中国政治体制の行方

―中国共産党の現実と将来

国際貿易投資研究所元理事長  小林  進

 

1. 中国情報の見方

 米国などのように情報アクセスが多様な国と違って,中国の場合,情報源が限られ,さまざまなバイアスがかかっていることが多いので,研究に際して,その出所がどこなのか,注意しておくことが必要である。

 江戸時代の対馬藩の家老で,朝鮮通信使が日本に来たときに接待役に当たった人物,雨森芳洲は次のように述べた。

「筋々と言うのは,是は朝鮮の政府の方針から出ていること,是は通訳たちの考えであること,是は商人たちの仕方であることと,それぞれに分けて,思慮を加え,ことに応じて処置することを,筋々を分かつと申すのである。(中略)この様に,その筋を分けることがなければ,人情や事勢にうといと言うべきである。」

 発言をする人のバックグランドがわかっていると,発言の真意をよく理解することが可能になるということを指摘した。
 日本人の情報源としては,新聞・雑誌などのマスコミ,評論家,中国研究者,小説翻訳家などがあるが,後者から前者に行くに従って中国に好意的,甘くなる傾向があるように思われる。

 中国人が情報源の場合は,在日中国人,中国内(学者,中央党校;中国共産党のシンクタンク・研修機関・大学),在香港(鏡報,争鳴),在欧米などがある。これも後者から前者に行くに従って中国に好意的になる傾向がみられる。台湾の場合は批判的見解が多いが,情報としては香港情報の方が価値があるように思われる。

 米国人の場合も,ジャーナリストが甘く,学者が辛口である。

 ここで一例を挙げてみる。日本では,「中国は世界の工場」だと言われているが,友人の経済学者は,「中国にトヨタも松下もホンダもない。」と,むしろ不快感。また「中国が世界の工場だという考えは間違いだ。世界の工場は現在は日本である。」と言う経済学者もいる。「世界の工場」の定義として,技術開発力,高品質の商品の生産能力,ブランド,マーケットが揃ってこそ,初めて「世界の工場」だとし,中国は「世界の加工基地,加工センター」に過ぎないと言う。私が見る限り,中国発行の書物に「中国が世界の工場である」と書かれたものはない。雑誌では,「中国がいかにして世界の工場になれるか」と問題提起している。中国を世界の工場だと言っているのは日本人評論家か在日中国人で,売文のためだ。

 2006年の中国の輸出入に占める外資の割合を見ると,輸出で58%,輸入で60%である。輸出超過の内訳を見ると一般貿易831億ドル,加工貿易1889億ドル,その他945億ドルで,加工貿易を担っているのは日米欧の企業である。中国の貿易規模は日本を上回るが,中国では「大而不強」(大きいが強くない)との冷静な言葉が聞かれる。

 次に,情報の時期が重要だと言うことについて述べたい。中国の場合は既に実態がなし崩し的に変化していて,それがある段階まで達したときに法律や制度などで事後承認されることが多い。ところが日本は逆で,一般に法律や制度が作られた後に,その具体的動きにつながっていく。したがって情報が発表された時期をよく見ておくことで,事実の正確な把握が可能になる。

2.中国共産党の歴史観

 中国共産党はいつできたか。
 岩波講座の『世界史』(1970年版)によると,中国共産党は1921年7月21日に各地から12人が集まって第一回大会が開かれて結成されたと記されている。しかし,中国のマスコミでは7月1日を共産党の創立記念日として祝っている。またある中国で発行されている小冊子には,「1921年7月1日,わが国人民の偉大なる領袖である毛沢東主席が自ら共産党を組織し誕生した日である。」と記されていた。

 中国の小学校課程「社会」の教科書(1996年版)には,1921年7月に12人が集まって共産党を結成したと書かれていたが,中学校課程「歴史」教科書(1999年度版)では,1921年7月23日に12人が集まって共産党を結成したに修正。さらに高校課程「歴史」教科書(2000年度版)では,同年7月23日に13人。このように中国共産党建党の場所が上海であることに異論はないのだが,期日と人数については,記述が次々に修正されてきた。

 米国のジャーナリスト,エドガー・スノー(Edgar Snow,1905-72)著『中国の赤い星』(1937年,原題Red Star Over China)をみると,毛沢東は「全部で12人でした。」と語っている。このときコミンテルンは相当の資金を援助していた。ソ連崩壊後,その報告書など関連資料が出てきて,今は13人になった。

