ユーラシア草原の遊牧文明とその歴史的役割

創価大学教授 林 俊雄

現在,ユーラシア草原の騎馬遊牧民は,モンゴル高原からアルタイ,天山山脈,カラコルム,ヒンドゥークシュ両山脈周辺に限って分布しているが,かつては広く東はモンゴル高原から西はハンガリーのドナウ平原まで,東西8000キロメートルにわたるユーラシアの乾燥地帯に分布していた。なかにはアフリカの遊牧民のように馬を乗用しない民もいれば,北極圏近くやシベリアの一部にはトナカイを使う遊牧民もいる。

 これまで世界史のなかで騎馬遊牧民の役割を評価することは少なかったが,ユーラシア大陸の周辺のさまざまな文明を媒介する草原地帯にあって,隠れた重要な役割を果たしてきたことが近年の研究成果によって明らかになっている。そこで,ここでは古い時代を中心にユーラシア草原地帯の騎馬遊牧民の形成と役割について検討してみたい。

1.騎馬遊牧民の誕生

(1)牧畜の起源
 人類は,牧畜という生産技術を開発する以前に,狩猟と採集という食料獲得手段をもっていた。狩猟の中から牧畜が発生したであろうという推定に対してはあまり異論はないが,それがどのようにして始まったのかという問題に関しては,さまざまな議論がある。

 かつて今西錦司(1902-92,生態学者・人類学者)は,移動するヒツジやヤギの群れを追っていた人間が徐々にその距離を狭めていくなかで動物の群れを直接的な管理下に置くようになったとする「家畜主導・人間追随型」という牧畜発生説を唱えた。しかし,20世紀後半からの西アジアにおける考古学調査の成果からみる限り,最初に動物を家畜化したのは集落に住む定住民であり,彼らはすでにムギの栽培を始めていた可能性もあることがわかってきた。その論拠に立てば,最初の牧畜は遊牧ではなく,定住的であったとなる(注1)。つまり大型定住集落と農耕の確立が家畜化の前提であったというのが,現在の有力な見方である。

 ヒツジ,ヤギ,牛の家畜化のプロセスについてはある程度明らかになってきたものの,馬の家畜化については論争があり収束がつかない状況だ。1980〜90年代にかけて,ウクライナのドニエプル川の中下流西岸にあるデレイフカ遺跡の発見をきっかけに,馬の家畜化の年代を紀元前4000年ごろまで一気にさかのぼる大胆な仮説が現れた。しかし,それに対する反論・証拠が挙げられて,現在ではこの説は有力視されていない。

(2)遊牧の発生
 次に,遊牧の発生と発達について,藤井純夫の研究(『ムギとヒツジの考古学』同成社,2001)などをもとにまとめてみよう。
西アジアの肥沃な三日月地帯の西側で南よりの内陸草原地帯では,紀元前7000〜6500年ごろにヒツジが主要な家畜になりつつあったが,それはまだ遊牧民ではなく,採集狩猟民が補足的に家畜を飼っているという程度であった。その後,閉鎖型の囲いが開放的な囲いに変化していくが,これは集落外へ日帰りで牧畜に出かけるようになったことを示すものである。

 前5500年ごろから始まった気候の温暖化が草原の乾燥化現象を引き起こしたことにより,農耕を捨てて遊牧を選ぶ道を開いたとの説もある。一方で,人間社会の方も遊牧を促す素地が整いつつあった。すなわち家畜化が完成し,群れとして統御する再生産体制が整えば集落にとどまる必要はない。一部の集落が都市に発展すると,その周辺ではムギの栽培が拡大し,ヒツジは外に押し出されることになった。肥沃な三日月地帯から外れた乾燥地はそれまで無人の荒野であったが,そこに遊牧民が進出することによって,西アジア各地を結ぶ交易ルートも選択肢が増えることになった。ただこの段階の遊牧民は,まだテントは持たずキャンプ周辺で調達できる建築材料で簡易な住居を作っていたものと思われる。

