政治経済システムの転換と新しいリーダー像

目白大学教授 石井貫太郎

<要旨>

 長期にわたる経済停滞,東日本大震災と原発事故,世界的な経済不況の影響などによる現代日本の政治的な混迷は,多くの国民をして将来に対する巨大な不安を抱かせている。その背景には,民主主義と資本主義という政治経済システムに内在する根本的な弱点という問題が存在する。特に,政治情勢を彩る昨今の現象には,脱政党化や独裁化などの危惧すべき面が多い。果たして真の日本再生には,一体何が必要なのであろうか。ここでは,政治システムとしての現行民主主義の限界と経済システムとしての現行資本主義の限界という現状認識を整理した上で,特に,政治的リーダーシップ論の観点からその方向性を探る。

1.はじめに

 21世紀に入って10年余りの歳月が経過したが,この間,日本は経済の停滞とともに政治的な混迷期を迎え,行く先が見えない航海の中で漂流している。それゆえ,今日ほど日本の社会がより多くの成果を産み出せるような新たな政治経済システムへと転換していかなければならない時代はなかったと言える。しかし,その実現のためには,日本の国民と政府が明確かつ堅牢な将来へのビジョンを有していなければならない。そして,そのビジョンを構築するための根源となる人々の価値観や考え方の共通項がこの国の国民に共有されているのかどうかを問う思考作業が不可欠である。果たしてわれわれ日本国民は,この国をどのような国にしたいのであろうか。
 たとえば日本人は,一般に,国内外を問わず不運な境遇にある人々に対して救済の手を差し伸べようという感覚を共通に有しているように思われる。しかし,それをどのような理念の下にいかなる方法で実現するかという個別的かつ具体的な事案については,千差万別の考え方があってまとまらない。最終的にはそれを民主的な多数決原理で決めることになるわけであるが,そうなると玉虫色的または八方美人型の解決策しか導出されず,所期の目的を果たせない場合も少なくない。もはやこうした徒労は,そろそろ終わりにしなければならない。なぜなら,もしこのまま手をこまねいていれば,かつて西暦2000年当時に「失われた10年」と言われ,その後,現在において「失われた20年」と言われる現状が,さらに10年後には「失われた30年」と言われるようになることは確実だからである。
 その意味では,昨年の東日本大震災と原発事故という大きなショックを天から与えられたことは,こうした課題へ取り組むための良い契機となるだろう。今こそわれわれ日本の国民は,これまでのこの国の考え方や手法を総合的見地から検討・反省し,その土台の上に新たな政治経済システムへと移行するための第一歩を踏み出さねばならない。そして,その最も重要な前提は,国民の価値判断の基準となるメタファー=社会思想の背景にある根源的な思考形態を国民的レベルにおける「共有された理念」として確立していく作業に他ならない。

2.現代日本の諸問題

 (1)現代日本のデカダンス=頽廃主義

 一般に,成熟型社会において需給関係が切迫して大きな発展や成果が期待できなくなると,人々は新しい時代の到来を感じさせる新奇な事象や昔の良い時代を体現する古い事象にすがる傾向が強くなる。現代の日本社会は,明らかにこうしたデカダンスの状況にある。
 例えば,最近のゴールデンタイムにおけるテレビ番組を見ると,次々と新人の歌手や俳優が登場するドラマが製作・放映される反面,ある特定の世代,特に,団塊世代が青春時代を送った昭和30年代に流行った当時の大物スターを登場させたり,その時代の歌謡曲を流したりして懐かしむバラエティー番組などが数多く製作・放映される傾向が強い。こうした傾向は,デカダンスの典型的な現象といえるものである。このような状況にある現代の日本においては,新しい革新的な新機軸や幹の太いトレンドが生まれず,ゆえに社会の発展は停滞していく。
 わが国は,80年代の終わりにバブルが崩壊し,その後,本格的な高齢化時代に突入した。90年代以降の社会的な雰囲気は,経済的閉塞感や政治的無関心などが支配的であったが,その間,日本の社会は財政悪化などの深刻な問題が発生し進行していたにもかかわらず,政治家たちがその上にきれいなシートをかけて体裁を取り繕い,「まだ日本は大丈夫だ!」と叫んでいた。そして,国民はそうした政治家の「虚言」に騙されてしまい,自国の危機的状況にもデカダンスにも気付かずに過ごしてきた。
 ところが,昨年の3.11を契機にそのシートが一気にはがされ,本来の隠されていた根源的かつ危機的な問題が露呈した。言うまでもなく,政治家たちはそれに対して有効な手立てを打つことができずに権力闘争を繰り返す一方で,日本の経常収支は悪化し,赤字国に転落する現実が国民の目前で起きた。それまで黒字を続けてきた貿易神話が崩壊し,多くの国民がようやくこの国が陥っている深刻な事態に気付き始め,本気で将来への不安を抱くようになった。

