アメリカ先住民の精神文化

――循環と調和の思想


立教大学教授 阿部珠理



 2009年,米国において初めてアフリカ系のオバマ大統領が誕生して世界の関心を集めた。「人種のるつぼ」といわれる米国には,黒人以外にも多くの少数民族がいるが,とくにアメリカ先住民部族(連邦承認部族)が560以上もいることはあまり知られていない。また,米国のオクラホマ(「赤い人」の意),カンザス(「南風の人」の意),ダコタ(「同盟」「仲間」の意)などの州名はアメリカ先住民語に由来するもので,全米50州のうち半数にそのような名残がある。彼らの歴史は悲哀に満ちた歴史でもあったが,彼らが培ってきた伝統的思想や精神文化は,行き詰った近代文明に示唆を与えてくれる可能性を秘めているように思う。

 そこで本稿では,アメリカ先住民の歴史を簡単に振り返りながら,彼らの精神性・思想の一部を紹介してみたいと思う。

1.アメリカ先住民の歴史

(1)北米先住民と白人との出会い

 大航海時代を中心とする近代ヨーロッパ社会の幕開けの時期は,ヨーロッパの先進諸国が植民事業を手がけた時代であった。とくに北米大陸の植民地化は,スペイン・ポルトガル・オランダ・フランス・イギリスなどヨーロッパ諸国がこぞって進めたが,最終的には英国が覇権を確立した。

 通常北米にやってきた英国の植民団を起点として考えた場合には,1620年のメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズが最初だと思われがちだが,実は,1607年にジェームズタウンにやってきた植民団が第一波であった。その前にも1580年代にエリザベス女王の恋人といわれたウォルター・ローリー卿(Sir Walter Raleigh,1552 頃-1618年)がロアノーク島に植民事業を展開しようとしたが失敗し,その後植民事業に成功したのが,1607年のヴァージニア会社によるヴァージニア植民地建設であった。

 ディズニー映画「ポカホンタス」でキャプテン・スミスとインディアンのお姫様のポカホンタス(Pocahontas)の物語が作られた場所がジェームズタウンであった。ポカホンタスが植民者の船長ジョン・スミスと恋愛関係になるという話は神話であるが,実際にはジョン・ロルフという植民者と結婚した。アメリカ先住民がはじめて白人(イギリス植民団)と対峙し接触した場面では,大きな価値の衝突があったと思う(注1)。

 白人の西洋的価値観とインディアンのそれとははなはだしく違っていた。とくに自然に対する考え方が大きく違っていた。インディアンは,ヴァージニアという豊饒な土地で狩猟もしながら農耕を営み,自然共生的な生活をしていた。例えば,農耕の方法一つをとっても,土地を深く耕さずに土壌侵食が余り起こらないような自然共生的配慮がなされていた。農耕は部族の共同事業なので個人が土地を所有するという発想はないし,部族長が所有するという発想もない。部族共有という言い方も適切ではなく,恵まれた土地(自然)に活かされているという発想であって,一種の共同体が機能していた。

 漁撈や狩猟にしても,自然を荒らすことなく自然共生的な食料採取の方法をとっていた。また,木を切るときには,その前に祈ったり,儀式を執り行ったりした。自分たち人間も自然の一部であることを絶えず認識しながら生きていた。

 そこに白人がやってきては,森を開墾し農耕地を拡大し,土地に関して自分の個人所有を明確化するために柵を作って土地を囲い込み始めた。インディアンは柵を見るのは初めてで,なんでこんなものを作るのかと疑問に思ったようだ。「柵を作る」という行為そのものが,両者の価値観の相違を象徴していた。

しかしその初期においてインディアンは,マサチューセッツ,プリマス,ジェームズタウンなどで比較的友好に対応した。すなわち,インディアンは白人を敵対者とは考えず,むしろ来訪者/客人(guest)と考えたふしがあり,彼らを追い払おうとはしなかった。その具体的なあらわれが,感謝祭の逸話だ。

