平和構築に向けたNGOの役割

茨城大学教授 杉下  恒夫

 

 現代社会は,情報通信および運輸・交通手段の発達によって,人々の移動・交流が活発化し,国家間の枠を超えた動きが多方面で展開している。また,医療技術の発達等によって人類はこれまで経験しなかった高齢社会も生み出している。
 
 こうした状況は地球空間の広がりを意味し,従来の行政組織だけではカバー出来ない未知のスペースが膨張していることでもある。国家や国際機関を地球空間の肥大化に合わせて拡大することは,時代の流れに逆行する動きでもあり現実性に乏しい。では,誰がこうした空間を埋めるのか。その代表的存在としてのNGOがある。今後,NGOは国際舞台においても国家,国際機関の機能を分担する主役として欠かせない存在だ。
 
 一方,日本は天然資源が乏しく,ほとんどの天然資源を海外に依存しているうえ,貿易立国として日本を取り巻く良好な国際環境を構築することが国の外交政策の重要な柱になっている。その政策の一つとして政府開発援助(ODA)が行われてきたが,最近のように多様化するニーズに応えるためには,政府による援助だけでは十分な成果を挙げにくくなっており,この分野でもNGOに係る期待は大きくなっている。
 
 これからも日本の重要な国際貢献策であるODAを,効率よく実施してゆくにはNGOとの連携を強めてゆくことが鍵でもあるのだ。政府のパートナーとなるべき日本のNGOだが,私がNGOの取材を始めた1980年代初頭と,現在を比較してみると,その質には隔世の感がある。当時はNGOが本当に政府のパートナーになれるのか,と心配するほどのレベルであったが,現在は,欧米のNGOと比べても見劣りしないしっかりした理念のもとに活動を展開するNGOが増えてきた。だが,資金不足など日本のNGOを取り巻く環境は厳しい。
 そこで,現代社会におけるNGOの役割と課題を振り返りながら,21世紀を生きるわれわれの姿勢について考えてみたい。

1. NGOの世紀

(1)NGOの発展
 NGOが国際舞台に登場したのは,最近のことではなく,少なくとも戦後間もないころにその嚆矢があった。1945年に国際連合憲章の採択の行われた「国際機構に関する連合国会議」(サンフランシスコ会議)においては,米国政府代表団に42のNGOが加わり,新たな国際機構にNGOがオブザーバーとして協議に参加することなどが発案・採択された。また北欧諸国では,早くから政府と対等の立場で国際会議に参加し,政策決定や実施に関与してきた。74年の「世界食糧会議」(ローマ)や84年の「世界人口会議」(ブカレスト)にも,NGOは協議者として参加している。
 
 ただ当時,NGOに求められていた役割は,主として政府に対する専門知識のアドバイザー,政策実施における補助者などで,直接政策決定過程にかかわることはほとんどなかった。ところが,その後90年代に入り,「国連環境開発会議」(UNCED= 環境サミット)などを契機として,地球環境問題などのグローバルな課題への取り組みには,市民の理解と協力が不可欠と考えた国連などが,政策決定過程にNGOの参加を求めるようになった。最近ではサミットなど政府間交渉にも関与するとともに,ときには国際会議の決定に強力な影響を加えるほどの力をも示すほど大きな存在になっている。
 
 このようなNGOの発展過程について,アメリカの開発経済学者,デビッド・コーテンは次の4類型に分類した(注1)。
@第一世代:緊急救援段階
A第二世代:地域開発段階
B第三世代:持続可能なシステムの構築
C第四世代:民衆運動の段階
 
 コーテンによれば,現在の世界の主要NGOは第三世代の段階にあり,アドバイザーとして政策決定に参加できる立場だという。NGOはさまざまな国際会議などに諮問的立場で参加しているが,正式な政策決定者として加わっているわけではないことから,第三世代と評価しているわけだ。しかし,コーテンがこの評価をしたのは,90年代半ばまでのNGO活動に対してであり,現在は3.5世代くらいの位置づけにしてもよいだろう。

(2)NGO発展の背景
 このようにNGOが現代社会において,急速にその存在を高めてきた背景には,前述のように現代社会が技術の急速な発達に伴うグローバル化によって,地球のスペースが大きくなったことがある。近代以降の国際社会は,そのメイン・アクターであった政府や国際機関など,すなわちgovernmental organization(GO)によってほとんどの問題をカバーできた時代であった。ところが,そのような拡大した空間を,従来の政府や国際機関が人員を増やしてカバーすることは,非常に難しい。そのときに巨大な空間を埋め,きめ細かな対応が可能なのは,NGOしかないという共通認識が形成されていった。
 
