「対テロ戦争」の行方

―テロはなぜ起きるか

東京外国語大学准教授 飯塚 正人

 

1.「テロ」との戦争

  2001年9月11日の米国同時多発テロ事件以降,米国は世界の国々に呼びかけて対テロ戦争を始めた。その後,中東情勢が混迷した背景には,この対テロ戦争の一環として03年に米国が始めたイラク戦争が,戦後処理において泥沼化し,てこずってしまったために,米国の世界戦略に支障が出ていることがある。

 9.11事件以前の米国は,中東諸国からどのように見られていたのだろうか。イラクのフセイン大統領をはじめ,中東諸国は,「米国は世界最強の軍備をもっていながらも容易には戦争をすることができない国だ」と考えていた。例えば,海外での戦闘で米国兵士が10人戦死した場合,米国内では反戦運動が盛り上がってそれ以上戦争が継続できなくなる(実質的に戦争遂行不可能)。したがって米国は怖くないと思われていたのだが,9.11事件以降,米国は,対テロ戦争の枠内であれば,多少の犠牲を出しても戦争をすることができる国へと生まれ変わった。そのような米国に逆らうためには核兵器で対抗しない限り難しいので,各国とも米国に対しておとなしくしていた。

 ところが,その後イラク問題に足をとられた米国は,再び戦争のできない国と見られるようになってしまった。イラクから撤退しない限り,次の戦争を始めることが難しいのは,誰の目にも明らかだ。米国は対テロ戦争をはなばなしく展開したが,イラク戦争の結果,これ以上新しい戦争ができない,行動の自由がない状態に陥ってしまった。

 ところで,テロがよくないことを否定する人はいないが,実は,「テロ」の定義は政治学では不可能とされている。一般的認識のレベルで言うと,テロとは非戦闘員である一般市民を相手に行う(殺傷)行為となるが,それだけでは話は済まない。例えば,国家が他国の一般市民に対して(殺傷)行為を行った場合,それをテロと呼ぶべきかどうかが問題となる。よく「(北朝鮮問題で)拉致はテロだ」と主張されることがあるが,この場合は北朝鮮という国家がテロの主体と考えられている。しかし,国家もまたテロの主体になり得るのだとすれば,戦後のイラクで一般市民を誤射する危険のある米国自身がテロ国家として非難されかねない。このため,米国は国家の行為はテロとは呼ばないことにしている。国家はあくまでテロを支援するだけ,という立場だから,「テロ支援国家」という表現になるのだ。

 しかし,「一般市民を狙った,非国家組織による(殺傷)行為」という米国流のテロの定義が世界中で受け入れられているわけではない。イスラーム教徒の間ではむしろ,イラクでの米軍の行為をテロとみる立場が圧倒的に有力である。対テロ戦争には誰も反対しないが,敵が誰なのかははっきりしない。これは,対テロ戦争の抱える大きな矛盾といえるだろう。

 2.なぜ対米テロが起きるのか

  日本で猟奇犯罪や重大事件が起きたときの一般的対応と比較して,9.11テロ報道の抱えていた問題を考えてみよう。一般の事件への対応は次のようである。事件のマスコミ報道→犯人逮捕→犯人の動機供述→真の動機の分析。これを9.11事件に当てはめてみると,実行犯は皆自爆したので彼らの自白は聞くことができない。よって,黒幕とされるウサマ・ビンラーディンが米国を狙う動機についての自白が問題にされるべきところだが,彼の動機供述(自白)の検討はほとんどなされなかった。事件直後に,ブッシュ大統領が「テロリストたちは,米国の民主主義が憎いからテロ事件を起こした。彼らは対話不可能な連中だから,民主主義者はテロリストと戦わなければならない」と議会演説し,それが世界に流布され,民主主義への憎悪がテロリストの動機だと広く信じられるようになった。

