中国の三つの国家戦略と日本の対

杏林大学元教授 平松 茂雄

 

1.はじめに

 中国は1949年の建国以来,一貫して国家目標を掲げ,それを達成するために国家戦略をもち国家の総力を挙げて着実に目標を実現してきた国である。しかも,国家戦略についていえば,1949年の国家建国の初期段階で,毛沢東というある種,天才的な戦略家の先見性において決定されたものだった。そして近年に入ると,国家目標の対象が「核・海洋・宇宙」という三領域に明確に焦点を定められ,それらがバラバラではなく,国家の総合力として有機的に機能し始めている。

 その中で,とくに核開発過程の分析は,現在の北朝鮮の核開発問題を考える上で,参考になる事例である。例えば,北朝鮮の現状を分析しながら多くの識者が「北朝鮮は核開発などできないし,早晩つぶれるだろう」と予測したが,実は今から40年前,中ソ対立や文化大革命の惨状を目にして中国の将来展望に関しても同様に「中国に核開発は無理だし,早晩国がつぶれるだろう」と予測する専門家が少なくなかった。しかし,実際に中国はつぶれることはなかったし,その間進めてきた核開発を成功させて,今日見るような世界の大国になった。もちろん北朝鮮に関して中国と同じように見るつもりはないが,中国における核開発の過程をよく分析することは,北朝鮮の核開発問題について考える上で示唆的だと思う。

2.中国の核開発

(1)戦略家毛沢東の先見性
 今から60年程前に中華人民共和国が成立(1949年)したころ,毛沢東の中国革命の根底にあった歴史観は,最盛期の清朝を中国の求めるべき理想像とし,中華帝国史上最大の版図を中国が持つべき領土だとするものであり,それが建国当初の中国のグランドデザインでもあった。つまり,「かつて強大国を誇った清朝がアヘン戦争などによって西欧列強に敗れ,国土が侵食されてしまったので,それをもう一度復興しよう」と考えたのであった。そのためには力,すなわち軍事力をもつことが重要だと認識した。

 中華人民共和国は,それまで中国の正統政府と認知されていた国民党政府を革命により倒して生まれた国家であったために,世界の多くの国からその正統性を認めてもらうことは難しかった。さらに,資本主義打倒を建前とする共産主義国家であったから,対資本主義陣営からの干渉戦争を回避するという安全保障は緊急の課題であった。さらに,朝鮮戦争では国連から「侵略国」の汚名を着せられ,国際社会から締め出される羽目に陥ることにもなった。

 とくに,国家成立直後の朝鮮戦争(1950-53年),続くベトナム戦争(1946-54年),2回にわたる国民党政府軍との台湾海峡での戦争(1954-55年,1958年)などにおいて,米国から核の威嚇を受けるという辛酸をなめた経験が,中国の国家目標と国家戦略を決定する大きな要因となった。

 こうした経験から毛沢東が得た教訓は,「核に対抗するには核しかない」ということであり,55年から56年にかけての時期に,通常兵器の近代化を後回しにして核兵器の優先的開発を決断したのであった。それと同時に米国の空母に対抗することを真剣に考えた。ただ,中国が米国の核によってどれだけ威嚇されたかということは,多くの人は知らなかったし,仮に知っていたとしても米国の核の絶対優位性を過信して中国を見くびっていた。現在の中国は,核保有国として世界の大国として米国も認める国になった。それはただ核兵器を保有したことに尽きる。

 一方,同時期の日本は,1954年に防衛庁が設置され,警察予備隊から自衛隊と名称が変更された。またヨーロッパでは1955年西ドイツ(当時)が再軍備を始めた時であった。日本は日米安保におんぶしてもらって「戦力なき軍隊」と揶揄されるほどの自衛隊をもち,非核三原則と日米安保に依存する防衛で,安全保障には金をかけずにひたすら経済成長の路線を歩んできた。その結果,日本は世界に冠たる経済大国にはなったものの,依然として米国の「属国」であり大国として扱ってもらえない現実がある。

 このように対照的な日本と中国であるが,中国を大国に仕立てた立役者は毛沢東であった。私自身,最初は毛沢東についてたいした人物ではないと見くびっていたが,中国の核開発問題の研究をした結果,彼の戦略性については認めざるを得なくなった。