 最近は環境問題をはじめとする地球規模の問題群(global issues)など,政府間交渉だけでは解決しにくい問題が増えてきた。このような地球規模の問題群を根本的,持続的に解決するためには,人間の開発が優先されるべき課題であると認識されるようになっている。例えば,世界には「富める国」と「貧しい国」が存在するが,現代においてはそうした分類とともに一つの国の中にも「富める人」と「貧しい人」が混在するというように複雑化している。こうして国家よりも人間が基盤となる21世紀の社会では,NGOが人と人のつなぎ役となり相互依存の関係を醸成していく推進力を果たすことになった。
 
 そのような重大な役割を要請されているNGOが育たなかった場合には,社会の福祉や治安などの面において,疎外され取り残された人々が生じ,放置されることになる。そのような不安を取り除くために,現代社会はNGOの育成を急務としているのだ。
 例えば,日本の福祉行政にしてもすべてのことを行政がカバーすることは,もはや不可能だ。現実にも多くのNGOが活動することによって,福祉の目的・機能が維持されている。これは世界においても全く同様である。
 
 NGOの役割として,従来は「政府や国際機関の補完的役割」ということが強調されたが,現在では,governmental organizationの役割よりももっと大きな周辺部をカバーする役割になっている。その意味で,NGOの名称にしても,non-governmental organizationのようにGOを原点とした否定形から発想するのではなく,NGOそれ自体を積極的に評価位置づける発想が必要だ。最近では,NGOに代わるものとしてCSO(Civil Society Organization)という言葉が広まりつつあることを参考までに付記しておく。

2.平和構築に対するNGOの役割

(1)「ピース・エージェント」(Peace Agent)
 近年,さまざまな分野でその役割を果たしているNGOだが,ここでは最近,現地で見てきた日本のODAと連携しながら,インドネシアで平和構築・平和の定着に貢献しているNGOの事例を紹介したい。
 
 インドネシア・マルク諸島の州都アンボンは,インドネシアがオランダ植民地時代の重要拠点のひとつであった。そのような経緯からここは長年クリスチャンが多く住む町だった。スハルト大統領時代(1966〜98年),インドネシアはジャワ島に人口が集中しているために,1970年代以降社会政策の一環として人口拡散政策を実施,マルク州のアンボン島にも他地域から多くのムスリムが入ってきた。現在では,ムスリムが島の人口の65%に達し,35%のクリスチャン人口を逆転している。
 
 半ば強制的に移住させられた人々は,着の身着のままに来た人も多く,島の山間部など生活条件の悪いところに住むことになった。その結果,主として海辺に住む富裕なクリスチャンと,山間部に住む貧しいムスリムという二極構造が現れた。80年代に入ってインドネシア政府が「政治のイスラーム化」を図ったことで対立が激化,武力紛争が勃発した(1999年1月)。そこにアル・カーイダ系のジェマア・イスラミア(JI)など外部のイスラーム過激派勢力が介入,狭い地域でありながら,死者5000人以上,約35万人の国内避難民が発生する悲惨な紛争となった。2002年2月にマリノ和解協定が成立して停戦合意に至ったが,その後も小規模ながら若干の衝突が起きている(2004年4月)。
 
 日本のODA大綱の中には,重要目標として人間の安全保障,平和の定着が示されている。この地域においても,紛争後の平和の定着に日本が関与することになった。世界の各地で紛争が続発している現在,国際機関,主要援助国もインドネシアの小さな紛争処理までは手が回らず,日本政府が唯一,本格的に支援している。現地での復興支援事業を実施しているのは国際協力機構(JICA)で,地場産業振興,教育環境整備などいくつかの小さな事業を「紛争地域のコミュニティ再建プロジェクト」と総称している。こうした事業の中で平和の定着の役割を果たしているのはpeace agentという事業だ(注2)。これは地域住民に平和とは何かなどのテーマについての研修を行い,その研修を受けて理解した人を,村長などを通じてpeace agent(PA)として認定する。無報酬のボランティア活動だが,一つの村に5〜6人を認定,現在11村で105人のPAが活動している。PAのまとめ役として地元のNGOが活動の指導的役割を果たしている。
 
 現在でも過去を引きずってムスリムとクリスチャンの間ではときどき摩擦や,もめごとが起きる。そうしたときに,認定されたPAが早期に解決を試みる。予防外交でいう早期警戒システム(early warning system)の機能だ。
 