 米国の為政者たち,特にネオコンの人びとは,「イスラーム教徒も民主主義がいいと考えているに違いない。テロリストはごくわずかな勢力だ」と考えていた。ところが,米国主導の対テロ戦争によって,01年以来,多くのテロリストが拘束・殺害されてきたにもかかわらず,テロリストの数は一向に減っていないように見える(注1)。それどころか,9.11事件当時はおそらくテロリストではなかった英国在住のパキスタン系イスラーム教徒が,ロンドンの地下鉄・バスで爆破事件を起こしたこともあった(05年7月)。

 なぜテロリストが次々に生まれるのかを考える場合に,まずウサマ・ビンラーディンの自白などを検証してみる必要がある。彼の主張は次のようである。「イスラーム教徒は,世界中で追い詰められ攻撃され,虐殺されており,自分たちの身は自分たちで守らなければならない。ちょうどユダヤ人がヒトラーによって絶滅されかけたように,イスラーム教徒もそうなりかねない。生き残るために各員は武装して立ち上がれ」と。つまり,彼の言い分によれば,アルカーイダは「自衛の戦争」をやっていることになる。

 この主張(自白)が果たして本音かどうかは,実のところ不明だが,より重要な点は,この主張が一般のイスラーム教徒の共感を得ているという事実である。もちろんそうした被害者意識を持っていても,すぐにテロリストになる人間はかなり少なく,コンマ以下の割合だと思われる。ただ全世界にイスラーム教徒は約14億人いるので,その中の壮年男子に限って0.01%と仮定しても5万人が即テロリストとなる計算だ。

 この数字はそれなりに深刻だが,多くのイスラーム教徒が被害者意識を抱いているとなると,テロリスト予備軍の数はこれよりはるかに多くなる。そして,一般イスラーム教徒にテロリストの「心情」を理解させてしまうのが,次に述べるジハードの論理なのである。

(1)古典イスラーム法学におけるジハード論
 05年7月に英国ロンドンの地下鉄とバスで同時多発テロが発生したが,その直後に英国に居住するイスラーム教徒に英国の新聞社「ガーディアン」紙がアンケート調査を行った(英国在住のイスラーム教徒は約300万人)。「ロンドン地下鉄同時多発テロの実行犯の気持ちが理解できるか?」と問いかけたところ,75%が「理解できる」と回答している。

 ここでわかることは,ビンラーディンが言うように「追い詰められ攻撃されている」と感じているイスラーム教徒は,中東地域に限定されないという事実である。ヨーロッパのイスラーム教徒は,その国に生まれ,市民権を持ち,ヨーロッパ人と同じような教育を永年受けてきたのに,就職しようとすると差別待遇を受けることが多い。このような境遇がビンラーディンの主張に一般イスラーム教徒が共感する心情的な基盤となっている。

 多くのイスラーム教徒が「攻撃されている」と感じれば,それによって「自衛」の論理が正当化され,一般イスラーム教徒をして,新たな対米テロに走らせる原因・温床にもなる。

 昔からイスラーム法は神の命令であり,それに従うことはイスラーム教徒の義務だと考えられてきた。古典イスラーム法学におけるジハードとは,不信仰者(=非イスラーム教徒)に対する戦い,および不信仰者を撃退するために生命・財産・言論を捧げることである。ジハードといったときに,自分が兵隊になることだけでなく,財産を捧げることもジハードとみなされるので,テロリストに対する寄付・資金提供もその範疇に含まれることになる。また「言論を捧げる」とは,「不信仰者」との戦いに出るよう呼びかけたりすることである。ポイントは,ジハードの対象が非イスラーム教徒に限られることである。

 「ジハード」という言葉がもともと努力する(jahada)という動詞から派生したために,この言葉には「努力」という意味しかないと主張されることもあるが,イスラームの歴史の最初から,ジハードは「戦争」という意味で使われていた。そして時には戦争を正当化することもあった。

 ジハードの目的は二つあって,第一が,イスラーム法が支配する法治国家の樹立と拡張(侵略戦争を含む),第二が自衛戦争である。イスラーム初期の歴史を見ると,イスラームの教えを周囲に言葉で平和的に広めた結果として中東全域に拡大したのではなく,戦争によって支配領域を拡大しながら,被征服民が自発的にイスラームに帰依することでイスラーム世界が形成されてきた。ゆえに最初は侵略戦争によって拡大したことになる。

