内向き日本再生への処方箋―国際開発援助とNGO活動

ジャーナリスト 杉下恒夫


<梗概>

 中国に追いつかれたとはいえ,いまでも世界の経済大国である日本のODA予算は近年とみに減少傾向が顕著である。ネガティブな報道が多いマスコミの影響もあって国民のODAに対する風当たりは強いが,世界のODAの現場を訪ねてみるとその実績は充分評価されて余りあるものである。また近年の日本は内向きになっているといわれ,とくに意欲を持って世界に出て行く若者が少なくなってきた。そのような若者を途上国の現場で体験させると大きな志を抱くようになる。閉塞感の漂う昨今の日本であるが,NGO活動などを通した開発協力を通して,日本人を活性化していくことが求められている。

国際ボランティアと日本人女性の活躍
 私は永年,国際NGOと国際開発援助にかかわる仕事をしてきたが,現在はそのような経験を活かしながら法政大学で国際開発援助論の講義をしている。その中で学生から「いかにしたら国際NGO活動に参加することができるか」などの質問を受けることがよくある。それに対して私は「何でもない。ドアさえ開ければ隣に新しい世界があるのだから,ただそこに飛び込めばよい」と答えているが,それでも「なかなかいけません」との返事が返ってくる。そのような活動に関与するのに,どこかでバリアーを感じているようなのだ。
 前に勤務した大学では,夏休みにゼミ学生を必ず途上国に連れて行きそこでの開発プロジェクトをみせた。たとえ短い期間であっても,行く前と行ったあとでは学生が人間的に大きく変わっていくのを何度も経験した。
 日本では,一般的にODAというと何か悪のように思われている。私の学生たちでも,研修に行く前はODAに対して懐疑的な感情を持っていたのに,現場に行って見て体験してくるとその価値が良く分かってみなODA支持者・賛同者に変わる。それは実際の現場で現地の人々のニーズを肌で知れば,先進国にいる者として開発援助をしなければならないと心から感じるからなのだろう。
 ボランティアとは人に何かをやってあげることだが,それ以上にボランティアをする人自身が相手から受けるものの方が大きいといわれる。私も通勤途中の横断歩道を渡ろうとして難儀しているお年寄りをみて,手を引いて渡るのを手伝ってあげると,その日一日は何か気持ちいい思いが残っている。国際協力活動も身近な親切と同じで,やっている人の方が相手から暖かい気持ちを受けることができ,更に自分が前進する勇気や強い動機を高めてくれるのである。
 青年海外協力隊はNGOよりは恵まれた条件下で活動しているとはいえ,彼らも現場の厳しい生活環境の下で現地の人々といっしょになって汗水を流している。給与は現地の平均的な生活水準を維持する額が与えられるだけだから、現地の人と同じレベルの生活をしながら開発支援活動をしている。傍目には大変だなと思われるのだが,本人にしてみると意外と楽しく取り組んでおり,かえって見えない大きな財産を得て帰って来る。国際NGOの人たちのおかれた環境は,さらに厳しい条件下にもあるが,みな目が輝いている。
 最近の日本人の特徴として,そのような海外で活動する人のほとんどが女性ということだ。例えば,ある国際機関でイラクに専門家を派遣するプロジェクトがあったが,そのとき希望者を募ったところ全員女性であった。現地はイスラーム国で治安の問題もあるから男性に来てほしいようなのだが,残念ながら日本では男性の応募がない。最近の日本の男性は本当に情けないと思う。
 私の担当する国際開発援助論の大学の授業でも,受講生の大半は女性で,男性は本当に少ない。学部全体では男性の比率の方が多いのだが,国際開発に関心を持つのは女性が断然多くなる傾向が見られる。元気のない現在の日本において,もっと男性諸君にがんばってもらいところだ。
 しかし男性も含めて若者の中でも国際問題に熱心な人は,あらゆる機会をとらえて勉強しているし,非常に積極的で活動的だ。日本人の全員が海外志向である必要はないが,少なくとも若者の3割はそうあって欲しいと思う。

