中国人の思考・行動原理―政治改革を阻む匪賊原理

広島文化学園大学特任教授 金 文学

<要旨>

 日本は隣国でもある中国とは,2000年以上にわたる交流の歴史を持ち,古代より多くの文化的影響を受けてきた。それだけに中国研究の層は厚いわけだが,中国の裏社会のシステムにまで目を向けた研究は意外と少ない。中国共産党が支配する現代中国を理解するうえでも,そうした視点を含む総合的な観点からのアプローチがなければ,その本質に迫ることはできない。ここでは,現世的・唯物的な価値に偏重し精神的なものをないがしろにする人間観・価値観・人生観,そして流民・遊民などに見られる匪賊の原理に焦点を当てて,中国社会の本質の一端に迫る。それは現代中国の支配構造にも通じる原理であり,中国(人)理解の助けとなるに違いない。

はじめに

 日本における中国研究は,大きく見ると二つの傾向があると思う。一つは,文献をもとにした古典研究の流れである。ここで注意すべきことは,古代の中国思想に説かれる内容がそのまま中国の実体だと考えると現実を見誤ってしまいかねない点である。孔子や孟子,老子など説いた内容は,ある意味でその時代における理想像を示したものであって,現実を記述したものではない。この筋の研究者は,大概中国思想を高く評価する。
 もう一つは,現代の中国に実際に行ってみて,生々しい現実の中国人の生活に触れて,中国人を軽蔑するようになり,中国に対して否定的,悲観的に見る見方である。そして第二次世界大戦における日本の大陸侵略に対する一種の「負い目」を感じて,それを学問の上にも反映させている人々もいる。また,現代中国研究では,経済的な功利性の観点から見て,あらぬ期待を投影する人もいる。
 しかし,大切なことは,実際の中国に対して,カメラのレンズを通して見る如く,生身の中国,中国人を見ることだ。無意識の先入観をもって色眼鏡で見ては,正しい分析,認識はできないと思う。やはり平常心,冷静な目で見ることが何よりも重要だ。日本の学者は,こと中国や韓国/北朝鮮となると,どうしてもある立場に囚われてしまって,冷静な視点からの認識や研究ができない傾向が強い。かつて文化大革命が進行中の時代に,日本ではそれを全面的に礼賛する論調が主流を占めていたが,後にその現実があまりにもその認識とはかけ離れていたことが明らかになった。
 日本を抜いて世界第二位の経済大国となった現代中国は,経済をはじめとしてさまざまな面で輝かしい発展をみせている。しかし,そのような表の中国だけではなく,実は「裏」の中国もあることを知らなければならない。そして裏の構造を知ってこそ,中国の真の姿,本質がわかるのであるが,日本の研究者やマスコミはその点をどういうわけかあまり見ようとしないようだ。
 これを譬えてみると,百貨店のショーウィンドウに飾られたきれいで輝かしい商品が表の中国であるが,実際店の奥まで入ってみるとそれとは違った世界が見えてくるようなものだ。とくに中国の場合は,裏の世界からその本質がよくわかるのだが,それをはっきり言うとさまざまな圧力が加わってものが言えなくなることもあり,容易ではない現実がある。何千年という長い歴史を通じて形成された,中国人の文化や習慣,民族性(生活の仕方,考え方,食生活など)は,そう簡単に変えられるものではない。
 1978年に鄧小平によって改革開放路線が敷かれて以降,経済が発展し始め,表の中国は大きく様変わりしたように見える。実際,上海や北京などの大都市に行って見ると,余りにもの変貌ぶりに驚いてしまう人も多い。しかし,それは表の中国,ショーウィンドウに飾られた中国の姿であって,その本質は全く変わっていない。経済や技術にかかわる部分は,政治体制如何にかかわらず変化・発展を見せることは当然だ。ところが,国の構造にかかわる部分は本質的なだけに,不変で簡単には変わらない。
 そこで,本稿では,長い歴史を経ながらも変わることのない中国社会の構造の視点から中国人の思考・行動原理を探り,現代中国理解の一助となればと思う。(なお,ここで述べる内容はその一部であり,詳しくは拙著『中国人民に告ぐ!』『「混」の中国人』を参照されたい。)