 米国では毎年11月の第4週に多くの人々が感謝祭を祝うが,その食卓に出される七面鳥,コーン・ブレッド,カボチャのパイが,もともと先住民の贈り物であったことを知る人は少ない。感謝祭は,清教徒たちが初めての収穫物を神に感謝したのがその始まりではあるが,その地の先住民が彼らに,トウモロコシ,カボチャやジャガイモの栽培を手ほどきしたのであり,また第1回の感謝祭の折,招かれたワンパノグ族の長マサソイトが手に携えてきたのが七面鳥であった。

 しかし,ここでの平和も長続きしなかった。1620年に101人で始まったプリマスのコロニーは,1675年には約5000人となり,東部の白人人口は4万人を数えていた。白人たちは入植しだすと先住民の生活圏や狩場を柵で囲い,自分たちの土地だと宣言するので,元の土地に戻ろうとする先住民たちを不法侵入者とみなして容赦なく危害を加えた。その結果,先住民たちは危機を感じて戦いが起きるようになった。ワンパノグ族長マサソイトの息子キング・フィリップは,他の諸部族との連合を組んで善戦したものの圧倒的な白人の武力に敗れた。

 英国での迫害を逃れて新大陸に理想の神の国建設を目指した清教徒,美化されてピルグリム・ファーザーズと呼ばれた彼らの息子たちは,キング・フィリップの死体を切り刻み,その首をプリマスの広場に25年の長きにわたってさらした。そして彼らは「異教徒の悪魔たち」を地獄に送り込めたことに対する神への感謝の祈りを忘れなかった。

 戦いばかりではない。旧大陸から持ち込まれた天然痘や麻疹など,種々の病原菌が免疫のない先住民を直撃し,それによって全滅した部族もあった。例えば,1663年の天然痘の流行では,先住民村落の死亡率は95%に達し,17世紀初頭からの75年間で,ニューイングランドのインディアン人口は,7万人以上から1万2000人以下へと激減した。

 東部で植民地建設を進めるイギリス植民者,清教徒たちは,無人の先住民集落の畑にたわわに実ったトウモロコシを見つけては,「神の恩寵」に感謝した。彼らは新たな耕作地をわがものにするために,先住民集落を侵略し,追い立てては土地を奪取した。彼らはこれを「清掃」(clearance)と呼び,「神は病原菌を遣わし,清教徒が自らの手を汚すことなく土地を空けてくれた(clear)」と考えた。このようにピューリタンたちは,「神から選ばれた者」の自覚を持ち,理想の神の国を建設するためには,自分たちのあらゆる行為は正当化されると信じたのだった(注2)。

セネカ族長のレッド・ジャケットの次のことばは象徴的である。

「白人たちは,邪悪な人を避けて自分たちの国から逃れてきたと語り,自分たちの宗教を自由に信じるためにこの地に来たのだと言った。彼らは小さな居場所をくれるよう頼んだ。われわれは憐れんでその乞いをいれた。そして彼らはわれわれの中に落ち着いたのだ。われわれはトウモロコシと肉を与え,彼らはお返しに毒をくれた。」

(2)西部開拓の光と影

 白人たちは自分たちが文明的にも優位であると考えて,先住民を野蛮人,未開人と見下した。それゆえキリスト教徒である自分たちがこの新天地の主人になるのは当然だと考えた。先住民がいた大陸に後からやってきたのに,土地の耕作者に所有権が帰属するとし土地の奪取を正当化した。

 その後18〜19世紀に白人たちは西部開拓,フロンティア西漸を進めたが,先住民の側からそれを見るとその動きはまさに過酷な歴史以外の何ものでもなかった。すなわち,自分たちの生活圏が故なく奪われていく歴史であった。西部開拓史は,独立独行の農民たちが自助努力をして自分たちの土地を獲得していくというアメリカン・ドリーム実現の美談であるが,それを裏返してみれば,米国の繁栄とは先住民の不幸の上に成り立っているともいえるわけだ。

