チベット仏教における王権思想



早稲田大学教授 石濱 裕美子



1.仏教の王権思想

 釈尊がお生まれになった際に,人相見が

「この子の身体的特徴を見ると,家にあっては転輪聖王となり,家をでては人を救う仏陀となるであろう」

と予言したことからも分かるように,仏教では仏と王はきわめて類似した存在とみなされてきた。王は人々の肉体を救い,仏は人々の精神を救い,両者ともに人々を救済するという役割が共通しているため,似たイメージによって語られていたのである。初期仏教では人々の精神を救う仏は,肉体を救う王よりもはるかに高く位置づけられたため,王が仏と同等に語られることはなかった。しかし,大乗仏教に入るとこの両者の距離は近づき,名王は仏教の聖者である,とする菩薩王思想が生まれた。以下,菩薩王思想について簡単に述べてみよう。

 仏教思想では,世界もそこに住む「命あるもの」(有情)も,「六つの生存領域」(六道輪廻)のなかで死と再生(転生)を繰り返してきたと考える。われわれをこの輪廻に縛り付けているのは煩悩であり,輪廻にある限り,生きる・老いる・病む・死ぬなどの四つの苦しみから逃れることはできない。そこで煩悩を断ち切るために説かれるのが,仏の教えである。仏の教えに従い煩悩を滅し,この輪廻から解脱したものは「目覚めたもの」(仏)となる。しかし,多くの命あるものにとって,仏の境地(菩提)に至るのは至難の業である。そこで,すでに,仏教修行を終えて,六道輪廻から解脱する資格を備えながらも,あえて輪廻の世界に留まり,仏に準ずる力を用いながら他の命あるものを仏の境地に導く「菩薩」という人間像が生まれた。中でももっとも有名な菩薩は観音菩薩であり,観音が千手千眼などの姿で表現されるのは,時空を越えて,多くの生き物を救うことができる観音の万能の力を表すためである。

 この菩薩思想が王権と結びついて生まれたのが「菩薩王思想」である。菩薩王思想については,大乗経典のもっとも有名な経典の一つである『般若経』にこのように記されている。

 さらに偉大なる勇気をもつ菩薩は戒律修行(戒波羅蜜)をしっかりおこない,目的をもって一切の生をとり,転輪聖王の一族に生まれ,転輪聖王の超常力(自在)によって,あらゆる命あるものを十善業の道(注1)に導くのである。

 つまり,菩薩王とは,菩薩が命あるものを効果的に救うために,転輪聖王の家に生まれて王となったものなのである。「転輪聖王」(てんりんじょうおう)とはインドに古来から存在する,武力によらず,徳によって周囲を支配する理想的な帝王である。その誕生とともに天から輪が降臨し,その輪は東西南北の王のもとにころがりて,その輪のいたるところすべての王が自ずと降参するため,世界を平和に統治することができるといわれる。この逸話からも分かるように,転輪聖王とは,太陽(日輪)のように人々を圧倒的な力で育み,しかもその存在を感じさせない理想的な王なのである。仏教(法輪)と太陽(日輪)のアナロジーから,転輪聖王のイメージは仏教に取り入れられると,仏教を興隆することによって国土を安寧に育む王という意味が付加された。

2.チベット仏教世界で受肉化した

 菩薩王思想

 7世紀に中央ユーラシアにおこったチベットの古代王朝は,インドから仏教を導入し強大な軍事国家を築き上げた。10世紀に入ると,インドで仏教が衰退し,チベットにはインドから多くの僧が亡命してきて,彼らの教えはその思想や修行法の差から諸宗派を形成し,それぞれが地域を支配する氏族と結びついた。チベット仏教はやがてモンゴル人,満洲人の間にも広まり,これらの三地域はチベット仏教という共通の信仰を持つことによって政治的・文化的一体性が生じた。具体的には,チベットの高僧はモンゴルや満洲でも同様に崇拝を受け,チベットの過去の名王の事績はモンゴル・満洲の王侯の手本とされるなど,これらの地域にはチベット仏教文化を紐帯にして,価値観を共有するチベット仏教世界ともいうべきひとつの場が存在していたのである。

 チベット,モンゴル,満洲三民族を結ぶチベット仏教世界において,先に述べた菩薩王思想が受肉化して,菩薩王とされる数々の名王が現れた。代表的な王としては古代チベット(7〜10世紀)のソンツェンガムポ王とティソンデツェン王,モンゴル人のフビライ・ハーンとアルタン・ハーン,清朝(1636-1912)の康煕帝と乾隆帝などである。

 菩薩は修行によって「仏の境地」を得た者を指すので,一神教の神と異なり,複数人が同時に出現することが可能だ。したがって,チベット仏教思想は,複数の菩薩王がそれぞれの王国に君臨しつつ,全体としてはひとつのまとまりを構成する複眼的世界像を生み出した。これは儒教世界が天命を受けたただ一人の皇帝を認め,その皇帝をピラミッド型社会の頂点におく単眼的世界像を結ぶこととは対照的である。

