平和交渉における宗教の役割

世界平和宗教連合ディレクター  フランク・カウフマン

 

 世俗化が進む現代においては,宗教的信仰を潜在的な対立の原因として切り捨てるのが大抵の知識人の見方であるが,信仰に基づく物事の視点やその活動の価値を示すのは,宗教の思想家や指導者の責任である。

 あらゆる宗教が平和を説くのは万人が平和を望むのと同様だ。しかし太古の昔から,人々は神聖な経典や宗教的義務を引き合いに出し,戦争や圧制,占領を正当化してきた。宗教には本質的に平和と相反する何かがあるのだろうか。それとも我々自身の中に平和をもたらす自らの努力を妨げる何かがあるのか――たとえそれが明らかに自己の利益を求めている場合であっても。

 もし人間が宗教に由来する恐怖,罪,迷信などと無関係でいられれば快適に過ごすことができ(そして平和を実現する能力を十分にもち),解放されて理性による穏やかな栄光を享受しただろう,と主張する人々もいる。国家主義者,人道主義者,啓蒙思想的な合理主義者たちはそのように考える。この考え方は現代社会にも広がっており,国連,大学,エリート言論人などの間で容認されている。

 別の可能性は,問題が宗教の中にあるのではなく,我々の中にあるということだ。宗教は素晴らしいが(つまり善であるが),矛盾を抱えて破滅状態にあるがゆえに平和に生きることができないのが人間である。この内面的葛藤を嘆いたパウロは正しく,我々を代弁していたのだろうか?(ロマ書7:24-25:「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から,だれがわたしを救ってくれるでしょうか。・・・わたし自身は心では神の律法に仕えていますが,肉では罪の法則に仕えているのです」)事実,より高い次元の自分と闘うこの状態こそが,宗教の存在理由である。

 神の啓示としての宗教は,本来的に悪と“闘うこと”を運命づけられているが,それはとりわけ我々自身の内面の悪に対する闘いである。この対立的側面が,宗教と戦争が歴史的に密接な関係をもつ理由である。しかし宗教はまた,悪をめぐる葛藤の終焉と,敵であった存在を愛で抱擁する道を指向する。平和,調和,善,そして抱擁――葛藤への執着ではなく――は,宗教の真の目標である。

宗教に対する軽蔑の根源

 三十年戦争(1618-1648)は,それに続く18世紀後半から19世紀前半にかけてのヨーロッパの知的潮流とともに,宗教が知識階級の間で社会秩序の現実的基礎としての地位や社会道徳の正当な代弁者としての地位を失ってゆく過程に,重大な影響を及ぼした。三十年戦争はヨーロッパの人口を20パーセント近く減少させた(第二次世界大戦では3パーセントの減少)。それが宗教への不寛容さが広がるプロセス――その善悪はともかく――に与えた破壊的影響は,どれほど深刻であったことか。既成宗教(特に西洋宗教)は,今日に至るまでこの状況から決して回復することがなかったのではないか。

 理性と科学的手法を重視する啓蒙主義的な世俗主義は,その道徳的優位性を主張しつつ既成宗教の特権的地位を奪い去った。教養あるエリートは自身にこうつぶやく。「私は宗教信者とは違う。彼らは感情的に燃え上がりやすく,遅かれ早かれ最後は戦争だ。私は道理をわきまえ,寛容で,心の広い人間だ。」必要ならエリートが信仰をもつことも許されたが,それはあくまで個人的な問題である。教養あるエリートには学者,言論人,芸能人などあらゆる職業人――もちろん例外はある――が含まれ,きわめて広い層の人々が彼らの考え方に倣った。現在はこのような傾向はやや緩和されてきている。

 宗教者に対する誤った見方――教養あるエリートとの比較において――は,彼らが知的でない,思考が洗練されていない,迷信的だ,一貫性のない信仰に傾倒しやすい,自分の信仰を守るためには攻撃的になりやすい,対立を生みやすい,などというものだ。こうした仮説が非常に多くの問題を起こしてきた。筆者の意図は,このような考え方をもつ教養あるエリートを責めることではない。

 こうした考え方を正すのは,まず宗教指導者や信仰者の責務である。信仰者が信仰のない人々より礼儀正しいとか,思いやりがあることを示すだけでは不十分だ。三十年戦争の遺産と縁が切れるまで宗教的信仰は蔑まれ,世俗的な人や密かに信仰をもつ人々の方が,より道理に適っていて道徳的に優れた人間と見られるだろう。

宗教に関する情報収集

 対立を克服するには,問題となっている対立に関する情報を正確かつ公正に収集する必要がある。一般的には,情報収集にあたって方程式から故意に一つの重要な要素を除外することなどありえない。しかし人々は,敵意を煽ってしまうので宗教的な事柄には触れない方がよいと考える。宗教的・文化的忠誠の影響がより強い場合がほとんどであるにも関わらず,こうして和解の試みは政治的・経済的領域のみで模索されるのである。
宗教に関する事実が評価されることがほとんどないため,対立の当事者たちの宗教的感情や献身的姿勢,関心事を評価することなど不可能である。

 もし対立の仲介者が宗教を軽視するならば,宗教が人生のきわめて重要な部分を占めている人々に共感して思いやりの手を差し伸べることは困難である。仲介者は宗教的な考え方をもつ人々が存在する事実を認識し,関係する個人や集団の特定の宗教的信仰を理解しようと努めるべきである。

