唯物論文化の終焉

―今日の諸悪の根源としてのダーウィニズム

京都大学名誉教授 渡辺 久義

 

1.ダーウィニズムの欺瞞の歴史

 これを書いている現在,DNAの二重らせん構造の発見者の一人でダーウィニストのジェームズ・ワトソン博士が,黒人は白人より知能において劣るという発言をして,予定されていたロンドンでの講演が取り消しになったという報道があった。このエピソードはダーウィニズムの立場を象徴するものである。ワトソンはただ,人間とサルの間に本来の区別はなく,その間には無限の移行段階があったとするダーウィニズムの教義に忠実な発言をしたにすぎない*。ダーウィニズムによれば,種という概念は現実性をもたないのであって,種の区別があるように見える,あるいはたまたま区別が生じているだけである。だから人間とサルの間の区別は恣意的なものにすぎない。ダーウィニストにとっては,これが科学的なのであって,もし論理に従ってダーウィニズムに忠実であろうとするなら,彼らは人種差別主義者であることを避けることはできない。Benjamin Wikerはその著『道徳ダーウィニズム――いかにして我々は快楽主義者になったか』(Moral Darwinism: How We Became Hedonists)の中でこう言っている。

 彼ら[唯物論者]は相矛盾する二つの宇宙をもつという贅沢,すなわち一方では唯物論によって決まる科学的宇宙をもちながら,他方では自然法とキリスト教によって決まる道徳的宇宙をもつという贅沢を許されてはいない。彼らは,種というものは常に流動しているのだから種の区別は単に恣意的だとする科学を堅持する一方で,同時に,自然法のように,「人間」という種の区別に本質的に依存している道徳的立場を取ることはできないのである。もし人間というものが現実でなければ,人道的であることはできない。そして,動物を殺すことと人間を殺すこととの道徳的区別を可能にするのは,まさにこの「人間」という種の区別である。だからもし,これらの科学者の仕事が唯物論を支持するものであるなら,彼らの仕事は必然的に道徳ダーウィニズムの主義主張を推進することになり,それは他の対立する道徳観を消滅させることを意味する(1)。

 「他の対立する道徳観を消滅させる」と言っているのは,何であれ有神論的道徳観を消滅させるということである。ダーウィニズムはいかなる有神論的な宇宙論 (cosmology)の存在,従って伝統的な道徳観の存在をも許すことができない。現在アメリカでは,ダーウィニズム体制派のインテリジェント・デザイン(ID)支持者に対する迫害が,理性の範囲を超えたものになっている。それは単なる反対とか不認証とかでなく,学問の自由の抑圧,個々の学者の学界からの追放という事態にまで及んでいる。ここはそういったことの報告や説明の場所ではないが,一つだけ事実を挙げておこう。この迫害の実態があまりにも言語道断であるので,これがベン・スタイン(評論家でもあり俳優でもある)によってドキュメンタリー映画に仕立てられ,Expelled: No Intelligence Allowed(追放――インテリジェンスは許さない)というタイトルで,2008年4月に全米の映画館で封切られることになっている。

 これは確かに告発すべきひどい話であるが,同時にそれは,ダーウィニズムというものが実のところ何であるのか,何であったのかを如実に物語る現象でもある。もしダーウィニズムが冷静な,自然の深い真理を探ろうとする動機から生まれたものであるなら,それはどんな対立理論にも――喜んで受け入れないまでも――少なくとも耳を傾けようとはするだろう。しかしダーウィニズム体制派はそれを拒否する。彼らは問答無用の弾圧を選ぶのである。そういったやり方は彼ら自身にとって明らかに不利なのだが,彼らはそうは考えないようである。

 これは必然的に,ダーウィニズムは科学と呼べるようなものかどうかを疑わせることになる。真理への愛とか真理の探求ということとは全く別の,何らかの動機がこの学説にはあるに違いないと人は考えるだろう。我々のこの疑念を傍証するもう一つの例は,『神は妄想である』(The God Delusion, 2006)というリチャード・ドーキンズの新著である。タイトル自体が,この有名なオックスフォードの生物学者のこれまでの仕事の究極の目的が,何であったのかを明らかにしている。彼の仕事全体を貫いて「科学」という言葉が適用できるとは思えない。「唯物論信仰者のストーリー・テリング」と呼ぶのがよりふさわしいであろう。案の定,彼は「序文」でこの本をサタンの著作だと言っている。

 もしこの本が私の意図通りの効力を発揮するなら,これを開いた宗教的読者は,読み終えたときには無神論者になっているだろう。何という思い上がった楽天主義だというか! もちろん骨の髄まで信仰に染まった頭には議論は通用しないだろう。何しろ彼らの抵抗は,(進化にせよ計画によるものせよ)熟するのに何百年もかかった方法を用いた,何年にもわたる子供時代の吹き込みによって出来たものなのだから。より効果的な防衛手段としては,このような本を開けさえしないように厳重に警告するものである。これは確かにサタンの著作に違いないからだ(2)。

