「転回点」における日本の課題とその方向性

筑波大学名誉教授 加藤 栄一

 

1. 対米政策「新帝国主義論」

(1)ドル覇権の成立とドル不換紙幣本位制
 19世紀以降,国際金融の中心地としての英国の強力な立場を背景に,イギリス・ポンドは世界の基軸通貨の役割を担ってきた。第一次世界大戦,第二次世界大戦を経て,英国をはじめとする欧州各国は経済が疲弊し,逆に米国は戦争特需で経済が急成長した。その結果,基軸通貨がポンドからドルへ移ることとなった。すなわち,1944年のブレトン・ウッズ協定によって「ブレトン・ウッズ体制」(金為替本位制)ができあがり,金とドルの固定相場をもとに各国通貨の交換比率を定めることになったために,米国ドルが実質的基軸通貨となったのである。

 その後,1971年に「ニクソン・ショック」が発生し,ニクソン大統領はドルの金交換停止を含む新経済政策を発表した。これによってドル不換紙幣本位制ともいうべき体制が出来上がった。また,73年には変動相場制に移行したことによって,ブレトン・ウッズ体制は崩壊することとなった。

 ここで「ドル不換紙幣本位制」下のドルの動きを,単純化モデルで見てみよう(図1)。米政府が米国民にオーバーサービス(軍事力サービス,需要創造,福祉など)をしてドル紙幣を発行し,米国民はその紙幣を使って外国からさまざまな製品・サービスを過剰に輸入する。そして外国は米政府から米国債を購入するという構図である。

 一方,正常なドルの動きを説明する(図2)。

 米政府が米国民にサービスするが,それに応じた税金を国民は支払う。米国民と外国とは輸出入の関係において収支が合うような取引をする。そうであれば米政府は,国債を発行する必要はない。

 現在,米国債の発行残高は8兆7000億ドルとなっている。08年1月に,ブッシュ政権は不況対策として需要創造したが,その規模が1500億ドル(GDPの1%に相当)であった。それと比較すると,米国債の発行残高がどれほど多いかわかる。ちなみに,米国債の額の実数は日本国債の発行残高とほぼ同程度であるが,米国の国民経済規模が日本の2〜3倍あるので,負担は日本より少ないだろう。それでも,日本に比べ金利が高いこと,米国債の多くを外国が保有していること(サウジアラビア,中国,日本など。日本は約1兆ドルを保有)などの要素を考えると,国債の多さは不利な条件であることは間違いない。

(2)米国の「帝国主義化」
 戦後のドルの動きから現在までの大きな流れを概観したが,この結果,米国は「帝国主義化」するだろうと,私は予測する。

 帝国主義とは,「軍事力で他国を支配し,経済的利益を自国のために確保する体制」であるが,帝国主義の時代的変遷をおおまかに見てみると次のようになるだろう。まず古代(農業時代)においては,地上兵力を手段とし,農地(貢納地)を占領する。近代(工業時代)においては,地上・水上兵力を手段として,マーケットを独占する。そして現代(情報時代)は,戦略空軍,(補助的に地上・水上軍を含む)空軍,情報戦争力などをもって,企業奪取(M&A)を行う。

 前節で述べた最単純モデルで明らかなように,米国は無理が蓄積することによって,最近の経済動向に見られるとおりドル安,ドル売り現象が現れることになり,それがドル覇権の終わりにつながっていくと思われる。それでは,ドル覇権終焉後の基軸通貨は何か。その重要な候補は,ユーロである。表1を見れば分かるが,ユーロはほぼドルと拮抗するだけの実力を備えている。

 さて,不況が続いて深刻化した場合は,それが恐慌になる可能性がある。過去の歴史にも見られたように,恐慌は帝国主義を招くおそれがある。それは恐慌という深刻な状況におかれた国民が国家の冒険に期待をかけるようになるからだ。そしてドル覇権に代わって,軍事力覇権のウェイトが高まる結果,米国は「新帝国主義化」する。

 もっとも,米国にはいくつかの潜在的な強みがあるので,帝国主義化を避ける可能性も残っている。世界経済フォーラムの資料によると(図3),いまなお米国は競争力において世界一を保持している。それは,米国に発明力ある企業,効率的な資本市場,そして柔軟性ある労働力があるからだ。

(3)「新帝国主義」はもう始まっている?
 しかし,私は米国の「新帝国主義」はすでに始まっているのではないかと見ている。
 現在,米国はいつの間にか全世界に「基地」という名の占領装置を張り巡らしてしまった。この基地は,もともとソ連共産主義帝国に対抗するために作ってきたものだが,冷戦体制が終焉してからも維持され続けている。その全世界に張り巡らされた「基地」という圧倒的軍事力によって,現在では,英,仏,独,日本など各国は米国の占領下にあるといえる。

 かつて日本の歴史において,源頼朝は弟の源義経の残党に対抗するためとの名目で各地に守護・地頭を置いたが,それが後に,鎌倉幕府の地方支配の基礎となった。これと似ている。

 共産主義崩壊(1989年)後は,基地の目的であった共産主義という対抗勢力がなくなったので,基地は各国の「占領装置」となったわけだ。

 また,イラクにおいて米国は,軍事力増強を行っている。それによってイラクは治安が維持され民主化するだろう。その結果,イラクは国有油田の民営化を含む立法措置を行う。そして民営化された油田は,やがて米国資本によってM&Aされてしまう。現ブッシュ政権は,その辺まで目論んでいるのではないか。

 次に,日本の状況を見てみる。かつて橋本龍太郎首相は,渡米して「(私は日本の保有する)米国債を売りたい誘惑にかられる」との発言をしたことがあった。その結果,米市場は暴落。帰国後,橋本首相は米国から招待されて横田基地に案内された。そこで基地の現状を見せられ,「このように米軍基地が日本を守っている。日本などはいつでも見放すことができる」と恫喝を受け,橋本首相はあわてて前言を取り消した。そして日本は,いつ紙切れになるかもしれない米国債を抱えて売れずにいるのだ。

