アジア太平洋地域のリーダーシップと
グッド・ガバナンス


杏林大学客員教授,元駐フィリピン大使 湯下 博之

 


 アジア太平洋地域は,私にとっても個人的に深い関心を持っている地域である。なぜかといえば,単に私がアジア人であるからだけではなく,私は生涯を通じてこの地域の状況と発展に密接にかかわってきたからである。

 私は元外交官で,現役時代には8カ国に勤務したが,そのうちの7カ国がアジア太平洋地域の国であった。具体的に言えば,私はジャカルタ,ワシントン,バンコク,オタワ,北京,ハノイ,マニラにある日本大使館に,この順番で勤務した。

 これらの勤務を通じて,およびその後得られた経験と観察を踏まえて,会議のテーマである「アジア太平洋地域におけるリーダーシップとグッド・ガバナンスの新しいパラダイム」について,いくつかの点を述べたいと思う。

人間重視の経済への転換のとき

 最初に私は,現在がアジア太平洋地域の指導者および人々にとって,全世界のために大きな意義深い貢献をすべきときであることを指摘したいと思う。

 例えば,経済の分野では,アジア太平洋地域は世界のために機関車の役を果たすことが期待されていることは,よく知られている事実である。さらに,この地域,とくにアジアは,世界を新しいパラダイムに導く資格を持った役者なのである。

 先の米国大統領選挙で,オバマ候補(当時)が「変化」を唱えて勝利したことは周知のことである。しかし「変化」を必要としているのは米国だけではない。世界全体が,政治の面でも経済の面でも,有意義な変化を切実に必要としている。これに対して,アジア太平洋地域は,世界中の人々のものの考え方をよい方向に変えることに貢献して,有益な役割を果たすことができると思う。

 例えば,経済面では,現在の金融危機は,いわゆるマネー・キャピタリズムが,少なくとも誰にとってもよいものというわけではないことを,はっきりと示している。

 まもなくワシントンでG20首脳会議が開催されて,金融危機対策および金融ルールと機構の改善が討議される。そのこと自体は妥当なことである。しかし,私の見方では,真の問題はもっと根本的なものだ。基本的な問題は,今日では,お金に余りにも大きな力と重みが与えられていて,人間の側面とか人間にとって持つ意味が,私たちの経済活動において,残念ながら無視されているということである。

 私は,会社は株主のものであるという主張を耳にして,本当に驚かされた。私の考えでは,会社は何よりも経営者および被雇用者という,その会社で働く人たちのものであると思う。その会社の株主やその会社が必要とする資金を融資している銀行は,確かにその会社の利害関係者であり,その会社がすることに対して発言権を持つであろう。しかし,彼らがその会社の持ち主であると見なすことは,健全とはいえない。

 この点に関連して,日本には,徐々に幾分失われつつあるけれども,会社はそこで働くすべての人たちで構成する一つの家族,ないしはチームのごとくに扱うという伝統がある。労働組合ですら,基本的には会社単位で作られ,職能別には作られていない。この日本の伝統は,会社の人間的要素に多くの注意を払ったものであり,今日,世界中で見られるお金に支配された経済活動に由来する深刻な問題に対処する上で,真剣な注目に値するものであると思う。

 もし,人々の考え方が,「お金がすべて」から「もう少し人間の要素も」に変化すれば,この世の中は,今ほどぎすぎすしたものではなく,もっと住みやすいところになるだろう。そうすれば,日本,そしてアジアの多くの国々は,よりよいパラダイムのためのそのような変化を促進する立場にあると言えるであろう。そして,今が,そうすべき時なのである。

平和と安定をもたらす「調和」のコンセプト

 人類の新しいよりよいパラダイムのためのアジアの貢献は,政治面や社会面でもありえる。

 近現代史が示すように,私たちは西洋文明に多くを負っている。私たちは,西洋文明に起源を持つ種々の発展のお陰で,物質的に快適で便利な生活を楽しんでいる。 

 西洋文明は,このように私たちに多くのよいものをもたらしてくれた。しかしながら,西洋文明も欠陥がないわけではなく,時には修正が必要になる。そして,現在,まさにそのような修正が必要になっており,これに対してアジアは貴重な貢献ができると私は思うのである。

 西洋文明の根底にある西洋的な考え方の特色の一つは,「征服」というコンセプトで,単に敵を征服するのみならず,自然といったものまで征服するという考え方である。

 このような考え方は,確かに,発展を達成するのに役立った。しかし,無制限に征服を追い求めると問題を生じることがあり,私たちが現在直面している地球規模の深刻な問題のうちのいくつかは,そのような問題を含んでいる。地球温暖化ないし気候変動の問題は,間違いなくその一例である。世界のあちこちで不幸な結果をもたらしている宗教紛争も,この問題と無関係ではないかもしれない。もちろん,宗教そのものは貴重であり,多くの人々を救っているのであるが。