国際社会における日本のプレゼンス低下
 いま日本は,国際社会におけるプレゼンス(存在感)が非常に低下しており,それを昨今は顕著に肌で感じている。以前であれば,私がアフリカなどで一人で歩いていると「日本人か?」と聞かれたものだった。ときには「韓国人か?」と聞かれたこともあった。それはだいたい一人で行動するのは韓国人で,日本人は集団で行動する。一人で歩いているあなたは韓国人だと思ったと言っていた。ところが最近,東南アジアのある国を歩いていたら,「中国人か?」とまず聞かれ,「違う」というと「韓国人か?」と聞かれた。そのあとようやく「日本人か」と言う言葉が出てくる。海外における存在感の順番がそのようになってしまっていることを如実に物語る例である。先日は,「日本人」が出てくる前に「ミャンマー人か?」と聞かれこれには驚いた。
 以前、アジア経済は日本を先頭にした「雁行(がんこう)型経済」と言われた。東・東南アジアの経済発展をX字形に飛ぶ雁の群の様子に見立てて,日本が群の先頭にたち、NIESやアセアン諸国が左右にX字形に開いた列となって順次経済発展していくことを形容したものだ。ゆえに当時アジアといえばまずは「日本人」の名前が真っ先に挙げられた。ところが今は,だいぶ後ろになって出てくるところまで落ちてしまった。残念なことだ。
 これは国際社会における日本の貢献度の低下,国際社会の一員としての役割の低下を示すものである。今年中にはGDPで中国に追い抜かれると言っても,世界第二か第三の経済大国であることには変わりないのに,国際社会への関与から手を引いてこのようになってしまった。
もともと日本は,資源面から見ても自分の国だけでは生きていけない国家だ。世界の潮流の中で共存共栄でしか生きていけない。現在日本は国内問題に多くの人々の関心が向いており,外に目を向けようとしない傾向が強い。いまこそ世界に飛び込んでいかないと,日本経済もどんどん遅れをとっていくばかりだ。
 また近年の傾向として,ODA予算が削減され続けている。現在は最盛期の6割程度であるが,来年にはさらに半分程度にまで低下してしまいそうだ。援助額で見ると,いま世界第6位であるが,近いうちにスウェーデンやデンマークなどの小さい国にまで抜かれてしまいかねない情勢だ。
 世界とのかかわりを薄くして国内問題にばかり目を向けていては,日本経済はますます悪化するばかりであり,悪循環のスパイラルに陥っていく可能性がある。

