旧ソ連地域の動向とロシア外交

 

ロシア・モスクワ国際関係大学教授 アレクサンダ・ニキチン

 

 あえて単純化して言えば,今後のロシアの外交政策は,次の五つの可変要因に左右されるだろう。@国内の支配層の性格,A石油・天然ガスの国際価格と,天然資源依存の経済のあり方,B西側との関係より,コーカサス,中央アジア,ユーラシア南部の情勢,C世界の超大国を目指すのか,域内大国で良しとするのか,ロシア政治の選択,Dロシアのリーダーが,孤立主義か積極的な民族主義か国際主義のいずれを選ぶか。

 2000〜08年のロシアは,プーチン大統領の下,外交政策を穏健な域内大国から,世界のエネルギー大国に規定し直した。また1990年代の孤立的,抑制的な傾向を破棄し,新たな国際主義を志向してきた。ロシアからソビエト時代を経て,再びロシアに戻ってきたサイクルを考えれば,こうした変化は妥当であり不可避だった。

「アメリカ例外主義」(注1)とロシアの

独特さ

 過去の200年間,米国とロシアの社会には多くの自明な差異があるにも関わらず,基本的な共通性も見られる。両国は広大な領土と豊富な天然資源を有している。太平洋に至る西部のフロンティアを求め続ける米国の気持ちは,ロシア人の意識にある,シベリアを超えて太平洋に至る東方フロンティア志向に酷似している。値無く得られる新開地によって国土を拡大し続けることこそ,合衆国の初期とロシア帝国を,密集する国境に挟まれた古い欧州から隔てるものだった。

 米国とロシアはどちらも,人種の点では極めて多民族で,どちらも国の中に百以上の民族・人種グループが存在する。多人種であるため,ひとつの集団が別の価値観を持つ集団に対して,一定の寛大さを持たねばならず,それは多民族の民主社会を営むためには大前提だ。「人種のるつぼ」というイメージは,人々が新しい「米国」という国家意識に溶け込んでいくというものだが,それは20世紀の「ソビエト連邦」というイデオロギーの「るつぼ」の中で,150もの民族が溶け込み,新たな国家を造ってきたのと酷似している。

「アメリカ例外主義」という観念は,多くの場合,「民主主義に立脚した例外主義」と解釈される。米国型社会モデルは,例外的で独特な民主主義と理解されてきたが,実際にはもっと幅の広いものだ。それは米国の独特な地理,地政学,人種,そして宗教の成り立ちと関係している。同様に独特な性格が,「ロシア・ユーラシア主義」という概念にも含まれている。この概念は19世紀,スラブ主義者やユーラシア主義者によって成熟した。

 米国とロシアの例外主義の概念は,19世紀から20世紀にかけ同時並行して進化してきた。米国は伝統的な反植民地主義または宗教的性格の国から,唯一の超大国という自己意識に変容したが,その契機になったのは,核,軍事,金融,経済等の膨大なパワーと民主主義だった。

 一方,18世紀・19世紀における地政学的・宗教的・文化的な「ユーラシア例外主義」によって立っていたロシア人は,20世紀には超大国としての「ソ連例外主義」に変容した。その独自性は,社会主義型社会モデルと,共産主義という思想と力の世界的な膨張にあり,それらは国境を越えて拡大した。ソ連が崩壊した90年代以降のロシア外交の変化は,メシア思想としての共産主義の崩壊と一つの国が15の共和国に分解したことによる国家の弱体化によってもらされた。当時のある時期,ソ連崩壊に伴う国内混乱の収拾とその安定化,そして経済再生への取り組みに没頭していたため,ロシア政府は旧ソ連地域に対してすら指導的役割を積極的に果たすことを嫌っていた。しかしその後,ロシア政府が再び旧ソ連地域に対して盟主としての役割を果たそうとしたとき,ちょうど21世紀の初頭にプーチンの主導する新ロシア拡張主義が現れたのである。それによってばらばらになっていた「旧ソ連地域」の終焉という歴史的状況を迎えることになった。

旧ソ連新独立国家諸国の地政学

 ソ連崩壊から 15周年を数える21世紀初頭までの期間は画期的なもので,かつてソビエト連邦が占めていた地政学的空間では,政治・経済・社会的に劇的な変化が起きた。

 旧ソ連の共和国から独立した15の新興国家から構成されたこの地域は,非公式に「旧ソ連地域」(post-Soviet space)と称された。この括り方は,歴史的な共通のルーツや,一定期間に共有されていた政治・経済的な文化,それらの残滓を強調した言い方だ。しかしこれらの国々は,ソ連崩壊後の歳月の流れと共に,じわりじわりと分散してきた。

 これらの国家群は15年間の独立を経験し,しばしば問題に直面してきたが,旧ソ連地域という枠組が終わりつつあることを認める段階に来ている。だからと言って,ソビエト時代の影響が消失してしまったわけではない。特に中央アジアの政府や社会には,ソビエト主義の名残が色濃く残っている。

 しかし,こうした「旧ソ連新独立国家(NIS; new independent states)」(ロシアとバルト三国を除く11カ国)の国家群にとり,「ソビエト」という共通の過去は,もはや支配的ではない。新たな外向き志向の政策で,旧ソ連地域は急速に分散しつつある。