 ひるがえって現代世界を見ると,少数民族をめぐるさまざまな問題が多発する中,チベット仏教世界の統治の仕方は,多民族が共生するためのモデルを呈示している。

 そこで次節から,チベット仏教の王権思想を概観した上で,チベット・モンゴル・満洲の王権がいかに展開されてきたかを,歴史的に考察してみたい。

3.チベット仏教世界における王権の歴史

(1)史書の中で理想化した古代チベット

 13世紀以後に登場するチベット年代記を読むと,そこにはひとつの秘教的なテーゼが何度も繰り返されていることに気づく。すなわち,「チベットは観音菩薩の教化の地である」というものだ。この考えに基づきチベット人たちは,歴史に登場した聖者たちを観音菩薩の化身とみなし,その行いに観音菩薩がチベット仏教を広める御技をみてきた。

 観音菩薩は仏の意識の中の慈悲を具現した菩薩であり,人々の救いを求める声(音)をキャッチして(観)時間・空間を超えて救済する超越的なパワーを持つ。チベット年代記によると,

 はるか昔,観音菩薩は阿弥陀仏の前ですべての命あるもの,とくにチベットの命あるものの救済を行うことを誓い,「もし自分がその誓いを破り一瞬でも自分の幸せを求めたならば,自分の体が千々に砕けますように」との誓いをたてた。そして観音は朝から晩まで命あるものを救い続けた。しかしある日,赤い丘の上からチベットを見わたすと,そこにはまだ救うべきものが数多くいた。それを見て観音は疲れを感じ,一瞬だけ「仏になってしまおう」という気持ちを起こした。するとその瞬間,古の誓いによって観音の体は千々に砕けた。それを見た阿弥陀仏は観音の砕けた体を十の顔,千の手に作り,さらに多くの生き物を救えるようにした。

 という,太古の昔より観音がチベットの生き物のために自己を犠牲にしてきたことを物語るエピソードから始まる。

 そして7世紀になると中国の歴史書にも出てくるソンツェンガムポ王(569?-649年)が現れ,チベット初の統一王朝を開く。チベットの史書によると,この王は観音菩薩の放った光から生まれたといわれ,その王宮は太古の昔,観音がチベットに降臨した赤い丘の上に建てられたという。ソンツェンガムポ王は若くして即位すると,仏教を導入し,チベット文字を制定し,ネパールと中国から王妃を迎えてインドと中国の仏教文化をチベットに導入した。つまり,ソンツェンガムポ王は仏教を導入するために転輪聖王家に生まれた観音菩薩なのである。

 過去に観音が出現し,その後ソンツェンガムポ王が王宮を営んだ赤い丘の上には,現在ダライラマの宮殿ポタラ宮がたっている。古代王朝が終焉し数百年たった17世紀,同じように観音の化身として崇められたダライラマ五世(1617-1682年)が,ソンツェンガムポ王にならってこのポタラを建てたのだ。つまり,チベット人とは常に丘の上に現れる観音様に見まもられながら歴史を紡いできた民族なのである。

 観音菩薩の像には,頭の上に必ずもう一つの顔がある。この頭上に戴く頭(化仏という)は阿弥陀仏を示している。阿弥陀仏は仏であるので,すでに修行を終えて輪廻の外にでてしまっているが,輪廻の中にある衆生を救おうとする時には,観音菩薩を地上に遣わす。このため,観音像の頭上にはその大本を示すために阿弥陀仏が作られるのである。このため,観音菩薩の化身とされるソンツェンガムポ王の像も,その顔の上にもう一つの顔をつけて作られる(図1)。

 ソンツェンガムポ王がヤルルン渓谷を拠点に築いた王朝は,中国史料には吐蕃と記された。この王朝は10代にわたって続き,世界史的には強力な軍事国家として知られ,755年におきた安禄山・史思明の乱に際しては,唐の都長安を占領するほどの国力があった。中央ユーラシアに覇を唱えた古代王朝は,後のチベット人にとって追慕の対象となり,中でも開国の王であり仏教の導入者であるソンツェンガムポの御代は仏教に基づく政治が施行された理想の時代と美化された。ソンツェンガムポ王の事績の諸要素は,後世のチベット,モンゴル,満洲の王侯によって繰り返し再演されることとなる。

(2)チベット仏教のモンゴルへの伝播

 チベット仏教を国レベルで導入した最初のモンゴル王は,チンギス・ハーンの孫で中国に元朝(1271-1368)を建てたフビライ・ハーン(1215-1294年)である。

 チベット人は他地域とは隔絶した高地に暮らしつつも,仏教を広めるという目的のためには,下界に積極的に降りるという側面も併せ持つ。13世紀にモンゴル帝国がチベット地域に侵入した際にも,何人もの僧がモンゴル宮廷に布教に向かった。中でも歴史的影響力が大きかったのは大学者サキャ・パンディタ・クンガーゲルツェン(1182-1251年)のモンゴル行であった。

 1239年,チベット方面の計略に当たっていたチンギス・ハーンの孫ゴダンが「チベットを代表する聖者をよこせ。さもなければチベットに軍隊を送り寺を破壊する。」との通告を行った。これに応えてチベットから出向いたのが,インドで外道を論破しパンディタ(大学者)の令名も高いサキャ・パンディタであった。彼は1244年にモンゴルに向かい,布教に励んだが,1251年に亡くなった。