 草原地帯の西部,黒海北岸からカスピ海北岸にかけての地域には,前5000年代に農耕牧畜が伝わったらしい。バルカン方面から伝わったとの説が有力だが,中央アジア南部からとの説もある。草原地帯においては集落が都市に発展することがなく,ヒツジが外に押し出されることがなかったために,遊牧に出る必要性に乏しく,結果的に遊牧化が遅れたようだ。

 草原地帯の遊牧化を促したのは,気候の乾燥化と車・騎馬の導入である。車は前3500年ごろメソポタミアで発明されたようだが,車が普及すると移動・運搬が容易になり,遊牧化を促す一要因となったであろう。

 前3000年紀半ばごろから気候は徐々に乾燥化し,黒海北岸では広葉樹林が消滅して草原が広がり,カザフスタンでは半砂漠と草原が形成された。その結果,草原地帯は農耕よりも牧畜に適した風土になったが,地域によって差があった。それより遅れて前2000年ごろ,ウラルの東側や西側にも農耕牧畜文化が広まり始め,さらにはウラルから東方の南シベリアや中央アジアにも広まった(アンドロノヴォ文化)。同じころに,草原地帯の東端にあたる中国北部にもアンドロノヴォ文化と似た文化が現れた(夏家店下層文化)。

 どちらかというと,馬車よりも騎馬の出現が早かったようだ。前3000年紀末から前2000年紀初めにかけて,メソポタミア地域を中心に騎馬を表現した図や粘土板が発見されている。

 前10世紀に入ると,状況は一変し,西アジアや地中海世界では騎馬を表現した土偶,浮き彫り,絵画などの資料が急増する。草原地帯はやや遅れるが,前9〜前8世紀ごろになってそうした資料が急増する。スキタイ系文化の始まりである。その中でもとくに早いのは,モンゴルの北西部に位置する現在ロシアのトゥバやアルタイ地域である。近年この地域での活発な発掘調査によって,スキタイ系騎馬遊牧民の起源地について,従来はユーラシア草原の西方(黒海北岸,北カフカス地方)と考えられていたが,ユーラシア草原の中でも東方ではなかったかと考えられるようになった。ユーラシア草原の東方から西方への騎馬遊牧民集団の移動があったと考えられるようになってきた。

 前9世紀半ばごろは,世界的な気候変動期にあたり,乾燥期から湿潤期への移行期間に相当する。半砂漠だったところが草原に変わり始めた。また,西アジアは鉄器時代に入っていたが,草原地帯には鉄器は浸透していない。しかし,青銅器の生産においてはかなり高度に発達し,すぐれた武器や馬具の生産が可能となっていた。さらに西周時代の中国との交流も始まっていたようで,軍事力を有する騎馬遊牧民が形成されていったと考えられる。モンゴル草原で発見された大型ヘレクスル(注2)の遺跡は,まさにこのような騎馬遊牧民の発展を象徴する造営物とみなすことができよう。

2.スキタイ文化

(1)スキタイの起源
 ユーラシア草原における騎馬遊牧民といえば,スキタイが有名であるが,その起源に関しては,ヘロドトスの文献資料をはじめ考古学資料に基づきさまざまな説が出ている。1980年代までは,黒海北岸に青銅器時代以来住み着いていた人々が文化的に発展を遂げてそのままスキタイになったとする土着説が有力であった。それは,スキタイの考古学的遺跡のある地域の多くが旧ソ連領内にあったために,唯物史観に基づくソ連の考古学者の意見に左右されたこともその背景にあった。

 ところが,1970年代以降,外来説を裏付けるような遺跡が発見されたことで,現在ではロシアでも外来説,すなわちスキタイの「内陸アジア起源説」が多数派になっている。それを証拠づける代表的な遺跡が,南シベリアのトゥバ共和国にあるアルジャン古墳である(図1)。

 シベリアの真ん中を南から北に流れる大河エニセイの源流域にトゥバ共和国がある。トゥバは海からもっとも遠く離れた内陸部に位置し,首都のクズルには「アジアの中心」という碑が建っている。その言語はテュルク語に属するが,文化的にはモンゴルに近く,宗教もチベット仏教である。100年ほど前までは清帝国に属していたが,1911年の辛亥革命によって清が滅ぶと,ロシアが触手を伸ばしロシア革命以後ソ連圏に組み込まれた(21年から一時名目上独立国であったが,44年に完全にソ連に併合された)。モンゴルの伝統的歌唱法として有名な「ホーミー」も,モンゴルよりはトゥバの方が元祖ではないかとも言われる。