旧ソ連地域の範囲

 旧ソ連地域の概念は過渡的なものだ。研究者の中には,明らかに構造上の共通性があるものの,互いの政治的関係が不透明な国家群を括っているに過ぎないと見る向きもある。旧ソ連地域という概念と,NISの概念は,この国々で起きている相反した展開に光を与えたものだ。NISの用語は,この地域の政治家や研究者が好んで用いるが,この国々の主権と,ソビエトからの断絶を強調するためだ。

 一方で旧ソ連地域という用語は,西側の学者が多用している。新しい政府が過去から継続していること,ソビエト時代の共通性を強調したものだ。欧米の大学にあるソ連研究の拠点の多くは,1990年初期に「旧ソ連地域研究」(post-Soviet studies)と改名した。

 1990年から数年間でソビエト連邦が公式に解体された当初,旧ソ連地域では,統一性ないし同一性の特徴が顕著だった。ただバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア)だけは,他の旧ソ連共和国群より早くに,この同一性から脱却した。

 NIS内の政治・経済的な絆は,それ以外の世界との結びつきより相当に緊密だ。かつて中央集権化されていたソビエトの計画経済と,国有財産制に基礎をおいた共通の経済空間,そして共通の軍事インフラは,一定の独立性をもつ15の軍事メカニズムには未だ分割されていなかった。実際,互いの軍事面での依存関係は,2000年代に入ってからもしばらく存続した。さらに文化を超えた交流の共通言語であるロシア語と,文化的なインターフェイスが,潜在的な接着因子として残った。

 旧ソ連地域の15カ国のうち,独立国家共同体(CIS)として国家間の連帯を形成した12カ国には,歳月と共に新たな要因が統合を後押しする契機として付加された。

 第一に,国同士を統合するCIS機構のネットワークが形成されていった。それには首脳会議から首相・国防相・外相の会議や,安保事務総長,財務官,経済裁判所の会合などが含まれた。さらに政治・経済協力を目的にした15以上の機関と,加盟国間での特殊な機能を果たす10の組織が,年を追う毎に付け加えられた。

 第二に,共通の法的空間を構築する試みが,セントペテルブルグのCIS議会協議会を通じて行われた。これにはユーラシア経済共同体(EuraAsEC,またはEEC)も関わり,CISとユーラシア経済共同体に関する数百本の典型的な法規づくりに取り組み,同域内での司法上の整合性をはかる際限のないキャンペーンが行われた。

 第三に,外相・国防相会議では,外部世界に対し共通かつ連携のとれた外交・安保政策をとりまとめる努力がなされた。しかし多くは挫折した。これは欧州連合(EU)の共通外交・安保政策を先例にしたものであることが推測される。

 第四に,2000年初めまでは割と定期的に,大統領級のCISサミットが一定の政治的連携を促した。

 その一方でCISの存在は,旧ソ連地域を有効に置き換えることはなかった。その理由は第一に,バルト三国は当初からCISと距離を置いていたが,1990年代のしばらくの間,旧ソ連地域の地政学上あるいは経済プロセスの一部であり続けたからだ。

 貿易交流や安保上の懸念,移民の問題などから,旧ソ連地域が15カ国から12カ国のCISにまで減ったのは,2000年代にバルト三国が,EUと北大西洋条約機構(NATO)に加盟した時だった。

 第二に,旧ソ連地域で行われた統合努力の全てが,CISメカニズムに収斂していたわけではなかった。CISは,実際に機能した期間でも構造的に弱く,国々の政治的折衝の多くは,二国間に限定されるか,枠外の国と競合するか,または補強し合う別の枠組み,例えば「ユーラシア経済共同体」や「民主主義と経済発展のための機構」(GUAM;グルジア,ウクライナ,アゼルバイジャン,モルドバの同盟)の中で行われた。

 第三に,CISの輪郭自体は公式に維持されたものの,実際には絶えず変えられたのだ。

 1990年半ばにウクライナは,「CIS加盟国」という呼び方を,もっと束縛の弱い「CIS参加国」に変えるよう主張した。つまりNISの全ての国が,必ずしも全ての会合や決定に参加する必要もなく,義務づけられるべきでもないということだ。その結果,CISの文書局を見れば,CISの12カ国全ての元首が署名した決議が非常に少ない。5〜6カ国,または3〜4カ国のみの同意によるCIS決議というものが数多くある。

 CISは旧ソ連地域で最大だが唯一とは言えない政治的枠組みであり続けている。ウクライナ,グルジア,ウズベキスタン,モルドバは,折に触れて,CISの企図が「モスクワ・ミンスクを軸にしたものだ」と批判または非難してきた。反CISの国家間のメカニズム,例えば「民主主義と経済発展のための機構」(GUAM)や「民主的選択共同体」(CDC)などは,部外者から見れば,新たな国家間統合を目指す本気な取り組み,と言うよりは,旧ソ連地域の主導権争いの一環と解釈されてきた。