 古典イスラーム法学の教えに従えば,こうした侵略戦争はカリフ(注2)が指揮者となり,その命令なしには遂行できないことになっている。この戦いには成人イスラーム教徒男子の参加が推奨される。ところが,1924年にカリフ制をトルコが廃止したために,現在はカリフ不在の状態になっている。すなわち指揮者が不在なので,厳密なイスラーム法の解釈によれば,第一の目的を実現するための侵略戦争は遂行できない。こうした教えに基づき,ビンラーディンも「侵略戦争をやる」とは一言も言っていない。

 言いかえれば,彼らが主張するジハードは,第二の,異教徒の攻撃に対する防衛戦争なのである。これは成人男子全員の義務であり,たとえカリフが不在でもイスラームの家(イスラームの土地)を守ることは義務であるとの教えに従って,ビンラーディンをはじめとする原理主義者たちは,テロ(ジハード)を指揮し実行していると主張している。

 イスラーム原理主義者たちは,米国のみならず,イスラエル,ロシア,中国,インド,フィリピンなどでもテロを行ってきた。これらすべてが自衛戦争なのだ,と彼らは主張する。イスラエルの場合は,元来イスラームの土地であるパレスチナを不当に占領している異教徒ユダヤ教徒(イスラエル)に対する防衛戦争とされ,ロシア・チェチェン,中国・新疆ウィグル自治区,インド・カシミール,フィリピン南部島嶼地域などでのテロも,彼らの主張によれば,あくまで自衛戦争である。この中で米国が最大の標的とされるのは,米国がイスラエルを支援・支持し,イラクを占領しているとみなされている上に,イスラーム教徒の間でパレスチナ・イラクのアピール度が非常に高いためであろう。

 イスラームの教えに従ってまじめに生きようとするイスラーム原理主義者たちが,防衛戦争としてのジハードをやり始めたことが,テロの出発点であった。

 70年代末から80年代にかけて,ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したとき,イスラーム原理主義者たちはアフガニスタンの「同胞」を助けにはせ参じた。実際,ビンラーディンもサウジアラビアからアフガニスタンに「同胞」を助けるために戦いに行った。それは最初,いささか奇妙なことに思われた。20世紀前半,トルコやエジプトなど中東地域の人びとにとって,アフガニスタンは「非常に野蛮な国」という認識が一般的だったからである。にもかかわらず,中東地域のイスラーム原理主義者がアフガニスタン「同胞」を助けに行ったのは,特に70年代以降,アフガニスタンのイスラーム教徒との間に強い同胞意識が形成されていたからにほかならない。そして,その根底には,防衛ジハード思想の普及があった。

(2)現代におけるジハード論の復活
 中東地域のほとんどは,19世紀から20世紀にかけて西欧列強の植民地となった。この期間を通じて,イスラーム教徒は「ジハード」の教えを忘れ去っていたとみていいだろう。しかし,1973年の第四次中東戦争(オイルショック時)が決定的な転機となって,ジハード論が復活・普及した結果,イスラーム教徒の同胞意識も著しく強化されることになる。

 それ以前,エジプト・ナセル大統領などのアラブ陣営は,「イスラエルは独立国と言っているが,本当は欧米が中東地域を支配するための橋頭堡(植民地)である」と主張し,「反帝国主義闘争」を,イスラエルと戦うための論理に掲げていた。ところが,第四次中東戦争でエジプトのサダト大統領は,そのような論理ではなくイスラームの土地を侵略する異教徒との戦い,すなわち「ジハード」として対イスラエル戦争を宣伝し始める。

 このことがマスコミの報道によってさらに広まり,それまでほとんど忘れられていた「ジハード」の思想がイスラーム世界全体で復活・普及し始めた。そしてそれは「イスラームの支配地」を問題にすることで,イスラーム教徒の同胞意識を著しく強化していく。