 この地域は,従来の歴史学からは遅れた地域と見られていた。最近ここをドイツの考古学研究所とロシアの研究所が合同で発掘調査したところ,盗掘されていない豪華な墓が発見された。そこからは金製品が重量で20キログラム以上発見された(アルジャン2号墳)。

 この遺跡の出土品の分析の結果,いくつかのことがわかったが,その中でも鉄製品の登場は大きな意味をもつ発見であった。すなわち,鉄製品は草原地帯の西部において前7世紀後半から知られているが,東部では前5世紀にならないと出現しないというのが定説であったのに,草原地帯東部における鉄の出現が一気に前7世紀末までさかのぼることになり,西部との差がほとんどなくなったのである。

 これ以前の1971年,首都クズルから北西へ100キロほど離れた草原で発掘されたのが,アルジャン古墳(1号墳)であった。かつては,盗賊によって,古墳などの遺物が盗掘されることが多かった。盗賊は,金銀の遺物を溶かして地金・地銀にして売りさばき金に換えていたので,金目にならない青銅製品は残されることが多い。このアルジャン古墳も,かなり早い時期に盗掘の憂き目に遭い,金銀製品は全く発見されなかったが,多種多様な青銅製品が発掘された。また,この墓からは,殉死者と思われる15体の遺骸と,馬具をつけた馬の遺骸が13箇所で160頭あまりも発見されたので,相当な権力者(一種の王権をもつ存在)の墓であったと推定されている。出土した主な青銅製品は,馬具,武器,装飾品などであった。とくに装飾品を見ると,スキタイ動物文様のでも最も古いタイプに属するものであることが分かった。

 問題は,これらの青銅製品のうち,馬具と武器の多くが,黒海北岸・北カフカスにスキタイが出現する直前の時代(先スキタイ時代)の青銅品ときわめて似ている点であった。それではアルジャン古墳の年代はいつなのか。それについては,炭素14年代測定法によって,ほぼ前9世紀から前8世紀前半のものであることがわかった。

 以上から,馬具と武器に関しては,ユーラシア草原地帯の東部と西部でほぼ同時に登場しているが,スキタイのスキタイたるゆえんである動物文様は,東部の方が(100〜200年ほど)早いと言わざるを得なくなった。

 初期スキタイ美術こそ,そよからの借り物でない,スキタイ独自のものである。北カフカス,黒海北岸にスキタイ動物文様が出現するより以前に,南シベリアの一角に早くも初期の動物文様が現れていることから,スキタイの東方起源説が一気に有利になったのである。武器や道具は誰でも利用しようとするために,普及・伝播が早く,特定の地域,一つの文化だけに限定されることが少ない反面,直接役に立たないデザインや文様には,各文化の個性や好みが色濃く反映されているからである。

(2)モンゴル高原の遺跡
 モンゴル高原には,紀元前10世紀ごろのものと思われるもっと大きな墓も発見されている。残念ながら既に盗掘されており金銀製品は出ないようで,しかも十分発掘されていないので詳細は分からない。この古墳の場合は,周囲にたくさんのいけにえを捧げた小さな塚が伴っていた。

 大規模な古墳を発掘するほどの余裕はないため,われわれはもっと小規模な古墳を発掘調査した。われわれが調査した1号ヘレクスルは,中心にある積石塚の直径が12〜13メートル,高さが約1.5メートルで,その周囲を一辺25〜30メートルの方形の石囲いがめぐっており,その四隅には円形の石堆(小塚)が設けられている。石囲いの外側には,その東半分を取り囲むように石堆が21基配置されている(図2,3)。そして21基の石堆すべてで馬の頭骨と頚椎が発見され,蹄(ひづめ)と尾椎骨が伴うこともあった。しかもすべて鼻面を東に向け,第1・第2頚椎の間で頭と首を切断して,南側に頚椎が並べられ,蹄と尾椎骨が残っている場合は蹄も東を向いていた。

