オバマ政権の外交戦略と日本

―米国外交史の文脈の中で


一橋大学名誉教授 石井 修 / 筑波学院大学教授 石田 収


 今年1月,米国政治史上初めてアフリカ系のオバマ大統領が誕生し,世界の注目を集めた。「変革」をスローガンに掲げてスタートしたが,国内的には深刻な金融危機という緊急課題を抱えながら,グローバルにはアフガン・中東問題など難しい問題に対処しなければならない。オバマ政権の外交政策について,米国外交史に詳しい石井修氏に歴史的な流れも踏まえて,石田収氏が聞いた。


オバマ政権の誕生をどう見るか

 石田●まず米国外交史からみたオバマ政権の特徴について伺いたい。

 石井●米国外交の特徴の一つに,イデオロギー性が強いという点がある。彼らは自分たちは建国当初から特殊な国で,旧体制(ヨーロッパ)から決別して新しい体制の国を創ったと考えた。聖書にいう「丘の上の町」思想(マタイ5:14)であり,米国は世界に民主主義を広める使命があると考える。このような特徴は,国内統合に専念していた19世紀までははっきりしなかったが,二つの世界大戦を経て世界の大国になるにつれてその特徴がはっきりしてきた。

 米国は世界で初めて成文憲法をつくった国だ。独立宣言に「すべての人は平等に造られ,神によって,一定の譲ることのできない権利を与えられている。」と述べられているように,人には天賦の自然権がありすべて平等だと考えており,そこに米国民主主義の根っこがある。男子普通選挙も早い時期から実施された。米国は世界に誇りうる民主主義の国でありそれが建国の理念であったとの自負心が非常に強い。そのため何かことがあると米国は自由市場経済,民主主義の国だと主張してきたし,国民の愛国心を強める働きをした。

 石田●その思いが米国の凝集力の源泉となっている。

 石井●民主主義を広めるためには,非民主主義体制の独裁政権であれ,右翼政権であれ,反共主義であればそれを支援してきた。例えば,キッシンジャー国務長官のときに,チリのアジェンデ政権は米国の転覆工作によって倒され(1973年),代わって右翼独裁のピノチェト政権が立てられた。このように米国の政策には,首尾一貫しない面があることは否定できない。

 また,ベトナム戦争や朝鮮戦争の例に見られるように,戦争が長期化して行き詰まり国内で反戦ムードが起きると,振り子が揺れるように,好戦的態度から孤立的態度に急変することがある。最近でいえば,イラク戦争で失敗しつまずき先が見えないなか,昨年の大統領選挙で共和党は不利な立場に立って,民主党のオバマ候補の勝利につながった。

 石田●米国外交史の特徴として「振り子が揺れるように変化すること」を指摘されたが,それをいまの米国外交に当てはめてみれば,ブッシュ政権のイラク戦争,アフガン戦争への関与に対する揺れ戻しが,オバマ政権で起きるということか。

 石井●ブッシュ政権の初期は,冷徹なリアリズムの哲学に基づいて行動しようとしていた。ところが,2001年に9.11米国同時多発テロが起きると,それが完全に変わってしまった。実は,クリントン政権時代,および9.11テロが起きる直前までのブッシュ政権においても,アルカーイダの存在は知られていたし,彼らによるテロ活動も進行中であった。例えば,世界貿易センター爆破事件(1993年2月),東アフリカの米大使館爆破事件(98年8月),イエメン・アデン沖で米駆逐艦「コール」がテロ攻撃を受けた事件(2000年10月)など,すでにいくつものテロを経験していた。しかし,クリントン政権は有効な手立てを打たずに見過ごしてしまった。「ウサーマ・ビンラーディンを引き渡そう」とクリントン政権に申し出た国があったのに,それも拒否した。ブッシュ政権も最初の8カ月間はテロ問題を最優先課題として扱っていなかった。