(2)現行民主主義の限界

 現在のわが国における現行の民主主義システムは,高齢化時代の到来という現象によって,ほとんどもっぱら機能不全に陥っている。それは言わば「正義を保障すれども,成果は保障されず」といった現象である。
 すなわち,政治学的に考察すると,民主主義が限界に直面して行き詰まる要素には,大きく言って二つある。第一に,民主主義システム自体が立ち行かなくなり,皆で意思決定する方法の正統性が失われる場合である。民主的な決定方式が機能不全に陥ると,一部の優秀な人々にすべてを任せて決めてもらおうと考える「リーダー待望論」が横行することになる。第二に,民主主義の枠組みそのものは機能しているのだが,その使い方が悪いために機能不全に陥る状況である。現代日本の民主主義はまだ使い勝手のある制度だとは思うが,果たして日本の国民がその使い方を誤っているのではないかという解釈である。
 ここで,多数決原理をもとにした意思決定システムを根幹とする民主主義という体制を改めて考えてみると,そこでは当該システムがよって立つ根本原理そのものの性質がゆえに,ある特定の人口が多い世代の国民の意思が政策に反映されやすい傾向を有することになる。いわゆる団塊世代は日本人の中で最も多い人口を占める世代であるが,彼らの多くは戦後の「柔らかい左翼主義」的な思想洗礼の下で,自己利益たる高齢者福祉や年金・社会保障給付の維持・増額を相変わらず主張し続けている。たとえそれが財政破綻を招く要素となっても,その主張はいわゆる「多数派」の意見として政策に反映されてしまう。民主主義の多数決原理を通じた意思決定システムは,戦後日本の意思決定システムとしての役割を果たしながらこの国を作り上げる過程で最も重要な役割を果たしてきた政治制度ではあるのだが,高齢化時代の今日には,もはや総合的見地に立った理性的判断が出しにくい社会が形成されたために,今やこうして現行の民主主義は機能不全に陥り,その限界が露呈し始めていると言える。

(3)現行資本主義の限界

 他方では,現在のわが国における現行の資本主義システムも,グローバリゼーションの深化・拡大という動向によって,民主主義システムと同様に機能不全に陥っている。ここでもまた,「正義を保障すれども,成果は保障されず」といった現象が見られると言える。
 すなわち,そもそも資本主義の根本原理は少ないコストでできるだけ多くの利益を上げることであり,顧客や経済対象の母集団が大きいほど収益が最大化するという体制である。そして,その舞台は資本主義の世界大の規模における発展とともに拡大し,世評を賑わせたインターナショナル,ボーダレス・ソサエティー,グローバリゼーションなどの言葉に示されるように,いわゆる国境を越えた活動に到達するに至っている。しかし,グローバリゼーションは,他国との連動性を増大させて市場を拡大することで全体の収益を上げていく反面,市場の拡大による競争の激化は自然淘汰の原理を強く働かせるようになり,その結果,皆が裕福になれる可能性をもつと同時に誰かは必ず貧乏になるという格差社会を生みだしていく。その上,各国単位で実施される財政政策や金融政策の効果は,グローバリゼーションによって狭められ,その成果は限定的となってしまった。なぜなら,他国との連動性が強くなることによって各国政府と独自の経済統制の領域は逆に狭まり,その効果は以前のようには十分には現れにくくなったからである。今や一国単位での金利政策や公共投資は,当該国の経済に限定的な影響しか与えられなくなり,その結果,現行の資本主義は機能不全に陥り,今や確実に限界を露呈し始めていると言える。

