日朝関係とその展望

―国交正常化交渉を中心に

元日朝国交正常化交渉日本政府代表 遠藤 哲也

 


はじめに

 私が外務省北東アジア課で朝鮮半島問題を担当していた頃の1977年に,日本海沿岸や九州などで「拉致事件」が起こり始めた。当時はまだ「失踪事件」と呼ばれ,北朝鮮がやったに違いないと推察はできたが確たる証拠がなく,一部野党は「韓国の自作自演だ」などと主張していた。また当時の新聞を見れば分かるが,メディアもこの問題を大きく取り上げようとしない状況だった。80年代後半にウィーンに駐在した時も,原子力問題をめぐって北朝鮮と交渉する機会があった。北朝鮮の不穏な動きが衛星写真などで明らかになり始めた頃である。さらにその後,日朝国交正常化交渉の日本政府代表やKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)の代表を務めた。このように,外務省に在籍したかなりの期間を朝鮮半島問題のために費やした。

正常化交渉の経緯


 日朝国交正常化交渉が始まったのは91年1月で,中断した時期も含めると17年を越える「超マラソン交渉」となっている。にもかかわらず,日朝国交正常化交渉はまったく解決の目途が立っていないのが現状である。ちなみに,長いと言われている日韓国交正常化交渉でも14〜15年でまとまった。

 まず,91年に日朝国交正常化交渉が始まった背景を振り返ってみたい。冷戦が終結した当時,ソ連は韓国と国交を樹立した(1990年9月)。北朝鮮は頼りにしていたソ連,中国による後ろ盾を失い,国際的な孤立に悩み始めたのである。政治的側面だけでなく,COMECON(コメコン)の一部として享受していた経済的な優遇関係も失われつつあった。経済までもが逼迫し始めた北朝鮮は,米国との関係を改善する必要があると考えるようになった。

 ところが,北朝鮮は超大国米国と対等に交渉することが難しいと判断し,少なくとも経済協力が期待できる「手頃」な日本とまず関係を結ぼうと考えたのではないか。故金日成主席は90年9月に訪朝した金丸信・元自民党副総裁に働きかけ,それが国交正常化交渉開始の契機となった。

 ここで忘れてならないのは,北朝鮮の目的があくまでも米国にあるという点だ。現在も北朝鮮の対外政策は一にも二にも米国である。どれほど悪口を言っても外交政策の中心が米国に置かれているのは間違いない。日本はその「従属変数」のような位置づけである。

 いずれにしても,91年1月から計8回にわたり北京で交渉が行われた。東京と平壌でも予備会談を行ったが,結局,お互いの大使館があって電信が使用できる北京において,日本大使館と北朝鮮大使館で交互に交渉が行われた。簡単に言えば,この8回の交渉は原則論の応酬に費やされた。

 例えば,1905年の日韓併合条約は国際法に照らして合法か,非合法かという議論である。これは抽象論のように見えるが,必ずしもそうではない。もし北朝鮮が主張するように日韓併合条約が国際法に違反するならば,日本の36年間の朝鮮半島支配も非合法な支配である。したがってそれに対する賠償が必要だ,という論理だ。一方,日本側は日韓併合条約が正当なものだったかどうかは別として,手続き上はそれが国際法に則って結ばれたものであり,したがって現在の正常化交渉は植民地が旧宗主国から分離されてゆく一つの過程である,と主張した。このような議論が延々と続いたのである。

 実は韓国と間においても1965年の国交正常化に至る交渉の中で同様な議論がなされた。その時は1905年の条約は「もはや無効」であるという合意がなされた。韓国側は「1905年当時から無効な条約」ととらえ,日本側は「1945年から効力が無くなった」と解釈し,いわば玉虫色の決着をみた。

 もう一つの争点として,北朝鮮側は,金日成率いる人民解放軍が日本陸軍と戦って勝利したので敗者は勝者に賠償を支払うべきだ,という理論攻勢を仕掛けてきた。それに対し日本側は,日本は連合軍と戦って連合軍に降伏したのであって,北朝鮮と戦ったわけではないと主張した。従って賠償も支払う必要がないと反論し,議論はすれ違ったままとなった。

 しかしながら,日本は財産請求権という形でなら資金を出すことにやぶさかではない,とも伝えた。財産請求権とは,日本が朝鮮半島を支配している期間に与えたプラスの財産とマイナスの損害を差し引きし,合計がマイナスになれば日本がその分を負担するという内容である。ただし実際には50年以上も昔の請求権を正確に算出するのは不可能で,韓国との交渉では両国が請求権を放棄し,その代わり日本が3億ドルの無償援助と2億ドルの有償援助の,計5億ドル相当の経済援助・技術協力をすることで合意した。

