「近代」という病弊を超えて
-民俗知の復権

東北芸術工科大学教授 田口洋美

<梗概>

 日本国内の狩猟研究から世界の狩猟研究へとフィールドワークによる研究を進めていく中で,近代社会が目を向けてこなかった「文化継承リスク」という問題に突き当たった。それは,世界中で進行している問題であり,伝統的生活文化に対する評価と継承のあり方への問いでもある。またそれが,今日の混迷久しい人文諸科学にも深く関わっているのではないか。学問的危機を超えるためには,「思考の轍」を超える勇気と人々が歴史的蓄積の中で醸成してきた民俗知(民族知)を掘り起こし,倫理,哲学に根ざした学融合的な発想へと転換する必要がある。

1.マタギとの出会い

(1)マタギが教えてくれたこと
 私は若い頃,映画制作の仕事に従事していたが,そこから研究者の道に転換していくきっかけになったのが,三面(みおもて 新潟県村上市)に生きるマタギたちとの出会いであった。その転換の経緯は,自分史において思想的に非常に重要なターニングポイントであったと考えている。当時の自分が感じ考えていたことが果たして正しいか否か,なかなか判断ができないけれども,当時から今日まで自分を支えつづけてくれたのは,国内では東北のマタギ,狩人,農家,漁家の人々など第一次産業に従事している人々であった。海外では30代半ばで知り合ったロシア極東のウデヘ民族の狩人たちであった。彼らに共通するのは自然に依拠して生活する点である。つまり大地を耕す,海に網を張り釣り糸を垂れる,山や森に入って獣を追う,木を植え,また伐るなど,自然を相手に成立する生活を重ねてきた人々であった。私の旅のきっかけとなった三面では,人々の生活に触れながら,彼らの行く末が危ういことに気づかされた。
 当時,マタギたちが教えてくれたことは,「できるだけ多くの事実を見ろ!」ということであった。山について思いや想像をめぐらしたところで,実際に動物が獲れるわけではない。どうすれば動物が獲れるのか。そのためには事実の観察と経験の積み重ね以外に近道はない。自然科学,人文・社会科学を問わず学問は,日々の自然や人間の営みを観察し,その情報を蓄積して,その中に傾向や特性を発見するところから始まる。村の人々の日々の営みの中にも「学問的」思考があることに気づいた。例えば,マタギがクマを一頭獲るとき,彼らの思考にはまさに学問の流儀と同じような経験の反復が存在する。言い換えれば,人間の発想は学問でも生活者でも類似していることに気がついたのである。
 マタギは「獣を獲るなら獣に倣え」とよく言う。「倣う」とは,観察をし獣の立場になって思考することを意味した。クマは,こういうところに足跡をつけ,このような行動をとる傾向がある。同じように実がなっていてもある木にはクマは登るが,ある木には登らないのはなぜか。動物は無駄な行動はとらず,確実に食を確保をしようとする。そこでマタギたちは,動物の行動を観察してシステマティックなやり方で,各々の役割分担を果たしつつ集団全体として行動しクマを獲るに至るイメージトレーニングを繰り返している。
 また「たくさんの事実を見て,ちょっとだけ思え(考えろ)。その逆はダメだ。(逆の人は)事実を見ずに自分の思いで見ているだけだ。自分の思いの強い人は研究者,記録者にはなれない」と先輩から言われた。その言葉が自分の心の中で成長していき大きな位置を占めるようになった。例えば,ある事実を映画に記録するにしても,記録する人の思考によっては事実を歪めてしまいかねない。それで私は当時から(ドキュメンタリーを撮る人々に対して)そのことを意識し批判的に見てきた。つまり,自身のイデオロギー的な思考や眼差しで地域を見るのではなく,地域の人々の眼差しや思考から地域の考え方や価値観を発見するという逆の視点を意識してきたのである。それを「土地のもの云い」と名付けた。
 さらに「獣のことは獣に,山のことは山に倣え」「百姓するなら野の草を食え。マタギするなら野の肉を食え」「山は半分殺して丁度いい」などといった日々の生活のなかから生まれ出た生々しいことばの数々を村の古老たちから聞かされ,そこに自然と共に生きる人々の民俗知(民族知)の世界を発見した。

