老子の平和思想とその現代的意義

大東文化大学教授 蜂屋 邦夫

 

 中国社会をまとめあげていく上で,一番基本的で一番長い生命力をもっていた思想は儒家思想である。中国のみならず,古来,中国文化の波及した東アジアの地域でもっともよく読まれた書物は『論語』であったと言ってよい。しかし,その『論語』に勝るとも劣らぬ影響力を持続してきた書物に『老子』(注1)がある。

 儒家思想は現実の社会にぴったり即し,現実的なことを考えるところに特色がある。そのため,宇宙はどうしてできたのかとか,人間はどうしてこのように生きているのかなどの,いわゆる哲学的な問題には余り関心を払わなかった。それに対して道家思想は,宇宙や人間の原理とも言うべき「道」を尊重し,「道」がどのようにして生まれ,どのように活動するかを論じている点に大きな特色がある。その点で,道家思想は儒家思想の足りないところを補うという側面があったと考えられる(注2)。とくに『老子』には,そのような特色が際立っている。中国の思想史は,『論語』に『老子』が加わったことによって,きわめて幅広く,奥行き深いものとなった。

  『老子』を中心とする道家思想は,いまから二千数百年前の社会を基盤に形成されたものであるから,そのまま現代社会に応用することには無理がある。しかし,物質的には非常に豊かな環境に生きる現代人がかえって複雑な心の問題を抱えて苦しんでいたり,あるいは物質文明が極度に発達して環境問題が途方もなく重大になったり,宗教や国家,文化や民族の間の対立が激烈の度を増して解決の道が霞んでしまったりしている現状を考えるとき,『老子』が言わんとしたことは,今もなお,われわれに新しい生き方の視座を提供してくれるように思われる。

 そこで本稿では,『老子』に見える思想の中から,本誌の基本テーマである平和の問題を中心にして,若干の問題について解説してみたい。(老子については,実在性その他,さまざまな問題があるが,ここでは便宜的に老子という人物の存在を前提とし,その人物が『老子』という書物を著わした,ということにしておきたい。)

1.『老子』に見える思想

  『老子』に見える思想の一番の根本は何かといえば,「無為」の思想であろう。しかし,人間は日常的に何らかの行動をしており,その限りにおいて「有為」から離れることはできないはずである。それなのに,老子はなぜ「無為」などと言ったのかというと,自給自足的な農村社会に見られるような自然的な生き方を「無為」と捉えたのであろう。『老子』の2章には「聖人は無為の立場に身をおき,……万物の自生にまかせて作為を加えず云々」という意味の言葉がある。「聖人」とは老子的為政者のことであり,「万物」には万人の意味がある。もちろん,そうした農村社会においても,当然,畑仕事を始めとして,すべて「有為」ではあるけれども,為政者がことさらに繁多な命令を出して人民を労働に駆りたてたりなどしないということが,つまり「無為」なのであろう。

 一般的には,普通の人々にとっては政治的な制約があるばかりではなく,通常の農作業においても,いかに大地に働きかけて効率的に収穫物を得るかという生産性の問題が重要である。しかし老子の考えでは,普通に食べていければそれでいいのであって,必要以上に余剰物を蓄えておくとか,さらにおいしいものを追求するとか,そうした過分な欲求は持たないのがよいのである。『老子』80章には,人々に「自分たちの食べ物をうまいとし,自分たちの衣服をいいものとし,自分たちの住居に安んじ,自分たちの習俗を楽しいとする」ようにさせるのがよいとする思想が見える。老子は,都会的な消費社会の贅沢を退けて,貧窮ではあるが安定した自給自足の社会,質素倹約の社会を理想としたのである。

 この生き方を突き詰めれば,社会の規模を拡大したり人々の生活を向上させたりなどは,しないということになる。さらにいえば,便利な機械などは使わずに,わざわざ苦労し,汗水たらして農産物を収穫することが生き方の基本であり,技術革新の思想とも相容れないところがある。80章にはまた,「人力の十倍百倍の機能を持つ道具があっても用いないようにさせ,……舟や車があっても乗ることはなく,……むかしのように縄を結んで記号として使わせる」とある。いまから二千数百年前とは言っても,生産に便利な機械や道具はたくさんあったであろうが,老子は,そうしたものを意識的に拒否した。そのことを示すような話が『荘子』「天地」篇のなかに出てくる。

