大学大衆化時代の大学像
―フンボルト理念をもとに

名古屋大学名誉教授 潮木守一

<要旨>

 現在,日本には700を超える国公私立の大学があるが,時代の変化とともに多くの挑戦を受けている。近代大学史によればその嚆矢はドイツ・ベルリン大学だとされ,その基本理念は「フンボルト理念」といわれる。中世の大学パラダイムを転換させた「フンボルト理念」によって,ドイツにおけるアカデミズムの急速な発展が起こり,それを引き継ぐ形で今日につながる「大学院」を中心とする米国の高度な科学研究の発展がもたらされた。そこで200年前の「フンボルト理念」を原典から見直しながら,大学大衆化時代における大学(高等教育)の役割を考える。

 大学の起源は中世にまで遡るわけだが,近代の大学の嚆矢はどこかといえば,今から約200年前のドイツで学者・政治家・行政官であったフンボルト(Wilhelm von Humboldt,1767-1835年)の強い影響のもとに創立されたベルリン大学(1810年)に始まるとされる。それは,新たな画期的な「大学モデル」が登場し,そのモデルが今日に至るまで,世界の大学に強力な影響力を発揮したからである。しかし,いまそのモデルが崩れ始め,それに代わる新たなモデルを探し出さなければならない時代を迎えた。
 19世紀はじめのドイツにおける画期的な大学モデルを考えるときに,「フンボルト理念」という大学構想を避けることはできない。「フンボルト理念」については,最近の中央教育審議会(2004年)でも話題に出たほか,フンボルトの故郷ドイツでも話題になってはいるものの,その評価については大きく二つに分かれて対立している現状である。しかし,フンボルト理念が大学のあり方に大きな影響を与えた点では一致している。
 そこでここでは,フンボルト理念について吟味し,その世界への影響を見た上で,これからの大学および高等教育の方向性について考えてみたい。

