中国の伝統に見る戦略思想

東京大学名誉教授 蜂屋邦夫


<梗概>

 長い歴史を持つ中国の伝統思想は,東アジア地域に広く伝播し,各国の思想形成に大きな影響を与えてきた。その伝統思想の要点となる内容は,春秋戦国時代つまり群雄割拠の時代に形成されたものであり,ある種の人間観を基礎としながら,君臣の関係,統治の方策,社会のあり方,国同士の交渉方法すなわち権謀術数あるいは戦闘行為などについて言及しており,色濃く戦略思想の側面を持っている。歴代の中国王朝が採った政策もそれらの戦略思想と無関係ではない。そこで本稿では,「戦略」という切り口から,儒家や道家,兵家や法家の思想などの中国の伝統思想を概観したい。現代中国理解のささやかな一助となれば幸いである。

はじめに

 中国の伝統思想は,単に政治・社会思想のレベルにとどまらず,歴代の中国人の考え方や生活様式にまで深く染みこんでおり,いわば中国人の遺伝子の中に組み込まれていると言ってもよい。それらの伝統思想は,時代が変わっても,中国人の思考様式を規定する基本的枠組みとして存在してきた。
 「略」という字は,中国最初の本格的字書『 説文解字(せつもんかいじ)』(田部)に「土地を経略するなり」とあり,土地を整備して境界を画定するという意味である。そこで,その境界を越えて侵せば「侵略」となる。「略」は,土地の境界を定めるという意味から物事を定める筋道の意味となり,さらに対外関係を考える筋道の意味が生まれた。すなわち,自国をいかに存続させ,敵国をいかに攻撃するか,自国の民をどう統制し,敵国の民をどう混乱させるか,こうした考え方がいわゆる戦略になっていったと考えられる。ただし,戦略という言葉自体は比較的新しく,作戦の謀略という意味として唐以後に使われたようである。

1.儒家の戦略思想

(1)戦略家としての孔子
 儒家はもちろん孔子(前552年〜前479年)から始まる。孔子は道徳思想家ではあるが,しかし,机上の空論を展開する単なる道徳家ではない。戦闘について何も知らなかったわけではなく,戦略についても一見識をもっていた。
 孔子は,魯を出て流浪の旅にあったとき,晋に反旗を翻している立場の者から招かれたことがあったが,それに応じようとした(『論語』陽貨)。軍事的な知識なくして反乱軍に協力することなど,できることではない。
 また,次のような話もある。やはり放浪中のことであるが,孔子一行が衛に行くため,蒲という街を通りかかったとき,蒲では衛に対する反乱が起こっており,一行は蒲の人々に捕えられてしまった。しかし孔子の弟子の公良孺が大奮闘したので蒲の人々は恐れ,「衛には行かない」と約束させて一行を解放した。しかし,孔子は蒲の城門を出てしばらくすると,やはり衛に向かった。弟子の子貢がいぶかしむと,孔子は「あの約束は強要されたものであり,守る必要はない」と答えた,という。衛の都に行った孔子は,衛の君主・霊公の問いに対して「反乱を起こしているのは一握りの集団だから,いま蒲を打つべきだ。そうすれば簡単に制圧できる」と進言した。しかし霊公は,結局,何もしなかった。
 ところがその後,ある日,霊公は戦陣の組み方について孔子に質問した。それに対して孔子は「祭りの器具の並べ方は知っているが,軍陣のことは知らない」とつっぱね(「衛霊公」),その明くる日,孔子は衛を去ったという。しかし孔子は,軍隊を指揮して敵軍と戦ったこともあり,孔子のこの言葉は真実ではない。
 後年,哀公11年(前484年)のこと,斉が魯を攻めたことがある。孔子の弟子・冉求(せんきゅう)は魯の大臣である季康子の軍隊を見事に指揮して斉の軍隊を打ち破った。そこで季康子は,冉求に「そなたの見事な合戦ぶりは学んだのか,天性なのか」と聞くと,冉求は「孔先生から学びました」と答えた,という(『史記』孔子世家)。
 このように軍事にも通じた孔子ではあったが,べつに戦略について詳しく述べたわけではなく,「仁」という徳目を強調しただけである。『論語』「顔淵」篇に,季康子が孔子に政治について質問したとき,「 子(し―あなた),善を欲すれば民善ならん。君子の徳は風なり。小人の徳は草なり。草,これに風を上(くわ)うれば,必ず偃(ふ)す」と答えている。上(かみ)に立つ者の徳によって感化すべきである,という意味である。同時に,民の側に感化されうる可能性も認めているわけで,こうした思想の根底には,人間性に対する信頼があったと言えるであろう。

