日米中関係と日本の東アジア戦略 

同志社大学教授  村田 晃嗣

 

1.歴史は繰り返す

 いまから100年前の日本について振り返ってみたい。1906年といえば日露戦争が終わった直後で,夏目漱石が『坊っちゃん』を発表した年でもあった。その2年後に漱石は続いて『三四郎』を発表した。その中に主人公三四郎が熊本から上京するときに同じ汽車に乗り合わせた,後の恩師となる広田先生との会話の場面がある。三四郎が「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」というと,広田は「亡びるね」と答えた。この予言は的中し,1945年に大日本帝国は崩壊した。

 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』風に言うなら,戦前の日本は軍事力によって「坂の上の雲」に手をかけたときが,まさに日露戦争のころであった。しかし,その後の日本は,進路を誤り没落の道を突き進んだ。

 次に,いまから50年前の日本はどうであったか。1956年,経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表し,「もはや戦後ではない」が流行したことは周知のことである。60年に池田隼人内閣が登場し,「所得倍増計画」を発表した。当時の主だった経済学者が「10年で所得を倍増させるのは無理だ」と批判する中,エコノミスト下村治は「可能だ」と断言した。結果をみると,この10年間に名目で所得(GNP)は3倍化した。このようにして日本は,高度経済成長時代を迎えるようになった。戦後の日本は経済によって立ち「経済大国」としての道を歩んできたが,その出発点がいまから50年前であった。

 それではいまから四半世紀前(1980年代)はどうであったか。戦前の日本が日露戦争のころに「坂の上の雲」に手をかけたとすれば,戦後の日本はちょうど80年代に経済的に「坂の上の日本」に手をかけたと見ることができる。

 1985年4月に電電公社が民営化されたとき,額面5万円の株を株式公開したらピーク時には318万円になった。また東京・銀座の三越付近の地価が1坪1億円を超える高値をつけた。安田海上火災が当時としてはロンドン絵画市場最高値の58億円でゴッホの「ひまわり」を落札した。この時期はバブルの絶頂期で,金余り日本を見せつけるようなできごとがたくさんあった。昭和天皇が崩御されたのが89年1月7日であったが,同年末には株価が最高値をつけた。しかし,その直後からバブル崩壊が始まった。これは戦前の歴史とパラレルなものとみることができる。

2.1980年代と2000年代の日本政治の類似性

 <現職内閣総理大臣が在職中に病死し,その結果,総理になる予定でも器でもなかった人物が総理に就任した。その支持率の低い総理の後にパフォーマンス・個性のある人物が総理となり,日米関係を堅固なものにした。中国との間で靖国問題が深刻な外交問題となった。ベンチャー企業のオーナー社長が逮捕された。民営化が政治的争点となった。総理大臣が衆議院解散の賭けに出て選挙で圧勝した。>

 これら一連のできごとを考えるとき,小渕恵三首相以降から今日の小泉首相までの政治情勢を思い浮かべる方が多いかもしれない。しかし,ここで私が想起したいのは,今から25年程前のこと,すなわち1980年に大平正芳首相が心筋梗塞で倒れ,鈴木善幸首相が就任,その後,中曽根首相が登場する時代のことである。この事実を通して私が指摘したいことは,2000年以降の政治・経済のできごとと80年代のできごととがかなり類似性をもって起きているという事実なのである。

 長い不況を脱して,最近は日本経済の見通しがかなり明るいと指摘されるようになり,さらにはバブルの到来さえいわれるほどである。もちろん80年代ほどの元気のよさがあるわけではないが,再び日本経済が活力を取り戻しつつあることは確かである。