 また,米国は「構造協議」と称する指令を次々と出し,最後には「アメリカン・ボーイ」の竹中平蔵を使って郵政民営化を実現させた。その結果,「ゆうちょ」という世界最大の銀行が誕生したが,これは民間株式会社なので,米国系資本によってM&Aのターゲットにされている。

 これまで四大証券といわれてきた日本の大手証券会社のうち,山一證券と日興證券はM&Aによって既に外資の手に入っている。その他,保険会社などが,さらなる米国系外資のM&Aの橋頭堡となりつつある。

 さらに米国債を継続して日本に売るために,日本国内を低金利にしておく必要があることから,現在の低金利政策が維持されているのではないかと見る人もいる。

 こうなると今後,国家金融資本同士の衝突が起きるかもしれない。最近,世界で政府系ファンドが台頭してきた。いま全世界に約3兆ドルの資金を有する産油国の政府系ファンドがあるが,米国とこれとが衝突する可能性がある。事実,産油国の政府系ファンドが,港湾・石油などの戦略的米国企業を買収しようとしたところ,米政府・議会はそれを拒否した。それが発展すると,新しい帝国主義「抗争」(戦争)に発展していくかもしれない。

 日本の優秀な官僚の中には,「新帝国主義」体制の中で自分たちだけがうまくやって行ければいいと考えて,既に官僚を辞めて外資系企業に入っていく人もいる。ただ,外資系企業は高給与ではあるが,「外国による日本企業M&Aの手先」との見方もある。日本の官僚はこれまで低賃金過重労働で,福祉国家,国民のために働いてきたわけだが,その建前を忘れてしまったようだ。これは非常に危険な兆候といえる。かつて,オスマン帝国,大英帝国が行った「原住民秀才による植民地統治」の方向に流れるおそれがある。

<問題提起>

  「新帝国主義」下の植民地ないし保護国である日本は,今後,どう生きるべきか。

2.対中政策「新合従連衡論」−中国の膨張に対して

(1)中国の膨張とその限界点
 中国は現在,膨張しつつある。人口圧力も作用して,チベット・シベリア・日本などへの移民が進んでいる。朝鮮半島(北朝鮮を含む)に投資している他,「東北工程」に見られるように,高句麗史,琉球史などを中国の辺境史に位置づけるなど歴史の主張を展開している。さらには,海軍力を増強しつつあり,東シナ海,南シナ海に進出して地下資源確保や国防の前線を拡大しつつある。また,数十年後に中国は,米国を抜いて世界一の経済大国化するとの予測もある。

 それでは,このような中国の膨張に対して,いつまで堪えればよいのか。私は,中国の総人口が減少局面に入る2025年までとにらんでいる。国連の各国人口将来推計予測によれば,中国の人口がインドの人口に抜かれるのが,2025年とされる(図4)。さらにインドと比べて,中国は高齢化が進んでいるので,中国の脅威はそのころ減少に転ずるのではないか。

(2)米国人の対中観
 「中国は50年以内に米国よりも強くなっているか?」との質問に対して(「エコノミスト」誌ユーガヴ調査による),米国の民主党員70%,共和党員の60%が,それぞれ「イエス」と答えた。このような世論を反映して,ヒラリー・クリントン女史は,対中関係を米外交において重要視する旨の発言をした(「フォーリン・アフェアーズ」07年11/12月号)。すなわち「中国との関係が今世紀における最重要な二国関係だ」と述べた。

 その論文の中で日本のことにはほとんど言及されていない。いまから30年前,マイク・マンスフィールド駐日大使が,日米関係を「最重要な二国関係だ」と発言したのとは,対照的である。その後,ヒラリー・クリントン女史は若干発言を修正したようだが,本心には変化がないと思う。

(3)国際関係モデルと「新合従論」
  対中政策を考える上でモデルになるのが,いまから2500年前の秦の膨張に対する国際関係モデルである。すなわち,「合従連衡論(がっしょうれんこうろん)」である。

 「合従論」とは,秦に対して6カ国(韓・魏・趙・燕・斉・楚)が攻守同盟を結び,縦(=従)に連なって対抗するという考え方である(蘇秦が唱えた策)。一方,「連衡論」とは,秦がそれぞれ6カ国とよしみを通じて横(=衡)につながり,いずれ順次併呑して各個撃破していくという考え方である(張儀の唱えた策)。

 現在,北朝鮮問題に関する中国の選択肢には,「親米遠朝」(米国と仲良くして北朝鮮を遠ざけるという考え方)と「親朝反米」(北朝鮮と仲良くして米国に反対するという考え方)とがある。

 ところが,最近に至り,ショッキングな変化が現れた。すなわち,「チェンジング・パートナー」といわれる考え方で,北朝鮮と米国が結んで中国に対抗するというものだ(「産経新聞」2007年8月10日付)。もし,北朝鮮が,いままでの常識を破って米国のパートナーになり,米国が中国に対抗する連携の一環に加われば,これが「新合従論」となる。これまで日韓米の協調が唱えられてきたが,それに北朝鮮が加わり,さらに,台湾,アセアン,インド,オーストラリアが加わる。

 この「新合従論」では,各国がそれぞれの特徴を有する。北朝鮮のもつ核は,中国の核の対抗力となる。韓国は兵力,経済力,日本は経済力,技術力,基地,かなり精強な自衛隊,米国は強力な軍事力,台湾はモラル・パワー(自由・民主・繁栄),アセアンは対中警戒心を共有,インドは成長する国力と核を,それぞれ有する。これらの特徴を持つ国々と地域共同体(アセアン)が協力関係を結べば,かつての秦に対する合従論のように,中国の膨張に対する対抗勢力となりうる。