(2)君主の仁政を強調した孟子
 孟子(前390年?〜前305年?)は,孔子ほどには戦争や戦略について正面から述べていないが,次のようなことはあった。
 紀元前4世紀の末ごろ,燕に内乱が起こったが,斉は内乱を治めることを口実にして燕を攻め,わずか50日ほどで占領した。得意になった斉の宣王は,当時斉にいた孟子に「内乱を鎮圧したが,燕を取るべきか取らざるべきか」と問うた。質問の意図は,「大国燕をわずか50日ほどで制圧したのは天の賜だ」ということである。ところが孟子は「取る場合もあり,取らない場合もある」と答えた。その意味は,むかし,周の文王は天下の三分の二を保ちながら殷を取らなかったが,武王のときには殷を滅ぼして取った。それは殷の民が武王の人徳を慕って殷の悪政から逃れようとしたためであり,いま燕の民の多くが斉に心を寄せていれば取ればよいし,そうでなければ取らない方がよい,ということである。
 しかし斉兵ははなはだ暴虐であり,燕の長老たちを殺し,多くの若者を捕虜にし,財物を奪い,国廟を壊した。宣王はそうしたことを知りながら,孟子の諌言を聞かずに占領を続けた。この状況に対して,諸侯連合軍が斉の横暴を懲らしめるために斉を討つという動きがあり,宣王はおじけづいて孟子に相談した。そこで孟子は,殷の湯王が不義の国を伐った例を出して正義・仁政を説いた。宣王は結局,占領をやめて撤退した(『孟子』梁恵王・下)。孟子が強調したのは戦争ではなく,君主の仁政であった。
 また孟子は,魯国の年代記である『春秋』を極めて尊重した。『春秋』は,孔子が手を入れたことによって,歴史についての毀誉褒貶を明かにしたものと考えたのである。孟子の言葉として「春秋に義戦なし」という有名な言葉があるが(「尽心・下」),義戦とは正しい戦い(正義の戦い)のことであり,天子(周王)が命令を下して不義の諸侯を伐つ戦争のことである。そうした観点から見れば,春秋時代の戦争は諸侯同士が勢力拡張を図って起こすものであって,義戦とは言えない。孟子の生きた戦国時代では,さらにあからさまな勢力争いになっていた。
 孟子は儒家の伝統に即して,周王を頂点とした秩序を守る封建思想を尊重した。その尊王思想の観点から春秋以降には義戦がないと述べているのであって,多少ましな戦争はあるとは言っているものの,戦争はおしなべて観念的に一括して否定されていると見てよい。とすれば,戦略それ自体を問題にするような発想は,もともと孟子とは相容れないものであった。