 孔子の弟子・子貢が南方に旅をして,魯の国に帰ってくる途中でのこと,ある畑のそばを通りかかると,一人の老農夫が水甕を持って水場に行っては水を汲み,担いできては畑に流していた。子貢は気の毒に思って,「おまえさんは,はねつるべを知らないのですか」とたずねた。はねつるべを使うと,水汲みも水を畑に流すことも格段に楽になる。すると老農夫は,「わたしもそういうものは知っているが,先生からこういうことを聞いたことがある。機械(からくり)を使うと,どうしてもものごとが機事(からくりごと)になり,からくりをどのように使ったら効率的かということが大事になる。そういうことばかり考えていると,心も機心(からくりごごろ)になり,心の純白さが失われてしまう。そうなると道から外れてしまうから,わたしは,はねつるべは使わないのですよ」と答えた。

 子貢は大変感心して,旅から帰って孔子に一部始終を報告した。すると孔子は,「その農夫は渾沌氏(こんとんし)の術を実践している人のようだね。内心の純一さを保ち,外物に乱されることなく,無為のままで道に立ち返り,本性を守りながら世間に交わっている人だ。だが渾沌氏の術は,わたしにもお前にも,とても分かるものではないね」と答えた。渾沌氏とは架空の人物であるが,具体的には老子のことであると考えてよい。

 この寓話について,かつて私は「渾沌氏の術をひたすら実践することは一つの考えに凝り固まっているものだとして,孔子の口を借りて荘子(注3)が批判したもの」と解釈していた。つまり荘子は「世俗に生きる人間としては,崇高な理念ばかりを追求するのは無理であり,老農夫の生き方は観念倒れだ」と評した,と考えたのである。

 このような解釈は一般的なものであろうと思うが,改めて考え直してみて,そうではないのではないかと思うようになった。つまり,荘子がこの話を記した意図は,われわれのような俗人はなかなかその境地には至れないにしても,便利さを拒絶し,わざわざ不便な方を選ぶという老子流の生き方を評価する点にあったのではないか,ということである。

 老子が理想とする社会の規模がどの程度のものであったかははっきりしないが,いわゆる直接民主制がいきわたる程度の規模,すなわちせいぜい数百人から二,三千人の規模の農村共同体であったろうと想像される。そしてその共同体は,近隣の共同体に圧力を及ぼさないと同時に,逆に他の共同体もその共同体には圧力を及ぼさないという関係にある。80章に言う「隣国が見えるところにあり,鶏や犬の鳴き声が聞こえてきても,住民は老いて死ぬまで,お互いに行き来することがない」関係である。老子は,そうした状況を「小国寡民(国は小さくし,住民は少なくする)」と表現しており,そのような「小国寡民」の集合が「天下」と考えたのではなかろうか。

 しかし,「小国寡民」のままであり続けるのは難しい。当時は弱肉強食の時代であり,必然的に「大国」が出現する。「大国」になった場合には,はたして「無為」だけで政治ができるのかと言えば,それはやはり非現実的であろう。そこでは,やはり全力を尽くして富国強兵を図り,国を発展させるという「有為」の行き方がとられたであろう。爾来,人々は渾沌氏の術を捨て去り,エネルギーを最大限に効率的に使うというパンドラの箱を開け,自然の理に即してとことん自然を利用するようになった。とくに近代になってからは世界全体が,そうした考え方にのっとって全速力で走ってきたように思われる。

 しかし考えてみると,このような生き方・考え方は,長い人類史の中では特殊なものである。現在,世界の至る所で,多種多様な多くの危機が発生しており,そうした状況を批判する人々の間からは,もっとゆっくり歩いていこうという気分が出てきているように思われる。『老子』の思想を考える意味も,その辺にあるのではなかろうか。

2.道家と墨家の平和思想

 春秋戦国時代は戦争が頻繁に起きた時代で,各国は,すきあらば他国を滅ぼして自国の勢力を拡大しようとしていた。そのような時代であるからこそ,一方では,強く平和を希求する人々も活躍したのであり,老子もそのなかの一人であった。『老子』中には不戦の思想に関わるものが散見する。以下,そうした思想を少し見てみよう。