人間開発という国際協力
 個人がボランティアなどをすることで被援助者よりもより多くの価値が得られるように,国際貢献は国のレベルにおいても政治的、経済的、社会的な便益を受けることにつながる。
 かつて,日本のODAは途上国に道路、ダムなどの箱物ばかりを作り,そこから日本のゼネコンが係わることでその利益が日本に還流し日本が潤うだけだと批判された。現在のタイはインフラも整備された現代国家になって経済発展を遂げている。国の経済成長には,運輸,通信,エネルギーの基盤が必要で,それと日本が援助した箱物は密接に関連している。経済が成長すれば,国民生活も豊かになっていく。今では東南アジア諸国の首都だけ見れば,途上国とは思えない。日本のゼネコンが作った箱物は経済発展に欠かせないものであり,その結果現地の人々の豊かさにもつながるから,ウィン・ウィンの関係とみることができる。
 国際援助については,マクロ的に見る視点が必要だ。批判する人は,一つの欠点だけをミクロ的に見て評価する人が多い。例えば,高速道路を作れば環境破壊につながるのは明らかだが,それならば途上国の道路は昔のままでいいのかという議論が出てくる。先進国の人たちはエアコンをつけた快適な生活をしながら,途上国は昔のままの姿でいろと主張するのは矛盾であろう。
 例えば,ガーナは道路の整備が遅れていたが,日本の援助によって内陸部と海岸部をつなぐ道路ができた。それによってバスやトラックが走るようになり,物流を活発にした。いままで売れずに捨てていた魚も別のところで売る道が開かれた。内陸からも商品が海岸部に売れるようになった。何年も会えなかった人との出会いが可能になるなど,人的交流も活発化し人々の暮らしを支えている。道路を作る過程で草原や林を開墾するので環境破壊を行なうわけだが,それがすべて悪なのだろうか。私の考えでは,開発に際しては事前に十分に環境アセスメントを行い,徹底的な環境破壊に結びつかないような開発計画を立てて進めるべきだと思う。確かに以前、開発業者はむちゃくちゃなことをやっていた。環境と開発の両立,折り合いをつけていく。それこそが持続可能な開発(調和)なのである。
 開発には必ず環境破壊が伴うもので,それはコインの表と裏の関係だ。途上国に小さな学校を作るにしても,小さな環境を変化させて整備するわけだから環境破壊となる。すべての環境破壊をやめるとなれば,何もしないことになる。それが本当にいいのかという疑問である。開発とともに人間開発も進めることで,現地の人々の幸福度を高めていくことが可能だ。
 最近、日本では一般に「国際協力」というと,PKOと考えられているようだが,私はそうは考えない。日本の国際協力とは,まず開発協力だ。
 米国主導によるイラク戦争,アフガン戦争によって,米国は首謀者であったフセイン大統領やターリバーンを追い出した。その是非はともかくも,日本もその戦争に国際協力をしてきた。これらの戦争で非民主的政権を追い出したが,どれだけ無辜の人々が犠牲になっただろうか。病院や学校などの施設も数多く破壊された。
 ODAも戦争と同じ「政治行為」ではあるが,打ち込むのはミサイルではなく学校や病院や薬だ。米国は軍事行動も国際協力とみなしており,予算の中の「国際協力貢献費」には国防費とODA予算を合わせている。国防費という国際協力は何を生み出しているのか。例え独裁者を追放したとしても、一方で病院夜学校を壊し一般民の犠牲を出しているのだ。しかしODAは,病院や学校を作っている。
 日本のODAを,国連常任理事国入りのためのカードと見なし,国際捕鯨委員会での票獲得の手段などの効果を期待していると批判する人がいる。しかし,日本人の税金を日本人が住みやすい国際社会建設に使ってなにが悪いのか。さらにODAは学校や病院建設など現地の人々の福祉の向上に役立つ側面が大きいのだ。
 かつて私が初めて開発援助の現場を訪ねたときに,日本の支援によって作られた病院で「病気の子どもが助かりました」と言われた時に心からうれしく思った。日本のODAでは未熟児のための保育器をたくさん援助しているが,それによって多くの子どもたちの命が助かっている。その事実を知れば,ある程度余裕のある先進国としてやはり援助をすべきだという思いになるのは当然だろう。