(2)文化継承リスク
 私の旅というのは,1980年代,日本の高度経済成長期の後半,バブル前夜から始まっている訳で,当時の地方というのは若い人々の多くは田舎を離れて都会に出て行ってしまっていた。お盆のころに私が三面に滞在していたとき,都会に出て行った若者たちが次々と村に戻ってきて家々が若い人で溢れた。しかし数日後にはもとの静けさに戻ってしまう。そして残された爺さんや婆さんが子どもや孫たちを見送る姿が目に焼きついた。そのとき私は余所者として一人ぼっちになり,自分の田舎のことに思いを巡らせた。その寂しそうな爺ちゃんや婆ちゃんの姿を見ながら,それはまさに自分の両親の姿でもあったことに気付かされた。他人事ではない自分の問題であると実感し,このことをきっかけにして近代以降の産業化社会への変動と若者の生き方や社会のあり方を再考するようにもなった。
 私の田舎(茨城県東海村)は原発の村で,かつて米軍射爆撃場もあった。70年代に反原発運動や米軍基地反対のデモ隊がよくやってきた。あるときデモ隊の女性からビラを渡され「ここに住んでいて恐くない?」などと言葉を掛けられたことがあったが,それを子供心に高飛車な物言いだと感じた。「自分たちの考えが正しいのだから,あなたたちもそれに従いなさい。教えてあげる」そう感じた。なぜそれに従わなければならないのか理解できなかった。「(彼らから見れば地元の人は)可哀想かもしれないが,当人たちは納得しているのだからそれでもいいではないか。余計なおせっかいをするな」と思ったものだった。それは極めて保守的で排他的な,既存の思考,いやふるさとの人々が累々と重ねてきた「思考の轍」の中にはまり,自らもその轍を踏むことによって安心を得ようとする,そうした民俗知の負の連鎖を継承することでもあったことに,後々気づいてゆくことにもなった。
 実は,東海村の原発計画は戦後間もない昭和24年ごろに立てられていた。新しい技術導入のために外国人の専門家をはじめ東京からも大学の研究者がたくさん村にやってきて集住していたので,小さい頃からハイカラで別世界に住む人々と交流する機会があった。このような経験を通して感じたことは,近代と土俗,断層ということであった。旧い慣わしの中で流れる時間と時代の最先端を流れる時間,その二つの時間が層を成して流れている実感があった。自分が映画にかかわるようになった根底にはそのような体験があると思う。
 なぜこうなってしまったのかと考え,三面の人たちと夜を徹して話をしたことがある。三面の小池定一さん(故人)は,ダム建設によって村が水没しようとするとき「この村はいずれなくなる部落だ。俺らはここで生きていく教育を子どもらにしてねぇもの」と言った。この言葉が自分には非常に重くのしかかった。つまり,三面という山間の村に生まれても山で生きていくための知恵(何が食べられて,何が食べられないかなど)や村を維持するための考え方などを子どもたちに伝えてこなかった。子どもたちは国が決めた教育課程に則った事柄を勉強し,都市に出て行って稼げば幸せになれる,自分たちのような古い生き方はだめだと信じ込んでいた。われわれの親の世代あたりから地域で生きて行くための知識や知恵,技術などの伝承,継承の機会がすっかり消えてしまっていた。
 これは文化継承リスクの問題(現代社会において伝統的文化を継承することはリスクを伴うという意味)だが,そのような考え方を若い人たちに植え付けたのは大人たち自身だったのではないか。大人たちが若い人たちの生き方を狭めてしまった。つまりいろんな幸せ(生き方の選択肢)があっていいという多様性ある生き方を子どもたちに見せようとしないで,更に言えば自分の生き方という選択肢を除いて,都市的な生き方がいいとそれだけを目指すよう教育した。それが国家の手法だったのかもしれないが,国民は無邪気に便乗してしまった。それは近代という時代を生き延びるための手腕としては良いことであったかも知れない。しかし,その考え方を見直すこともなく100年も踏襲してきたことに疑問を持つようになった。このままでは世の中は壊れてしまうかもしれないと危機感がつのった。

