なものを背負っていない点は,かえってありがたいことだ。就任以来の8 カ月余りの間でも,いろいろなことを変革したが,ヨーロッパ出身だったらそうすることはできなかったと思う。
 もう一つは,貧しい人々を愛し,尊敬心を持って接する姿勢である。教皇フランシスコは,「小さい人」にも「知恵」があると考えている。それは指導者・知識人などの知恵とは違ったものだという。普通はそれと逆で,世の中の偉い人や知識人に知恵があると考える。
 かつて私がベルゴリオ神父(=新教皇)の下で勉強していたころ,月曜日から金曜日までは(神学院で)勉強したが,土日になると(ベルゴリオ神父は)われわれをスラム街に連れて行った。そこに暮らす貧しい人々から学びに行くためだった。それを本当に信じて,実践していた。当時,私はこの点に非常に魅力を感じて,最初の論文は「貧しい人の知恵とは何か」をテーマとした。欧州では,貧しい人は物乞いしているだけで,彼らに知恵があるとは考えない。偉い人の言葉はかっこはいいのだが,深い本当の知恵は,むしろ「小さい人々」のところに行ってこそ得られるというのだ。
 教皇フランシスコが好きな作家にドストエフスキーがある。その小説の中に,貧しくて酔った人が,街の真ん中に立って説教する場面がある。そこにはドストエフスキーの見方が反映していて,酔っ払った人でも凄い内容を語り得る。それを見て(教皇は)庶民や民衆を尊敬する。これはヨーロッパからは見えない視点だと思う。
 ところで,日本のことについて教皇と直接話したことがあるが,「日本という国は,庶民がつくった国で,それは日本の宝だ」と言われた。静かに働く日本の庶民について強調していた。南米には歴史的に日本人がたくさん移民してきたが,彼らは金持ち層ではなく庶民の中に入って目立たないが勤勉に働いていた。そのような日本人が周囲にいてそのようなイメージを持っていた
のだろうと思う。
上野●先ほど触れたが,最近の「ロサンゼルス・タイムズ」によれば,「法王の口を通じて純粋にマルクス主義の思想が出てきた」として,法王の資本主義批判はマルクス並みだとする批判があった。とくに一部の米国人は,貧困救済にのめり込もうする人に対し,マルクス主義とのレッテルを貼って批判する傾向が見られる。これは深刻な貧困問題を体験したことのない人々の病理的現象とも云えるものだ。
 歴代の法王は,イデオロギー的な観点から資本主義を批判したものの,最後は,「宗教は宗教の領域で」という結論で終わった。解放神学ではないが,「貧困の現場」に行って手を突っ込まないと真の解決はできないとの見方には立たなかった。しかしながら,例えば,ブラジルの貧困地域に行けば,それは凄まじいものがある。アジアでも同様だ。法王はそれを座視してはいけないとするが,従来はそれを(あえて)見ないようにしてきた。
 法王フランシスコの姿勢は, 「現場主義」に加えて,宗教を狭く解釈する旧来の文化に対するチャレンジでもある。ここにも中南米的な特色が感じられる。この中南米的な観点がバチカンに取り込まれることで,バチカン(カトリック)は,より普遍的,グローバルな教会になってゆけるわけだ。
 コンクラーベでベルゴリオ枢機卿が法王として選出された時,隣にいたブラジルのサンパウロのクラウジオ・ウンメス枢機卿から「貧しい人々のことを忘れないでほしい」と云われたという。アルゼンチンは,中産階級が多いかもしれないが,ブラジルなど他の中南米諸国は貧困問題が大きなウェイトを占めている。ところが,意図してかどうかはわからないが,バチカンは手を出してこなかった。しかし今回を契機に,そうした歯止めが取れたように感じる。