成長著しい日本の国際NGO
 最近では海外開発援助でタイやマレーシアなどの東南アジア諸国に行っても,なかなか「途上国らしい」場面に出会えなくなってしまった。よほど奥地に行かないとショックを受けるような「絶対貧困」の場面はない。東南アジアではせいぜいラオスの奥地に行ってようやくそのような場面に出会えるほどだ。
 いま絶対貧困に遭遇できるのは,やはりアフリカだろう。アフリカの貧困は,目の前で子どもがばたばたと倒れその場で死んでいくようなものだ。これはアジアの貧困とは比べものにならない。通常の心の持ち主ならば,そのような惨状に接すれば「何かできないか」と思うに違いない。
 かつてそのようなところで医療活動をしていた「国境なき医師団」を取材したことがあった。テントの中で医療活動をしている医師のところに,看護婦が両脇に下痢やはしかで死んだ子どもを抱えて入ってきて放り投げていく。「もっと大切に扱ったらどうか」と聞くと,「今死にかかっている子どもの命を救うことの方が先決だ」と言われた。事実、その医師はほとんど食事もとらずに深夜まで診療に専念していた。だが、そのように手を尽くしても生き残る子どもは半分ぐらいだった。
 私はそのような場面に接して深く感動し,それが国際協力にかかわる仕事に関与するきっかけとなった。それ以来,世界の多くの難民キャンプなどを取材しながら,プロのNGO活動をたくさん見てきた。1990年代の日本のNGOはその水準にはなかったが,今は急速に進歩している。90年代の日本のNGOは現地に行ってもかえって国際NGOの人たちの足手まといだったぐらいだが、最近は大半が国際的水準に達しているといえるだろう。
 日本の国際NGOは規模が小さいものが多い。それは日本にサポーターが少ないためだ。国際規模のNGOである「国境なき医師団」などは,「この活動は是非とも必要だ」と多くの人が感じてその支持者となり援助し支えている。それによって彼らの活動規模の拡大が可能になる。財政的基盤があると,活動要員に月給を払うことができていい人材が集まるのでいい活動ができる。日本のNGOで月給を払っているのはあまり多くない。
 そこで日本では「ジャパン・プラットフォーム」という組織を作り,そこに政府資金や経済団体の資金や物資援助をプールし,各NGOが国際活動を行なうときにそこから資金や物資をもらって活動に充てている。それによって日本のNGOも機動力がつき,対応も迅速に行なうことができるようになった。以前は,災害が起きたあとに物資援助を募ったり,資金の準備をしたりしていたので,迅速な対応ができなかったが,このしくみを作ることによってそのような難点を解決することができた。その結果,国際支援活動において日本のNGOにも重要な活動が任せられるようになったのである。
 日本のNGO活動の歴史を振り返ってみると,1990年代はほとんどよちよち歩きのような状態であったが,今は国際的にも信頼されるほどに成長した。最初のころは,医療品など支援物資を現地に運んでいっても,どうやって必要なところに運ぶか分からないというような状態であった。それでも経験を積む中で成長してきたのである。
 その一つの例が,医療活動をしているAMDA(アジア医師連絡協議会)だ。以前,バングラデッシュで洪水が起きたときに,その災害後の対応のために海外からのNGOは(国の面子もあって)なかなか入りにくかった。しかし,AMDAにはバングラデッシュ人の医師がいてその人がキーとなり国内に入って医療活動することができたほどだ。

ODAの複雑な側面
 民主党政権誕生以来,ODA見直し論が熱心に進められている。それは民主党が自民党政権時代とは違ったカラーを出そうと考えているためでもある。彼らの狙いは,国民に理解されるODAを進めようということだが,それは自民党の時代も同様であった。
 一般的にはODA=悪という考え方が流布しているために,「ODAは無駄だ」「途上国政府と癒着してその幹部の懐に入ってしまっている」「汚職の媒体になっている」「環境を破壊している」などのネガティブなイメージがある。もちろん1970年代などは批判されてもしかたない側面もあったことは事実だろう。
 その最たる例がフィリピンのマルコス疑惑で,日本のODAの多くがマルコス大統領のイメルダ夫人を初めとするマルコス一族の懐に入ってしまったという批判である。それは事実であった。しかし,これももっと大きな視野に立って複眼的に見ると別の見方もできる。
 当時の世界情勢を振り返ると,冷戦時代に東南アジアは共産化の最前線にあった。とくにフィリピンの農村部は共産勢力に支配されるような情勢にあった。インドネシアやタイでも同様であった。米国は共産主義陣営に対して封じ込め政策をとっていたわけだが,アセアン(設立5カ国はみな自由主義国であった)はその最前線と考えられており,インドネシアとフィリピンは共産化の危険が最も高かった。
 フィリピンでは,自由主義陣営の相対となる勢力はマルコス大統領しかいなかった。もしマルコス=悪者だから日本からの援助を中止していたら,赤化防衛の最前線であるマルコス政権は倒れて共産化され,さらにはインドネシアなどへとドミノ倒しに波及してしまうおそれがあった。そこで日本政府は,米国の後押しもあって不満もあったが、ODAによってマルコス政権を支えることにしたのである。このようにODA政策は複眼的に見る必要がある。
 しかし,もしマルコス政権が倒れそれが更に波及して東南アジアが社会主義化していたら,その後の日本の経済的繁栄もあったか疑問である。いま世界の経済成長の牽引力になっているアセアンを考えるときに,ものごとはもっと大きなスパンで見ることの必要性を痛感せざるをえない。
 ODAなど援助には,実際無駄になったものもあった。80年代の日本は経済的繁栄の絶頂期であったが,そのときODA予算もうなぎのぼりで増えていった。それに伴って仕事量が倍増していくのに,それを担当する関連機関職員は500人程度しかおらずほとんど増えなかった。また当時は,援助のノウハウも充分蓄積されていなかったので,大雑把なやり方で重厚長大の箱物を中心に援助することになった。結果的には,それが無駄になった事例も少なくなかった。
 こうしたことがODAたたきの原点になったと思う。しかし,その後こうした失敗や課題は大半解決されつつあり,かなり様変わりした。ただ何事でも人間が行なうことであり,途上国の不安定な政治状況を考えれば,100点満点ということはありえない。またODAはあくまでもOfficial Developmentという政府間の支援事業なので,相手国政府にある程度は口出しできても,奥まで入り込んでチェックすることは難しい。相手国の言い分をかなりは信頼して取り組むしかないのだ。それでも格段に透明性の程度は改善した。
 その背景には,NGOが細かい部分で手伝ってくれる体制ができたことが大きい。つまり公的機関職員を増やせなくても,NGO活動が充実したことによってその不足分を補うことが可能になったのである。

