台頭するインド

―その対外関係の変遷と経済発展

元インド大使 小林 俊二

 

―――戦後,国際政治の舞台において第三世界の中核としての役割を果たしてきたインドですが,インドをめぐる国際情勢は今日まで目まぐるしい変化を遂げてきました。最初に分離独立から冷戦終結までの間におけるインドの対外関係の推移ついてお伺いできればと思います。

 第二次大戦後独立を達成したインドは,カシミール問題をめぐるパキスタンとの対立という火種を抱えながら,米ソいずれの陣営にも与しないことを建て前とする「平和外交」を展開し,反植民地主義を提唱して第三世界の形成に指導的な役割を果たしてきました。第三世界の指導者としてネルー首相の国際的勢威が頂点に達したのは,1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)だったといえます。

 しかしその後1960年代に入り,チベット問題をめぐる中印関係の悪化がインドの国際的地位に変化をもたらし始めました。59年3月のチベット独立宣言と反中国暴動を契機として中国がチベットに対する直接支配を強化すると,インドはチベットに同情的な態度を示し,中国政府を刺激しました。そればかりではなく中印の間に位置し長年緩衝地帯の役割を果たしてきたチベット自治区が北京の直轄統治の下におかれることになった結果,両国は長大な国境線をはさんで直接相対峙することになったのです。国境線をめぐる軋轢から59年8月には両軍の間に最初の武力衝突が発生しましたが,62年10月,中国軍が突如東西両方面で中印国境を越え大挙インド領内に侵攻し,インド軍は総崩れとなりました。中印戦争の勃発です。インドは中国との対立が先鋭化しつつあったソ連に急接近しましたから,インドの非同盟・中立という旗印は急速に色あせ,第三世界での指導的地位も後退することになりました。その上64年5月には建国の父として信望を集めていたネルーが失意のうちに死去し,インドは混迷の時代を迎えることになりました。

 この状況に乗じてカシミール問題を有利に解決しようとしたパキスタンの策動によって,65年9月に第二次印パ戦争が発生しましたが,事態はパキスタン側の期待したようには展開せず,やがて膠着状態に陥ったため,ソ連の仲介によって休戦が成立しました。パキスタンではこれを契機として政変が生じ,その後も政情不安が続きましたが,中央政府が東パキスタンの自治拡大要求の処理を誤ったため独立運動に発展しました。その上独立運動を武力弾圧によって鎮圧しようとしたことから,東パキスタン情勢は大混乱に陥り,隣接するインド・西ベンガル州などへの大規模な難民流出が始まりました。この情勢を見て武力介入による東パキスタンの独立支援を決意したインディラ・ガンディ政権は,中国の介入を牽制するため71年8月,ソ連との間に平和友好協力条約を締結しました。その結果インドは事実上ソ連の軍事同盟国となったのです。71年12月,インドの東パキスタンへの軍事介入により第三次印パ戦争が発生しました。間もなくパキスタン軍が降伏したため,東パキスタンはバングラデシュとして独立を果たしました。南アジア亜大陸におけるインドの影響力は一段と増大したといえます。

 79年12月にソ連がアフガニスタンに武力侵攻を開始し,アフガニスタンはパキスタン経由で米国および中国の武器援助を受ける反ソ武装勢力各派とソ連軍との攻防の舞台となりました。この事件によってパキスタンは一躍ソ連に対する西側陣営の前線国家となり,米国を始めとする西側諸国の経済・軍事援助の恩恵に浴するようになりました。他方,インドの協力を得たソ連海軍艦艇のインド洋におけるプレゼンスが著しく増大し,南アジアには米中パに対する印ソの対立構造が歴然たる姿を現わすことになったのです。
この時期のインドは国内においては保護主義的な統制経済体制を維持しており,対外政策においては対ソ関係を何よりも重視する姿勢を固めていましたから,経済開発援助を除けば政治的にも経済的にも日印関係を発展させる余地はほとんどありませんでした。