1.四つの社会システム

 私は,現在の中国を4つの社会システムとして分類している(表1)。4つの階層が表裏をなして並存している点では,古代から現代に至るまで何ら変化がない。
 かつては一人の皇帝と貴族が国を支配していたが,現代は複数の共産党幹部が国を支配する。近代以前の中国では,皇帝を支える階層として儒教を核の思想とした士大夫・読書人が存在した。彼らは科挙という制度によって,命題試験で命題の意味を推測し出題者(さらには皇帝)の意図をも推測する訓練を受けたために,体制を支える強力な構造となったのである。現代における知識人(大学教授など)も同様で,共産党に迎合し奉仕している。例えば,かつて天安門事件(1989年)で民主化運動の先鋒に立った人たちも,その後大半は国から高給をもらって生活する「羊」になってしまった。
 中国の人口の大半を占めるのが農民だ。共産党は,農民を戸籍で縛って階層を固定化し,移動の自由を奪うと同時に,農民階層から簡単には抜け出られないようにした。むしろ宋の時代のような昔の方が農民は自由だったかもしれない。
 そして「江湖」(jiang-hu)だが,これは知識人や士大夫・読書人から外れた非正統社会の人々で,やくざや匪賊のような人々である。人口の割合は小さいが,社会的影響は非常に大きいのが特徴だ。江湖は,かつては皇帝/貴族についたが,現代は共産党幹部や軍・警察と結託してさまざまな利権を貪っている。
 こうした中国の社会システム(構造)について,日本では①②については幅広い研究があるが,③④についてはほとんど認識・研究されていない。しかし③④は,中国の裏深層社会,陰で大きな影響力をもつもう一つの中国を代弁する。この隠された不可視的社会の深層を見ない限り,中国理解はいつも中途半端に終わってしまう。
 この社会システムは,中国の何千という歴史を貫いて維持されてきたので,簡単に変わるものではない。現代中国の共産党もそのシステムに乗っかって国家運営をやっているのである。
 匪賊が中心となって革命を起こし新たな王朝を興すとそのときの看板はやはり儒教なのである。例えば,明の太祖・朱元璋は,無学の浮浪人・匪賊の出だが,彼も王朝を立てると儒教を看板に据えて運営した。中国は理念中心の社会なので,統治するためにはうわべの理念・看板がどうしても必要だ。中国共産党を一種の王朝とみればやはり理念が必要で,毛沢東は「人民のための奉仕」,鄧小平は「改革開放」「先富論」,江沢民は「科学的社会主義」「三つの代表論」,胡錦濤は「和諧社会」などのスローガンを掲げたのである。そのようなスローガンや理念を検討してみれば,それらは共産主義と関係ないものが多く,みな中国式のものに変容してしまう。中には互いに矛盾するものもある。その根源的なシステムは,中国的な匪賊原理なのである。中国共産党も,中国の伝統的なシステム=匪賊原理をうまく利用して成功したのであり,看板が共産主義となっているに過ぎない。

