アジアの思想再発見
−東洋文明の魅力

元駐ネパール大使 神長善次

1.物質文明の限界とアジア文明の視点
(1)シュペングラーの世界と物質主義の視点
 今から100年ほど前にドイツの歴史家O.シュペングラーは,『西洋の没落』を著した。そして当時ヨーロッパの“高み“の文明の永遠性を信じこんでいた人々は驚愕させられた。文明論は絶対的なものではなく相対的なものであり,かつ文明と文化は厳格に峻別され,ヨーロッパ文明は没落の過程にあると主張したのだ。
 シュペングラーによれば「文化」とは民族あるいは国家の一度きりという運命を担った生命(魂)が有機的に発生・発展する形態と要約される。そしてその文化が力を失い形式固定化して無機的となりやがて衰退していく過程が「文明」の過程であるとされている。この文脈からすれば「科学的思考」は,数値や論理で全体としての有機的な自然界や実在界を細分化して分析するわけだからそれは形式的無機的な性格を帯びる「文明化」の過程にあるということになる。であれば中世的神の支配からの解放の象徴である科学的唯物論の思考形態そのものに限界があることになる。
 もっとも近代資本主義は,宗教性(キリスト教)の倫理と資本主義的合理主義が矛盾しないことを指摘して今日に至っている。そして唯物論を主体とする社会,共産主義も今日の国際政治の一翼を担っている。それが資本主義から社会主義への世界システムのトレンドなのか,それぞれに限界を保ちつつ継続するものなのか,あるいは第3の道が切り開かれるのか,についてはいまだ定かでない。
 他方,進化の根源については,神あるいは宇宙の意思なるものの存在を無視できない思想とダーウィニズム(遺伝的変異,自然淘汰,祖先一元説を中軸とする思想)との間の矛盾もみられる。また,科学性や環境における比較優位性の下では絶対的価値観が看過されて個人主義的左脳型人間を生じやすいともいわれる。
 こうした一連の思想ないし思想の対立は,元をたどれば西欧近代主義における物質と精神の領域の2分説に起因している。
(2)量子力学,遺伝子学の世界
 しかし,我々が直面する様々な問題は,進化論や唯物論でばっさりと解答を見出せるものばかりではない。20世紀以降物理学の分野では相対性理論やそれとの関連で量子力学が急速に発達して素粒子の不可視の世界が出現する。そこでは地球上の不可視の現象だけでは説明が出来ず宇宙との関連や一体性(例えば湯川秀樹博士の中間子の存在)が問われる。また,遺伝子の分野ではDNA構造が解明されるとゲノムの解読が行われ,蛋白質の合成の不思議が問われる時代に入ってきた。そして遺伝子のスイッチをオンにしている環境シグナルが何か(例えば村上和雄博士の“サムシンググレイト”なる存在)が問われている。すなわち生命と心(魂),物質と宇宙という個の存在と偉大なるものの存在との関連性が今日の科学における重要な課題となっているのである。
(3)アジアの文明の視点
 そのような現代文明の中で,アジア的文明観は物質と精神の2分化に止まることなく2者融合や更に魂を加えた3要素を重視している。アジア的文明観は,21世紀以降の文明を考える上で示唆的なものを提供しているといえる。そこで本稿では,アジアの伝統的文明の一端に触れてみようと思う。それを理解することは,我々が人生観を考える上で大切であるばかりか今後日本がアジアの一国としてリーダーシップをとっていく上で不可欠なことなのである。なぜなら日本は,アジアの一国でありながら,戦後往々にして気づかずにきたか忘れ去ってしまったアジア文明の思考の根本,その奥ゆかしさに思いを致さなければリーダーシップをとることはできないからである。
 なお,本稿での「文明」とは,シュペングラーの「文明」の定義ではなく一般的な「文化あるいは価値の創造の総体」を意味することとする。

2.アジアの伝統的思想
(1)物質と精神と魂と(インド的思想)