(3)軍政にも長けた荀子
 荀子(前313年?〜前238年)は儒家思想の大成者であり,もちろん仁義礼楽の儒家的徳目を主張したのであるが,『荀子』「議兵」篇において,戦略・戦術に関して次のような議論を展開している。
 あるとき荀子は,趙の孝成王の御前で,孝成王の重臣である臨武君と軍事問題について議論した。臨武君が,兵法の要点は「天の時,地の利を得て,敵の変動を観察し,後れて発し先んじて至る」ことだと述べたのに対し,荀子は「用兵攻戦の根本は民を一にする(民の心を一つにし,安定させる)ことだ」と反論した。臨武君が「用兵の大事な点は勢であり,そうして臨機応変の駆け引きを行なうのだ」と主張すると,荀子は「仁者の用兵は王者の志を実現することであり,臨武君の考えは諸侯同士の戦争の場合だ」と再反論した。仁者の用兵と諸侯同士の戦争を弁別する点は孟子と同じであり,民の安定や王者の志を重視するのは儒家の伝統に沿う考え方である。
 ここで,荀子は具体的な戦略を展開する。この点が孔子や孟子と違う荀子の特長である。まず,どう戦うべきかの前提として,荀子は,君主が賢者であること,礼義(礼の根本精神)を尊重すること,平安な国家であることの三点を挙げ,三つの「策」を述べる。
 上策は,礼の規範を尊重しながら功績を挙げることである。一般的には,礼は法のような強制力がなく,規制力は弱いと思われがちであるが,荀子にとっては最も基本的な道徳であった。礼は道理に即したものであり,礼を尊重することは道理を尊重することと同じなのである。
 中策は,俸禄を慎重にして節義を尊ぶことである。俸禄で釣って兵を戦わせることは当時の常識であったが,荀子は俸禄よりも節義を尊重した。
下策は,功績を第一にして節義を軽視することである。戦国の用兵術は,ほとんどこれであったと言ってよい。
 中策や下策は実際的な戦略であるが,荀子の言う上策は,いささか観念的に見える。しかし荀子の主張には,次のように,当時の諸国の軍政についての具体的な分析があった。
 まず,斉は,戦闘の技術ばかりを重視し,首を取ってきた者にのみ賞を与え,本来の賞は無い。このような軍隊は,小敵にはよいけれども大敵には通じない。これは亡国の軍隊である。
 魏は,一定の基準によって武力に長けた者を採用しているが,武力が衰えても辞めさせられず,税収が減少し,国家が危うくなる軍隊である。
 秦は,民衆を窮乏させ,利益を得るには戦闘以外に無いようにさせる方策を採っている。これは兵力を強大にさせ,長続きする方法である,と。
 荀子は三国の中では秦の軍隊を評価したが,しかし,三国の軍隊はいずれも賞与を求め利益に走る軍隊であり,荀子はこれを「盗兵」と呼んでいる。荀子の秩序観からすれば,戦闘技術を重視する斉よりも,活気のある魏,魏よりも法律を重視する秦がよいが,秦よりも春秋時代の斉の桓公・晋の文公の節制ある軍隊が上で,斉桓晋文の軍隊よりも殷の湯王,周の武王の仁義の軍隊の方が上である。やはり,最高は仁義の軍隊なのである。
 仁義の軍隊と言っても,むろん将軍もいれば兵卒もいる。そこで荀子は,将軍の守るべき事を細かに分析し,六術,五権(五つの考慮すべきこと),三至(君主の命令に優先する場合),五無壙(五つの慎重にすべきこと)の項目にまとめている。六術とは,@命令や号令に威厳があること,A賞与は誠実に,刑罰は正確に,B兵営や倉庫は周密堅固に,C移動進退は慎重かつ迅速に,D敵情の変化を深く観察し,情報を比較検討する,E熟知する戦略によって決戦する,の六ヶ条である。五権とは,@将軍の位に執着しない,A勝利を急いで敗退を忘れてはならない,B兵士に厳しすぎて外敵を軽視してはならない,C利益ばかり追求して損害を考えないのはダメ,D熟慮して事に当たり財物には鷹揚にする,の五ヶ条である。三至とは,@兵士を不利な立場におらせてはならぬ,A勝利の見込めない敵に当たらせてはならぬ,B民衆を騙してはならぬ,の三ヶ条である。五無壙とは,@攻戦には防御のようにする,A行軍には攻戦のようにする,B戦功があってもまぐれのようにする,C謀慮は慎重にする,D敵軍に対しても慎重にする,の五ヶ条である。周到な分析と言うべきであろう。
 戦闘場面での責任者である将軍の問題も重要であるが,より根本的には国家としての戦略の問題がある。そこで荀子は,王者の軍政について次のように述べる。
 王者の軍政は,兵士を命令に服従させ,敵国に入っても農作物は荒らさず,敵兵の抵抗する者は殺すが帰服する者は虜囚としない,民衆を惑乱した者は誅罰する,長期にわたる軍役には着かせない,出征は三カ月を超えない,と。これが荀子の考えた仁義の用兵法であり,荀子がただの観念的な道徳家ではなかったことが分かる。
 最後に荀子と弟子の eq \o\ad(\s\up 10(りし),李斯)李斯と問答が見える。李斯は後に秦の宰相となり,いわゆる法家の政策を進めた人物であり,すでに師の荀子とは思想が異なっていた。李斯が「秦が強いのは時の便宜によったからであり,仁義によったからではない」と述べると,荀子は「仁義こそが大便宜であり,礼こそが国家を平和に治める最高の規則だ。礼は統率の原理であり,民を使役するのも一定の時にし,誠実に民を愛することだ。報償や刑罰,謀略によって民衆を統治するのはダメで,指導者は道徳を積んで民衆の規範となり,礼を明確にして民衆を指導し,誠実を尽くして民衆を愛するのだ。賢人や有能者を選んで序列づけ,仕事は定時に,任務は軽減しなければならぬ」と教えた。
 荀子は,正しい礼を行なえば民はついてくると考えたが,これは感化を重視する典型的な儒家の発想である。他国を併合するにしても,武力でするのではなく,仁義の道徳を実践して相手が慕ってくるようにするのであり,同じようなことは孟子も述べている。儒家の戦略には,こうした楽観的な面があるが,それと同時に,具体的な問題を詳細に分析している点が荀子の特色と言える。