浸食される旧ソ連地域

 2000年代半ばまでに,旧ソ連地域内部の亀裂は広くなり過ぎて,この地域を地政学上の単一のまとまりと見なすことは,政治的にも学術的にも難しくなった。

 地政学上の再構築を示唆する動きとしては,CISメカニズムが決定的に弱まったこと,CIS首脳会議が取りやめられたこと,CIS国防相会議が麻痺状態に陥ったこと,CIS軍事協力連携幕僚会議が正式に廃止されたこと,多くのCIS機関が正式に解散されないものの実質的に運用停止されたこと,NIS諸国の間で新たな統合の枠組みを探る際限のない動き等がある。

 他にも次のような事態が起こった。NISの国家グループ同士,例えば,バルト諸国とCIS,「民主主義と経済発展のための機構」(GUAM)と「集団安全保障条約機構」(CSTO)が,それぞれ対決した;NISの一部の国がEUやNATOに加入し,そこでの安保・政治・経済的な連結を完了した;ウクライナとモルドバが欧州寄りに方向転換した;ウクライナとグルジアはEUの善隣政策を前提に,「NISの一部」ではなく,いささか時期尚早だが「EUの一部」という自己規定をした;ウクライナとグルジアが公然と,将来の加盟を前提にNATOと折衝することを表明した;共通通貨や関税同盟をNISの一部でも実現しようと10年近く努力してきたのとは裏腹に,事実上の共通通貨「ルーブル」からの離脱が始まり,共通関税率や通関規則を制定できず,CIS関税同盟を実現できなかった;NIS諸国間の経済的利害を背景に競合する石油パイプラインルートなど,旧ソ連地域にも概ねオープンな競争を前提にした大型経済プロジェクトが現れたこと等だ。

 また共同体としての対外的な境界線に関する取り決めが頓挫した。実際にはソビエト連邦が崩壊した時,旧共和国群の境界線は,全体の16パーセントしか現場の線引きがされておらず,残りの境界線は地図上の「鉛筆国境」だった。ロシアを含めてNISのどの国も,長い間,自らの境界線を有効管理できていなかったのだ。

 旧ソビエト連邦の対外国境は相当部分が,旧ソ連の国境警備隊の管理下におかれ続けた。NIS諸国は各国が自前の国境警備を創設し,国境を徐々に自分達の主権管理下においてきた。

 CISの南部,中央アジアとコーカサスの国境を共同保護下におくというアイデアは,CIS軍事協力連携幕僚会議の大切な統合活動の一つだった。こうしてCIS国境警備司令官会議が設置された。南部国境の共同警備は,CISの領空共同防空システムを想定していた。タジキスタンは2005〜06年に,非常に不安定なタジク・アフガン国境を含め,自国の国境管理をロシア国境警備隊から取り戻したCIS最後の国になった。

 ウクライナ,グルジア,キルギスで起こった,いわゆる「カラー革命」は,旧ソ連地域の解体に特殊な役割を演じた。この広範な大衆の反乱は,支配エリートを交替させ,国の政治の方向性を変えたが,総じて「反ポスト・ソビエト」の性格を帯びていた。カラー革命は,支配エリート層からソビエト主義の残存勢力を追放することを公然と目指したのだ。

 グルジアとウクライナの場合,カラー革命によってモスクワから公然と袂を分かつか,グルジアの場合は力に訴えてまで,モスクワとの関係を制限し,西寄りの方向転換を促した。

  もちろん西寄り,または反モスクワの姿勢がカラー革命から生まれたわけではない。ウクライナやグルジアやその他のNIS諸国で,長年にわたって蓄積されてきたものだ。しかしカラー革命は,こうした鬱積されたムードが現実政治に反映する速度を早めた。

 キルギスの場合,支配エリートの交代は国内に大きな影響を及ぼしたため,外交・安保政策に関して,新政権はすぐに集団安全保障条約機構(CSTO)と縒りを戻した。

 しかしモルドバはカラー革命を経験せずに,外交方針を徐々にEUに向けていった。そしてNATO,EUに方向転換したウクライナと,新たにNATOとEUに加盟したルーマニアに挟まれて,地政学上孤立していることを認識し,モルドバは旧ソ連地域より欧州の一部として将来像を検討することになった。

域外プレーヤー

 旧ソ連地域が浸食されていくのは,従来の相互依存構造の弱化に現れたのみならず,域外プレーヤーが強い存在感と影響を発揮してきたことや,旧ソビエト諸国と,非ソビエト諸国の間の相互作用を拡大するために,旧ソ連の境界を超えて国家統合の波が拡散していくことにも現れた。

「域外プレーヤー」という表現は比較的目新しい。それはロシアや「集団安全保障条約機構」(CSTO)の理論的な文書の中で,旧ソ連地域で非友好的だったり潜在的に危険で,主にロシアの利益に干渉するような外部勢力のことを婉曲的に表現したものだ。

 その中には,中央アジアで存在感を増す米国やNATO,中央アジアにおける中国やイランの影響力,南部コーカサスでのトルコ,そしてEUがグルジアやナゴルノ・カラバフで仲介役を買って出ようとする態度等を挙げることができよう。

「9.11」後に米国主導の作戦活動がアフガニスタンで実施されて以来,米国とNATOは中央アジアの国々と軍事・政治面での協力関係を築こうとした。マナス(キルギス)の米・空軍基地は,カントにあるロシア・CSTOの軍事基地から僅か30キロしか離れていない。アフガニスタンでの作戦に必要な資源を提供するには,北に離れ過ぎているウズベキスタンとカザフスタンでさえ,NATOとの協力を拡大した。