 例えば原始ジャイナ教は,物質と精神と魂の問題を如実に関連付けて捉えている。ジャイナ教では「世界」は霊魂世界と非霊魂世界から成り,その実在界の外に「非世界」があるとしている。霊魂世界とは生命体が宿るところで,そこでは身,口,意の3業(ごう)のために微細な物質が霊魂に付着(流入)している(この状態は繋縛,げばく,バンダと呼ばれている)。人はこの繋縛を取り払うために戒を守り(その典型が不殺生),精神修養しなければならない。非霊魂世界は,物質の運動(静止)の場(虚空界)でありその物資は分割,破壊出来ずかつ知覚されがたい原子からなるといわれている。
 ジャイナ教では,最高原理としての宇宙の主宰者を認めていない。ところがバラモン教ではその主宰者を認めている。ヴェーダンタ学派によればその主宰者は純粋の精神的実体(ブラフマン,万有の母胎)であって,世界の質量因であるとともに世界創造を思念,実行する行動主体であるとしている。そして世界が展開する時にはブラフマンから虚空が生じ,虚空から現象世界(虚空,風,火,水,地の5元素からなる)が生じるとされる。我々の個我(アートマン)は,個人的存在の本質であり,それはブラフマンの部分であるといわれる。人生の目的は,アートマンのブラフマンとの合一という“解脱”にある。
 インド思想の根底にはそもそも人間は,物質,業,輪廻といった実在界の中にある。そして人間自身の中にある霊魂あるいは生命原理としての個我をこの実在界の妄想から逸脱,純化する必要があるが,その手段としては,修(苦)業,瞑想(ヨーガ),信愛(バクティ)の3つがある,とする。解脱の結果,永遠の安楽(ジャイナ教),涅槃(仏教),ブラフマンとの合一(バラモン教)が得られるのである。
(2)融合型思想と地母神思想
 欧米では2者択一思想が強いが,アジアでは2者融合の考えが強い。キリスト教正統派の確立と継続の長い歴史は異端との闘いの歴史(宗教戦争)でもあった。アジアにも例えば中国における儒教と他の教えとの抗争があったが,それは易姓革命という皇帝1代の見方如何によるところが大きく西洋の如く首尾一貫した異端に対するキリスト教支配政権の継続というものではなかった。日本では仏教は独立した宗教であるが,インドでは仏教はヒンズー教の一派に過ぎないとよくいわれる。なぜなら仏陀はヴィシュヌ神の1化身だからである。ここでは仏教は異端として排除されるのではなくてヒンズー教という大きな懐の中に組み込まれてしまう。
 日本の神仏習合思想は2者融合の典型である。すなわち仏陀や如来,菩薩が化身(権化)して木像や図像のように可視の状態となった。この「原型」に不可視である神道の神が融合して現れた状態が「権現,ごんげん」である。神仏習合は,そのように思うことのできる融通無碍の思想である。この思想ゆえに日本では過酷な宗教戦争の経験は少ない。
 巴(ともえ)型の渦の思想も2者融合に結び付いている。アジア特有の巴型のデザインは,例えば韓国の国旗に見られるように陰と陽の異なる二気が異なる流れの渦を伴いながらある一つの太極に集約する発想である。すなわち作用の異なる2つが反作用を伴いながら実は1つに融合するのだ。ガンジーがヒンズーとイスラーム共存の思想を打ち出した時,彼の頭の中には異なる2つの思想が渦巻いていたに相違ない。実在界の異なる2つの思想は,バラモン的万有の母胎である宇宙的大精神の中にあっては融合してしまうのであろう。
 神に天神,地神(地母神)の区別がある。一般にアーリア民族系は天神思想であり,キリスト教,イスラームもそうである。これに対してヒンズー教は,インド・ヨーロッパ語族のアーリア民族系の天神思想と先住民の地母神信仰の融合されたものといわれる。
 アジアには龍神を信仰する国が多い。雨量の多い東南アジアはもちろんのことインドなどの南アジアでも地母神たる龍神信仰が普及している。すなわち地母神は天神によって滅ぼされてはいないのである。このことは,天神が地母神を征伐して天地を総括支配する全能の神となったキリスト教やイスラーム思想と対比するとはっきりする。
