エジプトの国民統合と宗教の役割

カリタス女子短期大学前学長・カイロ大学客員教授 久山宗彦

<梗概>

 「アラブの春」現象が起き始めた頃,とくに西欧世界はそれを民主化の流れとして好意的に受け止めたが,その後多くの国ではイスラーム復興の動きが出てきて,国によっては対応に戸惑っている状況である。エジプトでも「アラブの春」民主化運動によってムバーラク大統領が辞任に追い込まれたが,その後の政治プロセスはかなり混沌とした状況にある。中東アラブ地域の中でエジプトは最もキリスト教徒の多い国(人口の約10%を占める)であるが,日本ではそのことは余り知られていない。しかもムスリムとキリスト教徒が基本的に共存している状況にあり,それが他の中東アラブ諸国とは違った特徴を見せている。宗教的観点からエジプトの現状と将来を展望する。

1.アラブの春

(1)民衆による民主化運動

 チュニジアから始まった「アラブの春」という一種の民主化運動は,エジプト,リビア,シリア,イエメンなど中東各国に影響を及ぼしているが,ここではエジプトに絞って考えてみたい。
 「アラブの春」といわれる流れの中でエジプトで最初に大規模な反政府デモが起きたのは,2011年1月25日であった。その後,18日後の2月11日,ムバーラク大統領が退陣。その間,大都市を中心に大小デモが頻発した。そして11年11月から今年1月にかけて行われた国会議員選挙では,ムスリム同胞団傘下の自由公正党の議員が全体の46%を占めることになった。更に12年5月~6月に大統領選挙が行われ,ムスリム同胞団出身のムハンマド・モルシー氏が大統領に選出された。
 民衆の民主化運動の目的には大きく分けて三つがあった。一つは,「イルハル・ムバーラク(ムバーラク,出て行け)」というスローガンに見られる考え方である。外国人からすれば,それほど弾圧しているようには見えなかったが,同大統領は秘密警察を使って選挙投票の妨害,違法捜査,違法逮捕などをやって民衆の反感を買っていた。二つ目は,独裁的体制から自由になりたいという自由渇望。そして自由の実現と同時に秩序ある社会をつくっていくこと。三つ目は,経済的格差が拡大していたので格差是正の要求。若者の約20%が失業しているといわれ,低所得者層では一カ月の所得が1~3万円程度である。特に格差是正は切実な経済社会問題で,底辺レベルをどこまで引き上げられるかである。家族4~5人がカイロで1カ月生活するのに5~6万円あれば質素な生活なら可能といわれるのが現状だ。
軍についていえば,エジプト軍は国民軍である。政権と基本的には分離した軍であって,国民を守ろうとするよき体質があるといえる。これはチュニジアも同様だが,リビア,シリア,イエメンなどの軍は政権軍で,政権と軍が一体となっており,国民に対しても発砲することになる。これに対してエジプト軍は国民に発砲することはないとは言えないが,国民軍として基本的には非暴力で訴えようとしてきたと思う。そのような軍だからこそ国民からの支持があったのだろう。
ところで,12年5月の段階では,次の4人が有力な大統領候補として上がっていた。
<世俗派>
・アムル・ムーサ元外相
・アフマド・シャフィーク元首相
<イスラーム系>
・ムハンマド・モルシー自由公正党党首
・アブドルムネイム・アブルフットゥーフ同胞団元幹部
 一人ひとりのコメントを少々記すなら,アムル・ムーサ元外相は以前アラブ連盟の事務局長も務めた人物。この人は,色のない人で一番の高齢者だが,モルシー大統領選出後について,軍と大統領,あるいはムスリム同胞団との衝突については,ありえないであろうと楽観視している。シャフィーク元首相は,立候補の資格なしということで問題になって憲法裁判所で審議がなされたが,結局,選挙出馬はよしとされた。サウジアラビアへの巡礼後,新党を結成する予定といわれている。アブルフットゥーフ氏は,キリスト教徒や女性問題には配慮のある考え方をもっているので,エジプトのキリスト教,コプトとの関係などは従来よりは改善されるのではないかと思われていた。モルシー大統領就任後に先の不正の多かった選挙で選ばれた国会議員は有効であるとして登院の指示を出した大統領に対し,アブドルムネイム・アブルフットゥーフ氏は彼の行為は憲法違反だ,と反対している。
ところで,ムハンマド・モルシー氏を支援するムスリム同胞団は,カイロからアスワンまでの700キロ余りにわたって「人間の環」をつくって結束力を示した。同胞団としては,今期はできるだけ大統領の権限を押さえながら,他方では議会の力を強くした議院内閣制のような仕組みにもっていきたいと考えてきた。一人の独裁者に権力が集中しないような政治体制を求める雰囲気は,「アラブの春」が齎した成果であるといえる。そしてこのモルシー氏は,1952年のエジプト革命以降で軍出身以外の人物としてはじめて大統領になったのである。