  「道にもとづいて君主を補佐する者は,武力によって天下に強さを示すことはしない。武力で強さを示せば,すぐに報復される。軍隊の駐屯するところには荊棘(いばら)が生え,大きな戦争の後では,かならず凶作になる。」(30章)

  「いったい,武器というものは不吉な道具であり,人々は,だれでもそれが嫌いだ。だから,道を身につけた者は武器を使う立場に立たない。」(31章)

  「世の中に道が行なわれているならば,早馬は払い下げられて農耕に使われる。世の中に道が行なわれていないならば,軍馬が郊外で仔を産む。」(46章)

  「すぐれた武将は猛々しくない。すぐれた戦士は怒りに任せない。うまく敵に勝つ者は敵とまともにぶつからない。うまく人を使う者は,彼らにへりくだる。これを争わない徳といい,これを人の能力を使うといい,これを天に匹敵するという。むかしからの最高の道理である。」(68章)

  「兵法に次のような言葉がある。自分からむりに攻勢をとるな,むしろ守勢にまわれ。一寸でもむりに進もうとするな,むしろ一尺でも退け,と。これを,陣なき陣を布き,腕なき腕を挙げ,武器なき武器を取る,というのであり,そうであれば敵となるものは無くなるのだ。」(69章)

  これらは,いちおう戦争を拒否する思想と考えてよいであろう。しかし,すでに68章や69章の文言などからも分かるように,全面的な戦争拒否とも言えない面があり,『老子』中には,そうした微妙な表現の反戦思想も含まれる。 

  「うまく武力を用いる者は事を成しとげるだけだ。強さを示すようなことはしない。成しとげても才知を誇ってはならず,成しとげても功を誇ってはならず,成しとげても高慢になってはいけない。成しとげてもやむを得ないこととする,このことを,成しとげても強さを示さない,という。」(30章) 

  「武器は不吉な道具であり,君子が使う道具ではない。やむをえず用いる場合には,あっさりと使うのが最上である。勝ってもそれを賛美はしない。もし賛美するならば,それは人殺しを楽しむことである。いったい,人殺しを楽しむならば,自分の志を天下に果たすことなどできないのだ。……大勢の人を殺すので,悲哀の気持ちで戦に臨み,戦に勝っても,喪礼のきまりによって対処するのだ。」(31章)

  「いったい,慈悲によって戦えば勝ち,慈悲によって守れば堅固である。天が人を救おうとすれば,慈悲深い人を守るのだ。」(67章)

 やむを得ず武器を用いる場合などを想定するのは,老子の反戦思想の複雑な面であり,老子がただの観念的な平和論者ではなかったことを示すものであろう。 

 老子の反戦思想をどのように評価するにせよ,老子の述べたことは基本的には思想の問題である。それに対して,反戦を現実問題として考え,行動として実践しようとした集団がある。それが墨 (墨子)を祖とする墨家である。墨子は,思想の上でも,戦争はいけないとする論理を組み立てたと同時に,現実問題としても,さまざまな防御技術の開発に取り組んだ。「備城門」篇以下,『墨子』後半の大部分は具体的な防御問題を扱ったものである。

 まず思想の問題としては,「非攻・上」篇に,ひとの物を盗むことは悪とされるが,ひとの国を奪うことは悪どころか,かえって英雄として評価される。世の中で一人とか二人,あるいは十人を殺せば不義として断罪されるが,戦争で他国を攻撃した場合には不義とされない。これらは論理として一貫しておらず,おかしいのではないか,という議論が見える。

 当時は,開発されていない土地がまだ十分にあったし,人口も少なかった。その状況を踏まえて墨子は,いわば過疎地が大量にあるのに,多くの兵隊を犠牲にしながら,より多くの土地を獲得したがるのはなぜなのか。人が少なくなれば開発もできるかどうかも分からないではないか。だから,他国を侵略するのは現実問題としてもおかしな行動ではないか,と述べている。かくて,墨子の議論では,他国を攻めることは論理的にはナンセンスであり,現実的にも意味がない,ということになる。

 墨子の思想としてよく知られたものに,また,兼愛(博愛)の思想がある。「兼愛・上」篇には,他人を自分と同じように愛し,他人の家を自分の家と同じように大事にし,他国を自国を同じように見るならば,天下は治まる,という思想が見える。そのように天下全体が兼ねて愛するならば,戦争を起こすという発想自体が起こらないことになる。これもむろん,平和主義の考え方につながるものである。

