歪んだ日本人の宗教観はいかに形成されたか

中央大学大学院教授 保坂俊司


<梗概>

 現代日本で宗教についてよいイメージをもつ人は少ない。それは単に宗教がらみの社会問題のせいだけではなく,より根本には歴史的な背景として明治政府が進めた宗教政策がある。またこれまで日本人は,明治政府が進めてきた国家神道の問題についてしっかりと反省してこなかった。そこには突き詰めて考えようとしない,日本の歴史・自然環境という風土から生まれた日本人独特の文化的特徴があるかもしれない。世界の現実を見たときに,宗教についての偏らない知見,理解をもつことが,いま必要不可欠な時代になってきた。日本人のゆがんだ宗教観の形成過程について検討を加える。

1.日本人の宗教的特徴

 1995年3月,オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。これは日本の戦後宗教史において非常に衝撃的な事件であった。それは宗教の正義の名において大量殺傷,反社会的事件を引き起こしたからだ。しかし,「一体この事件の本質は何だったのか」など,全く反省や清算をせずに「オウムという(新興)宗教の問題だ」などとこの事件を矮小化した形で結末を付けて,そのまま封じ込めてしまった。つまり,もともと悪い宗教であるオウムが起こした問題であるから,悪い宗教を切り捨てて「ないこと」にすればよいと考えたわけだ。その結果,社会は(臭いものであるオウムを)切り離して宗教について真剣に考える機会を放棄してしまった。
 これは,「臭いものに蓋」「穢れを祓う」という表現に見られるような,きわめて日本的な発想である。「穢れを祓う」とは,穢れは全くそのままの状態で,自分のところからなくなればよいという考え方である。秋の野原を歩くと「どろぼう草」(ヌスビトハギ)の実がズボンなどに付くことがある。その実を払えば,自分のところからは消えるが,別の人が来ればまたくっつく。つまり「祓う」という考えは,「穢れ」の内容を全く検証もせずに,とりあえず見えなくなればよい,なくなればよいと考えて祓うだけだ。しっかりと問題の本質を追及し,どうしたら本当に清められるのか,よいものに転換できるのか,など真摯な思想的努力をしない。物事を深く考えることをせずに,習慣的な行為で済ませてしまう。これはまさに日本人の文化的特徴である。
 日本の自然は普段は非常に人間に優しいのだが,何十年に一回,何百年に一回の割合で頻繁に災害が起きる。この災害が繰り返し起こることに対して,なぜ起こるのかと考えてもしようがない。それゆえ日本人は,ものごとを突き詰めて考えるよりも,起きたこと(災害)は仕方ない,一刻も早くその場あるいは状況から脱出して新しい世界を作っていこうと考える風土ができた。それが,ものごとを深く考えない,突き詰めて考えないという日本人のメンタリティーを形成したと思う。もちろん,それ自体は害でも悪でもなく一つの特色である。