 西欧やアラブ世界の絶対なる天神(全能神)思想の起源は,西アジア・メソポタミアの「マルドゥク」思想に端を発するという。バビロニア時代の首都バビロンの守護神であったマルドゥクが地母神(龍蛇の姿の「ティアマト」)を征伐して天地を支配したとする思想である。この思想がヘブライ人に取り入れられ,ユダヤ教,キリスト教に浸透していったというものである。
 因みにインドにはその長い歴史においてバラモン教や仏教の浸透,拡大のために外国を侵略したり,外国と戦争したりした経験はほとんどない。
(3)生命樹思想
 アジアにおいては仏陀であれヒンズーの修行僧であれ老荘思想家であれ悟りを開いた人々は多く樹下で瞑想している。そびえたつほどの樹木は,静かな環境を産み新鮮な酸素を樹下に送る。そして垂直に立つ生命力溢れる大木には宇宙との交信の波動が樹下に流れ込んでいるに違いない。例えばインドでは古来より巨木となるバニヤン(榕樹)には木の精が宿ると信じられてきた。インドネシアでは森林や高木に精霊が宿ると考えられている。日本でも「高木の神」という表現がある通り高い木に神が宿る。インドやガンダーラの仏陀の悟りの彫刻像の背景にはピッパラの木(クワ科の大木)と思われる樹木が勢いよく絡み合うようにして彫られているのをよく見かけるが,これも躍々と生命力を蓄えた生命樹と悟りとの関係を示すものであろう。
 そもそも生命樹の淵源は,スメール山(須弥山)山頂に住む帝釈天の楽園に生い茂る聖樹の「カルパ・ヴリクシャ(如意樹)」にあるといわれる。如意樹は,人々の願いを叶え惜しみなく施しをする生産力と豊穣溢れる樹木で生命力の象徴とされる。この思想はヒンズーや仏教の波及と共にインドから東,東南アジアへ広まったと思われる。
 アジアにあってこの生命樹思想は種々のデザインとなって表現される。例えば日本では神道の神迎えの祭具である神籠(ひもろぎ)がある。1本の栄樹(さかき)を垂直に立てて神の依り代とするのだが,この栄樹は生命樹そのもののミニテュアではないのか。そして何よりも神社は,旺盛な生命力ある大木が繁る鎮守の森の中にある。韓国では新羅王朝の王冠の前面飾りに生命樹のデザインがあしらわれており,タイの王朝でも儀礼に用いられる祭具に生命樹が描かれている。インドネシアのワヤン(影絵)劇の初めにと終わりに厳かにスクリーンに映し出される「グヌンガン」と呼ばれる大樹の影絵は生命樹をかたどったものとされる(図1参照)。
 このようにアジアの地には生命樹思想とそれをモチーフにした儀式や芸術がある。人間が自然の象徴としての樹木に「生きる力」を授かろうとする伝統が息づいているのだ。その生きる力とは,樹木に降臨する天界からの宇宙霊が示す力であり,そして地母神の宿る地から恵まれ育まれた生命力である。天と地が樹木の果実や種子を通じて豊穣と再生の力を表現しているのだ。
(4)グヌンガンの意味するもの
 グヌンガンは,水牛の皮に生命樹,あるいは生命樹が茂るスメール山を彫刻したといわれる盾のようなものでワヤン劇が始まる前に影絵として映し出され,人々はこれに祈りを捧げる。グヌンガンの中央には「クパラ・カラ」なる「森の守護者」あるいは「具体的普遍者」がおり,眼前の実在界を凝視している。その大きな口は真言を吐いているが如きだ。眼前の獅子(あるいは虎)と牛は克己精励のエネルギーのシンボル,そして生命樹に巻き付く蛇は智慧のシンボルだ。そしてクパラ・カラより上の樹上にいる猿や鳥は覚醒解脱しているのであろうか泰然としているように見える。
 「具体的普遍者」のクパラ・カラは,仏教の観世音菩薩や不動明王,ヒンズー教のドゥルガ神(シヴァの最高原理の実在界における執行を司るシヴァ神の妃でカーリーとも呼ばれる),あるいは神道の産霊(むすひ,生命あるものを産み出すもの)の存在を彷彿させる。垂直に立つ生命樹は,まさに神道の神の依り代としての神籠である。生命樹の下に瞑想の部屋があってその聖なる扉は仁王ラクササによって守られている。
