江戸時代に学ぶ指導者の条件

財団法人德川記念財団理事長 德川恒孝

<梗概>

 江戸時代に関する評価はさまざまあるが,17世紀以降日本が二百数十年の平和な循環型社会を生み出し,世界でも最も高い教育水準を維持したこと,指導階級であった武士が富を独占することが無かった事実などから,世界の歴史研究家の江戸時代の日本の文明への関心も高まっている。長く続いた戦国時代が終わり,平和が確立されたことで17世紀を通じ日本の人口が急増し,100年の平和の結果,人口は2.5倍となり,元禄の文化が華やかに咲き誇ったが,多くの自然災害や異常気象が発生し,更に農地開発が限界に達したことから,人口増が止まり,日本社会は一転して停滞の18世紀を迎えた。その中で徐々に成熟した質素倹約・資源循環型社会が形成され,約百年後再び文化・文政の華やかな社会を築いた。現代日本は戦後の平和の中で高度成長を果たしたが,現在はちょうど江戸中期の停滞した時期に類似する様相を見せているように感じる。

 明治以降,江戸時代は基本的に「封建的で頽廃した旧い時代」となり,一方明治時代は輝かしい文明開化に向って邁進した時代と認識された。そしてそれ以前の時代が大切にしてきた「もの」や「心」,社会を支えて来た道徳などの多くは,価値のない旧弊なものとして捨てられた。さらに戦後は,マルクス史観の影響も加わってそれまでの歴史観が否定されて,その中の「封建的」と目されたものはすべて悪の象徴のように扱われ,江戸時代は最悪の遺物として扱われた。
 近年,高度成長期が終焉し,地球環境問題の深刻さが認識されて,循環型社会の一つのモデルとして江戸時代に関心が注がれているが,ここでは指導者の資質やそのあり方など,色々な視点から江戸時代を見つめなおし,現代が抱える諸問題への解決へのヒントとなればと思う。