2.身体偏重の人間観

 中国人の人間に対する観念を考えてみることは,彼らの価値観を理解するよい方法である。中国人の観念では,人はその身体が最も重要な意義を持つ。
 例えば,孔子は「身」を核心的ファクターの一つとして捉えた。『論語』には「身」に関する語句が,「吾日三省吾見」(吾日に三たび吾が身を省みる)など13カ所見られるように,孔子は「身」「身体」の価値について高く評価した。身を外界の影響を受けない自我の体躯とその行為の総合体として捉え,人間は「身」にこもる生命について畏敬すべきだと述べた。逆にそれを除いたほかのことは,全て語る価値がないと考えた。ゆえに「子不語怪力乱神」(子,怪力乱心を語らず)とあるように,「身」「生」以外に,奇怪なこと,鬼神のことは,語らなかった。
 老子も「貴以身為天下 乃可寄天下」(自分の身だけを大切にすることが,天下のためにすることより強ければ,そういう人にこそ天下をあずけることができるであろう。=小川環樹訳『老子』)と述べたように,身は名声や財富よりも貴重であり,身を大切にすることの尊さを力説した。
 中国古典思想において,「身」は根底をなす出発点であり,この世界(天下)との関わりの基本であった。
 中国人の伝統的思考様式,人生観の中には,人の肉体,肉身のみがあり,西洋近代的意味での来世や霊魂などの観念はほとんど存在しない。世界のどの民族よりも,肉身に過度に愛着を示し,死後の世界,生死を超えた宗教的思想を許さなかった。彼らにあるのは,目の前の現実俗世そのものであり,それゆえ中国人は実利的価値志向が強いのである。
 道教で肉身の不老長寿を追求するのも,儒教で子孫がないのが最も大きな不孝と力説するのも,肉身の永続を求める中国人の人生観を象徴している。身体の健康を保つため,四六時中「病」に注意を払い,「補身」(身体を補強するの意味)の習慣がとくに発達している。「医食同源」ということばに現れているように,中国では食べることが常に補身や健康という観念とセットであった。
 肉身に重大な価値を置く中国人は,「心」的なもの,霊魂,内面的精神については無関心である。
 『老子』3章に,「虚其心,実其腹,弱其志,強其骨」(その心を虚しくし,その腹を実<満>たす,その志を弱くし,その骨<体>を強くする)とあるように,腹を満たし骨を強固にするのが重要であって,心と志は軽視すべきものであった。このように老子は,身体と心志,つまり「身」と「心」という二元対立の概念にせずに,腹骨(=身体)という「身」だけを大切にする一元論的価値を唱えたのである。ゆえに,中国人,中国文化の中には「心」,つまり霊魂や宗教信仰は入る余地がない。
 孔子も『論語』のなかで,「未能事人,焉能事鬼」(未だ人につかうること能わず,いずくんぞ能く鬼につかえんや)「未知生,焉知死」(未だ生を知らず,いずくんぞ死を知らんや)と強調し,人の生や現世生活への関心はあっても,死への関心は希薄で,鬼神などの霊魂的次元について語ることは回避した。
 もちろん,中国にも鬼神・霊魂といったことばは存在するが,これらは現世の人生とは程遠い世界であり,生のため精一杯なのに,なぜ現世的実利のないあの世に注目する必要があるのかと考えるのである。
 中国人は,人間は死んだら終わりと考える。儒教では先祖を大切に祀っているが,それは「今の私が現世で無事に生きられるのは(私を生んでくれた)先祖様のおかげだ」という意味であって,先祖の魂を祀っているのではない。だから先祖が生きている如く,廟の前にご飯を供えて一緒に食べるのである。仏への祈りでも,「今回は鶏が取れましたが,次は牛が取れますように」と祈るという。
 「心」ということばも中国人は頻繁に使うが,「身心」とセットになって使われることが多い。中国人の「心」とは,感情,つまり「人情」のことである。「以心換心」は,人情をもって人情を交わすという意味であり,「交心」「置心」は人情を分かち合うことにより朋友になることを意味する。
 中国人にとって相手への関心の示し方は,相手の身,肉身,健康に対して配慮を見せることである。温情を相手に伝えると相手から「心好」(心がよい)という評価を受ける。相反する場合は,「心壊」(心が悪い)というレッテルが貼られがちだ。
 いずれにしてもこうした「心」は,西洋的な意味合いでの神,霊魂や宗教的次元とは無縁である。抽象的な神概念は,中国人の現世重視の価値観とは合わなかった。中国人が神様,仏様を必要とするのは,現実生活で利益を求めるときに限られた。「閑時不焼香,急来抱仏脚」という中国のことわざがあるが,普段全く仏像を拝んでもないのに,急な必要ができれば仏様の脚を抱いて拝むという意味である。このようなご都合主義の信仰はよくみられる。
 中国社会には,儒教・道教・仏教が共存するが,本質的に言えば,それは中国人の現世実利を求めるために設けた装置に過ぎない。儒教を信じるのは出世のためであり,道教を信じるのは肉体の健康のためであり,仏教を信じるのは現世利益のためであって,インド仏教のような輪廻転生の観念は欠けている。日本の靖国問題に見られるように,死者が神様になるという日本人の霊魂観は,中国人には到底理解しがたいのである。
 ドイツの哲学者ヘーゲルは,その著書『歴史哲学講義』の中で,人類の歴史というのは精神的歴史だと強調した上で,中国の国民性について「目を引くのは,精神に属するすべてのもの,自由な共同精神,道徳心,感情,内面の宗教,学問,芸術などが欠けている点」と指摘したのである。