2.墨家の戦略思想

 墨子(前480年ころ〜前420年ころ)に始まる墨家は,『墨子』「非攻」篇に見えるように,戦争自体を否定する。この平和主義が墨家の特長である。墨家は,大国に対しては非戦論を説き,小国に対しては大国に攻められたときの守城術を教えた。墨家はいくつかの集団を組織し,それらの集団のリーダーを 鉅子(きょし)と呼んだ。墨家集団は何百人という単位で諸国に赴き,一種の専門技術集団として守城術その他の技術を教えたのである。
 鉅子に率いられた墨家集団は,粗衣粗食で苦役に耐え,固い結束力を誇った。「墨守」という言葉は,墨家の固い結束力から出たものである。その結束力を示す逸話がある。あるとき鉅子の息子が防衛先の国で法律違反を犯した。君主は,「まだ若者だし,大目に見てやろう」と温情をかけたが,鉅子は集団の掟に従って処理し,息子を斬首したという。墨家集団の結束力は,そうした厳正な掟によって保たれていたのである。
 ただ,誰のために防備しているのかとなると,単純に民のためであったとは言えないところがある。「尚同(しょうどう)」篇には,君主に従い,君主が是とすることは是とし,非とすることは非とするとあるように,君主の方に目を向けていた。もちろん最終目標は平和であるが,結果として民に平和がもたらされたとしても,墨家の活動の動機は支配者に同調したものであって,民からスタートしたものではなかった。
 墨家集団は技術者集団であると同時に,戦士としての面があり,多くの戦闘技術を開発した。『墨子』の後半には,「備城門」篇以下,さまざまな守城術が詳しく述べられている。ただ,時代が下り,天下統一への動きがはっきりしてくると,墨家は大国の天下統一に加担する立場をとるようになった。すなわち,小国を攻めて早く天下を統一させようとしたのである。そのため,守城術ではなく,攻城用のさまざまな武器を開発した。しかし,天下が統一されると,墨家はその存在理由をなくし,墨家集団は雲散霧消してしまったようである。
 墨家の戦略は,軍隊と軍隊とが衝突するような戦争に関するものではなく,守城術と攻城術に重点を置いたものであった。

