集中化から分散化へ,量の生産から質の生産へ

―脳の情報処理よりみた次期社会の総合システム


長崎大学元教授 川口勝之



1.はじめに

 景気,つまり経済成長は,石油消費量と比例する。グローバル化から百年に一度の不景気に至るまで,社会が真剣に取り組んできたのは経済と景気だけである。人々が安定した生活を営むための基軸的な役目を果たす「社会的共通資本」(Social Capital)は決して投機に利用されてはならない。「日本経済はもはや一流とは言えない」。これは前の経済財政担当大臣の言葉である。日本は米国に次ぐ先進国中最低の貧困社会となり,年収200万円以下の人が1000万人を超える。このような貧困格差は,これまで体験したことはない。

 日本はこれまで,エネルギーと食糧は,他から買えばよいという国を創ってきた。エネルギーの90%外国依存,食糧自給率も,トウモロコシ0%,大豆5%,小麦15%といわれる。食糧から燃料をつくるなど,「神の冒 」と同じで,「技術」は「生命」を豊かにするために奉仕することを忘れている。

 ここにも目的と手段の区別がつかないのである。「利潤」というは,今日の事業から明日の良い事業に発展させていく条件なのである。「利益」を目的のように捉えるから,社員,経営者が間違え,非正規社員の派遣体制に依存したりする。

 今日の経済危機に意外性はない。“国家の介入を排除して市場経済を純粋化するほど,「神の見えざる手」で効率化と安定化を達成できる”とする経済学の主流は,規制緩和やグローバル化と結びつき,実際の「需要と供給」とは無関係の値上がりの期待がバブルを引き起こし,不安定な仕組みだという感じを抱かせてしまった。米金融当局は,金融緩和で次のバブルを起こして破綻を先送りしてきた。市場が大きくなりすぎて,利下げやカネのばらまき程度で対応できないのである。米国流の「ビジネス経営学」から脱し,額に汗して働く「本来の資本主義経済」に回帰すべきである。

 人が合理的に振舞えば,カネの流れはどうなるか。人の行動を類推できるとする経済学の理論は,市民を惑わすものである。この理論を使って,複雑な現象の理論を作ると,その現象を分析しやすくなることでは便利になるが,その現象の本質を見極める点においては,誤った結論を導き出すことが多い。出力依存型の脳の機能からもわかるように,完璧な合理性はありようがなく,人の振舞いとは明らかに矛盾するだけでなく,市場変動が生ずるいかなる状況とも一致しないことが「現実」である。

「美しい人工物」をつくり,カネと交換することを旨とすること,これが「技術者」の基本だ。「体験的学習」を最も重要視する「技術者」にとって,怪しげな「金融工学」などと軽々しく呼んでもらいたくない「感性」の世界がある。工学技術とは,人を支えるためのものだからである。

 人の脳の情報処理系は,出力依存型の情報処理系だから,最初に現れる出力(解答)は,大抵失敗するのが普通である。この失敗出力が次のプロセスの拘束条件となって,次第に全体系が高度化していく。これがデザイン(設計)のプロセスである。人間が頭で考えること(理論だけで考える)は,大抵ロクなことはない,としか言いようがない。また,歴史はこの失敗の歴史の繰り返しと言うこともできよう。

 さて,日本に目を転じてみよう。日本で最も遅れている産業は,農業,水産業,林業,および家内業で,生産性が世界各国に比べて最低に近い。水産業は少し違うかもしれないが,これも海洋圏の掠奪産業が主流である。

 これを米国型の結果主義で評価すると,政治・官僚共同体、とくに文部科学省,農水省,厚生労働省の日本国の再建理念とその立案能力の低下によるとみてよい。各種報道機関の情報から判断すると,及第するのは経済産業省くらいなものだろう。50〜60年代当時の“日本護送船団方式”と言われて,日本を引っ張って行ったあの“気概”と“技術”は何処へ消えたのだろうか。市場原理経済は,貧しい人や苦しんでいる人を搾取する。たかが「経済」ではあるが,カネはすべてのものに影響を与える。日本も教育や医療が荒廃した。拙著『人間の内面的な感性の表現の研究―脳の情報処理よりみた次期社会の総合システム―』および『地球環境システム設計論』で,正当な動機付け,活性化する精神,生体システムに準ずるプロセスによる方法論,全体を総合化する技術について,構成をまとめている。

 技術的見地から言うと,この農業,水産業,林業,および家内業の問題は,基本的には“環境の基礎生産力”および“太陽光合成作用”を利用した“エネルギーと食糧生産”に集約することができる。著者は,この20年間「環境計画」を専攻してきたので,その研究成果を紹介することにする。