 北朝鮮との交渉において日本側の論理では,「賠償」や「補償」という形で応じることはできず,まして金丸氏が約束したような「南北朝鮮分断後45年間についての補償」などは無理な話だった。結局,交渉は埒が明かなかった。北朝鮮にしてみれば金丸信という自民党のドンが「よし」と言ったのにまったく進展がなく,法律論議に終始して期待の資金も得られそうにない。「これはどうしようもない」と思い始めたのだろう。むしろ議論を一時中断して米国を相手すれば,日本はいずれ追随してくると判断したと思う。

 そこで北朝鮮は92年11月の第8回会談で「李恩恵(リ・ウネ)問題」を利用したと考えられる。大韓航空機爆破事件の実行犯である北朝鮮の元工作員,金賢姫(日本名:蜂谷真由美)が「李恩恵」という女性から日本語教育を受けたと証言した。警察庁は91年,この女性が78年に日本から拉致された田口八重子氏と同一人物であると認定した。日本側は会談の席上,北朝鮮にこの女性について照会した。すると北朝鮮側は烈火のごとく怒り,「存在しない女性の話を持ち出して神聖な交渉を妨害するのか」と言って席を立ってしまった。

 こうして日朝国交正常化交渉は長い冬眠期間に入ることになった。その間,北朝鮮は交渉相手を米国に切り替えた。しかし米国のような大国をどうやって交渉の席に着かせるか思案し,最終的に核を持ち出した。もちろん北朝鮮の核開発はいろいろな意味合いを持つが,主たる目的は米国を交渉の席に着かせることだった。結果的に,この「核カード」はある程度成功したと言える。

 北朝鮮は寧辺にプルトニウムの再処理施設を建設し始めた。この施設は80年代の終わり頃から米国の衛星写真で確認されており,問題視されていた。国際原子力機関(IAEA)の理事会で北朝鮮側にその写真を突きつけ,核拡散防止条約(NPT)に加入しているなら査察を受けるべきだと追及した。すると北朝鮮は,米国が韓国に核を持ち込んでいるので北朝鮮としても核を持たざるを得ない,などと巧みに反論した。

 90年代初めの東西雪解けの影響や米国との関係に対する思惑から,北朝鮮は92年1月にIAEAとの保障措置(査察)協定に署名した。ところが査察の結果,実際の調査結果と北朝鮮の主張に食い違いがあることが明らかになった。IAEAはさらなる査察を求めたが(特別査察),北朝鮮は拒否し,NPTからの脱退を表明した。これが第一次核危機である。その後,ジミー・カーター元大統領の訪朝を経て,米朝双方は「枠組み合意文書」に調印した。こうした一連の出来事から,北朝鮮側には核カードを使って成功したという認識があると思われる。この間,日朝間の交渉は中断したままだった。北朝鮮は拉致問題については「日本のでっち上げ」と主張し,核問題については米国としか交渉しないという姿勢だった。

 このような膠着状態がしばらく続いたが,90年代の終わりになって動きがあり,2000年4月に第9回会談が再開された。日朝双方の立場は基本的に変わらなかったが,日本側は第10回会談で財産請求権方式に代えて,過去の清算に経済協力を適用する方式(日韓方式)を公式に言及した。やはり北朝鮮は日本からの資金を欲しがっていた。

 日本は65年に韓国に5億ドルを支払ったが,当時の日本の外貨準備高は18億ドル程度であり,日本にとって相当な金額の負担であった。韓国はそれを梃にして高度経済成長の足がかりをつかんだとも言える。北朝鮮はそのことを知っているので,賠償という形でなくても何とか日本の資金を手に入れたいと思っていた。日本側も日韓方式による決着の可能性を匂わせていた。

 そうこうしているうちに,横田めぐみさんの拉致問題が浮上してきた。この時は李恩恵問題と違い,国民的な注目が集まった。北朝鮮はもちろん一貫して否定した。突破口が開かれたのは2002年9月の小泉首相訪朝である。この時は北朝鮮側も請求権を放棄し,「日韓方式」で経済協力を行うことで合意している。拉致については,北朝鮮側が日本人13人を拉致したことを認め,「一部の特殊機関の者による行為」と説明した。その後,北朝鮮が生存していたとした5人の拉致被害者の帰国が実現した。