 ところが,9.11で青天の霹靂のごとくテロ攻撃を受けたブッシュ政権は,「テロとの戦争」に突入。このあと勢力を伸ばしたのが,いわゆる「ネオコン」(新保守主義)と強硬派である。ネオコンの基本的考え方は,イデオロギーを基本におき軍事力を行使してでも民主主義を世界に広げていこうというものだ。元民主党員のリベラル派が,ベトナム戦争以降対外強硬派に変化したのだ。もう一方の強硬派は,チェイニー副大統領とラムズフェルド国防長官に代表されるグループだ。コリン・パウエル国務長官(任01-05年)は穏健派であったので,そりが合わず一期で辞めてしまった。

 アフガン戦争では,ターリバーンを倒してうまくいったかに見えたのだが,今になってみるとターリバーンが再び勢力を盛り返している。またアフガンに限定していればまだしも,イラクにまで手を伸ばしてしまった。これはネオコンや強硬派に押されて,ブッシュが信念のないままにやってしまったことだろう。

 しいて言えば,第一次湾岸戦争のときに,(父)ブッシュ大統領はクウェートからイラク人を追放したが,そのとき余力を買ってフセイン政権を打倒するところまでいかなかった。そのことを根に持って,父の仇を討つとの思いがブッシュの中にあったのかもしれない。

 その後ブッシュ政権の二期目になると,ウォルフォウィッツ国防副長官やジョン・ボルトン国務次官(後に国連大使)などが追い出されるなど,ネオコンが政権からいなくなり,コンドリーザ・ライスが国務長官(任05-09年)に就任した。同国務長官はその中間であったが,穏健派と強硬派をうまく取り持つことができなかったように思う。このようにブッシュ政権の一期目は全般的にネオコンに牛耳られてしまったが,2006年ごろから直接対決路線から対話路線へと変更し始めた。

 オバマ政権の性格として,前政権からの揺れ戻しという側面もあるが,(ブッシュ政権末期からの)対話路線は踏襲していると思う。それが顕著に現れたのが,北朝鮮問題である。ブッシュ政権は,六カ国協議の初期においては北朝鮮に制裁を加えるなど日米が共同して対応していたが,途中から米朝二国間協議が始まり,最近では拉致問題はどこかに飛んでしまった感がある。このように日本は,米国から完全にはしごをはずされたような形になってしまった。

 オバマ大統領は,「対話」を強調している。クリントン国務長官のアジア訪問でも対話路線を基調としたスケジュールをこなした。また一国主義から多国間主義に移るような様相も見られる。

 石田●アフガンに関して言えば,対話路線といっても,相手はターリバーンで,対話が通じるかどうか。さらにオバマ政権は兵力増派の方針を出している。

 石井●そこが一番危ないところだ。オバマ大統領は,大統領選挙戦のときから「(米国にとって)アフガンが重要であって,イラクは重要ではない」と発言した。彼はイラクからの撤退を明言していたが,アフガンはテロの根源であるとして17000名の兵力増派を表明した。それに対して週刊誌TIMEは「オバマのベトナムではないか」と報じた。果たしてどう展開していくのか,非常に心配だ。

 また,対パキスタン関係も重要だ。ターリバーンはアフガンとパキスタンの中間地帯に勢力を張っているほか,ターリバーンとパキスタンとが手を組んでいるとの情報もある。米国内でも,ターリバーンとある程度手を打たない限り,アフガンもめちゃめちゃになるかもしれないと心配して,テーブルの下で(少なくとも,ターリバーンの穏健派とは)握手しているかもしれないとも言われている。

 石田●イラクから米軍が全面撤退した場合に,イラクはどうなるか。

 石井●現在,イラク内で宗派間の対立が和らいでいるほか,自爆テロも減少傾向にあるようだ。またイラク国民の中では「米国出て行け」の声が大きいから,米軍が撤退してもよいのではないかと考えている。

 石田●イラン問題はどうか。

 石井●イランでは核問題が最大だ。ただイランの協力なしにはイラク問題や中東問題全般の解決が難しいのも事実だ。そのためイランとも対話路線に入るのではないか。

 石田●イランはパレスチナ問題とも密接に結びついている。ハマスの後ろにいるのがイランだというのが,イスラエルの認識だ。オバマ政権は,米国内のユダヤ人の支持をかなり受けているようだが。