 墨子が考えた平和を実現する基本方法は,城(注4)を固く守ることによって攻撃はむだであると相手に悟らせることである。そこで,さまざまな防御の技術(守城術)を研究し開発した。それらは極めて具体的なものである。当時の攻撃法は十二あったようであるが,それぞれに対して墨子は具体的に細かな対処法を教えている。

 たとえば,敵が城壁よりも高い土盛りをして攻撃してくる場合には,守備側も台城を造り,多数の矢が同時に放てる連弩車を使って防御する(「備高臨」篇)。敵が長いはしご車の雲梯を掛けて城壁を登ってくる場合には,城壁の上に仮の城を造ってそこから矢を射かけたり,城壁の上から石や砂,灰などを降らせ,火のついた薪や熱湯を注ぐ(「備梯」篇)。敵が外から穴を掘って攻撃してくる場合には,敵状をよく観察し,もし妙な動きがあれば穴を掘っていると察知して,城内からも穴を掘り,柴を用意して火を付け,敵をいぶす(「備穴」篇)などである。

 墨子は工人階級の出身者であると考えられている。現代風に言えば技術者である。墨子の教えを奉じる者たち,つまり墨家は,集団行動を特色とするが,かれらはいわば技術者集団であり,だからこそ,大がかりな防具も開発することができたのであろう。墨家の集団は,いくつもあり,その指導者を鉅子(きょし)という。鉅子に率いられた墨家集団は,他国の攻撃にさらされた弱小国を助け,固い結束のもとに城を守った。ときにはその国が滅ぼされてしまう場合もあるが,墨家集団は最後まで城を守り,城とともに全滅することもあった。彼らの守りが非常に固いので,そこから「墨守」ということばも生まれた。

 しかし時代の流れは墨子の考えたようにはならなかった。戦争が激化することはあっても平和になることはなかった。諸国の君主や,あるいは大臣クラスの者が集まって反戦を誓い合うという国際会議が何度も持たれたが,長く平和が続くことはなかった。

また,戦国時代には商業活動が活発になったが,商業活動には多くの小国が分立していると障壁が多すぎて自由に活動できないので,商人たちは統一政権の実現を望んだ。墨家集団も後期になると,商人の望むような考えに傾斜しながら変質し,むしろ大国が小国を併呑して早く全国を統一する方がいいと考えるようになった。その行きつくところ,秦の始皇帝が全国を統一した後には,墨家はその存在理由をなくして消滅してしまったようである。

3.老子の思想の後代への影響

 ロシアの文学者トルストイは,1878年ごろから『老子』に関心を持ち,とくに84年3月以降にはフランス語訳『老子』をロシア語に翻訳するくらいに熱中した。トルストイは中国語はできなかったが,1894年から95年にかけては,小西増太郎(1861-1939年)という日本人の『老子』翻訳作業に助力して,いろいろな意見を述べている(注5)。

 トルストイの考えた老子のイメージは,軍事行動を全面的に否定する絶対的平和主義者であった。ところが『老子』中には「武器は不吉な道具であり,君子が使う道具ではない。やむをえず用いる場合には……」(31章)というくだりがあり,トルストイは「老子ともあろうものが,このようなことを言うはずがない。この部分は後世の人が加えたに違いない」と言って激高したという。その他,『老子』中には,先に挙げた30章の「うまく武力を用いる者は事を成しとげるだけだ」などの表現も見え,これは積極的に戦争を進めるという考え方ではないけれども,トルストイはそうした箇所も全部否定して絶対的平和にかかわる部分だけを老子の思想として取り出したのである。

 トルストイは,仏訳『老子』を自分なりに翻訳した翌年,1885年9月に『イワンのバカ』という民話を書き,10月に成稿にした。この『イワンのバカ』が収められている民話集には14編の民話があるが,『イワンのバカ』を除いた残りの民話については,その由来(原典)がはっきりしている。ところが『イワンのバカ』だけは,その基底にこれといった特定の源泉がない,とされている(注6)。しかし私の考えでは,その源泉は間違いなく『老子』の思想であった。