 これに対して中国は,ロシアとの同盟に進む可能性がある。現在,中国は「上海協力機構」を立ち上げて,ロシア,中央アジア4カ国などと同盟関係を結んでいる。

 こうした世界情勢を鑑みて,以前,麻生太郎外相(当時)は,「自由と繁栄の弧」ドクトリンを発表した。すなわち,06年11月30日,同外相は「『自由と繁栄の弧』をつくる−拡がる日本外交の地平」と題する政策スピーチを行った。この中で,日米同盟の強化と国連の場をはじめとする国際協調,中国,韓国,ロシア等,近隣諸国との関係強化といった従来の日本外交の柱に加えて,自由,民主主義,基本的人権,法の支配,市場経済といった「普遍的価値」を重視しつつ,「自由と繁栄の弧」を形成することを新たな日本外交の柱として位置付け,外交の新基軸として打ち出した。これは北欧諸国から始まって,バルト諸国,中・東欧,中央アジア・コーカサス,中東,インド亜大陸,さらに東南アジアを通って北東アジアにつながる地域において,普遍的価値を基礎とする豊かで安定した地域,すなわち「自由と繁栄の弧」を形成していくことをその内容とするものである(『外交青書2007』)。

  この発言を評価したのが,「エコノミスト」誌であった(07年12月15日付)。すなわち,「勃興する中国に対して包囲網を作ろうというみえみえの試みである」(in practice a not-particularly-subtle attempt to throw a cordon around a rising China)と述べた。

 こうした周辺の動きを敏感に感知した中国は,さっそく「連衡工作」を始めた。その一つの表れが,07年12月末の福田首相の訪中における同首相の取り込みであった。

<問題提起>

   今後,この「新合従論」の団結をどのようにすれば強く維持できるか。あるいは,秦のときと同じように,連衡論で対抗した中国が勝利を収めるのか。

<企画会議・ディスカッション要旨>

■「多極化戦略」で日米中等距離外交を狙っている中国

  ―――中国は合従連衡論においてプロであり,中国の論理で戦略を立てている。中国の戦略は,「多極化戦略」だ。この基本は,米国の力を弱め他国を取り込む。その国の代表がロシアだが,大体成功した。次のターゲットが日本。元来は独仏であったのだが,特に最近は中国に対して厳しい態度なので,矛先が日本に向いた。日米関係にくさびを打ち込んで,願わくば,日・中・米等距離外交を考えており,日本をもっと中国よりに擦り寄らせようと考えている。とくに日本の経済援助は重要な部分となっている。

 現在の中国外交の基本戦略は,「反和平演変」である。米国の外交の基本は反共なので,中国はそれを非常に恐れている。「天安門事件は裏で米国が操作した」と 小平が述べた。ソ連を崩壊させたのは米国であり,その次のターゲットは中国だと認識して恐れている。

 中国は,大国間の力関係を重視する。ここでいう大国とはG7+ロシア。中国は韓国をあまり重視しない。米国の力を弱めて,中国の勢力を相対的に高めようとしている。その点でも,中国は合従連衡論に関して長けていると思う。

 ―――合従連衡論は中国の歴史を通して鍛え抜かれた外交モデルである。それゆえ中国は,福田内閣が登場するや否や,福田首相を取り込みにかかった。日本は,基本的には米国と仲良くして中国の膨張を警戒する方向性をとるべきだろう。

■共産党一党独裁で政治・経済の矛盾が拡大

 ―――中国の展望については,政治・経済面の矛盾が非常に増大しており,共産主義では持ちこたえられなくなる可能性がある。と同時に,現在の共産党指導部も共産主義で今後も国家運営をやっていけるとは信じていないようだ。

 不正・腐敗を正していくところがない。上からの改革がわずかばかり行われているが,国民の不満は非常に強い。共産党一党支配の矛盾が生じている。分かっている人は,すべての組織の上に党中央が乗っているという共産主義システム自体を変えない限り,中国の変化はありえないと考えている。

 ―――中国では,経済が資本主義化しているにもかかわらず,政治は共産党独裁体制が続いている。フランス革命以前のアンシャンレジーム体制当時のフランスでも,資本主義が発達したが,絶対王政であった。その後,ブルジョア革命が起きた。中国も同様の道を歩むのではないかと考えられる。

 独裁体制には,開発独裁というしくみもある。インフラを急速度に整備していこうとするときには,開発独裁体制も意味があった。共産党独裁も同様に考えることもできる。そうしたことを考えると,民主主義体制とは,経済が一定水準にまで成長したときに許される一種の贅沢だと見ることもできる。

 ただ,共産党支配が崩壊したときに大きな混乱が起こりうる可能性もあるので,それに関してはわれわれも用心を続けなければならない。

■中国の核にも「新合従論」で対抗

 ―――『チャイナ・ウォー−東アジア動乱』(邦語訳)(原題:Dragon Strike: A Nobel of the Coming War With China)という本がある。著者は,英国のBBC極東支局長(Humphrey Hawksley)とファイナンシャル・タイムス極東支局長(Simon Holberton)の共著。前言に「これは小説ではなく,シナリオだ」と書かれていた。

 中国が台湾攻撃を開始する中,日本のトップは米国の第七艦隊を要請するのだが,米国側はしぶって応じようとしない。そこで日本の首相が,「これは予測したことだ」と言って,隠していた核兵器を出して世界に宣言し,核保有国となるという筋書きだ。

 欧米の人たちは,このようなことまで考えている。英仏は,第二次大戦の疲弊した苦しい中で,最も安くて有効な手段としての核兵器を開発した。現在進行中の六カ国協議において,北朝鮮が核保有国として位置がはっきりしたあと,次は日本がそうなることが本当は恐ろしいと考えるのが,西欧諸国だと思う。

 ―――米国・国防総省の元幹部が次のような警告をした。日本が今後有効な対策を講じなかった場合には,2015年までに日本は中国の支配下に入ってしまう…と。そのうらには「普通の国」になるためには,日本は核を持つべきだとも言っている。冷戦時代に,米ソが戦争を起こせなかった背景には,核抑止力の効果があったことも想起すべきだろう。

 ―――核抑止力は冷戦時代には有効であったが,今後も有効かどうかは不明だ。テロ分子などむちゃな人が核戦争を始めないとも限らない。一旦はじめればその惨禍が非常に大きい。それで人類が気がついて,反省するようになるかもしれない。