(3)マタギ・サミットを始めた動機
 三面ではいろいろな人から話を聞いたが,その中でも気になることを話してくれたのが伊藤勘一爺さんだった。彼は「ダムができて三面がなくなれば,マタギもいねぐなるものクマは増えるべな。お前が俺くらいの年になる頃にはここはクマだらけだぜ。俺らは北に追われた昔のアイヌの人方と同じで,マタギも世の中の流れで滅びていくんだわ。俺たちの親父や爺やたちもこの山で生かされて命をつないできたども,俺らの歴史(文化)はここで終わるべな。これを引き継ぐ者はいねぇ。やがてこの国に何が起きるかは俺は知らねぇ。山に仕える若い衆なんぞは今後は出ねぇべな。そのときには山は恐ろしいものに変わっぜ。自然は人のためだけにあるわけではねぇはで」と言った。
 当時その意味がよく分からなかったが,強烈な印象として心に焼きついた。その後,年とともに勘一爺さんが言ったことを見過ごしていたらとんでもないことが起こるのではないかと感じて,「ブナ林と狩人の会:マタギ・サミット」をはじめた(1990年)。それは,人間という生き物が自然と向き合う中で蓄積し培ってきた尊い思考や経験,技術を後世の人々に伝えて行く試みに他ならなかった。それは懐古主義的な過去の美談化ではなく,過去を知り,過去を乗り越えて行くためのバージョンアップという意味である。
 奥三面ダムの建設によって奥三面集落の全戸移転が完了したころ(1985年),私は秋山郷(長野県栄村)を経て阿仁(あに 秋田県北秋田市)に通い始めた。20代の後半だった。阿仁で出会ったマタギがしきりに新潟のマタギのところに行きたいと言ってきた。秋山の人たちは先祖が阿仁なので阿仁に行きたいと言い,三面の人たちは秋山や阿仁に行きたいと言う。
 当時,動物愛護団体の運動が非常に強烈で,彼らからマタギの家に「クマ殺し!クマを殺す前にお前が死ね!」などという脅しの電話がかかってきていた時代だった。そのとき私は,このままマタギの人々を孤立させていたらつぶされてしまうと直観した。そこで孤立させないために横のつながりを作ったらどうだろうか,同じような歴史と境遇を生きてきた人々がつながればと考えて,「一回集まって酒でも飲みませんか」とマタギたちに呼びかけた。周囲の人にこの話をすると,もし何かあったら誰が社会的責任を取るのかなどと否定論を言われた。そのとき民族文化映像研究所の所長,姫田忠義さんに相談したら,「理屈は後からついてくる。理屈を先に考えては何も面白いことはできない。君しかできないことだから,やってみてはどうか」と言ってくれた。それが「マタギ・サミット」出発の後押しとなった。秋山と阿仁からあわせて十人が三面に集まり,総勢三十数人の第1回マタギ・サミットとなった。その後,阿仁で開催したりしながら次第に他の地域のマタギも参加するようになって,今では100~200人規模になっている。

2.学問の危機

(1)戦前の歪んだ民俗学研究
 マタギと出会いその実態を知るようになってから,マタギに関する先行研究を調べてみると,戦前のマタギ研究の記録方法が間違っているのではないかと疑問を持つようになった。大日本帝国時代に軍部の都合のいい形でマタギという文化が利用されたのではないか,という疑問がわいた。マタギに関するさまざまな事実の中で,ある事実は強調するが別の事実は強調しないというようにフィルターをかけて記録が行なわれてきた可能性が高いと感じた。民俗研究者も帝国の強力な政策のなかで利用されたかも知れない。
 マタギはクマだけを獲っているわけではない。カモシカ,イノシシ,シカ,小動物も獲っていたのに,クマだけが特記されてきた。クマという大きくて獰猛なイメージを有する動物に対して,“シカリ”(マタギの長)の命令一下,一平卒のようなマタギたちが統率されながら動物を追い込んでゆくというストーリーが作られた。そのやり方は,まさに軍隊の手法を象徴するものとして,軍国主義高揚に利用することができる。そうでない事実を,当時(とくに昭和10年代)の研究者は表現することができなかったのではないか。
 彼らの論文や報告書を読んでいて「彼らはある事実を隠している」と気づいた。なぜなら,マタギたちの語りと,当時の研究者が記録したこととが食い違っていた。マタギがやってきた猟は「生活のため」(現金が欲しい,換金資源としての肉や毛皮,漢方の資源が欲しいなど)のものだった。ところが,当時の記録を見ると,多くが武勇伝的な記録となっており,日本民族論,武士道,文学的視点で謳いあげられていた。