 彼の本が常に多くの人々によって,おそらく仲間のダーウィニストからもたしなめられることなく支持されているということは,もう一つの重要なことを物語る。すなわちダーウィニズムとは実のところ何であったのかを物語るのである。これは不思議なことである。なぜなら彼の本は読者をほとんど唖然とさせるような,あからさまな愚かしさと詭弁に満ちみちているからである。『神は妄想である』からいくつか見本を示すが,これは解釈学的興味からだけでも引用の価値があるだろう。

『不可能の山に登る』という本の中で,私はこの点を寓話で表現した。山の片側は険しい崖になっており登ることはできない。しかしもう一方の側には山頂に達するなだらかな斜面がある。山頂には,眼とかバクテリアの鞭毛モーターといった複雑な構造物がある。このような複雑なものが自動的に自分自身を組み立てるというような愚かしい考えは,崖の麓から山頂まで一跳びに跳び上がることにたとえられる。これとは対照的に,進化は,山の裏側へまわり,なだらかな斜面を山頂まで這い上がるのである――簡単だ!(3)

 これは彼の考えの核心であるにもかかわらず,この「寓話」の愚かしさはあまりにも明らかである。ドーキンズは,もし崖を登ることができなければ裏側へ廻ってなだらかな山道を登ればいいではないか,と言う。しかし何世代にもわたる進化生物学者や古生物学者を悩ませてきたのは,まさにこの「なだらかな斜面」がないということ,すなわち漸次進化を示す化石記録も他のどんな証拠も見つからないことではなかったのか? もしそのようななだらかな斜面が簡単に見つかるのであれば,おそらく誰も身の危険を冒してまでダーウィン進化に異議を唱えたり,IDのような代替案を提出したりはしないだろう。またスティーヴン・J・グールドらが妥協案として提案した「断続平衡説」などの必要もないだろう。いったいこれは本気で言われているのだろうか,それとも読者を欺くためだろうか? おそらく読者と自分自身の双方を欺くためだというのが正解であろう。いずれにせよ,これは心理学的説明を要求する。

 もう一つの例として,やはり同じ本の「意識を高めるものとしての自然選択」というセクションの一節を引いてみよう。

 このように意識を高めること(consciousness-raising)が,生物学以外の分野のすぐれた科学者の精神においてさえ,いかに必要であるかは驚くばかりだ。フレッド・ホイルは卓越した物理学者・宇宙学者であったが,彼のボーイング747についての誤解[飛行機の残骸に台風が吹きつけても飛行機は組み立てられない,と言ったこと]や,始祖鳥の化石をペテンだとして退けるといった生物学上の他の間違いは,彼が自然選択の世界に十分に身をさらすことによって,意識を高める必要があることを示唆するものである。知的レベルでは彼は自然選択を理解しているのであろう。しかし自然選択というものの力を本当に理解できるようになるには,人は自然選択の中に浸され,そこに埋没し,その中を泳ぎまわる必要があるのだ(4)。

 「意識を高める(もの)」とは奇妙な言い方であるが,おそらくドーキンズの言いたいのは,「自然選択」という概念は,それが通常受けているより高い評価に値するものだということ,そして我々の意識はその恐るべき威力に目覚めるべきだということであろう。これは奇妙な主張である。なぜなら,自然選択とは純粋に物的な力(ランダムな変異に対して働く圧力)のはずなのに,ここではそれは神懸かった力を帯びたもののようである。この文章はあたかも,自分の神秘的な秘教の世界に他人を引き込もうとする宗教信者によって書かれたかのようである。フレッド・ホイルは,ダーウィニズムという科学の世界に正しく参入するためには,宗教的信仰か洗脳か洗礼を必要とするようである。

 これはあまりに独りよがりの主張であって,他人を納得させることはできないだろう。これはほとんど正常な精神とは言えない。しかし我々はこれを相手にするに値しないとして退けることはできない。なぜなら,彼を支持する世界のダーウィニストは,どうみても彼の本を,自分たちの主義主張にとってさえ不利となる異常なものとは考えないで――我々ならそう考えるところだが――自分たちの立場を代表するものとして歓迎し評価しているらしいからである(日本ではドーキンズの本はほとんど,しかも出版と同時に訳されている)。我々がこれを退けることのできない理由はもう一つある。すなわち我々の生物教科書は,彼によって書かれてはいないものの,少なくとも彼の精神によって,つまり生命とは純粋に唯物論的観点から説明できるものであるかのように書かれているからである。

 今アメリカで荒れ狂っているダーウィニズムからの離反者への理不尽な迫害や弾圧,またドーキンズのような常軌を逸した言説が大手を振って世間に通用するという事実――こうしたことは歴史的観点から見れば,実はダーウィニズムにこと新しく生じたことではない。ダーウィニズムはその起源からして,全く同じような異常性をもつのである。

