東アジア史の新しいアプローチ

―「楽浪地域文化」の提唱

早稲田大学教授  李 成市

 

1.はじめに 

 近年の東アジア諸国間の歴史認識をめぐる葛藤には,様々な要因があるだろうが,それらの中の一つに,近代の国境や近代の国民国家を自明のものとし,その枠組みをそのまま千年,二千年前にまでさかのぼらせて歴史や文化を論じる思考方式があげられる。

 例えば,朝鮮民族の歴史と文化といっても,鴨緑江以南の朝鮮半島全域に,現在のような朝鮮民族が斉一的に存在し,同じ文化をもって暮らしていたわけではない。前近代の王朝の境界には変動があり,中世や近世の半島北部には女真族(後世の満族)が住んでいた。つまり,どの地域を例にとっても,そこに同じ文化をもった一つの民族が変わりなく居住していたたわけではなく,時々の民族移動やそれに伴う変化があって,そこには多様な民族の暮らしが実在した。そもそも今日の「民族」は歴史的に形成されたのである。いうまでもなく,中国大陸や日本列島についても例外ではない。

 私はこれまで,東アジアにおける古代国家の形成過程と,その地域文化に関する研究に従事してきた。紀元前2世紀から紀元後10世紀にかけて,中国大陸から朝鮮半島,日本列島に至る東アジア地域で,古代国家はどのように形成されたのか,とくに中国文明がそれらの地域に伝播していくなかで,それぞれの地域の民族が中国文明と接触し,異質なものを受容しながら,国家形成の過程でどのように独自の文化を形成していったのかという点に注目してきた。

 こうした歴史過程を捉える際に,あえて「楽浪地域文化」という概念を用いるのは,それによって中国大陸から朝鮮半島,日本列島への文化伝播のプロセスを, 近代的な国家観や民族観の拘束から逃れやすくなることがまずある。それに加えて,19世紀以降の近代化における西洋文明の受容過程についても, 巨視的な枠組みでとらえることが可能だからである。さらには,現在,東アジア諸国間の歴史認識をめぐる葛藤を解きほぐす上で,「楽浪地域文化」というコンセプトが新たな視座を提供してくれる可能性もつと考えるからである。

2.漢字文化伝播の新仮説

 東アジアの古代国家の形成過程は,中国文明の基盤である漢字文化の伝播と受容の過程と見ることもできる。漢字文化圏は,中国大陸から朝鮮半島,日本列島へと広がりを見せるが,近年の研究成果にしたがえば,日本は中国から独自に漢字文化を吸収したというよりは,むしろ朝鮮半島でいったん吸収された漢字文化を,間接的に受容したとみるべきではないかと考えている。

 中国文明の周辺への伝播に関する最も有力な仮説は次のようなものである。古代以来,東アジア地域の国際政治の枠組みは,中国皇帝と周辺民族の君長とが官爵を媒介に君臣関係を結ぶ冊封体制というシステムであった。周辺民族の君長は,中国皇帝からタイトル(官職・爵位)をもらうと, 外交文書をもって定期的に中国に朝貢しなければならず, その外交文書を作成することを通じて漢字が周辺地域に伝播していくことになる。つまり,中国との政治的関係(冊封体制)を前提に,漢字が受容され,それを媒介にして儒教や漢訳仏教, 律令などの中国文明が伝わっていくと考えられてきた。

 しかし,この理論にしたがえば,仏教も中国との政治関係ゆえに日本に伝播したことになるが,実際には,そのような君臣関係にはない百済から仏教は伝えられた。また新羅が中国に初めて朝貢し,冊封されるのは565年のことであるが,それよりも遡って, 新羅には独自の漢字文化が実在していた。今から10数年前に,法令の布告文ともいうべき内容が刻まれた6世紀初頭の新羅碑が続けて発見されている。これらのことからもわかるように,この仮説は実証が困難な理論であり,中国との政治的関係のみが漢字文化の受容を規定したのではなかった。