 もし政治や経済に関する情報を収集するために専門知識が重要とされるならば,宗教的信仰に関する情報収集にも専門知識が求められるはずである。

人間関係のダイナミクスの理解

 平和の探求には,平和的な行動につながる人間関係を構築することも重要である。ここで精神性(spirituality)の概念が意味をもつ。

 他の事柄と同様,平和の探求はいくつかの中心的仮説を前提に進められる。望ましくない環境を修復するためのあらゆる勧告には,最初にどのように,なぜ誤ったのかについての調停者の考え方が組み込まれている。調停者は皆,対立の性質と起源について広く受け入れられた概念を基に作業を進める。対立に関する考え方は多様であるが,いくつか挙げてみる。

・対立は常に悪いことであり,何としても解決しなければならない。

・対立は,個人や集団がお互いに対して悪事を働くという事実への反応である。したがって対立自体が第一の悪ではない。

・対立は物事の性質の一側面である。対立は常に発生し,決して取り除くことはできないが,対立と格闘することは高貴な道楽である。
・対立は,本然の神聖な人間の性質を堕落させた歴史上の行為によって生じた人間関係の特徴である。本来の性質を取り戻すことにより,平和実現の能力も回復する。

・対立は誤った思考から生じる。

・対立は誤った構造から生じる。

人々の対立に関する考え方はそれぞれの形而上学的・人類学的信念に立脚しているがゆえに,宗教を無視することは危険である。宗教者も世俗主義者も現実の性質や人間の状態に関する信念をもっている。人間の条件(human condition)を修復し,平和を取り戻す方法は,当然ながら現実や人間の条件に関するその人の理解から導かれるものである。

 個人や集団がどのように現実を理解しているかを知ることは,仲介者にとって非常に有用である。平和交渉の実務者が人々に働きかけ,異なる考え方があることや,それを理解することによって人間の環境が改善することを認識してもらうことも可能である。

 宗教の役割は人間を善なる方向に変化させることである。したがって平和交渉を行う人々が善なる目的のために人間の行動を修正しようとするなら,宗教の専門家が常に関わることの重要性を認識すべきである。

宗教の評価回復への道

 現代宗教は,「強い宗教信仰は不可避的に意見の異なる人々との対立につながる」という見方を一般的世論から取り除かなければならない。宗教指導者たちは,彼らがきわめて高度な知性をもち,社会福祉分野で寛大に行動し,国際関係にも関心が深いことを示してきた。いま宗教はそこに向けられた疑念を払拭し,さまざまな行事や問題に協力して取り組む永続的な能力と意志があることを示さなければならない。

 政治的あるいは経済的な協力のための国際機関が存在するように,宗教もそれぞれの教義や実践を追求する一方で,永続的な対話と交渉をもたらす方法を見出さなければならない。お互いに平行線を辿るだけの宗教では,いつまでも平和構築の取り組みの周辺に置かれ続けるだろう。人々に分裂をもたらす勢力という否定的なイメージを覆さなければ,宗教は対立を減少させ平和を築く上で不可欠な役割を果たすことができないだろう。

 宗教が平和の友と認められるようになれば,世界の偉大な人物や優れた団体が取り組んでいる和解のための熱心で高貴な活動は,恒久平和の実を結ぶことができるだろう。宗教が協力機関としての機能を発揮することができれば,その評価は回復し,既存の平和プロセスとも統合されてゆくであろう。超宗派的な対話はキャンプ・デーヴィッド,オスロ,ワイ・リバーなどの交渉と乖離した形で行われるべきではない。平和追求の取り組みは統合性と全体性を備え,個人と世界の事柄にきわめて強い影響を及ぼす宗教と精神性の要素を,その最前面に含むべきである。最終的に,平和交渉は宗教の専門家が深く関わることなしには考えられなくなるであろう。

平和に貢献するために宗教は何をなすべきか

 各宗教には,宗教は世界全体とすべての個人のために存在するとの高度な考え方がある一方,宗教はその宗教自体と信者のためにのみに存在すると考える内部的衝動があり,両者が激しく葛藤している。「我々はカトリックにのみ関心があり,他宗教のいかなる信仰者にも同情しないし関心がない。我々の問題ではないのだから」(あるいはユダヤ教徒だけ,仏教徒だけ,など)。より大きな全体を犠牲にして自己の利益を追求するという衝動は,世界全体とすべての個人に奉仕するという,あらゆる宗教がもつ高等な真理と矛盾する。

 人間の矛盾性もこれと同一である。我々には自然な一面として利他的な性質があるが,逆に自身の習慣や伝統,自己保存本能,自己促進を指向する性質もある。宗教と同様,これらの性質が調和し,より高度な自己が我々の存在を主導するようにならなければならない。

 では宗教が平和に貢献する方法はあるのか?答えはイエスである。各信仰の賢明な指導者は,それぞれの宗教的伝統の根源的な啓示や神聖な起源,発展過程を分析する必要がある。そしてそれぞれの伝統のどの側面が世界全体とすべての個人に対する奉仕を求め,どの側面が偏狭性,自己保存本能,自己促進を指向しているのか見定めなければならない。たとえば偏狭な気風は信者個人の神の内在意識を高め,それによって信者は世界全体とすべての個人を愛するようになる。このように宗教指導者は,矛盾点を調和させ,一体となった全体へと導かなければならないのである。

 各宗教がこれを達成した程度に応じて,宗教的差異が戦争の原因となることはなくなり,平和の実現のための不可欠な声として貢献することができるのである。

(WORLD & I誌,特別号The UN at Sixty: Challenge and Changeより,尚,本論文の初出は同誌2001年9月号)