2.生物教科書詐欺の謎を分析する

 今日我々の知っているダーウィン進化論は,ドイツの生物学者にして政治的イデオローグ,たいていは生物教科書を通じて知られているErnst Haeckel(1834-1919)から始まったと言ってよいだろう。ヘッケルの名を我々が知っているのは,まずあの系統樹――生命の樹が一つの生命体から始まり,時間ともに成長しながら枝分かれし,現在の最も先端の分枝状態になったことを示す図――の作者としてである。今日あらゆる証拠が,我々の信じてきたこの系統樹が間違いであることを示していると言われる。この樹はむしろ逆さまにして,天辺の枝分かれを地面にもってくるべきだと言われる。逆さまにするとは,生命世界は一つの生物から始まったのでなく,生命のビッグバンと言われ,「カンブリア爆発」として知られる生物学史上の出来事において,(絶滅したものも含めて)今日の多種多様な門(生物の最も基本的な分類)が,先行生物なしに,ほとんど一気に出現したという意味である(天辺が一つになるという意味ではない)。(付図1)

 もう一つ教科書で我々がヘッケルの名に親しむのは,いくつかの脊椎動物の胚を並べて,それらがみな同じように見えることを示す有名な絵の作者としてである。ヘッケルのこの絵の意図は,人間の胚が,魚やブタやカメやニワトリといった他の動物のそれとほとんど変わらないと主張するためであり,それは彼が「生物発生の法則」だとして提唱した「個体発生は系統発生を繰り返す」――すべての動物はその胚発生の各段階を通じてその進化の歴史を繰り返す――ということの真実性を証明するためであった。これはダーウィンの共通祖先からの血統的下降という説の正しさを立証することになる。現在,この「法則」は間違いであることが証明されており,そして誰もが見知っているあの胚の絵(版画)は,ヘッケルの偽造したものであることが有名な事実として――特にジョナサン・ウエルズの『進化のイコン』(2000)によって――知られている。

 問題(であると同時に謎)は,これらの絵がいまだに,ほとんど修正もなく,我々の教科書に登場することである。それはあたかもヘッケルの絵が神聖で手を加えてはならないかのようであり,それはちょうどドーキンズの本が,今日,学者を含めた世間一般で受けている扱いと似ている。

 系統樹については,これを反証する決定的な地層の発見が比較的新しいということもあるから,これが教科書で使われることに弁解の余地はあるかもしれない。しかし偽造された胚の絵が一世紀にもわたって使われてきたことについては,弁解の余地は全くなく,またそれがなぜなのかもわからない。この偽造の事実はヘッケルが生きていた間にさえ知られていたのだから,なおさらである。彼は同じ専門家仲間からの非難攻撃に抵抗できなくなり,1909年1月9日のMunchener Allgemeine Zeitung(週刊新聞)に偽造の事実を告白したが(5),これは彼が繰り返し詐欺的な間違った絵や説明を発表していたからであった。彼は当然,学者としての生命を失っただろうと思われるかもしれない。ところが彼は名声も尊敬も全く失うことはなかった。それどころか彼は,その当時の帝国主義ドイツ(と他の帝国主義諸国)にとって,熱烈に必要とされた人物だったのであり,一度は信用をなくした彼の胚の絵が,奇妙なことに再び本に登場するようになった。こうした事実についての多くの証言(6)の中でも特に重要なのは,1997年にヘッケルの絵と並べて実際の胚の写真(付図2)を発表したマイケル・リチャードソンの言葉であろう。

「ヘッケルが白状したにもかかわらず…この絵は存続している。これこそ本当のミステリーだ。(7)」

「これは科学上の最もひどい詐欺の一つである。誰もが偉大な科学者だと思っていた人物が,故意に人を過ちに導こうとしていたという発見はショッキングである。私はこれには腹が立つ。…彼がやったことは人間の胚を取ってそのコピーを作り,サンショウウオやブタやその他すべての動物が,発生の同じ時期において同じように見えるかのように見せかけることだった。そんなふうには見えない。…これらはニセモノである。(8)」

「これは生物学上の最も有名なニセモノの一つということになりそうである。…しかしヘッケルの告白は,彼の絵がその後1901年の『ダーウィンとその後』という本に使われ,これが英語の生物教科書に広く再録されるようになってから,忘れ去られてしまった。(9)」

 実際これは,大声で解明を要求する我々の時代の「本当のミステリー」,好奇心だけでなく我々の義憤を掻き立てるミステリーである。ヘッケルが故意に歪曲された胚の絵を描かねばならなかった動機は何か? 彼の告白が「忘れ去られて」その偽造絵が教科書に再び現れ,それ以後ずっと,公然たる批判を受けることもなく,今日までそのまま受け継がれてきたのはなぜか? 

