欧米の世俗主義とイスラームの復権

米国・スタンフォード大学フーバー研究所特別研究員 ディネシュ・デスーザ

 

 シンガポールのリ・クァンユー元首相が書いた「西欧化なしの近代化」を最近読んだ。同氏は言う,「1950年代に訪れたアメリカに私は憧れた」。しかし「1970年代のアメリカには愛想が尽きた。」一時代の米国には惚れ込んだが,最近の米国にはうんざりだという。どこが違うのか。「50年代のアメリカは自由の権化だった。チャンスに溢れ,世界のどこにもない生き様を体現していた。」

欧米の世俗主義

 端的に言えば,西側では世俗化が進行し,その間に,その他の世界では非常に宗教的傾向が強くなった。西側でも,ヨーロッパの方が世俗化の具合は米国より早く,かつ深い。欧州諸国で教会の礼拝参加率が一割程度というのは珍しくない。欧州人の九割は,定期または正式の宗教行事に全く参加していない。米国での礼拝参加率はずっと高く,四割近い。もっとも後述するように,数字の裏には意外なほどに深い米国の世俗化の実態がある。
 
 一連の複雑な経緯で欧州は宗教戦争による分断を経験し,その反省から,公共の統治分野,とりわけ中央政府の活動範囲から宗教を排除すべし,という考え方が生まれた。米国で「政教分離」と呼ばれるこの原則のため,宗教者が公共の活動に姿を見せることは少ない。外から米国を眺めていれば,実際以上に非宗教的な社会に見えるはずだ。
 
 中でも米国の大衆文化や輸出用の「アメリカ」は,米国でも一番世俗的な部分だ。言い換えれば大衆文化は米国の総体ではなく,自由奔放な側面を反映したもの,ハリウッドの作り出すアメリカだ。例えばカンザスシティや,イリノイ州ペオリヤとは全く異なったものだ。海外では,必ずしも本物とは言えないアメリカのイメージを見ているわけだ。
 
 ともあれ西側では,宗教上の教義争いの飛び火を免れる方途として,世俗主義は大きな歴史的成果と評価されてきた。例を挙げてみよう。あなたが「神には三つの人格が存在する」と主張し,私は「神は一つの人格だ」と論じたとしよう。この論争を一体どう収拾できるだろうか。到底決着を付けられない問題だ。しかし歴史上,この類の葛藤が争いの種になってきたのだ。そこで西側世界は紛争を避けるため,この種のいわゆる「神学論争」を政治的な議論の場から除外してきたのだ。
 
 宗教はまた道徳の普遍的な基礎でもある。道徳を非宗教的な文脈で語れないわけではない。カントからジョン・ロルスまで,道徳を非宗教的な語り口で説いた哲学の重鎮もいた。しかし哲学に立脚した道徳律で生きている人などいるのだろうか。カント主義の道徳家に出くわしたことがあるだろうか。大概の人は宗教を通じて道徳を鼓吹されていて,宗教こそ道徳の一番大切な「保育器」になっている。その意義を非宗教的に表現すれば,人間の行為について究極的な責任を問うものだと言えようか。
 
 人生は多くの不公平に満ちている。善人が泣きを見たり,悪人が成功を収めることはざらにある。「正義はどこにあるのか」。人知れず思案していれば,ふと,隠し通せるなら悪事に身を染めようか,悪人になってやろうか,と思うかも知れない。そこで宗教は究極的な責任を問いかける。ヒンズー教なら,悪に染まった人生は来世で当然の報いを受けると信じられている。これこそが「究極の責任」だ。人が見ていなくても,われわれの行いを照覧し,その因果応報を摂理する神的存在が実在するという信念だ。

ムスリムに復興する敬虔の徳

 現代はイスラーム世界で敬虔の徳が本格的に復権している。第二次世界大戦の前後からエジプトではアラブ民族主義運動が高まり,ガマール・アブデル=ナセル大統領は自国が大英帝国のくびきから解かれていく過程で,民族主義の指導者となった。ここ30年間に中東だけでなく世界の至る所でイスラームが復興し,マレーシアでもインドネシア,インドやトルコでも見られる現象だ。米国でも同様だ。バークレイやエールの大学キャンパスでは,ムスリムの女学生がスカーフを被って闊歩している。彼女たちは銀行家やベンチャー投資家のお嬢さんかも知れない。20年前にはあり得ない光景だ。
 
 イスラーム世界には今日的課題に宗教の価値観を反映させたいという願望がある。その一方,イスラーム世界で自問されている大きな問題は,「イスラームが近代に陥った途方もない混迷からムスリムを解放するのに,イスラームは何ができるのか」というテーマだ。
 
 歴史を繙けば,イスラーム文明が世界の最先端を中国と競った時代があった。ムスリムもよく知っていることだ。そして今日ではイスラームの地盤沈下が顕著で,仮に石油収入を除外したらイスラームの世界は実に惨めなものだということもムスリムは自覚している。どうやってイスラームを復興させるのか。

 その点でイスラーム過激派は一つの前衛だ。彼らの見方はこうだ。イスラームを復興させるには,イスラーム社会に紛れ込んだ悪辣な連中,つまり世俗的な独裁者を擁立させ,宗教を凋落させ,ムスリムの家庭環境を悪化させ,屈託のないムスリムの子供たちを堕落させた勢力を排除することにつきる。
 
