宗教的叡智に立った平和戦略

―「避難」と無抵抗主義の再評価

カリタス女子短期大学学長 久山 宗彦

 

 最近の混沌とした国際情勢を見るにつけ,「世界平和」が本当に切実な課題だと痛感する。中でも宗教問題が深くかかわる中東和平は実現がきわめて難しい問題の一つだ。それだけに中東地域の平和実現の方法を示すことができれば,それを世界に応用展開し,それによって十分成果が上がることと思う。以下ではキリスト教,とくにエジプトのコプト(正教会)(注1)とイスラームの核心部分にある出来事を取り上げながら,平和実現に向けた方向性について考えてみたい。

1.力の論理による和平の限界

 中東地域の平和問題に限らず,これまでの平和実現への道程において人間がとってきた解決方法は,力と力のぶつかり合いという面が多かったように思う。ある国が力でもって平和を実現しようと行動を起こせば,かならず相手国はそれと同等かそれ以上の力で抵抗することになる。そのような応酬はますますエスカレートするばかりで,究極的な行き着く先は武器を伴う「戦争」だ。かような方法だけに頼っていては永遠に平和は実現できないであろう。最近のイラク戦争はまさにこれを象徴しているのであって,米国がとった力による和平の方法では,真の平和がもたらされる保証はほとんどないと思う。

 ここではイスラームの一つの事例を挙げて,力の論理の限界について考えてみたい。

 サウディアラビア(注2)は,人口約2000万人の人々が日本の5.7倍もある広い国土に散らばって住んでいる国で,一見すると統治しにくいと思われがちだが,しっかりと治められている。だが,サウディアラビアの統治方法に大きな影響を与えたとされるものに,ワッハービズム(ワッハーブ主義)というイスラーム改革運動があることをわれわれは忘れてはならない。そのほかサウディアラビアはイスラームの宗主国であり,聖地であるマッカ,マディーナを有すること,同国の人々はアラブ人としての純血を保っていこうという傾向が強いこと,中東地域で唯一ヨーロッパによって植民地化されなかったことなどもその理由として挙げられる。

 ところで,ワッハービズムの思想的核心は,白か黒かをはっきりさせるところにある。例えば,中途半端なイスラーム勢力がアジアの国々に入ってきたときには,そのような勢力は排斥すべきだと考える。簡単に言えば,イスラームの原理主義を主張するのである。しかしこのような考え方は,本来のイスラームから見た場合,脱線したものといえる。米国のキリスト教福音主義もほぼ「キリスト教原理主義」であり,彼らも「悪の枢軸国」を唱え白黒をはっきりさせる思考を持つ。このように原理主義は,イスラーム,キリスト教を問わず,どちらも善玉・悪玉に分けて考えるだけではなく,一方の悪玉をやっつけるところまでいくことにその特徴がある。これらは平和論としては一番好ましくないやり方であると考えている。

 9.11テロ事件の主犯とされるウサーマ・ビンラーディンはサウディアラビアの出身だが,彼はワッハービズムの考えの持ち主だ。彼は「悪の親玉=米国」という図式でとらえてきた。原理主義にはそのような傾向が大であるのでここで挙げた両者は互いに対立せざるを得ない宿命にあるように思う。このような原理主義の考え方は暴力へとつながっていく傾向が強いので,これによって真の平和を実現するのは全く難しい。

 ところで,ワッハービズムを歴史的にみると,イブン・ハンバル(780-855年)やイブン・タイミーヤ(1263-1328年)という厳格な法学者の時代にまでさかのぼることになる。18世紀になってそれらの思想を継承したイスラームの強力な倫理観をもつムハンマド・イブン・アブドルワッハーブという人物がアラビア半島に現れることになったが,彼はサウディアラビアを統一していこうとするときに,当時勃興しつつあったサウード家のアブドルアジーズ王と結束を固めていった。このためにワッハービズムは,サウディアラビアという国を治めるに際して非常に有効な考え方(教義)となり,それはさらにイラク,アフガニスタン,パキスタンなど周辺国にも影響を与えることになった。