 インド・パキスタンが核武装を行ったときは核が抑止力として機能し,戦火を交えなかったのは幸いであった。日本も核兵器をもつことは,そのような観点から利点があるかもしれないが,国民感情はなかなか許さないだろう。

「新合従論」からいうと,日本があえて核武装をしなくても核保有国を合従のなかに組み入れて中国の核と対抗させれば,日本が核保有をしたのと同じ効果をもつことができるだろう。

■米中間で「股割き」状態になりかねない日本

 ―――四半世紀後の世界を予測することは必要だろうと思う。四半世紀後に日本は「溶解してしまう」のではないかとも言われる(「溶けゆく日本人」)。このことを考える場合に,環境問題は最大のイッシュだ。環境問題は日に日に深刻化している中で,資源エネルギー問題,レアメタルなど金属問題,水資源,などがあり,そうした要因を念頭において日本はどのような国家戦略を持つべきかを考える必要がある。

 共産主義思想が理論的に崩壊して以降,世界にはナショナリズムが猖獗を極めている。コソボ問題はその表れだ。ただ最近,ナショナリズムを上回るものとして「地域主義」が出ている。アジア地域では,それは「アジア主義」という形で「東アジア共同体構想」が出て来た。

 この構想にオーストラリアやインドを含むかは,まだ不明だが,今の状態では日本と中国の綱引き合戦になって2033年ごろには,中国のGDPが日本のそれを上回る可能性が極めて高い。その年について,現在の予測では2017-8年とされている。それによってこれまで日本が誇ってきた「世界第二の経済大国」というよりどころが崩れて,何となく中国になびくということもありえる。

 したがって東アジア共同体の中でアジア主義をどう考えていくべきか。下手すると日本は,米国と中国の間で「股割き」状態になりかねない。東南アジア諸国は中国になびきつつあるが,日本は米国につくのか,中国につくのか,ジレンマ状態に立たされる。

 その間に,台湾問題が深刻化する可能性がある。北京政府は2020年までに台湾問題を解決したいと考えているようだ。一方で,中国国内の矛盾はますます先鋭化しつつある。それは天文学的な数の矛盾だ。このような混沌とした状態の中で,日本はアジアの一国としてどのような舵取りをしていくかは非常に難しいと思う。

■国益を見据えたしっかりした対中戦略を立てよ

 ―――中国が北朝鮮を属国化しようとしているとすれば,北朝鮮の金正日が,米国・韓国・日本と手を組んで対抗しようということは,当然考えられる選択肢だ。金正日はそれくらいのことも考える戦略家だ。日本の政治家は及びもしないだろう。合従連衡論は中国のお手の物である。

 米国のベーカー長官が書いた回想録の中には,日本については「金を出させた」という1行の記載しかなかった。それに対して,ロシアとの外交の戦いについては尊敬を持って表現している。国益を守るために外交交渉を行うその姿勢について,敵ながらあっぱれと称賛するほど。このように日本は,世界から相手にされていない。

 対中政策においても,日本の国益をしっかりと見据えた上で,戦略を立てる。そのような戦略的思考法が日本には非常に欠如している。例えば,中国と米国が争う中で漁夫の利を得るほどの考えも必要だ。そうした国益を確保した上で,はじめて海外への援助などを考えるのだ。

 国際社会から見ると,日本は「おひとよしの馬鹿」とみえる。国連外交にしてもお金だけ出して意見がない。日本青年会議所の仕事を見ても,金を出しているだけだ。それでも日本に金があるうちは花だが,金がなくなったら存在価値がなくなる。主権を維持していることの価値,ありがたさを知らなければならない。

 中国に関しては,孫子の兵法やマキャベリズムのような透徹した計算をしたうえで,どこまで地域,世界への貢献ができるかと考えるべきだ。冷静で合理的選択をする必要がある。

 ―――幕末に日本が西欧列強からの圧迫を受けたときにも,日本の多数の人民はおひとよしであった。しかしそれらを一本化して「力」にしたのは,国防意識や主権意識を育てた吉田松陰などイデオローグであった。このような存在が何人もいた。彼らが武士を中心としてそのような意識を昂揚させたおかげで,日本は滅びることを免れた。ひるがえって現在の日本を見ると,イデオローグはほとんど見当たらない。それが非常に危険だ。

3.内政の長期的課題

 昨年,私は日本の内政の長期的課題について意見を表明したことがあったが(「世界日報」Viewpoint, 07年8月6日付),そのなかで今後の重要の内政課題として4つを挙げた。すなわち,

@テロ対策措置法延長
A少子高齢化
B地方格差
C国の借金
である。

 この間,安倍政権から福田政権に交代したが,福田政権に入ってから,この当面する4つの課題のうち二つは意外にも解決の方向性が見えてきた。すなわち,テロ対策措置法延長問題は,新法が成立してひとまず解決した。また,地方格差問題に関しては,昨年8月の段階で,青森市の地域活性化の成功事例として「コンパクト・シティ」(中心に集約した都市)を紹介したが,08年1月17日の福田首相の施政方針演説でも,このことが取り上げられ,今後の方向性が見えてきた。昨年の福田首相就任当初の施政方針演説では,これといった地方格差対策に関する言及がなくがっかりさせられたが,それと比べると今回の内容はだいぶ進歩したものとなった。

 しかし,残る二つ(少子高齢化と国の借金問題)はこれからである。日本の人口ピラミッドの時代的変遷を見ると,非常に極端な形で推移していることがわかる(図5)。2050年の姿を見ると,驚くほどの高齢社会となっている。何とか対策を打たなければならないところだが,歴代の少子化対策の担当相からは明確な策が打ち出されていない。

 もう一つが国の借金問題。現在の日本国家の累積の借金は,800兆円を超えているが,この件に関して私は,ドラスティックな解決策を提言したことがある。それは次のような方法である。政府は特別法を作り,日本銀行から利率0.1%で1000兆円を借り入れる。このお金で現在保有する有利子負債をすべて返す(繰上償還)。そうすると利子負担が解消する。正規の国債地方債以外の隠れた借金もいっしょに返してしまう。日銀に対しては,1000兆円を1年20兆円ずつ50年かけて返す。この額は現在の予算の国債費より少ないから可能である。これは政治家がやろうと決断すればできないことではない。

