中東イスラームにおけるトルコ民族の歴史と対外関係

静岡県立大学准教授  宮田 律

 

現在中東地域においては,イラク戦争後の戦後処理問題,パレスチナ問題,イランの核開発疑惑問題など国際社会にとって解決の難しい諸問題が山積している。中東地域におけるイスラーム民族史を振り返ってみると,トルコ民族の存在は無視することのできない要素である。しかし,日本ではトルコに関する関心と報道が少ないために,その意味について十分な理解に乏しい面があるように思う。そこで,ここでは中東地域のイスラーム民族史におけるトルコ民族の歴史と現実について考えてみたい。

1.トルコ民族の歴史

 (1)セルジューク朝からオスマン帝国へ
トルコ民族がイスラーム世界で最初に頭角を現したのは,セルジューク朝の創設を契機とする。セルジューク族は農業に従事せず頻繁に移動しながら生活するとともにイスラームに改宗し,同時にイスラーム神秘主義教団の活動にも影響された。またセルジューク朝は,成立時から領内にいるトゥルクマーン族をいかに扱うかという問題に直面していた。セルジューク家と同じトルコ系民族でありながら,トゥルクマーン族は扱いにくい存在であった。そこで,トゥルクマーン族をアナトリア(小アジア地域)に送り,ビザンツ帝国との戦闘に当たらせると,戦闘能力にすぐれたトゥルクマーン族は軍事的成功を収めた。アナトリア征服とそのトルコ化は,このような政策の結果現れたものである。11世紀になるとトゥルクマーン族はアナトリアに広がり,定住を始めた。

 その後,アナトリア全体のトルコ化が進行する中,13世紀末にオスマン帝国が成立し20世紀初めまで続いた。セルジューク時代は,イラン文化の影響を強く受け,ペルシア語を日常言語として採用し,宗教・学問用語としてはアラビア語が使用された。トルコ語がアナトリアの公用語となるのは,カラマン侯国(13世紀から15世紀にかけてアナトリアに存在した強力なトゥルクマーン系侯国)の時代であった。

 オスマン帝国の最盛期には,東は現在のイラク,西はアルジェリア,ヨーロッパはバルカン半島,南はアラビア半島南端までを支配する一大帝国であった。しかし,オスマン帝国のトルコ人は,非トルコ人を同化させようとはしなかった。各民族,各宗教に大幅な自治を認め,アラブ人に対しても寛容な扱いをした。そのため国内にいろいろな少数民族や宗派を抱えていたにもかかわらず,紛争が比較的少なかった。「パックス・オスマニア」とでもいうべき時代であった。

 その基盤には,オスマン帝国の宗教社会を構成するミッレト制(注1)があった。ミッレト制とは,コンタティノープルを陥落させた後にメフメト2世によって創設された一種の自治制度であり,それによって各民族に大幅な自治が与えられてそれぞれが共存するシステムであった。

 アラブ人が民族的に異なるトルコ人に従っていた背景には,両者ともイスラームを信仰していたことがあった。19世紀の終わりまで,アラブ人は中央政府によって抑圧されることはなかったし,アラブが民族意識をもつ20世紀の初めまで,オスマン帝国の支配者がトルコ民族であったことは,アラブ人にとって問題ではなかった。トルコ人とアラブ人の大部分は一つの信仰によって束ねられるムスリム共同体を構成していたといえる。アラブ人は自らのことをまずムスリムと考えていた。オスマン帝国は,ウマイヤ朝やアッバース朝のように王朝を表す名前であり,ヨーロッパのナショナリズムに影響された「民族」を表す名称ではなかったのである。同時代のヨーロッパ人は,人種や民族にかかわりなく「トルコ」と呼んでいたほどである。民族,宗派の異質性を受け入れることによって,共存共栄を図っていくという帝国内の政治・社会システムが機能していた。そのようなシステムを現代イスラーム世界の人々ももう一度思い起こす必要があるように思う。