1.フンボルト理念とは

 フンボルト理念を考えるに当たっては,彼の著したテキスト「ベルリンにおける高等教育施設の内的・外的構造」をもとに検討する必要がある。その中に次のような一節がある。
「大学では,学問をつねにいまだ解決されていない問題として扱い,たえず研究されつつあるものとして扱うところに特徴がある」。
 「大学では教師と学生との関係は,それ以前の学校での関係と違っている。大学では,教師は学生のためにいるのではなく,教師も学生もともに学問のためにいる」。
 言い換えれば,たえずいまだに解決されていないものとして学問を扱うのは,教師ばかりではなく,学生もそうすべきだという主張である。学生は学ぶためにだけ大学にくるのではなく,学生もまた「研究する」ために大学にくるのだという理解である。ここに「学ぶ学生」ではなく「研究する学生」という新しい考え方が登場していることに注目する必要がある。
 これまでの考えでは,大学の教師は一方では研究し,他方で学生を教育するから,大学は「研究と教育の統一の場」だと説明されてきた。しかしフンボルトは,学生にも研究を求め,大学とは教師と学生がともに研究する場とした。これがフンボルト構想であり,「学ぶ者と教える者との協同体」,これが「フンボルト理念」として語られてきたのである。
 この背景には,「すでに知識は定まっており,疑う余地のない不動のものだ,それを教えるのが大学だ」という伝統的な考え方があったが,フンボルトは「知識をまだ明らかにされてないもの」,すなわち進歩するものだという新しい知識観の登場があった。
 現実は,果たしてどうだったのか。現代の大学教師も,そのような考え方に対しては,講義さえ満足に聞き取り,ノートを取れないのに,研究などできるはずがないと反発を感じるに違いない。さらにベルリン大学が始まったときから,当時の学生はみな「与太者」同然の血気盛んな学生であったから,研究室や実験室にこもって研究に没頭することなど想像もできなかった。
実は,フンボルト型大学は,はじめから「与太者学生」「一般学生」を相手にはしていなかったのである。そこでベルリン大学は,そのためのしかけをつくった。それが「ゼミナール」であった。いま大学などで行なっているゼミナールとは,だいぶ違っていた。それを紹介しよう。
 ベルリン大学は,(大学創設2年後の)1812年に「古典学ゼミナール」と「神学ゼミナール」を設けた。このゼミナールは,図書室と資料室とをセットとした教室に,選抜された学生を集めて教師とともに研究をするという教育スタイルである。ある知見が確実なものかどうか,どうしてそう言えるのか,などについて学生と教師が互いに同じ資料を使いながら確認し,発見する知的作業であった。このような研究活動から生み出された研究成果を,その図書室兼ゼミナール室で発表し合う。議論の途中で疑問が出てくればすぐに原典や参考文献に当たり,その場で知識を確定していく。これが研究と教育の統一の具体的姿である。
 自然科学の場合は,実験室が作られ,そのなかで学生を巻き込んだ「現場密着型の実験室教育」が成立していた。現代では,実験室での実習は当然のこととされるが,当時はそうではなかった。ただ,ドイツで最初の実験室が作られたのは,ベルリン大学ではなく,地方小都市にあるギーセン大学であった。
 私がドイツのチュービンゲン大学に行って初めて「ゼミナール」の現場を体験したのは,1968年だったが,そのころも万巻の歴史書や歴史文献に取り囲まれるようにして,ゼミナールが行なわれていた。学生を研究させながら教育させるために設計された特別の空間がゼミナールであった。
 その後,私は米国シカゴ大学のゼミも見学したことがあった。かつてドイツの学問が世界最高水準だという評価が盛んだった19世紀末に,シカゴ大学はドイツの大学に対抗してつくられた大学だ(1890年)。この大学もドイツの大学と同じようにゼミ室は書棚に囲まれていたのだが,本はまったくない空の書棚だった。なぜか。かつては書棚にたくさんの本があったのだが,各研究室に本を置くという分散型図書館では,管理がたいへんで効率が悪いために,中央図書館を設けて,人文社会科学系の図書は全部そこに集約したのである。
 ゼミナール式教育は,講壇の上から講義ノートを読み上げそれを学生が筆記するという従来のやり方と比べると,はるかに効果的,刺激的で面白かったと思う。ときには学生も未知の事実を発見できる可能性があった。「研究を通じての教育」では,教壇の上からの一方的な講義では味わうことのできない,教師・学生を交えた研究への没頭が生まれたことであろう。新たな知識を求める者同志の連帯感,人類未知の発見を前にしての知的昂奮,そうした知的コミューン特有の高揚感があったことであろう。
 実はベルリン大学では,学生の大半はそうではない授業を受けており,ゼミナールに参加できるのはごく少数だけ(一つのゼミナールに10人程度の定員を設けた)であったから,一種の「エリート教育」といえるものであった。ちなみに,1819年当時,ベルリン大学の学生数は,神学部153人,哲学部180人で,その中でゼミナールに参加できたのは40人であった。余談だが,当時のゼミナールの規定について書いた本(原典)が日本の国会図書館にあるが,それはドイツの国立図書館にもないものだ。
 ただ,「研究を通じての教育」には別の局面もあったことも見逃すことはできない。つまり,確立したパラダイムにしたがって,こつこつ続ける「工場労働者型研究」である。例えば,朝から晩まで,古い記録を丹念にたどることなどであるが,これは常に刺激的であったわけではない。こんなことをやっていて,どういう意味があるのかという疑問を押さえ込むのに,苦労した学生もいたに違いない。それはとかく緩みがちな自分自身との戦いであったはずである。このように「研究を通じての教育」には対立する二つのベクトルが含まれていた。