 これまで古代日本の国家形成については,日本の歴史研究者のほとんどが中国大陸から日本列島へという影響関係だけに注目してきた。しかし,それはかなり単純化した見方であって,朝鮮半島の諸国の果たした役割は想像以上に大きい。例えば,高句麗など日本列島との間にあって中国文明と格闘した媒介者を無視するわけにはいかない。高句麗は中国王朝と直に隣接していたために,常に中国王朝とはげしく葛藤をくりかえしながら,その文明を独自の民族文化に変換して取り込む努力を積み重ねていた。その結果, 中国大陸の様々な民族が秦・漢帝国の郡県化によって, その独自性を奪われ漢化されていったのに比して, 高句麗は, 外貌は中国的にみえながらも,内実は,その地域独自の要素を色濃く保持した古代国家を形成した。

 このような前提から,いったん中国東北地方や朝鮮半島の諸王朝で咀嚼されたものが日本列島に伝播したとの仮説を立ててみよう。高度な文明,異質な文化を受容するという全く新たな苦しい過程を,もう一度ゼロから体験するのではなく,近似した文化をもつ人々(媒介者)が体験したものを受容することは,はるかに容易であったはずである。高句麗のあった中国東北地方の民族や朝鮮半島, 日本列島の民族の言語構造が近似していることは軽視できない。これは喩えてみれば,パソコンのマニュアルを初めから読んで操作するよりも,親しい友人に聞いた方がはるかに近道であるのと同じようなことである。

 そこで具体的な事例を考えてみよう。遣唐使は,日本の古代国家を形成するのに大きな役割を果たしたといわれるが,その古代国家の一つの到達点は,大宝律令(701)という法体系の整備に求められる。遣唐使によって唐の文化を学んだとの仮説に従えば,大宝律令制定以前に, 何度も遣唐使が派遣されていなければならないことになるだろう。しかし, その法体系を作るのに20〜30年かかったと仮定しても,そのような期間に該当する670年から701年の間には,遣唐使は一回も派遣されていない。かたや日本と新羅との間では, 同じ時期に双方で35回もの公的な使節の往来があった。日本古代国家がある到達点に至る過程には,遠く離れた唐に学んだのではなく,近隣の新羅と密接な関係を結ぶことによって新羅経由で唐の制度を学び,それが日本の奈良時代という律令国家システムを確立する上で寄与したのである。

 これまでも日本の古代国家形成には, 日本―新羅間の使節の往来が重要な役割を果たしたことを指摘する研究者はいたものの,それを裏づける具体的な物証がほとんどなかった。朝鮮半島は,大陸とつながっているために幾度となく戦禍を被り,残存する史料に乏しい。ところが最近,新羅史研究の進展,新羅時代の考古学上の発見,石碑や木簡などの出土文字資料の発見と解読の展開などによって,この地域の中国文明受容のプロセスが明らかになってきた。これまで日本独自のものと思われていたものが,じつは新羅経由のものであったことがわかってきた。要するに,日本の漢字文化は中国から直接伝来したのではなく,高句麗や百済,新羅を経てきた過程が具体的な資料に基づいて跡づけられるようになってきたのである。

 近年, 朝鮮半島から発見されたり出土したりした古代の石碑や木簡に書かれた漢字を見ると,朝鮮半島の人々が漢字文化を受容する過程での格闘のプロセスが見えてくる。漢字を自分たちの言語表現の仕方になじませたり,あるいは日本の漢文のように返り点をつけてみたり,必要な文字を新たに作ったりしている。異質な文化の受容は容易なことではない。自分たちの文化とのすりあわせを試みながら,独自の漢字文化を創っていく過程がそこから見えてくる。

 今でも,日本では漢文を読むのに返り点を使うが,それ以前はオコト点を使用していた。従来, これこそ日本で開発された独自の文化と考えられていたが,じつは朝鮮半島で先行して同じようなものが発生し,それが日本列島に伝播してきた可能性が高い。このオコト点の伝来過程は角筆(象牙などの先端で紙面を押しへこませて文字・符号を書いた筆記具)による文献の発見とその研究によって明らかにされつつある。