 NATOの中央アジア外交使節ポストが,2003年に新設された。NATOの事務総長は,主要な中央アジア諸国のほとんどの首都を訪れ,NATOについて説明している。

 2002〜03年にロシアと中央アジアのNIS諸国は,中央アジアでの米軍とNATO軍のプレゼンスを黙認もしくは歓迎した。西側の軍隊によるアフガニスタンのタリバンに対する軍事作戦は,中央アジアのNIS諸国が本気で恐れていた脅威を取り除いてくれたからだ。

 ロシアはアフガニスタンの北部同盟に軍事援助を行ったが,それはロシアと米国の戦略的パートナーシップを具体化した珍しいケースだった。しかし本格的な軍事作戦が一段落してから,同地域で西側の軍事プレゼンスに対する態度が変わりだした。

 2003年以降NATOは国連の委任の下で,アフガニスタンの再建・安定化に中核的な責任を担うことになった。そのためNATO軍部隊はタジク・アフガン国境の南に移動し,同じ国境の北に位置する集団安全保障条約機構(CSTO)・ロシアの派遣軍と目と鼻の先に位置することになった。

 また2005年にウズベキスタンは,西側の航空基地を自国領から排除し,2006年までにモスクワ中心の集団安全保障条約機構(CSTO)に戻った。

 EUが「拡大欧州」という善隣政策に関する一連の文書と原則を採択し,さらに2004年,ウクライナとグルジアのカラー革命を通じて明らかになったように,旧ソ連地域に対する西側の態度に重要な変化が起きた。

 ソ連崩壊から2000年代の半ばまで,バルト諸国を除いたNISは沈黙を続け,いわばロシアの残存する影響力に配慮していた。EUもNATOも,モスクワとの調整なしに本格的な行動を起こす道義的または法的権利を有しなかった。しかし状況は根本的に変わった。EUとNATOさらに米,英,中国などの大国も,中央アジアやモルドバ,コーカサスに向けた自前の戦略を始動させたのだ。

 NISの数カ国は,自国領内での紛争解決に域外プレーヤーの関与を認める用意がある,と公式・非公式に表明した。グルジアはアブハジアと南オセチアに展開するロシアの平和維持軍に代わる平和維持部隊について,NATOとEUに打診している。アゼルバイジャンは米国とトルコの軍事援助を歓迎し,ナゴルノ・カラバフ問題ではEUの政治・外交上の役割に期待を表明した。モルドバはウクライナとの国境におけるEUの国境監視活動に合意した。

より広い統合のパターン

 旧ソ連地域での政治プロセスに域外プレーヤーの関与を容認する姿勢は,中央アジアでの集団安全保障条約機構(CSTO)による軍事演習に,2005年からイランとアゼルバイジャンをオブザーバーとして参加させるようになったこと,上海協力機構(SCO)の軍事演習が,中国の幅広い軍事的関与で実施されたことにも現れている。

 ほぼ全ての中央アジア諸国とアゼルバイジャンは,イスラーム諸国会議機構(OIC)に加盟している。注目に値するのは,かつてタジキスタンのラフモン政府と統一タジク野党連合の和平交渉に当たり,OICが顕著で建設的な役割を果たし,1997年のタジキスタン和平協定を結ぶのに寄与したことだ。

 旧ソ連地域の国々と非ソビエトの周辺諸国が,目下一番数多く関与しているのは上海協力機構だ。同機構は1996〜2000年の一連の会合を通じて,中国とロシア,カザフスタン,キルギス,タジキスタンとの国境線画定をしようとしたことに端を発している。当初の安保関連の会議が成果を収めた後,「上海5」グループを解散せず,より広範な政治・経済上の対話の場にしようということになった。そして2001年に政治的な国家間機構に改組され,ウズベキスタンを六番目の加盟国に迎えた。

 しかも2000年代半ばには新たな膨張の波が起こり,上海協力機構(SCO)はまずモンゴル,次にイラン,アフガニスタン,パキスタンを迎え入れ,インドをオブザーバーとして招いた。SCO五周年記念の際に,中国の新華社通信は誇らしげに,「今やSCO加盟国とオブザーバー国は,地表の四分の一を占め,人類の三人に一人を擁している」と報じた。

 10年前に安保フォーラムとして始まった上海協力機構だが,今では,より一般的な政治・外交上の対話を行ったり,経済・社会的な課題も取り上げるようになり,むしろ安保関連のアジェンダは非常に限られている。

 上海協力機構が2004〜07年にかけて検討し採択した文書類を精査してみると,安保上のテーマでは国境保護,テロリズム,過激主義や,中国のウィグル・新疆地域に関する懸念を浮き彫りにした分離主義の問題,覚醒剤の運搬や情報セキュリティなどだ。国防相会議も数回開かれ,最近では2007年にキルギスで行われたが,軍事インフラの本格的な統合などは視野に入っていない。

 上海協力機構は何度か合同軍事演習を行っている。第一回目は2003年キルギス等を舞台に行われ,二回目は中国で実施された。注目すべきは,中露二国間で史上初めての合同軍事演習が2005年8月に行われたが,それは上海協力機構の枠組みの中ではなかった。