―――冷戦の終焉とそれに続くソ連の崩壊はインドにどのような影響を及ぼしたのでしょうか。その間の状況についてお話しください。

 ソ連が冷戦戦略を放棄したことによって,インドは対外関係の抜本的な建て直しを強いられる結果となりましたが,その間にインドが陥った混乱を象徴するエピソードがあります。1991年8月にモスクワで保守派によるクーデターが発生しました。保守派は構成共和国の自治権を極限まで拡大することによって連邦の解体を回避しようとしていたゴルバチョフの企図に不満を抱き,これを阻止しようとしたのです。クーデター発生の報せを受けたラオ首相は明確な口調で保守派に同情的な発言をしました。ソ連の冷戦戦略からの離脱によって対外政策の根本的な転換を余儀なくされた上に,ソ連経済の混乱によりソ連に対する経済的依存からの脱却を強いられ,二重三重の困難に直面していたインド政府としては,ソ連が旧路線に復帰することを好都合と考えたのも無理はなかったのです。ところがクーデターは3日で潰え,クリミアの保養先で軟禁されていたゴルバチョフは,迎えの航空機でモスクワに戻りました。ゴルバチョフは職務に復帰するや直ちに各国首脳に電話で連絡し,クーデターの失敗と自分の健在を告げました。しかし同盟国であるインド首脳に対しては一言の挨拶もありませんでした。ラオ首相の発言に不快感を募らせた結果であることは明瞭でした。

 これより先,インド経済は湾岸危機(1990年8月)の湾岸戦争への発展(91年2月)によって重大な困難に直面していました。かねてからインド経済は,ソ連およびイラクとの間の三角貿易に大きく依存していました。すなわちソ連のイラクに対する武器の供与,イラクのインドに対する石油の供給,インドのソ連に対する消費財の輸出です。これによってインドは米ドルなど交換可能外貨を使用することなく石油を入手するとともに,消費財製造工業の輸出市場を確保していたわけです。しかしイラクのクエート侵攻に対する国連安保理の全面経済制裁決議によってイラクとの輸出入取り引きが禁止された結果,インドは他の産油国からドル決済によって石油を輸入せざるを得なくなりました。同時に湾岸危機が深刻化する中で多数のインド人出稼ぎ労働者が職を失って帰国を余儀なくされ,本国へのドル送金も激減しました。

 加えてソ連との間の二国間協定で行なわれていたルピー・ルーブル貿易も,ソ連の経済不振に伴う対印物資供給の停滞によっていたずらにインドの対ソ債権を増大させるのみとなり,やがて事実上機能を停止しました。ソ連市場を失ったインド工業製品は,共産圏諸国以外では国際競争力をもっていませんでしたからこれに代わる市場を見出だすことができず,輸出が減少する一方で輸入のみが急増を続けました。このため外貨準備高が急激に低下し,91年半ばには輸入額の2週間分に相当する10億ドルを下回るにいたりました。こうしてインドは独立以来初めてのデフォルト(債務不履行)が不可避と見られる状況に陥りました。

 コングレス党(インド国民会議派)が政権に復帰したのは,こうして発生した外貨危機のさなかでした。危機打開のためにはIMF(国際通貨基金)からの融資が不可欠でしたが,前政権下で半年分の予算しか成立していないという異例の事態のためコンディショナリティ(融資条件)を満たすことができず,早急には望み得ない状況にありました。マンモハン・シン蔵相(現首相)はルピーの切り下げ,事実上の輸入の全面的停止,準備資産である金の売却など一連の非常措置を矢継ぎ早に講じましたが,このとき日本が供与した足の早い緊急借款3億ドルとアジア開銀の協調融資1.5億ドルは,インドが危機を切り抜ける上に大きな役割を果たしました。マンモハン・シン蔵相が当時大使としてニューデリーに在勤中であった私に深甚な謝意を表明したのはいうまでもありませんが,その後も日本の要人との会見など事あるごとにその際の支援に対する感謝の言葉を繰り返していました。