 ここで指摘しておきたいことは,イラク戦争で欧米のメディアがスンニ派,シーア派と余りにも意識しすぎたのではないかという点である。戦争前のフセイン政権のイラクでは,イラクの人々は自分のアイデンティティをスンニ派,シーア派だと考えていたというよりも,イラク国民と考えていたと思う。彼らは同じアラブ人であり,外見でスンニ派,シーア派と区別することはできない。ところが,現在では武装勢力が勝手にチェックポイントを作ってどちらの宗派に属するかと聞いて,殺傷したり拉致したりしているという。それでいまイラク国内で人々に「どちらの宗派か」と聞くと,「イスラーム教徒だ」としか答えないという。欧米メディアによるイラク戦争とその報道を通して宗派対立を逆に強め,各宗派の自意識を強めた結果,内部対立の紛争要因を作ってしまったと思う。

(2)西洋ナショナリズムの影響
 一大帝国を築いたオスマン帝国は,なぜ没落するようになったのか。航路の発見により陸路を経由しないでもヨーロッパ諸国がアジアに出かけて貿易を行えるようになったために,紅海から東地中海への交易が減少し,経済的停滞がもたらされたことがある。またメキシコ産の銀による貨幣が流通するようになると,インフレが進行して経済的打撃となった。このような経済力の低下によってオスマン帝国自体に科学や技術を発展させる力,動因がなくなっていった。

 18世紀ごろから帝国が緩み始め19世紀に入ると,ヨーロッパではナショナリズムの考え方が伸張するとともに,欧州諸国は科学や技術面でオスマン帝国に優るようになってきた。ヨーロッパ諸国はオスマン帝国に関心を寄せ,弱体化しつつあったオスマン帝国から経済的,政治的うまみを獲得しようとした。具体的にはオスマン帝国内のキリスト教徒にナショナリズムを訴えていった。バルカン半島やアルメニアのキリスト教徒,レバノンのマロン派キリスト教徒をうまく利用して,彼らのナショナリズムを煽ることによりオスマン帝国の中央政府の権威を弱めていった。その結果,キリスト教徒をはじめとする非ムスリム住民が独立志向の意識を持ち始め,中東地域の各民族,各宗派の対立構造が形成されたのである。ヨーロッパ諸国によるアラブ地域の分割によって,アラブの政治的独立と統合をめざすアラブ・ナショナリズム(注2)が生み出されていった。

 そして1916年のサイクス・ピコ協定は,オスマン帝国のアラブ地域を英仏の委任統治の下に置く基本的枠組みとなった。アラブ地域における委任統治勢力の支配は,アラブ人の民族自決や政治的独立への運動を強化した。その結果,多くの政党が生まれ,ヨーロッパ諸国の支配に対する抵抗運動を高揚させた。この時期,ヨーロッパ諸国に対する不信が強まり,それは憎悪や敵意,さらにはあからさまな暴動となった。アラブの抵抗の対象は,オスマン帝国から英仏というヨーロッパ諸国へと変わっていった。

 第一次世界大戦ごろには,アラブ人にも狭量なナショナリズムを煽り立て,同じ民族同士は一つの国家を持つべきだとの考えを植えつけた。第一次大戦中,英仏の連合軍は,アラブ人に対して連合国側に協力すれば戦後には独立国家を与えることを約束しつつオスマン帝国との対立をあおったのであった。このときシャリーフ・フサインによる「アラブの反乱」(1916年)が起こった。この内容が映画「アラビアのロレンス」に描かれている。

 とくに戦後は,人為的に西欧諸国が引いた国境線による国家を基にした国単位のナショナリズムが形成されていると思う。このようにナショナリズムの考え方が,現在に至る中東地域の混乱をもたらした大きな要因であったように思う。

(3)トルコとアラブとの関係
 オスマン帝国の国王(スルタン)はカリフ(イスラーム国家の最高権威者)を名乗っていたので,人々はその権威に従っていた。その意味で,イスラームの人々の意識レベルでは,言葉の違いはあったにしても,トルコ人とかアラブ人という区別の意識はなかったように思う。オスマン帝国はトルコ人だけの帝国ではなく,イスラーム帝国であったのでトルコ人とアラブ人とはうまく共存していた。アブデュルハミト2世の専制政治と「青年トルコ人」のトゥーラン主義(トルコ系民族の大同団結を目指すイデオロギー)の時代を除けば,アラブ地域には広範な自治が与えられていた。