(4)グローバリズムの落とし穴

 グローバリゼーションの進展により競争が激化し,自然淘汰の原則が過度に作用することによって各国政府のマクロ経済政策の効果が減少させられた結果,多くの国民は「資本主義もダメ,社会主義や共産主義もダメ,ではそれに代わる何かまったく新しい社会体制は何か?」と考え,リアリズムの思考から逃避して空想の世界に入り込んでいくようになる。しかし,現実問題として冷静に考えれば,当面はなにがしかの形態の民主主義や資本主義の修正システムでやっていくしかないのである。現状の民主主義システムや資本主義的システムを修正してもう一度立て直していくという方向性こそが,冷静で堅実な本来の思考であろう。
 政治や経済がますます混迷の度合いを増し,不安が拡大していく中にあって,日本の国民の中にもこのような新しい政治経済システムを求める声が出ている。これはシステムが行き詰まるにつれて,国民の間に焦燥感が出てきた証拠といえる。その結果,国民大衆は夢と情熱を語るポピュリスト型の政治家に引きずられていく。しかし,そこにはいよいよ「独裁」の落とし穴が待ち構えている。
 そもそも日本は,バブル崩壊の後始末をしっかりしてこなかった。これが最大の根本問題である。いたずらに「失われた20年」を過ごす中で,なし崩し的に少子高齢時代に突入し,ついには人口減少期を迎えたところへ,東日本大震災と原発事故がとどめを刺した。こうして日本の国民大衆の多くは「強く偉大なリーダー」なる幻想を渇望し,グローバリゼーションという神話に期待をかけるような感情を蔓延させている。これが今,この国の改革が進まない最大の元凶であると思われる。われわれは,まずもってこうしたリアリズムからの逃避がこの国と国民を破滅の淵に招く危険性のある風潮であることをよくよく認識しなければならないのである。

3.現代の日本に望まれる政治的リーダーとは?

 (1)リーダーシップ論における歴史人物研究の功罪

 すでに見てきたように,今日の日本社会では,現行の民主主義が限界状況に陥って総合的見地に立った理性的判断ができにくくなってしまった。そのような中から,民主主義に代わる新しい政治システムや資本主義に代わる新しい経済システム,さらには国家のよって立つ枠組みそのものを新たに作り直そうなどといった荒唐無稽な言説が登場している。その典型が,皆で議論してうまく行かないのであれば一人の有能かつ強力なリーダーに頼ろうという「リーダー待望論」の考え方である。しかし,すでに指摘したように,こうした論調は一種の焦燥感から生み出される悪しき傾向であり,こうした問題はしっかりと冷静に議論して堅実に対処方法を考えていかなければならない類のものである。
 ところで,これまでの政治学におけるリーダーシップ論は,そのほとんどが歴史人物研究であった。残念ながら今日でも,科学的な手法を用いてリーダーシップ論を論じる研究者は稀少である。そもそも,リーダーとリーダーシップという異なる二つの概念をしっかりと区別している議論ですら非常に稀である。なぜなら,リーダー論とはリーダーの役割を担う人間の資質を論じるが,リーダーシップ論はある特定のリーダーが行なう政治の形態を論ずるものだからである。
 歴史人物研究は,ある特定の時代状況において何がしかの重要な役割を果たした人物の具体的な事例を取り上げて論じている。その長所は,具体的なリーダー像を提示してくれることであろうか。しかし,そもそも人物を選択するときに歴史上特筆すべき行いをした題材を選ぶわけであるから,その段階で普通の凡人とは異なる人物を選んでいるというトートロジーがある。また,歴史上立派な役割を果たし人物を選び出してそれらを検討する作業というものには,もともと「立派なリーダーは偉人である」という結論が当然の論理的帰結として内在されている。つまり,「望ましいリーダーは偉人である」という結論がもともと存在しているのである。
 しかし,果たして現代の日本は,そのような偉人の登場が本来的に望まれるような時代の状況なのであろうか,また,本当にそのような人物の登場を期待できるのであろうか。もちろん,経営や教育などの限定的な分野ならまだしも,少なくとも政治の分野では期待できないのではないだろうか。現代の日本社会は,そういう人物を育成するようなシステムを作らなかったどころか,民主主義的な思想から導出される平等主義の過度の適用によって,むしろ他者とは異なる技量や才能を排除し,磨滅化させる教育や社会のシステムを築いてきたといえる。現代日本の社会システムは,かつて歴史上に現れた英雄的な人物を輩出した社会システムの時代とは正反対のシステムなのである。
 特に政治の分野では,玉虫色もしくは八方美人的に小さくまとまった小粒な人物ばかりとなった。なぜなら,現行の選挙制度が偉大な要素を有する人物が立候補したり選ばれたりするシステムではないからである。選挙というものが,利権を背負い,ある特定の一部の人口を構成する集団の利益を実現するために立候補して当選するというシステムになってしまった以上は,偉大な人物など生まれてくる余地などあろうはずがない。ゆえに,リアリズムの観点からいえば,偉大なリーダーの到来を臨むことが現実的ではない以上,たとえ小粒な人物であろうとも少なくとも冷静に物事を判断する性格の人物を選び,彼らに一歩一歩着実に成果を積み上げていく政治活動をさせる方法が次善策と言える。
 歴史人物研究の最大の問題は,第一に,このように国民に時代状況の正確な把握を見誤らせてしまうことと,第二に,今とこれからの時代に非現実的な偉大なリーダーや強いリーダーシップを期待させてしまう空想化効果があることに他ならない。また,こうした議論を野放しにしておくと,先述のポピュリスト型政治家が暗躍する世論動向が形成されてしまう。彼らは政党組織に頼らず,直接国民の夢や情熱に訴えながら大衆の人気に乗じて権力の階段を上がっていく。そして,国民はそのような人物に強いリーダーや偉大なリーダーとしての偶像を重ね合わせていく。
 しかし,そこには冷静さや堅実さはなく,むしろリアリズムからの逃避という危惧すべき世論動向の温床が強化されてしまうだけである。彼らは情熱をもって庶民に夢を語る。夢や情熱にほだされたセンチメンタリズムと理想主義に彩られた政策とも似つかぬ空想の中で夢を見ることが国民の投票行動に結びついた場合には,実利的成果を上げる政策が行なわれなくなってしまうのは必然である。政治においては,夢や情熱よりも冷静さと堅実さが重要な要素なのである。国民は冷静さと堅実さを備えた本当に政治家としてふさわしい資質を有する人物を選ばなければならないのに,情熱をもって夢を語る候補者に票が流れて行ってしまう。ここに,現代の日本人の政治意識の弱点が露呈している。つまり,政治的動物としての自覚と知識が薄弱であることにより,今の日本が坂を転げ落ち始めているという眼前の差し迫った事実を深刻に受け止められないのである。