3.食文化の発達した国

 中国人にとって最も重要な「身」を保つのは,「食」である。食べることが人生・生活のすべてであることから,私は中国人の国民性を「食民性」と名づけた。それを象徴するように,日常生活の挨拶でよく使う表現が「吃飯了吗?」(ご飯はお済ですか)である。また「民以食為天」(民は食をもって天となす)との表現もある。
 中国では社交の場での飲食文化が特別に発達している。商売などの目的を持つ社交の場面では,美食をもって相手をもてなし,相手の国を完全に封じ込め,心の底まで徹底的にとろけさせ,ついに目的を果たす。
 中国人の旺盛な「食」は,世界のどこへ行っても忍耐力と生命力を発揮させ,根を下ろして生活できることを保障する。中国人の移民や世界進出は,実にこのパワーと直結している。
 「一口の飯さえあれば」,これが中国人の人生観を克明に表すことばである。「一口の飯」さえ保証されれば,中国の民は「安身」(安心して身をおく,生活する)し,上の支配に従順に服する。食べることを保証されると,安心し「造反」しないという従順な国民性の持ち主でもある。中国が膨大な人口を抱えて,国家を維持できたのも,そのせいといえるだろう。
 1989年天安門事件で,民主化運動を起こした若き大学生や知識人たちは,その後どうしているのか。米国など海外に亡命した少数の人を除いて,国内残留組は,ほとんどが現政治体制に帰順し,民主化の闘士から現体制を擁護する知識人や官僚に転向してしまった。それはなぜか。現体制に与すれば食べる物を十分供与され,安定した給与,地位,身分に安んじることができるからなのである。
 極言すれば,中国人は「一口の飯さえあれば」,誰が来て統治しようが構わないのである。中国の長い歴史を振り返ったときに,なぜあれほど異民族の侵略を受けながら,しかも外来民族による統治が可能であったのかについて説明すれば,多数の民衆の順応があったといわざるを得ない。
 日清戦争の頃,遼東半島の商店主は,日本軍を敵だと思わず,自分の店の客と見なして歓待したとの記録がある。彼らにとっては,領土の主権がどちらにあろうと関心外で,日本の銀貨をいかに儲けるかしか頭になかった。
 日中戦争のときにも,河南省奥地の農民たちは,日本軍を見て,南方のどこかの中国軍だと思い,規律正しい態度に感動して,大いにもてなしたこともあったという。南京事件当時も,市内の中国人たちが「熱烈歓迎」というプラカードをもって日本軍の入城を歓迎したようすが,西洋人の撮影した記録映像に残されている。
 かつて魯迅は日本留学を通して世界を見ることになり,中国の現実に絶望し,こうした中国人の性質を「奴隷根性」と批判した。さらに誰かに支配されていないと落ち着かないという傾向すらある。中国人はダイズや砂の如く,器に入れておかないとたちまちばらばらになってしまう。垂直の関係で上からの指示や命令がないと落ち着ついて動けない。例えば,出版の仕事で,具体的な上司からの指示がなくても自分で上の意図を忖度して進んで検閲してしまうところがある。
このような性格の裏には「反抗性」が隠されている。「一口の飯が与えられ」ない状態,つまり経済生活の困窮によって耐え難いときには爆発するのである。それは現代でも同様で,貧富の格差問題は深刻な問題であり,農民の反抗・暴動に発展する可能性は否定できない。