 ソ連崩壊の原因を分析したあるフランス人が次のように述べている。「ソ連では,文学でも音楽でも,あらゆる分野について,その良し悪しを共産党が決定する。歴史的事実まで共産党が決める」。このことは,中国共産党も同様である。

 90年代の高校課程の歴史教科書には「歴史は見方が重要であり,それは唯物史観に基づいて見なければならない。」と書かれていたし,原則は今も同じで,社会主義建設という観点からプラスのことだけが取り上げられる。その一例として,高級中学の歴史教科書の年表には,天安門事件のことが全く記載されていない。記載されている事項のほとんどは中国の歴史というよりは,中国共産党の歴史といった方が適切のように思われる。

3.中国は社会主義か資本主義か

(1)唯物史観の観点から
 香港の中国人で,現在日本で活躍している関志雄は,『資本主義へ疾走する中国』(日本経済新聞社,2004年)に寄稿した論文の中で,中国が社会主義から資本主義へと移行しているとして,次のように述べている。
 
 1970年代末,改革開放政策に転換してから,中国は高度成長期に入っているが,これは社会主義を堅持したのではなく,それを放棄した結果である。計画経済から市場経済への移行にとどまらず,民営化の進展に象徴されるように,社会主義から資本主義への移行もいよいよ最終段階を迎えている。

 中国経済の現状は,当局の公式見解である「社会主義の初級段階」というより,「原始共産主義の段階」に近い。その行き着くところは,社会主義の高級段階ではなく,資本主義の高級段階であることは間違いない。しかし,資本主義の高級段階は,その初級段階と違い,人治より法治,独裁政治より民主政治,さらには,所得の再分配による貧富の格差を是正するための制度の整備を前提としており,その道は必ずしも平坦ではない。

 世界貿易機関(WTO)加盟は法治社会への第一歩であり,江沢民が提唱した「三つの代表論」は共産党が階級政党から脱皮することを目指す政治改革への取り組みであると理解すべきである。

 そもそも世界の歴史の中で,社会主義であった国が果たしてあるのだろうか。マルクスの科学的唯物史観によれば,奴隷制社会から封建社会,資本主義社会,社会主義社会を経て,最後に共産主義社会が到来する。この理論からすると,前述の関志雄の見方は歴史に逆行する。

 ここで共産主義の宗家であるソ連の歴史を振り返ってみる。
 ロシア革命(1917年)のあと,1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立した。その後まもなくレーニン(1870-1924)は亡くなったが,彼のときは戦時共産主義と呼ばれる政策をとり,21年以降は新経済政策(ネップ)を実施した。その後,スターリン(1879-1953)がトロツキーを追い出して実権を握り(1929年),36年にはいわゆる「スターリン憲法」を制定した。そして農村の集団化や企業の国有化を図り,社会主義を実現した。ブレジネフの時代(最高指導者在任1964-82年)になると,「発達した社会主義社会」と称し,いよいよ社会主義が成熟して共産主義社会に入っていく段階を迎えたとした。

 米国のマルクス主義経済学者,スウィージー(Paul M. Sweezy,1910-2004)が,1970年代のブレジネフ時代にソ連を訪問した。「(当時の)ソ連社会は自分が考える社会主義社会ではない。労働者は全くやる気はないし,革命後かなりの年月が経過しているのに物不足など経済事情はよくなっていない。これは資本主義社会でも社会主義社会でもない。“革命後の社会”(post-revolutionary society)としかいいようがない」。

 ソ連が崩壊したあと,さまざまな人がソ連の悪口を言い始めた。1994年,日本共産党は,「ソ連は独特の位階制社会であって,社会主義社会ではない。社会主義への過渡期の社会でもなかった」との見解を示した。なかには,ロシア革命をも認めず,あれは「レーニンによるクーデタである」と主張する人も現れた。