 米国は19世紀末には世界の冠たる資本主義国になりつつあったが,国の富,個人の自由が非白人の不幸によってあがなわれたという歴史でもあった。その非白人とは,黒人と先住民であり,南部プランテーションの成功は,黒人奴隷の搾取によるものであった。

 米国の独立宣言には「すべての人間は神によって平等に創られ,一定の譲り渡すことのできない権利が与えられており,その権利の中には生命,自由,幸福の追求が含まれている」と謳われているが,その「人間」にはインディアン(先住民)も黒人も含まれてはいない。平等観にしても真の平等観をもっていたわけではなかった。白人優越主義の思想の上に立って,黒人を搾取し,先住民から土地を奪取しながら発展していった。米国の理念と現実には大きなギャップがあった。

 しかしアメリカ建国を見る19世紀になると,白人たちが西部開拓で先住民の土地を取っていくにしても一応合法的に取って行く必要があるので,形式上は先住民たちと土地割譲のための条約締結という形で進められた。条約を結んで進めたと聞くと合法的で公正な手続きによって拡大したような印象がある。しかし当時の実情をよく考えてみると,そうとは言えない。

 先住民たちはすでにマイノリティに転落しており,白人たちとは力関係で相当な差が生じていた。先住民の人口も,白人たちの到来によって伝染病がもたらされ相当の人数が死亡して激減していた。またインディアンの側でも,各部族がなかなか大同団結できずに連合もうまくいかず,個別部族と合衆国との間の交渉にならざるを得なかった。

 そうなると劣勢なインディアン部族集団に対して合衆国の方が圧倒的な力を持ち,武力を背景にした交渉となると,各部族は合衆国の要求を蹴ることはできない状況であった。つまり,条約を拒否して戦争になった場合に,武力でもって奪取されてしまうことは眼に見えており,結局は拒否できない立場であった。しかも不正な交渉が行われ,非常に少ない見返りで土地を譲渡することもしばしばであった。

 1830年代に庶民階級で南部出身の初めてのアンドリュー・ジャクソン大統領(在位1829-37年)が誕生したが,彼の政治については「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれるほど,民主主義の主唱者として評価の高い人物であった。彼は土地を植民団に提供したが,インディアンから民主的とは到底いえないような方法で土地を奪ったのだった。

 例えば,南部にいたチェロキーやチカソなどの部族は(白人から)「文明5部族」と呼ばれ,農耕を行いながら白人に近い生活をしていた。彼らは非常に肥沃な土地であるミシシッピー川の東部に住んでいたが,この土地を植民者に開放しようと考えたジャクソン大統領は,彼らをミシシッピー川の西側に強制移住させた。このときにオクラホマ州のインディアン・テリトリが設定された。白人にとっては民主主義であっても,先住民にとっての「ジャクソニアン・デモクラシー」は民主主義的なものではなく,むしろ欺瞞的なものだった。

 この強制移住は「涙の旅路」と呼ばれている。真冬の最中に1万3000キロにも及ぶ道のりを徒歩で強制移住させられたために,その過程でインディアンたちの三分の一が亡くなった。亡くなった死体を道に置き去りにしながらの旅路であった。形式上は,条約の形がとられたが,そのなかみは全く強制的なものであった。

 また条約は白人側によって一方的に破られることがしばしばであった。ラコタ族の歴史は,まさに合衆国の裏切りの歴史であった。1868年のララミー砦条約によってかなり広い保留地を獲得したものの,その後白人側の度重なる条約改悪によってなし崩しにされて,現在のような狭い保留地になってしまった。かつての大スー保留地は,サウス・ダコタ,ノース・ダコタの一部,ワイオミングの全域,ネブラスカなどに及ぶ広い地域であったが,現在では点在する小さいものになっている。合衆国の論理では「合法的」なのだが,実際はそれとはほど遠いものであった。そして19世紀末にはインディアンは完全に抵抗の芽を抜かれたのだ。