(2)戦争と毛皮生産
 戦後の研究もこの流れを自明のこととして踏襲しているように思えた。私は現実に聞く話と資料が語りかけるものとの間にズレがあり,どこかおかしいと感じた。そういう中での研究者のあり方が非常に気の毒に思えてきた。そこでこのズレを突き破る何かがないかと探す中で,防寒毛皮の問題に行き着いた。
 「ムササビを一晩に3羽獲れば公務員1カ月分の給与に相当する」などという話は以前から聞いていたし,またそのような聞書きは結構ある。しかし不思議なのは,なぜ当時毛皮が高く売れたのか。その理由,あるいは構造については誰も書いていない。人に話を聞いても裏づけを取らない。「そのようなものだ」で終わってしまう。そこでこれを裏づける資料を集めるのに10年あまりを費やして「生業伝承における近代:軍部の毛皮収集と狩猟の変容をとおして」や「狩猟・市場経済・国家:帝国戦時体制下における軍部の毛皮市場介入」という論文などにまとめた。
 明治23年ごろから,日本は毛皮の輸出国になっていた。その確実な証拠が出てくるのが明治26年ごろで,横浜港などから欧米向に毛皮が輸出される統計が残っている。当時の日本は,外貨獲得産業の一つに狩猟を挙げている。1913~22年の10年間で262万枚もの大量のイタチの毛皮が輸出された。最初は野生動物が狩られ(毛皮調達のために1929年に現在の大日本猟友会の元になる連合猟友会が設立),数が減り始めると動物飼育の方法に切り換えた。しかし,当時の日本には養殖技術がなかったので英国から養殖技術を導入して始めたのがアンゴラウサギなどによる養兎,さらに養狸,養鼬だった。
 外貨獲得産業であった絹が世界恐慌の余波を受けて大暴落し,養蚕農家が貧窮する事態に陥ると,国が副業として奨励したのが養兎業などの毛皮産業であった。あちこちの農家で毛皮のためにウサギの養殖が始まった。時を同じくして小学校でもウサギが飼われるようになった(1920年代)。最初に始められたのが青森県津軽の分教場だった。地元の子どもたちが貧しくて教材が買えないために,小学校のある教員が知恵を絞り,ウサギを飼育して育て,この毛皮を毛皮業者に売却することを考えた。ウサギの毛皮の売却収益で文房具などを買い,子どもたちが勉強できる環境を整えた。そのことを東京大学農学部のある教授が『婦人之友』誌にエッセーを書いたところ,一気に全国に広まった。そして昭和に入ると各地の青年部がウサギ狩りを始めた。農家の養兎と学校のウサギ飼育がうまい具合にかみ合ったのである。昭和6年に文部唱歌となった「ふるさと」の出だしが「兎追いしかの山・・・」となっているのは,まさにこのような背景があった。