 石井●米国の政治家のほとんどは親イスラエルだ。ユダヤ系米国人は人口比では小さいのだが,財力・発言力が大きく,メディアなどに強い社会的影響力を持っているために,米国の政治家はイスラエルを意識せずには選挙を戦えないという現実がある。



米中関係の中で埋没しかねない日本

 石田●オバマ政権のアジア戦略はどうなるのか。

 石井●米国にとって対アジア外交の最大の課題は,中国とどうつきあっていくかにある。ヒラリー・クリントン国務長官が来日して,いくら日米関係の重要性を訴えたとしても,米国の立場からすれば実のところ最重要事項は対中外交だ。中国の経済成長,軍事力拡張などを考えると,中国は米国にとっての潜在的敵国になりかねない国の一つだ。しかし,米国債をもつ最大の国が中国であることを考えれば,対中協調路線を取らざるを得ない。なるべくうまく中国と付き合っていくというのが,米国の基本方針だろう。そのような米中関係を維持していくために,日米関係が重要だという順序になる。

 石田●そうなると中国に対して米国は,人権問題,政治的自由などについて強硬には出ないことになるのか。

 石井●今年2月のクリントン国務長官の訪中の際は,人権問題には一言も言及しなかった。ただし,米国務省の人権状況に関する年次報告書で中国の人権問題を批判しており,それに対して中国は反発したが,それはとるに足らぬことだと思う。人権問題を二義的問題として考え,イデオロギーを横におきリアリズムの立場から中国と付き合おうというのがオバマ政権の戦略であろう。米中定期協議をこれまでの閣僚級から副大統領級にして進めるとの方針を示していることから,格上げされたことがわかる。

 石田●基本的に中国は「米国は中国の社会主義を平和裏に潰そうとしている(和平演変)」とみており,米国に対して警戒心が強い。その一方で中国人は伝統的に大国志向が強いので,グローバルなパワーゲームを考えることが非常に得意だ。

 石井●その点では米国人と非常に波長が合う。日本人よりもよほど合うようだ。キッシンジャーやニクソンは,中国人との交渉の方がつうつうでやれるのに,日本人とはかみ合わないと言った。佐藤栄作,田中角栄など日本人政治家は戦略論がぜんぜん論じられない。事実,首脳会談の議事録を読んでいても,日本の政治家からは戦略論がぜんぜん出てこない。

 キッシンジャーは周恩来との会談で話が弾み,「周恩来は世界の中でも有数の政治家だ」と後にその回顧録の中で賞賛している。一方,日本人に対してはくそみそだ。ホワイトハウス内部の会話では日本人は「ジャップ」だった。米国人などからは「ただ金儲けに邁進する国」としか思われていない。ちなみに,フランスは伝統的に米国に楯突いてきたが,ニクソンはド・ゴールに対して「偉大な人」だと評価した。

 石田●それでは,オバマ政権は日本をどう見ているのか。

 石井●日本には若干の不安がある。とくに民主党の小沢一郎は親中反米の気配を示しているので,もし日本が民主党政権になると日米関係がぎくしゃくすることになりかねない。いずれにしても米国としては,日米関係は大丈夫だとおだてながら,資金を出させようとしているように思われる。日米関係と比べれば,米国は対中関係にはるかに多く神経を使っている。

 石田●そうなると日本は米中関係の中で埋没しかねないのでは?

 石井●その通りだ。大きな二つの国の間で埋没しかねない。米国のあるシンクタンクの研究員は,日米関係を次のように譬えた。「日米関係を年老いた夫婦の関係になぞらえれば,レストランに入ってあまり話もしない関係だ」と。同盟関係は当然のことであるから,これから日米関係をとりたてて盛り立てていく必要はないという認識である。それだけの余力があればそれは対中国外交に回すべきだとの考えであろう。

 石田●長期的観点からすると,日米関係は日本外交の基軸であったわけだが,この点は今後変化していくだろうか。

 石井●少しずつ変質していく可能性はある。とくに日本で民主党政権になった場合には,その可能性は高まるだろう。

 石田●日米中の三角関係の展望は?