 ところで上海協力機構の中でも,様々な思惑の違いは避けられない。テロリズムと過激主義の脅威について,キルギスはウズベキスタンに拠点を持つイスラーム武装組織を非難する。一方,中国は「テロリズム」のレッテルを,中国北西部の分離運動に貼っているが,これはイスラーム関連のテロとは何ら関連がない。

 結成から二年後の2006年,タシケントにあるSCOの域内テロ対策機構(RATS)が,その姉妹組織であるCISの対テロセンター(ATC,本部はモスクワ,支部がビシュケク)と,やっと低レベルの協力について話をするようになった。旧ソ連地域の分散化を物語るように,この二つの対テロ機関は,キエフにある「民主主義と経済発展のための機構」(GUAM)の対テロセンターとの協力関係を原則的に排除している。

 1990年代にCISへの対抗軸として設立された旧GUUAM(グルジア,ウクライナ,ウズベキスタン,アゼルバイジャン,モルドバ)だが,2006年にウズベキスタンがGUUAMからモスクワ中心の集団安全保障条約機構(CSTO)に戻ったため,“U”の一文字を失うことになった。

 グルジアとウクライナのカラー革命が,GUAMに新しい生命を吹き込むことはあまりなかった。しかし組織運用に関する新たな規則を設定したり,キエフに本部を設置するなど,形が整っていった。

 実際にはカラー革命の熱気の高まりの中,キエフとトビリシは民主的選択共同体(CDC)の創設に向かった。現在CDCにはモルドバだけでなく,バルト三国が加盟して反ソビエト的性格を意図的に支えた。その後ルーマニア,スロベニア,マケドニアが加盟した。CDCは国家間の機構として正式に登録されたものの,NIS地域で旧ソ連地域からの脱皮を助長する以外,あまり本格的な実体も影響も得られなかった。

 旧ソ連地域を超えた統合の今ひとつの試みは経済協力機構(ECO)の設立だ。それは中央アジアの旧ソ連地域諸国と,その南と西に位置するイスラーム諸国,つまりアゼルバイジャン,パキスタン,アフガニスタン,イラン,そしてトルコを結ぼうとするものだ。

 ECOの特徴は,旧ソ連地域から外側に向かおうとする志向性にある。もともとECOは1985年にイラン,パキスタン,トルコによって組織され,1992年までに中央アジア5カ国とアゼルバイジャンが参加してきた。加盟の主な規準はイスラームだが,経済的結びつきと貿易促進が狙いとされた。ロシアは初めから,将来の参加を見込まれていなかった。

 ECOの経済プログラムは,拡大中央アジア(または中央ユーラシア)に関する最近の地政学理論と関わりがある。この理論は西側の研究論文などで目下議論されているが,ロシアの戦略家からはあからさまに批判されている。

 ソビエトの伝統的な「アジア中央(Middle Asia)」の概念は,後に,ソビエト時代の言い方に決別したい,というカザフスタンやウズベキスタンの圧力を受け,「中央アジア(Central Asia)」と変えられた。この地域は五つの域内プレーヤー,つまりカザフスタン,ウズベキスタン,トルクメニスタン,キルギス,タジキスタンを擁しているが,ロシアも同地域で重要な利害関係があることから,六番目の中央アジアのパワー,と想定している。

 ちなみにロシアはコーカサスでも,グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンと並んで,第四のパワーだと主張している。

 新たに推進されている「拡大中央アジア」の概念は,対照的にロシアを排除し,中央アジアの五つのパワーを単一の地政学上のまとまりとし,アフガニスタンやパキスタン,イランと連係させようとするものだ。

統合と安保・防衛の関わり

 2002年9月に新たな国家間機構の憲章が発効し,NIS地域の戦略地政学的な状況に重大な変化がもたらされた。集団安全保障条約を全般的な国際機構としての集団安全保障条約機構(CSTO)に転換するプロセスは,2002年5月14日,モスクワでの集団安全保障会議で始まった(注2)。

 集団安全保障条約機構(CSTO)が船出した後,それに参加したNIS諸国の軍事・安保統合はCISの枠組みから外れ,CSTOが統合の主体的なメカニズムになった。CIS軍事協力幕僚会議は解散され,その任務とモスクワにある事務局は,CSTO軍事幕僚部に移された。

 CSTOが保護下におく集団的安全保障の三地域は,東部(ベラルーシ・ロシア),コーカサス(アルメニア・ロシア)そして中央アジアだ。前二者は名目上に過ぎないが,中央アジアの統合は急速に進展した。それは2000〜01年にアフガニスタンでタリバン政権が強くなり,ロシアと中央アジアの安保上の共通の脅威が顕著になるにつれ早められた。

 2001年5月にCSTOが創設される前から,CISの後押しで中央アジア地域の集団的安保のために,集団緊急展開軍(CDRF)を創設する決定がなされた。同軍の規模は当初,カザフスタン,キルギス,ロシアとタジキスタンの兵員で編成された1500人程度だった。

 2004年にCDRFは11部隊編成まで格上げされた。ビシケクにあるCDRF本部は,軍事演習の際に61人もの士官で構成される。カントの空軍基地は各国からの800人近い幕僚達が詰めていたが,CDRFの兵器システムを向上させ,CDRFの機動性を高める上で多大な貢献をした。