 その後を継いだ甥のパクパ(八思巴,1235-1280年)は1253年に,ハーンに即位する前のフビライと知己を結び,ヘーヴァジラの灌頂を授けた。そして1260年にフビライが即位すると,若くして「国師」に就任し,マルコ・ポーロなどによって世界最大の都市と称せられた元の都・大都(現在の北京)において,元王朝の宗教行政を司り,フビライの王権を転輪聖王として演出した。

 まず,パクパはフビライの王座の上に白い傘盖を置いた。これは白傘盖仏という都市を護る仏によってフビライの王権が守護されることを示したものである。この仏が中国仏教のパンテオンには属さず,インド・チベット仏教特有の仏であることからも分かるように,パクパは中国仏教の仏ではなく,チベット仏教によってフビライの王権を支えたのである。

 パクパはまた,大都の正門にあたる崇天門の前に金輪を立てて,フビライが武力によらず徳によって支配する転輪聖王,転輪聖王の中でも最もランクの高い金輪王であることを示した。フビライの治世は軍事的にも経済的にも最高潮の時代であったため,施主フビライと国師パクパという施主・応供僧関係は一つの伝説となり,のちのモンゴル・チベット関係に大きな影響を与えた。とくに,帝国が崩壊した後のモンゴル人たちにとって,モンゴルの最盛期の記憶はチベット仏教とともに回想されるものとなったのである。

(3)転生制度の確立による社会の変質

 ここで,チベット仏教を特徴づける転生相続制度(注2)の来歴について説明したい。

 10世紀にチベットの古代王朝が崩壊すると,国家の保護を失った仏教界は一時的に衰微した。しかし,11世紀に入ると,イスラームの侵攻によって衰微するインド仏教界から数多くの亡命者を迎え,チベット仏教は再び復興の途についた。まず,カダム派が興り,ついで,このカダム派の修道階梯に,自派の修行法・哲学をのせて,サキャ派,ニンマ派,カギュ派などの諸宗派が誕生した。そして,最後に出現したゲルク派がカダム派とサキャ派の多くの寺を併呑し,また,各地に新しい寺を建て,モンゴル布教にも成功し最大勢力となった。

 転生相続制度は,文献上確認できる限りでは13世紀頃にカギュ派の一派であるカルマ派の総帥,ゲルワ・カルマパの座の継承に始まったと言われている。転生という神秘的な領域は,転生譜によって過去の聖人・名王の権威なども現代につなげることを可能とした。そのため,この制度の出現とともに,世俗は仏教界に対して劣勢を強いられるようになった。

 なかでもゲルク派の転生僧ダライラマは,同派の開祖ツォンカパの弟子ゲンドゥンドゥプを一世に仰ぎ,観音菩薩の化身と言われたために徐々に権威化し,三世ダライラマの時代にいたってモンゴル布教に成功し,国際的な名望を得ることになる。以下,「ダライラマ」号の誕生過程について見てみよう。

 元朝は11代目のトゴンテムル・ハーンの時代に中国の地を失い,モンゴル人たちは北に撤退してもとの遊牧生活に戻り強い王権が消滅すると,モンゴルで栄えていたチベット仏教も力を失っていった。しかし,15世紀にチンギス・ハーンの直系と称するダヤン・ハーンが現れ,一時期東モンゴルを統一し,再びモンゴル高原に強い王権が誕生した。そのため17世紀に登場するモンゴル諸地域の王侯はほとんどがこのダヤン・ハーンの11人の子供達を祖先と仰いでいる。そしてこのダヤン・ハーンの孫アルタンの時代に,衰微していたチベット仏教が再びモンゴルの地において復活する。

 アルタンと仏教の出会いは次のようなものであった。16世紀後半に,アルタン・ハーンは青海に遠征し,一人のチベット僧に出会い,仏教に対する信仰心が芽生えた。そして,アルタンはフビライの時代のモンゴル帝国の繁栄を思い,フビライがパクパをチベットから招聘したことにならい,ゲルク派の化身僧ソナムギャムツォをチベットから迎えることを決意した。こうして,1578年にアルタン・ハーンとソナムギャムツォは,青海で会い,ソナムギャムツォはアルタン・ハーンに「梵天にして力の輪を転じる王」という転輪聖王号を授け,アルタン・ハーンはソナムギャムツォに「持金剛仏ダライラマ」という称号を献じた。『アルタン・ハーン伝』をはじめとする諸モンゴル年代記によると,この会合の席上,アルタン・ハーンは前世の記憶を蘇らせて自らがフビライの転生者であることを「思い出した」と記されている。

 ちなみに,アルタンがソナムギャムツォに奉った称号が後にこの人物の転生者をダライラマと呼び習わす嚆矢となった(注3)。つまり,ダライラマ一世はソナムギャムツォであといえるが,彼の二人の前世者も遡ってダライラマ号をもって呼ばれたため,ソナムギャムツォはダライラマ三世と呼びならわされている。