1.指導者に必要な資質

 戦国時代に終わりを告げ江戸時代を拓くに際して大きな役割を果たした織田信長,豊臣秀吉,徳川家康の3人はそれぞれ大変に個性のある人物だが,3人の人柄について,指導者としての観点から大雑把に比べてみよう。
 まず織田信長だが,彼は織田家という家柄に生まれた優秀な人物で,決断力もあった。17歳ごろには織田軍の総指揮を執るほどの力量をもっていた。小さい頃から組織のトップに乗っていたので,常に上から人を見る目線を持っていた。生まれながらの大将で,常に上からの目線で部下たちの能力を査定するものだった。
 豊臣秀吉は全く別で,信長の後を継いで日本を事実上平定しトップになり,もう自分には戦って勝つべき対象が何もないと知ったときに頭をもたげてきたものは,大変な「不安」だったのではないか。秀吉は足軽の身分から上の者に忠実に仕えながら関白までのし上がっていった人物だから,天才的な「何か」があったことは間違いない。しかしそれは,学問や深い教養に裏打ちされたような種類のものではなかっただろう。平和な世の中が来て,再び学問,教養,文化的要素などが価値として重要視される世の中になったならば,自分のいる場はどこにあるのか,そんな恐怖や不安があったのではないか。つまり秀吉には一種のコンプレックスがあったのだろうと思う。
 秀吉が茶の湯にのめり込みながら千利休を殺し,自作の能を演じ,あまり上手くない歌を作り,その一方では空前の華やかな宴を催したのも,何かそういった焦りのようなものを感じる。そして最たるものが朝鮮出兵であり,朝鮮の後は中国(明)を征服し更にはインドまでいくと豪語した。そうすることで周囲の人を感嘆させ(自分をも納得させ)ようとしたのだと思う。こうした傾向は,下から上に上昇していった人によく見られるコンプレックスである。
 次に徳川家康だが,彼は松平家の次期頭領になるべき家系に生まれたとの矜持を持ちながらも,幼いころに人質として送られるなど人生の辛酸を嘗め,下から人に仕える道を歩んだ。人間の何たるかを小さいころから体験して育ったのである。
 もう少し詳しく見てみよう。
 家康は,三河国岡崎城主・松平広忠の子として生まれた。家康の曽祖父と祖父はともに部下から殺されており,家康はそれを若い頃から聞かされていた。家康の母・於大は,実家の水野家の父が亡くなると,兄の代になって水野家が織田方に味方する方針となったために離縁となり,幼い家康を残して松平家を去った。家康1歳余りのころだった。三河の国侍の多くが織田方に傾くにつれて広忠に対する今川方の不信が強くなったこともあって,家康は人質として駿府に送られることになった。しかし,途中で織田方に味方する勢力の手によって逆に尾張に送られてしまった(家康6歳)。ここで家康は信長(14歳)と会うことになる。
 数年後,父が亡くなり,今川勢は織田勢との合戦で織田信秀の子・伸広(信長の兄)を捕らえ,織田家に人質となっていた家康と交換されることになった。家康は交換の途中に城主不在の岡崎城に立ち寄り,家臣たちの困窮の状況を見,彼等の涙に送られて今川家の本拠地である駿府へ行き,12年間そこで成長した。