(2)科学的リーダー論と科学的リーダーシップ論

 こうした歴史人物研究に対して,私がかねてより提唱している科学的な政治的リーダーシップ論では,精神分析における交流分析の手法であるエコグラムを用いて,リーダーのタイプを以下のように大きく三つに分けている。


創造型リーダー
 これは,何もないところから国家や社会のシステムを新たに立ち上げていく作業に有能な資質を有するタイプのリーダーである。ここで,彼もしくは彼女が行うリーダーシップの形態には2種類あり,まず,真っ白なキャンバスに下絵を描く作業(自由な創造型)と,しかる後に,それに色を塗る作業(従順な創造型)がある。いわゆる世評でいわれるところの強いリーダーや偉大なリーダーとしての資質を有するタイプである。

A管理型リーダー
 これは,創造型リーダーが作った国家や社会のシステムを効率的に管理する作業に有能な資質を有するタイプのリーダーである。ここで,彼もしくは彼女が行うリーダーシップの形態は,管理型の一種類である。なお,ここでいう「管理」というコンセプトは「マネジメント」という意味合いのそれであり,いわゆる日本の役所や会社で言う管理職たる職種の者が果たす役割よりも広く総合的な見地から体制や組織の基盤を固め,構成員間の意見や利益を調整しながら協調的な体制を作りつつ,より効率的な運営を施行していく役割を果たす人物である。

B象徴型リーダー
 これは,創造型リーダーが作り,管理型リーダーによって効率化が施された国家や社会のシステムを安定化させる作業に有能な資質を有するタイプのリーダーであり,システムの老朽化にともなう修繕や修正の際に生起する変動や崩壊を防止する役割を果たす人物である。日本の政治社会で言えば天皇陛下のような存在意義を果たすリーダーのタイプであり,ある程度の成熟した国家システムにおいてその構成員である国民を統合・統括する役割である。ここで,象徴型リーダーがおこなうリーダーシップの形態は2つあり,国民を叱りつけて気合いを入れる(厳格型)作業と,国民を安心させて結束を促進する(寛容型)作業とに分かれる。