 ヘッケルは生物発生法則と称するものを考え出し,これを有名な「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉で表現した。個体発生(ontogeny)も系統発生(phylogeny)も彼の造語であり,この格言めいた「法則」に科学らしさを与える欺瞞である。ニセの胚の絵は,この「法則」の正しさを示す証拠として必要であった。人間の胚は,それが人間の姿に発達するまでに,鰓をもった魚の段階,尻尾をもった動物の段階等を通過しなければならなかった。母胎の中での胎児の成長に飛躍がないのは明らかだから,もしそれが進化の歴史を「繰り返す」のだとしたら,その進化の歴史にも飛躍はないことになる。こうしてダーウィニズムの核心である「自然は飛躍しない」という原理――本来的な種の区別は存在しないという主張――の正しさが証明されたことになる。生物はダーウィニストによれば,一つの大きな連続体であり一本の巨樹をなしているのである。

 ところでヘッケルにとって,進化の歴史に飛躍や断絶がないということは,この上なく重要な意味をもつものであった。なぜなら彼の興味は,特にサルと人間との連続性ということにあったからである。この特別の興味は,その連続性を示すために彼の描いたいくつかの絵に明らかである(付図3,4)。ベンジャミン・ワイカーが言うように,「人間」という区別された種を認めるか認めないかは決定的に重要である。一方は人を世界の有神論的解釈へ導き,もう一方は無神論的(唯物論的)解釈へと導くからである。もしあなたが後者を選ぶなら,サルと人間の区別は「単に恣意的な」ものであり,その間のどこに線を引くかはあなたの裁量一つにかかっていて,人はほとんど不可避的に,ナチズムや共産主義のような人間操作の方向へ誘惑されるだろう。

 私は最初に,人種差別はダーウィニズムに本質として内在すると言った。ヘッケルはまさにダーウィン的人種差別主義者の典型であった。ナチスに利用された「政治学とは応用生物学である」という彼の言葉に表れているように,ヘッケルは生物学者というより政治思想家,帝国主義的イデオローグ,人種差別論者,優生学者であった。彼にとって生物学とは,ソヴィエト・ロシアにおいてルイセンコ学説がそうであったように,政治に奉仕すべきものであった。彼の学者的良心を全く欠いた,平然たる胚いじりはそこからきている。明確な人間という種はないという考えがひとたび承認され,サルと人間の間のどこにでも自由に線を引くことができるとしたら,「自然」に選ばれた「最適者」である人種あるいは個人が,人類を操作し改良する権力と共に,責任をもつことになる。

 最近出版された何冊かの本が証言するように(10),優生学というものが19世紀後半から20世紀初頭へかけて,世界の主導国家の強迫観念となっていた。『種の起源』(1859)の出版以来,「最適者の生き残り」とか「生存競争」といった概念が世界の知識人の不安を掻き立てるものとなっていたが,同時にその解決策もダーウィニズムそのものに内在していた。すなわち人間による人間操作を正当化する「科学的根拠」をダーウィニズムが提供した。

 従ってそもそもの初めからダーウィン進化論は,それを支える経験的証拠があろうとなかろうと,エルンスト・ヘッケルが単なる宣伝屋あるいは詐欺師であろうとなかろうと,科学的事実であり真理でなければならなかったのである。この点で彼はその当時の立役者であり,一元論連盟(Monist League)という無神論的・帝国主義的組織を発足させた尊敬される哲学者であった。この「一元論連盟」とはどういうものであったのか? 次に引用する二人の著者の文章によって,およそのことは分かる。

 20世紀初頭のドイツにおけるダーウィニズムと優生学の勃興を契機として,現実にダーウィニズムを倫理と社会に適用しようとするいくつかの組織が生み出された。中でも特筆すべきは「一元論連盟」で,これは1906年ヘッケルの尽力によって生まれたものである。ヘッケルはかねてから,自分の一元論哲学に組織の形を与えることに関心をもっていた。「一元論連盟」の第一の目的は,宗教的な二元論的世界観――その攻撃目標は主としてキリスト教とカント哲学にあった――を一元論的世界観に置き換えることであった。進化論に基づいた自然主義的倫理が,この一元論的世界観において顕著な役割を果すことになった(11)。

 ヘッケルの「一元論」は,人間主義的・合理主義的な科学の,体制化された知的・道徳的伝統からの,根本的で過激な決別を提唱するものであり,それに代わる異教的・非キリスト教的な思想伝統に糧を仰ぐものであった。それは人格神の不在,存在の無意味さ,宇宙の本質的な無道徳性,直線的・進歩的な歴史概念への反対,といったことを強調する思想伝統であった。一神教の神は死んだ,人類は別々の本質的に二分された生物学的種族に分かれている,超越的な宗教は反科学的な迷信に根付くものである,道徳は歴史的に相対的なものである――こういった彼のおおまかな想定は,ヨーロッパの知識階級あるいは半知識階級の間に,最新の科学によって認められた反論できない真理として受け入れられていった考え方であった。時間とともに,ヘッケルの思想はますます過激化していき,最終的には国家社会主義(ナチス)の活動の主たる根拠として利用されるようになった(12)。(強調引用者)