4.匪賊という暴力原理

 (1)非伝統社会=「江湖」
 中国の歴史・文化を俯瞰してみると,儒教文化を正統と見るのが通常だが,反儒教・非儒教的「非正統」な文化が厳然として存在し,ときにはそれがむしろこちらの方が正統だと位置づけられることもあった。それが第一節で説明した「遊民」の世界である。
 中国社会を階層的に見ると,表(正統)社会から一段低く見られ,表社会の秩序から排除された階層が存在する。彼らは固定した職業や住所を持たず,都市と農村の間を移動しながら何とか生計を立てて生きる。遊民は流浪するという意味で,「流民」とも呼ばれた。知識人の中でも,出世せず体制から排除されたりすると,余儀なく遊民に加わる者もいた。
 遊民の源泉は広大な農村であった。王朝交替期,あるいは王朝末期になると,しばしば数百万単位の流民が発生し,一揆が勃発して動乱の末に新しい王朝が誕生した。遊民王朝はやがて「正統」となり,爛熟すると貴族化する。やがて腐敗すると,またもや遊民による農民反乱が起こり,王朝が交替する。このようにある意味で,中国の歴史は遊民が作った歴史であった。
 このことは中国文学者高島俊男も『中国の大盗賊・完全版』の中で,「中国の歴史を作ったのは,紳士と流民」であると指摘している。
 実例を挙げれば,秦を倒す端緒となる反乱を率いた陳勝や呉広,明朝を打ち立てた朱元璋,明朝を打倒した李自成,太平天国の乱を率いた洪秀全など,枚挙に暇がない。毛沢東も,遊民と匪賊と同盟を結んで革命を起こしたのであった。
 こうした非正統社会を「江湖」(jiang-hu)社会ともいう。江湖とは世間の俗っぽい表現で,正統の対極にある非体制的民衆の世間を指す。「江湖好漢」といえば,侠客あるいは無頼漢を意味する。現代中国で「江湖」といえば,①黒社会,②秘密結社,③遊民,④商業目的の流民,⑤官僚社会・軍閥社会,⑥匪賊などのカテゴリーを内包する。
 一人の知識人が出世できたときはいいが,出世できなかったときには「江湖」に身を隠して,養生の道に没頭する。これが中国人の生き方である。儒教的正統が知識人,士大夫の価値観とすれば,大衆・遊民の儒教は,江湖的世界観で生きてきた。体制外で台頭した江湖は,14~18世紀の明清時代に繁栄し,匪賊,秘密結社,教会,幇会となり,大量の遊民社会を形成した。
 近代以降の中国史も,実は江湖が大きな影響力をもっていた。黄建遠著『青・紅・黒』によれば,清朝末期と民国時代の初期に,天地会,青幇,紅幇など暴力的な結社が各地で台頭し,支配層にまで浸透した。
 孫文の辛亥革命の資金は日本からの支援もあったが,洪門天地会に属する秘密結社致公堂の支援が大きかった。孫文自身もハワイの致公堂堂主であった。孫文率いる十数回の蜂起はすべて洪門天地会に頼り,しかも洪門徒党が最前線で戦った。
 蒋介石も,上海の青幇ときわめて密接な関係があった。彼は中国の裏を握っていた青幇の頭目,黄金栄の弟子でもあった。蒋介石は民国総統になった後も,青幇と切っても切れない関係をもち,常に同盟関係にあった。
 中国の士大夫原理に反旗を翻した毛沢東は,農村のゴロツキでもあった下層の遊民には闘争力が豊富なので,これらを組織・教育して革命をスタートさせたのである。毛自身が告白しているように,彼は「緑林大学(匪賊集団)」の卒業生で,中国問題の解決方法は「梁山泊の英雄を見習え」であった。幼年時から『水滸伝』を愛読した彼は,マルクス主義の表皮を被った匪賊原理の実践者であった。1950年以降,全国各地に遍在していた各種匪賊集団が一気に姿を消したのは,毛の体制が巨大な匪賊集団であったことを反証している。
 毛の「階級闘争」「造反論理」は,匪賊原理の焼き直しである。新中国建設後の国内闘争,反乱,混乱はすべて毛沢東の匪賊原理の下で実践した大乱であった。21世紀になった今日,党宣伝部,政府,公安(警察),司法機関による反体制人士への弾圧,民間宗教団体への抑圧と暴力は,基本的に中国の伝統的匪賊原理にルーツを持つのである。
 中国が民主・平等を叫び政治改革を進めようとしても進まないのは,伝統的匪賊原理,江湖原理が阻害要因となっているからだろう。