 この今川家人質時代は,家康にとって居心地がよいものではなかっただろうが,三河松平の若き当主の扱いを受けるとともに,臨済寺の太原雪斎(たいげんせっさい)という僧から教育を受けた。当時の駿府は,多くの公家衆や学僧,能楽師などが集まる大文化都市だった。家康はその文化を吸収して育ったが,一方では「三河の小坊主」とも呼ばれ,今川家の中には自分をいじめる人もいれば,自分を大切に教育し育ててくれる人もいる,上に向けてはいいことを言っている人が,横・斜め下に向かってはこんなにひどいことをする人もいるのか,などと生身の人間模様を見ながら育った。自分に利益にならなければ,鼻にも引っ掛けない人,人を軽蔑し弱い者をいじめる人。一方では幼い家康を庇い,応援してくれる人。そのような環境の中で家康は8歳から18歳ごろまで育ち,人を見る目を養った。
 これらの三人を簡単にまとめて比較表現すれば,一人は子どもの頃から神童だといわれエリートコースを歩んだが,人の心が解らなかった人,次は下から上に向けて昇りつめたが,常に更に前進していないと不安であった為に無理をした人,三番目が人の表も裏もよく知り尽くすほどの経験をしながら育った人だった。それぞれの生まれ育った環境の違いが,異なった人生を生み出していったように思われる。
 この中で長く政権を取りうるタイプの人物は誰か。中国史に見られるように,常に上からの目線でしか見ていない人(信長型)はせいぜい数代くらいで終わってしまう。秀吉型は常に動き続けているタイプだから長持ちするのは難しい。長期政権を持つ下地をもっていた人物としては,家康型だと思う。
 それは人を下から,上から,斜めから見る見方を身につけ,人間とはどんな存在かについてよくよく分かっていた点が大きかった。家康が若い頃に味わった苦労,あれだけ歯を食いしばってやった経験。しかも彼は父親が幼い頃に殺されていたので,6歳ころには家長の位置に立っていた。いい意味で人を見る目の確かさ,人とはどういう裏表を持つか,そういうことを肌で感じながら育った。三人の中で一番長い目でものごとを見ることができるのは家康型ではないかと思う。
 政治家や指導者は,世の中のさまざまな利害を持つ人々の調整役の役割をもつので,人を見る目が重要だ。人を下から見る目,真ん中から見る目,上から見る目,三つの目を持つ,そのような人物はなかなかいない。そういう人が一番政治指導者に向いているのではないか。
 新しいリーダーは新しい能力を持って登場するが,かつて大久保彦左衛門は『三河物語』の中で,将に求められる資質として次の三点を挙げた。
1)武辺。戦闘に強く,的確な状況判断をもって勝つ。また負け戦を回避する器量。
2)身内の衆。つまり直属の部下,または指揮下に入ってくる本来は独立した友軍に対して,深く情けをかける器量(具体的には下級武士にまで,優しく懇ろに言葉をかけることの重要性が強調)。
3)領民,百姓,さらに敵方に対しても深い慈悲の心を持つ器量。
 主君がこれらの器量を持ってはじめて家臣たちが御恩を感じ身を賭して御奉公するものだという。この三つの要素は松平家(徳川家)では「三引き付け」と呼ばれたもので,家康の曽祖父,松平信忠が子孫に対して,この三つのものが一つでも欠けては「御家は立つまじき」と書き残し徳川家の家憲となったものを,もう一度譜代の武士として確認しているのである。