 同蔵相が同時に着手した経済自由化政策は,それまでライセンス万能であった保護主義的経済体制の根本的な変革を目指すものであり,インドを取り巻く新たな国際環境の下で経済を立て直すためには他に選択の余地のない施策でした。改革の中核を成したのは輸入貿易と内外投資の自由化でしたが,特に最初の2年間に顕著な進展を見せました。それにつれて日本の経済界のインドを見る目も変わり,日本から多数の視察団が相次いでインドを訪問するようになりました。視察団の数の割には日本企業の対印投資や進出が急速に伸びたわけではなく,活発な対中投資の伸びとは対照的でしたが,近年にいたりその差は漸次縮まる傾向を見せています。

―――近年,米国の対印政策の転換によりインドの国際的地位は様相を一変したように思われます。米国のインドに対する政策の変化についてお話し願います。

 冷戦の終焉とこれに続くソ連の解体はインドを取り巻く国際環境を一変させました。これによってインドは,経済関係のみならず政治的にもそれまでのソ連一辺倒の姿勢を捨てて中国との関係正常化および米国など西側との関係強化に努めざるを得なくなりました。中国側の対応もあって中印関係の正常化は急速な前進を見ましたが,インドの国際的な地位に最も大きな影響を及ぼしたのは,冷戦期間中冷たい態度でインドに接していた米国がその姿勢を改めたことです。すなわち米国はソ連軍のアフガニスタン撤退と同時にパキスタンに対する肩入れを停止し,印パに対して等距離を保つという伝統的な方針に復しました。しかしクリントン政権末期にいたって南アジア政策を転換し,インドをこの地域の中核として重視する政策を打ち出しました。同時にカシミール問題の現状維持を前提とする印パ関係の安定化に向けて両国に対する働き掛けないし圧力を強めるようになりました。米国が南アジアに対する関与を積極化する契機となったのはインドおよびパキスタンの核実験(1998年)であり,06年夏のカシミール・カルギル地区における武力衝突と印パ関係の緊張でした。この方針は次のブッシュ政権にも引き継がれて今日にいたっています。

 米国の政策転換の背景には,核問題に加えて中国の影響力の増大があるといえます。すなわち政治改革を棚上げしたまま,いい換えれば共産党独裁体制を維持したまま急激な経済成長を続ける中国に対して,アジアにおける均衡要因としてのインドの役割を重視したのです。その流れの中で米国は,インドの核兵器保有を事実上容認する一方,インドの民生用核施設をIAEA(国際原子力機関)の査察の対象とすることなどを条件に民生用原子力事業に対する協力を行なう方針を表明しました。この方針は両国首脳の相互訪問を通じて両国政府間の合意となりましたが,その後米印原子力協力法案が米国議会両院を通過・成立して(2006年12月),問題はIAEAやNSG(原子力供給国グループ)における討議,さらに米印協定締結交渉に委ねられることになりました。

 NPT(核拡散防止条約)体制の維持という観点からいえば,インドの核兵器保有の事実上の容認がマイナスであることは否定し得ません。しかし核不拡散という側面から考えれば,インドが非核保有国に対して核物質や核技術を横流しする理由は政治的にも経済的にもないといえます。この点は北朝鮮やリビアと闇取引きをした前歴を有するパキスタンとは大きな違いであり,米国も重視した点であると見られます。日本もそうした事実を理解しているものの,NPT上の非核保有国であるインドを特別扱いすることの重大性から結論を出しておらず,06年12月のマンモハン・シン首相訪日の際にも「検討中」という態度を示すに留まりました。ただし長期的な戦略的視点から見ればインド重視に転換した米国の認識は多分に日本が共有するところでもあります。政府としては米印協定交渉の成り行きを見定め,NSGやIAEAにおける審議を通じて落としどころを探っていくものと思われます。

 なお東アジアの戦略バランスの視点に立つインド重視の方針は,日本がインド,オーストラリア,ニュージーランドを含む東アジア首脳会議(EAS)の実現に主導的な役割を果たしたことに反映されています。第一回EASは2005年12月にクアラルンプールで開催されました。安倍政権はさらに進んで政治的価値観の共有を基盤とするアジア・太平洋諸国,具体的には日米印豪の結合を推進したいと考えているようであり,06年12月のシン首相訪日の際,これら諸国間の対話の有益性を相互に確認するとともにその具体化について協議することを合意しました。