 石井●いや,日本は米中に比べて格が下なので,正三角形の関係には決してならない。中国のアキレス腱は,水問題・貧富の格差などであろうが,現在の経済成長を維持していける限りにおいて,中国は軍事的,経済的にも米国と並ぶ世界の大国である。米国にとって中国は,EU以上の存在である。

 石田●米国にとって,(共産党独裁の)現状の中国体制と民主化された中国の体制とではどちらがベターだろうか。

 石井●一概には結論付けられない。民主的国家でもナショナリズムが盛り上がると対応が難しくなる。考え方によっては,むしろ共産党というタガにはまった国の方が交渉しやすいと言えるかもしれない。一方,中国の立場からすれば,米国の共和党政権の方が好ましいといえる。それは共和党は概ね人権問題にあまり口出ししないし,ビジネスライクで自由貿易主義を基調としているからだ。他方,民主党は労働組合が政治的基盤にあるために保護主義的傾向がある。



東アジア情勢と日本の対応

 石田●オバマ政権の朝鮮半島政策はどうか。

 石井●六カ国協議を継続しながら対話路線を示している。この点はブッシュ政権と変わりないが,ブッシュ政権以上に融和的にならないでほしいと思っている。

 石田●台湾問題はどうか。

 石井●台湾自身が馬英九政権以降,中台直通便の開通など中国との交流を活発化させているのがその例だが,ゆっくりと統合されていくように私には見える。ブッシュ政権は前任者(陳水扁政権)の独立路線に対して批判的であったから,オバマ政権も同様の方向性であろう。クリントン政権時に,空母2基を台湾近海に派遣して中台危機を回避したことがあったが(1996年3月),現在の中国の軍事力を勘案するとその程度では歯が立たないといわれる。そうなると台湾問題に米国が介入することはかなり難しいのではないか。台湾が中国に統合されていくのは時間の成り行きだろう。日本の国益からいえば,台湾が統合されると,シーレーンが脅かされること,沖縄に対する中国の領有権主張の問題などが顕在化してくるであろうから,望ましいことではないのだが,現在の日本や米国ではそれを阻止できるような状況にはない。

 石田●台湾問題で中国は交流を拡大してはいるが,それに満足しているわけではない。台湾側はこれでいいのだろうが,中国はその先を狙っている。しかしその枠組みを作ることまでは進んでいない。

 石井●香港のような「一国両制」の可能性は?

 石田●台湾の国民は,本省人・外省人を問わず9割以上が一国両制に反対している。一国両制は(共産党による)間接支配の一方法に過ぎない。

全体的に見た場合に,今後の日本外交はもっとアジア向きにならなければならないということか。

 石井●日本外交を振り返れば,戦前もそうだが,とくに戦後は日本の世界戦略はほとんどなきに等しいものであった。せいぜい資金をばらまいてアジア諸国のご機嫌を取りながら,資源確保に努めるとともに工業製品の輸出先を確保しようとした程度のものであった。

 石田●東アジア共同体についてはどう考えるか。

 石井●大きくは二つの考え方がある。一つは,オーストラリアや米国をも含めた大きな東アジア共同体,もう一つは黄色人種中心の東アジア共同体である。後者の場合は,賛否がはっきりしている。その反対論者の論拠としては,日本が中国の下に組み込まれて属国化するのではないかという危惧である。また同じ共同体として比較されるEUと比べた場合に,東アジア共同体は共通性よりも,文化的・地理的・宗教的多様性が大きいとの議論もある。

 石田●米国は別にして,インドやオーストラリアを含めようという構想もある。

 石井●インドやオーストラリアを組み入れることについては,中国の台頭に対抗するという戦略的観点,大きな範囲で仲良くやろうという観点などがあるようだ。

 石田●対ロシア外交はどうか。

 石井●対話路線が基本だが,ロシアはNATOの東方拡大,ミサイル防衛(MD)などの点で米国に対して批判的だから,米露関係はそう簡単によくなるとは思えない。ただオバマ政権がMD構想を引っ込めるような姿勢を示せば,米露関係の改善も展望されるだろう。