 そこで,これらの3つのリーダーのタイプと5つのリーダーシップのタイプは,それぞれが時系列的に連動してバトン・リレーをおこなう関係にあることが重要である。すなわち,あるシステムが創造型リーダーによって創られた後(黎明期・建設期),それが管理型リーダーによって効率的に運営され(修正期・充実期),さらにその後は象徴型リーダーによってシステムの崩壊をくい止めながら新生・再生させていくという構図である(衰退期・再生期)(<図1>を参照)。 
つまり,この理論によれば,あるシステムがそのバトン・リレーのどの段階の状況にあるのかを正確に把握できれば,当該時代に必要とされるリーダーやリーダーシップの的確なタイプが自明的に規定されることになる。そして,すでに本稿の前段において具体的に検討してきた限りでは,現在の日本は充実期=管理型の末期から衰退期=象徴型の段階にあると考えるべきであり,そこでは象徴型リーダーによる厳格型リーダーシップが必要となる。つまり,国民を叱りつけることができるような器量を有するリーダーが望まれていることに他ならない。しかし,今の日本には,その役割を最も期待される世代であるはずの「尊敬できるお年寄り」が天皇陛下以外にはいなくなってしまった。この要素こそ,日本が立ち行かなくなってしまった元凶である。そして,象徴型リーダーが不在で,厳格型リーダーシップの施行が不可能な場合には,次善策として管理型リーダーによる管理型リーダーシップがふさわしいことになる。すなわち,冷静な分析結果に基づいて堅実な政策を進めていくタイプである。最も危険なことは,こうした時代状況の認識を履き違えて,創造型リーダーを配置してしまうことである。そして,現代の日本国民は,実はそうした最も危険な方向に世論動向を形成しつつある。今の日本には創造型リーダーは不要であるばかりか,その登場は弊害となるのである。

4.日本人の社会思想的課題

 (1)現代の日本社会における「神々のたそがれ」

 ところで,現代の日本は,さまざまな「ことばの呪縛」に囚われてしまっている。一般に,ことばが「絶対善」として認識されてしまうと人々の本来の正常な思考・判断が停止してしまう。私はこうした傾向を,現代日本における「神々のたそがれ」と呼んでいる。すなわち,環境,人権,平和,グローバル,国連,ゆとりなどの言葉をめぐる世論や世評の動向がそれである。最近では,復興,反原発,絆などの新しい事例も見受けられる。
 例えば,平和という言葉を神聖視する人たちはその対概念である戦争という言葉を嫌悪し,両者が連動的かつ相互作用的な状況概念であることを見失って正常な分析ができなくなってしまっている。そして,残念ながらこうした思考の性向は,多くの言葉の事例において現代の日本国民に広く受け入れられてしまっている。日本人が本来的に尊重すべき価値の基準があいまいなままに雨後の筍のように噴出するさまざまな概念をあれこれと論じている間は,ますますリアリズムの思考から遠ざかってしまい,現実の事象に具体的な有効策をもって対処することはできないと言わざるを得ない。