 日本人の生命や財産を脅かすものは災害を引き起こす自然である。その一方で自然は,われわれを育み,豊かさを与えてくれる存在でもある。それゆえ日本人は自然を憎まず,敵がいない。
 ところで,インドと比較してみると,インドでは自然の脅威をさほど感じない。暑さなどの厳しい気候は,毎年訪れることであるから,人間にとって対応が可能である。むしろ一番の脅威は「人間」である。すなわち,異民族の侵入である。同じ姿の人間でありながら,言葉が通じない人々が来襲し命や財産を奪っていく。自然に対するのとは全く違い憎悪の感情が生まれる。ここに「敵」という概念が明確に浮かび上がってくる。
 インドでは,(宗教を異にする)宗教人同士の戦いがあり,中央アジアからやってくる異民族との戦いの歴史であった。そのような世界の中で,最も安定して信頼できるものは「宗教」だけであった。国も社会も守ってくれない。宗教は目に見えない知恵の塊だが,そのような宗教が救いを与えてくれるのである。インドのような世界で宗教が尊ばれるのは,このような背景がある。
 今回の東日本大震災では大津波や地震で多くの人の命が奪われても,多くの日本人は自然をうらむことはしない。猛威をふるった自然に対して,最終的に悲しみと諦めを抱くのみである。これからも付き合っていく自然であるから前向きに受け入れて乗り越えていく。日本にも源平合戦や戦国時代のような争いの盛んな時期もあったが,それは武士など一部階層の人どうしの戦いが多く,庶民どうしが憎しみ合うということはあまりなかった。
 日本に仏教が入る前の時代,人々が拝む対象である自然(神)は,火山の爆発,津波,などの災害をもたらし人間を殺す存在でもあった。神は拠り所であると同時に,罰を与える恐ろしい存在でもあった。そこで人々は,神に跪いて祀りそばに寄り添いながら生きる。一神教のように絶対的な服従ではなく,時には恐ろしいが身近に仕える。信じる神ではない。寄り添って顔色を見ながら,お願いしたり,時に利用したりする神。このような神観をもっていた。
 このような日本人の特殊な自然観から生まれてくる独自の宗教観がある。ある人はそれを「縄文的宗教」と呼んだ。
 ところで,日本で「あなたは宗教を信じるか?」とアンケートをすると,宗教を特定の神仏への信仰と考えてか,大半の日本人は「いいえ」と答える。ところが,そのように宗教をもたないと言う日本人の中に,神様や仏様,そして霊的な存在を否定する人はほとんどいない。
 このように日本人の宗教観と外国,とくにセム族の宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラーム)を信ずる人々の宗教観との間には,大きな違いがあるために,この点が混同されてしまい混乱が生じているように思う。日本人は,決して「無宗教」でも「宗教嫌い」でもない。むしろ日本人ほど多様な神・仏を日常世界で信奉し,それにまつわる宗教儀礼を大切にしている国民は珍しいほどだ。
 そこで,以下,宗教という言葉をめぐっての認識の違いがいかなるものかについて検討してみる。