 CSTOの事務総長は指摘している,「現地の状況が悪化した場合,CDRF展開の意思決定には一時間半から二時間を超えないだろう。軍が派遣軍を紛争地に展開するまでに,あと数時間あれば十分だ。」

 CSTO内の統合の大切な要因は,加盟国の軍事・技術貿易だ。2004年1月から,軍事ハードウェアの売却は,内部だけの非商業的な低い価格で行われている。そのおかげで,CSTO諸国の軍隊はロシア製機材・兵器による再武装・再装備に弾みがついている。

 2005年6月からは別の特恵的合意が導入され,CSTO諸国の軍幹部がロシアの国防大学・施設で訓練や再認定を受けられるようになった。平和維持や対テロ,覚醒剤の専門要員を全てのCSTO諸国から迎えて,無償の合同訓練が実施された。

ロシア中心の集団安保システム

 集団安全保障条約機構(CSTO)は徐々に,しかし着実に,ウズベキスタンを含む7カ国の集団安保システムを創りだしている。主な狙いの一つは,7カ国の軍隊を連係し,単一で訓練の行き届いた軍事・治安マシンを練り上げ,全般的なCSTOの軍隊を編成することだ。とは言え,これは21世紀の第二の10年間を目途に達成されるべき戦略的目標だ。

 今のところCSTOは,加盟国の治安・国防業務をリアルタイムで調整できる政治・軍事的な指揮システムの設置に取り組んでいる。それには,CISサミットに取って代わる定期的なCSTO首脳会議,外相・国防相会議,安保担当者や国境警備司令官の会議などが含まれる。モスクワにいるCSTOの幕僚達は,ロシア軍統合幕僚に密接に連携を取っている。CSTOはまた,理論的な問題を扱う科学者会議も設置した。

 CSTOの安保体制の作戦要素は,CISから継承した中央アジアの緊急展開軍であり,CSTO傘下に入った際に,本格的に格上げされた。現在CSTOは,域内に二つの「火消し部隊」を創設中で,それらはロシア・ベラルーシ共同の軍隊と,南コーカサスでのロシア・アルメニア緊急展開軍だ。

 CSTOはCISが未達成の仕事を何とかやり終えた。つまり配列的安定レーダー装置や,被保護通信回線,限定的なミサイル哨戒装置などからなる対弾道ミサイル防衛システム,それに対空防衛システム,そして加盟国の主要な鉄道連絡網の共同保護システム等を七カ国連合で再構築したことだ。

 2006年にCSTO平和支援システムに関する理論的な文書が,分厚いパッケージとしてまとめられた。そのシステムは国連の委任によって動員されるCSTO平和支援軍の創設を提唱している。もう一つ進展中なのは合同緊急展開軍で,自然災害や社会の非常時にCSTO域内で活用できるよう構想されている。

 CSTOはEUやNATOに対して,安保上の課題や今日的脅威に共同で対処するため,互いにイデオロギー上の相克はないこと,CSTOの軍・治安体制が対決的なものでないことを強調した。

 CISに代わるように,2005〜06年に始動したCSTOは,NIS諸国の軍事・政治的統合の本格的な焦点,メカニズムになった。CSTOは自らを,新手のソフトな脅威と挑戦に対する主動部隊と位置づけている。すなわちテロリズムとの戦い,不法移民,覚醒剤取引き,兵器密輸,大量破壊兵器の拡散等だ。

 同時に,例えば「2010年までの軍事増強の連携計画」に盛り込まれている,加盟各国の兵器システムの横断的統合のような,集団安全保障の要素の中には,領土防衛や大規模な地対空軍事作戦を狙いとした集団的防衛機構の兵器システムに明らかに属しているものもある。

 2006年にCSTO指導部が懸念したのは,西側の有志連合が国内の圧力で,早めにアフガニスタンから撤退してしまい,勢いを盛り返しつつあるタリバンの第二派攻撃に,CSTOが直接対峙せざるを得なくなるのではないか,ということだった。

 CSTO周辺で具体的に論議されているのは,タジク・アフガン国境安定化に,国連安全保障理事会の委任を得る可能性についてだ。そうなればCSTOは,NATO軍と法的にも作戦的にも折衝しながら進められるだろう。

 2006年11月,リガでのNATOサミットで,機動的なNATO即応部隊(NRF)が二万名の最大規模に達し,完璧な稼働能力を持った時,NATOのNRFとCSTOの中央アジア緊急展開軍の間で,限定的な相互運用能力を保持することが相応しいのではないか,との提言があった。

今は何処に来ているか

 旧ソ連地域で,戦略地政学上の再分割または再構築が進行している。一方で従来の統合パターン,例えばCIS,「民主主義と経済発展のための機構」(GUAM),中央アジア協力機構(OCAC)等は機能できなくなっている。上海協力機構や民主的選択共同体(CDC),ウクライナやグルジアのNATO接近,そして経済協力機構等は皆,旧ソ連地域を超えた広がりを持っている。