 日欧ではワッハービズムがイスラームだと考える向きもあるが,世界的な視野からイスラームを理解した場合には,そのような見方は実に偏ったものであり,本来のイスラームはそうではなくて非常に寛容な宗教だと思う。イスラーム=テロという図式は間違っている。福音主義がキリスト教であるのと同じように,もちろんワッハービズムも広い意味でイスラームの範疇に入るのだが,しかし,本来のイスラームからは程遠いものである。

2.「避難」に込められた宗教的叡智

「原理主義」の危険性を考える時に,真の平和を考えるには前者とは逆の発想が重要ではないかと思う。つまり本来のイスラーム,本来のキリスト教の精神に立ち返れば,力の対立は生じないことになる。私はここでキリスト教の原型としてのエジプトのコプトを取り上げたい。そしてコプトの核心にある聖家族のエジプト避難という出来事の意味が,平和に向けた一つの大きなヒントを与えてくれると考えるのである。またこのことの前にイスラームについては,ムハンマドが活躍した初期の出来事であったマッカからマディーナへの聖なる変遷「聖遷」(ヒジュラ,hijra)(注3)を取り上げ,それらの出来事から平和への意義を汲み取ってみたいと思う。

(1)避難の旅としての「聖遷」

 ムハンマドは570年に,マッカに生まれ,40歳の時に神(アッラー)の啓示を受けた。しかし,マッカの大商人などからの迫害を受けることになり,622年,マディーナに聖遷(ヒジュラ)を実行した。別のことばで言えば,ムハンマドがマッカからマディーナに「避難」したということである。この意味については,日本の世界史の教科書にはほとんど言及されていないが,この年はイスラーム暦の紀元元年となる重要な年であり,イスラームにおける平和の問題を考える場合,このヒジュラは重要な意義があったと私は認識している。

 さて,話は少々脱線するが,ムハンマドの叔父アブー・ターリブは,聖書に通じた人物であったし,ムハンマド自身も神の啓示を受ける前にエルサレムに行っている(注4)。イスラームは,このようにその先輩の宗教であるユダヤ教やキリスト教について理解した土台の上に誕生したのであって,それらと関係のないところに誕生した宗教では断じてない。ムハンマド自身,旧約・新約聖書に親しみそれらを実に重要視していた。それゆえクルアーン(コーラン)にも,「クルアーンとは,旧約・新約聖書のアラブ人へのアラブ訳である」(16[蜜蜂]:103,42[相談]:7,43[光りまばゆい部屋飾り]:3,46[砂丘]:12など)と表現されている。ユダヤ・キリスト教という二大宗教を踏襲した上で,イスラームが出てきたのである。

 さて,マッカは隊商貿易の中継地であり,多神教の神々や各部族の氏神が祀られたカーバ神殿が存在する宗教都市でもあった。当時のカーバ神殿は,偶像崇拝の巣窟であり,いくつかの有名な神々が偶像として祭られていて,各地からの巡礼もさかんであった。そのような状況を見たムハンマドは,「ここでは偶像崇拝をやっている。これは本来の宗教ではない。ユダヤ教やキリスト教はそのような偶像は徹底的に壊してきた」と考えた。

 ユダヤ教徒・キリスト教徒の共通の父祖であるイブラーヒーム(アブラハム)は,最初は偶像崇拝をしていたが,神のお告げを受けてからは偶像を壊して神に仕えていった。イスラームの巡礼(ハッジ)で一番重要なことは,イブラーヒームの信仰を自分たちも受け継ぐということであり,偶像を捨てて眼に見えない唯一の神を信仰することにある。ムハンマドは,そのイブラーヒームに倣って,マッカのカーバ神殿にある偶像を次々と壊していった。それに対し,神殿で偶像を護っている人たちからは勿論,厳しい迫害を受けることになった。

 当時,マディーナでは,キリスト教徒も見られ,ユダヤ教徒は共同体を形成していた。マディーナのユダヤ人たちの応援もあって,ムハンマドはマッカでの難を避けてマディーナに仲間とともに逃れて行ったのである。