―――昨今,アジア地域では経済成長の著しい国家として中国とインドが注目を集めています。両国の間には経済成長をめぐる情勢に何か大きな違いがあるでしょうか。

 中印両国間の国内情勢の上での相違として最も目につくのは政治体制の問題です。中国の場合には,天安門事件を契機として 小平の決断により政治改革を棚上げし,1978年に着手した経済改革の推進に専念する方針に踏み切り,経済建設一筋に今日にいたっています。この方針は成果を挙げ,特に海外からの投資の急増による製造工業の発展と輸出の拡大を通じて高い経済成長を実現してきました。その反面,国内における地域的経済格差の増大,富の分配の不均衡,汚職の蔓延などの問題が深刻化しました。これに起因する社会不安を抑えるためにも共産党独裁体制の維持は不可欠と考えられている様子であり,棚上げされた政治改革に手をつける兆しは見られません。

 しかし政治改革という課題を未来永劫棚上げしたままにしておけるのか否かが,中国の将来をめぐる最大の問題といえます。経済成長の歪みから生じた人民の不満に加えて,政治的社会的自由を求める気運の増大が体制の変革を余儀なくする事態に立ちいたる可能性はないか。そのような事態が生じたとき,流血や混乱なく軟着陸を実現することが可能かどうか。国内の混乱を収拾するために人民の関心を外に向けようとして,中国が対外的緊張を増大させる挙に出る可能性はないか。こうした問題は,日本を含む近隣諸国の安全に関わる問題であるばかりでなく,中国に対する投資をめぐって海外の投資家が念頭におかざるを得ない点であり,中国経済の将来にも大きな関わりを有する問題です。  

 一方,インドについていえば,政治体制の面では議会制民主主義が独立以来今日まで継続して機能しています。選挙による政権の交代が幾度となく行なわれています。パキスタンとは違ってインドではクーデターによって政変を生じた例が一度もありません。このことは政情の安定を意味するものではありませんが,憲法体制や政治制度が安定しているということはいえます。

―――インドの経済発展上の課題としてはどのような問題があるでしょうか。

 独立以来インド経済は社会主義的な中央統制経済(コマンド・エコノミー)体制の下で運営されてきました。その行き詰まりは経済の停滞や外貨危機という形でかなり早い段階から露呈されていたのですが,冷戦期間中はソ連の支援などによって抜本的な改革に訴えることなく局面を糊塗することができました。しかし冷戦戦略から生じた過大な財政負担と生産性の伸び悩みによって,ソ連経済自体が行き詰まりに逢着したことから,インドに対する様々な支援や優遇策も継続不可能となり,インドは投資や輸入の自由化を中心とする経済改革に踏み切らざるを得なくなったわけです。

 近年,インドはIT産業の目覚ましい発展で国際的評価を高めてきました。インドがIT分野で急速な発展を実現できたのは一つにはこの分野の事業が道路,港湾,鉄道といった経済インフラ整備の遅れによって阻害されることがなかったことにあるといえます。IT分野におけるアウトソーシングに対応する事業は,電話回線さえあれば受注とサービスの提供が可能であり,インフラの不備とは関わりなく急成長を遂げることができたのです。しかしIT産業が雇用し得る人口は600万人内外といわれており,インドの労働人口全体に占める割合は微々たるものに過ぎません。国民全体を潤す経済成長のためには製造業の発展と農民の経済的向上が不可欠です。歴代政府は製造業の発展を阻害しているインフラ整備の遅れを取り戻すために努力を払っていますが,未だ目標の達成には程遠い状況にあります。