2.幅広い人材登用と柔軟な思考

 江戸時代は,信長が中世から続いていた旧い権威を木っ端微塵に壊し,秀吉が武士と農民を完全に分離して,地方に残る独立した地侍勢力を一掃したあとに,家康が圧倒的に強い軍事力を確立して平定したとみれば,江戸の平和はこの三人の共同作品ともいえる。しかし,家康が他の二人と違う点は,多くのブレーンを起用して政策決定過程に関与させているところである。とくに天下が視界の中に入ってからは,相次いでさまざまな人を身近につけている。
 外交分野では外国人をも登用した。秀吉が死んでわずか1カ月後には潜伏していた宣教師ジェロニモを伊勢から召還し,スペインの東西の基地だったフィリピンとメキシコ間の交易に参加することの仲介を要請した。
 さらに関ヶ原の戦いの年に,ウィリアム・アダムス(イギリス人,日本名・三浦按針)とヤン・ヨーステン(オランダ人,日本名・耶楊子)を召し出し,造船技師でもあったウィリアム・アダムスには西洋式外航船の建造を命じた。関ヶ原の戦いの翌年には,日本船の貿易を秩序立ったものとして行なうために朱印船制度をつくり,フィリピンの総督,安南国など東南アジアに通告した。これは戦国時代からの倭寇問題を解決し,正規の貿易ルートを確立するためであった。
 また,文禄・慶長の役で滅茶苦茶になっていた朝鮮半島および中国との関係修復にも力を注いだ。幸い家康は文禄・慶長の役には出兵していなかった。そして秀吉の朝鮮出兵によって捕虜として連れてこられた人々の内,帰国を希望する人々を全て送還した。また姜沆,鄭希得,洪浩然などの儒者を厚くもてなし,藤原惺窩などと交流して日本に朱子学をもたらした。藤原惺窩の門人であった林羅山は,家康のブレーンとなり,朱子学を中心とする幕府の学問体系をつくった。朝鮮との友好関係は幕末まで続き,将軍代替わりの旅に500名規模の朝鮮通信使が来日した。
 京の禅僧で足利学校第9代学頭であった三要元佶(さんよう・げんきつ)禅師を招き伏見に圓光寺学校を開き,十万余の木活字を作り,『貞観政要』『孔子家語』などを刊行した。さらに大御所となって駿府に移った後は,銅活字を十万強鋳させ,林羅山,金地院崇伝を中心に臨済寺,清見寺などの僧侶を動員して活字印刷本の刊行を続けた。
 そのほかにも土木の天才である大久保長安,堺の豪商・茶屋四郎次郎をはじめ,多くの民間人を起用している。このことが,まったく新しい,現代風にいえば民間の活力を中心とした江戸時代というものを作り出した大きな要因だ。
 ところで秀吉にはブレーンと呼べるような人材がほとんど見当たらない。戦国時代は,武将の器量が問われる新しい時代だったが,その一方でその器量を慕って家臣となる武士の大きな役目は,主人が間違っていると感じたときは厳しく諫言することでもあった。これは時として命がけのことだ。器量ある主人はその諫言を重く受け止めるだけの受容力をもつ。秀吉の周囲にはそのような人材がいなかったようで,この点は彼の致命傷だったと思う。
 もともと家康はその勢力が拡大するたびに,次々と新しい武士を登用していった。三河武士は一番古い譜代で徳川家臣団の中核を形成したが,合戦のたびに,領国が広がるたびに新しい人材を取り込んで強力な軍団を築いていった。決して自分の子飼い,三河譜代だけを重用したわけではなかった。
 武田家を滅ぼしたとき,信長は徹底的な落武者狩りを命じて,武田家の武士の殲滅作戦を実行した。一方,家康は,わざわざ信濃滞陣を延ばして,できるだけ多くの武田家臣を召し抱えたと言われる。将来の敵となりうるものを殲滅しておく方がよいのか,これをまたとない人材プールとみて役立てようとするのか,二人の性格の違いがよく分かる逸話である。
 実は,私の関係する団体の一つに,旧幕臣の子孫の会「柳営会」がある。武家作法の研究や武家茶会の開催,ご先祖の事跡研究などをやっている会だ。その会員を見ると,元今川家臣,武田家臣,北條家臣をご先祖に持つ方も多い。これをみても家康の懐の広さが分かる。
 家康の見識で興味深いことのひとつは,古いものをどんどん復活していったことがある。戦国時代に約十年にも及ぶ応仁の乱で京都の街は焼け野原となり,多くの公家たちは地方に逃げていってしまった。織田信長も若干は焼失した古い建物を直したが,家康をはじめ歴代将軍は,古き名刹の本堂など多くの寺社を建て直した。京都御所,二条城,清水寺など京都の史跡は江戸期に徳川幕府が建て直したものが多い。
 神社・仏閣の創建や再建に加えて,宮中の儀式,伊勢神宮の20年遷宮を100余年ぶりに再開したことなど,本格的に旧きよき伝統を回復したのは家康だった。そして神社仏閣に石高を与えると,それらが生き返ったのである。古くから伝わる日本の伝統を復活させようという気持ちを持っていたと思う。その一方で,オランダの国王に年に一回は定期航路で船を送るようにと要請しながら,免許状を与えて朱印船貿易を展開するなど進取の精神ももっていた。