「人」を大切にする価値観

司会●イデオロギー中心ではなく,現場中心の姿勢への転換で,新しい紛争解決の道が拓かれるかもしれない。
アイダル●ただ,教皇フランシスコの言いたいこと,そのスタイルの真意が,世界の人々に伝わるかどうか,心配するところだ。中には足を引っ張る人もいる。今まで右だったから,今度は左にというように,イデオロギー論争を始めたのでは何も変わらない。上野先生が取り上げた米国保守派の主張のように,「フランシスコ=マルクス主義」とレッテルを貼って(先入観をもって)見ると,それ以上何も見えなくなってしまう。
 教皇のスピリットには「解放の神学」に通じるところがあるが,イデオロギーが嫌いで,それには与しない。貧しい人を大切にするという「人を重視する」ことを実践する。もちろん,分かりにくいところがあるのも確かだ。イデオロギーは,凄く危ない道具であるから,注意して扱う必要がある。
 私は小さい頃からユダヤ人の悪口を聞いて育った。そして周囲にユダヤ人も多くいて,彼らと友達として付き合う中で感じたことは,例えば,A さんをユダヤ人として見るのではなく,ひとりの人格として見て付き合うことが大切だということだ。(新教皇の誕生をきっかけに)人を大切にする見方,人に基づいた世界観,価値観が生まれてくることを期待する。教皇フランシスコが最も言いたいことは,イデオロギーではなく「人」を大切にすることだ。そのメッセージが人々の心に伝わったとすれば,世の中はきっと変わると思う。
上野●法王は先述のように,「使徒的勧告」の中で,「イデオロギーより現実を」と述べたが,まさに法王色が出た点だ。ただし,世界情勢を冷徹に見ながら,クールに考えてみることも必要だ。冷戦後,民族主義や諸宗教の原理主義化を含め,多様な「イデオロギー」が出てきており,緊張感が強まっていることも事実だ。私が感じるところでは,むしろ新しい「イデオロギーの時代」が始まっている。そうした現実世界の中で,(短期のスパンで考えると)法王の考えが順当に人々に伝わるかは即断できない。なお,カトリックには聖エジディオ共同体のような「別働隊」があるので,それらが実践面(紛争の調停などの面)で良い働きをすることは期待される。
司会●宗教と政治が絡み合ってさまざまな紛争が起きているが,宗教の役割は何か。
アイダル●本当の宗教は,紛争や対立に反対の立場だ。紛争や対立に宗教が関係するとすれば,それは宗教が(本質を離れて)別のものに変質しているからだと思う。例えば,中東問題は,イスラーム対ユダヤ教の戦いではなく,その本質は政治化したもの同士の関係から生まれている。
 宗教は「飾りもの」ではなく,現代世界の中では重要な役割を持つと考えている。私が言いたいのは,宗教が本当の宗教であってほしいということだ。つまり,世界のダイナミズムの中であえぐ人を救うという本来の使命を果たす宗教になってほしいということ。そういう意味での宗教対話は必要だと思う。どの宗教にもイデオロギー色があるが,そうしたところを超えて宗教本来の目的を中心に,宗教が果たすべき最も大切な「仕事」に目を向けて協同していこうということである。そのときに,霊的な世界のことだけに取り掛かるのではなく,現実問題の解決にも手を差し出す。
上野●現実世界を見ると,政治が宗教を取り込もうとしているのか,その逆なのかは分からないが,「政治の宗教化」「宗教の政治化」が進んでいることも事実だ。政治と宗教を引き離すことは容易ではない。もう一つ,宗教とナショナリズムの結合,あるいは,「ナショナリズムの宗教化」の問題とどう向き合うかという課題もある。これは,中国,韓国などの隣国を抱える日本人にとって,無視できない問題だ。