<問題提起>

 日本の人口減と財政赤字問題は,どう解決すればよいのか。

<企画会議・ディスカッション要旨>

■高齢者増大にあわせた社会制度・インフラ整備を

 ―――少子高齢化問題について。人口の時代別変遷に関しては,政策決定において予見可能性が高い要素だ。それを想定して対応策を考える必要がある。シルバー世代の労働者の増大が予想されるので,60歳定年制をやめ65歳,70歳まで働けるようにするというように社会制度を変えていくことが重要だろう。労働市場を中心とする変化のみならず,シルバー世代の増大に相応した社会全般のしくみの見直しも大切だ。

 ―――高齢者の雇用は重要な視点だ。雇用問題にとどまらず,社会のインフラを改善することが先行条件となる。例えば,駅などのエスカレータやエレベータを整備することによって,高齢者の移動が容易になり,高齢者の労働市場にもよい影響を与える。

■借金も金融資産の一部として利用する

 ―――日本国家の借金問題。新正統派経済学の考え方によると,国公債に関しては「国内債について全く心配なし」との見解である。つまり国内借金は毎年返済したとしても,右手から左手に移すようなものであるからだ。

 借金の元本を全くゼロにする必要はない。借金も金融資産の一部として利用する。償還期限が来たら,また借り替えて資金を調達して払っていく形でいけばいい。もうすぐGDPの二倍に達しようとしている日本の借金であるが,これを返さないと国家破産だと恐れる必要はない。

 ただ,巨大な借金は,今後原油や物価上昇,金利上昇などの要因があれば,やはり長期的持続的成長には不利だとの考え方もある。欧米では均衡財政を志向する考え方が強い。EUでは借金の残高がGDPの6割を超えたら失格とし,年度ごとの赤字がGDPの3%を超えたら失格だと考えている。

 しかし借金がここまでたまった場合には,これを是認して前提条件として考えると,元本も返すがすぐにすべて返すのではなく,借り換えで対応できると考える。

 ―――借金は確かに金融資産とみなせるが,その一方で金利負担は国家財政を非常に圧迫するようになっており,この部分は解消したいというのが,私の発想である。

■モノ不足によるインフレの可能性はない

 ―――日銀からの借り入れは,インフレに関連してタブー中のタブー事項であった。日銀からの借り入れと,タブーとされている日銀引受(注:財政法5条は公債の日銀引受を原則禁止している=市中消化の原則。ただし,歳入の財源となりえない政府短期証券については本条の適用はなく,定率公募残額日銀引受方式で発行されている。)とはどう違うのか。

 ―――実際に日銀借り入れを行っても,通貨は増えず預金が増えるだけだ。敗戦後は生産力が非常に落ちていたために,モノ不足状態のところに通貨供給量が増えてインフレを招いた。しかし,現在では生産余力がかなりあるので,モノ不足によるインフレの可能性はない。そのような点から,インフレの心配はないと思う。

■人口減少国日本は「移民国家」として生きよ

 ―――日本の弱体化が予想される中,私の解決策の一つは,今後日本は「移民国家」として生きていくという選択である。米国も移民国家として発展しているのだから,日本も今後2000万人の人口減があるとすれば,外国から優秀な人間を入れることを真剣に考えるべきだろう。

 最近,日本政府も留学生の日本での就職をかなり認めるようになってきた。とくに中国人留学生の場合,本国に帰らないことが多い。そこで中国政府は,対抗策として留学生で帰国した人に「上海の居住権」をやることにした。中国で上海の居住権を獲得することは非常に困難なことなのに,留学生にはそれを与えた。移民として受け入れるにしても,税金はきちっと払ってもらわなければならないが。

4.「同胞愛の経済学」の提唱

  ――Live-on EconomicsからLive-for Economicsへ
 これまでの経済学は,パン・賃金でいかにして生活するかという考え方(live-on bread/wage)を基盤とするものであった。しかしこれからは,人のために生きるという考え方を基礎とする経済学へと転換するときを迎えたと考える。

 ヨーロッパ中世の行動原理は,神のみ旨に従うことであった。汝の隣人を愛せよ,教会に献金せよ,私利私欲を抑えよと。そこへアダム・スミスが現れた。彼は私利私欲の追求を良しとした(彼自身は元来,道徳学者であった)。社会の全員がそれぞれの私利私欲を追求すると,あら不思議や,社会全体の富は大きく増大し,みな幸せになる。まるで神の「見えざる手」が働いたようだ。――こういう経済学を彼は創造した。

 以来,多くの経済学者が,この根本前提に基づいて多くの公理,要請,定理の体系を作り上げた。最初は仮説だったがやがて真理とされるに至る。近代経済学は精密な体系だが,人々(プレーヤー)が市場(マーケット)で私利を追求し,より安いものを購入し,より高く売る努力をするという前提に立っている。

 しかし,いまや,人々の経済行動の,したがって経済学の基本前提がひっくり返されるのだ。それは欲求の原理が明らかになり,同時に生産力がかつてなく向上したからである。

 人間の行動の基本である欲求について,心理学者のマズローは「5段階説」を唱えた。一番下に「生存」の欲求(食いたい)がある。それが満足されるまでは人はこの欲求のみに専心する。それが満足されると初めて二段目の欲求(「安定」,定職を得たい)へ行く。三段目は「仲間」を求める欲求,四段目は「尊敬」されることを求める欲求,最上の五段目は「自己実現」の欲求である。

 経済学は人間がみな「生存」の欲求(だけ)で動くと前提していたのだが,いまや生産力が十分発展したので,ほとんどすべての人はその欲求を満足させている。もはやそれでは動かないことに注意しよう。

 極端な例は,世界一の資産家ビル・ゲイツである。彼は590億ドルの資産を持ち,もはや自己の生存のためには行動しない。財団を作って人類愛の事業に莫大なお金を配ることに専念している。また,グーグルの創業者セルゲイ・グリン,ラリー・ペイジの二人は(それぞれ185億ドルの資産を持つ),自社の目的を「利益ではなく世界を良くする(improve)こと」と宣言している。