 さて,ニーチェの超人としての「ツァラトゥストラ」は,神の領域を認めず("神は死んだ“),人にこの地上における自主的な生の実現,精神の目覚め(そのシンボルとしての太陽)を喚起し,新しい価値観をたてようとする認識(そのシンボルとしての蛇)を得させようとする。その超人ツァラトゥストラの存在は,私にはグヌンガンのクパラ・カラの存在と2重写しに見える。
 ツァラトゥストラは神の領域を否定した19世紀ヨーロッパの唯物的思考の流れを汲むものであり,また伝統的形而上学をも否定するものであってその意味でクパラ・カラそのものの意義とは異なるが,人間の意識上のイマージュ(想像)の中に占める位置と形態が同じように見えるのである。もっともクパラ・カラは一面でニーチェの追求したディオニュソス的世界(無限と陶酔の世界,激情と歓喜に満ちているもの)を表現しているのかもしれない。
 クパラ・カラは,仏教でいえば色界(欲は除かれるが形や色すなわち物質や肉体は残る世界)に属する。そして色界の上層部には無意識の領域である無色界(欲も肉体もない完全解脱の世界)が,そして色界の下層部には欲界(欲,物資,肉体の世界)があるという構図になろう。

3.アジアの特質
 紙面は限られているが,アジアの特質を若干指摘しておきたい。
(1)モンスーン気候のもたらすもの
 アジアの特質を考える場合モンスーン気候を抜きに考えることはできない。インド洋の水蒸気がヒマラヤ山脈にぶつかりそれが偏西風に流されて日本にまでたどり着く。モンスーン地帯にはネパール,雲南から日本に至る梅雨の季節をもつ温帯とインドからミャンマー,ヴェトナム,インドネシアに及ぶ熱帯とが含まれる。この地帯には稲作が発達し,温帯と熱帯高原地帯には稲作に加えて樫,椎といった照葉樹林が繁茂し漆(漆器),桑(絹),竹(細工)などの文化を共有している。いわゆるアジア的里文化の原型風景がここにある。(図表4アジア(東洋)という名の蝶,参照)
 稲作の協同作業は,この地域特有の共同体意識を育んでいる。寄り合いや協議の場が設けられ,長い時間をかけて全員一致の評議決定方式で事の次第を決めていく。その典型はわが国にもあったが,有名なのはインドネシアのムシャワラ(とことんの話し合い)とムファカット(全員一致による決定)である。我々に身近となったASEANの精神は,この精神がその基本になっている。すなわち,ASEANでの決議は単純多数決ではなくムファカットによる決定が基本であり,そのムファカットが機能しなくなるとASEANコンセンサスなる知恵を出し合ってとにかく全員が納得する方式を編み出していくのである。会議の前の外相同士の親善ゴルフはこのコンセンサスを会議に先駆けて作ろうとする大事な場でもある。
 アジアモンスーン下のほとんどの地域では,1年はほぼ半年の雨季と乾季に分かれる。そしてその分かれ目にはきまって伝統の祭りや行事がある。田植えとその収穫の頃の祭りは典型的だ。乾季が始まり寒くなる前の明かりの祭り「ティハール」や春の到来と暑さに向かう頃の「ホーリー」の祭り(水かけ祭り)は南アジアでは一般的な年中行事である。モンスーンと収穫,ティハールが終わる頃からは結婚式のシーズンだ。それも満月の15日ごろから20日頃にかけて集中する。早朝に太陽と月が同時刻に空にかかっているからだ。宇宙の象徴である太陽と月の“なこうど(証人)”の下で結婚の誓いを立てるのだという。ところで,ネパール国旗は三角形が2つ重なっていてその中にはそれぞれに太陽と月が描かれている。恰もネパール国を太陽と月の宇宙が保証しているかのようだ。
(2)アーユルヴェーダの健康法