 また出土資料では,宮殿の門番への食料供給に用いられた木簡の例を挙げることができる。これはもともと日本で数多く発見されていたが,全く同じ形式のものが新羅の都があった慶州からも出土した。新羅の宮苑池であった雁鴨池は8世紀中頃の東宮で使用された木簡が約50点ほど発見されているが,その中の1点には, 当時の宮殿の門名とその下に小さな文字で,門名ごとに人名を記す木簡が確認されている。その独自の文書形式から, 日本の木簡と同様に, 門名とその門番の名前を列挙して門番の食料給付に用いたものと推定される。

 このほかにも,日本列島では物品の付け札として用いられる荷札木簡が7世紀後半から確認されるが,おなじような荷札木簡は,韓国では日本出土木簡よりも1世紀以上さかのぼる新羅木簡が朝鮮半島東南部から出土している。こうした物証から,朝鮮半島から日本列島へという漢字文化の伝播の経路がかなり明確になってきた。

3.「楽浪地域文化」

(1)近代的な概念の相対化
 古代の歴史や文化を検討する際には,まず近代の国民国家にとらわれた見方を相対化してみる必要がある。それは,そのような枠組みで古代が成り立っていたわけではなく,またこれからの未来ですら, そうした枠組みが維持される保証もないからである。例えば,欧州でEUが成立し国民国家の枠組みを超える動きが進行しているように,わたしたちの東アジア地域でも将来そのような枠組みに移行していく可能性は否定できない。

 欧州におけるEU形成においてよく言われたことは,文化的な共通基盤の存在であった。ヨーロッパの知識人によるラテン語の共有をはじめ,ローマ法,キリスト教の信仰,ギリシア古典などの伝統文化の共有が強調されてきた。それでは,東アジアについてはどうであろうか。やはり知識人は漢字文化をコミュニケーションの手段として共有し,ローマ法に匹敵する中国生まれの律令制度,ギリシア古典に匹敵する儒教文化,信仰の面では中国語に翻訳された仏教の経典などを共有してきた。仏教はインドで生まれた宗教だが,その原典が中国語に翻訳されることによって, 古代中国の思惟方法によって仏典が再解釈され翻訳された。その漢訳経典がそのままベトナム,朝鮮,日本などで受け入れられ流通してきた。

 このように巨視的にみれば, 共通の文化をもつ東アジア地域に,近代的な国民国家の枠組みを投影し, いたずらに相違点を浮き彫りにして, 国民文化の独自性ばかりを強調し合えば, 無用の葛藤を生じさせるだけであろう。明治以来, 近代日本の知識人は, ヨーロッパとの異同を尺度に, 日本の非アジア性の解明に没頭してきた。むしろ, われわれはこの地域で多くのものを共有しながら, そのような共通性の上に, 民族や地域にねざす独自の文化を育んできたのである。こうした視点に立てば, ウェスタン・インパクトによって, この地域が近代以降, 抱えてきた困難な諸問題も,地域としての共通性に立脚して共に取り組めば, 解決しうる共通の論点が見いだせるのではないだろうか。

 そこで, そのような視座を明確にするための方法的な概念として,「朝鮮」や「日本」といった近代の国家よりも大きく, また「東アジア」という地域概念よりも限定的な「楽浪地域」という地域概念を提唱してみたい。わたしが東アジア地域に「楽浪地域文化」をあえて文化圏として設定しようとするのは,中国東北部から朝鮮半島(隣接する日本の一部地域を含む)は,それらを「朝鮮」と規定した場合に,あまりにも近代的な朝鮮,韓国のイメージが前面に立ってしまうために,過去の事実を現代から裁断する恐れがあるからである。この地域の古代は,「朝鮮」「韓国」という言葉ではくくることが容易でない地域でもある。