 また日清・日露戦争が起こると寒冷地戦争のために,軍隊で大量の軍用毛皮が必要になった。軍部は弾薬と銃を持っているので民間にそれらを格安で払い下げて地元の猟師に狩猟を奨励した。一方,毛皮は毛皮商を介在させて軍部が高値で買い取る。欧米向の毛皮の輸出とともに,ウサギの軍用毛皮の需要が合わさって,毛皮価格が高騰した。その結果,狩猟者が増え,密猟者も増えた。そこに付け込んで入ってきたのが(地元以外の都市であぶれた人たちによる)にわか猟師たちだった。ニホンカワウソを獲り尽くしたのは,このにわか猟師たち(罠師)である。彼らは刹那的に商業狩猟に便乗した。
 こうしたことを受けて1980年代からつい先年まで生態学や動物行動学系研究者は「狩猟悪玉論」を唱えた。しかし狩猟者全部が悪いわけではないのに動物研究の研究者は「狩猟圧」ということを盛んに唱えて,狩猟圧によって野生動物が激減したと強調した。そのため野生動物の保護が急務であるとも主張した。それを受けた動物保護団体が,狩猟=悪としてマタギたちをも攻撃した。それが今は,野生動物が増えたので農作物被害軽減と生態系のバランスの回復をうたい狩猟者を増やし,駆除してもらおうと言い出している。
 私は自然科学が大好きである。ニールス・ボーアなどの量子論はときどき読み返す。私が狩猟と農耕の関係を説明するとき用いる相補性という考え方はボーアから取られている。
 しかし,その敬愛する自然科学者が当時振りかざしていた論理には,歴史社会的検証が成されてはいなかった。動物学系の研究者は狩猟の歴史的経緯や時代社会的背景に関して検証もしないままに印象論として狩猟を悪者に仕立て上げた。彼らの関心は動物のみに注がれ,人間社会の構造的変容に関する検証を捨象していた。やがて狩猟という文化や営みは冷遇されるようになっていった。そして現代においてもまた掌を返し,狩猟をツールとした個体群管理を謳いはじめた。
 これとは別に,浅間山荘事件(1972年)では盗難銃が使用されたことから,銃器に対する規制運動が盛り上がり(1970年代),大日本猟友会の会員がそのころを境に急激に減少し始めた。それまでは金持ちの趣味の一つが狩猟で,それはもともとヨーロッパからもたらされたハンティング・ライフとして別荘地とセットになって広がったものだった。そして動物愛護保護思想が西洋から入ってきた。加えて,そのころゴルフが普及し始め,70年代後半から80年代後半のバブル期にかけて最盛期を迎えた。狩猟を趣味としていた人々がゴルフへとシフトしていくと,やがてもともとの地域の伝統的狩猟者のみが残り,その後彼らは有害鳥獣駆除,鳥獣保護の現場で活躍する希少な存在となってゆく。
 狩猟をめぐる社会的変動が歴史社会的環境の中で起きていた。その構造をつかまないと未来が見えてこない。そこに人文系と自然系の連携の必要性を見ることになる。
 そして狩猟者の減少と野生動物の生息地拡大という現象が顕在化し,人々が鳥獣害に悩まされるようになる。近世以来の培われてきた民俗的知恵や伝統が文化継承リスクによって断絶した結果であろう。そうなると誰でもできる捕獲方法,即ち罠によって大量の動物が捕獲されるようになった。技術劣化が大量捕獲を生み出す温床となる。しかしそのはるか以前からそのようなことは予測されていた。