3.道家の戦略思想

 道家については,老子についてのみ,簡単に考えよう。老子の基本的考え方は,『老子』第31章に「兵(武器)は不祥の器にして,君子の器に非ず。已(や)むを得ずして 之(これ)を用いば,恬淡(てんたん)なるを上と為し,勝つも美とせず。……人を殺すことの衆(おお)ければ,哀悲を以て之に泣(のぞ)み,戦いて勝つも,喪礼を以て之に処る」とあるように,戦争はよくない,やむをえず戦争する場合には「悲しみの心」で当たるべきだ,というものであった。第69章にも「兵を抗(あ)げて相(あ)い加(し)かば,哀しむ者勝つ(両軍の兵力が互角の形勢にあるときは,哀(かな)しむ者の方が勝つ)」とある。
 老子の戦略は,ある意味で「高等戦術」であり,具体的戦闘技術についてはあまり考えなかったようだ。実際に武器を持って戦うというよりは,いかにして戦わずに相手を制圧できるか,いかにして自分の側がダメージを受けないか,という方法を考えたようである。第69章に「行(れつ)無きに行(つら)ね,臂(ひじ)無きに攘(あ)げ,兵無きに執(と)る?陣なき陣を布(し)き,腕なき腕を挙げ,武器なき武器を取る?」とあり,そうすれば敵となるものは無くなると言っている。確かに,軍陣も示威行為も武器も見えなければ,敵も戦いようがないであろう。第68章にも「 善(よ)く 士(し)為(た)る者は武(ぶ)ならず。善く戦う者は怒(いか)らず。善く敵に勝つ者は与(とも)にせず。善く人を用いる者は之(これ)が 下(しも)と為(な)る。是(こ)れを争わざるの徳と謂(い)う。是れを人の力を用いると謂う。是れを天に配すと謂う。古(いにしえ)の極(きょく)なり?すぐれた武将は猛々(たけだけ)しくない。すぐれた戦士は怒りに任せない。うまく敵に勝つ者は敵とまともにぶつからない。うまく人を使う者は,彼らにへり下る。これを争わない徳といい,これを人の能力を使うといい,これを天に匹敵(ひってき)するという。むかしからの最高の道理である?」とある。いったい,第8章に「上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず,……夫(そ)れ唯(た)だ争わず,故に尤(とが)無し?最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は,あらゆる物に恵みを与えながら,争うことがなく,……そもそも争わないから,だから尤(とが)められることもない?」とあるように,老子は,争いを何よりも忌避したのである。
 「高等戦術」は権謀術数と紙一重である。『老子』中には,そうした権謀術数もまた散見する。第36章の「 之(これ)を歙(ちぢ)めんと将欲(ほつ)せば,必ず固(しばら)く 之(これ)を張れ。之を弱めんと将欲(ほつ)せば,必ず固(しばら)く之を強めよ。之を廃(はい)せんと将欲(ほつ)せば,必ず固(しばら)く之を興(おこ)せ。之を奪わんと将欲(ほつ)せば,必ず固(しばら)く之を与えよ。……邦(くに)の利器(りき)は以(もっ)て人に示す可(べ)からず?縮(ちぢ)めてやろうとするならば,かならずしばらく拡張してやれ。弱めてやろうとするならば,かならずしばらく強めてやれ。廃(はい)してやろうとするならば,かならずしばらく挙(あ)げてやれ。奪ってやろうとするならば,かならずしばらく予(あた)えてやれ。……国の鋭(するど)い切れ味の統治法も人民に示してはいけない?」などはその代表例である。
 しかし,かりに戦に勝った場合でも,第31章に見えたように,誇らない態度でいなければならない。第30章に「果(な)して矜(ほこ)ること勿(な)かれ,果(な)して伐(ほこ)ること勿かれ,果(な)して驕(おご)ること勿かれ。果(な)して已(や)むを得ずとし,果(な)して強くすること勿かれ?成しとげても才知を誇ってはならず,成しとげても功を誇ってはならず,成しとげても高慢(こうまん)になってはいけない。成しとげてもやむを得ないこととする,このことを,成しとげても強さを示さない?」と言っているのも同じ思想であり,ここには一種の謙虚さと,「物は壮(さかん)ならば則ち老ゆ,之(これ)を不(ふ)道(どう)と謂(い)う。不道は早く已(や)む?ものごとは勢いが盛んになれば衰えに向かうのであり,このことを,道にかなっていない,というのだ。道にかなっていなければ早く滅びる?」(第30章)という,事の盛衰を知りぬいた達観があった。