 [本対談後,米国はロシアに近いポーランドなどへのMD配備を差し控えるとの意思表示をした。米国の対露対話路線は進展するかもしれない。]



米国衰退論と米国の底力

 石田●超大国米国の力が相対的に低下する中,今後の世界は多極化していくのだろうか。

 石井●米国内でも「米国衰退論」が提起されている。最初は1980年代のジャパン・バッシングのころであった。当時日本の勢いがあったので,『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』(邦訳1979年)というような本も出たほどである。またイエール大学のポール・ケネディ教授のように,「帝国は手を広げすぎると衰退する」との議論も展開された。これまで何度か米国が衰退するといわれながらも復活してきた歴史がある。80年代の衰退論の後,IT革命によって米国経済が立ち直った。

 今回は金融危機にその端を発している。ドル札の大量発行と米国民の過剰消費に支えられて中国や日本などが潤った面は否定できないが,今後も消費一辺倒の傾向では米国はやっていけないとの議論がある。そうなると内需拡大策がとられ保護貿易の傾向が強まる。米国への輸出でやってきた国は影響をこうむることになる。またドルの基軸通貨の地位も揺らぐ可能性もある。今度の金融危機でも90年代のように立ち直っていく可能性はあるが,長期的観点から見れば,米国の地位は(相対的に)徐々に低下していくだろう。

 石田●米国の活力の源泉はどこにあると考えるか。

 石井●先進国の中で米国だけは少子高齢化がまだ訪れていない。それはとくに移民政策によるところが大きいわけだが,その多元性社会という特徴がうまく機能する限りにおいては,活力が維持されていくと思われる。移民によって優秀な人材が集まり,彼らの創造力や発想によってイノベーションが起こり新しい経済発展につながることが,今後も繰り返されるようであれば大丈夫だろう。とくにインド系,香港系などが各専門分野で活躍している。(米国の原爆開発<1945年>は,ヨーロッパからの亡命科学者の力に負うところが大きいのは,その一例であろう。)

 石田●現在でも米国の人口は増え続けて,最近3億人を突破した。

(2009年2月27日)



 石田●米国外交史からみたときに,米国外交の特徴はどのようなものか。

 石井●米国の建国まで遡って簡単に述べたい。初代大統領ジョージ・ワシントン(任1789-97年)は,任期最後に「告別の辞」を残したが,その中で二つの重要な点を指摘した。第一は,「ヨーロッパの政争に巻き込まれるな」であり,言葉を換えて言えば,「国内の開発と国の統合・国づくりに力を注ぎなさい」というものであった。この点は守られたと思う。第二点は(国内的に)「派閥を作るな」(党派を超えた共通の善に生きよ)というものだったが,ほどなくして第一次政党制ができてしまいこの教訓は生かされなかった。

 国内の開発・統合に関していえば,まず北米大陸にアメリカ先住民がおり,彼らを押しのけて入植者たちは勢力を拡大していったので彼らとの間にも摩擦が生じた。19世紀前半には「涙の道」といわれる悲しい出来事(注1)があり,1880年代には,ジェロニモに代表される先住民たちとの間のインディアン戦争が頂点に達した。また19世紀の後半に「内戦」(1861-65年,The Civil War,いわゆる「南北戦争」)が起こったが,国内の統合のプロセスにおいてこれは最大の危機であった。しかし,リンカーン大統領の指導の下,何とか切り抜けて米国は近代国家として確立することができた。すなわち「内戦」の終結をきっかけに,鉄鋼業,繊維業など工業化が急速に進展したのである。

 当時は,世界史的に言えば,「帝国主義」の時代であり,米国もヨーロッパ諸国に遅ればせながらその隊列に入った。そして米墨戦争(1846-48年),米西戦争(1898年)などを通して,米国も初めて海外領土を獲得することになった。