 フランシス・フクヤマが言うように,米国の選択は「利益を求めて,利用できるものは何でも利用する」やり方である。今後の新政権には,経済グループに市場原理主義に近いメンバーもいるといわれ,実際にどこまで期待できるかわからない。

2.現実の世界からの遷移と
 これからの世界

 景気や経済を一国の金融・財政政策で,もはやコントロールすることはできない。IT技術は金融システムを肥大化させ,グローバル化させてしまった。それほどグローバル化は,全世界に教育,医療,その他福祉関係などを悪化させ,経済以外の領域にも波及している。たかが経済だけに影響するのは自業自得だが,生活のさまざまな側面に関して競争や変動が激化し,放っておくと市場の「悪魔」が世界を覆うことになるだろう。

 経済・金融危機のみでなく,環境,エネルギー,および生物生産と消費,生命圏と気候変動などあらゆる事象に関連する命題であり,まず「持続可能な世界への遷移」の観点から考えてみることにする。これが本質的にグローバル化の光と影の対応策になるからである。

2.1 経済および社会の遷移

 お金のみに置き換える考えではなく,心理的な利益や他人を助けたいというような無形の精神的なものから,人々が満足を得たり,快く感じることを考慮すべきである。理論と実践の両面において「壊れやすい価値」または「質」を取り扱うこと,とくに不可逆的に消えてしまう危機のある価値,例えば,「生物の文化の多様性の保全」のような事項を無視してはならない。抽象的で顔の見えない<市場>経済ではなく,生きた身体を対話が支える<市場(いちば)>を回復しよう。

 空気や水がタダであれば,いかに汚染しても一銭も要らない。経済活動は環境や人間の将来を犠牲にすることで進展している。水や空気の「質」を回復させるために,その費用を負担するということは,主として自然の元本に頼って生活することから,自然の利子によって生存することへの経済的遷移の主たる要素となる。このような負担は,質を回復するための費用を負担することと密接に結びついており,「質の定義」は経済のみでなく科学技術においても同様であり,大量生産,大量消費の経済から,「質の生産」へと指向することになる。費用を負担するに当たって重要なことは,破壊的な経済活動への助成金を廃止することである。

 モノの豊かさと人間としての生活の豊かさを結びつける知恵は,「経済学」においてはまったく期待することはできないが(本来ならばこういう命題を研究するのが経済学ではないのか?),別の創造的分野の台頭が期待されている。すなわち,国家と個人の間に地域という中間集団を再構成し,市民の活動の集積である市場に経験,技能,組織能力や制度的な記憶を取り入れる。その源流を「豊かな人間関係」を示す社会関係資本(Social Capital)にもとめる潮流が台頭している。このような新しい地域の文化的多様性デザインを図2.1に示す。

 まず,市場経済システムの質の要因を経済指標に組み込むことが肝要である。前に「質」と「不可逆性」の問題について述べたが,失われるものが何であれ,それを元に戻すための費用を概算することである。これは,自然の元本に頼って生活することから,自然の利子に頼って生活する経済的遷移を意味する。経済学の使命は,効率性と「公平性」である。つまり,誰もが「平等に」利益が得られる「教育」や「医療」が必要である。ところが,公平性を高めると所得再分配政策は市場の効率性を低下させるという。瞬時に移動する資本は,労働組合を,そして政治権力でさえも骨抜きにしてしまう。金融市場主義というシステムに自己規制能力があるというのは,幻想にすぎない。本来ならば,経済システムの中に不可逆の問題,つまり「カネ以外のモノの価値」と「質」を取り込むことであるが,未だこれに成功した「経済学」は開発されていない。ノーベル賞はこういう人に贈るべきであろう。

 経済計算システムの中で,資源や資源の減少や劣化を促進する生産活動が富を減少させるものではなく,むしろ所得を生み出すものとして計算されている。例えば,環境汚染では,自然資源の深刻な劣化にもかかわらず,浄化のために政府が多額のお金を使うと国の経済所得は上昇する。浄化がなされず,近隣の家庭が医療費とか別の手段を講じたとすると,家庭の支出は最終消費とみなされ,国民所得は上昇する経済計算になっている。環境の実態を反映させる経済評価が行われていないのである。環境や生態系を消耗させることなく,経済成長を続けるためには,「環境の生産力」を経済評価に組み込んで評価することがまずもって肝要である。すなわち,国民一人当たりの投資に対する生産量のみを求めるのではなく,消費された自然資源と,放出された廃棄物当たりの生産評価が必要である。