 かってインド滞在時に家内が高名なアーユルヴェーダのトリグナ先生に診てもらったことがある。具合の悪いところも既往症も告知していないのに左手首を数十秒であろうか脈診しただけなのにすらすらと病状を言い当てた上に食事の内容まで言い当てたのには流石に驚いた。紀元前8世紀に遡る世界で最も古い医学のアーユルヴェーダ(西欧医学は紀元前5世紀,漢方医学は紀元前2世紀ごろに発祥)のなせる技である。
 アーユルヴェーダは,病気の局所をつきとめてミクロ的な治療を行う西洋医学とは異なり,物質と精神更にその奥にあるものとのバランス状態を回復させようとするマクロの健康回復法である。すなわち宇宙の5大要素(地,水,火,風,空)が形成する3つの要素(ドーシャ)のバランスである。地と水の力学の生理作用の場からは「カッパ」,火と水からは「ピッタ」,風と空からは「ヴァータ」の要素が形成され,その3つがどのようなバランス状態になっているかで体の異変が分かるのだ。
 西洋の医学がガンの治療のように局所治療への傾向を示し,また遺伝子学が進展して遺伝子の発達がサムシンググレイトと関連しているのではないかと問われるようになった今日,改めてアーユルヴェーダのマクロ分析健康法が注視されている。
(3)気の効用
 生きている証とは何であるか。それは人類が長い歴史を通じて反問してきたものである。インドでは古来からその証を呼吸に求めている。すなわち「気」があるかないかであり,更に進んで強い高度な生命力の証を「気(プラーナ)」の効用に求める。プラーナは,物質でもあり物質でもない,空気の中にあるが酸素ではない,空気,食糧,水,陽光の中にあって生命活動を促すエネルギーであると定義されている。それは中国でいわれる「真気」に相当する。真気は,上丹田の精神活動である神,中丹田の気,下丹田の消化吸収・気化作用を受けた精から成るとされる。気はまた天地宇宙にあまねく存在する気(先天の気)と呼吸から来る清気および食物から吸収される水穀の気(後天の気)から構成されるともいわれている。かくしてインドと中国で気の意味するところはかなり似通っている。その意味するところは概して「生命エネルギーの素」と考えられる。
 生命エネルギーの素である気を呼び起こすにはどうしたらいいか。インドではそれは体内にある7つの網状組織ないしホルモン腺の箇所(「チャクラ」という)の中に保たれているとしており,ヨーガと瞑想によってそのチャクラの活性化を図ることが生命力を強める上で重要だと教える。中国では気功術の訓練により動的な動きの中で呼吸を意識的に整えて天地より生命エネルギーの素を得ることが大切だとされる。(添付図表2,3参照,なお図3は人生の歩みと覚醒に至る行為をインド的ヨーガ的な角度から図示を試みたものである。)
 いずれにしても双方とも医術や科学分析でない方法,すなわち自己鍛錬が中心となっている。ヨーガの場合は,呼吸法と座法,体躯操作,瞑想を取り入れた修行で術というよりは人間開発という観念が強い。生命エネルギーである気の効用を修行を通じて生活習慣に取り入れて高度な生命力を得れば人生観にも生命力が漲ってくる。低俗なメディアが氾濫する中にあって健全な身体とヴィジョンを得るためにも数千年の時を通じてアジアに育まれてきた「気」の効用を考えてみてはどうだろうか。
 科学的にもヨーガ瞑想は,脳内に内静と喜びのα波の発生をもたらし,悦びのもとであるセロトニンを活性化することが証明されており,また交感神経と副交感神経のバランスを図っていることも証明されている。経験的には宇宙エネルギーの降臨は垂直の継続姿勢が保てるヨーガ(座禅)の姿勢が最適である。また,私の経験からは,丹田の位置が自覚できるようになり,腸や臓器の結合がほぐれてくるというか緩やかになっていくのを覚える。日本には「切腹」の文化があったが,考えてみるとそれは生きる源である生命エネルギーの素たる丹田に刀を入れることであり,それはまことに自ら生命の素を絶つことである。文字通り“絶命”そのものを意図した尖鋭な行為である。