2.ゆがめられた宗教観

(1)宗教の三つの意味
 日本語の「宗教」という言葉の意味には,大きく二つある。一つは,漢字としての「宗」と「教」の合成語である。すなわち,「言葉にならない真理である‘宗’を言葉に表し,‘教’えとする」の意味であり,この「宗教」という言葉は,中国人が仏典を翻訳するときに作り出した翻訳語であるという(中村元)。もう一つは,明治の初めに西洋のreligionの翻訳語として「宗教」を用いた。それ以前religionは「宗旨」などとも訳されていたが,明治時代に「宗教」の訳語が定着した。これら二つはほぼ似たような意味を持っている。これを私は,「一つの台に二つの脚がある」と表現した。
 ここまではよく言われることであるが,実はもう一つの概念がある。それが,第三の意味となる。つまり,明治政府によってイデオロギー的に曲解して作られた宗教観であり,この宗教観は日本人の無意識世界に存在する概念なのである。結論的に言えば,「(近代的)神道は宗教ではなく祭祀あるいは道徳であり,平均的な知性と自覚のある日本人は,神道により生活する。しかし,それができないような未熟な人々は,いわゆる宗教によりすがって生きる半人前である」という認識である。つまり,劣った人間が宗教を信じるという意味となる。

(2)明治維新という革命
 明治政府は,政治と宗教が一体となった神武創世以来の想像の世界を現実に持ってこようとした。それは天皇が,軍事,行政,立法,司法をすべて握る体制で,復古神道により古代社会をそのまま現代に再現したのである(当時,天皇親政,神聖政権といわれた)。しかも薩長という辺境の侍たちが主権を握るという国家転覆の行為であった。ゆえに,明治政府は,宗教的に言えば,江戸幕府を倒して天皇を国家の中心に据えた政治体制に転換させた「革命政府」であると言える。明治維新を英語でrestorationと言っているが,それは自己正当化に過ぎない。そのような辺境の人たちが国の中心に立つためには,正統性の理屈が必要だ。そこで,彼らは次のような形でイデオロギーを展開していった。
 実は,明治以前も天皇は将軍に位(征夷大将軍)を与えており,権威の中心であった。いまの言葉でいえば,象徴天皇制に近いものであった。ところが,明治政府は,天皇がすべてにわたって指図する「神の国」を作ろうとした。その実は,天皇という神を現世まで引きずり出して「超神聖国家」をつくろうとした。簡単に言えば,日本が神の国になったということである。
 こうした内容を支えたのが,復古神道とも呼ばれる平田神道であった。平田神道は,その実はキリスト教的な知識を用いて,あるいはそのエートスをヒントとして神道を再構成した,いわば「洋化神道」とも呼びうるものであった。ただ当時の一般の人々は,国学,つまり国粋思想の教え,皇国中心主義の教えなどと認識していた。
 平田神道の特徴の一つは,神仏習合を激しく排除する傾向であり,その思想はキリスト教やイスラームなどに見られるセム的な排他性の思想と共通性があるように思われる。この平田神道の国粋主義運動と天皇崇拝が結びついた神道が,明治維新前後の祭政一致,つまり政教一致の天皇親政国家形成の基盤をなしたのである。この神道の純粋性の希求から神仏分離政策・廃仏毀釈運動やその気運が生まれた。
 具体的に見れば,慶応4年「神仏分離令」,明治3年「大教宣布」を出して神道を国教とした国家を立て,仏教,キリスト教など他の宗教を排除しようとした。同時に「氏子改」(明治4年)を出して,日本国民全員が神の子であるという考えのもと神聖国家を作ろうとした。
 実はこの点について,宗教学でも政治学でも強調しない。すなわち,明治政府が,狂信的な神道原理主義国家になったという点は強調しない。せいぜい,「神聖国家を作ろうとして失敗した」という表現である。しかしその試みは失敗していない。天皇は軍と三権(政治,行政,司法)の長で,さらに祭祀の長でもあった。つまり,軍,政治,宗教の長をすべて兼ね備えたのが明治以来の天皇の立場であった。この故に,私のインド人の友人は,「明治王朝」という言葉で,日本の近代国家体制を表現した。傾聴に値する表現ではないか。
 また,明治以来の廃仏運動は,決して単純な運動ではなく,いくつかの方向からの働きかけが存在した。それは,直接的な仏教弾圧,つまり暴力を含んだ初期の廃仏毀釈のような場合と,無意識的な,あるいは間接的な廃仏運動とでもいうような「敬神嫌仏」思想,あるいは近代化政策といった文化的枠組みによる時間をかけた廃仏文化の形成というものである。
 実質的に神仏習合,仏神渾然一体となっていた仏教界は未曾有の危機に直面した。やがて各地の神仏分離運動がエスカレートし,暴力的な廃仏毀釈運動が,日本全土を覆った。一般的には,一部の神官に扇動された民衆が,ごく一部その混乱に乗じて寺院を破壊した程度の事件であったようにみなされてきたが,その実は,日本における文化大革命にも等しいといえるほどであった。
 群馬県のある村では,住民がこぞって金槌をもち村中の石仏の首を欠いて歩き,さらにはそれらを集めて廃棄した。また寺院を破壊し,その跡地を売却したり,学校用地にした。中には,石の地蔵像を小学校の用便用の踏み台にしたところもあった。これは例外ではない。