 一方,米国について言えば,80年代はロナルド・レーガン大統領であった。今日のブッシュ大統領もそうであるが,ともに強い政治信念をもち,強いアメリカを心の底から信じていた。実際,現ブッシュ大統領は,レーガン大統領を政治的モデルとしている。今日,ブッシュ政権によるアフガン,イラクに対する戦略を展開する中で世界中で反米世論が渦巻いているが,80年代も同様で,世界中で反核反米運動が高まった時代であった。当時はソ連がSS20などの中距離弾道ミサイルを欧州正面に向けて配備したのに対抗して,レーガン政権が主導してパーシングUなどの中距離弾道ミサイルを実戦配備した。その結果,欧州が核戦争の戦場となる可能性を憂いた欧州の人々を中心として世界中で反核反米運動が高まり,終末論的な見方が広がっていった。
 
 もし,このように21世紀の世界情勢が80年代のそれと類似しているとすれば,80年代のできごとからわれわれは学ぶことがあるように思う。

 80年代の日本が忘れていたものは,「自制」と「自省」であったと思う。79年にハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授が“Japan as Number One”(邦訳『ジャパン・アズ・ナンバーワン』)を著したが,それを裏書するように80年代の日本は活気に満ち溢れていた。それを「元気」という言葉で象徴的に表現することもできよう。当時のコマーシャルのコピーにもあらわれていた如く,侍日本のビジネスマンは24時間頑張って働くほどであった。そのような絶頂期にありながらも,経済力だけの大国としていかに世界的に大きな存在になっても,その経済力だけの限界を自覚する(自制),自らのいたらなさ,もろさを反省する(自省)ことが,当時の日本にもっとも欠けていたのではないか。
 
 その類似性から今日の日本を見た時に,今度は同じ誤りを繰り返してはいけないと思う。すなわち,自らの限界を知り,自らを振り返るという二つの「じせい」を肝に銘じなければ,再び頂点に手をかけそうになって衰退の道を歩み行くとも限らないということなのである。

3.国際政治における日本の位置

(1)日米中関係を考える上での前提条件
 日米中の三角関係は,日本にとっても最重要な国際関係であるとともに,国際社会にとってもきわめて重要な三角関係である。日本国内における日米中関係についての議論を聞いて危惧をもつのは,日米中があたかも対等の関係であるとの誤解に基づいて議論をしているのではないかということである。そうだとすれば,日本の国力の限界を心得ない夜郎自大な外交論になるのではないか。日米中の戦略的関係は決して対等な関係の前提の上に成り立っているのではないことをまず自覚する必要がある。 
 
 米中は核兵器を行使することが可能であるが,日本はそうすることができない。米中は国連の安全保障理事会・常任理事国として拒否権を有するが,日本はその立場にはない。米中の国土面積はほぼ同程度の広さを有するが,日本はその約25分の1程度の面積しかない。人口をみても,中国13億,米国2.8億,日本1.2億と日本は米中と比べてみても劣勢である。天然資源(一次資源)においても日本はほとんどないわけであるが,米中ともその点では比較にならない。食糧自給率でも米中と日本との差は大きい。こうした事実を列挙しただけでも,日本がいかに脆弱な国であり,与件が米中とは根本的に違うことは明らかである。こうした事実を前提において認識し議論をしなければ,夜郎自大の議論になってしまう恐れがある。
 
 この点を抜きに考えて,日本が米中と同じような手駒を持っているとの前提で議論を進めると,かえって外交に過剰な期待を寄せてしまうためにそこから過剰な失望が派生することになるのではないか。
 
 米中関係が改善することと日米関係の悪化が連動しているわけではない。米中関係が良くなることによって,日米安保が揺らぐことは考えられないし,日本がその蚊帳の外におかれると憂慮する必要もないと思う。日米中の三国関係を,ゼロ・サムゲームのように考えることは,19世紀の国際関係ならいざ知らず,今日の国際政治においてはそのような発想は幼稚な考え方に過ぎない。つまり,単純な変数関係ではなく,もっと入り組んだ複雑な関係の中にあるということなのである。
 