 ところで,偶像を崇拝する人々の攻撃に対してムハンマドが抵抗して戦いにでもなれば,ムハンマドは殺されてしまったかもしれない。しかし,ムハンマドは賢明にも難を避けた。難を逃れる,逃避,避難というと,ネガティブなイメージがあるかもしれないが,それは浅い考え方だと思う。つまり力に基づいた攻撃に対して同じ次元での力で抵抗することは消耗戦になるだけで,全く解決につながらない。そういうときは一旦「逃れる」という手段をとる。しかし,これはそこで終わるのではなく,その先で別の機会をとらえて,別の視点(高い次元)から相手に対してより平和的なかかわり方をしようと考えて対応していく。これが本来的なイスラームの姿勢だと思う。

 イスラームの宣教は,実はマッカからではなくマディーナから始まった。つまり,マディーナを核として真に平和的なイスラーム共同体(ウンマ)が形成され,それが周辺地域へと拡大していったのである。宣教活動の展開の前に,「避難」という賢明な出来事があったことをわれわれは忘れてはならない。マッカにおける武器による迫害に対して,それに抵抗したいという欲求と戦って,避難を経た後はここで得た精神的武器をもって宣教を拡大していったのである。イスラームをみるときには,ワッハービズムのような姿勢だけではなく,まずはこのような世界観に目を向けるべきだと思う。

(2)聖家族のエジプト避難

 イエスとその両親,つまり現代に通じる理想の家族像の原点ともいうべき「聖家族」(holy family,アーエラ・ムカッダサ)は当時,パレスチナで猛威をふるっていた幼児虐殺という暴君ヘロデのいわれなき迫害を逃れて,シナイ半島を横断し,エジプト・ナイル河畔をさすらったと言われる。

イエスが誕生したとき,ヘロデ王はユダヤを統治していた。「イエスがユダヤ人の王として生まれた」との知らせを聞いたヘロデ王は,自らの身の将来を不安に思い,イエスを拝みに来た東方の三博士に幼子イエスについて報告するよう告げた。しかしそれをせずに帰ってしまった博士たちに立腹したヘロデ王は,ベツレヘム及びその周辺にいる2歳以下の男の子をことごとく殺すよう命令を下した。一方,それより前に天使ガブリエルのお告げを通じてヘロデ王の幼児殺害の預言を受けたヨセフは,その預言に従って幼子イエスとその母マリアを連れて,危うくその難からエジプトに逃れることができた。

 その後,ヘロデ王が亡くなったあと,主の使いがエジプトにいるヨセフの夢に現れ,イスラエルに戻るよう告げた。そこでヨセフはイエスとマリアを連れてイスラエルの地に帰り,ガリラヤに退くことになる。この間,4年ほどエジプトに滞在していたと言われている。

 この事実は,新約聖書の四福音書ではマタイ伝(第2章)のみが簡単に記すのみであり,そのほかでは新約聖書外典のカイロ・パピルス10735などに記されている。しかし,エジプトのコプト教徒たちは,2000年前のその出来事をいまもありありと伝承させている。そのコプト聖伝によると,イエス,マリア,ヨセフと産婆のサロメからなる聖家族のエジプト避難の旅は,ベツレヘムから始まって,テル・バスタ,サハー,ナトリュームの渓谷,マタレイヤ,バビロン,マアーディーを経由し,南限のアスユートの南西8キロのところにあるアスユート山中のドルンカ修道院の地にまで達している。その旅跡にコプト教会やコプト修院が点々とあり,私はそれらをほとんど訪ねることが出来た。

 この聖家族のエジプト避難に関しては二つの疑問がある。一つは,エジプト避難の旅がなされなければ全能の神はベツレヘムの幼子を護ることができなかったのであろうか。神の子イエスは,三位一体の神でもあるわけだが,その神がなぜ避難しなければならなかったのかということである。もう一つは,避難のためになぜエジプトを選ばれたのかという点である。

 第一点に関しては一般に,大虐殺に対して避難するということは,われわれの日常生活において,もし迫害が生じた場合,迫害に抵抗するのではなく,迫害から逃げることもわれわれにとっての課題になるという教訓を与えてくれる。

 第二の点に対しては,イエス誕生の知らせが当時の異教国エジプトに知られることによって,この新しい知らせは,東方の中心部に位置するエジプトから世界中に広がっていくことになるからだと言えるし,また,エジプトにキリスト教を伝道する聖マルコに耳を傾けるよう,エジプト人に準備させるためでもあったと思われる。