世界変革への期待

司会●今後の展望について見るか。
上野●新法王は「第三バチカン公会議」の開催を念頭においているのではないか,という点に関心を持っている。今度の「使徒的勧告」の中で,第二バチカン公会議(1962-65 年)を始めた法王ヨハネ23 世のことが具体的に言及されている。例えば,第二バチカン公会議の第1会期が始まった62 年10月11日にヨハネ23 世が語った言葉が引用されている。わざわざヨハネ23 世の言葉を引用していることから察すると,「第三バチカン公会議」を意識していると考えざるを得ない。
 法王は聖ピエトロ広場でのミサで平易なイタリア語で直截的に語るが,そこがヨハネ23 世に似ていると云われている。そのスタイルも含めて,ヨハネ23 世を意識していると云ってよかろう。
 更に言えば,「文化革命」を成し遂げるためには,法王が変えようとしている諸点を公式に位置付けしておかないといけないとの考えがあるのだろう。「第二バチカン公会議」が終わってから,10 年くらいはオープンな雰囲気があったが,その後保守派の反動が強まり,元に戻ってしまったと云う人もいる。それ故,もう一度公会議が必要だと主張する人が少なくない。そうした動きと新法王が合流して,新しい動きが出てくるかどうか。
 もとより,バチカンの2000 年に及ぶ歴史の重みを考えると,それらを変えることは容易ではない。12億の信者の意識を変えることもそうだ。新法王がやろうとしていることに対して,保守
派の間では最近反発の動きが出てきている。次の法王が保守派から出れば,元に戻せるとする人もいる。法王の改革を根付かせるためには,第三バチカン公会議のような大きな改革が必要だ,ということだ。
 最後に,ロシア正教会との関係について一言。法王は「使徒的勧告」の中で,「中央集権的構造を分権的構造にしようとするときに,正教会から学べることがある」と述べた。正教会は国ごとに独立している点への言及だが,面白い着眼点だ。今後,法王と(モスクワの)総大主教の会見が実現するこにより,モスクワとの関係でシンボリックな前進があると,キリスト教世界の中で「風通し」がよくなろう。
アイダル●既に述べたように,恐れと希望・期待を感じている。恐れは,教皇のメッセージが本当に人々に伝わっていくかということ。世の中には味方も敵もいるから,すぐに教皇の考えが受け入れられるとは思わないが,このメッセージが本当に世界に伝わって欲しいと願う。教皇は人を本当に信頼している。よい意味での「革命」を待ち望む人は多いだろうし,そこに希望をかけたい。教会の中にはいろいろなグループがあるが,多くの人たちが本当に教皇のメッセージの意味を理解したら,後戻りはできないと思う。そうなれば世界を変えることができるだろうし,そう信じたい。
 新しい価値観を持つリーダーが,いろいろな教会との関係を解決し,長い歴史を変えるには,深い対話が大切だ。誠意,赦しなど宗教しか持てない大切な価値観でもって進めてゆけば可能性があると信じる。
(2013 年12 月4 日)
(*なお,文中での「教皇/法王」の名称については,対談者お二人の立場を尊重して各々別の名称を用いた。)

■プロフィール  Fr. Juan Carlos Haidar, S.J.
アルゼンチン生まれ。1990 年(在アルゼンチン)エルサルバドル大学卒。96 年上智大学神学部卒,98 年同大学院神学研究科修士課程修了,2002 年(在スペイン)コミリアス大学大学院博士課程修了(哲学専攻)。上智大学カトリックセンター長を歴任し現在,同大学神学部准教授。イエズス会神学院院長も務める。専門は,キリスト教と哲学,現代ユダヤ教思想,現代哲学。

■プロフィール うえの・かげふみ
1948 年東京都生まれ。70 年東京大学教養学部卒,外務省入省。73 年英国ケンブリッジ大学経済学部卒,同修士課程修了。OECD 政府代表部公使,国際交流基金総務部長,駐スペイン公使,在メルボルン総領事,駐グァテマラ大使などを経て,2006-10 年駐バチカン大使。11 年4 月より杏林大学外国語学部客員教授,12 年より立教大学兼任講師。主な著書に,『ケルトと日本』『現代日本文明論(神を呑み込んだカミガミの物語)』『バチカンの聖と俗(日本大使の一四〇〇日)』。ほかに,論考,エッセイ多数。