 ただ,ここで注意しなければならないことは,上述したような日本の客観的な脆弱性があるといっても,それがそのまま「日本の弱点」となるわけではないことである。
 
 例えば,ある会社の強さを考える際に,その資本金の大小,従業員数の多寡でもって測られるわけではなく,むしろその組織の特徴や弱点をリーダーが認識しているか否かによって決まると思う。この観点から言えば,日本が自らの弱さに自覚的であることが大切である。そうすることによって自らのデメリットをメリットに転化することが可能となる。これまで日本は天然資源のなさをデメリットとして認識してきたが,それによってエコ・ビジネスやエコ・テクノロジーが世界的に高い水準に達することが出来た。このようなメリット(技術力)を日本独自の長所(武器)として生かしつつ,今後深刻化するであろう中国の環境問題に対してプレーしていくことが可能だ。
 
 また,日本は世界有数の少子高齢社会であるために,将来国の活力低下が危惧されている。しかし,少子高齢社会の到来がダイレクトに活力低下に結びつくとは限らないのではないか。例えば,「毎日新聞」(2006年7月1日付)の報道によれば,65歳以上のいわゆる高齢者で働いている人の比率(労働力率)を主な先進国ごとに比較すると,日本がダントツに高いという。すなわち,日本22.2%(男性33.1%,女性14.2%),フランス1.2%,ドイツ2.9%,イタリア3.4%,カナダ7.7%,米国14.4%などとなっている。もちろんその背景には,年金などの社会保障制度の整備の程度や人々の人生観・生き方などの違いもあるだろうが,日本のように高齢者がさまざまな形で仕事をすることが出来れば社会の活力増加につながっていく可能性は十分にあるように思う。

(2)日本の課題
 日本の脆弱性に関連して,日本の高等教育機関のあり方がいま根本的に問われているように思われる。日本の多くの高等教育機関が十分な国際競争力をもっていない,とくに人文社会科学系分野ではその傾向が顕著である。もし高等教育機関のあり方を抜本的に見直してその改革に成功すれば,深刻な少子化問題も大きく飛躍するきっかけとなすことが可能である。とりわけ天然資源に乏しい日本にとって人材は最大の資源であり,その育成に成功することができれば,21世紀における日本の活路を見出すことが出来るように思う。ただこれは言うに易く行うに難い問題であるが。
 
 理科系分野は別にして,文科系分野における国際競争力のなさはきびしい現実にあると思う。例えば,世界で最も優秀な学生が,経済学を勉強するために果たしてどれだけ日本に留学してくるだろうか。経済学はユニバーサルな学問であるが,オックスフォード,ハーバード,MITではなく,東大で勉強してノーベル賞を取りたいと考える世界の選良がどれほどいるであろうか。その他の社会科学分野も同様であり,かなり深刻な現状である。日本の高等教育機関が世界との競争力をえることができるか否かは,焦眉の急務である。
 
 それから指摘したいことは,若者の英語力である。英語検定試験のひとつであるTOEICで1995年から2000年までの平均点数を出してみると,中国560点,日本514点である。この背景には,受験する人の層に日中で差があるから単純比較は難しいかも知れないが,平均点の差が50点あるという事実は,日中の英語力の差をものがたる一指標であることに間違いない。これは単に語学力の差という問題に留まらず,国際競争力の問題でもある。
 
 例えば,総理の靖国神社参拝問題についての是非論は国内問題にとどまらず,国際言語空間における問題だということなのである。総理の靖国参拝を是とする論を,その傾向をもつ国内オピニオン誌に日本語で発表したところで,その影響力の点では意味がない。もし是論を発表するのであれば,そう思わない海外の人々に対してその正当性をきちっと説明できることがより重要なことである。そのためには国際言語空間の中で,欧米や東アジア,東南アジアの知識人に向けて英語で論理的に説明しなければ戦略的な成功とはいえず,むしろ戦略的に負けているといわざるをえない。
 
 現在,日中韓の間には深刻な外交的対立があるが,実際それが武力を伴った戦争に発展するかと言えば,今日のように経済相互依存関係がゆきわたった大国同士の間にそのような戦争が起きることは考えにくい。逆に言えば,本当の戦争が戦われる確率が低いから,われわれはいま「イメージの戦争」を戦っているのである。イメージの中で正統性をめぐって戦争をしている。もし19世紀の世界であれば,総理の靖国神社参拝が是か非かをめぐって争ったときに,戦争をして解決することができた。しかし21世紀の世界では物理的戦争をすることができないので,イメージをめぐって正統性の議論をしなければならない。そして「イメージや言語空間での戦争」における武器は,戦艦ではなく英語である。このときに日本人の英語力が中国人のそれに対して著しく劣っているとすれば,日本人として大いに反省しなければならないのではないか。