 北朝鮮側は金正日・総書記が拉致を認めたことで拉致問題は決着したと考えたのであろうが,事態は火に油を注ぐ結果となった。そして日本側は経済協力どころではなく,拉致問題に焦点が絞られるようになった。それが現在に至るまで続いている。

交渉上の大きなハードル

 日朝間の交渉における課題を整理すると,@拉致問題,A核問題,B経済協力問題の三点である。まず拉致問題に関して,日本政府は「拉致問題の解決(進展)なくして正常化なし」との立場をとっている。しかし「解決(進展)」とは具体的に何を意味するのか,明確に示されていない。北朝鮮は,拉致したのは13人だけであり,死亡した8人を除く5人が帰国したので問題はすべて解決済みとの立場を貫いている。日本側はまったく納得せず,拉致被害者全員の帰国と責任者の処罰を求めている。どこで決着するかは大きな課題である。解決に向けて国民感情の問題とともに,政治的な強いリーダーシップが必要だ。

 核問題については,北朝鮮にとって核は「虎の子」のような存在である。核があることによって世界の大国が北朝鮮のために集まっている状況で,その核をおいそれと手放すはずもない。かといって「手放さない」とも言えないので,放棄する素振りを見せながら時間を稼ぐというやり方だ。

 北朝鮮が小型化した核弾頭を搭載したミサイルを保有した場合,日本はその射程内に置かれる。当分の間,米国に届く技術は持たないであろう。日本と米国,韓国,中国の間には,北朝鮮の核に対する脅威認識の差がある。もっとも深刻に受け止めるべきなのは日本である。もちろん拉致問題は重要だが,核問題にあまり関心が高くないという不思議な現象が起きている。

 六カ国協議は現在,完全に米朝主導の下で行われている。まるで米朝が主役で中国が舞台回し,日韓露は観客のような状態だ。その意味でも,日本はもう少し核問題に対する比重を高めていく必要があるのではないか。日韓関係が悪い期間が長く続いたことも悪影響を与えた。

 米国はブッシュ政権の二期目から北朝鮮に対して宥和的な政策を取り始めた。幸い,政権末期の最近になってようやく宥和政策の修正が見られる。北朝鮮との合意事項には決して穴があってはいけない。必ず隙を突いてひっくり返してくる。枠組み合意もウラン濃縮について明記しなかったために失敗した。米朝だけで進めてしまったために抜け穴ができ,そこを北朝鮮にうまく利用されている。今後,新たに仕切り直しをする際には日韓が一体となり,米国とよく話し合って事を進める必要がある。特に,もっとも深刻な脅威に晒されている日本が発言を強めなければならない。

 最後に,経済協力についてはすでに方式は定まっている。「過去の清算」は北朝鮮側の最大の関心である。しかし経済協力の概念は双方でかなり違っているのではないか。北朝鮮側には人的被害(例えば,「従軍慰安婦」「強制連行」など,個人にかかわるもの)については別途取り扱うべきとの意見があるようだ。経済協力とは別に賠償が必要だと言い始めている。しかし,これは日韓方式の土台を覆す考え方である。また金額に関する基準も示されてない。

 いずれの問題についても,いまだに暗中模索の状態である。そもそも北朝鮮と国交正常化する必要があるのかという意見もある。金正日の次の政権になってから交渉を進めるべきとの考え方だ。一方で,「日ソ共同宣言」のように,難しい問題を棚上げにしてまず国交を正常化するという考え方もある。しかし北朝鮮に関しては非常に重大な懸案事項が多く,それらをすべて棚上げにしてしまうのが適切かどうかは大いに疑問である。

 戦後の日本外交にとって,ロシアとの領土問題と北朝鮮問題は,残された最大の案件である。しかしながら,距離的にも近く歴史的に深い関係にあるわが国と北朝鮮は,友好的とは言えないまでも何らかの関係を維持することが必要である。現在のように意見を交わすチャンネルも持たないといった状況は早期に改善されるべきである。しかし今年中,来年中と時期を定めることは極めて危険である。問題点を整理した上で,徐々に正常化を目指して努力を続けるべきであり,そのためには強い政治的リーダーシップが不可欠である。

  これまで15回程度の大使級会談が行われたが,その後は交渉が途切れたままである。前回の六カ国協議においても日朝間の会談は開催されなかった。日米韓の協力関係を強化することがもっとも大切である。

(2008年12月19日)