モンゴル帝国の宗教政策



韓国・チンギス・カン研究センター所長 パク・ウォンギル



 モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス:「大モンゴル国」の意)は,世界の歴史において宗教問題がほとんどなかった唯一の帝国といえる。それによって世界を抱き込む思想を展開することができ,内部的には開かれた社会の「雑種文化」を創出することができたのである。モンゴル帝国が拡大していくときその周辺地域には,イスラーム,キリスト教,儒教,仏教,道教をはじめとするさまざまな宗教集団がそれぞれ確固たる思想的勢力圏を形成していた。しかし,その確固たる思想圏も「イェケ・モンゴル」(「大モンゴル」の意)の道には少しも支障をきたさなかった。むしろ「イェケ・モンゴル」という新しい血の注入によって各地域の宗教がさらに健全化し,内部的には組織化される傾向すらみせたのである。

 この理由について多くの学者は,まずイェケ・モンゴルの基底思想である北方シャーマニズムの性格から探し出そうとしている。元来,北方ユーラシア民族のシャーマニズムとは,北方ユーラシア民族の認識体系に東西洋の各種宗教と思想が混じり合って作られた一種の雑種である。しかしいくら雑種的性格を持つとはいえ,モンゴル帝国以降のモンゴルの歴史が見せているように,帝国や統治者の確固たる哲学が定立されていなかったならば,特定の宗教による思想的抑圧や政治的混乱がもたらされていたに違いない。

 本稿では,モンゴル帝国成立当時のモンゴル民族の政治思想的な認識体系と価値観を略述した後,モンゴル帝国の4人の大カアン(注1)であるチンギス・カン,オゴデイ・カアン,グユク・カン,モンケ・カアンの宗教関連記録を中心にモンゴル帝国の宗教政策がどのような特徴を帯びていたかについて考察する。

1.13世紀モンゴル民族の政治・思想的

 認識体系

 古代モンゴル族の伝統価値である天(天神)に対する崇拝意識が,チンギス・カンの時代を通じて,人類が追求してきた直接民主主義の実現に最も近い制度を導き出していく過程を考察してみる。モンゴルの祭天行事は「クリルタイ」(注2)と呼ぶが,それは現代における国会と類似した性格を帯びている。そしてモンゴル帝国の支配力の秘密は,軍事力と理想を共同で追求するクリルタイと呼ぶ徹底した民主主義にある。チンギス・カンが残したクリルタイは,事実人類歴史に刻まれた偉大な民主主義の足跡であると看做しても間違いではないだろう。

次に,蒼い天とチンギス・カンの「カン権」との関係を考察してみる。

 チンギス・カンは,それまでの遊牧帝国とは違って天の唯一の代理者として神権と世俗の統治権を同時に掌握していたが,それはシャーマンである「ウスン・エブゲン」「テブ・テングリ」の例から説明できる。このようなことを示す代表的な記録がルブルク著『中央アジア・蒙古旅行記』(注3)であるが,その中に次のような記載がある。

 天には「ムンケ・テングリ」(とこしえの天)があるように,大地には天の息子であるチンギス・カンだけが唯一の君主である。ムンケ・テングリの命令は,チンギス・カンから始まる。

 チンギス・カンが,蒼い天の唯一の代理者として登場してくる過程は,北方ユーラシア民族の哲学思想であるシャーマニズム的認識体系を通じてなされている。チンギス・カンが構築したこの新しい認識体系は,以後,彼を中心として世界秩序が再編されるという点において,人類史に大きな影響を及ぼしたといえる。

2.モンゴル帝国の宗教政策

(1)宗教観

 モンゴル帝国の特徴の一つが,チンギス・カン以来「大元ウルス」を建設したクビライ・カンに至るまで,意図的といわれるほどに,どこの,どのような社会であれ,民衆と宗教集団を組織化し,集団化させているという点だ。このような方針によって,それまで微々たる存在であった各宗教勢力がモンゴル時代に体系的に集団化・組織化されたのである。