 このような文脈から考えたときに,1949年以降の人民中国も社会主義社会とはいえないのではないか。

(2)経済・社会の観点から
 ところで中国は,新中国成立後,朝鮮戦争の混乱期を経て1953年から第一次五カ年計画を開始した。徐々に企業の国有化を進めていく方針で,当初は「国家資本主義」といっていた。だが,58年に毛沢東が大躍進運動と人民公社化運動を強力に進めたために,計画は宙に浮いてしまった。毛沢東は「計画経済など不要だ」とさえ言ったという。そして文化大革命(1966-76年)に突入し,計画経済とはまったく別の社会になってしまった。

 当時の記録によると,計画委員会には70人が残っていたが,これだけの人数で広大な全中国の計画を立てることは到底不可能である。

 文化大革命後に, 小平が登場して計画経済を再び始めたが,ほどなくして彼は「社会主義市場経済」を唱えた。90年代になると,計画委員会は廃止されてしまった。今も第何次五カ年計画として,時期区分に使われているが,それは計画経済といえるものではない。本当に計画経済を実施したのは数年程度ではなかったかと思う。となると,社会主義=計画経済との定義は,中国にはほとんど当てはまらないと言うことになる。

 共産主義社会は階級のない平等な社会といわれる。ところが,中国社会科学院の陸学芸は,革命後50年以上が経過して中国には階級がないことになっているが,「階層」という言葉で表される階級があることを明確に指摘した(図1)。「国家・社会管理職層」というのは,役所の局長以上,地方の首長などで,彼らは共産党員である。「管理職層」は係長以上のクラスで,彼らも共産党である。その他,図示された10の階層(class)がある。
 図2の表に,各階層に占める共産党員の比率が示されている。この当時すでに私営企業主層にも共産党員がいるが,労働者層,農業労働者層にはほとんど共産党員がいない。

 ソ連時代において,共産党は労働者・農民のための党であったが,レーニン,スターリン,トロツキーなどみな労働者ではなかった。彼らは,労働者・農民などの遅れた大衆を革命エリート集団が引っ張るべきだと考えた。中国においても同様の考え方である。つまり,労働者を指導し革命の方向に引っ張って行くのが共産党(前衛)である。

(3)中国伝統思想とマルクス主義
 中国共産党は現在でもマルクス主義を党是としているわけだが,中国人は本当にマルクス主義を理解しているのかと疑問に思うことがある。

 中国にマルクス主義が入ったのは,直接ドイツからではなく,日本語で出版された『共産党宣言』や河上肇著『資本論入門』(1928年)を中国語に翻訳した形で取り入れたのであった。中国共産党創設時の13人のうち3〜4人は日本留学経験者であり,日本語を通してマルクス主義を学んだのであった。ちなみに,このとき毛沢東はマルクス理解に劣るとして末席の書記役に回された。

 また「 小平理論」といわれるが,マルクス主義や共産主義関連では, 小平はブハーリン(1888-1938)の『共産主義のABC』(1919年)ともう一冊くらいしか読んでいなかったといわれる。この点では,ロシア革命を主導したレーニンやトロツキーなどは独仏語に通じていて,原語を通して共産主義理論を学んだことを考えると,大きな違いがある。

 最近,政治関係の論文をみて驚くのは,次のようにやたらと中国古典の言葉が出てくることだ。党の理論家は,これをマルクス理論と結びつけるのに懸命。

 事実求是(漢書)
 小康・大同(礼記)
 民者国之本也(淮南子)
 民為貴(孟子)→民本主義
 天下為公(孟子)→立党為公・執政為民
 与時消息(周易)
 日新(大学)→与時倶進
 掌司万民之難而諧和之(周礼)

 中国には,賢い君主が政治を行えば人民も幸福だという「賢人善政の伝統」がある。あるいは君主の下に,儒教精神をしっかり持った官僚がいれば一番いいといわれる。老百姓・散沙の民の政治的権利を一方的に代行するとの考え方である。古い時代から言えば,そのような指導者としては,挙人(科挙),先知先覚者(孫文),前衛(共産党)であり,現在は党により国を治める(以党治国)となっている。孫文も同様のことを述べている。まずは軍によりコントロールし(軍制),次に訓制,最後は憲法による統治,選挙による代表者の選出(憲制)である。蒋介石は,最後まで訓制にこだわり,総選挙はやらなかった。この観点から言えば,中国共産党のやり方は中国の伝統を引き継いだものともいえる。