 79年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると,ソ連軍と戦う,東のジハード戦線が形成された(〜89年)。西側諸国はパキスタンを拠点にソ連軍へのジハードを推奨・支援した。当時すでにジハードの教えを忘れていたアフガニスタン難民に,「異教徒の侵略に抵抗するのは,イスラーム教徒の義務だ」という考えを吹聴したのは,実のところパキスタンと米国である。アフガニスタンには各地から義勇兵が結集し,その中からやがてアルカーイダが組織されることになる。

 82年にはイスラエル軍が南レバノンに侵攻し,西のジハード戦線が形成された。南レバノン在住のシーア派が,イスラエルの占領に立ち向かう過程で生まれたのが,ヒズブッラーである。そのほか,パレスチナではハマースやイスラーム聖戦も組織された。

 このような中90年代になると,ジハードは一般のイスラーム教徒にとって珍しい思想ではなくなった。イスラームは個人の心の問題であって政治にかかわってはいけないと主張していたイラクのフセイン大統領までもが,湾岸戦争に際して「異教徒が攻めてくるのを防ぐのはイスラーム教徒の義務,防衛ジハードだ」と宣言した。

 このようにして,ここ30数年の間にジハードの思想がかなり広範囲に普及した結果,異教徒との紛争や独立闘争など,イスラーム教徒の関わる戦闘のほとんどが「防衛ジハード」として一般に認知されるようになった。マスコミも各地の紛争を「同胞」の苦難として重点的に報道するようになり,イスラーム教徒の同胞意識が自然と強化されていく。以前は,そこにイスラーム教徒が住んでいることさえ,中東の人びとの多くが知らずにいたボスニアでの内戦(90年代)にまで関心が向けられ,そこに出撃する者まで現れた。

 2003年3月には,スンナ派イスラーム教学の最高峰アズハル機構(カイロ)のタンターウィー総長が,「イラクはイスラームの土地であり,異教徒の軍が侵攻した場合,それに対して防衛ジハードを行うことは成人イスラーム教徒の義務である」と呼びかけた。すなわち,米英軍の侵攻に対してテロを行え,という呼びかけである。アズハル機構はエジプトの国家機関であり,その総長は国家公務員なので,対米関係を考慮すると,エジプト政府としてはこのようなことは言って欲しくなかったと思われるが,一般イスラーム教徒の気持ちを納得させるためには,こうした呼びかけを行わざるを得なかったに違いない。

(3)イスラーム教徒青年が反米テロリストになる理由
 「ニューズウィーク」誌は,9.11事件以前からアルカーイダを追跡調査しており,ウサマ・ビンラーディンの同志や部下などにも継続的にインタビューをしていた。その同誌が,9.11事件直後に,次のような報道を行っている。

 「多くの若者にとって,テロリストへの道は自宅のテレビから始まる。ボスニア,チェチェン,カシミール,パレスチナ。若者たちはテレビ画面に映し出された光景を見て,イスラム教徒が世界各地で追い詰められ,虐殺されていると確信する。宗教的熱情に駆られた彼らは,地元のモスクやインターネット上でイスラム防衛の誓いを立てる。そのなかには,(中略)飛行機代を工面してペシャワルへ向かう者もいた。」(「ニューズウィーク」日本版2001年9月26日号,C.ディッキー中東総局長)

 ここに出てくる若者はイスラーム原理主義者などではない。彼らは,イスラームの教えに従い,イスラーム法に則った「イスラーム国家」を作ろうなどという考えとは無縁である。テレビ画像を通してイスラーム教徒同胞への迫害の事実に接し,同胞を守るために自分自身が立ち上がって,アルカーイダに入る。つまり,単に「自衛」というビンラーディンの動機に共鳴しているだけなのである。ウサマ・ビンラーディンなど組織のトップは,間違いなくイスラーム原理主義者だが,義勇兵としてアルカーイダに入る若者は違う。

 この観点からテロ撲滅の方法を考えてみると,一つにはイスラーム教徒が虐待されている映像を流さないという方法があるだろう。戦争ではときに誤爆によって一般市民が犠牲になることもあるが,その生々しい映像や情報に接して立ち上がる者が出てくるのを防ぐ方策である。しかし,報道規制はもともと困難な上に,そうした隠蔽体質がイスラーム教徒の怒りに油を注ぐ危険もある。そこでもう一つの方法として,イスラーム教徒が世界中で追い詰められ虐殺されていると考えないで済むような環境の整備・改善が考えられる。