4.日本外交の構造的変化

(1)長期政権と日米関係の関数
 戦後の日本外交を振り返ると,吉田茂,岸信介,佐藤栄作,中曽根康弘など,長期政権になった首相はみな例外なく日米関係で成功したことが分かる。小泉首相もその例に漏れない。
 
 安保改定を実現した岸信介は,その前に東南アジア諸国を歴訪し,同諸国との戦後賠償の問題をあらかた片付けてアジアにおける経済的リーダーシップを取れる日本を演出した。その土台の上で日米新時代を開いて安保改定に着手した。また,沖縄返還を実現した佐藤栄作も,ベトナム戦争で苦しむ米国を見て,東南アジア諸国やオーストラリアなどを回りながら,アジア太平洋地域におけるベトナム情勢をどう見るかなどの情報を収集しそれを米国に提供して沖縄返還を実現させた。
 
 中曽根康弘の総理大臣就任後の最初の歴訪国は米国ではなく韓国であった。戦後の総理として初めて韓国を訪問した。しかも中曽根首相は,自ら韓国語を勉強してソウルでの晩餐会におけるスピーチの3分の1程度を韓国語で行い,歓迎を受けた。戦前の植民地支配のゆえに日本語ができる韓国人指導者は相当数いたが,日本人の指導者で韓国語ができる人はほとんどいない中,彼は韓国語で演説し韓国人の心をつかんだ。これはある意味で「ソフトパワー」である。彼にはこのようなきめ細かい配慮があり,これを自ら「手作り外交」と呼んだ。中曽根首相は中国の胡耀邦とも関係が深かった。
 
 このように戦後の長期政権を維持した首相はみな日米関係で成功したが,同時にみなアジア関係でも成功した。アジアの中で意味のある日本,アジアの中で信頼される日本,別のことばで言えば,日本の付加価値,米国にとって価値のある同盟国日本を売り込んでいくのだ(バーゲニング・チップ)。この点で小泉首相は例外的であった。つまりそのアジア外交はかなり「手抜き」で,日米関係に専心してきた変則的内閣であった。
 
 小泉内閣の対米関係にしても,本当によかったのは最初の2年間だけであった。9.11テロのとき「われわれは米国側に立って米国を断固として支える」と闡明し「テロ対策特別措置法」を成立させた(2001年)。イラク戦争のときも,国内を始め欧州などでも米国のやり方に批判的な声が多くあったが,小泉首相は米国を強く支持した。さらに03年暮には反対の声のある中でも自衛隊のイラク派遣を実行した。このような米国を強く支持する小泉首相の決断は,大きな成果の一つであった。
 
 しかし,5年間の全体を見ると,最初の2年間の毅然たる決断で稼いだ「貯金」を切り崩して残り3年をやってきたように思う。それでも最初に稼いだ貯金が多かったので,なんとか赤字にはならずに,政権を締めくくろうとしているところであろう。後半の3年間で小泉内閣がすべきことは,毅然たる決断ではなく,きめ細かなマネージメント能力であった。その点で小泉首相は不十分であった。


 (2)政治制度の構造的変化
 小泉内閣は史上最高の緊密な日米関係を保ちつつも,アジア関係ではギクシャクした関係に陥ってしまったわけだが,私は両者とももとを正せば,同じ根っこから派生する現象ではないかと考える。小泉首相のパフォーマンス,個性から来る側面もあるかもしれないが,ここで強調したい点は,ここ数年間の政治制度の構造的変化が小泉外交を強く規定していたと分析している。
 