(3)イデオロギー化した神道
 しかし,こうした試みは完全には成功しなかったことも確かである。なぜか。とくにキリスト教弾圧に対して,西洋列国から弾圧停止要求などのクレームがつき,明治政府はやむなくキリスト教を解禁した(明治6年)。政府としては,キリスト教信者が増えるのは困るし,キリスト教より仏教の方がましだからと考え,仏教をも抱合せる形で解禁したのであった。
 もちろん,他宗教を解禁したとは言え,神道を国家建設の理念,明治政府を作った人々の権威の拠り所としていたので,この旗印を下してしまうと,彼らの正統性が失われてしまう。神武創世に帰って天皇中心の国家を作り,辺境の薩長の侍が中心になれる正統性はどこにあるのか。江戸時代までないがしろにされていた天皇という神を中心に置くという新しい仕組みを作る。この思想を支えたのが近代神道であった。
 明治政府の正統性を保証する神道を最初は,「大教」と呼んだ。またある時期,道徳,国家の祭祀だと言って「徳教」という言葉も使ったことがあった。なぜ「(大)教」をやめて神道としたのか。それは大でも小でも,「教」がつくのでは,キリスト教,仏教など他の宗教と同列に立つことになるからだ。日本国民は全員天皇の赤子として位置付けて明治政府を成り立たせるために,宗教としての教という言葉を使うのをやめることにした。キリスト教,仏教,イスラーム(イスラム教)は,だれだれ(教祖)の教えということになるが,神道は,誰が始めたかわからない,教団もない,経典もないから「宗教」ではない。神様を崇め,お祭りする道だから,神道としたのである(ちなみに,江戸時代には仏教という言葉もほとんど使われなかった。「仏の教え」あるいは「仏道」「仏法」と言われていた)。
 もともと特別な言葉ではなかった神道という言葉を,明治政府の宗教政策によって特別な言葉に仕立て上げた。「宗教を弾圧しない。すべての宗教活動を自由にする。しかし神道は宗教ではないから,特別扱いしても宗教優遇には当たらない」という論理である。
 子どものころからそのようなことを教え込まれ,ある年齢に達してからキリスト教や仏教などに触れてそれに帰依する人も出てくる。しかし,彼らの心の中では神道思想とキリスト教や仏教が矛盾せず衝突しない。内村鑑三は,幕末生まれでそのような教育を受けていなかったので,キリスト教と神道の間で葛藤した。自分たちが神(天皇)の子(赤子)だと教え込まれていると,そのような葛藤はほとんど見られない。明治15〜6年ごろの新聞や政策記事を見ると,そのような明治政府の狙いが書かれている。

(4)曲解された宗教観
 このように明治政府がイデオロギー的に作った神道優遇政策が展開される中に,西洋から新しい宗教学という学問が入ってきた。当時の権威ある宗教学教授がその学問をうまく援用して,「経典のあるものは宗教だが,そうでないものは宗教ではない」などと政府の意向に沿った理論づけをした。
 それでは宗教と神道との違いは何か。東京帝国大学哲学教授・井上哲次郎(1856-1944年)は「宗教に頼る者は,女子,小人であって,半人前である。半人前でない人間は神道を信じる」と述べた(『我が国体と国民道徳』)が,そこに如実に示されている。明治の指導層はこうした観念を国民に植え付けて,宗教に逃げる人間を少なくしようと考えた。
 彼は当時の学者として最高の立場でそのようなことを言ったわけだ。彼は儒学者であった。中国の伝統思想によれば,天子は神の子であり,その下に道教,仏教,儒教があると考える。天子がトップで,宗教はその下におかれる。中国では,僧侶は天帝,天子の前に跪く。それを日本に当てはめれば,天子=天皇=神道となる。すべての宗教はその下に位置づけられた。中国伝来の,宗教を軽視する見方があり,それを西洋の近代思想で補強,読み替えたのが井上哲次郎であった(宗教女子小人説)。ところがインドはそれと逆で,僧侶(聖職者)の前に王が跪く。インドの宗教は,基本的に聖が俗よりも尊い,あるいは偉い。形としては,王は僧侶の最下位の者の下に位置することになる。
 さらに大正,昭和になると,マルクス主義の「宗教はアヘンだ」という考えがもたらされた。宗教は劣った人間が信じるものだ,せいぜい必要悪と考える人に対しては,「宗教は危険なものだ」との観念が増幅されることになった。
 さらに戦後になると,戦前の神道を中心とする狂信的な世界は何であったのかと考えた。神道は宗教ではないと政府は教えてきたが,本当にそうだったのか,宗教はもうこりごりだと考えた。このように二重,三重に宗教というものが,われわれを苦しめる存在だと考えるようになったのである。この考えには,現代憲法の規定も一役買った。
 振り返ってみれば,明治以来の日本には,新興宗教がたくさん生まれてきた。そこには政府が神道を国家運営のイデオロギーにしようとして,(古)神道が持つどろどろした部分(性器崇拝,冠婚葬祭など)を一切切り捨ててきた背景がある。(古)神道が日本の伝統だとすれば,縄文時代の狩猟採集時代からの宗教ともいえる。神様に動物の頭を供え物として捧げたりしてきたが,そのような習俗・儀式は一切なくなってしまった。なぜか。明治政府が考えた近代神道のモデルは,キリスト教であった。キリスト教は基本的に供え物をしない。するにしても血がついたものは使わず,せいぜい聖餐に使うようなブドウ酒とパン程度である。日本の近代神道はキリスト教を真似て擬似キリスト教とした。それを私は「神基神道」と呼んでいる。