(3)揺れる先住民政策

 20世紀以降の合衆国の先住民政策は,一貫したものではなかった。それを象徴するできごとが,第一次世界大戦におけるインディアンの積極的な志願兵応募であった。当時,インディアンなどの先住民は一部を除いて大半は合衆国の「市民」ではなかったので,徴兵することは合法的とはいえない。ところが,結果的には徴兵入隊と志願入隊を合わせて1万7000人ものインディアンが戦列に加わったのである。それまでの苦難の歴史を振り返ればインディアンたちが合衆国のために志願するのは実に不思議なことである。その最大の要因は,経済的利点であったと思われる。それは保留地に押し込まれてからの先住民の生活は非常に苦しかったので,志願期間に軍人給与をもらえる点は大きな誘引であった。

 彼らの戦争における活躍は,彼らの「愛国心」の評価となって,戦後大統領が感謝状を奉呈したりと米国社会は公的・私的に戦争協力を顕彰した。しかし,現実には非市民のインディアン復員兵に対しては,復員一時金も軍人年金も支払われることはなかった(その後,このことが社会問題となりさまざまな団体の後押しなどの助力を得て,非市民のインディアン復員兵にも市民権が与えられるようになったが)。

 合衆国の先住民政策の大きな転換が行われたのは,1930年代であった。インディアンに理解のあるジョン・コリアーが内務省インディアン局長に就任した。それまでの先住民政策の基本は,部族社会を解体し主流社会に同化するというものであったが,コリアー局長は部族共同体再生という政策に転換した。すなわち,先住民の自治組織を作り,そこから部族議会が生まれていった。

 その後1950年代になると再び同化路線(relocation)に逆戻りした。すなわち,保留地を出て都市に定住するように勧めたのだ。さらに60〜70年代になると公民権運動に刺激される形で,先住民たちも自ら運動を起こして,インディアン文化の再生,部族社会の自治回復,権利の復権などを主張し始め,そして現在に至っている。

2.先住民思想とその精神世界

(1)自然観と循環の思想

 アメリカ先住民の各部族は,それぞれ異なる文化的伝統を持つが、その根源にある自然観には共通するものがある。すなわち,自然と人間とは親和的関係にあり,人間も自然と共生していく,人間は自然の一部にすぎないとする考え方である。彼らは,自然を征服・支配するという考えを最初からもっていなかったと思う。自然には,鳥は鳥として,水は水として,木は木として,それぞれの働き・営みがあり,人間には人間としての営みがあるが,それらは全体として相互に助け合い,つながって宇宙という大きな調和を生み出している。それゆえ自分たち人間は自己中心的な行動を取ってはいけないと考えた。

 生物は他の何らかの生命につながって生きている。全体が相互に生命依存しているので,何も犠牲にせずに生きるという生き方はありえない。それゆえそこではどれだけ「ご迷惑」をかけないかという点が重要になる。むやみやたらに他の生命を取らないことが大切なので,(食物になる)バッファローだって取りつくさない。

 一般にベジタリアンの人たちは,動物と植物の命を比べて動物の命の方が尊いと考えている。その理由を問えば,動物の方がより人間存在に近いからということであろうか。しかし,このような発想は本当の意味の平等主義とはいえない。インディアンにとっては,その辺に生えている草だって,バッファローと等価な命であり,植物と動物との間に線引きすることはできない。先住民にとっては,人間も大宇宙の生命連鎖の円環に位置する一つの生物に過ぎないのだ。そこには自分の命を永らえていく程度の殺生はあり得るのだが,それでも相互の命は等価で大切だと考える。さらに言えば,その命には水や石など無機物も含まれる。

 これらの概念は,つながり,循環,調和という言葉で表現できる。とくに共生社会ではつながりが重要であるが,ラコタ語には「ミタクエオヤシン」(「すべて私の親族」「私につながるすべてのもの」の意)という言葉がある。それは血縁を超えて,すべての人,すべての命はつながっているということである(注3)。