 このあたりの評価法は,『人間の内面的な感性の表現の研究』「持続可能な世界への遷移」に詳細に述べられているので,参考にして頂きたい。

2.2 情報通信技術(IT技術)と
社会の遷移

 典型的な情報通信技術は,「複製の技術」である。電信,電話,ファックスもメールもインターネットも映像も,時間と空間に対して言語やイメージを複製し,発送し続ける。情報の受け手と解釈する者との間に成り立つ,ズレながら結ばれる「ダイナミックな関係」の中で,情報の複製の世界が連続する。映像は,さらに携帯電話,デジタルカメラ,テレビの画面やインターネットを通じて,群衆の一人ひとりの日常生活の最も私的な領域まで浸透し,反復して最もわかりやすい,視覚的イメージを送り続けている。情報の伝播のみならず,モノの生産の場においても,コスト低減のため複製を複製し続けている。自動車,家電,航空機の生産などはその典型的な例である。

 情報通信技術は,金融資本システムを肥大化してしまった。もともと,日本の技術者や労働者には,ある種の「気概」や「美的満足感」にこだわるところがあり,完全主義の情熱をもって,新しい製品を作り出し,生産することに誇りをもっていた。これが「モノ作り大国」に発展した要因である。それがあるからこそ人間だというようなもの,「情動的知能・感性」があったのである。これは,富の蓄積と消費だけに興味をもつ経済活動とは対極になるものである。金融資本主義のグローバル化で瞬時に移動できる資本は,労働組合や共同体の互助精神を,また政治の権力さえも骨抜きにした。今日,世界各地に株主は存在し,市民は株主としての選択と同時に消費者として最も安い供給者を選択する。こうした市民の分裂した精神は,グローバルな資本主義を助長している。富裕層の人々は,自己が育ち,教育を受け,財を築いた場所である国家に対する帰属意識を失い,自己の所得を課税率の最も低い国や地域へ移す。カネを得ることの欲望が個人や企業を国家から分裂させてしまうのである。

 これに対して,人間が目下抱えている社会問題を通じて結果として生み出されている「社会需要」が,経済や技術の閉塞感を再生させるというシナリオがある。目に見えない投機的な金融資本主義から,実質的な信頼性のある資本主義への転換である。百年に一度の危機なら,「百年の計」で解決しなければならないだろう。例えば,環境,廃棄物処理,教育,都市交通,福祉,医療,社会サービスなどの普及・高度化である。情動的知能が放つ,方向性のある働きは,指向性のない自然的な要因(市場)以上のものをなすことができる。IT技術が社会を平坦化するものとして作用し,高度化することがなかったのは,「複製の技術」を市場化に委ねたからである。この対応策は政治の領域に「目に見えない抽象的な市場(しじょう)」ではなく,「市場(いちば)」および「IT利用の分散形共生技術」(参考文献(1)(12)参照)を取り込むことである。すべての「価値尺度はカネ」という見方ではなく,インテリジェント・デザイン(参考文献(1)(12)参照)を導入して,社会の需要の創造に集中すべきである。これから国のデザインに携わる人は,「志」のみでなく,何かこのような「テクノロジー」を感性としてもっている人が望ましい。10人に1人ぐらいは,こういう人を育てるべきである。

 日本の生産性および国際競争力の低下に関して,第一生命研究所の「一人当たりのGDPの失われた10年」という報告書は,注目に値する。非正規雇用労働者(労働者全体の三分の一)の増加による人的資源の蓄積不足があるという。非正規だと会社への忠誠も創造も少なく,労働の熟練度も上がらないから賃金も増えない。これが日本を「二流の国」にした。企業は,目先の利益のために「体力」を低下させたのである。「一人当たりのGDPを低下させる効率性」とは皮肉なものである。

 「欧米と異なり,日本経済の本当の強さは中小企業にある」と丹羽宇一郎も言っている。中小企業の技術力を伸ばすとともに,政府は信用保証の枠を拡げるべきである。
 明確な目的・意思をもってデザインされた日本の伝統的観音と茶室を図2.2に示す。

3.日本形の経済危機対応とエネルギー食糧生産について
 前述の通り,本質的に不安定な資本主義を維持していくには,政治によるコントロールが不可欠である。預金を幅広く集め,貸し出す銀行(社会関係資本,Social Capital)と,株式でもうける投資銀行は,性格がまったく違う。集めた預金を融資する商業銀行と異なり,投資銀行は預金保護のための規制がなく,どんどん巨大化した。投資銀行部門を強化したスイスのUBSなどは,国の経済規模を超えるほどになった。アイスランド銀行も然りである。
 情報通信技術は,金融資本システムを肥大化してしまったが,次のような「北欧型」のニュー・エコノミーに注目すべきである。