(3)学融合と学問の大義
 理科系研究者たちの多くは,人間を念頭において自然を考えていない。想定される生態系には人間がいない。人間不在の生態系の想定は,理想化された生態系でありラボ的な自然である。自然生態系内に人間が生存しているから環境問題が生ずるのであって,自然生態系の外に人間生存を想定するなら環境問題は存在しない。世界自然遺産区域から地域住民の活動を排除する考え方は,まさにラボ的自然を固持するものである。地域の自然は地域の歴史と共にあり,地域住民の合意を持って保護活動はなされるべきである。そこで問題になるのは,「ほど」であり「案配」であろう。その意味で,工学など理科系の学問と文科系・社会科学系の学問の学融合時代を拓いていかなければならない。今,時代が求めているのは哲学的,倫理学的議論の上に成立する科学的世界観ではないか。基本的なディシプリン,分野という柱を担保した上での応用性に富んだ自然・人文社会科学の融合分野の創設である。言葉上は学際,学融合などが聞かれるようになって久しいが,人間の思考はまだまだこのコラボレーションの実現にはいたっていない。それを阻害しているのが,「思考の轍」であり,学問上の組織の利害関係や損得勘定ではないか。多くの組織体が利益優先になっている。学問自体も自ら変っていく必要がある。学問のスポンサーは最早国民,市民社会であろう。私は人々に愛される学問を求めていきたい。
 少子高齢化や大震災,原発事故,火山爆発など,さまざまな事故や自然災害が今後も発生するだろうし,野生動物も動きを活発化させるだろう。そうした中で,学問は人を死なせないための努力をしなければならない。そのとき学問組織の損得を考えていられるのか。良心のある人々が中心となり,理科系,文科系を超えた横断的議論ができる雰囲気が大切だ。学問は何のためにあるのか。それは人々の幸福のためにあるのだ。商業主義がはびこる現代にあって,大義に生きる必要がある。大義とは理性としての学問,その学問が正しく評価される時代を作っていく。自分たちを守ろうとする努力が,結果的に自分たちを追い込むことになってしまったのでは元も子もない。
 世の中にはさまざまな賞を取らなかった無冠の王がいる。そういう人々をわれわれが評価していかなければならない。学問というフィールドの中で,ともに生きる仲間を再評価していく。われわれの学問が行き着く場所は,人々の生活の場,日常でなければならない。法律,工学,医学,社会学,経済学,なんでもそうではないか。今の学問は余りにも細分化し複雑になりすぎて,本来学問が目指さなければならない大いなる目的を忘れてしまったのではないか。業績・評価主義の行き過ぎが,どこか社会を歪めている。
 例えば,民俗知が重要なのに原発に関してはそれがない。原発関連の事故はこれまでも日本で何回か起きている。事故の多くは人災の部分が大きいから,組織的レベルでは何らかを学んだはずである。東日本大震災のときに,東海村の原発に対する緊急対応を見てみても,過去にJCOや動燃など原子力関連の事故を経験したにもかかわらずしっかりとした対応ができておらず,「やはり行政はダメだ」と感じた。住民が最も欲している肝心な情報は発信されずに,非常事態の中では意味をなさない情報を発信している。それは東海村だけではなく,多くの自治体でもいわれている。つまりここにも学びがない。いや,むしろ原発に対する民俗知は今現在醸成されて行くプロセスにあるのだろう。
 脱原発・反原発の議論をみると,学問の危機を感じざるをえない。今,学者が何を主張しても信じてはもらえないのだろう。学問の権威が地に落ちてしまった。マスコミや評論家などが恐怖と学問不信を煽ったということもあるだろう。震災が起きたときに,学者・研究者が発した言葉が「想定外」だった。しかし科学者こそ想定外のことを扱う人たちではなかったか。バナールのいう「人間の拡張」,科学は人間の限界と向かい合う,絶えずフロンティアを求め,想定できないなかに想定できる世界を切り開いて行こう,その可能性を探る仕事であろう。それを想定外と言った瞬間,閉じてしまうように思えてならない。
 現代社会は,すでに住民,市民,消費者がある意味では一番強い存在となっている。市民権力の時代といっても良い。マスコミ,政治家,研究者にとって最も恐い存在は視聴者であり,有権者であり,消費者,選択者である市民なのだ。国民に対して彼らがなるほどと頷くような説得力ある言葉が発せられる媒体や組織がない。事実関係の全体をきちんと俯瞰できる総合的な知見を有する人がいない。自分で勝手に思い込んでストーリーを作っている。そういう社会は一種の病のようでもあり,大きく変化して行く時代の過渡期を現しているのかもしれない。
 また一方ではノーベル賞がもてはやされる。しかしその評価のあり方も産業・商業主義的評価に見えてしまう。理科系・文科系研究者がそれぞれ叡智を出し合って,提言するような学会がどこにあるだろうか。知・技術は使い方次第で,悪にも善にもなる。運用法を決めるのは人間である。それが環境問題の根幹に据えられなければならない。人間を研究する学問が最終的なイニシアティブを握るに違いない。環境学は基本的に人間のしでかした問題を,「人間が間違いをしでかす要因はどこにあるのか」と問い,人間が解決する学である。
 国立大学の独立行政法人化に見られるように,国は学問に対するパトロンの位置を降りた。かつて芸術家を支えパトロンとなっていた王侯貴族,教会が没落した後,芸術はどうなったか。芸術家は食べていけなくなった。そして産業革命後,大量生産,大量消費の中から生まれたのがデザインだった。産業化に対応した芸術の動き,アートの分流がデザインという分野を生み出したように,これから学問にも同様のことが起きてくるだろう。つまり商業主義化していく学問と純粋学問とに二分されていくだろう。
 産業・商業主義的学問,あるいは資本主義体制下の学問では商業主義的成功は評価されるが,そうでないものは評価されない。極論すればお金を生まない学問は評価の対象にすらならない。本当にそのような学問のあり方で,持続性ある教育や研究を育んでいけるのだろうか。いわゆる「アカデミック・キャピタリズム」の問題である。これをどうやって乗り越えるのか。公共財としての知と学問は,時代をどのように乗り越えていくのか。