 英国のジェイソン・バーク記者の著書には,次のように記されている。

 戦争屋の西側がイスラム世界を辱め,分裂させ,支配しようとしている,という知覚は,相対的貧困や政府による抑圧と同じように,ムスリムの暴力の根本的な原因なのである。過激派たちは,かれらの社会,文化,宗教,生活様式が生き残るための,最後の戦いをしていると信じている。かれらは,十字軍は決して終わっておらず,自分たちは自らを守るための絶望的戦争をいま戦っているのだ,と信じているのだ。かれらは,西側の私たちもそうであるように,自衛行動なら,他の状況では認められないような,あらゆる戦術の使用も正当化されると理解している。われわれもそう考えているように,生命と社会そして文化を守るために戦っているのだと,かれらは信じているのだ。」(ジェイソン・バーク『アルカイダ――ビンラディンと国際テロ・ネットワーク』講談社,2004年,p.429)

 ここに「自衛行動なら,他の状況では認められないような,あらゆる戦術の使用も正当化されると理解している」とあるように,もし彼らに核兵器が渡れば,躊躇なく使用する可能性が高い。テロリストがイスラーム原理主義者であれば,大量破壊兵器を入手した場合でも必ず「神の意思」を問うので,使用前にブレーキがかかる可能性があるが,同胞意識に駆られて立ち上がった「ただの若者」は,目的遂行のためなら何でもやりかねない。

 実際,ブッシュ政権がイラク戦争に踏み切った最大の理由も,核兵器の拡散に対する恐怖であった。もしイラクが核兵器を開発してテロリストに渡しでもしたら,9.11事件の百倍以上の犠牲者が出る危険があり,それを恐れた。イランの核についても同様である。
一方,バーク記者は,ビンラーディンの説く「自衛」の論理が,一般イスラーム教徒にどれほど説得力をもっているかについて,次のように述べている。

 世界では善と悪の普遍的戦いが進行している,イスラムと,その教えである善行と正義を実践するムスリムたちが絶望的危機の中にあると考える,かれらの中心的な思想はいつも現実によって立証されている……ビンラディンの目的が,ムスリムの過激化と決起にあるならば,反テロ戦争に携わる者の目的は,それを阻止することにある。イスラム世界やその外の大衆紙,中東のモスクで行われる金曜日の説教をざっと見てみれば,またダマスカス,カブール,カラチ,カイロ,カサブランカ,いやロンドンでもニューヨークでも,スーク,喫茶店,ケバブレストランで二,三時間過ごしてみれば,どちら側の努力が成功しているかをはっきり知ることができる。ビンラディンが優勢なのだ。」(同上pp.407-408)

 つまり,イスラーム原理主義者が広めた防衛ジハードの思想が,一般に普及して報道も変わった結果,最近のテロはふつうのイスラーム教徒青年が同胞虐殺阻止のための戦闘を始めている状況にある。それゆえ前科がなく,事前に摘発することも難しい。このような青年は,ふつうモスクで礼拝もしない。実際,9.11事件の実行犯が事件の前に大酒を飲んでいたという事実もある。イスラーム原理主義者だけ監視しても,テロ対策としては無意味だろう。

 問題は,「攻撃(虐殺)されている」という認識が,イスラーム教徒一般に存在する事実である。それゆえビンラーディンを殺しても,第二,第三のビンラーディンが出てくるといわれることにもなる。

 9.11以降,アルカーイダは壊滅的打撃を受けてほとんど潰れたに等しいが,最近では,北アフリカ,イラクなどあちこちで新たな「アルカーイダ」が生まれている。アルジェリアのケースでは,もともと違うグループであったものが,「北アフリカのアルカーイダ」と名前を変えた(07年1月)。一般に,アルカーイダとは,トップにウサマ・ビンラーディンがいて,彼の指示で動いている組織だと思われているが,現在はそのような状態ではない。