4.兵家の戦略思想

(1)『孫子』の兵法
 前六世紀後半に活躍した孫武は,春秋戦国時代最高の軍略家である。その著書とされる『孫子』十三篇は,後人の手も入っており,戦国中期頃の成立であろうと言われる。
 冒頭三篇は総説とも言うべき部分で,戦争の前に考えておくべきことを述べ,いざ兵を動かすときには慎重であるべきだとしている(「計篇」)。戦争には膨大な経費がかかり,兵卒を動員し,補充する問題もあるので,その点も配慮している(「作戦篇」)。そして,究極的な戦略は「戦わずして勝つ」ことだとする(「謀攻篇」)。この点は『老子』の思想とも通じるところがある。
 次に具体的戦術として,攻撃や守備の態勢(「形篇」),軍の勢いの問題(「勢篇」),戦闘における主導性の確保を論じ,戦いは敵の虚に乗ずべしとしている(「虚実篇」)。軍争・九変・行軍・地形・九地・火攻などの諸篇は各論で,じつに細かな議論をしている。
 最後に「用間篇」を置き,間者(スパイ)の役割について述べる。役割に応じてさまざまな間者を分類し,その重要性を論じており,孫子が戦争における情報の重要性をとことん認識していたが分かる。
 『孫子』全体の特色を言えば,戦略を論じているにもかかわらず,けっして好戦的ではないことが挙げられる。「百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」や「善く兵を用うる者は,人の兵を屈するも,戦うに非らず」(「謀攻篇」)は『老子』の非戦の思想とも通じる考え方である。「戦い勝ちて天下善というは善の善なるものに非ず」「善く戦う者の勝つや智名もなく勇功もなし」(「形篇」)などは,『老子』の文言かと見まごうほどである。また,「兵は拙速なるを聞くも,未だ巧久なるを 睹(み)ず」(「作戦篇」)は,孫子が戦争の悲惨さを知りぬいており,なるべく戦争はしたくないという気持ちが現われた言葉であろう。
 しかし,厭戦思想だけが目立つわけではない。戦場のありさまに相応した処置を取るという現実的な対処法こそ孫子の兵法の要点である。「衆樹の動くものは(敵軍が)来るなり。鳥の起つものは伏(伏兵)なり。塵高くして鋭きものは車(戦車)の来るなり」(「行軍篇」)は敵情を予知する方法であり,間者を放って敵情を知り,自軍の実力を把握しておけば「彼を知りて己れを知れば,百戦して殆うからず」(「謀攻篇」「地形篇」)という結果も得られるのである。
 戦争においては,「善く戦う者は,人を致して人に致されず(自分から仕掛けるのであり,敵から仕掛けられてはダメ)」(「虚実篇」)とあるように,何よりも主導権を握ることが肝要である。この点は,『老子』の第69章に「吾(わ)れ敢(あえ)て主(しゅ)と為(な)らずして客(きゃく)と為り,敢て寸を進まずして尺を退(しりぞ)く?自分からむりに攻勢をとるな,むしろ守勢にまわれ。一寸でもむりに進もうとするな,むしろ一尺でも退(しりぞ)け?」とある戦術と違うところである。「用兵の法は,其の(敵の)来たらざるを恃むこと無く,吾れの以て待つ有るを恃む。」(「九変篇」)とあるように,敵が攻めて来ないことを期待するのではなく,自軍の戦力を頼みとするのである。しかし,究極的な戦術は「善く攻むる者には,敵 其の守る所を知らず,善く守る者には,敵 其の攻むる所を知らず。微なるかな微なるかな,無形に至る。神なるかな,神なるかな,無声に至る」(「虚実篇」)とあって,『老子』に見える無形無状の「道」に通じるものであった。