3.地元に生きる若者を育てる

 次代を生きる若者を教育しているわれわれとしては,地域に若者を残したいと思う。自分のふるさとに対する知識がないままにふるさとを去った若者に対して,自分自身でふるさとの価値を再発見してもらうための試み。その仕組みを本学(東北芸術工科大学)の歴史遺産学科につくりだしている。それがフィールドワーク演習という授業で,大学と地域で学生を育てようというコンセプトである。生産者も消費者も育てる学科として,地域に生きていく,地域の未来を真剣に考える若者を育てたいという私なりの思いである。
 そのときどのような学問が必要か。われわれは,歴史学,考古学,民俗・人類学の三つを選んだ。「民俗・人類学」としたのは,民俗だけでは一国だけに狭くなる印象があるので,人類というレベルから自分のふるさとを考えることにした。そのような思考ができる若者を育てる。そのために体験型教育プログラムをつくった。
 例えば,「カンジキ」の作り方からはじめて,それを実際に履いて雪の上を歩きウサギ追いをする。マタギについて歩きながら,「2~4キロの肉を獲得するのに,これだけ動かなければならないのか」「命をいただくこととは,それほどのことだ」ということを学生に体験してもらう。村の人々は学生に,雪山の歩き方を一つひとつ教える。
 「俺たちは自分の子どもらにここで生きていくことは何一つ教えてこなかった」という小池さんの自戒の言葉を現代に活かしたいと思った。雪国山形の子もカンジキをはいた経験がない。大雪が降れば親に車で送ってもらうような若者たちが,「自分たちはこんなにも山形のことを知らなかった」と気づく。それに気づくと若者は大きく変わる。人間は気づくと「努力」という言葉が消えて,苦労を厭わずに喜んで知ろうとし無我夢中になる。我を忘れるモードに入ったときに,変化していく。
 本学科の地元帰還率は85%である。たとえすぐに職を見つけられなくても地元にいて確実にいい仕事を見つけていく。とくに震災後,親の生きている土地に帰りたいという学生が着実に増えている。
 東京でもし今回のような大震災が起きたらどうなるか。多くの人は(大震災をきっかけに頭では)わかっているのだが,行動に移せないままに,従来の生活を続けている。それは自分を変えられないからだ。このままこの国の形を続けたら,「大量死」が現実のものとなるだろう。東北の人たちは,東日本大震災で静かに並んで配給食糧をもらった。それは彼らが生産者として「ないものはない」と自覚して腹が据わっていたからだと思う。しかしコンビニさえあれば大丈夫という都会に暮らす若者は,同じ状況に置かれたらどうなるだろうか。
 太平洋ベルト地帯だけに国家機能のすべてが集中しているので,それを分散させるシステムを研究しなければならない。日本には災害安全地帯はどこにもない。災害列島に生きる多くの日本人は,現在の経済レベルを保ちたいと考えているのであろうし,分散させつつも国の機能を低下させずに機能を高めていく。分散すれば危機回避の可能性が高まる。

4.「思考の轍」を超えて

 多様な思考があるからこそ人類は生き延びてきた。多様な考え方,生き方を認めなくなったとき,人類の行く末は暗い。残念ながら人類は着実にその方向に進んでいる。
 中国でグローバル化について話をしたときに,ある中国人は「世界は一つの方向に進んでいく」といった。グローバル化は「部分の総和が全体ではない」ことを教えてくれている。グローバル化は世界を統一するのではなく,それとは相反するように,民族や宗教,個や集団が際立ってくる。一色に見える集団の中にも極めて多様な思考が存在し,あるものは共有できるが,あるものはできない。そういう多元的思考が複雑に入り組んでいるのが人間の世界であろう。
 世界は生物の多様性を認めた。今後は,言語,宗教,生き方の多様性を認めていく。人類総てが同じ考え方,同じ思考,同じ価値観でいくときに,経済は活性化するかもしれないが,多分人類は滅ぶだろう。これまでも人類は複数の集団が存在し,自然環境と社会環境に適応してきた結果,ある集団は滅び,ある集団は生き延び,その一つが現生人類につながった。地球上に人類が増えていき,環境急変によっても生き延びていくためには集団としての多様性を持たなければならない。
 『エスキモーの息子たちへ』(アンソニー・アパカルク・スラッシャー著,上野渥子訳)には次のような話がある。エスキモーの村で子どもが大人のところにやってきて肉が欲しいと言った。大人は「一緒に狩猟にいこう」と誘ったが,子どもは「狩猟とか射撃に関連があることはしたくない。そんなことをするのは野蛮人だけだ!」と断った。それに対して著者は「この子は滅びた民族の一人として福祉の世話になるしかない」と記した。この少年はまさにわれわれの自画像ではないか。近代的思考に無自覚にあぐらをかいていた「つけ」といえる。日本だけではなく,世界中が「文化継承リスク」の問題に真剣に向き合わなければならないときがきている。

(2013年4月4日) (「世界平和研究」2013年夏季号より)