 すでに述べたとおり,インドの経済改革は貿易と投資の自由化を中心として大きな進展を見,成果を挙げてきましたが,未だに改革の課題としてとり残されているネルー以来の保護主義的経済体制の残滓が少なくありません。その一つは工場労働者に対する過度の法的保護です。フランスでも最近の大統領選挙で争点となったようですが,インドでは長年,経営者が労働者を雇用(hire)することは自由だが,馘首(fire)する自由はないといわれてきました。インドでは一定規模以上の企業の場合,当局の許可がなければ,労働者の解雇を伴う工場の閉鎖などができないのです。こうした過度の労働者保護立法は,特に海外投資家がインド政府に対して是正を要する問題として指摘してきたところであり,当局も早くから是正の必要を認めているのですが,労働組合や左翼政党の強硬な反対のため実現を見ていません。もう一つの残された課題は金融機関を含む国有企業の民有・民営化です。この問題も組織労働者の抵抗が進展を妨げています。

 コングレス党主導の現政権を率いるマンモハン・シン首相は,91年以降,蔵相として経済改革の担い手を勤めたテクノクラートですから,積み残された改革の課題に取り組む必要は十分以上に承知しているに違いありません。しかし,現政権は多数の政党の連立政権である上に共産党の閣外協力を受けて下院議席の過半を維持している状況にあり,各方面からの制約によって手足を縛られ,実行力の不足を批判されているのが実情です。 

 私は経済の専門家ではありませんが,インド国民経済発展の最大の問題は貧富の甚だしい格差にあると思っています。貧富の格差は独立当初から顕著でしたが,近年の活発な経済成長の過程で一層拡大しています。中産階級が増えて消費財製造工業やサービス産業に魅力的な市場を提供しているのは事実ですが,最下層,特に労働人口の過半を占める土地なし農民は旧態依然たる貧しい生活を強いられています。この問題は潜在的な社会不安の要因であるばかりではなく,経済の発展そのものの制約要因となるのではないかと思います。

 インドにおける貧富の格差が縮小しないのは税制や社会福祉施策が富の平準化という機能を果たしていないからであり,効果的な農地改革が行なわれていないからであると思われます。その理由は既得権層の有形無形の牢固として抜きがたい抵抗にあるといえるでしょう。しかし正直なところ良く理解しかねることもあります。たとえば西ベンガル州では長期にわたり共産党が州政権を担当しています。その原因は共産党政府が徹底した農地改革を実行し,農民の強い支持を得てきたことにあるといわれます。それならば西ベンガルでは農民一般の生活水準が顕著に向上し,貧富の格差が縮小しても良さそうなものですが,実際にはそうとはいえないようです。それは何故なのか。未だ納得のできる説明に接していません。

―――最後に,インドの将来に対する展望と日本の対印外交のあり方についてお伺いしたいと思います。

 インドの社会的経済的な安定的発展のためには最貧層の生活水準の向上が不可欠であると思います。一朝一夕には実現し得ないことですが,議会制民主主義がともかくも機能しており,実際に前回総選挙(2004年)でBJP(インド人民党)が政権を失った原因が経済的下位階層,なかんずく一般農民層に経済成長の恩恵に浴させる手当てを怠ったからであると分析されているという事実があります。こうした事実は,時間はかかっても,また紆余曲折はあっても,インドが全体としてその方向に動いていくことを期待させるものであるといえます。

 他方,中国の影響力の増大とその行動を常時念頭におかざるを得ない日本にとって,インドは東アジアにおける戦略バランス上のパートナーとして重要な存在になりつつあります。留意しなくてはならないのは,冷戦終焉直後の混乱状態とは裏腹に,米中ソを含めすべての主要国が対印関係の緊密化に意を用いるようになった現在,インドを取り巻く国際環境は,インドにとって甚だ居心地の良い状況にあるということです。印中間で最大の懸案は国境問題ですが,すでに一連の信頼情勢措置が実施に移されており,国境問題解決の基本原則についても合意を見ております。中国を無用に刺激するような形で他の主要国との結びつきを強化することを,インドが得策ではないと考えるのは当然といわなくてはなりません。とはいえインドの国防計画上,中国が引き続き第一の潜在敵国であるのも事実であり,その背後には中国情勢の将来に内在する不安定要因に備える必要に対する認識があると思われます。したがってインド側にも戦略バランスに考慮を払う必要は存するのであり,相互に受け入れ可能な形で政治的提携関係を強化する余地とその意義は少なくないというべきです。
(2007年4月27日)