 かくして歴史は繰り返す。「一元論連盟」の結成からほぼ正確に一世紀を経た今日,ヘッケルの正統的後継者というべきリチャード・ドーキンズが,全く変わらぬ同じ昔の哲学を,喝采する聴衆に向かって教えているのである。今日のダーウィニストにとっても,百年前のダーウィニストにとっても全く同様に,ダーウィン進化論は,証拠の有無や論理的説得力のいかんにかかわらず,科学的事実でなければならないのであり,従っていかなることがあっても防衛しなければならないのである。「生き残り」は最初からダーウィニズムと切り離せない概念であり,現在荒れ狂っている反対派への彼らの弾圧は,本来の自己に忠実なだけである。

 ヘッケルや彼の追随者たちは,一世紀前にどのように責任を感じていたのであろうか? 「最適者の生き残り」とか「生存競争」といった観念を吹き込まれていたドイツ人や他の帝国主義国家の人々にとって肝要の問題は,いかに競争に生き残るか,いかに「生活空間」獲得の競争に勝つかであった。ヘッケルの理想は,ヒトラーの理想がアーリア人(非ユダヤ系白人)の生き残りであったように,コーカサス人種(白人)の生き残りであった(後にはドイツ人だけに絞られたが)。しかし人種政策は「倫理」として哲学化されなければならなかった。だからこそ,ヘッケルの「一元論」哲学がそれを保証するものとして歓迎され,ヘッケル自身は救世主として祭り上げられたのである。『ダーウィンからヒトラーへ』の著者Richard Weikartによれば,「一元論連盟の基礎として働くべくヘッケルが定めたテーゼの一つは,利他主義と利己主義のバランスが取れるような,進化論に基づく一元論的倫理を要求するものであった。(13)」(強調引用者)

 それでもなお,ヒトラーやスターリンの死後久しい今日にいたるまで,なぜあの偽造された胚の絵が,我々の教科書に使われつづけているのかという謎はなくならない。真実のところは,より大きな悪はより小さな悪をかき消す,ということであるように思われる。その意味は,ダーウィニズムという広く受け入れられた大規模な欺瞞は,胚の偽造絵といったそれを構成するより小さな欺瞞を,見えなくし,どうでもいいものにしてしまう,ということである。問題はそれだけではない。ジョナサン・ウエルズの『進化のイコン』が指摘するように,生物教科書の欺瞞はヘッケルの胚だけでなく10項目に及んでいる。実を言えば,我々の生物教科書の「進化」のセクションは,ほとんどウソで固められていると言ってよい。だから,そこから一つや二つの特に目立つ間違いを指摘しても無意味だということである。それらは一つながりの一つの欺瞞(ウソ)なのである。

 それはこの上なく深い謎である。しかし間違いなく,教科書詐欺を詐欺として公然と批判することは長い間タブーであった。これは旧ソ連や他の共産主義国の人々にとって,自国の政治体制を批判するのが長い間タブーであった事情に似ている。いかに理不尽で苦痛に満ちたものであろうと,彼らが自分の国の体制を否定するのは,自分自身を否定することになったであろう。

 しかし本当のところ何が争われているのか? こうしたことの背後に何があるのか? それは単に古い理論の新しい理論への抵抗ということではありえない。

3.妥協の余地のない二つの対立する

  宇宙論
 生物教科書の欺瞞,あるいはSteve Ruddによるインターネット・サイトの呼び方をすれば「教科書詐欺」(School Textbook Fraud)が言語道断なのは,教科書というものが他の本とは全く違うからである。教科書はほとんど神聖なものと考えられ,白紙状態の若い無防備な学生に事実上,押し付けられるものである。我々はこのようなことを「犯罪」と呼ぶ以外に言葉をもたない。

 しかしこの犯罪とは本質的に何なのか? ある文化の中で一つの犯罪が全く問われることもなく,犯罪として意識もされないとしたら,その文化自体が犯罪的であろう。少なくとも,人々が何か深刻な事態に目をつぶっているのが常識で,立ち上がって王様が裸であると言ってはならないような文化は,何か深い病に侵されているのである。

 我々の時代,少なくとも20世紀という時代が,科学的唯物論あるいは唯物論的科学に支配されていたことを否定できる者はいない。もちろん唯物論は我々の時代に特有のものではなく,ベンジャミン・ワイカーが指摘するように,それはエピクロスやルクレチウスにまで遡ることができる。しかし,人文科学を含むあらゆる科学の前提は,唯物論あるいは無神論でなければならず,それだけが科学の正しい前提だという「常識」が生まれたのは,ダーウィンの『種の起源』以降である。