 第一に,選挙制度が中選挙区制から小選挙区制に変わったことにより,自民党の派閥の意味がほとんどなくなってしまったこと。かつての中選挙区制の場合は,複数候補が自民党から立つことができるので,派閥ごとに立候補を立てることが可能であったが,小選挙区制では自民党からは一人だけなので派閥の機能を失うことになった。選挙資金にしても,政党助成法の成立(1995年)によって,党幹事長が資金を一元管理して候補者に渡す旧来のやり方ができなくなり,派閥の資金分配機能が弱体化した。こうした派閥を弱体化させる制度的変更の上に,小泉首相が追い討ちをかけるように,内閣改造のたびに派閥の領袖がもってくる閣僚推薦リストを拒否して,派閥の弱体化に拍車をかけた。
 
 事実,中曽根政権5年間と小泉政権5年間を比べたときに,閣僚になった人の総数では中曽根政権の方がかなり多い。つまり中曽根首相は,頻繁に内閣改造を行って派閥の領袖がもってくる閣僚推薦リストにしたがって多くの人を閣僚として迎え入れた。その結果,自民党内を満足させる機能を発揮した。一方,小泉首相はそれを無視し続けて,彼の閣僚起用の姿勢が派閥の力を著しく弱める結果をもたらした。
 
 第二に,中央省庁再編により,内閣・官邸のリーダーシップが強化されたこと。橋本内閣のときに(96.1-98.7),中央省庁の再編がなされたが(1998年中央省庁等改革基本法成立,2001年施行),そのポイントは内閣および首相官邸の機能強化であった。つまり,内閣・首相官邸が各省庁間の調整機能を発揮するようになり,官邸スタッフも充実した。小泉内閣は,官邸のリーダーシップが構造的に強化されるという変化の恩恵を十分受けた。
 
 第三に,21世紀に入り外務省に相次いでスキャンダルが発生したことにより,外交政策の形成過程における外務省のプレスティージ,影響力が低下した。さらには影響力の低下した外務省から官邸が外交政策のリーダーシップをも奪い,総理主導の外交が展開するようになった。
 
 このような構造的変化は,小泉内閣の対米関係にはプラスに現れた。総理が,ときには官邸スタッフも動員しながら,場合によっては外務省や防衛庁の官僚機構の調整を飛び越して毅然としたリーダーシップを発揮し,決断を下した。ところが,対アジア関係の場合は,うまく機能しなかった。
 
 例えば,対中関係が難しくなったときに,かつてであれば,竹下派,橋本派などがでてきて政府と中国との調整役を行った。しかし,上述したように派閥の力が弱体化したためにそのような機能を発揮することができなくなった。また外務省においても,いわゆるチャイナスクールなどの専門家集団がそれなりの調整役を果たしてきたが,相次ぐスキャンダルなどによってチャイナスクールそれ自体がマイナスイメージを持つようになり実務家としての調整役機能が大幅に低下することになった。
 
 小選挙区制度とも関係するが,総理自身が外交問題についても直接有権者に呼びかける機会が非常に増えたことがある。逆に言えば,トップリーダーの外交姿勢に関して,世論の影響を直接受けるようになったのである。ことに対アジア問題では,そのときどきの世論に反応してトップリーダーが世論迎合的に外交を展開する素地を作ってしまった。
このような構造変化が,日米関係においては総理の毅然たる態度を促す方向に働いたのだが,対アジア関係では世論迎合型の外交を苦にしないありようを同時に作ってしまったように思う。

(3)ポスト小泉政権の課題
 もしこのような傾向が,構造的な変化に起因するものであるとすれば,ポスト小泉政権においても受け継がれることになるだろう。リーダーの個性・パフォーマンスがそれなりに影響するとしても,やはり上述の構造的変化に伴う傾向を免れ得ないとすれば,対米関係と対アジア関係との間の難しい局面を引き継いで味わうことになるのではないか。
 