 地域機構の軍事的役割は増している。EUとNATOは最近,緊急の危機対応の新たな仕組みとして,NATO即応部隊とEU緊急対応戦闘グループを設置し実験中だ。

 同じような流れで集団安全保障条約機構(CSTO)も,自らの危機対応のため新機軸を創設した。中央アジアやコーカサスではNATO,EUそしてCSTOの仕組みは共同で運用可能かも知れない。むしろ,それらがリアルタイムで連携がとれない場合,衝突につながる不均衡や不測の事態を招きかねない。

 集団安全保障条約機構(CSTO)はまた,その軍事的な仕組みを国連または欧州安全保障・協力機構(OSCE)の委託で運用するか,一定の条件下では自らの政治的課題に展開できるよう準備している。

  NATOやEUが旧ソ連地域に干渉しないという自己規制は,全てではないが大方取り除かれた。EU,NATOそして米,中,イラン,トルコ等の域外プレーヤーは,旧ソ連地域での紛争解決や経済プロジェクト,政治的調整にますます関与するようになった。

 ロシアの世論も,南コーカサスや中央アジア一帯を「我々のものではない」,より正確には「必ずしも全てが我々のものでない」と見なすようになった。その反面,ロシアの支配層は,これらの地域から政治的にも軍事的,経済的にも手を引く用意はなく,その興味もない。ましてロシアがバルト諸国から撤退した類の行動を起こすつもりはない。

 全般的な安保システムの設計は,旧ソ連地域の軍事インフラの大半を保有する最強プレーヤー,ロシアの管轄下にある。しかし西側が何らかの軍事・安保上のテーマを,モスクワとだけ交渉したり妥結することは不可能になった。安保問題の重要部分は,ロシアが優勢だが多国間の外交手続きとメカニズムを持つCSTOに移行されるようになった。

 反CIS,対モスクワの性格を持った「民主主義と経済発展のための機構」(GUAM)と選択的民主共同体(CDC)は,安全保障の次元を持っておらず中途半端だが,GUAMは近年,政治的インフラを発達させている。ウクライナ,グルジア,アゼルバイジャン,モルドバは,モスクワの網の目から脱出することに相当の利益がある。

 だが客観的に見て,共通の経済的メリットが少なく,逆に,政治的な課題は多様すぎて,等質的な連合をつくれない。これらの国々は目下,戦略の基礎を旧ソ連地域の外側に向かう連帯や結合を強めることにおいている。しかし集団的なものよりは,二国間ベースで行うことが多い。

 現段階で最も強力な「ポスト旧ソ連地域」統合の試みは,軍事・安保分野の集団安全保障条約機構(CSTO),経済分野のユーラシア経済共同体,そして政治・外交分野の上海協力機構だ。これら三つの統合イニシアチブの目玉は,中央アジアを中心にしていることと,ロシアの役割を肯定的に捉えようとすることだ。

 一方,コーカサス方面では,グルジアとアゼルバイジャンが,非旧ソ連地域のパートナーをしっかり拡大しているのに比べ,ロシアは全く成果を挙げていないように見える。

 旧ソ連地域が現れ始めた15年前に,新生ロシアは指導する気力も資源も政治的意思もなかった。だが元気のいい今のロシアは,域内超大国の地位を積極的に目指している。モスクワは旧ソ連地域の終わりを認めたくないようだ。

 ロシア国内の政治行動や外交方針は,ポスト・ソビエト時代に不釣り合いのものだった。1990年代初・中期の旧ソ連地域なら,部分的な再統合を促すような相互依存性を保持していたが,ロシアの国内政治,経済の脆弱性のために,モスクワがCISの場で積極的な政策を採れなかった。

 それどころか旧ソ連地域に遠心的な傾向が強くなり,後戻りできないほど対立し分解しようとしていた時,モスクワは表向き,国内を団結させ,「主張する」外交に戻ろうとした。それが必然的に,旧CIS諸国の少なくとも半分と緊張を誘発する結果になった。

 旧ソ連地域が浸食されて,15年前のソ連崩壊以上の地政学的変化をもたらした。もちろん旧ソ連地域の相互依存のメカニズムが一夜にして解体したわけではない。それは時間のかかるプロセスだったが,1991年からのポスト・ソビエト時代は,旧ソ連地域が徐々に浸食されていく過程と見ることができる。

 しかし,諸要因が時と共に徐々に蓄積しながら質的変化をもたらし,2000年代半ばは,NIS諸国の政治的な質の変化に特徴づけられる。ロシアも西側も,この質的変化に十分かつタイミング良く対応していない。ロシアも西側も,新たな地政学的状況に政策を適応させ,地域紛争の可能性を減らす行動や態度を必要としているようだ。

 この新たな状況で,ロシアはCIS地域についての政策を,本格的に規定し直す必要があるようだ。CIS自体が平和裏に消滅することを容認すべきかもしれない。いくつかの機能や任務は,非友好的に奪取するような形ではなく,集団安全保障条約機構やユーラシア経済共同体など限定的な機構に委譲し,オープンで法的にも透明性のある形で組織できよう。

 まだ新しい統合システムの二つのグループ,ひとつは集団安全保障条約機構(CSTO)とユーラシア経済共同体,もう一つは「民主主義と経済発展のための機構」(GUAM)と民主的選択共同体(CDC)は,対話できる道を探し,公然と対決すべきではない。