 モンゴルの統治者たちは,宗教も一種の政治団体として看做した。それゆえ各宗教および宗派ごとに代表者一人を選ばせたあと,その人物を通してその集団をコントロールしようとした。モンゴルの大カアンたちは,各地の宗教指導者たちとともに宗教政策はもちろんのこと政治問題まで相談した。しかし彼らの内情には少しも干渉しなかった。

 チンギス・カンの「大ヤサ」(注4)に記された宗教関連の内容を中心に見てみる。その11条には,次のように記されている。

 すべての宗教を差別なく尊重しなければならない。宗教は神の御意を奉るという面においてはすべて同じである。

 「大ヤサ」に提示されたチンギス・カンの宗教観は,実際のモンゴル帝国の政治においてそのとおり適用された。その実例の一つとして,ペルシアの歴史家ジュヴァイニー(注5)の『世界征服者の歴史』には,ムスリムたちが「モンゴル人はどのような信仰や宗教にも反対しない。」と記録している点がある。

 またチンギス・カンは,宗教とは個々人の信仰に関するものであって国家が関与する性質のものではないと考えた。チンギス・カンは,貧しい隣人に対して施し与える一種の「奉仕活動」として宗教を看做していたようだ。このような方針に従って,モンゴル帝国においては,どのような宗教であれ,大カアンや帝国に反対しない限り,みな優遇され布教の自由を享受した。また各宗教団体に所属する寺院(修道院・教会)や聖職者に対してはすべて兵役と税金が免除された。

(2)宗教政策

 モンゴル帝国の宗教政策について,歴代の北方ユーラシア民族の伝統的思想であるシャーマニズムと4人の大カアンであるチンギス・カン,オゴデイ・カアン,グユク・カン,モンケ・カアンの歴史記録を通して調べてみた結果,次のことがわかった。

 第一に,モンゴル帝国の信仰的核心であるムンケ・テングリ(とこしえの天)(注6)の出現は,チンギス・カンの権力掌握過程と密接に連携しているという点である。またその論理も伝統的な北方ユーラシア民族の天に対する観念や,キリスト教やイスラームに見られる「唯一の代理者」という観念が,相互に結合した精巧なる構造をもつ。すなわちムンケ・テングリは,北方ユーラシア民族の哲学と唯一神系統の宗教理論が合わさって誕生した絶対的な真理概念とみることができる。

 第二に,ムンケ・テングリ概念が,周辺の諸文明のどのような宗教,学説をも包容あるいは吸収することができるように,弾力的に設定されているという点である。このような概念設定の出発点が,「万物はすべて尊重する価値がある。」という自然法的な認識体系(大ヤサ第16条)に起因しているということはいうまでもない。

 このような概念設定によりモンゴル帝国においては,大ヤサの「すべての宗教を差別なく尊重しなければならない」,「宗教とは神の御意を奉るという面において,すべて同じである」や,モンケ・カアンの言う「すべての宗教は指に過ぎず,その最終的到達点は手のひら(掌)である」という論理が導き出される。これによりモンゴル帝国の大カアンたちは,周辺の宗教および教理に対して寛容的であり,真摯な態度をとるとともに,宗教とは「個人の信仰に関係するものであって,国家が関与する性質のものではない」との立場に立ったのである。

 しかし,このような概念は一方で,大カアンたちの考え方次第によってはどの宗教に対しても介入することのできる余地をも残した。すなわち帝国の大カアンはムンケ・テングリの唯一の代理者であるために,他の宗教の信徒たちが当該地域の宗教・政治指導者によって抑圧や苦痛を受けた場合に,絶対者の名によって自ら「神の怒り」,「神の刑罰」,「アラーのムチ」などの名目を掲げて介入することができたのである。

 チンギス・カン以来,帝国の大カアンたちは宗教解放者や宗教論争の主役として登場した原因も,ここに起因する。カトリックの無条件服従を命令するグユク・カン,モンケ・カアンの手紙,およびチンギス・カンの肖像に敬礼しなかったロシアの大公ミハイルの斬殺事件(注7)もすべてこのような論理によるものであった。