 アルタン・ハーンは,この時の会合において,ダライラマ三世からヘーヴァジラの灌頂(注4)を授かり,臣下に十善業を称揚し,さらにラサの釈迦牟尼像をモデルに仏像を鋳造して南モンゴルに初めてのゲルク派の寺院を建立した。彼の死後もその子孫たちは『般若経』をはじめとする経典のモンゴル語訳を進め,全経典を訳してモンゴル・カンキュル(経部)を誕生させた。これらの事績がチベットのソンツェンガムポ王や元朝のフビライ・ハーンの事跡にならったものであることは言うまでもない。

 この二人の出会いを契機にモンゴルに転生思想が流入し,モンゴルの社会を変化させていった。アルタン・ハーン王はチンギス・ハーンの子孫とはいえ傍系であり,かつ,その治める地もモンゴル人の住むごく一部であり,「ハーン」(遊牧民の大王を意味する言葉)を簡単に名乗れる立場にはなかった。しかし,ダライラマと出会い,その祝福を受けたことにより,フビライの転生であるとの名望を得て,アルタンはハーンを名乗ることができたのである。

 直系とはいえチンギスから何代も離れたチャハル王家の構成員と,フビライそのものの権威を比べれば後者が圧倒的なものであることは言うまでもない。アルタンはフビライの転生者であるとみなされることによって,当時の誰よりも大きな権威を手にすることができたのである。しかし,この権威は言うまでもなく自称でいくら主張しても認められるものではない。本人がその前世者を思わせる業績をもっており,それに加えて「転生」を認めることのできる高僧がいてはじめて,転生は社会に受け入れられるのである。

 かくして,モンゴル貴族がチベットの高僧のもとにはせ参じ,布施を献じて称号を求めるという現象が堰を切ったように始まった。そして,従来チンギス・ハーンの血筋の遠近で権威が決まっていたモンゴルの社会に,過去世の尊さの程度に応じて決まる権威が加わった。すると,チベット社会と同様に,世俗が超俗に従属し,世俗勢力は宗教的権威を支持するか,それと一体化することによってしか権力を握れないような社会にモンゴルは変質していったのである。

(4)僧王ダライラマの誕生

 17世紀に入ると中央チベットには,古代王朝の崩壊以来久しく存在しなかった強力な政権が生まれた。1643年,ゲルク派は西モンゴルのホショト部王家の王子グシ・ハーンの後援を受けて,政敵のカルマ派を破って中央チベットを制圧したのである。

 ダライラマ以前に現れた観音菩薩の化身たちは,古代チベット王朝の開祖ソンツェンガムポ王を除けば,みな特定の宗派の開祖であり,出家した僧侶であった。ダライラマはすでに観音菩薩の化身として知られていたため,ゲルク派がチベットを制圧すると,必然的にはダライラマがチベットの最高権威者の座につくこととなった。つまり,僧であると同時に王であるという,かつてない観音菩薩の化身が現れたのである。とくにダライラマ五世の摂政であったサンゲギャムツォ(1653-1705年)はダライラマの権威の確立につとめ,ダライラマの転生譜を調え,ポタラ宮を完成させ,ダライラマの王権を以下のように理論化した。

 『カーダム宝典』には「観音菩薩はチベットが野蛮なうちは王の姿で現れ,力をもってチベットを支配するが,仏法が浸透して後は,僧の姿で現れる。」という一文がある。古代王朝時代,観音は王の姿によってチベット人を統治したが,強力な政権が現れなかった10世紀から17世紀の半ばまで,観音は仏教の各宗派の高僧の姿になってチベット人を導いた。今,チベット人の精神が成熟したために,ダライラマはその二つの時代をふまえて,僧にして王,すなわち「僧王」の姿となってチベットを導くことになった。

 ダライラマ五世は存命中,自らを観音菩薩やソンツェンガムポ王になぞらえる行動を積極的にとっており,ソンツェンガムポ王ゆかりの遺跡を復興し,頻繁に観音儀礼を主宰し,かつて観音がチベットに降臨した地であり,ソンツェンガムポ王が宮殿を営んだ地である丘の上に宮殿を築いた。この宮殿は観音の聖地を意味する「ポタラ」と呼ばれ(図2),ここに住まうダライラマは観音菩薩そのものとしてチベット人に敬われるようになっていった。

 こうしてダライラマの権威は確固たるものとなり,18世紀初頭にチベットを訪れたイエズス会の一派,カプチン派の宣教師デジデリ(1684-1733年)は,ダライラマの権威を次のように記している。

 チベットの神聖政治は,非宗教的なものではなく,すべての俗権や通常の政治の上にある。チベットの大ラマ(ダライラマ)はすべての長であり,チベットの無学で迷信的な人々のローマ教皇のようなものであり,他のあらゆる高僧の長でもある。…チベットの大ラマはチベット人ばかりか,ネパール人,モンゴル人,中国人によっても認められ尊敬されている。そして彼らの首長,主,保護者,大司教とみなされている。彼は常人としてではなく彼らを保護し利するために転生を繰り返してきた観音菩薩として崇められ,供養されている。彼は宗教的な事柄のみならず世俗的な事柄についても支配を行っている。なぜならば全チベットの絶対的な君主であるからである。(イッポリト・デジデリ,薬師義美訳,『チベットの報告<2>』,平凡社東洋文庫,1992年)