(5)「神基神道」
 擬似キリスト教としての近代神道のモデルはどこか。明治政府が考えた「神基神道」にいちばん近いキリスト教はどこの国か。天皇が王かつ祭司であるというしくみをもつ国,それは英国であったと,私は考えている。英国の国王(女王)は,俗としての王位とともに聖としての英国国教会の祭司の位置をもつ。ウェストミンスター寺院のトップは日本でいえば伊勢神宮の宮司と同じ扱いである。その上に英国王が立っている。日本はそれを政治と宗教を合わせたしくみとして見て真似たのであろう。
 当時(明治20-30年代)の東京帝国大学法学部が出していた『国家学会雑誌』に,哲学者・井上円了(1858-1919年,東洋大学創立者)が,英国国教会の研究をしたことが述べられている。英国の政治体制を模倣したことの状況証拠といえよう。
 先にも触れたが,以前,インドの研究者に「Meiji Dynasty(明治王朝)という言葉を知っているか?」と聞かれたことがあった。日本の天皇制は神武創世以来綿々と続いている。権威の面ではそのとおりであるが,明治以前,天皇に権力はあったか。明治維新によって天皇制は,権威と権力が一つになったわけだが,そのような政治体制を神武以来の伝統と言えるのか。実際には,明治から敗戦までの期間において,権威と権力をともに有する新しい価値体系,新しい王朝を作った。これを彼はMeiji Dynastyと言ったのである。このような考え方もあるのかと,気づかされた。日本人には,そのようにみる目はなかなかない。
 このように江戸時代までと明治維新は,宗教的な観点からすると大きな断絶があったのに,これまでわれわれはこれを「近代化」ととらえてきた。普通,近代化=西洋化ととらえる。西洋諸国は政教分離であり,先に取り上げた英国ですら,表向きは政教分離を建前としてきた。日本はその逆の道,古代さながらの神聖国家を作ってしまったのに,それを近代化と称した。これは矛盾した物言いである。この点を反省する人は,日本にはほとんどいなかった。
 日本人の狂信性,あるいは純粋指向性,単純思考,権威に対する盲従性は,非常に顕著なものだ。日本が仏教国と言われた時代は1000年ほど続いたが,そのときは外国に侵略することはめったになかった。例外は,仏教がまだ定着する前の白村江の戦いと豊臣秀吉の朝鮮出兵くらいである。秀吉は,キリスト教的な発想で朝鮮,明国,さらにはインドを征服しようとした。当時は,大航海時代でキリスト教的な発想がある例外的な時代であった。ところが明治時代に神道国家になるとすぐに外国に出ていった。昭和20年までの80年間に,世界に戦争を仕掛けること10回以上であった。なぜこのように変容したのか。
 神道の責任を問うているのではない。宗教は「ソフト」のようなもので,ソフトが変わると,表の動き方が変わる。明治になって神道という新しいソフトを入れて活動した結果が戦争であったわけだ。そのソフトがどのようなシステムで,どのように作られ,どう運営されたか,検証する必要がある。
 戦前について,仏教者が仏教の戦争責任を問うことはあったが,神道関係者が神道のそれを問うものはほとんどない。神道には悪の観念がなく,流れるまま,払うだけという考え方からは,自己反省という発想は出てこない。宗教のシステムとしてそうなっている。神道には明確な個概念がないので,その救済は集団でやるか,儀礼を通して行うだけだ。それゆえ神道の人たちは,神道の戦争責任ということはほとんど考えない。
 それは神道が共同体祭祀を中心とする民族宗教であり,個人の責任というような意識がないからであろう。だから一億総懺悔というような発想になってしまう。これはバスの運転士が無謀運転をして事故を起こしたとして,その事故の責任を乗客ともども一律にとらせようとする発想である。すべて曖昧になってしまい,ついに忘れてしまうのである。