 また,厳密にいえば, 今日「朝鮮文化」といわれるようなものが朝鮮半島に共有されるようになったのは,厳密にいえば15世紀以降であり,ましてや紀元前後のころの鴨緑江以南の地域に,「朝鮮文化」はありえない。すでに述べたように, 15世紀以前のこの地域には,北部には女真族をはじめ多様な民族文化が混在していた。それゆえ朝鮮(韓国)文化を自明のものとせずに,多様で複雑な古代文化のありようを捉える方法的な概念として「楽浪地域文化」という言葉を使ってみようというわけである。つまり近代的な観念や先入観を可能な限り排除してみようという試みである。

(2)楽浪地域文化
 漢の武帝は紀元前108年に朝鮮半島北部に楽浪郡など4つの郡をおいた。このうち楽浪郡以外の3つは20数年でなくなったり,中国内陸部に移動したりしたが,平壌を中心におかれた楽浪郡だけは,本土の王朝の変動にもかかわらず313年まで約420年間にわたって存続した。中国系の人々がこの地域に大量に渡来し,新たな文化, 高度な文明を持ち込むことによって,在来の土着民たちとともに,この地域の独自の文化を生み出すことになった。

 よく知られているように, 秦漢帝国による郡県支配とは,異民族が居住していた周辺地域にまで直轄支配がおよんだのであって,郡県の地はいわばブルドーザーで土地をならすように,その地域の文化の民族的独自性はねこそぎ奪い去られてしまった。その結果,在来の民族文化の痕跡はほとんど残らず中国文化の中に埋没してしまう。このような文化状況を漢化という。

 ところが楽浪地域は,郡県支配についての一般的な理解では説明がつかない。なぜなら,漢化しないばかりか,むしろそこから高句麗,百済,新羅など, この地域の民族が主体となる民族国家が形成されていくからである。とくに高句麗は,鴨緑江を超えて遼東半島,吉林省,遼寧省,黒竜江省,沿海州まで含み,南は現在のソウル地域にまで及ぶ広大な地域を支配した。中国の秦の始皇帝や漢の武帝の時代に郡県がおかれた地域と比較してみてもわかるように,中国文明を積極的に取り入れながら,独自の民族文化を基盤とする古代国家が形成された点は注目すべきことである。

 つまり,文明化するために中国文明を利用するのだが,決して漢化の道をたどることはない。このように中国文明の東辺部にあって,独自の受容の仕方でもって文明化していくこの地域文化を,私は「楽浪地域文化」と呼んでみたい。ここでいう「楽浪地域文化」は,楽浪郡が設置されてからの移植文化だけでなく,それ以前の土着文化も含めた広い概念である。

 楽浪という呼称にこだわるのは,高句麗,百済,新羅などの国々が,それぞれの地で実力を蓄えてくると,自ら楽浪の権威を前面に押し立て,中国王朝にその認証をもとめることに注目するからである。これらの国々は,中国の皇帝に対して「楽浪」という呼称を爵位,官職に付して自称し,この地域の楽浪以来の権威を継承しているのは自分たちであると中国側に求め, その承認をえることによって, それを内外に誇示している。自らの正統性を漢の武帝による「楽浪郡」設置に求め, それをもって国際的な地位を築こうとしたのである。

(3)平壌地域の位置づけ
 中国古代史研究者の妹尾達彦は,都市発生論を展開して次のように述べている。アフロ・ユーラシアを見渡してみると, 北緯40度前後の東西にのびる境界地帯に主な都市が発生しているが,それは北緯40度前後の境界地帯に農耕と遊牧の接点があるからだという。人類は長い歴史を通じて異なる生業の産物を交換しあいながら生きてきた。環境の異なる文化圏が生みだす異なる産物が, 南北の境界地帯で交換される。この交易の場に都市が生まれ政権が生じる。まさに都市とは,異質なものが出会う場所であったのである。