 これに関連して「拡大家族」(ラコタ語で「ティオシパエ」という)という考え方は非常に興味深い。その考えによれば,母親の姉妹がすべて母で,同様に父親の兄弟はすべて父親となる。その範疇外の人は叔父・叔母となる。また自分が,父・母と呼ぶ人の子どもはすべて兄弟で,叔父・叔母の子どもは従兄弟姉妹である。

 さらに拡大家族は血のつながらない他人との「縁組み」によってさらに拡大していく。儀式を通じて正式に家族のメンバーになれば親族同様の扱いを受けることになる。それゆえラコタ族に限らず,先住民社会には孤児はいないといわれる。今日的に表現すれば,セーフティネットが張られている社会といえる。

 皆が輪になってつながっているという認識が根底にある社会では,われわれの社会にあるような序列意識や階層意識は希薄で,年老いた者たちには敬意が払われるのが一般的だ。それは彼らが長年ラコタの教えを体現してきた智恵ある者たちであるからだ。しかし,智恵の体現如何にかかわらず,そこにはもう働くことができないという意味で社会的弱者である彼らに対するいたわりの心がある。

(2)メディスンマン

 アメリカ先住民の世界は,西欧社会では無生物だと考えられている石や山も含めて,すべてのものに命を感じる一種のアニミズム的発想を持つ。それぞれの命の価値は等価であるが,しかしそれぞれの持ち味はみな違う。その持ち味のことを英語で「メディスン」と表現する(ラコタ族では〈ワカン〉,オマハ族では〈ワコンダ〉などと表現)。ことに生物は,それぞれ特殊なメディスンを持っていると考えられ,それによってお互いの存在を補完し合う。そこには他の存在のために命を差し出すことも含まれる。

 例えば,ラコタ族はバッファローを主食にしていたが,そのときバッファローはラコタ族を生かしているので,バッファローはラコタ族にとってのメディスンとなる。バッファローは人間の命をながらえるために必要な存在だからだ。とくにバッファローは,与えつくしの精神の象徴であり,他の生存を左右するほどの強いメディスンを持つ。

 メディスンは別のことばで言えば,「癒し」というコンセプトにもなる。それはまた精神的な意味のみならず,物理的な意味ももつ。生命体がその生命の存続に必要なものは,すべて「メディスン」になり得る。各存在はみな違ったメディスンを持つので,不足なものを供給しあいながら相互補完する関係にあり,その全体を包括すれば調和となる。それは人間同士だけではなく,人間と動物・植物,植物と動物などさまざまな関係も同様だ。

 ここで「メディスンマン」(注4)と言った場合には,各部族のシャーマン的存在で,祈祷師,医師,聖職者,預言者などの役割を備えた存在となる。具体的には病気やけが,精神的癒しも含めて,人を癒す能力をもつ存在である。病気のある人に対して,病気治癒のために薬草や水などふさわしいメディスンを処方する。

 メディスンマンは,そのとき彼らの神様である「ワカンタンカ」(Great Spirit)から啓示を受けてその行為を行う。つまり一種の霊能者でもあるわけだ。「ワカンタンカ」はキリスト教のいうGodではなく,世界の調和を保つ大エネルギーのような存在だが,メディスンマンはワカンタンカと交信できる。

 ときには癒しの儀式を行う。例えば,西洋式治療では見放されてしまった重病患者が,メディスンマンに儀式を依頼する。するとメディスンマンは,これだけの供え物をもってくるように指示する。メディスンマンはワカンタンカと患者をつなぐ役割を持ち,儀式を通してその患者を助けてくれるようにワカンタンカに懇願する。するとワカンタンカは,具体的な指示を与え,具体的な癒しを行う。