3.1 環境調和形産業

 中国の理想とする経済は米国型であり,金融資本主義的な投機経済で流動的労働市場を軸としている。これに対しヨーロッパ,とくに北欧は,社会連帯的労働政策を軸とし,長期安定的な社会を目指している。すなわち,21世紀の成長のあり方,ひたすら「物財の生産・保有」ではなく,人間の健康,教育,福祉など非物質的な「質」を向上させる「人間主義」経済を目指して実績を上げている。消費税を大幅に引き上げてでも,社会保障を充実させ,国民の不安を取り除いている。しかも日本では,しばしば議論され,結局,疑問視される結論,社会保障の国民負担と経済成長の相反問題を解決し,しかも国際競争力を常に上位に維持している。適正な方向性のない日本は,国際競争力9位,1人当たりGDPは19位に低下してしまった。

 ヨーロッパにはエネルギー自給村が数多くある。ドイツは分散形エネルギー利用,例えば,風力発電,太陽光発電において,世界一に上った。例えば,ドイツ中部のユーデン村。ここでは,牧草や家畜の糞尿などを混合し発酵させ,発生したメタン(CH3)で750人の村民の電力や暖房をまかなっている。発電量は全村の電力消費量の2倍以上で,余りは電力会社に売電する。これにより村全体で3000トン/年の炭酸ガスを低減している。2.4億円の総工費のうち,国の補助金を除く0.81億円を地元の190戸が負担している。改革を求めて行動する感性の人々がいたことが成功のカギだ,とゲッティンゲン大学のルパード教授は語る。

 野口悠紀雄によれば,今回の「百年に一度の経済危機」の元凶は日本にありと述べている。不良債権処理のため超低金利政策の長期化が,日本円の米国への流入を促進して住宅バブルを肥大化させ,ドル買い介入で維持された円安の中で,住宅を担保にローンを組んで格安な日本製品を輸入する「流れ」が確立された。これは,ロンドン金融市場でも同様,ヘッジファンドの運用資金の四分の一は日本から来ていると言われる。日本総合研究所寺島実郎も同じ提言をしている。何のことはない,超低金利が長く続き,日本の金融資産が海外に流出,食糧,原油の高騰を加速させ,自らの首を絞めており,そして今や米国バブルは崩壊し,全世界にその損害が拡がるという構図である。不自然な円安誘導も破綻したので,1ドル70円も覚悟しておいた方が望ましいという。

3.2 バイオマスによる燃料生産と炭酸ガス制御法

 百年に一度の危機で金融業界は変わるかというと,そうはならないだろう。各国が規制強化に乗り出してくるし,野放図に投融資ができた時代は終わった。しかし,「投資銀行の消滅」は簡単にはならないとの識者の見方がある。米欧の金融機関は,「利益を求めて利用できるのは何でも利用する」からである。今後の目標は、温室効果ガスの排出量取引など新たな儲け口を捜すのに必死だ。排出量取引を金融ゲームにしてはならない。日本は食糧自給率の向上により,温暖化と脱石油戦略に立ち向かう。米国流のトウモロコシ等の食糧から,エタノール生産という神を冒 する方式を採用してはならない。食糧以外のバイオマス(何でも可)から,効率よくメタノールを採る水質反応高カロリーガス化法(長崎方式,図3.1,3.2)の技術が確立されている。米国やブラジルが採用しているエタノール製造法は,図3.1に示すように,バイオマスを糖質に発酵・蒸留して作る。いわば酒造りの方法であるから,(原理的に)収益率が悪く,せいぜい原料の2〜3割と言われているが,メタノール長崎方式製造では,原料(雑草,木材,その他)の5割以上の収益率がある。何でも米国に追従する政治家や官僚は,もっと確かな技術と天下の情勢を勉強しなければならない。日本の農業,水産業,林業を包含した,エネルギー生産政策を次世代の動力源,水素・メタノール方式に誘導しなければならない。

 この長崎方式高カロリーガス化法は,水蒸気改質熱化学反応によって,まず水素(H2)と一酸化炭素(CO)の高カロリーの燃料が得られるから,これは直接,ガスエンジンやガスタービン,燃料電池やその他の原動機の燃料となる(図3.1)。そして次世代は,水素・メタノール時代といわれている。これは,水素は非常に軽く,しかも燃焼温度1500℃と高いので,燃やすこと自体で生ずる損失(これをエントロピーの増大という)が,他の重い(Cを含む)燃料に対して少なくなるからである(文献(1)参照)。しかし,移動体,例えば,ロケットや自動車では,水素を収納するには体積容量が大きくなり困難を伴うが,これを簡単にメタノールにして移動体原動機にも液体燃料として使用すれば,公害もほとんどなく,環境適応形としても最適となる。
 原則的に,図3.1に示すように,バイオマスの食糧利用後の残滓を燃料製造に当てるわけである。ここで要求されるバイオマス原料は,農業,水産業,林業とそのサービス業から発生する残滓である。最終形態の肥料に至るまで,神が与え給うた生物体を利用しつくすことである。化石燃料は,もともとこのバイオマスから生じたことを忘れてはならない。