 毛沢東の核兵器に対する認識は,核兵器は単に戦うための武器ではなく,「政治のための兵器」であるということであった。つまり,核兵器を保有することによってのみ米国は中国を対等の相手として認めてくれることをはっきりと認識したのであった。56年の中共中央政治局会議で毛沢東は,「今日の世界で他人の侮りを受けたくなければ,原子爆弾を持たないわけにはいかない」と述べた。

 この考え方から類推すれば,北朝鮮が核兵器を持ちたがる理由が見えてくるだろう。政治目的を達成するための後ろ盾としての核兵器なのである。米国をはじめとする核保有国は,他の国が核を持つことを禁じ,もし核保有の動きをしようものならその動きをつぶそうとする。イラクやイランがいい例である。北朝鮮の場合も同様で,核を持とうとすれば米国によってつぶされて当然のところであろうが,イラクのようにならないのは,北朝鮮の後ろに核を持つ中国がいるためなのである。もし,中国が強くなければ,北朝鮮は簡単につぶされていたに違いない。

(2)中ソ対立
 中国は55年前後に核兵器製造を決断し,当初は「核の平和利用」という名目を掲げてソ連からの技術協力を得てそれを進めようとした。当時のソ連の指導者フルシチョフ(在任1953-64)は,次のように考えていた。「ソ連が保有している原子爆弾は,ソ連ばかりでなく中国を含めた社会主義陣営全体の防衛を確実に保障している。核兵器を保有する社会主義国が増えることは,直ちに連鎖反応を起こして,原子のガンが全地球に広がり,核戦争の脅威を何倍にも強めるだろう」と。

 それに対して毛沢東は,「もし中国がソ連の核の傘の中に入ることになれば,東欧諸国と同様に実際には発言権のない存在になってしまう」と考え,自国の工業力,科学技術力によって核兵器を開発する方向に急速に進んでいった。

 中ソの政治的軋轢は,1958年に中国軍が台湾の国民党軍の駐屯する金門島を砲撃することにより頂点に達した。これに対してソ連のフルシチョフは,「米国の報復を招くような軍事行動をとってはならない」との立場に立って毛沢東を批判し,さらにその後米国との「平和共存」を選択した。

こうした経緯から中ソ関係は一気に悪化し,59年6月にはソ連が核兵器開発に関する援助を打ち切った。ソ連は,援助を打ち切れば中国は核兵器開発を断念するだろうと読んだが,毛沢東はかえってソ連との同盟関係を反故にし社会主義陣営から離脱しても,国家の総力を結集して核兵器開発に着手したのであった。

(3)文化大革命
 一般に中国研究では,60年代は「不毛の十年」といわれる。それは前半が中ソ対立,後半が文化大革命であり,中国の発展を少なくとも20年は遅らせたといわれるからである。このような文化大革命の評価に対して私は,この期間に中国は核兵器を開発し,それによって71年に国連加盟を果たすことができたと考えるので,「不毛の十年」どころか「実りのある十年間」であったとさえ言えるのではないかと思う。

 核兵器の開発をめぐって中国の中が割れて対外関係が大きく変化し,ソ連という同盟者を敵にしてしまった。その上,中国が核兵器を作ることによって,60年代の中国は完全に世界から孤立してしまった。しかし,政治的混乱,経済の退行の中でも毛沢東は核兵器開発を推し進めた。

 そのような中,毛沢東は,「一万年かかっても原爆を作る」「百年を費やして原爆を作ることができなくても,ソ連の指導者の指揮棒に頭を下げることはしない」と言ったといわれる。また,当時の外相であった陳毅は「ズボンをはかなくても,一皿のスープを皆ですすりあっても,核兵器をつくる」と言ったといわれる。

 国民が飲まず食わずの状態でも核開発を進めたのである。それは核兵器を持った国の歴史を見れば明らかなように,核兵器を持った方が勝ちだと考えたからであった。核兵器を持とうとする当初は米国などによって「ならず者国家」としてつぶそうとされるが,核兵器を持ってしまうと認められてしまう。インド,パキスタンもそうであった。

(4)ウラン型核爆発実験の衝撃
 64年10月,中国は核爆発実験を初めて実施した。このとき世界では誰も中国が核実験をするとは思っていなかった。当時,米国はその動きを察知しつつあったが,「中国は核実験はできない」と見くびっていた。日本の軍事専門家も同様で,ほとんどの人は中国の核開発は無理だと主張していた。