 NATOは集団安全保障条約機構(CSTO)を無視または過小評価しているが,それは政治的な誤りかも知れない。CSTOとNATOがライバル関係になったり,「AがBを追い出そうとしている」といったゼロサム論理に嵌り込まないことが極めて大切だ。

 NATOとCSTOの間で,互いの予測可能性,透明性,機能上の相互運用能力,そして潜在的な共通の危機に対応するために,公式の協力と連携対話が始まれば,敵対心や不必要な競争を防止できるだろう。

「域外プレーヤー」という表現は,潜在的にも実際的にも有害で避けるべきだろう。モルドバ・トランスニストリア紛争,グルジア・アブハジヤ紛争,グルジア・南オセチア紛争等の解決プロセスは,EUやNATO,欧州議会の幅広い役割と関与なしには執り行えないようになっていることをモスクワは認識すべきなのだ。

 同時にNIS内で仲介役を果たそうとする西側機関は,そうした仲介がロシアを除外してではなく,ロシアとの連携と協力の下でのみ進められることを承知するべきだ。西側がグルジアやウクライナ,モルドバの西側志向を歓迎したとしても,NIS内でロシアを中心に結束し,EUやNATOのドアを叩く意思のない国々を孤立させるものであってはならない。

 将来のロシア外交の課題は,新世代の友好的パートナーや,国境の南に新たな権益を作るために一貫した外交政策をまとめることだ。ロシアは,近年の西側とイスラーム世界の巨大な亀裂を利用しようと研究中だ。ロシアには「偉大な欧州の大国」になる基本構想が挫折しても,「アジアの大国」になる予備案が依然として確保されている。

ポスト・ポスト・ソビエト外交の目標

 2008年の大統領選挙の後,ロシアはポスト・ソビエト外交の別版ではなく,ポスト・ポスト・ソビエトの国際戦略をまとめる必要に迫られている。ユーラシアと地球規模での深まる変化の現実が,それを余儀なくしている。

 冷戦は終わったが,全面的に脱イデオロギー化された外交政策は,ロシアも西側も依然整理できていない。米ロの戦略的パートナーシップも,西側にとってまだ選択的かつ部分的,実用的なものに留まっている。

 NATOとロシアは公式に「結婚した」が,「根は異質だ」という相互認識は残存したままだ。欧州は相変わらず,ロシアがヨーロッパに完全には属していない,と見なしているし,一方ロシアは,将来共にEU加盟はない,というのが公式な立場だ。

 新しいクレムリンの行政府が,プーチン時代から継承する外交目標は何か。大別すれば,以下のように区分けできよう。

従来の外交政策で未達成の目標

○「拡大欧州」に全面的に受け入れられる

○ロシア国境の周辺に「善隣のベルト」を造る

○少なくとも数カ国のNISと同盟関係を維持する

将来ともロシアの外交目標でないもの

○CISを指導する重荷を背負う

○CISを今後も機構として存続させる

将来のロシア外交の新たな目標

○ロシアが石油・ガス輸出への依存を減らす

○国を世界標準まで近代化する

○グローバリゼーションのマイナス面から防衛する

○ポスト・ソビエトの末期的な脆弱症状が現われるのを克服する

○集団安全保障のアプローチを取り戻し,集団安全保障条約機構(CSTO)7カ国の軍事・治安インフラを,新たな同盟に仕立てる

○中央アジア,モルドバと南コーカサスに対する役割と責任についてNATO,EUと交渉する

○G8に全面的に参加し,究極的には「次世代の大国」リストの上位にあるBRICS諸国(ブラジル,ロシア,インド,中国)のトップを目指す

 もちろん政治の常で,成功する目標も,実現の見込みが薄い目標もある。成否のかなりの部分は,世界の流れと,主要大国の外交政策に左右される。

 しかし明らかなのは,ロシアと西側の双方が,NIS政策においてポスト・ソビエト主義の残滓を克服し,主導権を巡る新ラウンドの戦いを避け,互いに相手を犠牲にするゼロサム論理に陥らないようにすべきだ。

 北東ユーラシア,つまり旧ソ連地域の新たな分割線はすでに現れている。今後の歴史的役割は,それらの不安定化を最小限に食い止めることだ。

(PWPA-USA発行,International Journal on WORLD & PEACE,2008年6月号より整理して掲載)

注1 アメリカ例外主義(または,アメリカ例外論,英: American Exceptionalism)は,アメリカ合衆国がその国是,歴史的進化あるいは特色有る政治制度と宗教制度の故に,他の先進国とは質的に異なっていると言う信条として歴史の中で使われてきた概念である。その違いはアメリカ人の仲間の間で断定的優越性として表現されることが多いが,それには通常,歴史的時代や政治の流れに大きく依存して変化する証拠,合理化あるいは説明とされるものが付けられる。しかし,この言葉はアメリカの政治を批評する者達からは否定的な意味で使われることもある。(「ウィキペディア」より)

注2 集団安全保障条約とは,1992年5月15日にタシケントにおいて,旧ソ連の構成共和国6カ国(アルメニア,カザフスタン,キルギス,ロシア,タジキスタン,ウズベキスタンの7カ国が加盟している。その後2002年5月14日,集団安全保障条約の集団安全保障条約機構(CSTO)への改編に関する決議が採択された。04年12月には,同機構に国連総会のオブザーバーの地位が付与された。