 日本はエネルギーと食糧を外から買えばよいという国をつくってきた。経済大国といわれてきたが,実体は二流国となった。食糧およびエネルギー生産を国内生産に切り替えれば,人・畜産に要する穀物の輸送に伴う二酸化炭素量を大幅に減らすことができる。農地の戦略的活用や海洋生物生産(例えば,図3.3),さらに海洋の二酸化炭素吸着循環によって二酸化炭素の吸収効果は,格段に増加する。何となれば,動物や植物の元素構成は,ほぼ炭素(106),窒素(16),およびリン(1)である。窒素は空気中にふんだんに存在し,炭素律速となる。

 光合成は二酸化炭素と水を原料として無機物から有機物に変換される。二酸化炭素は生物生産の最重要となる原料なのである。二酸化炭素より水蒸気が赤外線の吸収率は高い。温暖化の原因を二酸化炭素のみに帰すのは科学的考察ではない。

 農業生産法人方式やIT技術応用(地域分散形共生技術,文献(1)参照)によって,現地マーケット,物流,学校給食,スーパーマーケットなど近代工業国の理論を生かした生物生産技術を活用する。
 二酸化炭素排出量金融取引を金融ゲームにしてはならない。これよりはむしろ原子力利用を「中継ぎ」にした方がよい。それは銀行屋が言い出したことで,間にブローカーが入って何十倍も膨らましてもうけることを手ぐすねを引いて狙っている。大量の生物生産によって二酸化炭素を吸収し,最終的には,海洋,空気中に還元する循環が望ましいが,いずれにしろ,二酸化炭素を生物変換や海洋吸収の技術を開発した人がその利得を得ること,この当たり前のことがなされていない。二酸化炭素を本当に低減したいなら,石油の燃料の出口調整よりも,石油の生産調整か,原動機の効率化・改良に取り組むべきだ。自分が節約した分を誰かがいいように使ってしまえば効果がない。養老孟司が言うように,いま必要なのは,地球上の脱石油の制度設計なのだ。官僚は,消費抑制という不確実な手法に逃げ込み,エコ・ブームとかクール・ビズという名称で,結果として国民に道徳を押し付けている。一定の経済成長を保つのが政府の仕事だと思っている人が多いが,経済成長は,石油の使用量増加を伴うし,原油価格の高騰,環境汚染,微小生物の絶滅を伴う。分散形で「量」の生産より「質」の生産への遷移しかない。地球の人々は,考えたくないことをしっかりと考えないのである。

 波動ポンプを利用した海洋のバイオマス循環の仕組みを図3.3に示す。発電プラントから排出する排ガスは,脱硫した後に二酸化炭素を海洋に吸収させると同時に,太陽光合成を利用して有機物(植物プランクトン,海洋藻類)に変換する。バイオマスによるエネルギー生産と食糧生産と食物循環は,図3.3および図3.4にまとめられている。

3.3 生物育成産業(環境の基礎生産力)の遷移

 生物育成産業とは,農業,林業,畜産,水産業,家内業を意味するが,これらの高度化には,IT産業,政治,地域市民,社会システムが関連するので,適切な表現が見当たらず,仮題として表記している。著者の主なテーマもこれに属する。

 図3.4にその基本理念と生産法の概念設計が示されている(詳細は,文献(1)および(12)参照)。農業の崩壊,最低に落ち込んだ食糧自給率,食の画一化と揺らぐ食の安全等に見られるように,農政基本法の挫折を経て,今日まで歴史は日本農業衰退史と言ってよい。世界最大の食糧輸入国でありながら(これは炭素循環の増大を招く),一方で年間1900万トンもの食品・食材が捨てられている。神が授けた草食以外の骨粉や,穀物,共食いの動物性餌を,本来草食の家畜や植物食の魚類に食べさせて食肉生産を巨大化した。食肉1キログラムの生産に必要な飼料穀類のカロリーは,生乳4.03倍,牛肉は何と30.43倍で,非効率な生物生産法の最たるものである。世界の穀物生産力は,肉食を維持し続けることはできない。人類は菜食よりも何倍も食糧資源を餌として使う肉食のために,有限の地球に過重の穀物増産と環境破壊を上昇させている,と岩田進午や長谷山崇彦は警告している。

 恒温動物の場合,食べた分の2%が組織成長に費やされ,生体維持呼吸分が77%,残り21%が糞量として出てくる。つまり,100%の食糧を輸入し,2%の肉類の生産のために21%の糞尿を出し,これを工業処理している。食糧の輸入というのは,糞尿の輸入と同義である,と岩田は警告を発している(文献(12)参照)。同時に計り知れない二酸化炭素を排出している。“落語”にもならない馬鹿な話である。