 第三に,唯一神の代理者である帝国の大カアンは,大ヤサに見られるごとく,各種宗教を貧しい隣人に対して施す一種の「奉仕活動」とみなした。このような方針によってモンゴル帝国においては,どのような宗教でも,大カアンは帝国に反対しない限りすべて優遇を受け,布教の自由を享受できた。大カアンたちはムンケ・テングリの存在を強調しつつも,大ヤサ第17条のように各宗教の共存を願ったのは,「チベットの地は支配してもチベット人の心は支配することができない」と言ったクビライ・カンのことばのように,それが最も現実的な方案だと考えたためである。

 最後にモンゴル帝国の宗教政策と関連して,必ず指摘しておくべきことがある。それは帝国の大カアンたちが意図的であるというほどに,各地域の民衆を組織化し集団化させていたという点である(前節(1))。

 各宗教集団は,モンゴル中央政府の支援を得てその本山に該当するところに仰々しい建物を建てることができた。このように総本山が定められ組織が体系化されると,モンゴルの統治者たちは自分の周辺に総本山と対を成す宗教集団の代表部を置くことを命じた。これによってカラコルムやモンゴル帝国の正統性を継承した大元ウルスの大都にはすべての宗教集団や宗派の代表部が置かれたのである。それぞれの宗教指導者たちは,それら両方の地を行き来するように命を受けた。

 宗教に集団概念を設定した後,現実的でありながら弾力性が豊かな措置をとったモンゴル帝国の統治者たちをみると,本当に感嘆せざるをえない。このようなモンゴル帝国の宗教政策は,当時どのような社会変化を引き起こしたのだろうか。

 その最初の変化は,地域と階層を問わずかれらすべてを強く押し付けていた既存の理念からの解放であった。理念が解放されるや,同種交配,あるいは異種交配がさかんになった。異種交配とは,開放性と多様性を滋養分として調和と融合の花を咲かせるというものである。モンゴル帝国の勃興初期から汝と我とを区別しない雑種文化を作り出すことができた理由もここに由来する。雑種文化は,思想・宗教・政治的に常識を尊重する原則を作り出した。すなわち自分の立場からではなく,多様な人間集団における常識である。常識が通じる社会においては,最初から文化や宗教間の衝突が起こりうるはずがない。

3.現代への照射

 われわれは人類史上最初のグローバルな帝国であるモンゴル帝国が構築した理念を「パクス・モンゴリカ」と呼ぶ。パクス・モンゴリカに込められた宗教観は,すべての宗教を差別なく尊重せよというものである。人を理解し寛容に対し,それぞれの目線に合わせていったモンゴル帝国の宗教政策は,今日の人類に多くの示唆を投げかけている。

 モンゴル帝国が歴史から消えてしまった後,後継国家はそれぞれ覇権を争いながら今日に至った。また彼らが残した理念も熾烈な覇権争いに見られるように,妥協とは程遠いものであった。互いに妥協することのできない理念や宗教は人類に毒となるだけであって,救済にはなりえない。人類歴史は,一方が他方を支配,あるいは抹殺するとき,人間性は破壊され文明は病むという事実を繰り返し見せている。

 妥協することのできない理念が作り出したものがまさに文明の衝突である。理念の衝突は,各文明圏に無数の殉教者を生み出し,互いの共存が不可能な憎悪の段階にまで発展していく。これは地球村の未来に決して望ましいものとはいえない。事実,世界には完全に孤立し,独自的に自分のすべての歴史を明確に説明することのできる民族や宗教は存在しない。したがって懸案の問題を智恵深く解決するためには,過去の歴史をさかのぼってみる必要がある。

 謙虚な姿勢で,周辺の文明のよい点を学ぶことのできる民族や国家こそが,生命力と創造力が最も豊かであるといえる。前述のモンゴル帝国の場合がまさにそれであった。このためなのか,モンゴル帝国の宗教政策は,今日どの宗教の誰の目から見ても,非常に驚異と思われるほどに理解と寛容の精神があふれている。事実,人類史にこのような宗教寛容および相互理解の時代があったということが,新奇に思われるほどだ。したがって今日の人間もモンゴル帝国が残した平等と尊重の宗教観を意義深く吟味してみる必要がある。