 確かにダーウィニズムは,マルクス主義やフロイト理論といった他の系統を含めた,我々の時代に浸透しているより広い唯物思想の一種ではある。しかし最近,後者二つの唯物主義はダーウィニズムからその糧を得ていることが明らかにされている。全体としての現代の唯物論は,いかに無意識にであろうと,その科学としての正当性をダーウィニズム,あるいは(マルクス=レーニン主義に倣って)ダーウィン=ヘッケル主義(Darwin-Haeckelism)から借りているのである。我々の多様な唯物主義は,ダーウィン=ヘッケリズムという共通の刻印をその根幹にもっている――すなわち神(性)と人間(性)に対する敵意である。

 実情はこういうことであるように思われる――ひとたび我々の唯物論文化が,ダーウィン進化論の教義――変化を伴う血統的下降,共通祖先,従って「人間」という種の区別は本来ない――の科学的真理性を根拠として確実に築かれてしまえば,今さらその根源に立ち返ってそれを再吟味することは,必要でもなく適切でもなかった。つまり,わざわざ自らの立場を危うくするようなことはすべきでなかったのであろう。従って生物教科書は,一世紀前のままにしておかなければならず,ヘッケルの定めたいわば欽定教科書のままで,次世代へ次世代へと引き渡されなければならなかったのである。ダーウィニズムの欺瞞,とりわけ教科書の欺瞞は知られてはならなかった。ダーウィン進化論に何の証拠もないという事実は,知られてはならなかった。生物は無生物からひとりでに生ずることはできないという事実は,知られてはならなかった。なぜなら,もしこの事実が知られたら,我々の文化全体が崩壊しなければならないからである。

 ダーウィン的唯物論(あるいはヘッケル的一元論)は,すべての20世紀の悪の根源である。そしてこの悪は,二つの世界大戦とともに,ファッシズムや共産主義のような全体主義に花開いた。唯物論的な人間解釈は,もしそれが純粋な思想にとどまるならば,中立あるいは道徳に無関係と言えるかもしれない。しかしダーウィン=ヘッケル主義がそうであったように,それが現実行動の根拠となって人間による人間操作へと導くとしたら,全く話は別である。我々の時代の唯物論は,全体主義的な人間工学への強い衝動をもっていた。英国の歴史家ポール・ジョンソンはこう言っている。

 社会改造工学は,何の助けも借りない自分の理性の光のみによって宇宙を作り変えることができる,と考える千年王国信者の知識人たちの作り出したものである。それは全体主義的伝統の生得の権利である。それはルソーによって先鞭をつけられ,マルクスによって組織化され,レーニンによって制度化された(14)。

 全体主義的人間工学は「マルクスによって組織化されレーニンによって制度化された」かもしれないが,それはダーウィン=ヘッケルによって科学として認可されたものである。「何の助けも借りない理性」という言葉でジョンソンが言おうとしているのは,唯物論文化特有のある重大な特質,古代ギリシャ人が「ヒュブリス」と呼んだ人間の傲慢である。この何の助けも借りない人間の理性によって人間を作り変えることができるという信仰と,その信仰を実践に移そうとする試みは,20世紀においてあまりにも手ひどい罰を受けた。すべてのこうした悲劇は,自然の秩序を否定して,人間という種の区別が恣意的であると主張するダーウィン=ヘッケル主義の傲慢からきている。もしも唯物論科学のほかに科学はありえず,従ってダーウィニムの言うように,種の区別ということに科学的根拠がないのだとしたら,人間を殺すことと動物を殺すことを区別する何の根拠もないことになる。

 優生学(eugenics)という言葉は今ではほとんど廃語になっているかもしれない。しかしそれは19世紀から20世紀へかけて世紀の変わる前後のヨーロッパとアメリカにおいて,盛んに議論された問題であった。それは優しい響きをもつかもしれないが(eu はsweet, goodの意),優生学とは,人類の進歩と健全化のために,自然法則――ダーウィン=ヘッケリズムによって保証された冷厳な科学法則――に従って,この地上から劣等人種や劣等人間を消し去ることを提案する「科学」であった。この人間による人間操作という思想は,ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)に至る潜在性を初めから秘めていたが,それはヘッケルの死後何年かたって現実となったのである。リチャード・ワイカートの『ダーウィンからヒトラーへ』は次のような言葉で結ばれている。

 ダーウィニズムはそれ自体ではホロコーストを生み出すことはなかった。しかしダーウィニズムがなければ,特に社会ダーウィニズムや優生学というその変形がなければ,ヒトラーや彼のナチ追随者たちは,彼ら自身とその協力者たちに,世界史上最も残忍な蛮行の一つが実は道徳的に称揚されるべきことなのだと納得させるための,必要な科学的支えをもつことはなかったであろう。ダーウィニズム,あるいは少なくともあるダーウィニズムの自然主義的解釈は,道徳を逆立ちさせることに成功したのであった(15)。