 地元に元々あった食物もないがしろにし,規格化された機械生産的な食品が主流となった。遠く離れたところに大規模産地が作られるようになった。農業における未来の「地産地消」や食べられるのに捨てられてきた「規格外野菜」や「未利用魚商品化」(例えば,焼津水産化学の魚の廃棄物から調味料,コラーゲンの抽出),地域に埋もれた在来種の農産物の発掘とその復権への取り組みが重要だ。株式会社に農業を開放することは,「雇用創出」「社会貢献」にもつながる良策だろう。この他,生産者と消費者の提携による産地直送や,市民が農地の所有者となって農家を支援する。

 このように消費者が自ら学び,選び,生産側に働きかける主体的活動ができれば,食の「ゆがみ」や安全性は次第に正され,農業や漁業の基盤も強化されていくだろう。グローバル市場主導の米国で,地域社会が支える農業(Community Supported Agriculture)と呼ばれる分散形農場が各地に広がっているという。これまで日本政治は,米国の「利益を求めて,利用できるものは何でも利用する」という姿勢をまねしてきた結果,百年に一度の経済危機を招いた。農業分野では,大規模化一辺倒で,生産と消費の場を隔離してきた。いわば,米国流の大味な機械化ばかりをまねしてきた。日本は国土が狭く,変化に富む特別な地勢だ。日本独自の方策が望ましい。逆ピラミッド形の人口構成を逆にとり,老人層が管理する農業を考えてはどうか。

 例えば,第一次産業としてだけではなく,職場で心を病んでいる人や高齢者,障害者のための予防医学,園芸療法などにもっと“青物と土”の農業を開放する。農繁期があることが生活にリズムを与える。また子供たちの食の教育(例えば,米粉食物の開発,菜食指導),健康,環境認識でも“グリーン体験”として魅力を秘めている。これまで空費した農業への巨額な金額と時間を考えると,「たやすい」ものである。農業従事者の声も「カネよりもむしろノウハウ」を求めている。一律ではない地域の特質に応じた取り組みが必要となろう。

4.情動的知能の働き−本物を見る眼―

 情動的知能(感性)とは,「外部から入ってくる信号,素情報が,その生命システムにとって意味があり,価値があることを見て取る能力」である。これは『人間の内面的な感性の表現の研究―脳の情報処理よりみた次期社会の総合システム―』で詳細に述べられている。創造的な「物づくり」には,適正な方向性と動機付けの源流をなす「感性」と,その感性によって価値を認められ「創造」につながっていく過程,およびそれらを眼に見える形に表現する「デザイン」が要求される。このような情動的知能・感性よりみた欧米や日本の社会について述べてみたいと思う。

4.1 論理を超えた情動的知能の世界
  ―工業化された農業の悲劇―

 ケネディー政権下,米国の「神童」を集めた政策決定集団が,なぜベトナム戦争の不毛な泥沼化を見抜けなかったのか。同じような物語のイラク戦争の“Fiasco”(大失敗)。歴史は繰り返すし,人間が頭で「考える」ことはロクなことはない。現場の自発的な潮流に逆らったからである。天下の大秀才を集めた「数理士」の集団が,増える基金を5.5%で福利運営すれば,30年後は「豊かな老後」が待っている,という年金設計の大誤算。問題は見込み利率の5.5%であるが,少子高齢化はまだしもゼロ金利は人災ではないか。この三者の共通点は論理とデータ偏重主義と,体験に基づく情動的知能(感性)の欠落である。

 脳において各種の体験によって学習された知識は,神経細胞の「反応選択性」として蓄えられている。反応選択性とは,神経細胞が特定の特徴を備えた刺激に反応し,他の刺激に対して反応しない性質である。
 このような神経回路のある興奮のパターンがある臨界値を超えると,細胞内の膜電位が上昇し,神経インパルスが発生し新しい神経回路の創生につながっていく。このような視覚や聴覚が捉える「感じる心」や「考える心」の脳中における機能については,文献(1)の「外部からの情報と神経回路網との関係性の成立」にまとめられているが,基本的には論理的な認知情報処理系は,大脳皮質感覚連合野,情動的情報処理系は視床・扁桃体が活性化されることに対応している。この「感じる心」で情報の価値を即断し,「考える心」で時間をかけて送られてきた情報を検討し,再度その結論は「感じる心」に戻され,評価されて最終的な脳の出力となる。これが情動的知能の最も重要な機能である。