 またオスマン帝国と国民との関係は,国民国家の体制でも,中央集権制でもなかった。オスマン帝国の領域にいる人々は,その領域内で起こっていることについて,メディアも未発達の時代であったので,それほど関心を寄せたわけではなかった。むしろオスマン帝国と一般アラブ人の関係は,その地域にいる領主と住民関係であり,領主とオスマン帝国との関係がうまく機能していれば問題はなかったといえる。つまり,領主が住民から徴収した税をうまく帝国の国庫に納める限りにおいてオスマン帝国は,その地域の領主や住民を保護してくれた。オスマン帝国支配は,アラブ世界とイスラーム世界双方を,外国の侵略から400年にわたって守る役割を果たしたといえる。

 ところが,ヨーロッパ的国家システムの導入が図られると,地方分権的な行政制度は中央集権的なものにとって代わる。多民族国家であったオスマン帝国は,ロシアやオーストリアの介入,少数派キリスト教徒の独立によってナショナリズムへの傾倒を強め,次第にトルコ・ムスリムの民族国家の様相を明らかにしていった。

 帝国末期になると,ヨーロッパ諸国の進出に対抗して,スルタンは国のイスラーム的性格を強調していった。アブデュルハミト2世(在位1876-1909)はイスラームの連帯に訴えたが,この方針はオスマン帝国の少数民族のナショナリズムを刺激することにもなった。とくにアブデュルハミト2世のアラブ人への不信と恐怖による暴政により,アラブ人とトルコ人の相互不信は増幅されていった。

 その後1908年から18年間,「青年トルコ人」の革命によって「統一進歩団」が権力の座につくと,宗教や民族にかかわりなく国民に平等な権利を与えることをうたったものの,その公約が実行されなかったために,アラブとトルコの対立をもたらすこととなった。「統一進歩団」は帝国内の民族問題を無視し,彼らの説く帝国のオスマン化とはトルコ化にほかならなかったために,アラブ民族の誇りと対立するようになり,アラブの分離主義へと成長していった。つまり,パン・イスラーム主義からパン・トルコ主義(注3)に変化したことで,アラブ人の反トルコ感情を高めていったのである。

 とくに「統一進歩団」政権の専制手法と,行き過ぎた中央集権化,トルコ化にアラブ人の不満が向けられた。当時は,アラブ人の人口の方が多かったにもかかわらず,非トルコ民族をトルコ化する目的でトルコ語を強制した他,国民の名前もトルコ風に改めさせた。とくに1908年以降,トルコ人が「善きムスリム」「イスラームの庇護者」「ムスリム同胞」と見なされなくなって以降,両者の葛藤が増幅されたのであった。

 一方,トルコ人には,第一次世界大戦でアラブ人に裏切られたという苦い歴史的経緯がある。それゆえトルコ共和国に行くと,アラブ人に対する悪口がよく聞かれる。オスマン帝国末期から第一次大戦に至るまで両者のナショナリズムのせめぎあいは解消されることなく,真の友好関係に入ることはなかった。

 その後,第二次世界大戦が終わると,ほとんどのアラブ諸国が独立を達成し,トルコ・アラブ関係は全般的に改善の兆しが見られるようになった。ただ,冷戦時代にはトルコが西側に与することによってアラブ諸国から警戒されたが,冷戦が終わる時期になり,そうした緊張関係は次第に緩和していった。

 また民族的にアラブ人とぎくしゃくした関係にあるとはいえ,トルコもやはり経済や資源などの実利面ではアラブ諸国とうまくやっていこうとの思いもある。1973年の第一次石油危機がアラブ諸国との関係改善のきっかけとなった。例えば,イラクのキルクークからトルコのジェイハンに抜けるパイプラインが以前稼働していたし,アゼルバイジャンの首都バクーからグルジアの首都トリシを経てトルコ南部のジェイハンに抜けるBTCパイプラインがあった。

 最近では,トルコでイスラームの復興現象が強まっており,イスラームのアイデンティティを訴える動きが加速している。そのためトルコの町に行って見ると90年代の初めに比べて,スカーフや長いコートを着用する女性がすごく増えた。90年代初めに現地に行ったときは,1〜2割程度しかなかったが,いまや8〜9割の方が着用するようになった。こういう現象から考えると,大衆レベルではイスラームに目をむきつつあるように思う。