 簡単な紹介であるが、妹尾達彦に従えば, 北緯40度前後の農業と遊牧の境界地帯こそは生態環境を南北に大別させると同時に, 南北・東西の物流の出会う場所=都市となるという。要するに,洛陽や長安をはじめとする古代東アジアの主要な都市とは,多様な人々・種族・思想が出会いせめぎあう場所であり,そのような場にこそ都市は形成されたというのである。

 こうした考えを参照して, 漢の武帝が四郡を設置する際に, 楽浪郡の中心として平壌に目をつけた理由を考えてみよう。平壌は北緯39度にある大河(大同江)に面した都市である。『魏志』東夷伝は, この地域の構成民族を実に生きいきと描いているが,それによると, おおよそ平壌を挟んで南側に農耕の民である韓族が,北側には遊牧系の民や,漁労・狩猟の民がおり,平壌はその中間点に位置していることがわかる。それゆえ南北から両者の文物が流れ込み, 交わるところとなったのであろう。そのような通商上の拠点を把握したいとの意図をもって, 武帝は衛氏朝鮮の王都であった王倹城(平壌)を押さえたにちがいない。古代の支配とは,重要な拠点を押さえることが何よりも肝要であった。モノや情報が集中していた平壌を押さえ, そこに郡県を設置することは必然であったであろう。郡県設置とは,中央から役人を派遣して, その地域民の一人一人を把握し, その地域で生産されるものや集積されるものを掌握することにあった。

 右に掲げた地図は,韓国の地理学者・崔永俊が作成したものであるが,中国東北地方の拠点都市・瀋陽と前近代日本の表玄関である博多とを結ぶと,朝鮮半島の歴代の主要な都市がほとんどその線上に載ることが分かる。この線上に, ソウルに注ぐ漢江と朝鮮海峡に注ぐ洛東江の二つの河川が重なることは偶然ではない。 この内陸河川を利用できる交通路こそは日本列島を含めて朝鮮半島南部の人々が,中国文明にアクセスするときに,このうえもなく重要な交通路となった。まさに, 平壌はこの線上にあって, 南北の交通路の要衝となっていたのである。

(4)渤海を中心とする同時代
 渤海(698-926年)は,高句麗が滅んでから30年後に高句麗とほぼ同じ地域に成立した古代国家である。渤海の成立と滅亡は,新羅や日本の動きと深くかかわっている。同時代の東アジア諸国は,朝鮮半島に統一新羅(680年代に国家制度を確立,935年滅亡)があり,日本は奈良時代の律令国家体制の基盤が690年代にはほぼ確立した(天武・持統朝)。これら3国は,中国東北地方,朝鮮半島,日本という広大な地域に,700年前後に同じような政治システムで運営される古代国家として出発した。すなわち,漢字をコミュニケーションの手段として用いながら,刑罰法と行政法を核とした律令制度によって統治組織を整え,政治思想としての儒教, そして広大な地域を一元支配するためにさまざまな信仰を包摂し超越するような仏教を精神的共通基盤とした。渤海, 新羅, 日本の3国はこうした文明を共有しながら同時代に古代国家を展開し,ほぼ同時代に終焉を迎えた。渤海は926年に滅亡し, 新羅は935年に滅亡している。日本は,国が滅びたわけではないが,935年に関東地方で平将門の乱が起き,西日本では藤原純友の乱が起きるなど, 律令国家が瓦解していく。このころを契機に武士社会へと進んでいく転換点を迎えた。

 近年,渤海国の性格を巡って, 旧ソ連ではシベリア民族発達史の中に位置づけ,中国は「渤海史は少数民族の地方政権であり, 中国史の一部である」と主張している。北朝鮮や韓国では渤海を自分たちの民族の国家であると規定している。それぞれが渤海国の占有を巡って領土争いのごとき様相を呈している。