 07年2月ごろ,「ヘラルド・トリビューン」紙に,パキスタンやアフガニスタンで再びアルカーイダが復活しつつあると報道されたが,それ以外の地域でもアルカーイダを自称する人たちが出てきた。その背景には,「アルカーイダ」を自称すると,周囲から認知され資金が集まりやすいなどのメリットがあるようだ。先に引用したバーク記者によれば,いまや「残っているのは『アルカイダ』のイメージだけだ。『アルカイダ』のメンバーだといえば,アルカイダなのだ」(同上p.432)。

 一方で,アルカーイダを名乗らないシンパのテロリストも生まれている。06年6月にカナダ当局が,摘発した「トロント爆弾テロ未遂事件」について,逮捕された容疑者はアルカーイダとは関係ないが,その思想に共鳴してテロを計画したと明確に発表したことからも,それがうかがえる。

 3.テロ解消の道

  テロをなくすために構想された米国の中東民主化政策は,最近ネオコンの勢力が弱まったこともあって,事実上棚上げ状態にある。対テロ戦争を遂行する過程において,エジプトやパキスタンの必ずしも民主的とは言えない親米政権を支援していかざるを得ないという現実的政策のためでもある。ブッシュ政権は,中東地域の民主化を進めるよりは,親米政権で対テロ戦争を推し進めて欲しいという方向にあるようだ。

 考えてみれば,もともと米国務省の政策は,親米政権であれば非民主的でも構わないというものであった。ブッシュ政権の時代には,民主化が政策の前面に出てきたが,過去の米国の外交政策に回帰したといえなくもない。

 ただし,ブッシュ政権がもともとどこまで本気で,中東の民主化を進めるつもりであったかは疑問がある。中東民主化の議論が出てきた最大のきっかけは,9.11事件であった。この事件の実行犯は,2名を除いて全員がサウジアラビア国籍であった。親米の国であるサウジアラビアからなぜ反米テロ分子が生まれたのかを考えたときに,「サウジアラビアには民主主義が不在であり,政治的要求を通すときにはテロをも辞さない文化がある。したがってサウジアラビアを民主化し,テロに甘い政治文化を撲滅すべきだ」というのが当初の発想であった。それがいつの間にか,民主化の標的はサウジアラビアからイラクに変わってしまい,イラク戦争が始まった。他方,サウジアラビア民主化の必要性は急速に忘れられつつある。このあたりが,どうも腑に落ちない。

 最後に結論を言えば,現状では,新たなテロリストを生む根本原因を解消できる見通しはまったくない。米国が反米テロ問題の解決を,「対テロ戦争」に依存し続けるかぎり,「テロ」は継続するし,「対テロ戦争」は簡単には成功しないだろう。これでは,「攻撃されている」というイスラーム教徒の意識が高まって,「自衛戦争」支持者が増えるだけである。

 それでは日本ができることは何か。中東イスラーム諸国では失業者が最大のテロリスト予備軍となっているので,彼らの失業対策が考えられる。やはり有職者は,いくら米国がけしからんと思っても,職と家族を捨ててまでテロリストになって外国に出ては行かない。圧倒的に失業者がテロリストになりやすい傾向がある。それゆえできるだけ失業者をなくす努力をし,彼らが家族を持てるようにすれば,かなり熱狂的・狂信的なイスラーム教徒でないかぎり,テロリストとなって戦いに行く者の数は減るだろう。この方法はもちろん抜本的な解決策ではないが,遠回りのようで意外に有効な手立てかもしれない。

 (2007年4月14日)

注1 2003年10月に米国国防総省高官に回覧したメモでは,ラムズフェルド国防長官自身が,「われわれが毎日逮捕したり,殺害したりしているテロリストと,新たに生まれてくるテロリストと,どちらの数が多いのか」と実感のこもった問いかけをしている。

注2 カリフとは,預言者ムハンマドの「代理人・後継者」を意味する語で,イスラーム共同体全体の元首。ムハンマドが亡くなったあと,弟子たちの合意でこの職位ができた。