2.トルコのクルド人問題

 第一次世界大戦期にイギリスはクルド人に彼らの国家を与えると約束したにもかかわらず,クルド地域にあったキルクーク地域(石油資源が豊富な地域)を英国の委任統治領であったイラクに含めたいとの意図から,クルド人独立国家への約束を一方的に反故にしてしまった。また1920年にイスタンブール政府と連合国の間に締結されたセーブル条約でクルド人の独立が約束されながらも,ローザンヌ条約(1923年)によって再び裏切られてしまった。その結果,クルド人は,トルコ,イラク,イラン,シリア,アルメニア,アゼルバイジャンなどに分散されるようになった。

 クルド人は自分たちの人口を3000万人と見積もっているが,各国ともクルド人の人口統計を発表していないので,正確なところは不明だ。とくにトルコではクルド人も含めて「トルコ人」としており,クルド人の人口統計をまったく出していない。クルド人はトルコ国内の最大の少数民族であり(1200〜1500万人と見積もられている),地域的に固まって住んでいるが,トルコ中央政府のインフラ整備がこの地域ではあまり進んでいない。

 イラク戦争時にあるトルコ領内のクルド地域の村を訪ねたことがあった。そこの村長さんの家は12人の子供を抱えながら農業を営んでいった。農業の難しい冬季はイスタンブールに出稼ぎに行って一家を支えているという。トルコ内における経済格差が激しく,クルド人地域は非常に貧しい状態に置かれている。食えないという経済的な理由からトルコ政府に対して反発していることが根底にある。

 トルコ共和国が成立したとき,西洋ナショナリズムの影響でトルコ人という民族だけによって成り立つ国家にしたがっていた。そうなると南東部に住むクルド人の存在が,トルコ・ナショナリズムにとって非常な障害要因と感じられたに違いない。そのためクルド語の使用,クルド語の新聞の発行を禁止したり,クルド人学校を廃止したりと,徹底したトルコ人同化政策が取られることとなった。しかし,クルド人側は彼らのアイデンティティを放棄することはなく,現在でもクルド労働者党(PKK)の活動を中心に抵抗しており,トルコのクルド人地域ではPKKが根強い支持を得ている。一昨年にはトルコ治安部隊とクルド人の衝突で3500人くらいのクルド人の犠牲者が出る事件が起きた。トルコはクルド人が分離独立運動を強めることによってトルコの領土がさらに縮小してしまうことを恐れている。

 実は,PKKは1970年代にできた組織で,社会主義思想に基づく政党である。昔は平等主義思想という点で共産主義や社会主義は魅力的であったわけだが,冷戦終結を大きな転換点としてそのような幻想はなくなった。その一方で,イスラーム原理主義が,平等思想を説いている。

 PKKはイラクのクルド地域でも活動するようになっている。トルコ政府は,米国政府に対してイラク領内でのPKKの活動をやめさせるように要請しているのだが,米国はイラク戦争に際してクルド人たちの協力をえたものだから,PKKの活動を封じることはしていない。そうなるとトルコの脅迫観念がますます強まる。

 イラクのクルド人は今後独立化の傾向を強めていくと思われる。事実,イラクのクルド人は独立の体裁をとっている。現在イラクでシーア派とスンニ派がぶつかっているのはクルド人地域以外であり,イラクが動揺する場合は,スンニ派とシーア派の抗争だけになるだろう。彼らは石油採掘権に関して(クルド人を除外して)勝手に欧米の会社と契約している。また連邦制構想についても,それがうまく機能すればいいのだが,現時点ではなんともいえない。

 クルド人問題は周辺諸国のカードとして使われることがある。かつてイラクでクルド内戦が起きたとき,イランが彼らに資金や武器を提供した。1975年にイラン国王は,イラクから領土的譲歩を得たが,それと同時にクルド人に対する支援をストップしてしまった。その結果,クルドの反乱は鎮圧されてしまった。このようにトルコにとってクルド人の運動は,治安上の脅威となっている。

3.トルコの対外関係

(1)ヨーロッパ諸国との関係
 1923年にケマル・アタチュルクが国家建設してトルコ共和国が成立した。このとき「脱イスラーム」と「ヨーロッパへの仲間入り」を二本柱の国家目標として掲げた。とくにケマル・アタチュルクのイデオロギーを支持するようなインテリ層や軍部にはヨーロッパ志向が強い。このようにトルコは,イスラーム世界から離脱してヨーロッパ側に入りたいと願っているのだが,EUの側が容易にはそれを認めてくれず,トルコは相当ストレスがたまっている状態だ。