メディスンマンの能力は,個人の努力によって獲得したものではなくワカンタンカから授けられたと考えられ,それを自分のためだけに使うこと,独占することを非常に嫌い,すべての存在が調和のうちに共生するよう使われるべきだと考えられている。そのため癒しに対して報酬を求めることをしない。

(3)ギヴ・アウェイ(give away)

生きとし生けるものがつながっているという先住民の精神世界のコンセプトは調和と循環だが,生命連鎖の輪として考えてみると,それぞれが互いに寄りかかりながら円環状につながっている。そしてそれぞれに必要なものは,その輪(聖なる輪=メディスン・ホイール)の上をぐるぐると回っていると考える。それは現代的言葉で表現すれば,自然の物質循環である。

この「循環」の具体的実践が「ギヴ・アウェイ」(ウィイェスペ)という儀式である。かつて先住民の生活に現代のような消費経済が持ち込まれていなかったころ,彼らに必要なものはギヴ・アウェイを通して循環していた。

ギヴ・アウェイは文字通り,与え尽くし,持っているすべてのものを人々に与えることを意味する。ラコタには寛大さを美徳とする伝統があり,気前がいいことが非常に高い価値をもつ。ここには精神的な意味のみならず,物質に対する執着のなさ,ためこまないこと,所有物を気持ちよく手放す太っ腹な態度の意味もある。「精神は体現されてこそ精神性となる」という彼らの合理性は,ギヴ・アウェイにもっともよく現れていると思う。

ギヴ・アウェイとは,ものをあげる非日常的な儀式である。かつては人生の節目,例えば,少女が初潮を迎えたとき,息子が戦争から無事に帰ってきたとき,大切な人が死んだとき,死後1年目の喪が明けたときなどに行った。ギヴ・アウェイを周囲の人に知らせると,いろいろな人がやってくるが,それらの人すべてにものをあげる。貴重な品から日常品まで実にさまざまなものがあるが,彼らの説明では必ず全部にいきわたるようになっている。そしてこのような行為を次々に繰り返していくと,ものは人を介して循環していく。これはまさに「循環経済」というべきものだ。

ラコタの人たちは,「贈り物をもらったら,それがまた他の誰かに贈られるまでは,本当の贈り物にはならない」という。自分にとって大切な物こそ,人への素晴らしい贈り物となるのである。

さらに言えば,どれだけ吐き出したかが評価の対象となる。吐き出せば吐き出した分だけ,ものが循環する。当時の生活のあり方と彼らの価値観の残存物が,ギヴ・アウェイという儀式だと思う。彼らの社会は見るところ貧しいけれども,必要なところに必要なものがきちっと回っていっているという印象がある。「必要なものだけをもてばいい」という価値観は,現代の先進諸国のようにどれだけものを所有しているかで評価されるような社会とは対極にある考えだが,有限な地球での豊かさを考える上で参考になる見方だろう。

(4)ビジョン・クエスト

先住民の文化は,「ビジョンの文化」ともいわれる。ここでいうビジョンとは,幻視,天啓のようなものだ。メディスンマンは霊能者であるから,幻視や天啓を受けることができるが,一般の人も人生のある時期に,自分の進むべき道,自分のメディスンとは何かを求めてビジョンを求めること(vision quest)がある。ビジョンを求める旅に出かけると,3〜4日間食べるものも食べずに,裸姿で人里離れた聖なる場所にこもり,祈りの歌を歌いながら求めていく。

そのとき飢えや乾きも辛いらしいが,最大の敵は孤独感であるようだ。夜の山中はまた不気味である。コヨーテの鳴き声が間近に聞こえ,自分が人生で避け続けてきたことがらや人がおぞましい幻影となって襲ってきたりするという。それらに打ち勝つ勇気が試されているのだ。

そのような体験の中である種の超常現象のようなことが起きて,ビジョンが与えられる。例えば,既に他界したおじいさんが眼前に現れて座していた,オオカミ男が現れて話しかけたなどと,その人にメッセージを伝えてくれる。