 東洋的な思考の特色の一つである「調和」を重視するコンセプトは,上記の問題を軽減する上で,有意義な貢献になり得ると考える。部族であれ,宗教であれ,その他の何であれ,それらを異にするグループの人々の間で,調和が真剣に探求されれば,世界はもっと平和で,開発や繁栄の達成ももっと容易になることであろう。

 もし,調和が人間と自然との間で真剣に探求されれば,地球および人間を含むあらゆる地球上の生物にとって,より快適な存続が可能な状況がもたらされることであろう。自然との共生は,日本人の生活の基本的な考え方で,精神生活ないし文化の面でも,日常の生活においても見られるものだ。それを世界中に広めようではないか。

 もし,アジアの人々,そしてとくに政治家その他の指導者の人たちが,以上のような私の考えに賛同されて,手を携えて世界中に「調和」のコンセプトを広めて下さることになれば,大変幸せに思う。

リーダーシップとグッド・ガバナンスが国の発展に直結

 次に,アジア太平洋地域におけるリーダーシップとガバナンスならびに平和と安定について,私の観察を述べたいと思う。

 強力で正しいリーダーシップとグッド・ガバナンスは,国の安定と繁栄にとって決定的に重要である。それらがなければ,開発途上国は,いかに多くの政府開発援助(ODA)の提供を援助国から受けても,まともに発展できない。私は外交官生活を通じて,種々のよい例や悪い例を目にしてきた。

 第二次世界大戦後という比較的短い期間内においても,アジアで国々の盛衰が見られたが,多くの場合,多分にリーダーシップの安定性と方向性の正しさ如何によって,国が発展したり衰えたりしてきた。リーダーシップの安定性は,しばしばガバナンスがよいかどうかに依存していた。

 すべての具体的事例を列挙することは控えるが,フィリピンのマルコス元大統領(在任1965-86年)は,その一例と言える。また,1950年代の終わりまでは,ミャンマーの首都であったラングーン(現ヤンゴン)は,バンコクよりも繁栄していたと聞くと驚く方がいるかもしれない。現在では,ほとんど信じがたいような話だ。それがなぜ変わってしまったのか?その答えは,タイとミャンマーの指導者がそれぞれの国を導いたやり方および方向性の違いにある。

 私たちは,第二次世界大戦後のアジア諸国の歴史を分析することにより,リーダーシップとグッド・ガバナンスの重要性,ならびに何をなすべきか,あるいはなされねばならないか,そして何をなすべきではないか,あるいはしてはいけないか,について多くのことを学ぶことができる。

相互理解の重要性

 アジア太平洋地域の平和と安定については,私は次のような観察をしている。

 この地域の特色の一つは,その多様性である。諸国の大きさや経済レベルが多様であるだけではない。言語,人種,宗教,政治制度,等々すべてが多様である。このことは,同一性が高く,欧州連合(EU)としてまとまっているヨーロッパのような地域とは大きく異なる点だ。

 しかしながら,アジアにおいても,今日では一国のみでは存続が不可能だ。私たちは相互に依存している。したがって,前述の諸国間の違いにもかかわらず,私たちは自分のためにも互いに協力しなければならない。繁栄を望むのであれば,戦ったり,けんかをしたりしている余裕はない。

 円滑かつ積極的な協力関係を実現するためには,域内諸国間に共通の利益を作り出し,緊密に編まれた相互依存の関係を築くことが有用であろう。そのための基本的な前提条件が,相互理解である。

 皆さんは,アジア人は所詮同じアジア人なのだから,アジア人同志は理解し合っていると思っているかもしれない。確かに私たちアジア人に共通のものはあるが,しかし,それだけではお互いを理解するのに十分ではない。私は,日本人と中国人が,多くの文化的共通点にもかかわらず,相違点もあるということを認識しないばかりに,誤解やトラブルに至るという例を少なからず見てきた。

 相互理解なしに関係の緊密化を図ることは,危険でもあり得る。なぜなら,関係の緊密化は摩擦の増大でもあり得るからだ。したがって,私は一層の相互理解の増進が,円滑で実り多い協力と地域の平和と安定にとって,最重要の基本的要素であると指摘したいと思う。

 一層の相互理解の増進のためには,多くの方法がある。誰にでもすぐ分かる方法の一つは,人の交流,とくに若い人たちの交流を促進することである。しかし,他にも多くの方法がある。 

 結びとして,アジア太平洋地域にはよりよい人生の新しいパラダイムを実現するために,できることがたくさんある。その事実に対して真剣に目を向け,その事実を生かすための具体的な努力をするかどうか,それは指導者たちおよびその支持者たち次第なのである。

(2008年11月12日〜15日,千葉県浦安市で開催されたUPF主催・国際指導者会議・アジア太平洋サミットにおいて,発表された内容を整理して掲載した。)