(5)清朝とチベット

 ここで満洲人とチベット人の関係に目を転じてみよう。17世紀初め,満洲人ホンタイジ(1592-1643年)は南モンゴルを征服し,チンギス・ハーンの直系の最後の王の手からパクパの鋳造したとされるマハーカーラの仏像を奪い取り,1636年国号を清と改めた。そして中国人,満洲人,モンゴル人を前にしてフビライの王権を再興すると宣言し1637年に二度目の即位式を行った。さらにその仏像を奉納するため当時の都・盛京(現在の瀋陽)に実勝寺という大寺を建て皇室の菩提寺とした。

 パクパのマハーカーラを奪い,二度目の即位式を行ったことは,満洲人がモンゴル人の築いた元朝の偉業を継承しようとしていたこと,同時に,またフビライの事績を慕ってチベット仏教を信奉していたことを示している。

 満洲人は周囲を朝鮮,中国,モンゴルという歴史ある民族に囲まれて国家を形成したため,当初から非常に謙虚であり,他民族の文化を尊重することにやぶさかではなかった。そのため満洲人が中国を征服していく過程でも,モンゴルとの同盟が不可欠と考えて,モンゴル人の崇拝するチベット仏教の振興に力を入れ,チンギス・ハーンの子孫の家系から妃を娶った。こうしてホンタイジを継いで即位したその子順治帝(位1643-61年)の時代,満洲人は中国を征服した。

 順治帝は1643年に北京に遷都すると,都の要所にチベット寺を建て,チベット僧を重用し,チベット語の経典をモンゴル語や満洲語に翻訳するなど大規模な文化事業を行った。北京には,雍和宮・黄寺,東南に普勝寺,北海に浮かぶ瓊夏島には白いチベット式仏塔「白塔」など,要所にチベット仏教寺院が建ち並んだ。

 清朝はチベット仏教界でもっとも大きな軍事力と経済力を有していたため,モンゴル・チベット内部において仏教界に被害がでるような内紛が起きれば,必然的にその調停に当たることとなった。その場合でも,清朝皇帝は中華皇帝としてではなく文殊菩薩皇帝として自己を規定し,侵略者ではなく調停者として振舞うことに気を配った。

 歴代の中国王朝の皇帝は,自らを世界の中央におき,隣国の王を家臣と見下す偏狭な世界観を持っていたが,満洲人は漢人から蔑まれてきた異民族の出であったために,その影響を最小限にしか受けることはなかった。清朝皇帝は,圧倒的多数をしめる漢人に向かう時には昔ながらの中華皇帝としてふるまったが,チベットのダライラマやパンチェンラマに対する時には,対等の礼もしくは御前にぬかづく弟子の礼をとり,一方,モンゴル人に対しては同盟国として一段高い位置においた。

 また清朝は,漢人がウイグル人,モンゴル人,チベット人の居住域に移住することを法令によって固く禁じ,諸民族の文化や社会が漢人の人口圧力によって飲み込まれないようにした。例えば,商売で他の地域に出て行く場合も,家族を連れて行かないこと,現地で結婚しないことなどの原則を示し,地域の民族文化を護ったのである。現代中国は,「少数民族は太古の昔より中華民族の一部であった」とのプロパガンダを掲げて,民族地域に侵攻・占領し,同化政策を施したが,このような政策が行われたのは満洲人の王朝が滅び,漢人が力をもつようになった20世紀に入ってからのことである。

 世界中至る所に中華街があることから分かるように,漢人は食べるためには世界中どのようなへんぴなところであろうとも,進出し,商売を行い,住み心地がよければそこに定住する。移住される側の人口が多ければその国を構成する諸民族の一部になるだけであるが,チベットのようにもともと希少な人口しか持たない地域となると,移住してきた多数の漢人がもとあった文化を破壊し漢化させていく。

 清朝の影響下にあった地域について述べれば,清朝末期よりまずモンゴルに多数の漢人の流民が移住し,南モンゴルの牧地は次々と農地化した。その結果,現在では南モンゴルのモンゴル人のほとんどは遊牧生活を捨て農業を生業としており,モンゴル語も忘れてしまっている。漢化は次いでウイグルに及び,1959年以後はチベットが漢化の波にのまれてしまった。

(6)フビライにならった乾隆帝

 話を歴史時代に戻そう。

 元朝の偉業を継承しようという建国当初からの企図は,とくに乾隆帝の時期(在位1735-95年)に顕著に現れた。乾隆帝は,自分を「フビライの生まれ変わりだ」と信じ,周囲からもそう信じられていた。フビライがパクパと即位前に出会ったように,乾隆帝も即位前からチャンキャ三世(1717-1786年)というチベットの高僧と机を並べて成長し,即位と同時にチャンキャ三世を大国師とし,即位の9年目には北京最大のチベット仏教センター雍和宮を作った。雍和宮の中では,チベットの大僧院と同じ教育システムで僧侶が育てられ,清朝の統治下にあるチベット僧の管理をし,国家の祝日,皇帝の誕生日,仏教の祝日の折々には数十名から数百名規模の僧によって法要が行なわれた。