(2)イスラームとキリスト教の関係

 決選投票の末,モルシー氏が大統領に選出されたエジプトでは,彼をサポートするムスリム同砲団とコプト教(エジプトのキリスト教)との関係がカギになるのではないかと思う。
 先の国会議員選挙で第一党となった自由公正党を支援するムスリム同胞団に急に関心が注がれているが,エジプトの宗教は元々,憲法上の国教であるイスラームが約90%を占め,残り10%がコプト教などのキリスト教である。政府は基本的にはイスラームなので,歴代の為政者はイスラームとコプト教との均衡を図ろうと努力してきた。そしてこれまでは,コプト教がその勢力割合を越えて影響力を発揮しそうになると,政府は彼らに対して制限をかけようとしてきた。例えば大学について言えば,コプト教徒は自らの大学を設立したいという願いは常にあるのだが,政府は10%の国民のためのコプト大学はこれを許可しなかった。コプト教会建設も規制されていて自由に増やしていくことはできなかった。
 ところで,コプト教徒とムスリムは互いに交わりながら共生してきたというよりは,むしろそれぞれが自立しながら共生してきたといえる。しかしながら,ときにはムスリムがコプト教会を襲撃する事件もあった。どの社会でもそうだが,跳ね上がり分子がコプト教会に火を放ったりするという極端な行動に出たこともあった。しかし暫くするとそれは沈静化して,両者はまた共存関係へと落ち着いていくのである。そのような特徴がエジプトには見られるのであるが,この点,2年間エジプトに滞在した私の体験から,エジプト人は宗教上の面においても大人の判断をする国民だといまでも思っている。
 また,多数派であるイスラームの中には少数派であるコプト教会の人々を守ってあげなければという考えをもつ人々もいる。イスラームの穏健派であるワサト党はムスリム同胞団傘下の自由公正党から脱党して政党を作った人たちの小さなグループだ(2011-12年の国会議員選挙では10議席を獲得)。彼らとコプトの人たちが一部で繋がっているといわれ,その政党にコプトの人たちが入っていく動きもある。勿論まだ大きな力にはなっていない。一般にイスラーム政党はコプト教徒を庇護すると同時に,その見返りとしてイスラームの言い分を聞かせたいという面もある。コプト教徒にしてみれば,そこまではされたくないという気持があって反イスラーム感情も出てくるが,ワサト党と繋がっていくようなコプトの人たちはそうではない。
 同じ中東・アラブの中でもエジプトのようにキリスト教徒の多い国はほとんど存在しない。この地域で人口が断トツに多いエジプトのコプト教徒は約800万人であるが,これに対してレバノンやその他の国では,キリスト教徒の絶対数はかなり少ない。これはエジプトの大きな特徴である。人口が多いことはパワーになる。コプト教徒800万人の力の国全体に与える影響は決して小さくない。コプト教徒がはっきりした宗教信仰を持ちながら,政治的には協力関係を築いていくことは,政権が過激になる傾向を防ぐ効果があると思う。
 ただ,コプト教徒とムスリムは友人以上の関係にはなりにくい。例えば改宗すれば可能だが,イスラームの女性がコプトの男性と結婚することは(教義上)できない。南エジプトでは,コプトの男性とイスラームの女性が恋愛関係に陥り,それが公になった時に,その女性の親は娘を殺すこともあった。それほど宗教問題・男女問題は真剣で厳しいのである。このような場合,聞き及んだムスリムがコプト教会を襲撃したりすることもあった。
 男女問題で一寸付言するが,例えば,カイロ大学などで男女学生が関わるとき,学内では仲良く談笑している風景はよく見られる。しかしこの男女が,婚約もせずに街中でデートしていると,その事実をクラスメートの男子学生が娘の親に電話をして忠告したりすることがある。男女は婚約してはじめて付き合いがはじまるという通念があるからだ。そのような見方は,キリスト教徒には現在ではかなり窮屈に感じられるに違いない。
 ただ現在のエジプトにおけるキリスト教徒の地位・安全は確かなものであって,彼らの大方の宗教的な実践活動には危険は伴わない。ところが,宗教的マイノリティーであるコプト教徒に対する扇動が特別の場合には共感を呼ぶ風土でもあることは確かである。
 「アラブの春」が「アラブの冬」になってはいけない。これまでその兆しがなかったわけではない。「イスラーム勢力が更に大きくなると自分たちは排斥されてしまうのではないか」と恐れて,コプト教徒は20万人以上海外に出て行ったといわれている。また逆に,エジプトの新しく変化していく状況に相呼応して,海外から帰ってくるエジプト人もいる。
 ところで,宗教の面で現地の生の様子を理解すれば,エジプトは今なお全体として安定した国といえる。