3.一神教と多神教,アニミズム

(1)一神教の多義性
 一神教といえば,唯一の神ということで,自明のように思われるかもしれないが,そう簡単なことではない。実は,一神教には大きく分けて二つの分類がある。その二つとは,一神教の「一」に対する基本的な理解の差にある。つまり,一を数詞と捉えるか,集合名詞(一つのまとまりとして一を捉える)として捉えるかである。この考え方によると,一般には多神教と言われるヒンドゥー教や仏教も一神教と見ることが可能である。
 現在常識になっている神概念の「一神」や「多神」という言葉の概念は,日本では主に明治以降普及したもので,キリスト教文化圏的な発想による。当時キリスト教は,仏教や神道を多神教と判断し,「神に仇するもの」「神の命令に従わないもの」「罰当たりな信仰」という言外の意味が背後に隠れており,多神教のイメージを悪化させたと言える。
 それでは,ユダヤ教,キリスト教の唯一神はどのような前提になっているのか。それは『聖書』のモーセの十戒に典型的に現れている。
「神のほかに,なにものをも神としてはならない」
「あなたには,わたしをおいてほかに神があってはならない」(新共同約聖書)
 これは「たくさんある神の中から,唯一の神として,ヤハウェを選べ」という意味である。この背景には,多神が想定されており,その中で「唯一の神を拝め」というわけだ。これはユダヤ教やキリスト教が出現した歴史的背景と一致する。敷衍して言えば,「多神教の存在を前提とし,その中の一つの神のみを選び,それをわが神として絶対視するという神のあり方」,「選択的唯一性」「排他的唯一性」の神なのである。
 ところで,キリスト教の根本思想である三位一体の考え方は,唯一神の発想からいうと論理矛盾となる。唯一絶対なる神が,なぜ三位格に分かれなければならないのか。なぜイエスが神を受肉しなければならなかったのか。しかも多数の精霊まで認める。これに対して,イスラームの法学者は,神だけではなくなぜ三位一体なのかと批判する。それに対してキリスト教はなかなか明快に反論できない。
 歴史的に見れば,普遍的存在が形をとるということは,神秘主義の世界ではどの宗教にも見られる。インドではそれを「化身」といい,仏教では「権現」(仏が仮の姿を現した,権=仮の意)という。このような考え方が,欧州に入り新プラトン主義となり,それを学んだプロティノスが三位一体を完成させたとされる。アウグスティヌス(354-430年)はマニ教を信じていたが,マニ教はゾロアスター教と仏教の影響を受けた中近東の宗教である。キリスト教が「普遍なものが人と現れた」と考えた背景は以上のようであった。
 もう一つの一神教のタイプが,「真性一神教」「絶対的一神教」と呼べるものである。普遍的神はわれわれ一人一人の中にも存在し,宇宙全体の神でもある。1,2,3の一ではなく,遍在しながら,the allを意味する集合単数形の一である。ユダヤ教,イスラームの一は,いくつもある中から一つを選ぶという排他的一であるが,インドのブラーフマン(神)は形もなく遍在し分節化できない神だ。直観以外ではわからない抽象的一者。それを言語化してはわからなくなってしまう。仏教の法はすべてのものに現れるので,「一神多現」「一法多現」という。これは全体は一つであるが,形をとると多として現れる。キリスト教もこの範疇になる。
 これら二つの一神教概念が混同されているために,わかりにくくなっている。イスラームが排他的になるのは,唯一の神しか認めないことに凝り固まっているからだ。しかし,イスラームのスーフィズム(神秘主義)は絶対的一神教に近い。神秘主義は理性の地平を超えてしまう。理性とは日常の常識であり,神秘主義は日常の常識を超えた世界から日常を見るという発想である。ゆえに言葉にこだわらないが,言葉を超えてまた言葉に帰ってくる。
 以上からすると,ユダヤ教,キリスト教,イスラーム,仏教,ヒンドゥー教も同じ部類(広義の一神教)となる。
 一神教にならない多神教もある。その代表が日本の神道である。伊勢神宮の神様とその地域の神様とはどちらが偉いかとは考えない。伊勢神宮は皇室の神,われわれの神様は先祖の神であり,優劣をつけない。それゆえ「多神多現」である。