2.米国へのドイツ・モデルの移植

 19世紀から20世紀初頭にかけて,世界各国の若者はドイツの大学を目指して留学した。それはドイツの学問水準が世界最高であるとの評価が,世界各地に広まったからである。彼らが求めていたものは,ドイツの学問的成果だけではなく,高水準の学問成果が生まれる秘密がどこにあるかにも強い関心を寄せていた。留学生は,ドイツの大学のゼミナール,実験室で学問的成果が作り出される現場を体験したが,それは自国では味わえない経験であった。こうして「フンボルト・モデル」が,世界に影響を与え始めた。その中で,ドイツ・モデルの移植に最も成功したのが米国であった。
 19世紀の米国は,多くのドイツへの留学生を出したが,そこでの体験は米国のカレッジとはまったく違った大学生活であった。
 19世紀までの米国のカレッジの教育方法は概ね次のようなものであった。科目ごとに指定された教科書があり,それが学生に与えられる。教師は教科書について解説や注釈を加えるのではなく,翌日の授業で教科書の何頁から何頁まで「復誦」し暗記するようにと指示する。翌日,教師は学生を次々に指名して質問し,学生は覚えたことを復誦する。これは退屈極まりない授業だった。
 しかし,彼らがドイツ留学して体験したものは,ゼミナール室や実験室での研究であった。研究は人類未知の知識にわれわれを導き,その中からいまだ誰も知らない新しい知識を発見することができる。彼らは米国とは対照的な大学のあり方を発見して驚き,それはやがて米国のカレッジ改革につながっていった。
 さまざまな改革が試行錯誤されたが,その中で現代につながる成功事例が,大学院の創設であった。米国の最初の大学院は,1876年に創設されたジョンズ・ホプキンス大学であるが,当時世界中を見回してもどこにも「大学院」と名の付く組織はなかった。大学院というしくみは,あくまでも米国独自の発明品であり,米国独特の産物である。現在,米国の大学院は,世界中で最も優れた教育機関として広く評価を勝ち得ている。
 ジョンズ・ホプキンス大学の話に戻る。資産家ジョンズ・ホプキンスの遺志を受けて大学をつくるところから始まった。その遺志を受けた理事たちの構想はカレッジの創設であったが,学長予定者であったギルマンは,1874年に大学院構想を発表した。当時,米国には800ほどのカレッジがあり,後発のカレッジをつくるのではやっていけないと考えて,新しい大学院構想を発表したのであったが,周囲からは冷たい反応であった。調整の結果,学部コースと大学院コースを持つ大学として,ジョンズ・ホプキンス大学が発足したのである。しかし,同大学は米国で最初の大学院を持つ大学として,その名を米国大学史の残すこととなった。
 同大学の特徴は,初代教授たちの多くが,ドイツ留学の体験者であったという点である。彼らのほとんどが,伝統的な米国のカレッジ教育を受けた後,ドイツの大学に留学し,両者の違いを身をもって体験した第一世代であった。彼らはドイツのゼミナール教育や実験室教育を通して,研究の面白さを体験した。大学院とは研究するところとなった。
 ただし,第二世代以降になって,研究中心主義の大学院教育に対する批判も出てきた。例えば,博士号のことを「知的バランスの欠如」を示す以外の何ものでもないと批判したり,「一つの研究テーマに没頭することなどは精神をアンバランスにするだけだ」と批判する教授もいた。
 結局,米国は大学院という,当時どの国にも存在しない新たなしくみを作り出し,そこで「研究を通じての教育」という方式を採用しようとした。ドイツでは学部段階で行なっていることを,米国ではカレッジ教育を卒業した者を受け入れる大学院を作り出し,この大学院生を対象に研究をやらせながら教育をするという方式を導入した。やがてこうした大学院をもち,大学院生に研究の仕方を訓練する大学が,米国では「研究大学」と呼ばれるようになった。

3.日本への移植

 フンボルト理念の日本への影響については,京都帝国大学の事例が挙げられる。
 京都帝国大学の歴史的使命は,二番目の帝国大学として,先発の東京帝大の後を追うことではなかった。東京帝大では実現できなかった理想を掲げ,新たな学問のあり方を目指すことにあった。
 京都帝国大学に法科大学が設置されたのは明治32年(1899年)であったが,創設当初の教授陣のほとんどが(東京帝国大学で学んだ後)ドイツの大学に留学した人たちで占められていた。彼らは日本・ドイツの教育方式の落差を身をもって体験した,近代日本最初の世代であった。ドイツへの米国人留学生がその落差に驚きカレッジ改革に乗り出したのと同様に,彼らも東京帝大とは対照的な教育方式を,京都の土地に実現することを目指したのであった。
 ところで,当時の帝国大学の授業はどのようなものであったか。教授が教壇の上から講義ノートを読み上げ,それを学生がひたすら書き写すだけというものであった。学生は考えるのではなく,一種の「速記者」であった。さらに試験となると,学生は懸命になってノートを棒暗記し,答案に一語一句そのまま書き連ねたという。教師も自分の講義ノートと答案を比べながら,どれだけ内容が合っているかを採点基準にしたという。当時は,東京帝国大学しかなかったので,大学教育とはこんなものだと思われていた。そのような教育を受けた人たちがドイツの大学に行って見ると,自分たちが受けたやり方とはまったく違う教授方法に驚いた。
 京都帝国大学法科大学の改革の原動力になったのは,ベルリンから帰国したばかりの高根義人教授であった。彼は帰国するや,同僚とともに東大型の教育体制を払拭するための改革に着手した。そしてその改革理念を,「大学の目的」「大学制度管見」などの論文を通じて天下に向って闡明した。
 高根教授は,教授ばかりではなく学生もまた単に授業を受けるだけではなく,研究者でなければならないということを主張した。これはまさに「フンボルト理念」に通じるものである。こうして日本でも,フンボルト・モデルの実験が開始された。
 ところがこの試みは,残念ながら7年くらいしか続かなかった。なぜか。法学部の宿命は,官僚の登竜門である文官高等試験に何人合格させるかが重要なバロメータとされていたのに,ドイツのゼミナール方式の勉強ではそうした試験対策には向かず,いい結果が出せなかったからであった。さらにこのことが帝国議会で問題となり(明治39年),帝大特権廃止運動を伴う京大批判にさらされることとなった。結果的に,京都帝国大学は東大型にもどすことになった。
 当時「京都日出新聞」は,「あえて旧来の規定にもどり,保守的な東京大学の陣門に下るかのようなことは,我々はただ京都大学だけのみならず,わが学界のためにも惜しまざるをえない」と論評した。
 このように日本では,京大法科のみが孤軍奮闘の末,文官高等試験不振という現実の前に,一旦は中断せざるを得ない事態に追い込まれた。しかし,明治期の大学人の努力の結果は,やがてさまざまな大学で取り入れられ,今では広く一般的な方式として,日本の大学に定着しているといえよう。