 かつては,中国が半植民地化されたのは,非近代的な儒教にしばられていたからだといわれたが,近年,儒教が大いに利用され賞賛されるようになった。中国人にとって儒教の言葉が理解しやすいからなのだろう。儒教を国教にしたのは漢の武帝だが,長期政権にとっては革命思想よりも,秩序を重んじる儒教の方が役に立つ。

4.中国共産党の将来

 ソ連が崩壊したあと,中国では,その原因についてさまざまな議論があった。原因の一つとして,ときのソ連指導者ゴルバチョフが急激に経済と政治の自由化を進めたことがある。それでゴルバチョフは中国指導部には人気がない。これを反面教師にして,中国は経済改革・自由化を進めるが政治改革はゆっくり進めるということになった。もう一つは,ソ連共産党幹部が特権を享受する一方,一般市民は生活物資の不足などにあえぐ生活を強いられたことが挙げられている。党中央が汚職摘発に力を注いでいるのは,これが念頭にあるからだ。

 ここで中国共産党の将来に関して専門家の考えを見ておく。

 在米中国人のゴードン・チャン(Gordon Chang)は,遠くない将来に中国は崩壊すると展望した(2001年)。2001年に中国はWTOに加盟して貿易自由化の道を歩み始めたが,その一番の影響(しわ寄せ)は零細農民にいくだろうと予想した。しかし,実際には中国は経済発展を続けた。また,中国は近い将来,台湾攻撃をするだろうと予想し,そうなると米国が介入するので中国は敗北すると考えた。これも当たらなかった。おそらく彼自身が早く共産中国が崩壊して欲しいとの思いがあって,それでこのような展望になったのかもしれない。台湾出身にも,同様の願望が見られる。

 次に,経済が発展すれば新中間層が形成されて政治は自然に民主化するとの理論がある(ハンチントン理論)。しかし,中南米諸国の政治・社会情勢は,これを反証するものであったために,この理論への関心が薄れた。ところが,1980年代になり韓国やタイで民主化運動が起こり専制体制が崩れたため,再びこの理論が注目されるようになった。そして中国にもこの理論が当てはまるに違いない,と期待する向きもある。在日中国人や中国の政治学者はこの見解である。

 米国のアンドリュー・ネイサン(Nathan,2006)は,中国の専制政治は継続すると展望している。中国共産党がソ連のそれと違うのは,党上層部に危機感があることだ。ソ連はまさか共産党が崩壊するとは思っていなかったが,中国の党幹部はソ連の前轍を参考にして危機意識を共有している。このため体制維持に都合の悪い変化の芽が出てくれば巧妙な抑圧をして取り締まる。さらには愛国心を盛り上げる外交を行って大衆の目をそらす。例えば,北京オリンピックなど国際的なイベントを開催し,これを政権の実績としてうまく利用するのである。

 今後の問題点として,貿易依存度が高いため,米国経済が減速した場合に中国経済もそれに連動するだろうと指摘する。もう一つの問題として台湾問題がある。一つの可能性として言われているのは,中国の軍部が独走して台湾攻撃をしようとしたときに党の幹部がそれを抑えることができるかということである。

 このように中国共産党体制の今後の展望については,@近い将来,中国共産党体制は崩壊する,A民主化しながら発展を続ける,B現状のような専制体制が継続する,などが主なものだが,最近の米国の論調はBに傾いている。

 それでは中国国内の学者たちは,どう見ているのか。多くは危機感を持ってみているようだ。

 かつてトクヴィル(Charles A. H. C. de Tocqueville,1802-59)は『アンシャン・レジームとフランス革命』(1856年)という本を書いた。その中で,フランス革命が起きた原因について次のように述べた。国王が専制政治を厳しく行っていたから革命が起きたのではなく,当時のルイ16世はある意味で規制を緩める改革を行っており,それによってかえって多くの問題が噴出し拡大して革命につながったと。

 中国に関しても同様の理論をミクシン・ペイ(Mixin Pei)という人が『フォーリン・アフェアーズ』の中で述べている(注1)。党内の改革派が下手に「たが」を緩めて改革を進めると,政権党は危なくなる。ソ連のゴルバチョフもそうであったし,台湾でも,国民党は引きしめていればよいものを自由にして民進党の伸張を許したために,政権を失った。