(2)毛沢東に見る「江湖」と文化大革命の意味
 ここで毛沢東について詳しく見てみよう。
 毛沢東は,湖南省のごく普通の農民の出身で,湖南第一師範学校を卒業して北京大学図書館で働いていた頃から,読書が大好きな「小知識人」であった。彼の古典文学の教養と博識は有名で,その著作には古典からの引用が無数に見られる。
1927年,毛沢東は都市占領方式の闘争を放棄し,江西の匪賊・袁子才と同盟を結び,井崗山に根拠地を設けた。中国共産党創設者の一人で毛沢東の上司であった李大釗は,第一インターナショナルの中国支部が天地会にあったと指摘した。
 毛沢東はマルクス・レーニン主義の理論を掲げつつ,実際には中国の伝統的匪賊や秘密結社と深く関わり,その力を借りてゴロツキ農民,遊民を組織して社会革命を成功させた。彼が「銃口から政権が生まれる」と言ったのは,江湖社会の暴力原理の変種であった。また彼が戦闘に用いた戦法も,ほとんど匪賊のゲリラ戦法そのもので,抗日戦争で毛沢東が提起した「持久戦論」もその一つであった。『矛盾論』『実践論』の哲学にも,実は江湖の人間関係,行動原理が根底にあるのは事実である。
 毛沢東が打ち上げた「人民のために奉仕する」「すべての人民は平等」というスローガンに多くの人民が共感した。きわめて農民的で農民が大好きな毛沢東は,農民と労働者の「父」であり,「友」であり,「救世主」であった。解放前には土地を地主・富農から奪って貧農たちに分配し,農民の絶対的な救世主として登場し,解放後には資本家と都市富裕層,文化人の財産を没収して,労働者・農民に共有化させた。このように毛は農民や労働者を糾合し,農民反乱,匪賊原理を中国を救う方針として革命を進めたが,現実には彼らを搾取したのであった。
 それでは,類いまれな読書家で「小知識人」の毛が文化人・知識人を嫌い,彼らを抑圧したのはなぜか。
 1918年,毛は楊昌済教授の斡旋で北京大学図書館で働くようになったわけだが,当時中国最高のインテリ大学の知識人たちが新文化運動を指導していた。それを横目に身ながら,貧しく無名な毛は彼らに対してコンプレックスを抱くようになった。そして知識人たちが,西欧文明によって中国を近代化するにおいて,都市を中心に広大な農村を包括しながら近代工業化を進めて行こうとしたのに対し,毛は農民の力を動員することを大きな指針としたのである。中国は巨大な農業国家であり農民が主役であるから,農民を解放して土地を与え,農村から都市を包囲して徐々に取り込んでいく方法だけが唯一の方法だと考えた。結局,エリート知識人のやり方は失敗し,毛の農村路線での革命が成功,1949年中華人民共和国が成立して最高権力者にのぼったのである。
 毛は,ぼろをまとって飢えている世界の三分の二の労働者を思い,中国こそが農民と労働者の楽園だと確信した。毛の天性の素質に流れる農民的な気性が復活し,農民と労働者が国の主となった社会主義の楽園において,知識人は無用の長物に過ぎない。読書無用論を唱えつつ,知識人に対するコンプレックスから文化抑制主義へと走ったのである。その方法が,「知識人改造」であった。事実,知識人を農民と労働者と結合させ,肉体労働に従事させようと考えて実践した。
 さらに文化人・知識人を社会主義イデオロギーに奉仕する手段と見なした。伝統中国の専制社会では,官僚が文人であり,文学と学問を支配する伝統が濃厚であった。毛は伝統中国を否定しながらも,文人を支配する伝統を継承した。つまり,文芸は政治イデオロギーに従属し,文人は政治のため勤労者のために利用されなければならないという考えであった。そして,政治に隷属され,イデオロギーの耳目とならねばならない文化管理の下では,それに拒否を示す文人は当然失脚させられ,粛清の対象となった。
 農民・労働者一辺倒の毛沢東の晩年は,伝統文化・伝統儒教を否定し,文化人・学者を政治イデオロギーによって改造しようという考えが,彼の全身全霊を占領した。これが文化大革命を引き起こした主たる要因であった。