 核兵器には,ウラン235型とプルトニウム239型とがあるが,中国が最初に核爆発実験を行う以前,それはプルトニウム型であろうと予想されていた。それは,@過去に行われた米・ソ・英なども最初の核爆発実験がプルトニウム型であったこと,Aソ連の援助で建設された実験用原子炉が58年に稼動して以来,中国には自力開発による原子炉が数基建設されており,すでに原爆数発に相当するプルトニウムが蓄積されていると見られたこと,Bウラン型の生産には膨大な費用・電力・高度技術が必要とされるが,当時の中国の能力では困難であろう,などの理由からであった。

 ところが,実際米国の研究機関が死の灰を分析してみると,プルトニウム型ではなくウラン型であった。プルトニウム型に比べウラン型の方が,技術,資金,規模などの面でむずかしい。例えば,濃縮ウランの生産には相当の電力が必要だ。当時の中国の電力をほとんど使わなければできないといわれた。「ウラン濃縮に電力を使ったら,中国全土が停電してしまう」という人さえいた。しかし,停電はしなかった。それでは一体,大量の電力をどこから供給したのか。後にわかったことだが,ウラン濃縮工場の中に発電所を建設していたのだった。

 この事実に日本人はあまり脅威を感じなかったが,他の先進諸国のショックは相当なものであった。それはまず,64年の段階ですでに中国は,濃縮ウランの生産能力を備え水爆開発の段階に入っているとみなすことができたこと。そして中国が最初から原子力潜水艦の建造とそれに搭載する弾道ミサイルの開発を目的にしていることが明らかになったからであった。

 それ以来,中国の核実験は一回ごとにブレイクスルーを行って,70年には人工衛星の打ち上げに成功した。人工衛星打ち上げの成功は,数千キロ飛ぶ中距離ミサイルができたことを意味した。つまり,米国本土までは届かないまでも,中国の周辺にある米国の同盟国およびそこにある米軍基地を「人質」に取ることができたのである。これによって中国は米国に対する抑止力をもつことができた。米国に対して王手をかける準備ができたことになる。実際に,米国まで届くミサイルの開発には,その後約十年かかり,80年に大陸間弾道ミサイルができた。

 60年代から70年代の中国は,大きな政治的混乱の中で世界からは「つぶれる」ことが予想されていたのだが,その中で核兵器を作ってしまった。この間,米ソ間では軍事革命が行われ,それまでの通念では考えられない新型兵器が開発され,それに基づく軍事戦略が展開されるようになった。この軍事革命によって兵器の概念が大転換した。コンピュータの登場によって,兵器が小型化・軽量化,高精度化し,飛ぶ距離が長くなるとともに,運搬手段も変わった。つまり従来の固定式から移動式になり,原潜にも搭載可能となった。中国は核兵器を開発することによりようやく米ソに追いついたわけだが,そのときには既に米ソの核兵器はさらに進歩発展していたので,中国のそれは役に立たなくなった。そこで中国は引き続き核兵器の開発を推進した。

3.宇宙開発

 毛沢東が核兵器開発の次に考えていたことは,宇宙開発と海洋開発であった。

 文化大革命の時代に核兵器開発を推し進めたわけだが,将来,宇宙と海洋の時代が来ることを見越して当時からすでにそのための準備も開始していた。実際の宇宙開発は,1970年に人工衛星「東方紅1号」を打ち上げたときから始まる。一般には 小平の時代から宇宙開発と海洋開発が始まったといわれるようだが,実際には毛沢東が存命中の時代からそのような計画があり,毛沢東の生きているときから既に着手されていたことを強調しておきたい。

 80年代に入ると,80年5月に南太平洋のフィジー島沖合いに向けて,米国に届く大陸間弾道ミサイルの発射実験を行い,81年には,1基のロケットによる3個の衛星の打ち上げにより中国の核兵器開発が弾頭の複数化を目指していることが明らかになった。82年潜水艦搭載弾道ミサイルの水中発射実験を実施,84年偵察を目的とする通信衛星の打ち上げと原子力潜水艦の就航,88年には原子力潜水艦からの弾道ミサイルの水中発射に成功した。これらの一連の実験によって,60年から本格化した兵器開発は20余年でひとまず完成を見ることになった。

