日本語力低下と学力低下問題


北海道工業大学教授 本間 芳樹



学力低下が近年話題になっている。しかし学力ということばの使い方にはあいまいな部分があり,果たして事実として学力低下が起きていると簡単には言えないのではないかと思っている。一方、日本語力の低下ということも指摘されているが,この点は私自身の現場経験から言っても,明らかな事実と思われる。そこで学力低下と日本語力低下との関係を考えながら,学力低下の問題を検討し,今後への対応を考察してみたい。

1.「学力低下」問題

 学力低下が大きな社会問題となったのは,平成11年(1999年)ごろであった。平成11年に「小中学生レベルの分数計算ができない大学生がいる」との衝撃的な調査結果を京都大学の西村和雄教授等が発表したことで,社会的に大きな反響を呼んだことが一番のきっかけであった(参考:西村和雄他編集『分数のできない大学生―21世紀の日本が危ない』,東洋経済新報社)。このことは小中学校における基礎教育が欠落したまま,子供たちが大学まで上がっていることを意味し,小中学校の基礎教育が十分でないということが指摘された。

 そのほか次のような調査結果が相次いで発表され,学力低下への喚起を呼び起こすことが指摘された。

@国際教育到達度評価学会(IEA)の学力調査が発表され(平成11年),日本は学ぶ意欲の低下が歴然としており,理数好きが最低レベルだとの事実が知られることになった。

A平成7〜8年の教育課程実施状況調査(新学力テスト)において,前回の調査(昭和56〜58年)より一部を除き通過率が下がっていることがわかった。

BOECDの学習到達度調査(PISA)において世界に後れを取り,とくに読解力は前回8位から14位まで下がったと発表された(平成16年)。

C予備校による教師の意識調査によると,教師の9割が学力低下を感じている。

D大学入試センターのアンケート調査で,国立大学の学部長の55%が新入生の学力が低下したと感じている。

 とくに教師や大学教官など教える側において,学力低下を実感していることが浮き彫りになり,これが学力低下論議の根底を形成することになった。

 ここで学力低下問題の歴史的経緯を振り返ってみる。実は,学力低下の議論は最近に始まった問題ではなく,少なくとも戦後何度も取り上げられたテーマであった。

 戦前の教育は教科カリキュラム中心であったが,戦後の昭和20年代に経験カリキュラム中心(問題解決能力重視)にシフトし,同24年ごろになると新聞等で「学力低下」が報じられた。その後,昭和30年代になると,再び戦前に回帰して教科カリキュラム中心(系統的・体験的知識を重視)に移行した。そして高度成長期に入り昭和40年代前半は,教育内容の現代化,理数分野で最先端の知識を教えるべきとして教える内容が高度化した。しかし,同40年代後半になると,それらが「詰め込み教育」「偏差値偏重」として批判され,「落ちこぼれ」が大きな社会問題となった。

 こうした流れを受けて,昭和50年代に入ると,「ゆとりと充実」(基礎・基本と個性の尊重)の方針が示され,これが今日までつながっている。同60年代は同じ流れの中で,「自己教育力」(学習意欲や学び方)が謳われるようになった。そして平成14年には,学習内容の3割削減,「生きる力」(問題解決能力重視)が実施された。これは経験カリキュラムへの完全移行ではなく,教科カリキュラムを基礎としつつ「総合的な学習」とあわせて柱としたものである。しかし,最初に述べたように,近年は学力低下を憂慮する声が高まり,ゆとり教育の見直しにつながった(学習内容3割削減・学校週5日制への批判)。このような流れを概観すると,いまは戦後の時期(昭和20年代)に非常に似ていると思う。

次に「学力低下」の具体的内容を検討してみると,以下の3点が考えられる。

@自主性,主体的に課題に取り組む意欲の低下。

A論理的に思考し,それを表現する力が弱い。

B必要な基礎科目は履修しているが理解が不十分。

このことに関連して,「七五三」ということばもあり,それは,学習内容を理解できているのは,小学校7割,中学校5割,高等学校3割という意味である。

2.学力とは何か

それでは,一般にいわれる「学力」とは何か。以下,代表的な定義をいくつか紹介する。

@北海道学校教育推進委員会

 「生徒が学ぶ喜びや成就感を味わい,積極的に学校生活を送り,自らの進路を実現するに必要な意志と力。」

A英語ではAcademic Achievement

 しかし,英語のacademic achievementと日本語の学力の意味とではだいぶ違う。英語の意味は,「学業達成度」,すなわち,「教えたことをどれだけ身につけたかを見ること」である。しかし,日本では「意志と力」を学力の本質ととらえている。

Bわが国の文教施策

 「学力には,いわゆる学力と学ぶことに対する意欲,関心,動機,心構えの二つの面がある。」前者は知的学力,後者は態度的学力である。それゆえ現在の学校教育における評価でも,後者に関連する項目が掲げられている。

C第15期中央教育審議会答申

 この答申は,高校教育改革の基本をなすもので,そこでは学力を「自分で課題を見つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力や豊かな人間性」ととらえる。

D教育課程審議会答申(平成10年)