 もちろん,神様ということばを聞くと小悪魔が地面の中に消えてしまうという場面はキリスト教信仰の民話的表現であるし,兄たちは利口だが末子のイワンはバカであるという話はロシアの国民伝説として広く普及していたし,三人兄弟の末子がバカであるが,結局はバカだけが王女と結婚して幸福になるという話はグリム童話にも散見するし,農民への同調や汎労働主義には同時代のロシア人思想家の影響が認められる。しかし,この民話は,それらの要素を集めただけでは出来上がらない。求心的な強い核となるものが必要であり,その核こそ,私は『老子』の思想であったと考えるのである。

 農民への同調や汎労働主義を強調するだけであれば,イワン「王国」という「統治」形態は必要ない。イワン王国では利口者はすべて逃げだし,残った者は汗水たらして農業をする以外には取り柄がないバカばかりであった。この「統治」と人民の姿は,『老子』のことばで言えば,イワン王は「無為の立場に身をおき……,万物(万民)の自生にまかせて作為を加え」ず(2章),「いつでも無心であり,万民の心を自分の心として」いる(49章)存在であり,王(わたし)と人民の関係は「わたしが何もしないと,人民は,おのずとよく治まる。わたしが清静を好むと,人民は,おのずと正しい。わたしが事を起こさないと,人民は,おのずと豊かになる。わたしが無欲であれば,人民は,おのずと素朴である」(57章)ような関係であり,人民は「命令されなくても,おのずと治まる」(32章)ものであった。

 イワン王国には「手にタコのある者は先に食卓につけるが,タコのない者には食べ残しが与えられる」というただ一つの掟があった。これは,イワンには口のきけない妹があり,その妹が,これまで何度も怠け者にだまされ,彼らが働きもしないのに人より早く来て食べ物を先に食べてしまうので,それを見分ける方法として考えついたものである。口がきけない妹とは,「言葉によらない教化」(2章)や「言葉が多いとしばしば行きづまる。虚心を守るのが一番よい」(5章),「本当の言葉は華美ではなく,……本当の弁論家は弁舌が巧みではな」い(81章)など,『老子』に見える言語否定の思想を人物化したものであり,労働しない怠け者を拒否するのは,「聖人の政治は,人々の腹をみたすことを大事にして,目を楽しませるようなことは大事にしない」(12章),「米倉はすっかりからっぽなのに,……飽きるほど飲み食い」するのは盗人と同じであり(53章),「人民が飢えるのは,その上に立つ者が税を多く取りたてるからである」(75章)などの思想を民話に合うように組み込んだものであろう。

 トルストイ自身のことばに拠れば,軍人の長男には軍国主義への批判,次男の商人には資産階級への批判,労働しない怠け者には特権階級への批判が込められているという。これらは当時のロシア社会を批判したものであり,とくに『老子』を持ち出すまでもないことであるが,特権の否定は『老子』でも上に述べた53章や75章などに見え,金銭や財物への執着の否定は3章や9章,64章に見えるものである。

 軍事についてはどうであろうか。大悪魔が仕掛けてイワン王国に他国が侵略したことがあった。しかし,イワン王国の人々は侵略に任せるままで,略奪され放題であった。とうとう最後には,侵略軍の方が張り合いをなくして撤退してしまった,という話になっている。これは『老子』の思想そのものというより,トルストイが理解した『老子』の無抵抗の平和主義(8章,61章,81章)とぴったり対応すると考えられる。

 イワン王国の人たちはバカばかりで,知恵を働かせてお金をもうけ,楽な生活をしようなどとは決して考えない。悪魔の親玉が登場し,イワン王に対して,人々に頭で仕事をする方法を教えてやることを約束した。悪魔は,やぐらの上で何日も演説をしたが,バカたちにはさっぱり理解できない。悪魔は,飲まず食わずの状態のためにフラフラになって,最後には頭から真っさかさまに,やぐらの梯子段を全部数えるようにして落ちてきた。それを見た人々は,これが頭を使う方法だと納得したが,悪魔は地面に落ちると地中に吸い込まれて消えてしまった,という結末になっている。この話に見られるような,頭を使って仕事をすることを拒否することとは,「愚」なる生き方を尊重することに他ならない。そしてそれは,20章,48章,65章その他に見られるように,老子の際だって特色のある考え方なのである。そうした「愚」なる生き方は,まさに渾沌氏の術と重なるものであり,『イワンのバカ』は,さまざまな側面を総合して考えると,老子の思想を民話として具象化したものと考えられるのである。