 これは21頭の馬が葬られたことを意味する。21頭でも大変なことだが,もっと大きな古墳の場合には周囲に1400〜1500の小塚があり,それぞれに1個の馬の頭骨が出ており,それらもすべて東の方向を向いていた。もちろん同時にすべての小塚が作られたかどうかという点もあるが,それらすべてが同じ儀礼に基づいて作られていることを考えるとそのタイムスパンは大きなものではないであろう。そうなると相当の権力者の墓であることは間違いない。多くの馬を飼うことのできる権力者が紀元前10世紀ごろには存在していたことを立証するものである。中国の時代でいえば,西周時代の初期に当たる。ただし,これら紀元前10世紀ごろの馬には馬具がけられていない。

 また,モンゴル高原の遊牧民集団の文物が中国側の資料や発掘品の中にも類似品が見つかっているほか,逆に中国のものが北方高原やアルタイ地方からも出土しているので,相互の間に青銅器の交流があったことは確かである。さらにさかのぼって殷代の後半ごろ(前12世紀ごろ)から交流はあったと思われる。

(3)ユーラシア草原地帯に共通する遊牧文化
 ユーラシア草原地帯では,紀元前8世紀ごろから南北と東西の交流が活発化し始めた。もっと活発化するのが紀元前5〜4世紀である。言語がイラン系かそうでないという違いはあったとしても,遊牧民としての共通文化を有しており,活発な交流が展開したのである。遊牧民の場合は移動手段としての馬をもっているので,大規模な移動も可能だ。もちろん統一された王権という意味のまとまりではないが,広範な地域を舞台にした一つの文化圏を形成しつつあったといえる。

 ユーラシアの草原地帯は,基本的に騎馬遊牧民が主体だ。このような環境においては,遊牧民の生活が便利で合理的である。南方の定住農耕民の目から見ると,奇異で野蛮な風習に見えるが,「農耕をしない」「城壁を持った都市を持たない」などの遊牧民的生活がこの地域の風土には適していた(注3)。

 ただ,全体的に見れば,中央ユーラシアの基本構図は,草原地帯の騎馬遊牧民(モンゴル高原,天山北方,カスピ海・黒海北方)と,オアシス地帯の定住農耕民(中国北部・西北部,天山周辺,タリム盆地,西トルキスタン,カフカス南方)の両者であり,それはその後も継続された。時には対立することもあるが,共存共栄の関係にあった期間も短くはない。

 ユーラシア大陸の中央部を中心として民族移動・侵入の波をながめてみると,波の方向に特徴的傾向が見られる。南北方向では北から南へ向かう波,東西方向では東から西へ向かう波,この二つの波が圧倒的に多い。北から南への波は,草原あるいは森林地帯から遊牧民,狩猟民,半農半牧民が都市文明をもつ定住農耕地帯へ侵入することによって起こる。

 一方,東西間の移動はもっぱら遊牧民同士の衝突を引き起こし,主として草原地帯で行われる。スキタイに続いてサルマタイが東方から現れ,スキタイを滅ぼした。紀元後4世紀にはフン族がやはり東方から現れ,サルマタイの後裔にあたるとも言われるアランを服従させた。それに続いて6〜7世紀にはアヴァルが中央アジア北部から草原地帯を西進してヨーロッパに現れた。

 6世紀中頃にアルタイ・モンゴル高原に勃興した突厥は,アヴァルを追うように一気にアラル海・カスピ海北岸まで勢力を広げた。さらにブルガル,ハザル,マジャール,ペチェネグ,ポロヴェツなど,主として言語的にはテュルク系(マジャールはウラル系)諸族が次から次へと東方から現れた。そして13世紀にはモンゴルが登場し,西アジア,東ヨーロッパまで席巻した。その後も,チムールが西方遠征を行い,セルジューク・トルコ,オスマン・トルコがアナトリアからバルカンまで支配下においた。

 このような東から西への波には,遊牧民集団が別の集団を追い出す場合(例:マッサゲタイがスキタイを追い出し,スキタイがキンメリオイを追い出した事例)と,別の集団を呑み込んでしまう場合(例:フン族の移動)とがある。

 このような民族移動の波の方向は,古来例外がなかったが,近代になってからは逆の方向が見られるようになった。清朝末期からの漢人の北方への移動,16世紀末からのロシアの東方進出などである。