 人類史において世界宗教の十字路に位置したモンゴル高原は,宗教史的な立場からながめたときに,それなりのバランスの取れた役割を遂行してきたとみることができる。同時に各地域の理念が排他的に流れれば流れるほど,却って全体の均衡を取り戻そうとする恒常性(ホメオスタシス)が雑種文化の形として,常にここで胚胎され周辺に拡散していった。現代の収拾不可能な宗教的偏見と葛藤は,モンゴル帝国の宗教観を反面教師とすれば,モンケ・カアンのことばのように「難しさを易しさに,遠きを近きに」変えることによって解決することができるかもしれない。

(2008年9月7〜11日,モンゴル・ウランバートルにて開催された「UPF国際指導者会議」および「MPFWP世界総会」において発表された論文を整理して掲載)

注1 カン(ハーン)

 ハーンは,北アジア,中央アジア,西アジア,南アジアにおいて,主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガンはその古形である。柔然によって草原に広められたカガン号は,やがて柔然から独立して北アジアの覇権を奪った突厥の君主号として採用される。これ以降,テュルク・モンゴル系遊牧民の君主称号として広まっていく。やがてカガンはつづまって,チュルク語ではハン,モンゴル語ではカンと発音されるようになった。

 12世紀のモンゴル高原では,カンはモンゴル,ケレイト,ナイマンなど部族の王が名乗る称号であり,モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンも,彼の在世当時はチンギス・カンと称されていた。しかし,チンギス・ハーンをついでモンゴル帝国第2代君主となったオゴデイは,おそらくモンゴル帝国の最高君主が他のハン・カンたちとは格の異なった「皇帝」であることを示すために,古のカガンを復活させたカアンという称号を採用し,のちにモンゴル帝国の最高君主が建てた元王朝もカアンの称号を受け継いだ。これに対して,モンゴル帝国西部のチャガタイ・ウルス,ジョチ・ウルス,イル・ハン王朝の君主は,モンゴル語で「カン」と名乗った。こうしたモンゴル帝国の諸王の「カン」がペルシア語の発音によって,アラビア文字使用圏では最終的にハーン,ハンという形で定着した。またモンゴル帝国のカアンを「大ハーン」「大カアン」と呼ぶこともある。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)

注2 クリルタイQuriltai 

 チュルクおよびモンゴル諸族など北アジアの遊牧民族が,政治・軍事の全部族的重要問題を決定するために行った集会。首長の死にあたっての後継者選び,遠征の決定,法令の発布などを議題として,各氏族の代表が参加した。とくにモンゴルでは1206年チンギスをカンに推戴したクリルタイ以降,部族連合的なものから国家的性格を帯びるようになった。この名の由来はチュルクおよびモンゴル語共通の<集まる>という意味の語幹<クリ>,<クラ>などに発し,春から夏に開かれ,弓射,馬術,相撲なども競われた民俗行事であった。(小松久男他編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社,2005年参照)

注3 

 原題はThe Journey of William of Rubruck,邦語訳は『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳,桃源社,1979年)。ルブルク(1220?-93?年,フランス語表記Guillaume Rubruquis)は,フランチェスコ修道会のフランス人修道士。第7回十字軍を率いてキプロス島に滞在していたフランス王ルイ9世は,1249年に東西よりイスラーム勢力を挟撃する提案を携えたドミニコ修道会のアンドルー修道士らをモンゴル帝国に派遣した。この目論見は不調に終わったが,次いでキリスト教の布教を目的としてルブルクら3人を派遣した。彼らは1253年の初頭に出発し,クリミア半島からバトゥの本営経由で,同年12月27日にカラコルム南郊のモンケのオルドに到着した。ルブルクが伝道の許可を求めたのに対し,モンケは彼らをフランス王からの服従の使者とみなした。ルブルクは6カ月あまりの滞在の後に,モンケの親書を携えてカラコルムを出発し,バトゥのオルドを経てカフカースを越え,55年8月15日レバノンのトリポリに帰着した。ルイがすでに帰国していたため,そこで作成された復命書(「旅行記」)には,カラコルムの様子をはじめ旅の終始や往復途中の豊富な見聞が,透徹した鋭い観察を通して詳細に記されている。誇張や曲筆はほとんど見られず,13世紀のモンゴルと中央ユーラシアに関するきわめて貴重な記録となっている。(小松久男他編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社,2005年参照)