 フビライがパクパから「ヘーヴァジラ・タントラ」という灌頂を,アルタン・ハーンはダライラマ三世から同じ灌頂を受けたことにならい,乾隆帝は即位の10年目に,パクパの転生者といわれるチャンキャ三世から「チャクラサンヴァラ尊」(勝楽タントラ)の灌頂を雍和宮で授かった。

 チャクラサンヴァラ尊はチベット密教を代表する本尊の一つだが,この仏の原型には転輪聖王のイメージがある。チャクラは輪を意味するし,チャクラサンヴァラを本尊とするマンダラは転輪聖王を象徴する法輪形である。また,チャクラサンヴァラ尊は世界の中心にあると言われるスメール山頂に君臨するが,古代インド神話においてスメール山の山頂に宮殿を築くものといえば,転輪聖王である。つまり,チャクラサンヴァラ尊とは,武力によらずして世界を統治する転輪王のイメージを,密教にとりこんで生まれた仏なのである。この灌頂を授かった乾隆帝には転輪聖王をさらにハイパーにしたイメージが加わったことは疑いない。

 モンゴル人,チベット人は乾隆帝を文殊師利大皇帝の名をもって呼んだことからも明らかなように,乾隆帝は文殊菩薩の化身した転輪聖王としてチベット仏教世界に君臨したのである。

 また乾隆帝は即位の9年目に,フビライとパクパの白傘盖仏信仰にならい,高さ21メートルの白傘蓋仏を祀る闡福寺を北海の北面に建て,清朝の国家鎮護の要の寺とした。乾隆帝の白傘盖仏に対する信仰は終生変わらず,彼の遺体が収められた棺をまもる正面門柱には,大きく白傘盖仏の陀羅尼が刻まれている。さらに乾隆帝は,夏の都である熱河に多くのチベット寺を建てた。代表的なものとしては,チベットのサムイェ寺を模した普寧寺,ポタラ宮を模した普陀宗乗廟,タシルンポ寺を模した須弥福寿廟,チャクラサンヴァラ尊の立体マンダラを模した普楽寺などである。

 チベット的な言い方をすれば,「このようにチベット仏教を供養し,フビライの事績を忠実にたどった結果,清朝の影響力は元朝の時代と肩を並べ,乾隆帝の在位は中国歴代王朝の中でも最長を記録したのである。」乾隆帝はまさに菩薩王の治世を実現したのである。

(7) 文殊菩薩の祝福を受けた国,中国

 仏典の中において,チベットが観音の祝福を受けた地であると説かれるように,中国は文殊菩薩の祝福を受けた地であると説かれている。

 『華厳経』にはこの世界の東北には文殊菩薩が法を説く清涼山があるとされる。インドを中心と考えると,世界の東北には中国があるため,この清涼山は隋唐の頃より,山西省にある五台山に比定されてきた。五台山は万里の長城の近くにあるため,五台山信仰はモンゴル人や満洲人にも早くから浸透しており,彼らは五台山を擁する中国を文殊菩薩の地と呼んできた。そして,満洲人が中国を征服して樹立した清王朝の時代,文殊菩薩と中国皇帝のイメージはもっとも強く結びつくこととなる。

 満洲人は古くはジュシェン(女真/女直)と自称していたものの,17世紀に入ったある時点から自らの集団を満洲(Manju)と称するようになる。これは満洲人が五台山信仰を通じて文殊を崇拝していたことから自民族の名称としたとも言われており,何にせよ,1643年に満洲人が中国を征服すると,中国皇帝のイメージには文殊=満洲が加わり,清朝皇帝は文殊の化身した転輪聖王と呼ばれるようになった。

 文殊王としての清皇帝のイメージは,乾隆帝を描いた三種類の肖像画を見るとよく分かる(図3)。この図の中で乾隆帝はチベット僧の衣をまとい,肩の上の蓮華の上には,剣と経帙をもち,手のひらには法輪を持つ。蓮華の上にある剣と経帙は文殊菩薩の象徴であり,法輪は言うまでもなく転輪聖王の象徴である。

 ここで注意すべきことは,乾隆帝が文殊菩薩の化身,またはフビライの再来に認められるためには,乾隆帝の側でもそれにふさわしい行動をとっていたという事実である。乾隆帝は敬虔な仏教としてチベットの僧院に多額の布施を行い,ダライラマ政権を外国の侵略者から軍隊を派遣して護った。後者の場合,まずダライラマからの要請があるかどうかを確認してから援軍を派遣し,事態が収束した後にはすぐに撤兵し,問題が生じない限りはチベット内部の事柄には決して介入しなかった。つまり,自らの軍事行動を侵略と受け取られないような配慮を最大限行っていたのである。