 いま私の机上に『ハチはなぜ大量死したのか』という本がある。「2007年の春までに,実に北半球のミツバチの四分の一が失踪した」という,何とも恐ろしい話である。この「蜂群崩壊症候群」の原因は単純ではない。ハチたちが農業という経済活動にどう取り込まれていったか,などについて一つ一つ追求していく。最大の背景は,工業化された農業である。つまり,微量のいろいろな農薬が虫の体内に少しずつ蓄積して,ハチたちにストレスを与え,免疫性を低下させ,ダニやウィルスに対する抵抗性を弱めたのである。一種類のアーモンドのみが延々と植えられた総面積3000平方キロメートルの世界。単一環境の異様としか言いようがない。受粉させるに必要なミツバチは,米国全土の果樹園にハチを連れて回る。その方がカネになるからである。病み果てた働きバチたちは,採餌の途中で倒れ,巣には戻れず,ただ死んでいったのであろう。報道によると,日本のミツバチにもこの傾向が現れているという。何とも痛ましい,明日はわが身を予感させる怖い話ではないか。まだ,手を打てば間に合うのか,誰にもわからない。世界中の人は,聞きたくないことを,誰も聞こうとはしないのである。

4.2 学問・科学技術の遷移

 地球上で唯一の科学技術の力を手にした人間にとって,科学技術の進歩によりこの世には不可能なことはほとんどないが,「あれば便利な技術」として展開されたものであり,「確かなもの」,「永遠に伝えるべきもの」はほとんどない。現代の科学技術時代の根底にある問題である。

(1)リンゴも月も太陽も共通的な質量としてとらえると,これまで見えてこなかった法則性,万有引力の法則や運動方程式が導き出される。断っておくが,この法則性は見かけは違ってもすべてのものは質的に同じ,異なるところがあるとすれば,量の差に置き換えできるという科学技術の見方であり,「モノ」としてのあるがままの本質,「モノ」としての価値観は入っていない。経済学があらゆるものを「カネ」に置き換えるのと同じである。経済学は愛情の値段を売春婦の値段に置き換えることを平気でするとの非難もあるくらいだ。この体系で「価値」を見出したり,利益を上げるとするなら,「量」を増やすしかない。これが20世紀の大量生産・大型化の本質である。
 そこで,「モノ」の見方を変えて「量」の生産より「質」の生産へ変えることが必要となる。科学技術や経済の見方では,本質的に「大量生産・大型化」の社会になる可能性を秘めている。
 「モノ」の見方を変えて,情動的な主観性を取り込むと,また別の世界,例えば,芸術の世界が開けてくる。空間に浮かぶ月や太陽の運行,時々刻々と変化する燦々と輝く光彩,変化して生成されていく存在であるから,極め尽くされることはないであろう。

(2)現代の学問系のいま一つの「根底に潜む問題」は,「全体系」のとらえ方に関するものである。現代の研究開発の捉え方の主流は,「分析と還元」であるし,分類と深く掘り下げる見方である。つまり,現在の学問系は,おしなべて「ある条件が設定されたときにその系はどう変化するか」を推察することと言ってよい。しかし,真の「問題解決」には,いつ,どこで,どんな条件設定を行うか,その条件設定の内容まで含めて「実体系」はどうあるべきか,全体として何が最良か,を知ることである。例えば,地球上の全生物の多様性について,そのプロセスは,科学で分析追跡できても,なぜ多様化したのかは示してくれないのである。
 このように科学技術は,後追いの技術であり,分析還元とは対極にある「総合知」と「全体系」の追求が必要である。なぜなら,各要素の分析還元の見方では,「発見」することはできるかもしれないが,「発明」と「創造」への導きはほとんどないからである。

(3)ノーベル賞を超える知性の巨人(理論物理学者)といわれるフリーマン・ダイソン(英)の言葉に注目すべきである。21世紀のバイオテクノロジーが,20世紀の原子力技術並みに危険という構図を見て取る。遺伝子組み換え技術が出てきた70年代,乱用を恐れた研究者たちは,自律的に立ち上がって,“実験研究指針”を策定して規制した。開催地の名をとって“アシロマ会議”という。
 私は,科学技術の究極の「悪」といわれている原爆とその後の平和を体験している。核分裂発見後の39年,米国で物理学者の会議があったが,原爆・水爆開発の可能性を知りながら,「協議事項に倫理的責任を含めるよう提案する者は、誰もいなかった」。アシロマのような「勇敢な人物(本物の見る眼)」は現れなかったのである。
 また,西欧社会においては,「遺伝子」の分析的な研究に目を奪われ,生物とその多様性と地球環境という全体系の「生物圏」を忘れてこなかったか?と指摘する。いま,著者の研究対象は,「地球環境設計」であり,まさにその研究を行っている。