3.清廉潔白な武士の精神

 江戸時代は士農工商の身分社会と言われるが,支配階級を担った武士の占める割合は全人口の5~7%程度であった。世界史をみると,社会の支配層は権力のみならず富も手にして裕福になるのが常だが,江戸時代の武士は時を経るにしたがって貧しくなり,その一方で農工商階級は経済力を増して豊かな社会をつくったことは,大変珍しいことといえる。外国人にこのことを話すと,ほとんど信じてもらえない。
 その背景には,武士が土地を所有しなかったことがある。武士が住むところは幕府や殿様から拝借している土地・屋敷であり,個人が所有しているものではない。武士が「知行」としている農村の土地は村人たちが所有権を持つ土地で,武士が持っているのは年貢の徴収権だけだ。
 例えば,「500石取りの武士」というのは,500石の米を生産する自分の知行(土地)から得る年貢で生活する武士ということ。実際には自分の知行地から500石の35~40%の米を年貢として得て,そこから自分の家で消費する分を差し引いた残りを市場で売却して現金収入を得て生活する。「知行取り」の武士は比較的高禄の武士である。
 一方,下級武士たちは,自分の支配地は持たず,幕府・藩から直接米の支給を受けた(これを「蔵米取り」武士という)。
 江戸における米の現物支給は浅草の幕府御米蔵で行なわれた。支給日に多数の武士たちが殺到するが,実際には「札差」と呼ばれる代行業者がいて各武家の現物で必要な分を除いて米問屋に売却し,現金で武士たちに手渡した。この札差は金融業も兼ねており,生活が苦しくなった武士たちに米の支給を担保に融資をしたために,武士たちは数年先の支給米まで担保にして借金を重ねることがよく行なわれた。
 江戸時代初期には「米」は生活と経済の中心であったが,貨幣経済が発達するに従い,米以外の数多くの商品や奢侈品の生産・消費が経済の中心となっていったために,GDPに占める米の割合は急激に小さくなった。しかし武士は最後までパイの縮小する「米」に収入源を依存していたから,時代が経るにしたがって相対的に貧乏になっていった。ゆるぎない武士の誇りを持ちながら,組屋敷に帰ればせっせと内職に精を出す武士たちの姿には同情を禁じ得ない。
 経済力は低いが教育水準が高い知識階級で,武士のモラルという特殊な道徳観念に従う武士階級が社会の上部構造を形成し,その下には洗練された経済社会・市民社会があるという,江戸時代の社会構造はユニークなものだ。この構造が,江戸社会を単なる拝金主義的な,経済一本の社会とは一味も二味も違った独特な社会にしたと思う。江戸時代は同時代の中国や朝鮮と同じく儒教を基礎とする社会であったが,目の前で武家がこんなにも貧乏になっているのが庶民に見えていたので,反乱が起きようもなかったのではないか。ここに世界の封建社会と日本のそれとの違いがあるように思う。
 最近,「武士道」に関する本が目に付く。そこで江戸初期の儒者かつ軍学者だった山鹿素行の考えを紹介したい。
 素行は「農は耕し,工は造り,商は交易に従事し,夫々額に汗して働く」のに対して,「武士は不耕,不造,不沽の士」だから,何も自覚しなければ「遊民,賊民」であると断言する。武士は自らの職分を自覚することが不可欠であるが,その武士の職分は「人倫の道の保持」である。
 そして「(武士の道は)主人を得て奉公の忠を尽くし,朋友と交わりて信を厚く,身を謹んで義を専らとするにあり。農工商はその職務に暇あらざるをもって其の道を尽くし得ず。士は農工商の業を差し置いてこの道を専ら勤め,三民(農工商)の間聊かも人倫をみだらん輩を速やかに罰し以って天下に天倫の正しきを待つ(のが武士の役目である)」と結論付けた。
 そして三民の師表たるべき武士,それも政府の中枢にある武士が「金銭的利益」のために武士のルールを破ることの道義的責任が重く見られたものと思われる。「不耕,不造,不沽」である武士の道義的責任は実に重いものであった。
 武士はお金の話や,高い・安いなどということは口に出してはいけない。「食わねど高楊枝」であり,子孫に美田は残さず,というのは比喩ではなく現実そのものだった。
 武士の教育は武士たる人格の形成が目的だった。知識の多寡を問うものではない。「利」を追うようなことは「卑しいこと」として扱われた。この大変な武士たちがきっちりと社会の上部構造として存在し,利益追求だけが社会のルールではない世界をつくっていたことが江戸時代を世界の文明の中でも極めてユニークな文明社会として輝かせたのではないかと思う。
 論語に「君子は義に諭り,小人は利に諭る」という言葉がある。多くの武士たちはこの言葉に殉じていった。中国・朝鮮はともに儒教を国教とした国であったが,その実践においては日本の武士のほうが最も忠実に清廉潔白を貫いたと思う。また西洋の貴族たちの土地や資産に対する考えは,これと全く違っていた。彼らは近代へ移行する中で,あくまで貴族の領地は貴族個人の所有物であると主張した。
 大名について言えば,江戸時代に大名の配置換えが頻繁に行なわれた。国持ち大名,または国主と呼ばれた外様大名たち,加賀の前田家,薩摩の島津家,陸奥の伊達家,肥後の細川家などは動かないが,譜代の大名たちは頻繁に移動した。老中に就任するのに遠地では不便である,仕置き(政治)がよくないから石高を減らして転封するなどなど,理由はいろいろ挙げられた。そのたびに家臣団は殿様と一緒に移転する。これを「譜代の悲しみ」と書いたものもある。当然ながら農民はその土地に残るなど,庶民は一人も動かない。
 藤堂高虎は「我等は一時の国王,田畑においては公儀のもの」と書いているが,「土地は公儀のもの。百姓は公儀の百姓」という概念は戦国時代からあった。
 それでは「公儀」とは何か。「公儀」という概念は抽象的な意味での国家そのもの,国家としての政治機構を漠然と意味するものであって,どの個人をも指すものではない。幕府という国家機構は「公儀」であるが,将軍個人は「公方」ではあっても「公儀」ではない。「公儀」は長い歴史の中で日本人全体に合意された「国家」「公のもの」という概念であった。日本人は,武家であろうと農民であろうと,すべてその「公儀」の一員として「役」を平等に果たす義務がある,その意味では全く平等である,という概念は,長い間日本社会の基本的な合意事項であった。