 そして近年,03年の「神舟5号」による最初の有人宇宙船の打ち上げ成功に続き,05年10月には,「神舟6号」による第2回目の有人宇宙船の打ち上げに成功した。「神舟6号」は二人の宇宙飛行士を乗せ,5日間に及ぶ飛行の中でさまざまな科学実験も行った。

 こうした有人宇宙船の打ち上げ成功は,ミサイル誘導技術の向上を意味し,ミサイル技術は核兵器の運搬手段であることから,核拡散の危険性の高まりも予想され,米国は懸念を表明した。あわせて中国が大陸間弾道ミサイルにより米国を核弾頭で正確に攻撃できる能力を備えたことを意味するからであった。

 これらによって,米国のレベルまでとはいえないまでも,中国の宇宙技術はあるレベルに達したといえる。有人宇宙船の打ち上げ成功の意義は,米国本土を射程距離におさめた核弾頭を搭載した核兵器ができていることを意味する。人間を乗せて打ち上げ,その帰還まで成功したということは,その精度の高さを証明するものである。

 ところで,中国の宇宙開発は,米国並みの精度までいく必要はない。米国兵器の精度の高さは,最近のイラク戦争などでマスコミにより詳細に報道されており,われわれの脳裏に記憶されている。しかし,中国にとっては,ビルの一室まで命中するほどの精度の必要はなく,ニューヨークやワシントンに核兵器を落とせればそれで目的を達成することができるわけだ。その程度のものは既に完成したのである。

もう一つの戦略は,GPS(全地球航法測位衛星システム)の開発である。2000年および03年に中国は「北斗航法測位衛星」を打ち上げた。これは米国のGPSに相当するもので,カーナビのように,陸上・海上・空中でも位置と速度を三次元で正確に把握できるシステムである。こうしたシステムは,元来軍事用に開発されたものであった。とくに海軍では,軍艦の位置を人工衛星によって正確に捕捉するために必要なものである。最近では,ミサイル発射におけるその照準や攻撃目標の捕捉に使われている。これまで中国は,米ソのGPSシステムを利用してきたが,軍事用には使えないので,独自の開発を行ったわけである。そこで中国はこのシステムの独自的開発を進めるために,25個の静止衛星と新型の測位衛星で全地球をカバーする独自の衛星測位システムを構築し,基本はほぼ出来上がっている。これらが稼動するようになると,全世界どこにでも軍事力を派遣できる能力が,向後10年前後で完備することになる。

4.海洋開発

(1)海洋政策
 中国の海洋政策の歴史は古く,建国数年後の56年,「十二カ年科学技術発展計画」の中で海洋科学調査研究を国家が取り組む計画にあげ,58年には海洋調査船「金星」号によって初めて東シナ海の海洋調査が実施されたころまでさかのぼる。その後,64年国務院に国家海洋局が設立され,総合的な国家戦略のあり方を示した。

 海洋に関しては,20世紀後半の最も重要な国際会議ともいわれる「国連海洋法条約会議」が73年から始まった。この会議の動向を察知していた中国は,71年に国連に加盟するとまず,海洋に関することに取りかかった。国連海洋法条約会議には大規模な代表団を送り込んで,200カイリ問題に取り組んだ。すなわち,先進諸国は「公海はオープンなものだから開放して自由に使おう」と考えたが,自国の周辺にある資源までも先進国に取られてしまうと憂慮する第三世界などの途上国を主導しながら,中国は200カイリ排他的経済水域を強く主張して天然資源確保に進出し始めた。このように国連海洋法条約会議以来,海は分割され管理される時代の到来を迎えることとなった。

 74年と88年に中国は,南シナ海・西沙諸島および南沙諸島を実効支配した。92年には「中華人民共和国領海法および接続水域法」を制定して,台湾,澎湖諸島,南シナ海をはじめ,日本の領土である尖閣列島まで中国の領土に編入した。

 この間の中国による南シナ海への進出のようすを事例を挙げてみてみたい(図1)。

 88年に中国は,西沙諸島の主島である永興島にわずか1年の間にジャンボ機も離発着できる2600mの滑走路を建設してしまった。また,同年,南沙諸島の一つの岩礁である永暑礁を人工島に改造した。永暑礁は長さ26km,幅7.5kmの大きなサンゴ環礁であるが,ここに中国は面積8080平方メートルの人工陸地と船着場を作り上げるととともに,そこに二階建ての海洋観測所を完成させた。同観測所は,実際には海軍警備所であった。