 稼動してから1年にも満たないプロジェクトだが,すでにいくつかの成果を挙げている。マルクには古くから独立志向があり,1949年のインドネシア併合時,「南マルク共和国」としてキリスト教徒が独立を宣言したこともある。いまでもそのような独立派が存在し,集会などでしばしば「南マルク共和国」旗を振ることがある。それは,住民の対立の原因ともなってきた。07年夏にもそのような動きがあり,その情報をいち早くキャッチしたPAが,さっそく村長,NGO代表に通報,当事者を交えた話し合いの結果,旗振りを止めさせて混乱を未然に防いだという。
 
 平和の実現は,このようなミクロな部分から始めなければならない。平和とはまず心の中から実現されるべきものである。紛争の種,不安定要因は,まさにこのような小さな村の生活の中に芽生え,それが膨らんでいく。それを早期に察知し事前に防ぐ。これこそが予防外交の本質である。国際政治・外交の世界では,いまだ早めに紛争の種を察知(watch)する完全なシステムはない。しかし,マルク州,アンボン市とJICAが整備したpeace agent制度は,まさに紛争の種を予め察知するシステムといえる。
 
 近年の米国外交の苦渋に見られる如く,紛争は軍事力のみによって解決できるものではないし,武力によって平和がもたらされることは決してない。平和は人の心の中の問題であるから,根気よく紛争の芽を摘む地道な努力を続けて平和を定着させていかなければならない。今回,インドネシアのマルクでJICAのpeace agent制度を視察しながら,平和定着の原点に触れた思いを抱いた。

(2)平和定着の難しさ
 20年以上にわたって北東部の分離独立を目指す「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」と,政府軍の戦闘が続くスリランカだが,北部ジャフナ市付近は最も戦闘が一番激しかった地域で,多くの施設が破壊されてしまった。2002年の停戦合意後,ODAとしては異例の早い時期に日本の援助が投入され,「平和の配当」としてJICAがジャフナ市周辺の学校,病院の応急修理を行った。私が視察した病院は野戦病院のような粗末なものだったが,多くの患者が病院にきて長蛇の列を作って治療を受け,日本政府に謝意を表していた。しかし,その後,政府とLTTEの関係が再び悪化,停戦合意は事実上,破棄され,病院はまた閉鎖されている。
 
 このプロジェクトにはODA資金が投入されたので,納税者の立場からすれば,せっかくつくった病院があっという間に閉鎖されてしまったことは,むだなことと映るかもしれない。しかし,平和の定着とはこのような事業なのである。せっかくの資金がむだになるのは残念ではあるが,日本が平和の定着を外交の柱として本気でやるのなら,このような事態がまた起きることを覚悟しなければならない。紛争後の平和の定着は,建設と破壊を繰り返す中で,少しずつ小さな実を結ぶ作業なのである。
 
 ノルウェーは仲介能力の高い国で,平和の構築に関してはこれまでも多くの実績とノウハウを蓄積している国だ。スリランカの平和の構築にも早くから関与していたが,そのノルウェーですら「仲介交渉は10個のプロジェクトのうち,9個は失敗する。1個でも成功すればそれはノーベル平和賞に値する」(ヘルゲセン外務副大臣)という。平和構築支援は,失敗が当たり前という世界である。われわれがいくら誠意を尽くしても,政治のベクトルによってはせっかく積み上げた誠意と努力が一気に洪水に流されてしまうこともよくあるのだ。そのようなことを恐れて何もしないのでは,平和は夢のまた夢に終わってしまう。ここに平和構築,平和定着の難しさがある。
 
 このようなプロジェクトの失敗という「負」の部分をマスコミが大きく報道したとき,そのこと自体は事実なので言い訳はできない。しかし,何もせずに放置しておくことが正義にかなうことなのか,国際社会への貢献という点で,それでいいのかという思いが湧いてくる。平和構築は9個のプロジェクトを行ってすべて失敗し,たとえ国民の批判の声が高まっても,次の10回目を行う勇気が必要な政策である。
 
 日本が非軍事力による平和の定着を外交政策に掲げる限りは,このような決意が重要だ。平和構築,平和定着というときには,平和維持部隊や自衛隊派遣といった目につくことを発想しがちであるが,むしろ和平仲介のような地道なことにもっと目を向けることが大切である。
 