2.三層からなるエジプトの文化

 このような現代の動きを正しく理解するためには歴史的な視点がどうしても必要だと思う。エジプトと言えば紀元前3千年前の古代王国からの悠久の歴史をもつ国である。「エジプトはナイルの賜物」と言われるように,ナイル河という地理的環境がエジプト人全体に多大の影響を与えてきた。エジプトはナイル河を中心として発展してきたといえるが,ナイル・デルタ以外ではナイル河の両岸より数キロ以内にしかほとんどの人は居住していない。
 数十年前に初めてエジプトに行ったとき,機内より見入ったエジプトには,砂漠の連山の中を青い筋が一本にょきにょきしながら延々と走っていたのを思い出す。そのような環境にムスリムとキリスト教徒が住んでいるわけだ。
 エジプトの最初の歴史時代は今から五千年以上も前のファラオを中心とする古代エジプト王朝の時代であった。そのころから北方のナイル河デルタ地帯方面をしっかり防備すれば平和は保たれた。外敵は基本的に地中海やパレスチナ方面からしかやってこられないからである。
 その次の時代は紀元後早々のコプト教の時代である。古代エジプトの文化は勿論残っていたが,キリスト教の宣教以降は当時のエジプトは基本的に「キリスト教国」であった。
 ここでコプト教会(Coptic Orthodox Church)について若干述べることにする。
 コプト教の聖伝によれば,聖マルコがエジプト・アレクサンドリアで福音の種を初めて播いたとされる。コプトの人たちは自らの教会の創始者を聖マルコとし,彼にはたいへんな尊敬の念を抱いている。
 エジプトの古い時代から伝統的なキリスト教を受け継いできた者はコプトのキリスト教徒で,アラビア語ではウプティー(コプト教徒)と呼ばれるが,この呼び方はギリシア語でエジプト人を意味するAigyptios(男)/Aigyptia(女)に由来する。このギリシア語の複数定冠詞Aiと語尾のios/iaを落とすと語幹のGYPTが残り,これがCoptに変わったのである。つまりコプトとはエジプト人という意味なのである。このエジプトの土着民,ファラオの子孫Coptはキリスト教がエジプトに宣教された結果,ほとんどがキリスト教徒になっていったので,コプトといえばエジプト人のキリスト教徒を意味するようになったわけである。
 エジプト人は新しい宗教,キリスト教を素早く受け入れたようだ。これにはキリスト教が提示した崇高な教えに対し,エジプト人の高度な精神的資質も大いに関係したであろう。
 救い主イエス・キリストの生涯をエジプト人はまたオシリスの伝説と照らし合わせて見ていたのかもしれない。オシリスは心豊かな王であったが,悪の化身であるセトの生け贄となった。ところが彼はその後生き返り,永遠なる来世では再び王となったという。三位一体,体の復活,死者に対する裁きなど,このようなドグマの原型はすでに古代エジプトの宗教的伝統のなかにも見られるので,キリスト教を受け入れる準備はできていたかと思う。
 そして「自分たち(コプト教徒)は,エジプトの中の本当のエジプト人だ。自分たちがエジプトの歴史をつくってきた」という強い自負がある。コプトの起源は284年(コプト元年)だが,ディオクレティアヌス帝(284-305年)のときに迫害のピークを迎えた。当時は聖書が焼かれ,キリスト教文学が無に帰するまで廃絶されたのを手始めに,あちこちの教会は取り壊され,クリスチャンはローマ兵士に追い回され,彼らは国家の仕事からは追放され財産も没収された。その上,拷問を受け,野獣の餌食にされたり火あぶりの刑に処せられる者も続出し,何万人もの犠牲者が出た。しかし,そのような圧迫にも拘わらず,コプト教は上エジプト,下エジプト,あるいはナイル河両岸へと急速に広がっていった。このような彼らの信仰を称してある著述家は「エジプトでキリスト教信仰が揺るがなかったことは世界の七不思議に付け加えられるべき驚異的事実である」と述べた。そしてキリスト教は後にエジプトの国教となった。
 エジプトにあるファラオの神殿,ギリシア・ローマの神殿内部には「サリーブ」(十字架)の印が見られる。何千年にも亘ってイシス,オシリス,ホルスなど無数の神々の礼拝のために使われてきた神殿は,後にはコプト教会として使われていったのである。サリーブの印が神殿の太い柱や扉などに刻まれていった。更にイエス・キリストや使徒たちのイコンが,これまでの異教の神々の像が彫られていた壁に描かれるようになった。これまでの祭壇はミサのための祭壇となった。
 かつてエジプトに行ったとき,アブシンベル神殿の前に立ったことがあった。大神殿よりやや規模の小さいラムセス2世の妃,ネフェルタリのためにつくられた小神殿奥は,後世のコプトの人たちが祭壇として使ったところであった。こうした事実を知るときに,エジプトにあるファラオの神殿やギリシア・ローマ神殿を中心とする古代エジプトの宗教文化の土壌に十字架を印していくこのやり方は,コプトの人たちの告白なのだと悟ったのである。
 そして7世紀にイスラームが起こった後,それがエジプトに入り今日に至る。古代エジプトの多神教世界の後にキリスト教が入ったが,キリスト教徒は多神教世界の遺物を壊すことはしなかった。つまり前の時代の遺産をうまく再活用してキリスト教世界を構築したのである。
イスラームの場合も同様で,とくに南エジプトに行くと,コプト教会をそのまま再活用してイスラームのモスクにしている。前にはコプト教会であったところの一部を塗り潰してモスクにして使っていった。
 このような三層構造の文化がエジプトの特徴をなしている。エジプト人にはそのような捉え方が身についているように思う。キリスト教もイスラームもかような遣り方で共存してきた歴史を持つ。両者は運命共同体として存在しているといえるのではないだろうか。