 我々は,ホロコーストは論外としても,優生学の考え方には身の毛のよだつものを感ずる。しかし覚えておかなければならないのは,我々の反宗教的な唯物論の中には,そのような考えを論理的に正当化するものが潜んでいるということである。優生学,人種差別,堕胎,性的放縦,人間の胚性幹細胞操作(クローン作り)――すべてこういったことは,我々の独善的で傲慢な,しかし浅はかな唯物論的信念の自然の結果である。この信念は,人間(性)と神(性)に対する傲慢な軽蔑を示すと同時に,必然的に自己を貶め否定するという皮肉な二重の性格をもつのである。

 ドーキンズほどの知的にすぐれた人物が,どうして最初のセクションで示したような愚かしい議論に耽ることができると考えられるだろうか?彼が自分自身の唯物論的世界観の犠牲者であり,自分で作った牢獄に捕らわれていると我々が考えない限り,理解できない。彼は,自らに課した哲学にあくまで忠実であるためには,自分自身を愚か者にしなければならない,道化を演じなければならないのである。しかしドーキンズは実は,我々の唯物論文化を映す正直な鏡である。ダーウィニズムが実のところ何であったのかを知る上で,彼は我々を助けてくれたと言うべきである。そもそもの初めからダーウィニズムは不吉なものを漂わせていた――欺瞞,あらゆる意味での犯罪性,神的あるいは霊的なものに対する敵意,自閉あるいは偏狭,心の異常あるいは不健全,独善的論理,偽装科学,他のすべての世界観に対する不寛容,等々。

 しかしここ数年,世界の見通しは次第に明るくなってきた。視界を覆っていた雲が晴れつつある。今初めて明らかになりつつあることがある。それは――唯物論あるいはダーウィニズムとは本当は何なのか?我々の唯物論的文化とはどういうものだったのか? 我々の科学とは何だったのか?我々の宗教さえ実は何だったのか?

 すべてこういったことは,最近現れたインテリジェント・デザイン(ID)理論と統一思想――後者はまだ少数者にしか知られていないが――の複合的効果である。もしこの二つが同時に我々に与えられていなかったら(どちらか一方だけでは),我々は世界についてこれほど明瞭な見通しを得ることはできなかったと思われる。我々は,IDのような非唯物論的な科学のパラダイムの可能性を教えられるまで,我々の唯物論的(あるいは無神論的)文化が本当は何であったのかを認識することができなかった。しかもこれに付随して思いがけなくも,ID運動が学界に巻き起こしたパニックを通じて,ダーウィニズムの正体を知ることになった。これはIDに帰せられるべき二重の功績である。

 我々は長いこと,解決すべき課題は,科学と宗教の対立だと考えていた。正しい区別は,価値に関係のない科学と,価値にかかわる倫理あるいは宗教の区別だと考えてきた。今,本当の対立は,無神論的宇宙論(cosmology)と有神論的宇宙論の対立であることが明らかになってきた。どちらも科学体系であり,どちらも価値体系である。我々がこの事実に盲目であったのは,まさに徹底した唯物論的文化の中で育ち,教育を受けてきたからである。我々はこの二つを,単に無神論的科学と有神論的科学と呼んでもよいのだが,我々の新しい世界観には宇宙(universeではなく一大調和体としてのcosmos)の観念が関わってくるので,これを「宇宙論(宇宙科学)」と呼ぶほうがよいのである。もっと単純に,神なき宇宙体系と創造者たる神をもつ宇宙体系の違いと言ってもよい。いまだに「神」という言葉に抵抗をもつ人々のためには,この違いは,閉ざされた系としての宇宙と,自己の外(空間的外部ではない)に向かって開かれた宇宙の違いだと言ってもよい。

 重要なことは,この二つの宇宙論は共存できないということである。またこの二つの世界観の信奉者が共に自己の哲学に忠実である限り,両者の間に妥協点も中間点もないということである。これもまた我々の新しい発見に属すると言ってよい。なぜなら我々は,二つの考えが対立するときは,衝突を避け妥協点を見出すのが紳士的で賢明なのだと教えられてきたからである。我々の常識は,ほとんどあらゆる場合に,そのような妥協を勧めるであろう。しかしこの場合はそうでない。我々は我々の魂を売ることはできない。その一部を切り売りすることもできない――たとえ(見かけの)世界平和のためであろうとも。唯物論者(あるいはダーウィニスト)も,純粋であれば同じことを言うであろう。だからドーキンズのような純粋な唯物論者は,あれほど徹底的に戦闘的で非妥協的なのである。そのような観点がベンジャミン・ワイカーの『道徳ダーウィニズム』に明らかにされている。