(2)価値観の構造からみた日本人の思想的課題

 さて,ここで改めて現代日本の国民が有する価値観の構造を模式的に考えると,<図2>のようになる。まず,日本人が共通にもつ社会思想や価値観,すなわち土台となる哲学が一番下位に据え置かれ,これが「三角形」の土台部分を形成する。ここで,三角形の上位に行くほど広い概念がおかれている。
 実はこの「三角形」という型が正常な状態であり,この構造によって国民の社会に対するしっかりとした倫理観や哲学が構成・確立されるのであるが,しかし,現実の日本国民の思想体系は三角形ではなく「砂時計型」となってしまっている。そこでは,一方で個人の利益や考え方が非常に重視され,小さな共同体の利益,たとえば村,町,市,県などの最下位レベルの価値や利益も重視され,それらが土台部分を形成している。また,最上位の普遍的な概念,たとえば人権,環境,世界に関する問題意識なども同様に重点領域として認識されている。ところが,他方では中央の部分,すなわち,国家や国民社会などのナショナルな概念に関する価値観が非常にいびつに欠落してしまっている。
 わが国がおかれている現状に即した課題は,言うまでもなく自己の国家的な枠組みをしっかりと確立し,国の基盤を強化した上での世界への貢献であろう。国家の枠組みが確立した後のグローバルなレベルへの関与は差し支えないが,それをしっかりと確立しないままに普遍的な価値に関与していく流れには,まったくもって危惧せざるを得ない。ましてや,現行の政治経済システムが限界に達し,それらを再整備・再構築することが不可欠なこの時期において,最も重視すべき国家レベルの価値をなおざりにしつつ,より下位のレベルや上位のレベルの価値に興味や努力の対象としての焦点を合わせるなど亡国の思考とも言えるであろう。いつまでもこうした日本国の利益よりも世界の利益を優先する「やわらかい左翼主義」の亡霊にとらわれていると,本当の意味での再生の道を歩んでいくことは不可能である。
 言うまでもなく,戦前はむしろこの思想体系の中央部分が不必要なまでに肥大していた。したがって,戦後はそれを反省し,本来の三角形型に再構成していくべきであった。しかし,戦後の日本国民は,戦前への過度の反動から中央部分を欠落させた思想体系を作り上げてしまった。その結果,国民一人一人の個人的な価値や利益および国際的な価値や利益については誠に敏感でありながら,それらを支える基盤となる最も重要な国家的な価値や利益(ナショナル・インタレスト)には疎いという異常な思考形態を有する国民集団によって構成される国家が出来上がってしまった。言うまでもなく,国際政治経済場裡におけるリアリズムの論理には,中央部分の概念たる国家的リアリズムの次元で対応する感覚が不可欠である。それは理想主義では対応できない。言わばこうした「甘やかし」の論理は,これまでの日本の国内では通用したが,これからの日本と世界にはまったく通用しない。

(3)投票制度の改革

 日本の未来とそれを切り開くための再生への道を導出する政治的な解決策とはなにか? その根本は,「投票制度の改革」にある。現行の投票原則は一人一票制度である。しかし,すでに述べたように世代によって人口に大きな格差があるため,実は一人一票制度は平等どころか不平等の根源となっている。そこで,世代間の人口格差を考慮して,一人一票の世代と,一人0.5票の世代というようにウェイト差をつけることも一案である。ある特定の世代に共通した価値観や利益の観念が存在する中で,その特定の世代の意見だけが反映される政策は総合的な見地からの良作とは絶対的に成り得ない。世評では,とかく選挙制度に関する議論において選挙区別の有権者の絶対数を基にした一票の格差が頻繁に問題視される傾向があるが,それ以上にまずは世代間格差,収入別格差,男女別格差などのより根源的なさまざまな属性に伴う格差があることを認識すべきである。要するに,差別ならぬ「区別」の基準をしっかりと作りあげることが重要なポイントであり,そこに現行の「感情投票」から将来の「理性投票」への転換の期待が萌芽することになる。
 現代日本のような混沌の時代においては,夢や情熱にほだされて空想の世界にうつつをぬかすことなく,現実に対する冷静な分析に基づいて堅実かつ着実に政策を進めていくことが何よりも大切である。当事者だけが関わる資格があるといった議論なども,当事者以外の者を排除する思考に堕落し易い。利害関係のない非当事者であればこそ,冷静な判断や反省が可能なことが多い。その意味で,今こそ国民一人一人が感情に動かされることなく心を落ち着かせ,この国の現在と将来について理性的に考えねばならない時代はない。その意味で,長引く不況によって直接的な不利益を被ったり,震災や原発事故から直接の被害を受けた国民以上に,それらの事象から間接的な被害を受けるにとどまった国民や被害を受けなかった国民の役割こそがむしろ甚大であり,その理性が大きく問われていると言えよう。
(2012年3月13日)

<報告者プロフィール>
石井貫太郎(いしい・かんたろう)
1961年東京都生まれ。84年青山学院大学経済学部卒,90年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程政治学専攻修了(法学博士)。その後,東洋英和女学院短期大学専任講師,同助教授,目白大学人文学部助教授を経て,現在,同大学社会学部および同大学大学院国際交流研究科教授。専攻は,政治学,国際関係論,リーダーシップ論。主な著書・編著として,『国際政治分析の基礎』,『現代の政治理論』,『現代国際政治理論』,『リーダーシップの政治学』,『開発途上国の政治的リーダーたち』,『現代世界の女性リーダーたち』ほか,政治学・国際政治学に関する著書・論文多数。