 それを最大に担うのがNGOでもあるのだ。欧米のNGOと違って,日本のNGOが得意とするのは「開発・定住型NGO」といわれる分野である。「緊急支援型NGO」は世界のマスコミなどを通じて脚光を浴びる。しかし,日本のNGOが得意とするのは,現地に住み込んで一つ一つ日常的なことを教えていく開発・定住型のプロジェクトだ。例えば,現地の住民に野菜の作り方を教えたり,保健・衛生知識を与えて感染症を防ぐなどである。
 
 定住してその土地にいると地元になじむので,どこで,どんな紛争の種が起きているのか,察知しやすい。その意味で日本のNGOには,早期警戒の役割を担う能力がある。平和定着におけるNGOの最大の役割は,現地におけるearly warning watcherとしてのそれであろう。これは日本のNGOに限ることなく,定住型のNGOなら一般的にも言えることである。
 
 問題は,そのような事前に察知した声を吸い上げるシステムが構築されていないという点である。NGOのメンバーが察知した事前の動きを大使館などに伝えても,それを外交サイドで真剣に対処してくれるかは疑問であり,今はそのようなチャンネルが十分に構築されていないように思われる。政府機関には,そのような早期発見の仕組みをつくっていくことが求められている。

3.貧困の原因とNGO

 紛争の根本原因を突き詰めていくと,富裕層からの差別意識や貧困層からの嫉妬心,怨嗟といった心の問題に帰着する。世界の紛争地域に平和構築をしようとすれば,そのような思いを生みだす要因としての貧困問題の解決が先決事項であると思う。
 
 貧困解決の理論的枠組みとして,古い理論と言われるかもしれないが,私はトリクル・ダウン理論(trickle-down theory,注3)が有効ではないかと信じている。これはいまから40年も前に,開発援助分野で主唱された理論で,途上国の開発においてまず富裕層をつくればそこから富は否が応でも浸透して(trickle-down)いき,やがては裾野にもその恩恵(受益層)が広がっていくという考えである。中国の 小平の「先富論」にも繋がる。
 
 実際,アジア・アフリカ地域ではこの理論のとおり行かなかった実例が多いために,この理論は失敗したと評価する人も少なくない。しかし,私の観点から言えば,その原因として富裕層の富が下に滲みて行かない国家の形態に構造的な問題があった点を指摘したい。喩えてみれば,コーヒーのサイフォンの途中が詰まっていて最初からコーヒーが下に落ちていかないのと同じようなものだ。お金がスムーズに落ちていく仕組みを整えておけば,必ず貧困層にもその益が回っていくと思っている。
 
 ところで,現在日本でも格差社会が生まれているが,経済格差が生じるのには,だいたい3つの時期があるだろう。第一は経済成長期,第二が不況脱出期,第三が戦争や災害後の復興期である。国全体が同じレベルで経済成長(復興・回復)してゆくことは決してない。戦後の日本でも,東京と地方との格差は今以上のものがあった。その後の経過を見ると,まずは東京など大都市が十分に成長し,それに伴って地方にもそれが波及していった。現在の日本の格差社会出現は,前述の第二期,すなわち90年代のバブル崩壊後の長期不況を終えた,その不況脱出・立ち直り期に伴うものと考えられる。
 
 ただ,日本の戦後復興においては,富が上から下へと流れるシステムがそれなりに機能していたように思う。ところが,現在の日本は,上の富める層のお金が果たして下に流れていっているのかと疑わしい。それは社会構造の問題で,富が循環する社会が停止してしまったために,富める人はますます富み,苦労している人はいつまでも貧しさから脱出できない。例えば,以前であれば,苦学してでも勉強すれば東京大学に行くことができた。ところが,いまは小さい頃から塾に行かなければ東京大学などには行けない。経済力の差が社会的上昇にも影響を与える世の中になってしまっているのだ。
 
 開発途上国の場合は,日本以上に構造的問題が山積している。貧困が紛争の主たる要因であることは間違いないのだから,途上国の貧困撲滅のためにわれわれは何をなすべきか,真剣に考えなければならない。まず,その国に生まれた富裕層の富が下層にまで及んで潤う民主的な社会づくりだろう。具体的にいえば,税制・医療・社会保障の仕組みから始まって,教育制度などが整っていないと富は下まで潤っていかない。とくに教育制度など人間開発の分野が未整備で,読み書きや勉強する機会が与えられないと,社会的に上昇することができない。無料で教育の機会を与え,社会保障や医療制度の恩恵をそのような人々にも与えることによって,富が社会全体にまで下りて潤っていくと信ずる。完全な平等社会の実現は無理にしても,多くの人が中流意識を持てる市場経済下の民主国家のレベルまではいけると信じている。
 