しかしそのメッセージは,大半シンボリックなものでそのままでは意味が分からないので,メディスンマンに伝えると彼が解釈して教えてくれる。現代では,このようなビジョン・クエストを行う人は非常に限られていて,伝統文化復興に熱心な人が実践しているくらいだ。考えてみれば,どの民族にも人生の節目にさまざまな通過儀礼(イニシエーション)があった。日本で言えば,元服の儀式もその一つかもしれない。

(5)魂を尊重する社会

 先住民社会は,全般的に平等社会を実現していたといわれる。例えば,部族連合の議論では,多数決で決められることはなくコンセンサスが得られるまで話し合いが続けられた。それは彼らが調和に極めて重要な価値を置いていたからである。すなわち多数決での決着は,敗者の気持ちをくすぶらせ,その精神を陰らせるためにそれがマイナスのエネルギーとなって社会のバランスを狂わせ調和を乱すと考えたからであった。

 また調和に満ちた社会は,誰の魂も虐げることはないと考えた。先住民社会で体罰が忌避されるのは,体罰によって傷つくのは身体というよりは魂であり,傷ついた魂からは自由で自立した人間は生まれないと考えたからだ。西洋人が植民者としてやってきたときに彼らが子どもたちに体罰を与えている姿を見て驚いたとの記録も残っている。

 現在ではそうした考え方はだいぶ衰えているとはいえ,それでもその伝統は残っている。彼らには,子どもの自主性を大切に考えてあまり指示せず,じっくりと待つ姿勢がある。例えば,おむつを取る時期が遅いことにもそれが現れている。型にはめようとする教育が盛んな現代にあって,その人の持つメディスン(よさ)が自発的に出てくるのを待つ姿勢は示唆的である。

3.最後に

 先住民問題は支配と被支配の構図が最も凝縮して現われており,近代社会のもつ普遍的な課題を示していると思う。近代の「進歩」した社会が,その尺度で進歩していない未開の社会を支配し抑圧し,彼らの生活を変えてきた。一つの価値が別の価値を抑圧・無視し続けてきた歴史であった。しかしさまざまな文化的背景を持つ諸民族は共生していかなければならないわけであるから,価値の学びあいが必要だ。西洋が考えた価値の序列化,これは近代の病だと思う。それを鏡に映してあからさまに見せてくれるのが,先住民問題なのである。

 また,100年を超える保留地生活の過程で,アメリカ先住民の生活様式は移動から定住へ,自給自足から依存型生活へと一変した。かつての生活基盤は失われ,自立の基礎は奪われた。それでもなお彼らの伝統の中の,もっとも良質で最も美しい部分は失われていないと思う。私はこれまでのフィールド調査などを通して,先住民たちが貧困の中にありながらもどこか鷹揚な生き方,言葉で示すのではなく行為で示す温かさ,彼らが体得した癒しの智恵,所有の多寡や知識の優劣で判断することのない価値観などに触れてきた。それらは現代社会の価値の対極にあるものだろうが,それらは現代人の良心に強く訴えかけてくるものがあるように思う。

 先住民の自然観,家族観,教育観,共同体についての考え方など,近代社会で失ってしまった大切なものが,いまもなお先住民社会の中に残っている。例えば,先住民の自然観は米国の環境保護運動に思想的なバックボーンを提供し,環境意識の高揚に大きく貢献した。今日叫ばれている「ディープ・エコロジー」や環境倫理学は,実は先住民たちが伝統的に実践してきたものだった。彼らはそれを自然の法則の中から編み出していったのだと思う。もちろん社会の規模が小さかったから可能であったわけだが,しかし,それを一つのモデルとして今日に応用することは十分可能だろう。そしてそれを世界に拡大していけば,真の平和世界が実現していくに違いない。そうしたことを教えてくれるのが,先住民の精神世界なのである。

(2008年12月12日話,2009年2月7日記)