3.現代エジプト社会に見る三層構造

(1)国民統合としての「エジプト人」自覚

 既述したような背景があるので,「エジプトの冬」といわれるような状況になればなるほど,「エジプト人は二つの信仰を根にもった一つの国民だ」という観念が頭を擡げてくる。つまり,ある信仰を持った均一な人間集団という意味ではなく,まずは「エジプト人」であるという自覚である。それを表徴するのが図1である。
 「私はエジプト人だ。テロリズムに対抗する」と言っている。
 図には十字架(キリスト教)と新月(イスラーム)が同時に示されており,エジプト人は両方の宗教信仰を持つ民だという意味である。キリスト教徒もムスリムも,まずはエジプト人であるということを示している。
 また図2はキリスト教徒とムスリムが信教の自由を求めてデモをやっていたところを軍が妨害したときの写真である。群衆の前に立った者が示しているのは十字架とクルアーン(コーラン)である。両者が一体となっていることをこの写真は如実に語っている。
 エジプト人にはファラオ時代,コプト時代,イスラーム時代という三層文化が基本だ。しかもそれらは断絶しているのではなく,重層構造を成して現代に繋がっているのである。 

(2)エジプトを象徴する3人の大統領

 ナーセル大統領は最後には毒殺され,次のサーダート大統領は銃殺され,今度のムバーラク大統領はfacebookによってやられた。それを表したのが図4である。こうした表現をアラビア語では「ノクタ」(エスプリの効いたジョーク)といっている。
 ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領(1918-70年)は就任後まもなく,シリアと連合して「アラブ連合共和国」(1958-71年)の初代大統領となった。彼の考え方はエジプト色を前面には出さないで,「アラブ」として一致していくことを強調した。それは「ナーセル信仰」にまで発展し,今でもその考え方を信奉する人たちがいる。そのような人の家ではナーセルの尊影を掲げてロウソクを点したりしている。彼はスエズ運河の国有化を成し遂げ国民の共感を得た。エジプトをアラブの一員としてやっていこうという基本姿勢で国をまとめようとした。
 次のムハンマド・アンワル・アッ=サーダート大統領(1918-81年)は国名を「エジプト・アラブ共和国」(1971年)に変えた。彼はナーセル大統領のときには副大統領を務めていた。エジプトがアラブの一員であることは否定しないが,それに加えてエジプト色をもっと出そうとした。エジプトの色で問題になるのは何かといえば,それがまさに「コプト」である。中東地域のほとんどはイスラーム世界だが,エジプトでは人口8000万の約1割を占める人々がコプト教徒であることは既述した通りである。エジプトにおけるキリスト教(コプト教)の流れは紀元1世紀以来厳然と存在している。エジプト色とは,コプト的なものとアラブ(イスラーム)があれかこれかではなく,両者が渾然一体となっている状況を意味する。両者には同じ船に乗った人たちだという共通意識があるのである。
(サーダート大統領はイスラエルと平和条約を結んだ。国民感情としては概ね「反イスラエル」だが,外交的にはイスラエルといい関係を築いていくよう強調した。)
 その後大統領になったのが,サーダート大統領時に副大統領を務めていたムハンマド・ホスニー・ムバーラク(1928- )である。彼は今度のエジプト革命によって辞任に追い込まれたわけだが,その原動力がfacebookであったことを知らない人はほとんどいないであろう。