 エジプトのキリスト教については,聖家族がエジプトへ避難したことによって,そこに住む人々はその姿を見て感動し,それがキリスト教への信仰が芽生えるきっかけとなった。もちろん,イエスの宣教は,イスラエルに戻ってガリラヤの地から大々的に始められたわけだが,それ以前に,キリスト教宣教の種がエジプトで蒔かれていたのである。エジプトではその後,クリスチャンが増えていった。聖マルコがエジプトのアレクサンドリアに来たときには(AD42年ごろ),そこはすでにキリスト教の重要な都市として発展していたのである(注5)。

 攻撃に対して賢明に判断して逃れるという意味が「避難」という出来事に込められていると私は考えている。そこには同時に,その後の対応としてより積極的に平和的手段でかかわろうとする姿勢も含まれているのである。

 無関心に逃れるだけという方法もあるだろうが,「避難」はこの次元の意味では決してない。無関心はいけないことだが,それ以上にいけないことは,相手に同じ次元で遣り返す(応酬する)ことである。しかし,歴史的に現実を振り返ってみれば,そのようなことの繰り返しであったといっても過言でない。

 イエスの生き方を見ると,ここぞという十字架の場面では,命を投げ出したわけだが,幼子のときに強権をふるうヘロデ王に対しては賢明な判断の下に避難の道を選択した。ヘロデ王から殺されるから逃げるというような単純なものではない。聖書には「時が満ちていないから」とあり,「時が満ちれば」次の行動に出て行くわけだ。高いレベルの平和的解決に向けて,目前の争いを賢明に避けることが必要なのだ。これが平和実現に向けての「積極的避難」だと考える。

 繰り返しになるが,今後の現代世界に見られる敵対行為については,それに抵抗(敵対)するという,体が反応する相手と同じ第一レベルでのリアクション(reaction)は避け続けて(=聖家族はエジプトの地に長い期間にわたって避難なさった),精神的武器をもって自らの欲求と戦っていく,第二レベルとしての精神的避難の方向に転化していくことが重要である。

 キリスト・イエスは,平和そのものの方であったと思う。例えば,「もし,だれかがあなたの右の頬を打つなら,ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて,下着を取ろうとする者には,上着をも与えなさい。もし,だれかが,あなたをしいて1マイル行かせようとするなら,その人と共に2マイル行きなさい。求める者には与え,借りようとする者を断るな。」と言われたごとく(マタイ5:39-42),イエスは謙遜な「避難」につながる姿勢で一貫しているのである。相手の攻撃に対して徒に抵抗するのではなく,無抵抗主義(non-resistance)なのだ。またイエスは十字架上で,「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」という憐れみ深いことばを投げかけた(ルカ23:34)。以上のように,キリスト・イエスは敵を愛し,敵を許す態度を貫き通されたのである。

 このようにイスラームとキリスト教を深く見てみると,その原点においては,聖遷と避難という平和への手段としては同じ姿勢を見出すことができる。

3.無抵抗主義

 本来のイスラームやキリスト教は,高い精神的レベルでものごとに対応している。すなわち,第三の平和的解決法は,同じレベルで反抗するのはやめて無抵抗でいく方法だ。しかしそれは無関心ではない。その先に平和的かかわりの戦略をもっている。イエス,マハトマ・ガンディー(Hohandas Karamchand Gandhi,1869-1948年),キング牧師(Martin Luther King, Jr.,1929-68年)などは,無抵抗主義の生き方を貫いた方々であった。コプトでいえば,現在の教皇シノウダ3世(注6)はそれと並び称せられるほどの人物ではないかと思う。シノウダ3世は本当の平和を求めて実践する人だと思う。

 聖書に記されているイエスの言動やメッセージは,平和そのものなのだが,問題は「真のキリスト教徒」はほとんどいないと賢者から言われることではなかろうか。ガンジーは「聖書などを通して知るイエスの言動・人格はすばらしく,キリスト教の偉大さも分かったが,同時に真のキリスト教徒が存在しないことも分かった。」と述べたという。当時のイギリス人はほとんどがキリスト教徒であったが,その生のキリスト教徒を見て真のキリスト教徒がいないことをかれは悟ったのである。