4.現代におけるフンボルト理念の意義

 フンボルト理念は,19世紀初頭に登場した画期的な大学パラダイムの変化であった。それは若者に実際に文献,実験材料を手に取らせながら,新事実を自分で発見する感動を体験させる新たな大学モデルとなった。ところが,現代では200年も経った古ぼけたパラダイムが,そのまま通用するはずがないとの意見は多い。
 しかし,すべての学生がフンボルトの期待を裏切ったわけではない。人類未知の知の世界を切り開くことに青春をかけた学生はいた。そういう学生の存在を無視して,大学を一色に塗りつぶして,若者をただ一種類の存在として論じることは間違いであろう。現に日本の大学でも,「研究を通じての教育」は,さまざまな場面で展開されている。それも一部のエリート大学だけではなく,さまざまな大学でも別の形で生き続けている。
 それ以上に重要なことは,現在,世界で起きていることは,この「研究」という活動が大学の範疇を超えて,社会生活のさまざまな分野に及んでいるという事実である。いまでは研究は,大学だけで行なわれているのではなく,行政,企業,市民社会などでも展開されている。大学に託されているのは,次世代がこうした研究活動を実際にできるように訓練することである。知識基盤社会になればなるほど,さまざまな材料を調べ,その中からまだ知られていない知識を発見し,その確実さを検証し,それを社会のさまざまな分野で活用できる人材が必要となる。
 「研究を通じての教育」とは,学生自身に直接資料,実験材料に手を触れさせ,それに分析を加えて,まだ知られていない知識を発見させることになった。この活動は,いまや世界中の大学で行なわれている。この現場密着型の教育は,今日の大学教育の基礎となっている。
 また,ハーバード大学のデレクボック元学長は,大学にはもともと「社会の偵察者」という役割が期待されてきたと言う。つまり,一般市民が気づく前に,われわれがいかなる問題に直面しているのか,それをいち早く察知し,警告を発する役割である。しかし,現在の大学がそのような役割を十分に果たしていないと,デレクボック元学長は指摘する。
 もともと学問とは,いったい世の中とはどういうからくりでできているのか,それを見極めようとする人々の放浪から始まった。大学の教師も学生も未知の世界を求めて旅に出た。文字通りの「地理上の旅」と,「心の中の旅」である。未知の世界と新たな体験を求める旅芸人,遊牧民,これらがわれわれの先祖であった。フンボルトは「すべてを疑え」と言った。それは言い換えれば,「旅をしろ」ということである。そのためには大学教師も学生も,ともにこうした旅がいかに必要なのか,外部に向って説明する必要がある。

5.大衆化時代の大学の役割

(1)学校化社会
 大学進学率が高まった原因について,一般的には「社会全体が経済的に裕福になると,いい教育を受けさせたいという親の願いもあり,進学率が高まる」と説明される。しかし,子どもたち自身が本当に勉強したくて大学に進学しているかと言えば,実際に大学生たちと接した経験も踏まえてみても,到底そうとは言えない面がある。むしろ仕方なく来ているという面がある。
 現代の豊かな社会,成熟社会では,「青年期の延長化」が生じている。戦前は「あり余る青年期」をエンジョイできたのは,社会の一部の青年だけであった。しかし,1970年代以降,多くの青年が労働から解放される時代が到来した。
 経済発展の恩恵によって,ごく少数の人間が働けば,それほど多くの人々が働かなくても済むようになった。人類は労働という苦役から解放されて,自由時間を持てるようになった結果,労働から解放された青年期が出現し,多くの若者が職場に代わって学校に通えるようになった。戦後の,中等教育・高等教育の量的拡大は,その結果である。
 青年の労働からの解放は,同時に「労働からの隔離・分離」を意味した。豊かな社会では20歳前半までの若者は,学校・大学に閉じ込められることになった。「学校という空間に閉じ込められた青年期」の出現である。これはすべての若者にとって居心地の良い環境だったわけではない。高校・大学の中退者の増加,学校内暴力の多発などの現象は,学校に閉じ込められた若者のエネルギーの爆発という色彩を帯びている。
 さらに先進諸国では,若者の失業問題に直面している。高校卒業してもいまは就職先を見つけるのが非常に困難な社会だ。親の元で遊んでいるだけでは退屈でしようがないから,大学でも行こうという側面は否定できない。そのような中,高校や大学の量的拡大が並行して進められた。
 見方を変えれば,学校で長く学ぶよりも働いた方が学ぶことは非常に多い。三流大学などに通うよりは,しっかりと仕事をした方が,よほど学ぶことが多いかもしれない。労働には,経験的に学ぶことが非常に多く,教育力があると考える。