 このような配慮を行ったが故に,モンゴル人もチベット人も乾隆帝を文殊菩薩の化身した転輪聖王として尊重し,その影響力を受け入れることができたのである。

 現代人は

 「領土を拡張するわけでもなく,税金がとれるわけでもない,そんな何のメリットもない軍事行動をおこすことは常識では考えにくい」

 などの植民地主義的な思考法をとるが,国民国家などという概念がアジアに生まれたのは19世紀も後半に入ってからである。同時代的思考をすれば,乾隆帝の側にもメリットはあったことはすぐに分かる。乾隆帝はチベット,モンゴル人たちから,文殊菩薩と讃えられることにより,仏教2500年の歴史に登場してきた数々の名王たちの系譜につらなるという名誉を得るために,ひたすら仏教の護持につとめていたのである。

 漢人の主張する中華思想に基づけば,満洲人はたんなる異民族であり,清朝はいくつか興亡した中華王朝の一つにすぎない。しかし,文殊菩薩王ともなれば,釈尊の施主であったマガダ国のプラセーナジット王,チベットのティソンデツェン王(ソンツェンガムポ王から数えて五代目),元朝のフビライ・ハーンを前世者とすることができ,未来にも同じように王として生まれることが約束されるのである。

 現代的な思考を過去にあてはめる愚は厳に慎まねばならないであろう。

4.チベット仏教世界の現代的意義

 以上述べてきたように,チベット仏教世界では,仏教を信仰する人が王様になり,仏教思想に則った政治が行われると理想の世界が現出すると考えられてきた。このような徳の高さや文化の力によって人々を自然と化していく,そのような王権が理想とされるのは,チベット仏教に限ったことではない。エジプトにも,古代中国にも,マヤ文明にも,絶対王政時代のフランスにも太陽王といわれる名王がいた。このことから,人類にとって理想的な統治者とは,武力や恐怖によって人を治める者ではなく,文化によって統治する人であることが分かるであろう。

 仏陀は何不自由ない生活を送っていた王子であったにも拘わらず,その生活を放棄して,苦行を行い,煩悩を捨て悟りに入ったことが示すように,仏教では,欲望を悪とする。これがいかに真理であるかは,功成り名成し遂げようとも,どんなにお金をもっていようとも,人は不安から自由になることはないし,むしろその名誉や金を維持するため,あるいはもっと手にいれようとすることから,不安が大きくなることからも分かる。欲望にまみれた自我こそがわれわれの不安の根源なのである。このような仏教の考え方は豊かな先進国においては理解もされようが,目の前の食事にも事欠くような途上国の人々にはなかなか共感は得られない。肥え太っている人に欲望の節制を説くことは可能でも,餓えて死にかけている人に断食修行を説くことはできないからである。つまり,仏教の教えを理解するためには,ある程度以上の経済的な基盤と自己犠牲の精神を理解できるだけの精神の成熟が必要なのである。

 チベット仏教が受け入れられ,繁栄した時代は,古代チベット王朝,モンゴル帝国時代の元朝,満洲人の王朝清朝という,その時代その時代で世界でもっとも繁栄した強く豊かな帝国であったことは,仏教が貴族的な教えであることを鑑みても当然のことであった。そして,現在,チベット仏教の教えに耳を傾けているのは,欧米の若者たちである。

 1959年以後,ダライラマとともにインドに亡命したチベットの高僧たちは,インド各地に自らの僧院を再建すると,そこを拠点に世界中にとびたって,仏教を説き始めた。チベット仏教では,僧を教育し支えていくシステムがしっかりしている。チベット僧は普通12〜3歳で出家し15年間ほど僧院で勉強するとすばらしい知性を備えた完成した人格が出来上がる。そこで,このようなチベットの高僧(ラマ)たちが教えを説き始めると,とくに西洋では高僧の周りにすぐにコミュニティが形成され,ラマを扇の要として世界的なネットワークができあがる。中でももっとも大きいものは,ダライラマのそれであるが,ミニ・ダライラマともいうべき高僧たちが各宗派に何人もいて,世界中でチベット仏教を説き,人々の心に平安を与えている。

 一方,社会主義の中国はあまりにも貧しく,チベット仏教を理解することはできなかった。中国政府は,建国翌年の1950年10月に「チベットから帝国主義を一掃するため」,後には「落後したチベットの封建社会を解放するため」という口実のもと,人民解放軍を東チベットに侵攻させた。翌年チベットは中国に併合され,それから容赦ない同化政策が始まった。僧院は仏像などの金属でできた金目のものを奪った後,倉庫や学校などの公共施設に転用されるか,破壊されるかで,すべて機能を停止した。僧侶は還俗をせまられ,拒否すれば労働改造所に送り込まれたため,多くの僧侶は亡命する道を選んだ。逃げ遅れた貴族や商人たちはみな収容所に入れられた。続く文化大革命の時代には,仏教の信仰はおろか,民族服を着ること,チベット語を話すことすら禁止された。80年代の改革開放経済以後,この政策も多少軟化し,僧院の再建や僧侶の出家が許可されるようになったものの,僧院には厳しい定員が設定されており,大規模な法要の挙行などは許されていない。中国政府が僧院の再建を許しているのは基本的にはすべて観光客誘致のための政策の一環としてである。