(4)文化の特徴
 騎馬遊牧民は都市をつくらないために,定住住居をもたない。それによって住居地や集落の遺跡がなく,考古学上の資料として残るのは,墓に関連するものがほとんどである。そこで墓から出土する資料を基に彼らの文化を復元再構成することになる。

 スキタイ文化が花開いた前8〜7世紀から前4世紀にかけての時期は,ユーラシア大陸の西部で独特な金属工芸美術をもつ文化が各地に生まれた(図4,5)。まず,中央ヨーロッパを中心とするハルシュタット文化(ケルト人の残した文化と考えられている),次に,イタリア半島中北部のエトルリア文化,バルカン半島のトラキア文化とダキア文化,アナトリアにはリュディア王国とフリュギア王国があった。そしてカフカス北方の草原地帯に,スキタイ文化圏が広がっていたのである。これらの文化は,それぞれ独自色が強く,その美術作品も一見してどの文化に属するか分かるほど個性豊かであるが,同時に相互に影響を与えた跡も見受けられる。また,美術様式以外では,首長が大型古墳を築くという共通点もあった。

 ただし,スキタイ文化には,他の文化とは大きく異なるところがある。それは分布範囲が極めて広いという点である。そして西部よりも東部の方がやや古い。東部には,スキタイ文化に先行してカラスク文化(注4)があった。カラスク文化の遺物として残っている美術工芸品は青銅製品だけで貴金属工芸品は今のところ知られていないが,スキタイ文化の起源の一つにカラスク文化があったことは間違いない。さらにそのカラスク文化の起源となると,説はさまざまに分かれるが,最近では中国北方との関係が注目されている。

 このようにスキタイ時代の特徴としていえることは,後期になると西部で独自色が濃くなることであり,全体としてみれば,スキタイ時代は草原の古墳時代であったと結論付けられる。

 前5〜4世紀になると,ユーラシア大陸の東西の主要な文明地帯の製品がそのままの形,あるいはそれを学んだ形で取り入れられてくる。これらは,ユーラシア大陸の東西間の交流が活発に行われていたことを示す証拠である。ただし紀元前5〜4世紀の段階で中国にはペルシアやギリシアのものは入っていないし,一方ギリシアやペルシアでは中国の存在を知らなかったようだ。にもかかわらず,アルタイ地方にいた人々は中国の文物のみならず,ギリシアやペルシアの文物も知っていた。それは彼らが騎馬遊牧民として移動手段を持っていたこと,異文化に対してそれほど抵抗がなく,気に入ったものやいいものであれば積極的に取り入れる進取性の気質などがあったためだろう。

 日本ではユーラシア大陸の東西交渉は,シルクロードというイメージでとらえられることが多い。前漢時代に張騫が西域に行って初めて西域の事情が分かり,武帝が遠征隊を派遣したのは,紀元前2世紀後半の話だ。それよりも200〜300年前から草原地帯では東西の文化・文物が活発に交流していたのである。

 その後,絶頂期にあった黒海北岸のスキタイに終局をもたらしたのも,東からの新たな胎動であった。前4世紀初めにカザフスタンから西に移動してウラル山脈南部に拠点を置いた部族集団が徐々に強大になり,スキタイを圧迫し始めた。その部族は,それ以前から南ウラルにいたサウロマタイという集団と合流してサルマタイと呼ばれる集団を形成した。その後,サルマタイはいくつかの部族集団に分かれ,紀元後4世紀後半にフン族が来襲するまで,カスピ海北方から黒海北岸にかけての草原地帯を支配した。

3.フン族

 ヨーロッパの歴史では,民族大移動を引き起こして古代ローマ帝国に引導をわたし,結果的に中世への幕を開くことになったフン族の侵入は,画期的なできごとであった。そのフン族とはいかなる人々で,どこからやってきたのかに関して,永年歴史家の関心を集めてきた。18世紀中ごろにフランスの歴史家が「匈奴・フン同族説」を発表して以来,それについて賛否両論の議論がたたかわされてきた。