(3)文革の経験から見た将来
 既に述べたように,文化大革命は毛沢東の革命意識構造の核心であり,とりわけ晩年の毛沢東思想の精髄となった。文革勃発当時(1966年),党の権力者でライバルであった劉少奇はほとんど打倒した状況であったから,あえて大規模な文化運動を展開する必要はなかったのに,文化大革命を起こしたことから,その発生の根源は政治権力闘争を超越した深層に求めなければならないのである。
 中国人の深層にある反文化志向,これを理解せずして文化大革命を認識することは難しい。反文化志向は集権制の独裁体制のメカニズムの中に生じうる。民主と自由のメカニズムが備わらない限り,独裁と反文化志向の伝統はなくならないのだ。
 そして近年,その諸原理が中国支配体制の中に復活し,全国が暴力化する現象が目立っている。中でも司法,警察による暴力が極めて深刻である。警察が犯罪者を殴打するのは日常になり,警察と暴力団が互いに結託し,共犯となるのも日常化している。
 何清漣によれば,中国大陸は「黒社会」(匪賊社会)化し,黒色王国は点から線,線から面として「赤」(政府)に浸透し,「白」(薬物密売組織),「黄」(エロ産業)を仕切っている。黒社会,暴力団が,表では往々にして企業の形を取って「○○会社」を名乗り,腐敗した政府官僚,警察,司法機関と癒着し,その保護を受けている例もある。
 一方,中国の発展は多数の農民の犠牲の上に成り立っており,建設のため農民の土地が強奪されるという例も枚挙に暇がない。政府官吏は,地方の黒社会暴力団を使って農民を無理やり移動させている。都会でも新建設のため,住民を強圧的手段で移住させるのは,中国都市の「名物」でもある。
 今日見られる農民の「遊民化」,政府の「匪賊化」は,まさに中国歴代王朝の末期状況と類似している。先述の何清漣は「腐敗の乱舞,盗賊の蜂起,貧富格差の拡大,失業者の増加,黒社会化の加速は,中国社会を重大な危機に陥れている」と指摘した。この匪賊原理が残存する限り,中国の政治体制の改革と民主化の実現は不可能に近い。
(2012年5月25日)

プロフィール きん・ぶんがく
1962年中国・瀋陽で韓国系三世として生まれる。85年東北師範大学日本文学科卒。91年来日,同志社大学大学院修士課程修了,2001年広島大学大学院博士課程修了。現在,広島文化学園大学特任教授,日中韓文化研究所所長。文明批評家,作家。専攻は,比較文学,文化人類学。日中韓3カ国語による執筆・出版・講演を行なっている。主な著書に,『韓国民に告ぐ!』『中国人民に告ぐ!』『第三の母国 日本人に告ぐ!』『日本人・中国人・韓国人』『「混」の中国人』『知性人伊藤博文 思想家安重根』など多数。