 しかし,これも東アジア,楽浪地域文化という視点で見ると理解しやすい。もはや,渤海が現在のどこの国のものかという論点にはあまり意味がないからである。中国文明との関係の中で,どのようにして周辺諸民族が文明化しながら,民族国家を立ち上げていったのかという観点から朝鮮半島, 日本列島までを視野に入れて見通した方が,事実に即してその史的展開の過程をみることができる。

 近年,高句麗史をめぐって中国と韓国との間に歴史論争が起きている。高句麗史は中国史に帰属すべきなのか,韓国史に帰属すべきなのかが争点となっている。そのような二者択一的な不毛の論議ではなく,楽浪地域文化の観点で見れば,高句麗があってこそ百済や新羅,日本などの民族国家の形成が促されたのであるから,一つの文明の周縁にあって, この地域の諸民族が独自の文明化をなしとげた地域圏として捉えることができる。

 現在の中国の民族意識から, 高句麗は中国史に帰属すべきであると主張することは,かえって高句麗の歴史的位置づけが薄っぺらになり, 高句麗史そのものの性格も捉えにくくなってしまう。このように国民国家の枠組みを超えて,この地域の特質を考えていこうとすれば,近代的な枠組みをそのまま投影して古代を見ていては豊かな歴史的過程はみえなくなってしまうことに気づくであろう。

(5)文化伝播の担い手としての穢族の役割
 中国東北地方から朝鮮半島の地域の文化変容と文化統合(中国文明化)について考えるときに,紀元前2世紀から約10世紀間にわたって,この地域に広く分布して存在していた穢族の動向は示唆を与えてくれる。彼らは楽浪文化の中でも,興味深い役割を果たした。

 穢族は,朝鮮半島の背骨にあたる太白山脈や,松花江などの大河や日本海側の海辺に住み,狩猟や漁撈を主たる生業としながら,さらに養蚕や農耕を行っていた。また,海産物や毛皮を中国内陸部へもたらすなど遠隔交易にも従事し,彼らが朝鮮半島の東南部まで来て鉄の交易にまで関わっていた。彼らの生業や習俗には,日本のアイヌ民族をはじめとする東北アジア採集狩猟民との共通性が認められる。

 文化的には,「楽浪地域」の中では飛びぬけて中国文明の強い影響が及んでいた。例えば,紀元3世紀頃には首長層に中国の爵位, 職位を保持する者が多く存在したり,漢代に体系化された星座占いを熟知していたり,姓をもち同姓不婚の禁忌が及んでいたりした。

 彼らは移動するがゆえに, 新しい思想や文明の担い手にもなった。朝鮮半島において中国風の姓を地方の人々まで帯びるようになるのは,10世紀以降のことである。それ以前には,中国風の姓をもつのは,都に居住する王族や貴族に限られていた。ところが穢族は3世紀頃には姓をもっていたことが確認される。なぜ穢族は早期に姓を用いるようになったのか。そもそも中国王朝と通行するものは,姓を必須とした。楽浪地域の諸国の姓の始まりは中国王朝と外交を行うために首長は姓を用いることになった。それが国姓とよばれるものであり,高句麗の高, 百済の余, 新羅の金, 倭国の倭などがそれである。穢族は,中国国内へと長距離移動し交易をはたすためには, 姓は不可欠であったのであろう。

 その一方で,穢族は祭祀やタブーなど民族固有の習俗を色濃く残していた。生業に関わる固有の習俗と,ダイレクトに受容された中国文明が共存するというアンビバレントな文化状況にあった。こうした文化状況は,穢族が中国内陸部への遠隔交易を果たすために,上位の権力(中国王朝)に依存して交通権などを獲得するための戦略であったと推定される。

 このような穢族の異種混交性には,この地域の普遍文明の受容と接近の一面が見て取れる。「楽浪地域」における中国文明の伝播と受容は,早期に中国諸王朝と苛烈に接触した北部の高句麗,南部の農耕民族である韓族,さらに穢族のような独自の生業をもつ民族など,それぞれ独自の条件と戦略によって多様なありかたが混在していたとみなければならない。したがって,穢族のような文化状況は,「楽浪地域」全体においても軽視できない。