注1 バージニアで移民たちを迎えたのは,ポーハタンというその地に住む数部族の連合で,その長も同様にポーハタンと呼ばれていた。入植者は1607年から3年間で900人に上ったが,1610年には生存者は150人にすぎなかったと言われる。その飢餓から救ったのは,他らならぬポーハタンであった。白人たちが略奪に及ぼうとしたとき、ポーハタンは「あなた方は,友情によってわれわれから得られるものを,どうして力ずくで取ろうとするのか」と言ったという。事実ポーハタンは,トウモロコシを始めとする食物を与えたのみならず,その栽培方法を教え,困窮の「友」を助けたのである。そればかりではない。綿花にとって代わられるまで,旧大陸への輸出品のドル箱であったタバコの栽培も,実は先住民から学んだものだった。1618年のポーハタンの死とともに,短い平和の時代は終わる。1644年の,ポーハタンの弟オペチャンカヌウの再決起とその敗北は,侵入者のその地の支配を決定的なものにした。(阿部珠理『アメリカ先住民の精神世界』NHKブックスより)

注2 大航海時代にはヨーロッパ列強が発見した土地に対する所有権をめぐって,「発見者の権利」と「先住者の権利」の論争があった。とくにスペインの法学者セプルベダの「発見者の権利」の主張(ある人間は先天的奴隷人として生まれるというアリストテレスの先天的奴隷人説をアメリカのインディオに適応して,征服を正当化し,インディオは優越者スペイン人の「生ある所有物」であり続けると主張)を踏襲したと思われるのが,ピューリタンたちであった。彼らの見方によれば,インディアンは奴隷というよりは「悪魔の子」であるから一掃されるべきであり,残った土地は優越者の所有に帰するとされた。そして「この地上は主の所有物である。主はこの地上を、主の選び給う民に授けられる。われわれは主の選び給うた民である」と考えて行動したのである。(阿部珠理『アメリカ先住民』角川書店参照)

注3 ラコタでは丸に十の字のマークが,ポスターや民芸品などのデザインとして使われているのをよく目にするが,これをラコタの人たちは「メディスン・ホイール」(聖なる輪)と呼んでいる。メディスン・ホイールは,ミタクエオヤシンの思想をシンボル化したものである。「輪」は,彼らの世界観を表す。世界には始りもなく,終わりもない。もちろん彼らは創世神話を持っているが,西洋の歴史のように時間が縦軸には流れていない。太古から現代に向かって歴史が進歩するという発想は,彼らにはない。今彼らが生きている智恵は,太古の父たちの智恵を変わらず踏襲したものであり,その意味で,彼らと共時的に生きる。智恵の「輪」の中を,先祖たちも,自分たちも一緒に回り続けているのである。(阿部珠理『アメリカ先住民の精神世界』NHKブックスより)

注4 メディスンマンという英語は,元来ラコタ語の「ウィチャシャ・ワカン」(聖なる人)を意訳したものだ。「ワカン」(聖なる)はラコタの精神性を理解するにあたってのキー・タームといえる。彼らが尊崇する偉大なスピリット,宇宙を形作った大神が「ワカンタンカ」である。ワカン(聖なる)「タンカ」(大きい)から,英語ではgreat spiritとか,Godと表現されるが,キリスト教におけるような人格化された神とは異なる。ワカンタンカは原初の存在であり,それから生み出されたすべてのものに,その魂が宿っている。山,川,大地,風,動物,植物など森羅万象のすべては,ワカンタンカの魂を持つ聖なるもの(タクワカン)である。だが「ワカン」には「不思議な」という意味合い含まれており,英訳がときにgreat mysteryとなるのはその反映だろう。これは日本古来の「カミ」概念に一種通じるところがある。カミは森羅万象に宿るものであり,本居宣長の定義を借りれば,それはすべての「常ならず,畏(かしこ)きもの」ということになる。また,ワカンなるものは,一種の力,エネルギーと考えられないこともない。(同上)