 つまり,いまわれわれがチャレンジすべきことは,貧富の格差を生む構造的要因を除去することなのである。教育制度,社会・福祉保障制度,医療制度などを整備しながら,努力すれば裕福になることのできるしくみをつくることが何より緊要の課題なのである。
 
 このような教育,環境,社会・福祉などの分野は,NGOが一番得意とする分野なので,彼らが構造改革の主役になるだろう。もちろん政府や国際機関とも協力しながら進めるのだが,最前線に立つ実施者として期待できる存在はNGOだと考えている。

4.課題と展望 

 最後に,日本のNGOの課題について考えてみたい。
 米国やカナダなどでは,政府ODA予算の一定部分(だいたい10%程度)の実施をNGOに任せている。だが,現在,日本のNGOに日本のODA予算の10%を任せた場合には,おそらく力量不足から消化不良をおこし,その役割を果たしきれないだろう。最近の日本のNGOの質の向上は目覚しいものがあるが,まだ,資金,人員などキャパシティが不足している。自己資金,人員不足ゆえに大きなプロジェクトを行う容量を持つまでに至っていない。つまり,事務所を構え,活動費を用意して十分な活動が日常的にできていれば,大きな事業を任せられても対応できるのであるが,貧弱な資金ゆえに,施設面,活動費,人材面(人件費を含む)で劣悪な環境にあるために,いい人材が定着せず十分な対応ができないNGOが多い。
 
 日本政府も,欧米のようにODA予算をNGOに委託する方向にある。政府がNGOに求めるのは,公的機関の職員の人員増が望めない中で,開発プロとしてのNGOの能力だ。JICAの提案型技術協力事業(PROTECO),草の根技術協力などNGOと連携して事業展開するスキームのほか,外務省も,NGO支援プロジェクトの一環としてcapacity building seminarなどを開いてNGOを育てようとしている。ただ,あくまでもNGOは市民の運動だ。政府が過大に関与するのは本来の趣旨に反することを,政府もNGOも忘れてはいけない。
 
 一方,NGOが政府に求めているのは資金だ。ここ10年以上,日本のNGOの共通の悩みといえば資金不足に尽きる。NGOの資金不足は,NGO自身の自己努力不足が指摘される。近年は減っているが,日本のNGOには,経済的な営業努力(資金集め,金儲け)に対して否定的な感情を持つ風土がある。欧米のNGOの発想では,善なることに使うのだから資金集めにおいては清濁併せ呑むような腹を持たなければいけないとなるが,日本では全てをきれいごとで進めようとする傾向が強い。日本のNGOでもPeace Winds Japanのように,東チモールでの活動から産まれたコーヒーを日本で販売して資金獲得の手段にするようなところもあるが,このようなNGOは日本ではまだ少ない。日本のNGOには資金集めの面でもプロとしての意識改革が必要だろう。
 
 だが,もっと問題なのは市民の意識だ。日本人には欧米のようにテーマごとに自分たちの意見の代弁者であるNGOを育てようという意識が低い。そのせいか,日本におけるNGOの恒常的支援者数はここ十年来,30万人程度でほとんど変化がない。日本でNGOが育ちにくい背景は,NGOを底辺で支える真の意味の「Civil Society」が熟成していないことである。「Civil Society」は「市民社会」とも訳されるが,正確には単なる市民の社会ではなく,問題意識をもった市民が構成する社会のことを指す。そういった社会が日本に生まれていないことが,日本のNGO環境の弱点でもあるのだ。
 
 日本における政府と市民との関係は,いまも「お上と私」という封建時代の関係が潜在している。日頃,政府を厳しく批判する人ほど,最後は政府に「何とかしてくれ」と頼りたがるが,欧米では,政府と市民は対等に並ぶ存在だ。政府に対して厳しい目をもってみながらも,何でも政府にやってもらおうとするのではなく,自分たちでできることは自分たちでやっていこうという自立の精神を持っている。それがNGOに対する市民の対応の差になって表われているといっても良いだろう。
 
 良いNGOを育てるのは市民の責任である。われわれが,21世紀半ばに入っても良き,頼れるNGOを育てられないのなら,自分たちだけでなく後世の世代はさらに大きな地球空間の中でさ迷わなければならない事態になる。多くの日本人が市民として自覚を高め,NGOを育む努力を始めて欲しい。

(2007年11月2日)