最後に
 最近では「民間提案型事業」というプロジェクトもある。NGOが現地のニーズを踏まえて事業計画を立て予算もつけて計画書を提案すると,それが妥当なものであればODA評価して予算措置をする。最近このようなやり方が増えてきた。今後の政府の方針として,このようなやり方を増やしていこうとしている。
 ODAのパートナーとして以前から,地方自治体もその地方の特色を生かした多様な支援活動などに協力していた。ただ最近は厳しい財政環境も影響して,なかなか思うように行かなくなっている。さらに民主党政権の仕分けによって,「(財)自治体国際化協会」も風前の灯だ。その結果,寒冷地や南洋の環境にあった支援活動など,貴重な地方自治体のノウハウの提供ができなくなりつつある。
 米国ではODAの10%はNGOが担当しているが,日本ではまだ1%程度だ。日本も米国並みにすれば,まだまだNGOへの期待は大きい。日本のODA予算は6000億円程度なので,その10%でも600億円になる。
 ODA予算がさらにNGO活動に回っていけば,多様な人材とノウハウをもつNGO活動が相手国の人々の「心のひだ」にまで入り込むことができてきめ細かな援助が可能になっていく。 しかしまだまだNGOの人材は不足している。とくに若者が参加していくことが要請されている。最初は誰でも初心者だが,経験を積む中で多くのことができるようになっていく。現実には,有能な人が日本にはいるのにもかかわらず,国際開発援助活動になかなか目を向けてくれない。言葉の問題やいろいろなことで一歩が踏み出せずにいる人も少なくないだろう。まずは一歩できるところから勇気を持って踏み出して,その世界の息吹に触れて欲しいと思う。
 そのためには苦しんでいる人を見て助けたいという共感をもったときに,それを大事にして行動する。最初は上からの目線で見る場合もあるだろう。しかし実際の現場で活動している間にその目線は変わっていく。現地の人たちの人格と一緒に行動しているうちに,同じレベルでともに生きる共感を土台として行動するようになる。同じ人間として,喜怒哀楽を共有する,その気持ちを大事にしてほしいと思う。その一線を踏み越えるとあとはすーといくだろう。バリアーを作っているのは,相手ではなくむしろ自分の心の中なのだ。

(2010年7月31日,青年指導者フォーラム・平和学術フォーラム共催のシンポジウムで発題した内容を整理して掲載)