 とりわけ注目されるのは,この地域における穢族の媒介的役割である。そのような一面をかいま見せてくれるのが,1988年に韓国・東海岸に面する慶尚北道蔚珍郡鳳坪里で発見された新羅碑(524年)と,1989年に慶尚北道迎日郡冷水里で発見された新羅碑(503年)に記された殺牛の祭祀である。両碑は, いずれも新羅国王の権威の下に,紛争の裁定,刑罰の執行の後に, 殺牛の祭祀が挙行されていたことを伝えている。両碑が発見された場所は,ともに古来,高句麗の政治圏,文化圏に属し,500年前後に,ようやく新羅の政治影響圏に入った境界領域であって,まさに穢族の居住地であり,穢族の活動が活発に展開されていた地域であった。穢族が高句麗と新羅の領域にまたがるこの地域で活動していたからこそ,両碑に記された殺牛の祭祀がそのような境界領域で挙行されていた可能性が高い。殺牛の祭祀は,おそらくは穢族の土着的な信仰に関わる祭祀であったと推測されるが,穢族の習俗が,元来,異なる政治圏に属した集団を結びつける祭祀を生みだしたとも言える。

 新羅において6世紀初頭に公認される仏教は,それに先だって旧高句麗地域からの伝来を示す逸話がある。また,新羅の初期仏教は新羅土着のシャーマニズムに融合することによって定着を果たしたと見られているが,そうだとすれば,新羅の仏教受容の媒介者として穢族の存在は軽視できない。穢族が高句麗と新羅にまたがる南北の領域を移動する民であり, 殺牛祭祀のように穢族の土着信仰が新羅の祭祀に深く関わっている事例がみいだせるからである。

 新羅が南部の加耶地域を統合するのは仏教の国家的受容をはたした6世紀後半に入ってからであるが, 新羅が洛東江を南北に貫く交通路として確保し,加耶諸国を統合した後に,新羅による政治統合とともに推し進められたであろう文化統合には,上述のような土着の信仰と融合した祭祀や仏教は深く関わっていたに相違ない。依然として具体的な史料による裏づけに欠くものの,穢族の動向を媒介にさせることによって,かつての辰韓・弁韓以来の韓族の地における習俗や信仰の統合過程についても,これまで見えなかった一面が浮き彫りになるものと思われる。

4.近代化における西洋文明の受容過程

 高度な文明に飲み込まれずに,民族の独自性を維持しつつ, 文明を受容していくことは容易ではなく, 相当に困難なことである。その中で,楽浪地域文化圏のあり方は,東アジアが19世紀初頭以降, 西洋文明にさらされながら近代化していく過程,あるいは現代で言えば,グローバリゼーションの名の下にアメリカ化していくプロセスを考えるときに,従前の文化を,文明とどのように折り合いをつけて維持していくかという課題に関して,参考になるのではなかろうか。

 19世紀後半以降の日本は,西洋文明との葛藤の中で独自の西欧化を進めながら近代国家の形成をとげる。韓国や中国,台湾をも含めて東アジアにおける国民国家の形成過程には, 近代日本のそのような西欧化の体験が深く刻み込まれている。近代日本は,西洋をモデルとした近代国家を創出するために,近代的な市民社会の諸概念を導入しようとしたが,当時の知識人たちはそれまで東アジアで培ってきた儒教の経典,仏教経典,中国の律令で使われている法律用語などを駆使して翻訳語を創り,近代の西洋文明を変容させながら独自の方式で受容した。世界の中で西洋文明の洗礼を受けた国々の中で,このような例はほとんど見られないと思う。大半の国々は西洋のことばをそのまま受け入れざるをえなかった。 