 日本との関係で言えば,19世紀初めより捕鯨などのために北太平洋に乗り出した米国船が漂流して日本にたどり着き船員が虐待されたことや,アジアへの進出に際しての貯炭・貯水のために立ち寄ることなどを契機に,日本に来航して開港を迫るような時期でもあった。

 米国は国内の統合・近代国家の樹立に専念しつつも,海外への勢力拡大を進めた。このような過程を経ながら米国は,国の発展に見合う国力を備えていった。19世紀末の段階で当時世界最大の勢力を誇っていた英国に匹敵するような国力を蓄えつつあった。

 とはいえ,当時米国自身は,世界の強国であるのとの自負心をもってはいなかったようだ。そのため第一次世界大戦に際しては中立を保ち,非常に遅れてやむなく参戦に踏み切った。終戦後のベルサイユ講和条約で戦勝諸国は,ドイツに賠償金など過酷な条件を押し付けたわけだが,それが遠因となってナチスの台頭というナショナリズムを呼び起こし,第二次世界大戦へとつながっていった。

 ところで,ベルサイユ講和条約を米国上院は批准しなかった。そのため同条約に盛り込まれた戦後の平和組織である国際連盟に米国は加盟することができなかった。ウッドロウ・ウィルソン米大統領(任1913-21年)は,国際連盟の提唱者であり,講和条約の批准のために全国遊説を行うなど積極的な努力をしたものの,徒労に終わった。(その疲れもあって,彼は病に倒れ,その後死亡した。)このため欧州諸国との結びつきはあったが,若干距離を置く関係になった。

 講和条約によって戦後賠償を課された債務国ドイツに対して,米国は資金を貸付け,その資金でドイツは英仏に賠償金を払うという構図になっていた。国際連盟には加盟しなかったものの,戦後の経済的な流れの中で米国は重要な役割を果たしていた。また米国はワシントン会議を開き軍縮などを進めた。

 この時期までの米国外交を振り返ってみると,建国以来19世紀まで米国は国内の統合に精力を投入していたことから,対外的にはあまり関与しない姿勢を示していた。それゆえ初代大統領ワシントンの「告別の辞」以来,「孤立主義」の道を歩んできたと言われるが,上述のように必ずしも孤立主義一辺倒ではなかった。しかし,19世紀末ごろに国力が充実してくると,帝国主義的な立場(注2)に立って勢力を海外にも拡大し,第一次世界大戦に関与し,国際機関の提唱を行うなど,主導権を発揮するようになった。20世紀の初めの第一次世界大戦後の賠償問題を契機に,国際経済における米ドルの地位が強くなっていった。一方英国は,ボーア戦争(1900年)や第一次世界大戦などを経て国力が衰退し始めたが,いまだ余力を残していて,1920年代は米ドルと英ポンドが拮抗する時期でもあった。

 第二次世界大戦の前に米国は,第一次世界大戦の反省から中立法を成立させて(1935年),交戦国への軍需品の売却や輸送を禁止した。そのためイタリアのエチオピア侵略(1935-36年)やスペイン内戦(1936-39年)に対しても中立を守った。

 ナチス・ドイツによるオーストリア併合やチェコ侵攻に対しては中立の立場を維持した米国も,39年9月ドイツ軍のポーランド侵入によって第二次世界大戦が勃発し,翌年にフランスが早々降伏してドイツ対英国という状況が生じると,戦略的,安全保障的観点から,さらにはフランクリン・ルーズベルト大統領の親英的感情からいっても,中立を保っているわけにはいかず中立法を巧みに改正しながら英国を支援する体制を整えていった。その後,英国に物資を送る英国の船舶がドイツ潜水艦により沈められるようになると,ルーズベルト大統領は,米国の軍艦による英国船舶の護衛を命じ,さらにドイツ潜水艦に対して発砲することも許可した。