(2)宗教進化論
 旧石器時代から新石器時代,つまり農耕時代に移る前の時代,人類は急激な環境変化に遭遇し,生存をかけた生き残り作戦を繰り広げた。急激な環境変化との対応の結果,人類は農耕という新しい生活スタイルを手に入れた。このときの必死の対応が,人類に多様な自然解釈を生み出すきっかけになったとされ,それを著者は「神々の大爆発」「宗教のカンブリア大爆発」と名付けた。
 この時代の宗教の代表がアニミズムということになるだろう(安田善憲)。しかし,19世紀にタイラー(Edward Burnett Tylor,1832-1917年)によって提唱されたアニミズムの概念は,原初信仰のレベルということで,やがて多神教,一神教へと進化するべきものという,当時の社会進化論の影響も受けて,宗教進化論の価値付けの中で主張された。
 タイラーは白人優位の人種的価値序列をつけた社会進化論を適用して,宗教的な序列化を行った。自分たち(白人でキリスト教の一神教)を一番上におこうとした。西洋人が世界を支配するための理論の根拠をこのような価値に求めた。白人の一神教,次に多神教,その次がアニミズム。
 ヨーロッパが一番すぐれた世界という考え方は,ここ数百年のことであって,それ以前は辺境の地であった。欧州は,ギリシア,ローマから常に世界史の中心であったと考えているようだが,世界史をみると,5世紀にローマ帝国が滅び,次に世界史に大きく登場するのは17〜18世紀だ。その間はイスラームの世界であった。このような白人至上主義的,ヨーロッパ至上主義的な文明観,そのような在り方を支えたのがタイラーのようなキリスト教至上主義の精神文化であった。宗教進化論は,19世紀のヨーロッパが世界を支配するというあの時代特有の神学であった。
 セム族の宗教が席巻した以外の地域,つまりインドや東・東南アジアや未開部のアフリカなどでは,いまでもアニミズム的な宗教が現存している。その典型が,日本やインドという。しかし,キリスト教やイスラームの中にも,完全にアニミズム的な要素が排除されたわけではない。キリスト教の中でも,カトリックやギリシア正教会に顕著に見られる。イスラームでは,アッラーの唯一性は譲らないが,神に準じて無数の天使や妖精を認め,悪魔の存在は不可欠だ。
 人類の宗教意識は,合理性一辺倒では解釈できない。アニミズム的発想は,根源的な宗教観ということができる。その意味で,セム的一神教の考え方の宗教も,アニミズムという意識の大海の上に浮かぶ大きな島程度の存在といえるかもしれない。

4.最後に

 明治政府の偏った宗教政策によって,日本人の多くがゆがめられた宗教観を持つようになり,今日までそれを引きずっている。われわれはまず,そのことを自覚し,「宗教は人間が生きる上で重要なものだ」「宗教を信じることは無意味で,恥ずかしいことではない」という世界的に普遍的な事実を認識する必要がある。そのためにも「宗教」という言葉が持つ誤解を取り除かなければならない。そして宗教と真剣に向かい合わないといけない。宗教はやばいから考えないことにしようとすると,何も考えなくなってしまう。そうなると,宗教が必要になった時に,これはいい宗教か悪い宗教かの区別がつかない。
 オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた時,私はちょうどインド留学から帰国したころであった。当時,マスコミでは麻原彰晃が空中に飛び上がる写真がさかんに報じられていた。それを見ながら疑問に思った。これはヨーガではない,ヨーガとは無縁だと。ところがそれに騙されてしまった若者が出た。宗教と向かい合いしっかりした知識を持っていれば宗教を正しく理解できる。宗教は,人間にとって不可欠なものだ。宗教を正しく活かせるような人間になっていかなければならない。その障害となっているのが,宗教という言葉に塗り込められた,歪んだ宗教観なのである。
 正しい理解があれば騙されることはない。それと同様に,宗教についてもきっちり知ることが重要である。それが第一歩であろう。食わず嫌いにならないことである。

(2011年11月22日)