 「学力を単なる知識の量としてとらえるのではなく,自ら学び自ら考える力などの『生きる力』を身に付けているかどうかによってとらえるべきである。」

 以上のように,「学力」といってもさまざまなとらえ方があることがわかる。日本の教育で論議するときに一般にいう「学力」は「学力観」のことである。ところがあるときある測定された「学力」(英語academic achievementの意味)の数値をもって,そのときの「学力観」を否定するということが行われてきた。学力と学力観を混乱して議論したために,教育政策が左右にぶれることになった。

 学力とは「その時代に求められるもの」であるがゆえに,時代状況の変化によってその意味は変化していく。例えば,「問題解決能力」「系統的知識」「高度の学問的成果を構造的に発見する能力」「人間性や人格性を含めた思考力」「意欲や思考力・判断力・表現力・学び方」などの意味がある。そして,その時代に求められる学力が,学校で育てる能力なのである。

 また,学力=学力測定値(テストで測定された学力)とすればことは簡単かというとそうでもない。教師経験者ならばすぐわかるだろうが,測定値といっても非常にあいまいな部分がある。例えば,場合により採点基準を変えると結果として底上げされることもありうる。ところが,一旦数値化するとそれが客観性をもったものと錯覚され絶対視されることになる。

 似たことばに,「知能」という語があるが,このことばの定義も学者の数だけあるといわれる。例えば,知能検査にしてもさまざまな種類がある(言語能力測定,図形・空間的能力の測定,生活・精神能力の測定など)のに,検査結果が一人歩きして比較されることになる。

そこでこれまでの学力論議の問題点を整理してみよう。

@学力低下論は生産的でない。

 学力低下を指摘するだけで,そこから何をどうしたいのか,という議論に結びつかないことが多かった。また対案や学力の全体像が示されなかった。

A「木を見て森を見ず」の傾向あり。

 教科を見ているものの,全体の教育課程を見ていない。すなわち,求める生徒(児童)像の議論が不足していた。

B学力を数値化することで,量で見ている。

 知能・技能偏重,学業成績(学力検査,学力調査の結果)を重視し過ぎた。しかし,教育に限らず人生においても大切なものは目に見えないものが多いことを忘れてしまっている。いまの教育の基本的流れは「総合化」だが,その弱点はあいまいなことで,総合的というのは,専門的というのとは逆に攻められると非常につらい。教育の理念としては「総合化」が正しいのであり,その点で言えば日本の学力観の根底にあるものは不変であったと思う。ただ学力の側面でどちらを重視するか(知識重視か,経験・人格面重視か)でこれまで政策的に揺れてきたといえる。

3.これからの学力のとらえ方

既に述べたように,学力は時代の変化と関連があるので,最近の特徴をいくつか挙げてみる。

@進学率の向上と少子高齢化

 現在の高校進学率は97〜98%で,大学進学率も30%を超えている。これに少子化傾向が加わって,高校も大学も全入時代を迎えた。その結果,従来であれば入学してこなかったような(学力レベルの)生徒(学生)が入ってくるようになり,教師・教官が学力低下を実感するようになった。

A親の高学歴化と塾の隆盛

 親の高学歴化によって学校・教師の権威が失墜。中学校などでは,学校教育よりも塾に頼って入試勉強をし進路も決めるような傾向がみられる。学習が受験目的化し,入試に特化した科目を選んで勉強する傾向が見られ,学力格差が拡大した。

B商業主義,拝金主義の横行と無基準化

 アルバイト,お金が優先する価値観と個人主義が横行。学校での単位認定,卒業認定が無基準化して余程のことがない限り進級・卒業できる傾向が見られる。よく言えば,「弾力化」となろうが,それも行き過ぎると問題が多い。

C学ぶ量と質の変化

 時代の進展,科学の発展,予期せぬ事態の展開,先の読めない未来など,複雑な社会変化に伴う質的な学力評価の遅れが出ている。

D子供たちの生活の変化

 学力や体力の低下という変化だけではなく,逆に時代に合った変化も見られる。例えば,自己表現の巧みさ,国際感覚の豊かさ,コンピュータなど情報機器の活用などの面である。

 現在の学力観は,ゆとりと充実,自己教育力,生きる力など総合化に基礎を置いているが,それ自体は間違いではないと思う。しかし,総合化の考え方は,ある面で抽象的であり,普遍的であるがゆえに,形骸化するというマイナス面をはらむ。例えば,各学校で掲げている教育目標は立派な内容ではあるが,各教師がそれに対してあまり関心を示さない。ということは,せっかく掲げた教育目標がないがしろにされていることになり,結果として求める生徒(児童)像が不明瞭だということにつながる。それによって全体を見失ってしまいかねないのだ。

 ある活動をするためには,それを支える技能や知識が必要であり,それが基礎となるが,それ自体が学力ではない。テストで測定する学力もあるが,現在,日本で論議されている学力は,人が生きることにかかわり,活動する力である。