 中国政府は昔から今にいたるまでダライラマを「人面獣心の悪魔」とののしり,ダライラマが去った後のチベットに先に述べたようなさまざまな迫害をしてきた。にも関わらず,ダライラマ法王は一貫して,「中国人を恨んではならない」「敵が暴力を振るったからと言って暴力で応えてはならない」「あなたの敵は中国人ではなくあなたの心の中の怒りである」と慈悲を説いてきた。

 仏教においては,ものごとに善悪・美醜などのレッテルをはり,後者を欲し,前者を避けるような心の働きこそ,煩悩の最たるものと位置づける。この世のすべての紛争は,自分の家族,自分の民族,自分の宗教,自分の国,と自分自分と,自分にかかわるものを善とし,それと対立するものを悪と決めつけるところから起きてきた。観音菩薩の化身たるダライラマはしたがって,そのような単純な二分法をたしなめ,他者に対する思いやりこそが諸民族の共生を実現させ,世界を救うのだ,と説いてきたのである。菩薩王たるダライラマは今や世界を相手に法を説いているのである。先進各国の心ある人々は,このダライラマの言葉に接するや,感銘をうけ,チベットをサポートしてきた。ダライラマの存在感は国を失って半世紀たった今も微塵も衰えることはない。それどころか,いまや中国政府とそのコントロール下にある人々以外にダライラマを貶めるものはいないという状況である。

 国を失った一難民ダライラマは,いまや世界中の人々に愛され,その教えを理解できる人々の心を成長させている。菩薩王の統治が太陽の光と同じく,国境や人種をえらばず自ずと広がっていくことを思い出させてくれる。一方,中国政府は相変わらずの情報統制と警察と軍隊の力によって欲望に走る13億の国民をやっとのことでまとめているという状態で,理想的な王権とはほど遠い。

 チベット問題の平和的解決は,すでに歴史の中に示されている。現在の中国政府は,1720年における清朝軍のラサ侵攻とともに中国によるチベットの直接支配が始まったと主張するが,前述したように,当時の清朝と民族地域の関係は現在の国民国家の論理では動いておらず,清朝がチベット社会の内部に変革を加えた事実はない。乾隆帝の「俗によりて以て治む」という言葉が表しているように,清朝の対民族政策はその民族の習俗をそのまま保存することが原則であった。中国政府がもし真の意味で国際評価なるものを得ようとするのであれば,軍事力や経済力を増すことよりも,ましてやオリンピックの金メダルをつりあげることよりも,まず自国民を幸せにする政治を行うことであろう。とくに,民族地域についていえば,かつて満洲人皇帝が行ったようにチベットやモンゴルの文化を認め尊重することである。

(2008年6月27日)

注1 十善業の道とは,初期大乗仏教徒の戒律であり,具体的には,身体にかかわる三つの悪行(殺生,偸盗,邪淫),言語に関する四つの悪行(妄語,両舌,悪口,綺語),心に関する三つの悪行(貪欲,嗔恚,邪見)を慎むことである。

注2 チベットには高僧(ラマ)の死後,その生まれ変わりを幼児のうちに探し出して,死んだラマの地位を相続させるという転生相続制度がある。仏教が浸透した社会においては,多かれ少なかれ輪廻転生を信じる風潮はあるが,転生を社会制度にまで昇華させたのはチベットのみであろう。チベット語では転生僧のことをトゥルク(化身)といい,それの意味するところは仏や菩薩などのハイパーな存在の「影」というものである。この言葉は仏教を共有しない文化の言語には訳すことが困難なため,英語ではチベット語のトゥルクの音をそのまま英語にうつしてtulkuと表記する。中国では転生僧を活仏と表記するが,仏は転生しないため,不適切な表現である。転生相続制は,文献で見る限りは13世紀にカルマ=カギュ派においてまず始まり,各宗派に広がり,やがてゲルク派にも採用されるようになった。ダライラマとはゲルク派の開祖ツォンカパの直弟子であるゲンドゥンドゥプを起点として始まる転生者たちの総称である。転生の存在は科学的に証明できるわけではないため,転生があるかないかを議論する向きも多いが,幼児のうちから哲学と実践を行うことを可能にするこのシステムが,チベット仏教の伝統を維持していく上で効果的な役割を果たしていたの側面を考慮したい。
  転生者は王についても作られることはある。パンチェンラマ4世は,1780年に中国に招聘された際に乾隆帝の転生譜をつくった。彼の前世はお釈迦様のコーサラ国のプラセーナジット王(日本の仏典では波斯匿王)で,古代チベットでは6代目ティソンデツェン王に生まれ変わり,その後ネパールの聖者,元朝のフビライなどを経て,清朝の乾隆帝になったとされる。乾隆帝がパンチェンラマよりこのような転生譜を授かったことによりチベット仏教の施主としての歴史的使命を大いに感じたであろうことは疑いない。

注3 「ダライラマ」という称号は,ソナムギャムツォの名前の一部である「ギャムツォ」(海)をモンゴル語訳した「ダライ」と「師」を意味するチベット語の「ラマ」を組み合わせたものである。チベット語とモンゴル