5.結語

 1913年の米FRB(連邦準備制度理事会)設立が,ロンドンのシティと米国経済を結びつけ,第一次世界大戦の戦費支出のため,英国の戦時国債を米国が買う道を選択した。それが牧歌的な農業国アメリカを強大な金融国家に変換する発端を作り,その後,米国は1世紀をかけてマネー・ゲームを弄ぶ国となった。それが今回の経済危機の発端であると中西輝政は指摘している。そこには確かに,「百年に一度」の歴史的背景がある。
 これに対する世界の表舞台には,パックス・アメリカーナ(米国による平和)体制が崩壊し,多極化する国際政治となるだろう。これは戦後,初めて日本が米国の重力を逃れて自由になる機会だと中西は指摘する。つまり,東京裁判史観などの呪縛を超えた日本の自立元年にすることを国民に訴えている。

 著者も同意見である。日本で最も遅れた産業,農業,水産業,林業を自前の技術「分散形共生技術システム」を利用して,高度化する。工業技術などの成熟産業は飽和状態に近く,伸び率が低いが,未開発産業は同じ能力で実現に努力しても成長率が早く,遅れはすぐ取り戻せるのがものの道理だ。連帯・参加・統合という豊かな人間関係を示す「社会関係資本」(Social Capital)を中核とし地域改革を進めていく。このように日本は,自然や生命との共生を大切にする環境重視形の共生システムを1世紀をかけて構築していく。これにより,新しい関連産業の需要を呼び起こし,1世紀ぐらいは創造・生成が可能となるだろう。再び政治の出番が来ている。政治や官僚共同体は,その流れを作ってほしい。

 90年代には,政治家が何かするより,市場に任せた方が賢明という風潮があった。今回の金融経済危機で,それが「誤」であることがわかり,「重大な政治決定」が必要である。これに関し,中曽根康弘は,「資本主義というのは,自由,想像力がベースだが,さらに『社会性』がないといけない。人間の世界だから,単に理屈だけで動いてはいけない。情理でも動いている。『情の資本主義』というべきものだ。米国流の資本主義が唯一ではない。市場主義は基本線だが,世界は多元的哲学で動いている。」と言っている。これは哲学者スラボイ・ジジェクの思想と一致しており,また,著者の主張でもある。それにつけても思い至るのは,イラク戦争に反対し「人間の顔をした資本主義」を主張し続けたフランス前大統領シラクの信念である。
 日本は大自然に畏敬の念を抱き,「もののあわれ」と「いさぎよさ」の生死観を持ち,さらに自他を超えて「志」に生きる精神を古来から伝承してきた。このような「腹切り」でさえも「様式化」「美化」してしまう感性の国が世界のどこにあるだろうか。

 「信頼」のない資本主義は破局だ。日本独自の「情動的知能主導形の資本主義」に創り直そうではないか!
(2009年2月21日受稿,4月2日受理)

<引用文献および参考文献>
(1)川口勝之,『人間の内面的な感性の表現の研究―脳の情報処理よりみた次期社会の総合システム―』,改訂増補版,創造デザイン学会,2008年
(2)Jean Peyrelevade,宇野彰洋監修,『世界を壊す金融資本主義』(原題:Le capitalisme total), NTT出版,2007年
(3)ロベール・ボワイエ,井上泰夫監訳,『ニュー・エコノミーの研究』,藤原書店,2007年
(4)野口悠紀雄,「一ドル70円もありうる「百年に一度」の経済危機」,「新潮45」1月号,2009年
(5)T.スコッチポル,河田潤一訳,『失われた民主主義』,慶応大学出版会,2007年
(6)山家悠紀夫,『暮らしに思いを馳せる経済学―景気と暮らしの両立を考える―』,新日本出版社,2008年
(7)坂井正康,「草木バイオマスの熱化学的ガス化とメタノール合成技術」,「燃料電池」7巻4号,2008年
(8)安昌歩,『生きるための経済学<選択の自由からの脱却>』,NHKブックス,2008年
(9)ロバートB.ライシュ,雨宮寛ほか訳,『暴走する資本主義』,東洋経済新聞社,2008年
(10)フランシス・フクヤマ,会田弘継訳,『アメリカの終わり』,講談社,2006年
(11)フリーマン・ダイソン,柴田裕之訳,『反逆としての科学』,みすず書房,2008年
(12)川口勝之,『地球の物質・エネルギー循環と人間:地球環境システム設計論』,九州大学出版会,1996年
(13)長谷川崇彦,「アジアと日本の食料・環境安全保障」,「世界平和研究」夏季号,2008年
(14)ローワン・ジェイコブセン,中里京子訳,『ハチはなぜ大量死したか』,文藝春秋社,2009年