(2)和を重視した呉起
 呉起(?〜前381年)は呉や魏に仕えて戦略を説いた。『呉子』六篇に見える呉起の戦略思想の特色は,和を重視した点である。まず「図国」篇において,国政においては人の和が重要であるが,わけても指揮官と兵卒との信頼と和が最も重要であると説いた。その和を保つため,呉起は類似の情況によって分類した集団を構想した。大胆で気力ある者の集団,楽しんで力を尽くす者の集団,運動能力に勝れた者の集団,臣位を失った者の集団,逃亡したことを後悔している者の集団である。そうした集団は仲間意識によってまとまり,精鋭部隊になると考えた。和による団結力を高めようとした点は呉起の独創的発想である。
 次に「料敵」篇において,魏を取りまく秦楚趙斉燕韓という六大国の情況を分析し,気質や軍隊を比較検討し,その対応策を考えた。戦うべき敵状八ケ条,戦いを避けるべき敵状六ケ条を挙げ,その判断の方法を考察した。
 「治兵」篇では団結力だけでは不十分であるから,法令や賞罰の厳正さを強調し,味方意識を助長することを説いた。あわせて戦闘意欲について述べ,死ぬことを覚悟する決断力を持てば生きのびると説いた。また,軍事訓練の必要性を説いた点は呉起の実践家としての経験によるものである。谷の入り口に向かって行軍してはならぬなどと説いたのも実践家としての配慮であろう。
 「論将」篇では,将軍の重要性を説き,将軍の備えるべき要件として公平性,合理的思考,慎重さに加えて「威」「徳」「仁」「勇」の徳を挙げた。同時に敵将の見分け方についても分析している。「応変」篇では,戦陣での情況,たとえば自軍に不利な時や,雨の時や急襲された場合などの対処法を考察している。「励士」篇では,士気をを高めるには賞罰以上のものがあり,それが君主と人民との和であるとし,士を励ますことを重視した。
 呉起は,名・利・積悪・内乱・飢という戦争が起こる五つの原因を挙げ,君主から人民までの心理を分析し,実際の戦闘場面での詳細な対処法を提示して,全体として周到な戦略理論を構築したと言えよう。

5.法家の戦略思想

(1)法律絶対主義の商鞅
  商(しょう)鞅(おう)(前390年?〜前338年)は法家の代表とも言うべき人物で,法家とは法(法令)を絶対視するからそう呼ばれる。商鞅は秦の孝公に重用され,多くの画期的な政策を打ち出した。商鞅の書,『商君書』に盛られた思想を見ると,商鞅が法を重視する目的は富国強兵にあり,彼は,富国は商工業を抑えて農業を振興することに成り立つとし,農耕民の朴訥性と土地に対する愛着心に期待し,労働人口の移入策も主張した。強兵は,戦功によってのみ爵位官職を得られる制度をつくり,平時には農耕に従事させ,戦時には兵卒として駆り出して戦功を競わせることによって達成される。農民即兵士とし,商鞅はその他の可能性をできるだけ禁圧した。
 そのため,法律絶対主義の体制にくみしない者を厳罰主義で処断し,密告を奨励し,告姦者には賞を与え,悪事に対する連坐の刑も定めた。また,学問知識の価値を認めず,人民を愚にしておくことを主張したが,これは後の焚書坑儒につながる考え方である。
 しかし商鞅は,ただの法律絶対主義者ではなく,戦争の指導にも見識と能力があった。必勝の軍略として国内政治の安定を挙げ,大きな戦闘に勝っても十里以上は敵兵を追わないなどの細かい規定を設けた。また,政治の状態や食料の備蓄,兵数などに問題があれば戦わないとか,あらかじめ廟堂において戦略を慎重に検討すべし,などの主張をしている。実践家としても一流の戦略家であったと言える。
 それまで秦では特権貴族の力が強かったが,商鞅は法のもとに彼らの特権を認めず,その政策が実施されて何年か経つと,国力が益して強国になった。しかし,抑圧された特権階級は,商鞅に対して恨み骨髄であり,孝公が亡くなると,商鞅は罪に落とされて車裂の刑に処せられてしまった。