 現時点でこの問題に関しては,「匈奴・フン同族説」に対して否定的というよりも,証明ができない,証拠不十分であると表現した方が正確だろう。証拠不十分ということであれば,その説はダメということにはならない。それでは証拠はどのくらいあるのか。文献学的な解明については省略し,ここでは考古学的資料をもとに述べてみたい。

 ユーラシア草原地帯の考古学・美術史の分野では,一般に前8/7〜前4世紀を「スキタイ時代」,前3〜後3世紀を「サルマタイ時代」(あるいは「匈奴・サルマタイ時代」),後6世紀後半以降モンゴル帝国成立までを「テュルク時代」と呼ぶ。その空白の期間については,定まった名称はないが,私は「フン時代」あるいは「先テュルク時代」と呼ぶのが適当であろうと考えている。

 そしてこの「先テュルク時代」の草原地帯西部に特徴的な遺物としては,@貴金属工芸品,A鞍飾り,B (ふく)が挙げられる。@の特徴は,金か銀の素材にやや大きめな赤い石(赤メノウやザクロ石,紅玉髄など)を象嵌し,その間を三角形にまとめた金粒細工で埋めていく装飾法である。これはフン族が現れたころに,草原地帯全域に広まる。ただ,装飾品や装飾モチーフは必ずしも人が移動しなくても,モノだけが移動する場合もあるので,モノの発見だけでは,人の移動を証明することにはなりにくい。

 それに対して明らかに遊牧民しか使わないもの,しかもそれをつぶしても価値がないが,遊牧民には価値があるというものが発見されれば,それは人の移動を示す有力な物的証拠と認められるだろう。その一つに,私は「(ふく)」(遊牧民が使用した儀式用の青銅の釜)を挙げたい(注5)。これはつぶしても銅にしかならないので,交易品にはなりにくいし,しかも他の人にとってはどうでもいいようなものだ。この が東から西へと,フン族の時代に伝わっているとすれば,これは有力な証拠となりうる(図6,7)。

 現在,スキタイ時代から先テュルク時代までの草原地帯全域で450点ほどの が確認されているが,これまでヴォルガより東方ではキノコ形突起のついた は発見されないと考えられてきた。ところが今から10数年前,中国新疆ウイグル自治区ウルムチ市南方で,普通ならばハンガリーや黒海北岸,せいぜいウラル山脈あたりで出るタイプの が発掘された。さらにウルムチから北東のアルタイでは,もっと古風の が出土した。これをどう考えるべきか。

 ある人はたまたま故郷に戻った人が持ち帰ったのではないかと考えた。しかしウルムチ付近で出土した は西の方のものと完全に同じではなく,むしろ時代的には古めいた要素がある。そうなるとそのような をウルムチ付近で作るような人々が西方に移動して伝えた可能性が高い。考古学上の型式上の発展変化の面から見ると,ウルムチよりももっと古いタイプがアルタイやモンゴル高原などから出土している(紀元前後)。

 これらのことによって,紀元前後から紀元後2〜3世紀ごろの段階で を祭器として儀礼用に使用した人々が,モンゴル高原からアルタイ付近までいたと推定される。そのころまでは大きな動きは見られないのだが,紀元後4世紀ごろ,カザフスタン,天山山脈の北側の草原地帯に本拠をおく遊牧民集団が,かなりの短期間のうちに文化的・政治的高まりのような動きがあって拡大し,フン族のもとになった可能性はある。

 そして釜を作るような人たち,貴金属に赤い石を象嵌するような美術様式を持ち,木製馬具をつくったり,うろこ状文様の鞘をつくったりするなど,武器と馬具に関係する一連の文化的要素を持った人たちが,4世紀ごろからカザフスタン,黒海北岸,ウラル,東欧あたりまで一気に広まっていったと考えられる。以上のことを考慮すると,アルタイから天山,ウラル,ヴォルガ,北カフカス,黒海北岸,ドナウ方面という移動のルートが見えてきそうだ。