 近代文明の基本的語彙は,まず日本で徹底的に,英語をはじめとする西欧語から漢字を用いた翻訳語に置き換えられた。例えば,デモクラシー=民主主義,ピープル=人民,リパブリック=共和国などである。そして, いったん西欧語の翻訳語が創案されると,朝鮮や中国に伝播し受容されていった。そのような過程を跡づけることはそれほど難しいことではない。「朝鮮民主主義人民共和国」という国名も,朝鮮という言葉以外は,すべて近代日本が翻訳した西欧語を用いている。

 ところで,近代日本では,英語を国語として導入すべきことを主張した人もいた。例えば,明治時代に森有礼は, 日本語が「われわれの列島の外では通用しない貧しい言語」であり,「英語を話す種族の商業力」を獲得することが, 商業民族である日本の「独立保持の必須条件」と主張した。それに反対した馬場辰猪の主張はこうであった。英語を国語にすると,お金と暇のある上層階級は英語にアクセスできるが,そうでない人たちは英語ができなくなる。国民国家としての国民意識を形成するに当たって障害となり,むしろ上層階級と下層階級は完全に分離し,二つの階級の間に共通する感情がなくなってしまう恐れがある。要するに国民国家を形成するに際して犠牲にするものが多いというのである。

 このような近代西洋文明を日本が受容する際の格闘の一場面には,漢字文化の伝播と受容過程にも類似した姿をみることができる。古代においては朝鮮半島の高句麗が媒介した受容と変容のプロセスは,近代においては日本が媒介するかたちで,朝鮮半島では植民地という過酷なプロセスを経ながらも進行していった。そして近代日本の格闘の成果を土台にして,その後の朝鮮は,西洋文明と向き合うことになった。その媒介者の役割をみるときに,楽浪地域文化の枠組み設定の意味も浮かび上がるのではないかと思う。

 現代社会は西洋文明によってあたかも一元化されてしまったように見えるが,「楽浪地域文化」の設定による東アジア史へのアプローチは, この地域の文明と文化の関係を新たに見出す手がかりになるのではなかろうか。いまグローバリゼーションの進行する現代世界にあって,文明,文化とは何かが問われている。世界中が一見,西洋文明にさらされ飲みこまれているように見えるが,その表層の下には, その地域の文化がいかなる姿で生き続けているかを知る必要がある。

5.東アジア共通の知的基盤

 歴史という過去の解釈は,われわれ自身が生きている時代のパラダイムに,どうしても影響を受けざるをえない面をもつ。それゆえ,できるだけその影響に対して自覚的でありたいと思う。自分たちはどのような影響を受けて歴史を見てきたのか,あるいは見ようとしているのか,を絶えず問う必要がある。私は,すでにある歴史観を絶対視するのではなく,新たなデータに基づく発見を柔軟に取り入れ,より妥当な歴史観を構築していくことを目指すべきであろうと考えている。

 東アジア地域はこれまでの歴史を通して,かなり近似した体験をしたにもかかわらず,相互の違いを述べ立てて,感情的な対立と摩擦が煽られている。経済面において高まる相互依存関係に見合ったこの地域の信頼関係をいかに取り戻すのかは危急の課題である。互いの信頼関係をつくりあげるためには,東アジアにおける歴史解釈についての共通の知的基盤が必要であろう。そのためにわれわれは,古代以来,前近代において,そのような共通の知的基盤を共有しながら文明化を遂げてきたことを再認識することは大切な営みである。

 東アジア地域では,古代においては中国文明にさらされ,近代においては西洋文明にさらされてきたが,それらの文明化のプロセスはいかなるものであり,文明化の過程で互いがどのような矛盾を抱え込んだのか。その矛盾は一国単位では見きわめることが難しいであろう。この地域の国々を広い地域で括り,一つの俎上に載せて眺めることによって初めて見えてくる論点が少なくないはずである。そのような意味で,歴史研究分野でも東アジア諸国が抱えている問題を解決するために,東アジア規模で共通の知的基盤を検証し合う必要があると思う。
(2006年8月1日)