 トルストイの,無抵抗にして絶対的な平和主義の考え方は,その後もいろいろな人に影響を与えた。その一人にマハトマ・ガンジー(Mohandas K. Gandhi,1869-1948年)がある。彼は二十数年にわたり南アフリカに滞在したが,1910年代にヨハネスブルグ近郊にサティヤーグラハ運動(注7)の一環として共同農場を作り,自給自足的で平等主義的な生活を実践した。彼はトルストイの思想に共鳴し,その農場に「トルストイ農場」と名づけ,トルストイに書翰も呈している。もちろん彼の思想の根底には,インドの宗教や歴史の影響などもあったであろうが,彼の非暴力思想の直接の拠り所はトルストイの平和思想であったと思われる。

 このように辿ってみると,老子―トルストイ−ガンジーとつながることが分かる。老子の思想は二千数百年も昔のもので,現代には全く関係ない,とも言えないのである。ただ,もしも老子の考えをそのまま現実に適応したとすれば,イワン王国のようなものになってしまって,現在の厳しい世界情勢に通用するかどうかは分からない。しかし,戦乱は止まず,環境は悪化し,大勢の人が飢えや病気に苦しんでいる現代だからこそ,老子の思想は,やはり一定の意味を持っていると言えるのではあるまいか。

4.老子の思想の現代的意義

 きわめて粗っぽい言い方になるが,西欧の思想は伝統的に神と人間と自然の鼎立という関係を考えてきたが,近代以降は神の影が薄くなってしまい,人間と自然だけがむき出しで対立することになった。両者を調和すべき神がいなくなったことにより,自然は人間にとって克服すべき,あるいは利用すべき対象として存在してきた。それに対して中国の思想では,天地自然や道の中に人間も含め,全体を調和すべき世界として見てきた。そこには人間と天地自然は対立するものだという発想はない。対立しているように見える場合でも,最終的には人間と天地自然は調和すべきものとされるのである。

 このような,世界を一体のものとして考える発想は,儒家思想にも道家思想にも共通している。だが,とくに老子に代表される道家思想には人間と天地自然を総合的に包括的に捉える傾向が顕著で,たいへん奥が深いものであり,現代の我々の生き方にも新たなインパクトを与えてくれる。


  『老子』のなかで一番普遍性のある格言は何かと考ると,私は「道法自然(人は地に法〈のっと〉り,地は天に法り,天は道に法り,道は自然に法る)」(25章)だと思う。「自然」の本来の意味は「みずから然る・おのずから然る」ということで,つまり他の力によってそうであるのではなく,昔から,それ自体そのようであった,という意味である。「人」は「地」「天」「道」をへて結局その「自然」にのっとるのであり,すべては関連しつつ全体として調和世界を構成している,という考え方である。いささか観念的ではあるが,ガンジーがトルストイの観念によって動かされ,トルストイが老子の観念によって動かされたように,老子の観念は決して古代人のたわごととも言えないと思うのである。

(2008年11月21日話,12月24日記)

注1 いわゆる『老子』,詳しくは『老子道徳経』として伝わっているもの。現行本は1章から37章までと,38章から81章までの上下二篇に分けられ,字数は全部で5000字余り。1973年に湖南省長沙市馬王堆の漢墓から絹に書かれた二種類の『老子』が発見され,甲本・乙本と名付けられた。絹の書という意味で「帛書老子」と呼ばれる。両本とも現行本と篇の順序が逆で,乙本には,現行本下篇の初め(38章)は「上徳は徳とせず」から始まるので「徳」,上篇の初め(1章)は「道の道とす可きは」から始まるので「道」と表記されていた。あわせて「道徳(道と徳の意味)」について述べられているので『老子道徳経』と呼ばれる。さらに1993年に湖北省荊門市郭店の楚墓から,分量にして現行本の三分の一強の,竹簡に書かれた『老子』が発見され,『老子』の原型がかなり明らかになってきた。