4.参勤交代の意義

 街道を使った旅の中で大きなものに参勤交代がある。各大名は参勤交代によって経済的に大打撃を受けたと言われるほどに,非常に評判の悪い制度であった。しかし実は,これにもいい面があった。すなわち,統治方法としての長所である。
 ヨーロッパには統治方法として,主に二つのやり方がある。一つはベルサイユ型。各地に土地を持つ公爵,伯爵,男爵など領主は,全員ベルサイユ(国の中心都市)の一つの宮殿の中で暮らし,自分の田舎には帰らない。日本に譬えれば,京都の公家と同じだ。公家は荘園を持っていたが,自分はそこに行ったこともなければ,見たこともなく,京都に暮らしているだけだった。こうなると全く現地に対する皮膚感覚がなく,農民の生活も知らない。現地で凶作のために農産物がとれなくなっても,それを肌で実感することはない。領地の人は自分のもとにお金を送ってくるものだと考えている。農民の事情にはおかまいなしで,ベルサイユで優雅な生活を享受している。このような集中型の場合は,地方の反乱が起きやすい欠点がある。フランス革命もそのような中で起きた。
 もう一つはドイツ・東ヨーロッパ型で,ベルサイユ型とは対照的に,貴族達は自分の領地から一歩も出ないで現地の城に住んでいる。宗教(教会)と一体となって支配する領邦国家である。そうした背景から,ドイツには今でもパリやロンドンのような大都市,国の一大センターがなく,今でも州の権限が強い。
 ちなみに,ドイツは徳川幕府が崩壊する直前に最後に通商条約を結んだ国だ。プロイセンの使者がやってきて,プロイセンなど26カ国(領邦国家)と通商条約を結びたいと言ってきた。当時は,まだドイツという統一された国はなく,プロイセンは26カ国の代表としてやってきたのだった。26の各領邦と通商条約を結びたいというので,幕府は困惑し,交渉には一年近くかかり,最終的にプロイセンとだけ条約を結んだ。
 これらの二つ方法から良いところをとったやり方が参勤交代と言える。各大名は隔年に江戸に滞在するために参勤交代する。確かに江戸屋敷の維持費がかかる上,道中の旅費も相当なものだった。しかし,北から南までの武士と若者たちを巻き込んだ組織的な,官費による長い旅と江戸滞在の制度が二百数十年間続いたことで,日本の文化のあり方を大きく変えたのだった。
 例えば,江戸城に詰めた大名たちは,そこで新しい情報を得て国に帰っていく。また津軽と薩摩の武士や百姓の若者が会津と岡山の武士などと同じ大都会の空気を吸いながら,並んで浅草観音の前で口を開けたり,芝居小屋の看板を眺めたりしたのだった。若い武士は江戸の道場に通い,塾で勉強した。今でいう「広い人的ネットワーク」が形成されたのだった。世間を知り見聞を広めて視野を広くするその効果は,当時にあってはたいしたものであった。ある意味で,こうしたプロセスを通して,自分は加賀人であると同時に日本人であることに目覚めていったのではないかと思う。
 結果的にみれば,日本のやり方が一番合理的だったのではないか。そしてそれが明治維新以後の近代化の下地を準備したように思う。