 日本人の大部分が定職を持っている現在(非正規労働者は「愛護」「同胞愛」の対象として考えるので,ここでは捨象する),第三段階以上の欲求で動く人で充満した社会の経済学が必要である。仮にこれを「同胞愛の経済学」と呼ぼう。これに対して,従来の経済学は「自己愛の経済学」である。新しい経済学は「為に生きる経済学」(Live-for Economics)と呼んでもよいだろう。

 この新しい経済学では,「生産」(能率的な技術と経営,資源の獲得と配置)以上に「分配」(所得再配分,税,年金,福祉)が主要な課題となる。下手をすると階級闘争,革命を引き起こす課題である。是非とも弱者の「愛護」の思想が加わらなければならない。

 最近のM&Aなどによる私利の追求に対し日本の裁判官が「乱用」と断じ,「徹底した利益至上主義には慄然とする」とまで言ったのは,「同胞愛の経済学」の成立を急がなければならない状況を示すものである。

 この新しい経済学では,プレーヤーたちの新しいプレイグランドは,マーケットではなく,「公共選択」の場,政府,議会,財団理事会であるだろう。そこで世論,陳情,諮問会議,予算の要求と査定,取引と妥協と議決などの新しい「経済活動」が行われる。

 いや,それは,「純粋経済学」から再び「政治経済学」(ポリティカル・エコノミー)の色を濃く帯びたものになるだろう。

 すでに盛んに,人類愛ボランティア,NPO,NGO,環境活動,皆保険,皆年金,その他の社会福祉などが巨大な活動として興っている。これらは軽佻浮薄,珍奇な新現象に過ぎないと見過ごしてよいか。アダム・スミスやリカードが経済学を建設したとき根拠としたのも,その当時においては,珍奇な新現象(「分業の発生」「ワインや毛織物の国際取引」)ではなかったか。

 勇気を持って新しい経済学を建設すべきである。その材料は十分すでにある。理論を組み立てる人を待つのみである。

<問題提起>

 このような趣旨のLive-for Economicsを発展させるには,どうすればよいか。

<企画会議・ディスカッション要旨>

■「選好」は全てがエゴというわけではない

 ―――Live-on EconomicsからLive-for Economicsへということについてだが,経済学で効用関数という場合,それはselfishまたはエゴイスティックな関数ではない。誰かがある人のために何かをしてやって幸福感を感ずるときに(utility),それは広い意味のself-interestにかなうことであって,極言すれば人のために命を捨てることもその範疇に入ることになる。選好(preference)は,すべてエゴイスティックなものだけではない。

 アルフレッド・マーシャルは,われわれの経済を動かす原動力は,道徳的・倫理的な観点から見て崇高(noble)といえるような類のものではないと言った。それがself-interestの追求であり,それは最も強力で,どんな状況の中でも,まちがいなく頼りになるものだ。 

 トレード・オフで二者選択を迫られたときには,多くの場合そのような判断となるだろう。それを動機として経済システムをつくるのだ。この点には賛成だ。

 旧ソ連経済が崩壊した背景には,このようなインセンチブが作用しなかった点がある。自由経済市場では,身近なものは基本的に自分で処理するというself-interestが基本となっている。

■広い意味での「自己の利益」を教育で身に付ける

 ―――選好というのは,生まれながらに持つものではなく,教育によって身につけるもの。自分の価値判断,行動の基準を立てるときに,エゴイスティックな動機だけではなく,広い世界との関係を考えて周囲への気配り,儒教の説く「修身斉家治国平天下」といった価値観をも教えていくことで,それが選好のなかに反映していくだろう。そうしたことが作用することで自由経済市場が成り立つ。

 マズローの唱える段階説において,上位段階に進んだときであっても,欠乏・不足(scarcity)という現象はなくならないと経済学者は考える。ガルブレイスは「豊かな社会」になると欲求が少なくなると言っているが,そのような段階に入ったとしても,経済は次々と新しい欲求を開拓し,人間はさらに次の欲求を求めるものだ。Scarcity of resources(資源の希少性)と unlimited wants(限りなき欲求)は,現実的に不変だと考える。

 福祉国家では,self-interestを前提としながらも,再分配が強調されている。国際政治においても,一国だけの繁栄ではなく共同体全体の繁栄を考えるようになった。このような広い視野からの価値判断に基づいて教育していくことが重要である。

 狭い意味で自分の利益だけを考えていては,最終的には自分も損を被るという情勢にある。例えば,企業も環境対策をやった方が社会評価が上がるということがある。しかし,広い意味でのself-interestをインセンチブとして使った政策を取ることは十分可能だろう。

 ―――選好,資源の希少性などは,経済学が発展する過程で洗練され思考の道具となった概念だ。そのような考え方の価値は認めるが,さらに同胞愛の経済学を伸ばすための新しい概念,思考の道具もこれからは磨き上げていく必要があると考えた。

■二つの経済学は矛盾しない

 ―――Live-on EconomicsとLive-for Economicsの両者を矛盾なく結ぶ論理が最近出てきている。アダム・スミスの『道徳感情論』(Moral Sentiments)の中に次のような事例が取り上げられている。

 ある家の前で行き倒れてしまった人がいた。その場合,知らん顔をしているとその人は「悪い人」だと悪評判が立って,その村では住みにくくなってしまう。一方,行き倒れの人を丁寧に介抱してあげればその人は「立派な人だ」とよく評価されて住みやすくなる。それらを比較考量して,一般には有利な選択肢として親切な生き方を選ぶとアダム・スミスは考えた。しかし,この理論の問題点は,住民相互が顔見知りの関係にあるという共同体の存在が前提条件にあることだ。

 共同体意識の強い社会が崩壊して,今日のような匿名性の強い都市社会が形成されていくと,彼の理論のとおりにはいかなくなる。だが現代社会でも,環境に優しくない企業や道徳性に欠ける会社は,最終的には成長しないとか,株価が低下するなど,現実的な不利益を受けることになる。