(2)法家思想の集大成者韓非子
 韓非(前280年?〜前233年)は李斯と並んで荀子の弟子であるが,商鞅や申(しん) 不(ふ)害(がい)の思想を併せて独自の思想を構築し,法家思想の集大成者と言われる。『韓非子』には「喩老」「解老」の二篇があり,韓非は『老子』の句を根拠として法術思想を深化し,権威化した。
 申不害(前385年〜前337年)は,韓の人で,いわば韓非の先輩である。申不害は君主が臣下を統治する「術」を重視した。簡単に言えば,君主は暗がりで息を潜め,大臣の言動を密かにうかがって統御・操縦するということである。
 韓非は,商鞅の「法」と申不害の「術」,それに「勢」の思想を併せて自分の思想とした。「勢」は,同じく法家に数えられる慎到(前395年〜前315年)の主張したことで,狭義には時代や軍隊の勢いのことであるが,肥沃な土地と痩せた土地では収穫量に違いがあり,それを土地の「勢」と見るというように,幅広い意味でもあった。
 韓非は,法と術を兼備して君主権を確立させ(『韓非子』定法),君主と臣下の利害は相反するもので,臣下は賞罰によって統御するほか無く,刑罰は厳重であればあるほど国はよく治まる,と考えた(「姦劫弑臣(かんごうしいしん)」)。
韓非の考える治安の道とは,当てにならぬ仁義の民などに依存せず,法術に徹底すべきもので,開墾や耕作を督促する「酷」,重い刑罰の「厳」,重税によって飢饉や戦争に備える「貪」,私的な徒党を取り締まる「暴」の四者が重要であった(「顕学」)。現在は財貨にくらべて人口が多いから,厳刑も暴挙ではないのだ,という(「五蠧(ごと)」)。民に対しては,利用・搾取すべき対象としてしか見ていないのである。
 秦の始皇帝は韓非の君主観に感動して韓非を秦に呼んだが,李斯の讒言(ざんげん)に遭(あ)い,罪に落とされて獄死した。

6.最後に

 春秋時代は,まだ周王の権威がある程度守られ,ある国を滅ぼしても君主の一族を存続させ,その国の祭祀を司らせた。孔子が魯の大臣の季康子に教えたように,民は草,為政者は風で,草は風に靡くものと認識されていた。為政者の徳が尊重され,民はその徳によって感化される存在であった。これらの点に,まだ人間性に対する信頼があった。
 しかし戦国時代になると,ある国を滅ぼせば君主の一族を皆殺しにし,民は統治のただの対象であって,法術により強権的に治めることが主流となった。その完成形が秦の始皇帝による厳罰主義の苛酷な政治であった。
 始皇帝は,全国を統一すると,封建的な秩序を根絶して強力な中央集権政治を行なった。しかし,地方には戦国以来の勢力が残存しており,始皇帝の死後,各地で反乱が相次ぎ,やがて漢王朝が成立した。漢王朝の成立当初は郡国制という体制を採ったが,王室の力が及ぶ「郡」は三分の一,半独立的な「国」は三分の二もあった。そこで漢初から,王室は老子の思想に拠って無為放任の統治をしながら民の自発的回復力を待ち,他方,半独立国を一つひとつ潰していった。やがて国力が増加すると,漢王室は中央集権制の方向で体制を整えていった。
 しかし,法律絶対主義というわけにはいかず,儒家思想を借りて政治を行なった。王室の本音は法家的な体制であったが,言わば外面を飾るために儒家思想を尊重したのである。こうした政権の構造は,大局的に見て,おおむね清朝まで続いたと言ってもよいであろう。
 現代中国は中国共産党によって支配されているけれども,権力構造としては中国の伝統思想による体制と似た面も認められる。現代中国の政治思想には,儒家思想や道家思想はあまり認められないが,法家や兵家の思想は,かなり生きているように感じられる。

(2011年9月29日述記,11月22日訂)