5.成熟社会のモデル

 戦国時代という「戦争の時代」が終わり,「平和の時代」となった江戸時代は,最初の百年余りの間,人口増加とともに経済が著しく発展していった。16世紀末から元禄時代までの100年余で人口は約2.5倍の約3000万人にまで増加。この時代のピークは元禄時代で,実にさまざまな分野の文人がたくさん現れた。例えば,狂歌・狂詩の太田蜀山人,国学・漢学,和歌の村田春海,浮世絵師の山東京伝,小林一茶,式亭三馬などである。
 また優れた匠たちの技に対しても惜しみない賞賛が与えられ,農業の技術改革や農村を支える思想など,農民の手によって書かれた多くの本が広く読まれるようになった。この新しい時代の寵児たちの才能をもって囃したのは謹厳な武家階層よりは,むしろ自由と平和と経済力を満喫していた武家以外の社会であり,豊かさを肌で実感し始めていた農村であった。
 ところがこうした元禄時代をピークに上り調子一本やりの時代が終わると,人口や経済が,それ以上の拡大の余地を失って平準化し停滞する時代に入っていった。18世紀に入り華やかな元禄から宝永年間に入ると,浅間山噴火,地震,大津波,富士山の大噴火(宝永山が出来た),寒冷化などの自然災害が次々に起きる。平和の果実であった華やかな時代は一転し,地方は極度に厳しい生活を強いられる状況となった。人口の急増も終り,社会全体の老年化が進む。
 この時に8代将軍・吉宗が登場した。いわゆる享保の改革で吉宗は,加熱した市場経済を引き締めると共に,幕府財政の建て直しを図り,民政に次々と新しい手法を取り入れ,江戸時代のあり方を新しいステージに一歩進めたのであった。
 それまでの豪華絢爛な元禄文化を越えて,18世紀以降,お金のかからない庶民の楽しみがどんどん現れてきて娯楽の質が変わった。例えば,桜の木を植え,お花見ができるような公園を整備した。御殿山のお狩り場を開放して花見の場にした。庶民は酒を飲み,花見を楽しんだ。朝顔のコンテストを始めると,多くの人が朝顔作りに精を出した。朝顔のみならず,菊作りも始まり,それらの賞金は意外に高かった。また落語が出てくる。それまでは紀伊国屋文左衛門が千両のお金で吉原を貸しきったなどが羨望の眼で見られていたが,そうした価値観が大きく様変わりした。
 俳句は江戸初期からあったが,このころから川柳と呼ばれる新しい滑稽文学のジャンルが誕生し盛んになり庶民に広がっていった。川柳の市中公募には常に数万点の応募があったといわれ,江戸の人々,老若男女,大商人から長屋の大家さん,熊さんたちまでがいかに川柳を楽しんだかがわかる。そのほか,歌舞伎,屋台の食い物など,金のかからない庶民の楽しみが行き渡り,江戸後期の文化・文政時代の,温かい,そして華やかな江戸文明の時代が創り出されて来る。
 江戸時代,だいたい60年ごとに「お伊勢参り」のブームがあった。最初が江戸初期の慶安のころで,そのあと第2回目が18世紀初め,さらに明和期,文政期と続いた。とくに第3回目,第4回目は総人口の約15%にも及ぶ人々が伊勢神宮に参詣したという。お伊勢参りは,ブームの期間以外でも誰もが一度はやりたいものであったし,そのほかにも,善光寺参り,成田山,江ノ島の弁天様,大山詣,富士宮などの参拝行事は大変盛んであった。日本は世界で最初の庶民が旅行を楽しんだ国であったと言える。
 元禄ブームの去った宝永から享保の時代は,日本が高度成長期・バブル期を過ぎた今日の日本社会と良く似ていると感じている。人口も戦後7000万くらいの人口が1億2千万まで増えてピークを迎えいまや減少し始めた。産業発展も横ばいの時代だ。近年,東日本大震災だけではなく天災,災害が多発している。これは元禄ブーム後の日本が直面した「不景気」と酷似していると感じる。この不景気を乗り越えて,江戸の人々が「お金」だけが大切なのではない平和で豊かな社会を作ったことを想い出してみたいと思う。
 人間の楽しみとは何なのか。お金があればそれで楽しいのか。何でもお金に換算する考え方が行き渡ったのは,戦後,もっといえば,ここ20~30年前(昭和40-50年代)からではなかったか。
 いま,日本のみならず,世界に共通する新しい価値観,新しい楽しみ,喜びの定立が必要なように感じる。今日が文化・文政時代と同時代だと見れば,どんな新しい楽しみの花が開くのか。カネ中心ではない自然と共に生きる新しい文化について,よく考える必要がありそうだ。諸外国も高齢社会に入りつつある中で,平和を守ることを国是としている日本の取り組みは世界の先例になるに違いない。

(2013年5月8日談) (「世界平和研究」2013年夏季号より)