 ここでトルコのEU加盟問題について考えてみる。大半のEU諸国はキリスト教の価値観でまとまっており,彼らの根底にはトルコ=イスラームという認識があって,それが引っかかるようだ。例えば,東欧のポーランドやハンガリーの加盟については,EU諸国は躊躇なく前向きに検討するのに,トルコの場合はそういかない。

 トルコの経済は比較的好調とはいえ,一般大衆レベルでいえば貧しい人が多いので,EUに加盟して域内の労働が自由化された場合に,トルコの労働者が域内に今まで以上に入ってくることになり,それを恐れていることもあるだろう。またトルコ国内のクルド人に対する人権問題を口実に,EU諸国がトルコに難癖をつけるのも,加盟させたくない気持ちの表れとも言える。

 ドイツ・メルケル首相の属するキリスト教民主同盟はトルコのEU加盟に反対している。ドイツではネオナチがトルコ人の排斥運動を起こしたりしているように,右翼勢力の台頭が考えられる。また隣のギリシアとはエーゲ海の島の領有問題を巡って紛争が起きているほか,キプロス問題でも対立して仲が悪い。

(2)トルコの外交姿勢
 EUとの関係が難しい状況の中で,トルコは中東アラブ諸国や中央アジア諸国との経済協力に目を向け関係強化を図りつつあるように思われる。

 冷戦直後,中央アジアのトルコ系民族の国々はソ連から独立したときにその機運に乗ってトルコ志向をした時期もあったが,ロシアの経済支配の関係をなかなか断ち切れない側面がある。中央アジア諸国はロシアともうまく関係を維持したいし,トルコともそうしたいのだが,天然ガスをロシアから買うなど経済的にはどうしてもロシアとの関係の方が太い関係になっている。

 中央アジア諸国におけるイスラームの復興においては,トルコの宗教団体がモスクを作り活躍している。トルコ様式(オスマン帝国)のモスクは,基本的には方形で,中央に大きなドームをもつ。特徴的なのはミナレットで,細くて高く,先端は鉛筆のように尖った円錐形をしている。そのようなモスクが中央アジア諸国でも見られるようになった。

 中国のウイグル自治区のウイグル人はトルコ系民族であるが,ウイグル人の独立運動をトルコがバックアップしているとされるために,中国とはあまり仲が良くないようだ。例えば,1997年の香港の返還式典にはトルコは招待されなかった。

 またトルコはイスラエルとも良好な関係を持っている。その背景には,かつてオスマン帝国時代のイスタンブールにはユダヤ人が多く在住しその社会に融合していたことがある。トルコはイスラエルを承認した唯一のイスラーム国家であるので,米国にとって戦略的に希少価値のある国といえる。いまのところ,トルコが反イスラエルになる可能性は全く見られない。トルコとイスラエルとの軍事協力は,イスラエルにとっても非常に大きな軍事的財産である。具体的にいうと,イスラエルはトルコの領空を使うことができるので,イランに対してもにらみを利かすことが可能だ。イスラエルは周辺を敵に囲まれたような国であるので,一つでもそのような国があれば,自国の安全を高めることにつながる。

 1987年にパレスチナの占領地でインティファーダが発生すると,トルコ政府はイスラエルの「抑圧」を非難し,パレスチナの民族自決権を支持する声明を出した。1988年1月にPLOがパレスチナ国家独立を宣言すると,イスラエルと国交をもつ国のなかでこれを最初に認めたのもトルコであった。

 トルコはユーラシア大陸の要のような地政学的な場所に位置しているので,等距離外交,すなわちいろいろな国とうまくやっていかなければならない。周辺諸国とは仲良くやりたいというのはどこの国にも共通する思いだと思う。例えば,中東地域に変動要因があった場合には,西側の最前線基地になることができるなど,欧米諸国や国際社会に対して戦略的価値を訴えたいという思いがある。 

4.中東問題と米国の姿勢

 イスラーム過激派によるテロ行為はよくないが,彼らがなぜ現れて,なぜそのような主張をし,活動をするのかという背景を理解しなければいけない。それを理解しない限りは,過激派の活動を弱めることはできない。イスラームは,同胞意識が非常に強い宗教である。例えば,パレスチナでイスラエルに軍事的制圧を受ければ,インドネシアでも抗議行動が起こる。そのようなムスリム同胞意識を無視してはいけない。