 ところで匈奴は紀元後48年に南北に分裂し,南匈奴は漢に服属することになるが,北匈奴は天山北方に西移する。だがその北匈奴も,2世紀前半で消息が途絶えてしまう。フン族が出現するのは4世紀後半なので,その間が空白になっている。それゆえ匈奴がフン族になったとはなかなか断定しにくいのである(注6)。しかもこの空白期間の西域に関する中国側の文献資料が非常に少ない。漢代までは漢の勢力が強いために西域の状況もわかっていたのだが,その後の三国時代から南北朝になると,中国も国内問題で手一杯のために遠方の情報が少なくなったためであろう。

4.ユーラシアの東西交流と騎馬遊牧民

 ユーラシア草原における騎馬遊牧民の登場と発展を概観すると,紀元前9世紀ごろに登場し,それが歴史上にはっきり現れるのは紀元前5〜4世紀ということになる。そして紀元前2世紀を過ぎるといわゆる「シルクロード」に繋がっていく。

 紀元前9世紀ごろといえば,中国では西周が領土を拡張しつつあった時代であり,西アジアでは最初の「世界帝国」といわれるアッシリアが,登場した時期であった。そして前5〜4世紀になると中国では諸子百家が活動した戦国時代,西アジアではアッシリアよりもさらに強大なアケメネス朝,エーゲ海にはギリシア古典文化がそれぞれ花開いた。それに呼応する形でユーラシアの北方地帯においても生産力や文化力の高まりがあって,それが南方の各文明と結びつきながら発展していったと考えられる。北方の騎馬遊牧民だけでは発展が難しかっただろう。騎馬遊牧民は,ユーラシア大陸の東西に個別に存在していた各文明の媒介体となったばかりでなく,それらを自己の文化と融合させつつ,それらを有機的に関連させていったに違いない。騎馬遊牧民は,東西の文化交流に大きな役割を果たしたといえる。

 ここで重要なことは,単に文物を伝えただけではなく,自分なりに他の文化を咀嚼した上で別の地域に伝えていることである。たんなる持ち運び屋ではなかった。彼ら自身の文化を持った上で,他の文化を咀嚼して伝えていった(注7)。
この交流は遊牧民自身がおこなった場合もあるし,南方の定住農耕地帯の民たちと共存共栄しつつおこなった場合もある。後者の例が,テュルク時代のソグド人やモンゴル帝国時代のムスリムである。モンゴル時代のムスリムは,暦や武器,羅針盤などを東西に伝える役割を果たした。

 ソグド人はせいぜい都市国家単位のまとまりで,統一されることはなかった。遊牧帝国が成立し広大な領域が統一されて交通網が整備されると,その支配が南方の定住農耕地帯にまで及び,ソグド人たちはその領域支配の恵沢を受けて移動が活発になる。遊牧国家というものは,遊牧民だけではなく,定住民もいてはじめて国家がうまく機能するようになる。

 草原地帯には,沙漠や高山のような地理的障害が少ない。また遊牧民は馬やラクダなどの移動手段を豊富に持っており,要所要所に宿駅を設けて,換え馬の制度を整えれば,移動はさらに容易になった。それゆえ遊牧帝国ができると情報や文物を伝達することがしやすくなる。彼らとともに,遊牧国家の支配者からお墨付きを得た一部の定住民も,支配体制が整っているときには,治安の良さと整備された交通網を享受することができた。

 ギリシア文明,中国文明などというような普通の概念としての文明とは若干異なるが,ユーラシア草原地帯には,多様性と柔軟性,それに伴う国際性を特徴とする「移動する文明」としての「遊牧文明」があった。遊牧国家は政権に求心力がなくなると分裂・瓦解しやすいという欠点ははらみつつも,以上の特徴によって東西の「文明」の交流に大きな役割を果たしたのである。
(2007年11月29日)

注1 旧石器時代の最終末,前12000年ごろ,いわゆる肥沃な三日月地帯の地中海に近い地域,今日のレバノン,イスラエル,パレスチナでは定住的集落が営まれ,人々は野生ムギの採集や,集団による追い込み猟を行うようになっていた。肥沃な三日月地帯は野生のムギ,ヤギ,ヒツジがともにあり,また雨水だけが頼りの天水農耕がかろうじて可能な地域でもあった。そして前9000年ごろ,集落は大型化し,コムギ・オオムギの栽培が始まる。新石器時代の始まりであるが,まだ土器はない。