注1 NGOの4つの世代
 デービット・コーテン(David C. Korten,1937- ,米国・元ハーバード大学教授)著『NGOとボランティアの21世紀』によると,NGOの発展段階を次の4世代に分けて説明している。
 
 第一世代は「救援・福祉」であり,NGOは対象住民に対して直接的に現地に欠けているものの支援サービスを行う。自然災害や紛争による難民・避難民への食糧・医療などの人道支援は,この世代に分類される。第二世代は「小規模な地域開発」の世代である。これは共同体開発戦略やエンパワーメント活動と呼ばれ,プロジェクト対象地域の保健医療問題の根底にある貧困やジェンダー問題に取り組み,住民の自主性を支援し,持続可能な発展を助ける。具体的な活動の例としては,井戸掘り,家庭菜園,収入向上,病気予防のための保健活動,識字教育などがある。第三世代は「持続可能なシステムの構築」とされる。これは個々の集団や共同体を超えて,より大きなレベルで特定の政策や制度を変革しようとするものである。これはNGOが政府機関と協力して政策や業務を変革することや,新たに持続的組織を形成することも含まれる。第四世代は,「民衆の運動」としてのボランティア活動,つまり地球規模の活動である。これは西欧近代化モデルによる戦後の途上国開発に変わる新しい開発モデルを中心とした,またジョン・フリードマンがいう「もうひとつの開発(alternative development)」運動である。つまり住民や共同体を中心とした国家レベルの経済成長を優先する開発とは異なった発展を志向する働きである。
(財団法人国際開発高等教育機構FASIDのHPより引用)

注2 peace agent
 村や街の公会堂などで研修会を数回開き,隣人同士仲良くやっていこうということを訴える。かつて相互にやり合って殺戮をした歴史を反省して,二度とそのようなことをやらないことを合意する程度の内容である。要はそのような平和に対する意欲を持ってもらう。村長等の村役から任命されることで,本人もその自覚を持つ。それまでは街をぶらつくときも平和に対する意識もしていなかった者が,peace agentとしての自覚を持つことで,紛争の芽を発見することができる。そして具体的なやり方についても話し合う。中には宗教関係者なども含まれているので,そのような人たちに対しては,礼拝の場などで対立をあおらず抑制することを訴えてもらう。平和構築は,特別高尚なことではなく,一般市民がかかわることのできる身近な内容であることを理解してもらい,庶民の心情レベルと乖離しないようにすることが重要なのである。平和はまさに市民がつくっていくものである。

注3 トリクル・ダウン理論
 トリクル・ダウン理論(trickle-down theory)とは,富める者が富めば,貧しい者にも自然に富が浸透(トリクル・ダウン)するという経済理論あるいは経済思想である。
 
 トリクル・ダウン(trickle down)とは徐々に流れ落ちるという意味で,政府のお金を公共事業や福祉などで国民(特に低所得層)に直接配分するのではなく,大企業や富裕層の経済活動を活性化させることによって,富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち,国民全体の利益となることを示したものである。日本においても,所得税の最高税率を引き下げる時に,この考え方を根拠として用いている。
 
 トリクル・ダウン理論は,サプライサイド経済学の代表的な主張の一つであり,この学説を忠実に実行したレーガン大統領の経済政策,いわゆるレーガノミクス(Reaganomics)について,その批判者と支持者がともに用いた言葉でもある。サプライサイド経済学は実行に移され,実際に経済は回復したが,何が回復原因となったについては議論が続いている。多くの専門家の意見として,連邦準備理事会議長(アメリカの中央銀行総裁)であったヴォルカー(Volcker, P.)はスタグフレーションを解決するために既に正当な政策を始めており,回復要因はこの金融政策にあったと見ている。また,レーガンの経済顧問を務めたストックマン(Stockman, D.)は後に,サプライサイド経済学やトリクル・ダウン理論はレトリックだったと述べている。
 
 トリクル・ダウン理論の発想の原点は,マンデヴィル(Mandeville, B.)の主著『蜂の寓話:私悪すなわち公益』 (1714)に求めることができる。この本の副題「私悪は公益」("private vices, public benefits")は,資本主義社会の本質を端的に示す言葉として有名である。私悪とは利己心のことである。利己心にもとづく各個人の行動が,結果的に(個人が意図したわけではないのに)全体の利益(公益)をもたらすという考え方である。この考え方は,レッセフェール(自由放任主義)につながるものであり,アダム・スミスなど古典派経済学の経済学者に大きな影響を与えた。(livedoor Wiki インテリジェンス辞書より引用)