 欧米には,テロを起こすのは貧困層ではないと主張する人もいるようだ。ヨーロッパに住んでいてテロを起こすような人は,そうかもしれないが,イラクやガザなどで自爆テロを起こす人々は,ほとんどが貧困層の人々であることは間違いない。中東地域のようなイスラーム圏が真に社会・経済発展を遂げない限りは,世界はテロと向き合い続けなければならないだろう。

 また,米国に「なぜ9.11のようなテロにあうのか」という問いかけに対する真摯な自省がなければ,米国に対するテロはずーと継続することになるに違いない。軍事的にイスラーム過激派を封じ込めるという考え方それ自体に限界がある。英国のブラウン新首相が,「軍事的にイスラーム過激派を押さえ込むことは無理だ。人々の心を捉えなければいけない」と述べたが,その通りだと思う。欧米の人々に対して求められることは,そのような自省に基づいた発想だろう。

 世界平和という観点からは,パレスチナ問題は重要課題である。しかし,米国がイスラエルに偏って支援することにも問題がある。イスラエルは国際法を度外視して占領地の入植地を増やしているが,それに対して米国が批判を加えないことについて,ムスリムたちの反発を招き,反米テロにつながっている面があることは否定できない。イスラエルが国際法に違反するような行為を行った場合には,公正な立場からイスラエルに圧力をかけてその変更を迫るようなことをしない限り,米国に対するテロはなくならないだろうし,それはまた米国自体の国益にもかなうと思う。イスラエルに対して圧力を加えられる国としては米国しかないので,パレスチナ和平問題における超大国米国の責任は大きい。
(2007年7月5日)


注1 ミッレト
 ムハンマドは啓典の民に,人頭税を払うという一定の条件に従えば,ズィンマ(非ムスリムに対する生命・財産の安産の保障)を与え,ズィンミーとして,かれらの独自の宗教,法,生活習慣などを保ち,同化を強制されず自治を許した。ミッレトは基本的に,このズィンミー制度がオスマン帝国において継承・発展されたもので,帝国で公認された宗教共同体を指す。各ミッレトには,ミッレト・バシがおり,集団内部の秩序維持と毎年の人頭税の取り立てに責任を持った。各ミッレトは,各自の宗教に基づく法と法廷を持ち,大幅な自治を許されており,イスラーム法権力が非ムスリムのミッレトに介入するのは,異集団間や集団内部の紛争調停の要請があったときのみであった。近代に入って,ヨーロッパの影響を受けてバルカンで独立運動が起きると,ギリシア正教徒のミッレトは,ギリシア,セルビア,ブルガリア等へと分裂し,各民族国家が成立していった。(片倉もとこ編『イスラーム世界事典』明石書店,2002年より引用)

注2 アラブ・ナショナリズム
 政治的に「アラブ・ナショナリズム」は,「ペルシア湾から大西洋に至るアラビア語を話す人々の国を統一する運動」を意味する。

注3 パン・トルコ主義
 パン・トルコ主義とはトルコ系諸民族を核としてフィン人,モンゴル人,マジャール人を含めたウラル・アルタイ系諸民族の故地として中央アジアもしくは北アジアの草原地帯を想定し,これらの諸民族の大同団結によって,ヨーロッパ人の進出,ロシアを中心とするパン・スラブ主義に対抗しようとしたのである。こうした民族主義の感情はオスマン帝国のような多民族国家にとっては危険なことだった。「青年トルコ人」が民族主義的な理想をつくり,トルコ民族の優越性を説くことになったため,アラブの指導者も同じような思想や運動を展開せざるを得なくなる。その結果,多くの結社や政党が設立された。(宮田律『中東イスラーム民族史』中公新書,p183より引用)

■みやた・おさむ
山梨県生まれ。1983年慶應義塾大学大学院文学研究科修了(史学専攻)。米国・カリフォルニア大学ロスアンゼルス校大学院修士課程修了(歴史学)。その後,静岡県立大学助手,助教授を経て,現在,同大学国際関係学部准教授。専攻は,イスラーム地域の政治・国際関係。主な著書に,『イスラム政治運動』『現代イスラムの潮流』『イスラム過激派をどう見るか』『中東 迷走の百年史』『物語 イランの歴史』『イラクと日本』『中東イスラーム民族史』他多数。