 今日我々の社会を二分する道徳の対立は,理論的レベルにおいてのみ決着をつけることができる。すなわち道徳観の対立は究極的に宇宙科学の対立に根ざしている。従って自然の解釈をめぐる科学論争に決着をつけることが,人間のあり方についての道徳的衝突を解決する唯一の方法である。好意的に相手に歩み寄る妥協というものはすべて一時的にすぎず,純粋な唯物論者も純粋なキリスト教徒も妥協を受け入れることはできないから,我々の道徳観闘争は宇宙論闘争でなければならない(16)。

 これまでの執拗な進化−創造論争で本当に争われていたのは何か? 科学を防衛することだったのか,宗教を防衛することだったのか? そうではなく問題は,有神論と無神論の二つの道徳体系あるいは宇宙論体系の間の二者択一,そしてどちらの道徳あるいは宇宙論が本当の科学であるかを見定めることだったのである。IDとダーウィニストの激しい衝突は,我々の本質的な問題がどこにあるかを明らかにするという効用をもたらした。

 徹底したモラル・ダーウィニストに話を戻すと,インテリジェント・デザインの議論に対する抵抗の多くは,科学理論的なものでなく道徳的なものである。そして自然から神的なものを排除する唯物論の原理は,科学の進歩そのものによって覆されてきたことを考えると,インテリジェント・デザインに対する純粋に理論的な抵抗のように見えるものは,なおのこと,その多くが道徳的な動機をもつものであることがわかる。もし唯物論が一種の信仰――すなわち自然を説明しようとするのだが,アプリオリに非物質的なものを排除して説明する仮説(それへの反証が次第に増していく仮説)――だとすると,いったいこの信仰に力を与えているものは何か?端的に言ってそれは,その対立理論であるインテリジェント・デザインが真理であって欲しくないという,切なる願いなのである(17)。

 ここに述べられているように,「自然から神的なものを排除する仮説」すなわち,閉じられた宇宙仮説は,それへの「増していく反証」のために,ますます厳しい立場に追い込まれつつある。『神とデザイン』(2003)という本の扉に,編著者のNeil Mansonは「cosmic fine-tuning(宇宙の微調整),anthropic principle(人間原理),irreducible complexity(還元不能の複雑性)といった言葉は今や一般の意識の中に浸透した」と書いている。すでに完全に浸透した「ビッグバン」は言うまでもないだろう。

 にもかかわらず無神論的宇宙科学,従って無神論的道徳を支持する人々には,それなりの立場があるのであろう。しかしそれは彼らが考える科学的中立の立場ではなく,ほとんど確実に神に対する,そして明確な種としての人間に対する,敵意から発している。これらの科学者は不可避的に人間破壊の方向へ導かれていくだろう(例えばジェンダー・フリー論者,過激性教育家のように)。そして彼らの唯物還元主義は,彼ら自身を人間以下のものに還元することによって,彼らに復讐するであろう。

 我々は今,我々を包んでいた暗闇が晴れつつあるのを感じている。我々は長い間,自分自身の文化の何たるかを知らなかった。自分は共産主義世界とは全く違う自由な世界に生きていると考えていた。今我々は,自分が共産主義世界と変わらない,拘束された不健全な世界に生きていたことに気付き始めている。この気付きを,新時代の夜明けと呼びたいと思う。
(2007年12月2日,東京で開催された第19回統一思想国際シンポジウムにおいて発表された論文である。)



*ダーウィニズムの教義に忠実な発言のもう一つの例は,リチャード・ドーキンズの次のような新聞寄稿である。これは2006年11月20日,スコットランドの新聞「サンデー・ヘラルド」に載ったもので,「優生学も悪くないかもしれない」と題され,ヒトラーの優生学容認に傾いている――

 1920年代と30年代には,政治的な右翼左翼を問わず,科学者たちは「特注の子供」(designer babies)という観念を特に危険なものとは考えなかったであろう――もちろん,そういう言葉は使われなかっただろうが。今日,この観念はあまりにも危険なものとなり,気持ちよく議論の対象にすることはできないようだ。そう変わったきっかけは,おそらくアドルフ・ヒトラーであろう。 

 誰もこの怪物と,たとえ一点でも意見が同じだとは思われたくない。ヒトラーの亡霊におびえる科学者の一部は,「本来あるべきもの」(ought)から「現にあるもの」(is)へと心を移し,すぐれた特質を求めて人間を品種改良することの可能性をさえ否定してしまった。しかし,もしミルク増産のために牛を品種改良し,スピードを求めて馬を改良し,牧畜のために犬を改良できるなら,いったいなぜ,数学や音楽や運動能力向上のために,人間を品種改良することができないのか? 「そうした能力は一次元的なものでない」と反対するなら,それは牛にも馬