 こうした過激な勢力が急増している理由は,その指摘が掛け値なしに重要だからだ。つまり人間は,裕福な社会や力強い国に生きたいと同時に,一定の道徳律に則った善の人生,立派な人生を送りたいと渇望しているからだ。

米国に向けられた懸念

 米国以外の社会だったら,あなたの運命は自分の何たるか,つまり帰依する宗教,属する部族や社会階層,長男か否か,等といった要素で大方決まってしまうものだ。しかし米国社会で,こうした区分は極めて緩やかで,そこに米国の魅力もある。世界中の若者が「アメリカ」に憧れる理由の一つだ。
 
 しかし冒頭に掲げたリー元首相の指摘するように,世界の神経を逆なでする別のアメリカがある。「望むことは何でも可能だ」という観念が,放縦や不道徳のライセンスと誤解され,要は「やりたい放題」であり,「責任無き自由」だ。このようなアメリカは,世界の多くが遵守している伝統的な価値観を危殆に曝しかねない。
 
 問題は宗教そのものではなく,宗教が社会形成の過程でセメント(結合材)の役割をどのように果たすかだ。文化も宗教の生み出したものだ。西洋文明は,伝統的な価値を根こそぎひっくり返してしまう力をまき散らす恐れがある。
 
対照的な自由の概念
 
 ところで興味深いことだが,アメリカ,広く西側世界には二通りの自由の概念がある。宇宙には道徳的な秩序がある,と米国建国の父祖達は信じた。その秩序は人間が従うことを要求していて,この外なる道徳律の命令に則って生きるか否か,そこに人生の真価が現れる。ここに自由を重視する伝統的な観念もある。自由があってこそ人は機会を見つけ作り出して,自ら望む人生を作り上げていけるからだ。
 
 今ひとつの自由の概念は,アメリカで新しく醸成されたものだ。1910年頃に米国に移住した者が,ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジ地区に行けば,そこには「ボヘミヤ」と通称された,自由奔放がまかり通る一帯があった。住んでいるのは知識人や芸術家,詩人,絵描きなどに限られ,彼らは当時の社会の主流的生き方に反逆していた。「伝統的な生き方を拒否し,もっと実験的な生き方をしようではないか」と主張していた。
 
 1960年代が遺した無形な遺産のひとつは,そうした反文化的な価値を祭り上げ,それを文化の主流に押し上げたことだ。ハリウッドは1930年当時も非常に自由奔放の雰囲気があったが,今日のハリウッドは一層,アメリカ社会の実態に近づいている。言い換えれば,反文化的価値の多くが社会の主流に定着してしまったのだ。
 
 こうして醸成された道徳観によれば,外なる道徳律に依拠するべきではない,それらは全て過去に属する代物で,私に適用できないものだ,自分は内なる声に従って生きればよいというのだ。ビジネススクールに行くか芸術家の道を歩むかを決定しなければならない時,外なる要請と折り合いを付ける手間は必要ないのであって,内なる自己だけを見つめて決断すればいい。
 
 こうした考え方は道徳を全て拒否しているわけではない。道徳の規準を外在的なものから内在的なものに置き換えたのだ。しかしその結果,共有できる道徳律がなくなり,道徳は主観的なもの,個人的なものとなってしまった。
 
 大半のムスリムは伝統的なイスラームの信仰者であって,その点,伝統的なユダヤ教徒やキリスト教徒と大差はない。実際,ユダヤ教,キリスト教,イスラームには従兄弟同士のような間柄がある。後から現れた宗教は前のものを包摂していると主張し,そこには他の信仰に一定の敬意が含蓄されている。
 
 ところが近年のイスラーム過激派は伝統的なムスリムに向かって,こう主張するのだ。「われわれが対峙している西側は,キリスト教の社会などではない。コーランの啓示によってムスリムが敬意を払うよう教えられてきた,あの光栄あるユダヤ・キリスト教とは似ても似つかない無宗教の世界になった。キリスト教を通過して別の極に走り,世俗的で無神論の支配する社会になってしまった。そればかりか今や,宗教とか道徳の敵になり,その害毒はイスラーム世界にも浸透し,われわれの価値観を脅かしている。」
 
 この種の警告が一般のムスリムをジハード(聖戦)に駆り立てる上で,実は,他の如何なる外交政策よりも説得力があるのだ。

高潔な米国のために

 米国民は身近なところから,より高潔なアメリカを目指して努力する必要がある。それは外交政策のためと言うより,国民自身が如何なるアメリカを望むのか,早晩大きな葛藤があると思われるからだ。
 
 九歳の娘を持つ親は,醜悪で不謹慎な事柄から彼女の目を覆いたくなる場面が頻繁にあるはずだ。しかも今や,そうした物事がすっかり浸透し,完全に遮断することなど不可能だ。そのようなものが海外に出回っていけば,どのような反応を引き起こすか想像に難くないはずだ。

国連人権宣言」は実に注目に値する偉業だと思う。非常に異なった宗教的伝統を持てば,それ相応に異なる世界観があるはずなのに,一定の道徳・価値規準で意見の一致を見て,あの宣言を発表できたからだ。「人権」の概念は,道徳概念を政治の領域に言い換えたものと理解することができる。われわれに与えられた課題は,その道徳的基礎の一部でも回復して,世界の平和を促進することに他ならない。
(UPF発行,UPF TODAY,Sep/Oct 2007号より整理して掲載)