 ある香港の投資会社が日本企業の格付けを行っているが,そのチェック項目の一つに環境に優しいかどうか,雇用者に対する態度,やり方を問うものがあった。現在でも,投資ファンドを行うある団体の評価項目に,同様のポイントがあって,例えば,環境にやさしい企業の場合はいい利回りで動いているという。

 このようなことを考慮すると,一見するとLive-forのように見えるが,同時にLive-onでもある。最終的に成り立たせるのは,他に対する愛である。例えば,自分が老人になったときに若者にしてもらうために,若者が老人のためにすることは,単純に他人への奉仕,自己犠牲ではない。それは個々人がかなり崇高な意識を持っていないと成り立たないものであり,いまさえよければいいという考え,今日の利益さえ上がればいいのであって,将来の利益は考えないというタイプの人間には通用しない。こう考えると,国民の教育水準が徹底的に重要だと思われる。アダム・スミスのいうゲーム理論にしても,最終的にそれらを解くカギは,「愛」ということになる。

5.「幾何物理学」の出現――科学の統一への新展望

 物理学の分野において最近,「幾何物理学」というものが現れてきた。これを知ったときに,私は科学の統一というテーマに向けて,新しい展望を開いてくれるのではないかと予感した。

 物質の最小単位を素粒子と称しているが,この素粒子にどのようなものがあるかに関して,いまから30年ほど前までは200種類近くが提案されていた。元素数よりも素粒子の種類の方が多いというこのような状況をみたある物理学者は,「まるで動物園だ」と揶揄した。そこで世界の物理学者が議論を重ねてそれらを整理し,「スタンダード・モデル」としてまとめた(図6)。これによって素粒子が17あまりに整理された。

 ただし,図はスタンダード・モデルそのものを表してはいない。それはスタンダード・モデルでは重力を除外して扱っているのに,この表にはいまだ発見されてない「重力子」が点線で表示されている。

 昨年新しい理論として「E8」が現れた。これは248次元の幾何学を利用してすべての物質と力を理解しようとする考え方である。この理論を提案したのは,ギャレット・リーシ博士(Dr.Garrett Lisi)である。同博士は,大学や研究所には属せずに,夏はサーフィング,冬はスノーボードをやって過ごしているという天才的人物だ。

 ところで,1次元による理解の例としては,いろいろな電磁波を波長の長さによって区別し理解する方法がある。つぎに,2次元による理解の例としては,物質とエネルギーの統一的理解としてのアインシュタインの特殊相対性理論(E=mc2)が挙げられる。さらに多次元による理解の例としては,前述したスタンダード・モデルがある(1974年)。しかし,自然界に存在する基本的な力は4つあるとされる(強い力,弱い力,電磁気力,重力)が,まだこれでは重力子は除いて理解している。

 さて,E8という構造は,いまから120年ほど前に発見された幾何学構造であるが,長年解明されなかったのだが,昨年解明されたのである。ギャレット・リーシ博士は,この理論を利用すれば,宇宙の素粒子,力をすべて統一的に理解できると直観した。もちろんこのことが実証されたわけではないが,証明可能性は十分ある。彼は248次元の中に各素粒子を位置付けたのだが,20ほどギャップがあった。そのギャップには,かなり重い素粒子が位置するらしい。

 今夏,スイス・ジュネーブにあるセルン研究所(CERN,欧州合同素粒子原子核研究機構)でLarge Hadron Collider計画が稼働するので,そこで実験をやることになれば,それによって彼の理論が証明される可能性がある。

 もし,彼の理論が正しければ,すべての物質,力が統一的に理解することができるようになるだろう。そうすれば物理学の統一ができ,宇宙の起源が理解できるようになるだろう。

 物理学と化学の統一はすでにできており,物理学と生物学の統一も進行しつつある。例えば,筋力と電磁力の統一,DNAの構造解明,脳細胞(ニューロン)とシナプスの電気化学などが挙げられる。さらにシステム論と情報科学の導入によって科学の統一はさらに進展するだろう。

 そして生命学につながれば,神経科学,心理学,異常心理学へつながり,さらには人文科学(むしろ人文学),神学・宗教学,社会科学へとその領域は拡大していくことだろう。

<問題提起>
科学の統一に関しては,これまで「科学の統一に関する国際会議」(ICUS)を中心とする手法・方向性があったが,前述の物理学理論の出現によって,ICUSとは違った「道」で実現されていくことになるのだろうか。

6.「無神論」の台頭

 無神論の台頭によって宗教を信仰する人の数が減るかと心配するむきもあるようだが,そういうわけではない。むしろイスラーム,キリスト教はそれぞれものすごい勢いで信者数が増加している。しかし,その一方で,無神論が強力に勢力を増している。その典型が,最近『神は妄想である』を著したリチャード・ドーキンズである。

 従来の無神論者は,社会の片隅に隠れてひそひそと活動をしていた。ところが,リチャード・ドーキンズは非常に戦闘的で,多くの著作を著しながら,さらにはその関連団体を作って無神論の拡大に力を尽くしている。

 もう一つの無神論は,アンドリュー・ニューバーグ,ユージン・ダギリ,ヴィンス・ローズ共著による『脳はいかにして“神”を見るか』という本である。これは宗教の修行者・修道者などが実際に神に接する体験をしているところに,脳波を測定する機器を彼らの頭に取り付けて,脳のどの部位が活動しているかを調べて報告したものである。それによると,修行者や修道者が神を見ているときには,方向定位連合野(自分がいま,いつどこにいるかということを理解する機能部位)が,極端に機能低下していたという。

 その一方に,神の存在を認め,神の下に生活していこうという「神主義」(ゴッドイズム)があるが,前者との対立状況を呈している。その戦場は@進化論vsインテリジェント・デザイン論,A脳科学・異常心理学vs「神の臨在」体験,B宇宙論・物理学vs天地創造論などである。