 やがて一部の集落はますます大型化,固定化の傾向を強め,農耕の役割が増加し,人口の集中が見られるようになる。前7600年ごろ,やはり肥沃な三日月地帯とその周辺でヤギとヒツジの家畜化が始まった。ヤギやヒツジを群れごと捕獲して集落の中に設けた囲いに収容し,一度に全部は殺さずに一部は生かしておくようになったのである。その囲いの中で子供が生まれれば,その子供はもはや野生ではなく,「家畜」に近い。囲いの中で世代交代が起これば,完全な家畜の誕生である。農耕が行われていれば,穂だけ刈り取られた後に残った茎が家畜の餌にもなる。つまり,大型定住集落と農耕の確立が,家畜化の前提であったというのが,現在最も有力な考え方である(藤井純夫『ムギとヒツジの考古学』同成社,2001年)。

注2 モンゴル高原から北方のブリャーチヤ,トゥバ,アルタイ,さらには西方の天山山中などに分布する。積石塚と方形あるいは円形などの石囲いからなり,鹿石を伴うこともある。モンゴル人は一般に「ヒルギスフール」(キルギス=クルグズ人の墓)と呼ぶが,19世紀にそれを聞いたロシア人研究者が「ヘレクスル」と表記したために,それ以来,考古学上はその名称で呼ぶようになった。ヘレクスルは,方形の石囲いが一辺200メートル,中央の積石塚の高さが5メートルに達する大きなものから,石囲いの一辺あるいは直径が10メートル前後の小さなものまである。

注3 漢と匈奴を比べた場合に,人口面でいえば漢の方が圧倒的に多い。にもかかわらず漢は匈奴に悩まされていた。そこには軍事力の差があった。匈奴では男子全員が戦士になる。現代風に言えば,国民皆兵であった。普段は狩猟を行っているが,それは一種の軍事訓練ともいえる。巻き狩りのように集団での狩猟となれば,まさに軍事訓練さながらである。一方,漢など中国では,下級兵士は農民上がりが多く,歩兵が中心であった。それと比べれば,差は歴然とする。遊牧民は定住していないので,敵が来ればすぐ逃げていける。それらを見抜いたヘロドトスや司馬遷は,遊牧こそ草原地帯に適した生活様式だと記した。

注4 前13世紀あるいは前12〜8世紀ごろ,南シベリアを中心に栄えた後期青銅器文化。

注5  とは遊牧民が使用した儀式用の釜。スキタイ時代とサルマタイ時代の は胴部が
膨らんでいるものが多いが,「フン型」 と言われているものは胴部に膨らみのない寸胴形であることが大きな特徴である。また取っ手が四角形で,胴部全体が縦の隆起線で四つに区画されていることも共通している。さらに装飾的な要素として,取っ手の上に三つか四つ,取っ手の両側に一つずつのきのこ形の突起がつき,胴上部の水平の隆起線から先端が丸くなった「玉のれん」のような文様が並んでいるものも多い。とりわけきのこ形の突起は大きくて目立ち,見る者に強い印象を与えるため,この装飾のついた がフンの象徴的な器物とみなされ,フンについて触れた多くの書物の図版を飾っている。

注6 フン族に関して残された固有名詞をみると,トルコ語,モンゴル語に近いものがある。ただしそうでないものもあり,言語資料は匈奴=フン同族説にとって有力な証拠を提供してはくれない。

注7 ここで意思疎通の手段としての言語問題に触れておきたい。匈奴以降の多くの遊牧国家では,テュルク語が広く使われていた可能性が高い。テュルク語は比較的覚えやすい言語で,現在,東はシベリアのヤクート(サハ)から西はトルコ共和国まで,ユーラシアの各地で使われている。言語面でのテュルク化という現象が起こったのではないだろうか。テュルク語は,歴史的にみて変化の少ない言語で,現存する最も古い8世紀のテュルク語資料でも,現在のトルコ語を知っていればかなり理解できる。またテュルク語は,地域差の少ない言語で,中国新疆ウイグル人は,トルコ共和国のトルコ語を半分以上理解できるという。
(参考:林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』「興亡の世界史」第2巻,講談社,2007年,尚,本文中の図表は同書より引用)