注4 大ヤサ

 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンにより制定され,さらには成文化されたといわれる法律。<大ジャサ>ともいう。<ジャサ>はモンゴル語の発音に基づく表記で,ウィグル語やペルシア語などの西方文献では一般に<ヤサ>と表記される。諸資料中にその存在が示唆される<大ジャサの書>も今日に至るまで発見されていない。ジャサの条文とされるものは,イル・ハン国期(1256-1336)のペルシア語文献,およびこれと境を接したマムルーク朝(1250-1517)領内で作成されたアラビア語文献中に,断片的なものとはいえ,ある程度まとまった形で見いだされる。けれども,これらの断片からジャサがどのような性格の法律であったのかという問題につき,研究者間では統一された見解が導き出されているわけでもない。(小松久男他編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社,2005年参照) 

注5 

 ジュヴァイニー(Ala al Din Ata-Malik Juvaini,1225-83年) 13世紀後期にモンゴル帝国,イル・ハン朝に仕えた政治家・歴史家。歴史書『世界征服者の歴史』の著者として知られている。なおアラビア語の読みに従ってジュワイニー(Juwaini)と音写される場合にもある。『世界征服者の歴史』は全3巻で,8年の歳月をかけて1260年に完成した。(フリー百科事典「ウィキペディア」より) 

注6 

 テングリTengri/Tenggeri テングリという言葉を北アジア騎馬遊牧民族の間で絶えることなく継承・存続させたのは,同一の自然環境に根ざしたシャーマニズムとそのシャーマニズムに伴う世界観のためだったと考えられる。それはこの言葉は神と神の居住する世界の二つの概念をあらわしてきたからだ。匈奴以後,チュルクやウイグルなどの騎馬遊牧民族もテングリという言葉を神と天上界の二つの概念で使っていたことが文献資料によって確認される。そして,モンゴルはテングリという言葉を同じ二つの概念で今も使っている。例えば,「天上には神」という表現には,テングリに含まれる二つの概念そのまま反映されていると思われる。ゆえに神の概念で用いられるテングリを天の神あるいは天神と理解した方が適切であろう。 またモンゴル人は,現在でも社会的に尊敬される人物が亡くなると「テングリに昇った」(=天上界に昇った),「テングリになった」(=天神になった)と言う。歴史的にみると,チンギス・カンの亡くなったことが『モンゴル秘史』に「天上界に昇った」と表現されている。ゆえに,北アジア騎馬遊牧民族の間で使われてきたテングリという言葉を単に天神と理解するだけでは不十分であり,天上界の概念も含まれていることに注意しなければならない。(ソーハン・ゲレルト「モンゴル帝国時代におけるハーンたちの世界観について」参照)

注7  

 キプチャック汗国は,モンゴル支配の初期には諸公に対して有無を言わさぬ態度をとった。100年間で20人以上の公が殺され,モスクワ公,スーズダリ公,リャザン公などが人質を差し出さねばならないこともあった。その例として,あくまでモンゴルに楯突いた南西ルーシ諸公の一人,チュルニーゴフ公ミハイルの例がある。ミハイルはバトゥの遠征の際東欧に逃亡したが,1246年,所領を安堵してもらうため,バトゥのもとに出頭した。プラノ・カルピニによると,以下のような出来事が起こったという。 「ロシアの大公ミハイルがやって来てバトゥを訪問したとき,タタール人が彼に,まず火と水の間を通らせ,そのあとで南面して(君子は北面し,臣下は南面す)チンギス汗の像に礼拝するように言った。ミハイルは,バトゥとその従者たちには喜んで礼をするが,すでに死んだ者の像には頭を下げない,なぜならキリスト教徒がそんなことをするのは許されないからだ,と答えた。…そこでバトゥはその従者の一人を遣わしたが,彼はミハイルの腹部を心臓に向かってけり続けたので,とうとうミハイルは弱りはじめた。…」 あくまでバトゥに逆らったミハイルは,この行為を勇気づけた兵士フョードルとともに,この後小刀で首を切り落とされてしまった。(http://www.educ.cc.keio.ac.jp/~te04811参照)