 国と国の関係を考えたときに,首脳同士の個人的関係が親密であることに越したことはないが,それだけに依存して,大きな国のマネージメントを維持することは不可能である。その意味で,国相互間の制度的交流を深める必要がある。省庁など国の機関と米国の関連機関との交流はそれなりにやっているが,その中で一番見失われがちなのが議会同士の交流である。例えば,日本から米国に行く国会議員は年間80人以上いるのに,米国から日本に来る連邦議員は年間一桁に過ぎないという。米国内の立法府の影響力を考えたときに,われわれはもっと米国・立法府の連邦議員の中に日本を理解してくれる議員を開拓していかなければならない。
 
 とりわけ米国の民主党議員の中に,日本に関心をもってくれる議員を増やす,民主党の外交専門家の中で日本の重要性を理解してくれる人を増やすという働きかけを,朝野を挙げて積極的に取り組み,人材の掘り起しを進めなければならない。大きな国同士の同盟関係においては,首脳同士の緊密さもさることながら,それを支える裾野の広い同盟関係のマネージメントが求められているからである。

5.最後に

 日本でもよく,「米国的民主主義,米国的自由という価値観を世界に押し付けるのはよくない」との批判を聞くことがある。それならば,米国的民主主義と日本的民主主義とはどこがどのように違うのか。それらにほとんど違いがないならば,○○的と形容句をつける必要はないだろう。さらには,われわれ自身がどのような民主主義を信じているのかを問わなければならなくなる。そうした点を抜きして「米国的価値観の押し付けだ」と批判するのは片手落ちではないか。
 
 米国が民主主義や自由という価値観を世界に広めようとする際に,米国の民主主義的政治制度を広めようとしているのではないと思う。西欧諸国の政治制度を見れば,米国のそれと違うのに,それに対して米国は口出ししない。米国が主張する民主主義・自由という価値観の核心は,政治権力に対する言論の自由の担保と政権の平和的交代可能性である。この点は,さまざまな宗教や民族等の違いを越えて実現可能なファクターである。それはユニバーサルな価値だからである。
 
 現代国際政治における理念の役割は,今後益々大きくなっているように思う。普遍的理念を語れる外交,それが外交の力・構成要素である。たとえその価値観を信じていなくても,普遍的理念を掲げる外交を展開していかなければ,21世紀の外交競争の中では,旧来的な勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の考え方だけでは,既にその段階で劣勢に立っていると言えよう。
 
 最後に,米国の神学者ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉は,国際政治や外交を考える上で非常に示唆的なのでここに紹介する(注)。
神よ,

 変えることのできるものについて,
 
 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
 
 変えることのできないものについては,
 
 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
 
 そして,
変えることのできるものと,変えることのできないものとを,

 識別する知恵を与えたまえ。
 
(大木英夫訳)

 この祈りは,国際政治を行う全ての国に,勇気,諦観,知恵が問われていることを教えてくれる。政治においては望むことが全て実現できるわけではない。しかし,変える気(意思)がなければすべてが現状維持であって,所詮力と力が均衡維持されていればよいと考える没価値的な勢力均衡タイプの外交にならざるを得ない。また現状を積極的に変えようとする理念が大切ではあるが,どんなに熱情的な理念を持っていても機会と力とが重なり合わなければ,思いだけでは現実は変わらない。さらに5年,10年では変わらなくても,100年単位でないと変わらないこともある。変えようとする勇気,しかしできないことも多々あるというあきらめ(諦観),それらを識別するとともに,国際情勢を適確に判断することのできる幅広い知識・知恵が必要なのである。それらのどれ一つが欠けていても,無味乾燥な国際政治,希望だけの政治,観念論の国際政治のいずれかに陥るしかない。
 
(2006年7月1日発表)

注 ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr,1892-1971)
  米国の倫理学者,神学者。この祈りは,マサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で,1943年の夏に説教したときの祈りといわれている。英語では下記の通り(別のバージョンも伝わっている)。大木英夫によると,原文と訳文との順序が逆になっているのは,「そのときすでにそのような訳が慣習になっていたからだ」と説明している。
  
"The Serenity Prayer"
 O God, give us serenity to accept what cannot be changed, courage to change what should be changed, and wisdom to distinguish the one from the other.