4.21世紀の東洋文明
 以上に見てきたアジア的思想の特徴を要約すれば,アジア的思索の様相は,物質と精神(神の領域)の2分化法(2者択一)ではない。アジア的思考法では分節と無分節の世界を対象とする。そして分節から無分節世界への自己昇華(融合)を図るのである。分節的な世界とは,個我の意識や霊魂,自然や物質といった本質が分節出来る世界,無分節的な世界とは,言語や本質が脱落してしまっている無意識の世界である。
 分節的な世界においては意識や霊魂が主体の個我と自然や物質の実在界との関係が模索され,意識や霊魂の純粋性がいかに確保されるかが問題視される。その上で自己修業,神への帰依などを通じて個我の無分節界への昇華が可能となる。この状態を,「解脱」(悟り,涅槃,安楽)が得られる,とか「純粋精神」(ブラフマン,万有の母胎,主宰者)や「玄」とか「それ」としか言いようのない世界との合一がなる,と表現するのだ。その思考形態は宇宙全体と自己と自己を取り巻く実在界との有機的関係を多重に思索する点にその特徴がある。アジアの世紀とも言われる21世紀に生きる我々は,まずこの視点をしっかりと捉えておく必要がある。
 このアジア的思索は,21世紀文明史上いかなる価値と役割を果たすのか。シュペングラー的解釈の科学的分析に偏向した無機化した西洋文明と対峙するものなのかどうか。その場合,対峙とは何を意味するのか。それは陽と陰,男と女といった2極対立の宇宙法則や周期交代の宇宙法則に則るものなのか。すなわち,我々の文明の価値基準が西洋から東洋への運命的変換期の過程にあるのかどうか,の見極めも重要な視点となる。
 考えてみれば,西洋文明はギリシャの古い都市国家と政治的参加の自由から始まり,ローマ時代に万民法による支配とキリスト教の普及を経験する。そしてゲルマン時代のゲルマン民族という共通の出自とゲルマン的個人主義,多数国家存続と国家間の勢力均衡主義の承認などの共通の価値観を有することとなった。そこには都市にしても法にしても国家関係にしても「整然とした均衡」を求める共通思考があり,かつ全体をキリスト教という1つの経典思想で律している。
 それに対し,東洋文明は,思想形態としては個我と自然(実在界)と宇宙(大自然)との間の有機性,合一性を求める潜在意識があり,その「解脱」の達成は個人の修行に任せられている。1つの経典,1つの万民法でこれを律することはない。民族も多彩である。また,モンスーン気候帯とその北側の亜寒帯は自然が豊かであって自然の恵みによる充足感があり,また自然との共棲は寛容の精神を培っていく。それが個性ある里文化をもたらしている。
 西洋文明では人間は自然を支配する立場であるとして諸物の均衡を求める傾向がある。これに対して東洋文明は,豊かな自然の胸を借りるようにしてひとりひとりが自己を陶冶しつつ更に奥なる不可視の大自然(宇宙)との合一を図ろうとしている。そしてその合一を律する1つの経典や1つの法は特にないのだ。この点にこそ東洋文明の奥深い魅力があるのかも知れない。
 それにしても東洋(アジア)文明は多彩である。一概にそれを一括りにすることは難しい。そのことも指摘したい。   

(2010年1月25日)

プロフィール かみなが・ぜんじ
1943年栃木県生まれ。京都大学法学部卒。その後外務省入省。在米国,在フィリピン日本大使館,在欧州共同体日本政府代表部等に勤務。外務省文化第2課長,中近東第1課長等を務め,この間埼玉大学客員教授,宮内庁御用掛(昭和天皇ご通訳)を兼務。在ジュネーブ国際機関日本政府代表部,在インド,インドネシア日本大使館各公使,在オマーン,ネパール,大阪各特命全権大使を歴任。おもな著書に『欧州の知恵』『欧州共同体』『アジアのBCG−東洋の生きる力を読みとる』,The Wealth of Asia,詩集『涼ろ風』『愛し風』。
歌集「南青山」,「この1年」など。