 さらに同時期に,同じ南沙諸島の赤瓜礁に中国は観測所を建設したが,それは実際には岩礁の上に金属パイプとアンペラを材料に建てた「高脚屋」という高床式掘っ立て小屋に過ぎないものであった。そのほかにも同様の観測所を建設して南沙諸島全域に対する主権行使を意図した行動を起こしたのである。これらの観測所の置かれたサンゴ礁の岩は,満潮時にわずかに海面に露出する程度の小さな岩に過ぎない。

 ところで,国連海洋法条約によれば,「島とは自然に形成された陸地であって,水に囲まれ,高潮においても水面上にあるもの」を指す。「自然に形成された陸地であって,低潮時には水面上にあるが,高潮時には水中に没するもの」は「低潮高地」と呼ばれ,「その全部が本土または島からの領海の幅を越える距離にある時には,それ自体の領海を有していない」と規定されている。

 それゆえ上述したように,満潮時に海面下に没するような南沙諸島のサンゴ礁に領土標識を立てることは,国際法上領土として認められないばかりか,国際法に対する姿勢が疑われる行為である。それでも中国は上述のようなサンゴ礁の人工改造を行っている。

 日本の対応を考える上で,中国のこのような姿勢は逆の意味で参考になる。例えば,沖ノ鳥島に対する日本の対応である。沖ノ鳥島は,国連海洋法条約による「島」と認められるので日本領土ではあるが,それだけでは排他的経済水域および大陸棚の権利を主張できない。それゆえ中国は,「沖ノ鳥島は単なる岩だ」として日本の領土であることを認めるものの,この海域は公海であり日本の排他的経済水域の権利を認めていない。国連海洋法条約が規定する「人間の居住または独自の経済的な生活の維持」という要件を満たしてこそ,排他的経済水域および大陸棚の権利を主張することができることを考えたときに,日本政府の主張は非常に弱いと思う。

 その点,中国はそのような岩に人間の住める居住施設を作った。一見すると笑ってしまうような施設ではあるが,ここまでして領土権を主張しようとする中国のこだわり,戦略は見上げたものである。これによって200カイリと大陸棚の権利を主張して,資源や領土にこだわろうとしている。

 その後,東シナ海に対しては,石油資源開発の形で計画的に進行している(図2)。70年代に石油資源の探査が実施され,80年代にはそれらの探査に基づいて重点的なボーリングが行われた。その結果,東シナ海のほぼ真ん中の海域付近に位置する大陸棚が有望となり,平湖石油ガス田,春暁ガス田群などの開発が急速に進められている。

 このような中国の動きに対して日本の主張がぶつかっている。すなわち,日本の主張する「日中中間線」と中国の「大陸棚自然延長」(注1)の立場との対立である。ここには日本政府の長年にわたる対中国政策の無策とともに,中国による東シナ海を「中国の海」とする戦略との対立がある。

 中国はすでに東シナ海の全ての海域の調査を終えており、このまま事態が進展すると,日本は東シナ海の主権的権利と海洋権益を侵害されるばかりか,東シナ海自体までも奪われることになりかねない。

(2)南太平洋への進出
 こうした中国の海洋進出の背景には,天然資源の確保という狙いとともに,核開発とも深い関係がある。最近でこそ,中国の南太平洋地域への進出がマスコミでも話題に取り上げられるようになったが,実は,中国の南太平洋地域への進出はすでに80年代から進められていた。私は以前から「中国は東シナ海の調査が終わったので,次は太平洋海域だ」と警告していたが,事実そのとおりとなったわけだ。

 70年に中距離ミサイル,80年に米国まで飛ぶ大陸間弾道ミサイルができたが,中距離ミサイルは,満州から新疆まででも数千キロあるのでそこで発射実験ができた。しかし,米国まで届く大陸間弾道ミサイルの場合は,飛行距離が1万キロに及ぶので国内ではできないために,南太平洋のフィジー島沖合いに向けて実験を行った。その前の70年代には,海洋調査船がこの海域に行き大陸間弾道ミサイル実験に備えて,着弾海域およびその道中のルートなどの海洋調査を行った。

 内蒙古の砂漠から発射した大陸間弾道ミサイルを太平洋の船上で観測・追跡することのできる観測船「遠望」を2隻作った(その後,さらに2隻をつくり,現在では4隻となった)。そのうちの1隻は赤道の北の海域,もう1隻はフィジー沖で観測した。また観測船だけでは不十分なので,それを支援する補給船,海洋調査船,トロール船など6隻の船団を二つ,全部で12隻作った。さらにこれらを護衛するミサイル駆逐艦6隻も作った。これらをわずか10年のうちに作った。