 従来であれば,世の中に悪や悲惨さが存在することを取り上げて,「一体,善にして愛であり,唯一・全能の神がいるならば,なぜそのような不条理があり得るのか?」と問いかけ,それを神の存在を否定する証拠として掲げ,無神論を唱えた。それに対しては,ライプニッツなどが「弁神論」を唱え,人間に自由が与えられたが,それを人間が悪用したために世の中に悪が存在するようになったと弁護した。しかし,この弁論はやや論拠が弱い。なるほど殺人が起きるのは人間の責任であるが,大噴火・大地震など自然災害による人間の死は人間の自由の悪用による結果とは考えられない。

 このようにかつてと現代とでは,無神論vs有神論の戦場が大きく変化している。

<問題提起>

 無神論の台頭によって,「神の下の一つの家族」(One Family Under God)という世界平和への道の基礎である「神主義」は揺らいでこないだろうか。

<企画会議・ディスカッション要旨>

■有神論的科学と無神論的科学の対立

 ―――科学と宗教が対立しており,それらをうまく融合させればいいと考えるむきもあるようだが,それで済む問題ではない。科学と宗教を統一することは,それによっていままでの科学や宗教の概念も変わってくるということに意味があると考える。「転回点」というのであれば,有神論的科学と無神論的科学の対立の仕方が明らかになってくる時代を迎えたと表現したい。

 ここでいう「神」は,従来述べてきたような宗派・教派と関係する「神」ではない。そうではなく,宇宙の根本原理としての神である。そうなると「宗教」ということばも,「科学」ということばも変わってこざるを得ない。

 パラダイムの転換とは,今までの概念などを修正するというレベルではなく,根本的な対立の構図があからさまになったのである(無神論的科学と有神論的科学という不倶戴天の関係)。それをごまかしておくと,うまくいかない。

 生物教科書においては,「生命とは物質的現象である」との大前提をもとに記述されている。そのほとんどの著者は,その大前提に対して疑いを持っていない。そのように記述された教科書を学ぶ学生には,その教科書は大変有害なものになっている。その延長線上にある学界においても,同様の大前提としない理論では学者として身を立てていけない。

 もし私が生物教科書を書くことになれば,分からないことは分からないとし,「われわれの世代の専門家がいくら考えても分からない部分である。ここには考え方自体に根本的な間違いがあるのかもしれない。この解決は未来の世代である諸君に委ねる」などと書くだろう。多くの学者はプライドがあるので,そうは書けないが,本当の学者ならばそう書くに違いない。

■「生命とは何か」という哲学的テーゼ

 ―――生物学Biologyはlogyという学問なので,根本をたどればアルキメデスにたどりつき,実体をもとに論じることになるので,やはり根本は物質になる。もちろん私は,「分からない部分は分からない」と書いてきたが,分からない部分をあいまいに記述するのは学者ではないと思う。あるいはきちっと引用をつけて書くべきだろう。新しいことを曖昧に書くのは,教科書ではない。

 ―――教科書は文科省が検定するしくみになっている。その関係者に「教科書を書くときは確実にいえることだけしか書いてはいけない」と言われたことがある。私は,自分がそれまでの実験を通して確信することを,他の教科書にはないことではあるが記述した。「問題点に関しては,何々かもしれない」と表現した。しかし,このような方式では,高校までの教科書としては,検定があるので通用しない。研究者の論文と教科書の記述にはやはり違いがある。

 ―――教科書に記述する場合には,やはり証明された事実だけを載せるべきだと思う。

 ―――「生命とは何か」というテーゼは,生物学者が考える課題の以前に哲学者が考えるテーゼだと思う。ものを書く場合は,その態度を表明しなければならない。生物学であれば,まず生命をどうとらえるかを表明する必要がある。「自分は生命という現象の物質的要因について研究する」と表明すれば,それで済むことだ。それを「生命現象はすべて物質的現象として還元できる」といわんばかりの記述をするので混乱を招く。これでは学生など学ぶ人が迷ってしまう。

 かつて,現職の時代に,ある理学部の学生と話をしたことがあった。「先生と話をしてようやく生命とは何かがおぼろげながら分かってきました。これで安心して理学部生物学科に進学できます。」と言った。根本的問題を抜きにしてやっているのではないか。それが唯物論的生命観に流れてしまうのだろう。

 現在,日本のみならず世界的にも理系離れが叫ばれている。これは,「生命科学を研究したいのだが,何か根本がはっきりしない。だからいま主流の唯物論的な方法でやらなければならないのか。しかし自分はそうしたくない。・・・主流に乗らなければ出世もおぼつかないだろう。」と考えて,研究者への道を引いてしまうのではないか。

■知らないと率直に認める姿勢

 ―――私の研究と学生指導に対する根本姿勢は,論語のことば,「知之為知之,不知之為不知,是知也(之ヲ知ルヲ之ヲ知ルト為シ,知ラザルヲ知ラズト為ス,是知ルナリ)」(「論語」為政篇)に集約される。自分の分からない範囲については,そのままで学生たちに提供するという姿勢である。

 ―――人間としての謙虚さといえる。知っていることを知っているとして,知っていないことは知らないと率直に認める姿勢だ。知的追求により人間が傲慢になる,その傲慢性が「神」を分からなくしているのだろう。それを指摘したのが「論語」のことばだろうと思う。それは人間の謙虚さ,けじめを表していると思うので,重要な指摘だ。
(2008年2月24日,本稿はPWPA企画会議における発題およびその後のディスカッション内容を整理して掲載した)

<参考文献>
副島隆彦『ドル覇権の崩壊』徳間書店
欧陽善『対北朝鮮・中国機密ファイル』文藝春秋社,2007年
伊藤正「米の協調路線背景に金総書記メッセージ」,「産経新聞」,2007年8月10日
加藤栄一「安倍政権の改革続行の方向」,「世界日報」Viewpoint,2007年8月6日
加藤栄一「同胞愛の経済学を提唱する」,「世界日報」Viewpoint,2007年10月15日
Richard Dawkins, The God Delusion
Andrew Newberg et al., Why God Won’t Go Away: Brain Science and the Biology of Brief
Sam Harris, The End of Faith: Religion, Terror, and the Future of Reason
Christopher Hitchens, God Is Not Great: How Religion Poisons Everything