注2 道家思想は儒家思想を批判する形で形成されたから,一般的には,両者は氷炭相容れないように思われているが,両者の拠って立つ基盤は農村社会であり,共通点も多い。

 儒家は道徳によって農村社会を維持することを考えた。道徳の基本は,天地の神々や宗族の先祖神を祀ることと,宗族内の秩序を尊重することにあり,神々を祀る資格については血縁に基づけて考えた。孔子は神霊(鬼神)そのものについては距離を置いたが,祭祀は極めて尊重し,資格のない者が祭祀を行なったときには非常に嘆いた。たとえば,季氏(魯の大臣)が本来は魯の国君だけが祀るべき泰山の祭祀を行なった時には,たいへんに嘆いた。一方,老子は祭祀については余り言及せず,道によって天下が治まっているときには神霊も人々に悪い作用は及ぼさない(60章),と考えた。両者ともに神霊そのものよりも人々の生き方に重点をおいている点で共通している。

注3 荘子の扱いも老子と同じように便宜的なもので,いま,この話は荘子が創作したものとしておく。

注4 「城」とは城壁のことで,当時の国は城壁によって周囲を囲まれた都市国家であった。人々はその中に住むのであって,「城」は江戸城や大阪城のようなイメージとは全然違ったものである。「城」内が一杯になり,さらに居住区域を増やす必要があれば,「城」の外側にさらに城壁を作って「城」に接続させる。その城壁のことを「郭」という。

注5 拙稿「『イワンのばか』と老子(上・中・下)」,『UP』176〜178号,1987年6月〜8月,東京大学出版会。

 小西増太郎は1892年にモスクワ大学に入学し,すぐにグロート教授の知遇を得,同教授の紹介によってトルストイと知り合い,その後見で,1894年11月から95年の3月にかけて『老子』の露訳作業に取り組んだ。

 小西の自叙伝『トルストイを語る』(岩波書店,1936年10月)には,いくつかのトラブルが告白されている。小西は,トルストイの面前で「夫れ兵を佳みする者は不祥なり,物或はこれ悪む,故に有道者は処らず,……兵は不祥の器にして君子の器にあらず……」のロシア語訳を読み上げた。するとトルストイは,「これは痛快だ。ここまで極論する処が老子の豪く,尊い所以である。三千年前にこう云う非戦論を高唱するとは,敬服の外はない」と喜んだ。そのあと,小西は「已むことを得ずして,これを用うれば……」と読むと,トルストイは興奮して「何だって,『已むことを得ずして,これを用うれば』と,これは取りも直さずコムプロマイスだ。……老子ともあるものが,こんなことを云う道理がない。ここには何か誤謬があるのではなかろうか,それとも後世の学者が附け加えたのか,とにかく研究が必要だ」と論じたという(39〜40頁)。

 小西の指摘によれば,その後のトルストイの著作である『日誦読本』や『生きる道』にも,この老子の31章は引用されていないという(41頁)。ただし正確には,31章のうちトルストイが批判した部分が引用されていないのであって,他の箇所は引用されている。

 また,太田健一『小西増太郎・トルストイ・野崎武吉郎―交情の軌跡』吉備人出版,2007年,参照。

注6 「民話と少年物語」『トルストイ全集』13(中村白葉訳,河出書房新社,1973年)の訳者の解説には,次のように記されている。

 『イワンのばかとそのふたりの兄弟』の最初の成稿は,1885年9月20日ごろ書き上げられ,最後的にこの仕事の終わったのは,同じ10月の末であった。しかも公刊されたのは翌86年のことになっている。この物語は,前述の諸編と異なり,その基底にこれといった特定の源泉を持たず,ただ,国民伝説の中にひろく普及しているイワンのばかとその狡猾な兄たちの像を,利用しているにすぎない。……そこには,汎労働主義もあれば,無抵抗主義もあり,金銭否定もあれば,戦争放棄もあり,真の愛の福音もあれば,徹底的人間平等の思想もあるという風に,彼のあらゆる思想が取り入れられてあり,……

 また,『イワンの馬鹿〈ロシア民話集〉』(北垣信行訳,旺文社,1980年)の訳者の解説にも次のように記されている。

 (『イワンの馬鹿』)には作者が拠り所とした一定の原典はない。ただ,一般に流布していた,イワンの馬鹿とその狡い兄たちに関する民話を利用したにすぎない。

注7 サティヤーグラハとは「真理の把握」の意味で,その運動は,社会的な要求と同時に個々の人間が自己抑制をとおして真理に到達することをめざすものであった。

【付記】第3節に関する資料の一部は本誌編集部による。記して感謝の意を表する。