このことは現代にも通じることだ。

 最後に,夫婦という卑近な例を挙げて記述した平和の問題について考えてみよう。夫と妻の好みの傾向は,性差だけではなく個人差などによっても異なることが多い。例えば,夫が家の中の整頓や些細なことで妻に一言注意すると,これに対して妻が腹を立てて厳しく返答してくるとする。それに対して夫も同じレベルのことばで応酬した場合には,喧嘩に発展しかねない。そうしたときには,賢明な避け方でもって対処する必要がある。それによって喧嘩の展開を阻止することができるが,ただそこにとどまっていては不十分だ。その先の平和の戦略が必要である。相手が冷静なときにうまく話を持っていって互いに高められた関係になっていくことが重要だ。

 私は「平和の原点はどこか?」ということをいつも問いかけている。現代社会においてまず原点を問うときに,これまでばらばらであったものが積極的に統合されていく必要があると感じている。統合されていく平和を根本的に象徴しているものとして,「キリスト・イエスは神の受肉(incarnation)した姿である」の「受肉」が非常に重要になってくる。そこから真の平和が始まると信じている。

(2008年6月19日)

注1 コプト

 エジプトの古い時代からの伝統的なキリスト教を受け継いできた者は,コプトのキリスト教徒,簡潔にはコプト教徒(ウプティー)と呼ばれるが,この呼び方はギリシア語でエジプト人を意味するAigyptios(男)/Aigyptia(女)より理解することが出来る。実はこれらギリシア語のはじめの定冠詞「Ai」と,後の「ios」「ia」が落ちて語幹の「Gypt」が残り,これが「Copt」と変わったのである。そしてこのエジプトの土着民,ファラオの真の子孫「Copt」は,キリスト教が当地に宣教された結果,ほとんどがキリスト教徒になっていったのである。

 ところで,現代のコプト教徒の信仰において注目される点は,かれらのオプティミズムではないかと私は思う。私はこれまでエジプト各地のコプト修道院やコプト教会を訪ね歩いたが,キリスト・イエス,聖母マリアをはじめとして,ローマ時代のエジプト人に対する厳しい迫害で亡くなっていった殉教者たちが,かれらのイコンにあってはそのほとんどすべてが,何とも穏やかな表情で描かれているのである。

 コプト教徒は古代エジプト人の血を引いたコプト人が多く,後にアラブ人との混血が進んだとは言え,現在でもコプト教徒の風貌には,アラブ人というよりギリシア的な彫りの深さが見られ,また,古代エジプト人の子孫だという誇りも強い。

ローマ教会とコプト教会との最大の違いは,教理の上では前者が神(父)と子と聖霊の三位一体を言うのに対し,後者は神と聖霊の二位一体で,イエス・キリストについては,その存在を認めても,人間の姿は仮のもので,神そのものであるという単性説をとっている。現在コプト教徒は,エジプト人の約10%を占める。(久山宗彦『イスラム教徒とキリスト教徒の対話』北樹出版より)

注2 サウディアラビア

 この国の発祥は,18世紀の後半に生じたワッハーブ運動と呼ばれるイスラーム改革運動にさかのぼる。イスラーム法学者,ムハンマド・イブン・アブドルワッハーブの急進思想を受け入れたナジュドの豪族,イブン・サウードは,その普及のための宗教的・軍事的キャンペーンを起こし,19世紀初頭にはマッカ,マディーナをも支配下においた。この運動はオスマン朝の命令を受けたエジプト軍によって滅ぼされたが,20世紀初頭,イブン・サウードの子孫,アブドルアジーズによって再興され,二大聖都を含む半島の広い領域を版図とした後,1932年,サウード家をサウディアラビア王国の正式な名称として採用した。現在でもワッハーブ主義のイスラームを国教としており,国王はマッカ,マディーナの二大聖都の守護者を任じている。(片倉もとこ編『イスラーム世界事典』より)

注3 ヒジュラ
 「移住」を意味するアラビア語。イスラームの文脈では,単に居住する場所が移るだけではなく,親子・兄弟・親類縁者などの従来の人間関係を断ち切って,新たな人間関係のなかに移ることをいう。一般には,622年に預言者ムハンマドがマッカからマディーナに移住し,それと相前後して教友たちもマッカからマディーナに移住したことをいう。ムハンマドと教友たちはマッカでの宗教活動が,その親・兄弟・親類縁者に邪魔されて,マッカ社会に絶望し,彼らと戦うために新たな天地を求めて移住したのであった。ムハンマドはこの移住を,マディーナという場所への移住だけではなく,神の道への移住とし,神の道で戦うことととらえている。