4.民主化を求める「アラブの春」後のエジプト

 最後に今後について展望してみることにする。
 コプト教とイスラームは違った信仰ではあるが,エジプト人は,両者は共存してやっていかなければならないと歴史的に考えてきた。コプト教徒から見るとムスリムもエジプト人であり逆も同様であった。今後もそのようにとらえていくだろう。個々に小さな対立があるとしてもエジプト全体として見れば,それは大きな問題になるものではない(図5)。
 ただし,今度の大統領選挙の結果や将来の本格的な国会議員選挙など政治面でイスラーム勢力が以前より強くなっていくと,ムスリム同胞団と密な関係にある自由公正党の副党首にコプト教徒が就任しているとしても,善かれ悪しかれ,イスラームの立場から見ようとする傾向が強まるかと思う。これについてのよい例としては,目下ラマダーンの時期に入ったが,この時期,貧しい者を食事に招く「慈悲のテーブル」がエジプト各地で以前より一層多く見られるのである。
 ところで,エジプトにおけるムスリムとコプトの関係はこれまでの両者の関わりの歴史を振り返ってみても,常時,平和の関わりが維持できたとはいえない。しかし,2012年3月17日に亡くなったコプト教会の教皇シェヌーダ3世(聖ビショイ修院に埋葬)に弔意を表そうとムスリム同胞団の幹部がコプト指導者を訪ねた。シェヌーダ3世自身は生前,コプト教徒をいかなる迫害からも守ろうと永年に亘ってイスラームとコプトの融和を真剣に実践してこられたのである。
 コプト教徒の信仰において最も注目される点は彼らのオプティミズムではないかと思う。これまでエジプト各地のコプトの修道院や教会を訪ね歩いたが,キリスト・イエス,聖母マリアをはじめとして,ローマ時代のエジプト人コプトに対する厳しい迫害で亡くなった殉教者たちが,そのイコンにあってはほとんどすべてが何とも穏やかな表情で描かれているのである。
 本来,キリスト教徒とムスリムは啓典の民として兄弟でありながら,そしてまた兄弟として互いの優れた信仰を十分分かち合い,奉仕的活動を共にすることが可能な土台を共有していながら,人間の弱さからか,実際には相手の信仰の最も重要な部分,相手の心情さえ積極的に理解しようとしていないことが結構多い。クリスチャンの立場から言えば,イスラームと深く関わることは寧ろ,本物の信仰,真理の理解を一層深めるよい機会になるのではないかと私は思う。
 もう一つは,アラブ各国に広がった「アラブの春」を本物にしていくためには,これらの地域においても「信教の自由」が保障されていくことが重要と思う。もちろん,イスラーム色の凄く出るシャリア法に基づく社会になれば,実際は困難な問題も出てくるかもしれない。
 ところで,現代のエジプト人には,ムスリムであろうとキリスト教徒であろうと,プラグマティズムと世俗化がかなり根を張っているように思われ,徹底したイスラーム国家かそれとも世俗国家かというような二者択一的な考え方は一般に受け入れられにくい。
 現代のエジプトは,近代主義的流れ=世俗化の傾向と伝統的な祭政一致のイスラーム精神,それにコプト精神を何とか総合させ,出会わせようと努力しているように見える。それゆえ世俗化された文化生活といえども,今後もイスラームあるいはキリスト教と深く結び付いていくことになるだろう。

(2012年8月14日)