 一方,東アジアでは中国が日本によって侵略されている情勢の中で,母方の祖父が中国貿易(実は阿片貿易)で巨万の富を得た人物であったルーズベルト大統領にとって,このような状況は心痛いことであった。そして日本軍による仏印進駐を契機に日本への経済制裁を進めた。その後,日本による真珠湾攻撃という奇襲攻撃によって,一応「中立」の立場を保っていた米国をして一気に戦争へとまとめあげ,日米開戦に至り,米国は欧州においても極東においても参戦することとなって「連合国」側に立つことになった。その意味で言えば,日本の真珠湾攻撃は,ルーズベルト大統領の抱えていたジレンマを救ってやったといえる。つまり,ドイツと戦って英国を助けたかったのに,国内世論がそれを許さない状況にあったが,日本が奇襲攻撃という「卑怯な方法」を取ったことで,大統領の戦争介入を世論が一気に支持して参戦できたのである。

 第二次世界大戦で勝利した米国は,世界最強の国になった。すなわち,当時世界の金(gold)の約三分の二が米国に集まり,世界のGDPの半分以上を占めるほどの国力を有する国となった。1929年に始まる世界大恐慌とその余波によって米国経済は疲弊したものの,第二次世界大戦を契機に経済的にも完全に立ち直ることができたのである。

 また,日本による真珠湾攻撃の4カ月前の1941年8月に,ルーズベルトとチャーチルは戦後世界のあり方を構想する大西洋憲章を発表した。そのなかで国際協調と民族自決を戦後国際秩序の原則として,国際連盟の失敗に鑑みて新しい国際安全保障機構を創設することを考えた。また経済恐慌から第二次世界大戦に至った経緯を反省して,ブレトン・ウッズ体制をも整備した。

 戦後は1947年に米ソ冷戦体制が始まり,50年の朝鮮戦争を契機に中国も米国の主要敵国に入るようになった。米ソ冷戦と対中包囲網の観点を中心としてベトナム戦争に関与したが,米国は反植民地闘争の側面を見誤ったために敗北を喫した。

 石田●20世紀初頭に米国は少なくとも経済面では世界一の大国になった。当時,新世界には(例えば,ブラジルのように)大国になる潜在的な可能性を秘めた国がいくつかあったのに,米国だけがそうなったのはなぜか。

 石井●アングロ・アメリカとラテン・アメリカの文化的風土的違いに由来するのではないかと思う。ただラテン・アメリカ研究者はこの意見には感情的に反撥する。例えば,ラティフンディウムという奴隷労働に頼ったローマ時代の大土地経営制度がスペイン・ポルトガルを経由して南米やフィリピンに導入され,支配階級と被支配階級の関係が牢固となって,貧富の格差が激しい社会となった。

 一方,北米大陸は,経済力や知恵のある人は自分の自由意思によって企業を起こすことができ,それが全体的に経済力を高めることにつながった。例えば,鉄鋼でいえば,スコットランド移民であるカーネギーが鉄鋼王と呼ばれたほか,鉄道王と呼ばれる人たちも現れた。ロックフェラーは内戦を契機に石油でもうけて大財閥にのし上がった。エジソンのような発明王も現れた。また北米は,働けば報いられるという流動性の高い自由な社会であったことが,人々のインセンティブを高めたともいえる。そのような点が米国を強くしたと思う。しかしその結果,19世紀末の段階でも相当の貧富の差が生まれてしまった。



注1 涙の道(Trail of Tears)とは,1838年に米国のチェロキー族インディアンを,後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動させたときのことをいう。このとき,15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が途上で亡くなった。このことは,1830年の「インディアン移住法」の結果として起こった。

 チェロキー族の「涙の道」は,1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが,インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず,条約は時の米国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移され,西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。

 また「涙の道」という言葉は同じように移動させられた他の種族,特に「五つの文明化された種族」(Five Civilized Tribes)が体験したときも使われた。元々この言葉は最初に5つの文明化された種族の一つ,チョクトー族が強制移住させられた時に生まれた。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)

注2 この時代には「帝国」「帝国主義」なる用語は罪悪感を伴わず,大っぴらに使用されていた。負のイメージが伴うようになったのは,革命家ウラジーミル・レーニンらによってその定義が広められて以降のことである。