 また日本では,自主性,主体性が一人歩きしてしまったという問題もあった。個性尊重といっても,望ましくない個性もあり,個人主義とは違うことを分からせる必要がある。さらに,個性尊重とは好き勝手に自由にすることではなく,社会の中で形成されることを理解させる必要がある。

 結論として,学力が低下しているとは一概には言えないのである。学力観をはっきりさせた上で学力を論じない限りは,その「学力」には意味がない。また,学力低下を科学的に明らかにする客観的データが非常に乏しいことも問題である。例えば,同一問題を経年的に出しても学習指導要領が変化していれば子供の学習習得の度合いに当然変化があるわけで,通過率の単純比較はできないことになる。

 ただし,側面的に見た場合に,学力や知識量などの低下という点は否めない事実であり,とくに日本語力の低下は顕著である。そこで次節でその内容をみてみよう。

4.日本語力の低下

 大学生の日本語力をみてみると,@若者の日本語離れ,A読めてもことばの意味が理解できない,B適切な表現,説明ができない,C語彙が少ない,D汚い日本語の使用などの特徴が見られる。

 例として,「連母音の融合」を挙げてみる。日本語では母音が連続すると強い語気をもつ。音韻法則によって「a+i=e」と発音されるが,若者はこれを多用する。つまり,「知らない」を「知らねー」,「おまえ」を「おめー」,「うまい」を「うめー」,「うるさい」を「うるせー」,「やばい」を「やべー」などと言うように。これらのことばの発音は汚いと同時に,非常に語気が強くなり,攻撃的な印象が出てくる。テレビに出ている有名俳優や芸人もこのようなことばをよく使うので,その影響もあるだろう。

 ある大学の研究者の調査によると,語彙力が中学生レベルの学生の60%は本を読まず,同学生の92%は文章を書かないという。そのような学生は,パソコンや携帯電話でのメール使用が一日平均1時間以上もある。

そこで携帯メールと語彙力の関係をみてみる。

 携帯メールをしているときは,脳がほとんど活動していないことが分かった。簡単なことば,短いことば,絵文字では,脳が処理する情報が非常に少なく,脳を甘やかすことにつながる。その逆が手で字を書く作業だ。手書きで文章を書かせると脳全体が活動する。ペンで文字を書くときには,書き始める位置,筆圧,字のバランス,大きさなどを考えるために,脳の多くの部位が活発に活動し,脳は多くの情報を処理することになる。脳を多く使うと,語彙力が増え,思考力も発達する。このようなことが実証されている。

 脳の甘やかしの例として,若者が多用する「ムカつく」を取り上げてみる。若者は,このことば一語ですべてを代用する傾向が見られる。

○親に叱られたとき:悔しい,憤り,不快,不安などの心情

○電車に乗り遅れたとき:残念,悔しい,がっかり,悲しいなどの心情

○彼女にふられたとき:切ない,悲しい,わびしい,惨めなどの心情

 上述のような異なるいくつかの場面においても,多くの若者はすべて「ムカつく」と一語で済ませてしまう。その結果,ことばの役割が減り,ことばの力が育たなくなってしまう。

 次に,「キレる」ということばを取り上げてみる。若者たちはこのことばを簡単に使うが,本当は間違いだと考える。もしこのことばを使うのであれば,「キレそうだ」と表現すべきだろう。「キレ」たら,関係が遮断されおしまいになるからだ。このようにことばは,幼児化し,時と場所を考えられず,相手のことも考えられず,何がなんだかわからない,思考が切れた状態を意味しているといえる。

こうした傾向を改善し,日本語力の向上を図るためには,

@声に出して読む(音読)

A本を読む

B辞書で調べる

C手紙を書く

D文章の暗記

E古典や小説の書き写し

 など,従来の国語教育で行われてきた基礎的内容をもう一度やってみることが必要であろう。それによって日本語力の向上が期待できるのだ。

最後に


  「学力低下」という問題にしても,一面的にみるのではなく,広い視点から見ることが必要だろう。現代はある一つの面から議論が出てくると,それがまるですべてであるかのように受け取る傾向が強い。例えば,官と民の関係に関して,「官はダメで,民は正しい」という議論はどこかおかしい。どちらにも良し悪しがあるはずだ。ものごとを簡単に二者択一的に考えるのではなく,それぞれの良さを統合していくことが大事だろう。

 いずれにしても,本来のもの,これまで大切にしてきたものを大切にしていくことが,学力向上や日本をよくしていく上において重要であろうと思う。例えば,礼儀正しさ,質素,倹約,謙虚,日本食などといった日本的なよさ(価値)を見直して,それをきちんとできるようにすることが,これからの教育における課題ではないかと考える。 

 教師に対する風当たりが強い昨今にあっても,やはり教師は教育の「プロ」であるから,その自負をもって取り組んでいくべきだと思う。一方,教師でない人は,大江健三郎氏が言うように,逆に教育の「アマチュア」であるとの自覚をもって,教育を語るという姿勢が大切ではないだろうか。両者が協調し教師が自信をもって取り組んでいけば日本の教育はかならずや再生されていくと信じるものである。

(2008年5月20日,「北海道人格教育懇談会」において発題された内容を整理して掲載した。)