 中国が南太平洋に進出したきっかけはまさにこれであった。さらにここから世界の海に拡大していく。上述の観測船「遠望」4隻が世界の海(北太平洋,南太平洋,インド洋,大西洋)に展開している。

 21世紀に入ると,小笠原諸島・硫黄島と南西諸島の間の海域を,中国の海洋調査船が精密な調査を数年間にわたって行った(図3)。この目的は,中国が遠くない将来に計画している台湾統一のための軍事行動に備えて,この地域に潜水艦を展開し機雷を敷設するための海洋調査活動である。台湾統一に当たっては,米国が「台湾関係法」に基づいて空母機動艦隊を派遣することを恐れており,米国の空母が台湾近海に接近することの阻止を狙っているのだ。

 このように中国海軍は,千島列島から日本列島,台湾,フィリピン諸島,セレベス島の東側海域に至る「第一列島」を越えて,千島列島からわが国の小笠原諸島,硫黄島,マリアナ諸島へと南下する「第二列島」線の内側の西太平洋海域に出てきたことになる(図4)。この海域は,第二次大戦後米国海軍が支配してきた地域であったが,ここ数年に中国海軍の進出が明瞭になった。

 この背景には,中国にとっての台湾の戦略的地政学的重要性の問題がある。すなわち,中国が太平洋およびその他の大洋への進出を図る場合に,周辺国家・地域によって包囲されている半封鎖状態を突破しなければならないが,そのときにきわめて重要な位置にあるのが台湾なのである。しかも台湾海峡・バシー海峡は日本などのシーレーンともなっている。それゆえもし中国が台湾を統一できれば,中国は太平洋に面した国となり,日本のシーレーンも押さえられてしまう。

 さらに,東シナ海が中国の支配におちた場合には,黄海は中国の内海になってしまう。こうなると,朝鮮半島は中国の影響下に入ってしまう。台湾が中国の支配下に入った場合には,米軍は沖縄におれないからグアムに移転する。その意味で台湾問題はきわめて重要な問題なのである。こうした戦略的観点からも日本は米国とともに台湾を含めた第一列島線を守らなければならない。

 日本の国家戦略を考えた場合に,一言でいえば,日本の海を守ることである。それはわが国の排他的経済水域を守ることであり,わが国の生命線であるシーレーンを守ることである。それらを中国から守ることを明確に意識する必要がある。さらにいえば,建国以来中国が実現化している国家戦略から日本を守ることであり,中華思想に基づく戦略的辺疆(注2)の中に日本が組み込まれないことである。       (2006年10月28日発表)

注1 大陸棚自然延長
 向かい合う国家の間に存在する大陸棚の主権的権利について,その間の距離が400カイリに達しない場合,等分して境界線を設定することが「大陸棚法」で規定されている。日本政府はこの規定に従って,中国との間にある東シナ海の大陸棚の境界線について,中間で等分する立場に立っている(「日中中間線」の立場)。早くからこの立場に立っていたが,97年に国連海洋法条約を批准した時点で,日中中間線を東シナ海に設定した。
 他方,国連海洋法条約には,大陸棚が200カイリを超えて延びている場合,大陸棚をもつ国は200カイリを超えて350カイリまで自国の大陸棚とすることができると規定されている。これが「大陸棚自然延長」の立場であり,中国政府の立場となっている。東シナ海の中国からの大陸棚は「中間線」を越えて,南西諸島の西側に沿う「沖縄トラフ」まで延びているので,「日本には東シナ海の大陸棚に対する権利がない」と中国政府は主張する。

注2 戦略的辺疆
 「地理的国境」に対する考え方で,「地理的国境」が国際法で認められた境界,すなわち領土・領海・領空であるのに対して,「戦略的辺疆」は,その国の国力に応じて伸縮するもので,力がなければ「地理的境界」を維持することができなくなるが,反対に力があれば「地理的境界」を越えて勢力範囲を拡大することができるという考えである。まさに「中華思想」,あるいは「現代版中華思想」ともいうべきものである。
(以上,本文中の図及び注は,平松茂雄『中国は日本を併合する』より引用)