 このとき移住したムスリムは成年男子が70名ほどで,妻子をともなっていたものも少なくなかった。かれらの名前と略歴はすべて今日に伝えられ,ムスリムとして最高の栄誉があたえられている。彼らはムハージルーン(移住者)と呼ばれ,彼らを助けたマディーナの住民アンサール(援助者)と共に,新しいムスリム社会(ウンマ)をつくった。このウンマが,今日までのムスリムのウンマの出発点とみなされる。それゆえ,後の第2代正統カリフ,ウマルは,このヒジュラのあった年を紀元元年とするヒジュラ暦(イスラーム暦)を制定した。(片倉もとこ編『イスラーム世界事典』より)

注4 ムハンマド(Muhammad,570-632年)
 ムハンマドはマッカの名門クライシュ族のハーシム家に生まれたが,幼くして父母を亡くし,孤児として祖父や叔父のもとで育った。その後,長じたムハンマドは,雇われ商人として隊商貿易に従事し,25歳のとき,彼の雇い主である富裕な女性ハディージャと結婚。商売を順調に拡大させていった。ムハンマドが神(アッラー)の啓示を受けはじめてからしばらくして,必ずしもクリスチャンではなかったが,ユダヤ教・キリスト教にはよく精通していたムハンマドの妻の弟のワラカが,ムハンマドに下った啓示はモーセ(ムーサ)が神から受け取った律法と内容は同一であるという見解を確信をもって表明することになる。このことは,旧約・新約の一連の預言者を継承しているのだというムハンマドの確信をさらに強めることになった。そして妻ハディージャに励まされたムハンマドは,しだいに預言者として自覚するようになり,イスラームの布教を開始した。ムハンマドと15歳年上の妻のあいだには3男4女が生まれたが,男子はすべて夭折し,彼の子孫は末娘のファーティマの血統からのみ伝わっている。シーア派が唯一正統な後継者とするアリーは,ファーティマの婿であり,ムハンマドの従弟である。ファーティマは娘の理想像として神秘化されてきた。

注5 聖マルコとアレクサンドリア
 エジプトではじめて福音を説いたのは誰であるかについては確固たる歴史的裏づけはないが,コプトの伝統によれば,福音史家である聖マルコがアレクサンドリアで福音の種をはじめて播いたとしている。コプトの人たちは,自らのコプト・オーソドックス教会の創始者を聖マルコとし,かれに対してたいへんな尊敬の気持ちを抱いている。さらにコプトの聖伝によれば,聖マルコは1世紀の中頃,聖ペトロとアレクサンドリアへやってきたという。聖マルコはそこに住んで聖ペトロがローマに向った直後,かれはキリストの教えを説き始めたようだ。
 カイザリアのエウセビオスは,「聖マルコは自分が種を播いた福音の王座を受け継いでもらうため,アンニアヌスを選んだ」と記している。その後,このアンニアヌスを受け継いでいった総主教の中には,一部不明な者もいるが,189年の12代目の総主教アンバー・ディミトゥーリーウスからは,名前や在職期間などはっきりとわかっている。アレクサンドリアは,聖マルコの後に,ギリシア教父でありコプト思想の根幹に深く関わったクレメンスやオリゲネスの活動の場として発展し,ヘブライズム・ヘレニズムの出会いがなされるにいたるのである。(久山宗彦『コーランと聖書の対話』講談社現代新書より)

注6 Pope Shenouda III(1923- )
 コプト最高指導者で聖マルコの117代目の後継者(1971年〜 )。アレクサンドリア総主教。信徒からはババと呼ばれている。

<参考文献>
片倉もとこ編『イスラーム世界事典』明石書店,2002年
久山宗彦『コーランと聖書の対話』講談社現代新書,1993年
久山宗彦/ムハンマド・エッザト『イスラム教徒とキリスト教徒の対話』北樹出版,2001年
塩尻和子他監修『一冊でわかるイラストでわかる図解宗教史』成美堂出版,2008年