 またある中国の経済学者は,経済がどんどんと発展してピークに達した直後に,「動蕩的爆発点」が起きることを懸念している(倒J仮説)。

 近年,胡錦涛は「和諧社会」ということを強調している。かつてマルクスは『共産党宣言』(1848年)の中で「階級と階級対立とをもつブルジョア社会の代わりに,一つの協力体があらわれる。ここではひとりひとりの自由な発展が,すべての人々の自由な発展にとっての条件である。」と述べた。この理想社会こそ,「和諧社会」にほかならず,われわれもそれを目指すべきだというわけだ。

 「和諧社会」のスローガンは主として国内社会的意味合いが大きい。現在,中国国内ではさまざまな腐敗と問題が山積して暴動などが多発している。党は執政維持の点から最も心配している。そのために和諧を強調し宣伝せざるを得ないのだろう。

 小平の時代に地方政府に権限を委譲したことによって,党中央の地方に対するガバナンスが失われてしまい,その結果,公害,環境問題,汚職などの諸問題が噴出している。中央は各種の公害対策立法を行ってきたが,「亜洲周刊」(2007年6月17日)は中央を「紙老虎」(張子の虎)だとし,「弱中央,強地方」で,地方では軽視されていると述べている。しかも,地方政府は住民の声を抑圧している。

 旧ソ連や中国では,党の政治員が軍に入って大きな作戦の判断などに関与し,党がコントロールできる仕組みになっている。つまり軍は国民の軍ではなく,共産党の軍である。ところが北朝鮮の場合は,レーニン以来の伝統に反するやり方を取っている。つまり先軍思想といって,軍が党をコントロールする考え方である(注2)。中国について言えば,どこまで党が軍をコントロールできるかだが,全人代(日本の国会に相当)に出席する代表約3000人のうち,軍人は270人程度で1万人に1人の割合,他方,農民は100万人に1人。政権維持のためには,軍の要求を相当程度,受け入れざるを得ない構造になっている。
(2007年7月21日)

注1 米国のForeign Affairs(Sep/Oct 2002)に掲載されたMixin PeiのChina's Governance Crisisという論文には次のように記載されている。
 The accumulation of state-society tensions will eventually destabilize China, especially because the dynamics that generate such tensions trap the ccp in a hopeless dilemma. Rising tensions increase the risks that any reforms, even implemented as remedies, could trigger a revolution. Alexis de Tocquiville first observed this paradox: repressive regimes are most likely to be overthrown when they try to reform themselves. This sobering prospect could deter even the most progressive elements within the ccp from pursuing change.
注2 ソ連,中国,北朝鮮の憲法から関連する部分を引用する。

 ソ連憲法第6条 
 ソビエト社会の指導的かつ嚮導的な力,ソビエト社会の政治制度,国家機関と社会団体の中核は,ソビエト連邦共産党である。ソ連邦共産党は,人民のために存在し,人民に奉仕する。
 中国憲法前文
 中国各民族人民は,ひきつづき,中国共産党の領導のもとにあって,マルクス・レーニン主義,毛沢東思想, 小平理論及び「三つの代表」という重要思想の手引きにより,人民民主独裁を堅持し,社会主義の道を堅持し,改革開放を堅持し,社会主義の各制度を不断に完全なものとし,…。

 北朝鮮憲法
 金日成同志は,「以民為天」を座右の銘とし,常に人民とともにあって,人民のために一生涯を捧げ,崇高な人徳政治で,人民たちを見守り導いて,全社会を一心団結した一つの大家庭へと変転させた。朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮人民は,朝鮮労働党の領導の下,偉大な領袖金日成同志を共和国の永遠なる主席として高く仰ぎ,金日成同志の思想と業績を擁護固守し,継承発展させ,主体革命偉業を最後まで完成させていくであろう。


■こばやし・すすむ
1953年東京大学経済学部卒。同年通産省に入省。64年香港総領事館領事,その後,経済企画庁調査局海外調査課長,経済企画審議官などを経て,83年アジア経済研究所理事,88年日EC産業協力センター専務理事,90年国際貿易投資研究所理事長,94年東洋学園大学教授などを務めた。専攻は,中国経済,景気循環。主な編著書に,『ひらけゆく中国経済』『香港と中国』『台湾の前途』『新秩序を求める世界』ほか。