(2)第三段階教育
 現代では,20歳前後の若者だけではなく,現役の職業人や高齢者も含めた,幅広い年齢層,多様な背景をもった市民を対象とした学習の場が求められている。21世紀社会は,これまで高等教育,大学教育と呼んできた段階が,第一段階(初等教育),第二段階(中等教育)に続く,「第三段階教育」になることが要請されている(ちなみに,国際機関では,高等教育の代わりに「第三段階教育」との用語を使いつつある)。「だれでも,いつでも,どこでも,何でも」学習できる場,これが21世紀社会の第三段階教育に課せられた課題である。
 これまでの言葉で言えば,「生涯学習」という考え方である。多くの若者は,学校の課程を終えて就職する。その中で多くのことを学ぶわけだが,そのまま働き続けることもよいし,その過程で啓発されて「もう少し勉強したい」と思う人は,もう一度勉強の機会を求めてもいい。大学を若者だけを対象とするのではなく,中年の転職希望者を受け入れるしくみを作っておき,幅広い世代に開放された「学習センター」を目指すべきではないかと思う。ただ企業の採用方針の問題として,新卒者至上主義がいまなおはびこっており,それが障害になっているために,一度会社に入ると,途中で大学で勉強したいと言っても,なかなか認められる風潮にはない。
 また,これからは大学と養老院をセットにしたような「シニア大学」が流行るかもしれない。例えば,「源氏物語」を18-19歳くらいの若者に読ませたところで,その深いところはわからないが,むしろ人生を経験した人たちが,「源氏物語」を題材にして哲学したりする。また年配者にこそ,歴史や文学の価値がよく分かるので彼らには積極的な学ぶ意欲がある。米国ではそのような流れができている。
 問題はコストだ。そこで講師には学生アルバイト(大学院生など)を使い,ビデオ教材などを効率的に使って低コストで運営する。教科書も共通化したものを作って普及させコストを下げる。
 いま日本には700を超える大学が日本にあるが,それを政府の力で淘汰させようとしても無理だ。人気のない大学には学生が集まらなくなり,市場淘汰の圧力によって自然と整理されていくのが自然だろう。ただし,大学設置基準をどうするかなど最低基準は設ける必要があるから,政府は大枠を決める必要はあるだろうが,基本的にはあまり介入しない方がよい。
 現代社会において「大学」が引き受けなければならないのは,多様な学生層であり,多様な社会的ニーズである。こういう時代には,研究に特化する大学があってもよいし,職業教育に徹底する大学があってもよい。避けるべきは「大学」という名の下に画一化させることである。現代の大学の役割として,高等教育の普及拡大と卓越性の追求という二つの責任を果たさなければならないと思う。
 21世紀社会は,次々と起こるさまざまな問題をいかに解決するか,幅広い人々の知的な活動に依存する度合いがますます高まる時代である。言い換えれば,研究活動が大学の内部だけに限られるのではなく,行政,企業,市民活動などさまざまな分野にますます拡大していく時代である。時代は,こうした知的活動の担い手が多数育つことを求めている。21世紀の社会は「だれでも,いつでも,どこでも,何でも」学習することのできる,「経済的文化的な知的センター」(クラーク・カー)を求めている。

(2012年11月16日)

プロフィール うしおぎ・もりかず
神奈川県生まれ。1957年東京大学教育学部卒。東京学芸大学講師,名古屋大学助教授,教授などを経て,同教育学部長,同大学院国際開発研究科教授,桜美林大学大学院教授などを歴任。この間,文部省中央教育審議会専門委員,大学基準協会基準委員,ユネスコ国内委員会委員,日本学術会議会員などを務めた。現在,名古屋大学名誉教授,桜美林大学名誉教授。専攻は,教育社会学,教育開発論。主な著書に,『キャンパスの生態誌』『アメリカの大学』『世界の大学危機』『大学再生への具体像』『フンボルト理念の終焉?』他多数。