モンゴル民族の世界観と異民族統治
―その文明史的意味

亜細亜大学教授 鯉渕 信一

 

1.モンゴルの魅力

 20世紀初頭から旧ソ連が崩壊した1990年代初めまで,広大なユーラシアの内陸部一帯はソ連と中国によって支配されていた。例外として唯一,モンゴルという国が独立国家として存在し続けてきたのである。モンゴル国が独立したのが1921年であった。

 20世紀初頭のモンゴルといえば学校一つ,工場一つない遊牧に頼って生きる人口数十万人にも満たない弱小国家に過ぎなかった(現在の人口で250万余り)。そんなモンゴルが弱肉強食の激動の時代に,しかも中国とソ連という多くの民族をのみ込んできた大国の狭間にありながら,何故独立国家を樹立し,そして維持し得たのか。ユーラシア内陸部にはモンゴルよりも長い歴史と高い政治性を持ち,はるかに多い人口を抱え,豊かな文化を育んできた民族が数多く居住している。ユーラシア内陸部の地図を眺めていると,そんな中で「何故モンゴルだけが」という疑問が繰り返し浮かび上がってくる。

 もちろん背景には様々な政治的力学が働いたわけだが,その根底にはモンゴル民族自身に侵し難い何かがあったのではないかと思ったりもする。例えばそれは13世紀のチンギス・ハーンを始祖とする空前絶後のモンゴル帝国の偉大な歴史に対する周辺民族の畏敬であり,それに裏打ちされたモンゴル民族自身が持つ威厳ではなかったか。人口規模や経済力からいって,現在のモンゴルは弱小国家といえるが,彼ら自身は自国を辺境の弱小国家などとは露ほども思っていない。世界に冠たる歴史を持つ,世界文明の一角を担ってきた偉大な国家であり,民族であると誇りに満ちている。事実,堂々として威厳に満ちた雰囲気を漂わせており,不思議な魅力を秘めている。

 さらに,民族固有の文化の喪失や歴史の断絶という状況が多くの少数民族に見られる現代にあって,小国ながらもモンゴル語を公用語とし,自らの文化をしっかり継承しているモンゴル国の存在は,文明史的な意味においても重要な問題を提起している。まさにモンゴル系諸集団の中で強い存在感を占めている感がある。

 日本では遊牧民を粗野で非文明的とする見方が少なくないが,それは日本が歴史過程で遊牧はおろか牧畜というものを一度も経験したことのない民族であったために生まれた偏見だと言っていい。欧米諸国はもとより,ユーラシア大陸の諸民族にとっては遊牧民の生活や世界観は身近でなじみやすく,理解しやすい対象である。日本人の対遊牧民観こそ,むしろ世界の中で異質なものだと考えていい。

ここではモンゴル民族のもつ世界観や伝統について,遊牧というその風土的背景から考えてみようと思う。

2.モンゴル民族の世界観

(1)天(テンゲル)崇拝という敬天思想
 民族の世界観,精神世界を考える上で,その地域の風土,気候が重要な要素であることはいまさら指摘するまでもない。モンゴルの自然は,時に冷酷なまでに厳しい。零下40度にも達する冬の凍てつくような寒さ,春の吹雪や砂嵐,また大地を干し上げてしまうほどの夏の日照りなどは,大量の家畜を死に追いやるのみならず,人間をも死に至らしめるほどの力を持っている。そんな厳しい自然を前に人間はなすすべもなくただ畏れ,祈り,その自然の怒りが解けるのを待つ以外になかった。

 古来モンゴルの人々にとって,もっとも畏敬すべきその自然とは「天」であった。その天の対極として大地を,山,水,火などを,また天の属性として太陽,月,星などを敬う。日本人も山川草木ことごとくに神が宿るという自然観を持つが,モンゴルの人々は自分たちを覆っている天そのものを最高の存在だと考えている。

 モンゴルの大地は一部の森林,山岳地帯を除いて一望さえぎるもののない大平原地帯である。樹木の生い茂る日本と違って,そこで人々の目に映るのは頭上を覆う「天」か,足元に果てしなく広がる大地だけである。その天と地は地平線の彼方で合体し,境が判然としなくなってしまう。自然が荒れ狂えば身を寄せる逃げ場もない。ただただ天に猛威のしずまるのを祈るしかない。そのような自然環境の下で人々が「天」を信仰し,その意志に従おうとしたのはごく自然のことであったろう。

 モンゴル人にとってのその「天」とは,抽象的な天でもなく,地球の裏側の天でもなく,モンゴル人自身の頭上を覆う天そのものである。人々はその「天」を絶対的支配者,摂理の力と考えたが,「天」の背後に至上の神(唯一神)を想定はしなかった。それは日本の「神」でもなく,キリスト教のいう「ゴッド」でもなく,中国の「天」とも異なるものであった。この「天」をモンゴル人は「テンゲル」と呼んだ。モンゴル人の考えによれば,「テンゲル」は人間界を支配し,人間の一切の行為の洞察者であると同時に,正邪善悪の審判者として天罰を下し,正義を守り,ときに人間界に霊を与え得る絶対的存在であった。モンゴル人はこのテンゲルの庇護なくして安心を得ることができないかのようである。

(2)自立の精神
 日本人は古来,狭い田畑を囲んで村社会を築いてきた。その村社会は他人に気配りし,互いに助け合うことで成り立ってきた。子供への教育で「人様に迷惑をかけるな」,「和を乱すな」と異常なまでに強調することに,日本社会の人間関係を象徴的にみることができる。これは聖徳太子の「17条の憲法」から変わらない。

 一方,モンゴルでは「他人に迷惑をかけるな」ということは,それほど重要な徳目ではなさそうだ。40年におよぶ私の実体験でも,親が子供に「他人に迷惑をかけるな」と教えている場面に出くわしたことは皆無に近い。ではモンゴルで親たちが子供に生きるために大切なこととして教えることは何かといえば,第一に「自分のことは自分でやれ」という自立の精神である。

 モンゴルの遊牧という暮らしの中では,極端な言い方をすれば助け合っていては生きられない。助け合う,もたれあうことは自滅をもたらすことになるのである。例えば大雪の時,「さあ大雪だ,皆集まれ,助け合って雪害を乗り越えよう」と人々が一箇所に集まったらどうなるか。人と家畜が一箇所に集中すれば,それでなくても牧草の乏しい季節,大雪でさらに牧草が乏しい中で牧草はますます乏しくなり共倒れすることになってしまう。遊牧生活は大雪だ,旱魃だと自然が厳しくなれば厳しいほど,人々はできるだけ離ればなれに家畜を放牧しなければならないのである。時に家族さえも家畜群を小さく分けて離ればなれになって放牧する。他人に頼ってはいられない。それぞれが過酷な自然の中で,自分の力で生きなければならないのだ。常に自然の危険と隣り合わせの中に生きる彼らにとっては,助け合いより,協力より,自分の道は自分で拓いていくという自立の精神こそが大切なこととなる。「自分のことは自分でやれ」という自立の精神は,幼い3〜4歳のころから徹底的に叩き込まれる。

 この自立の精神は,さらに民族の独立精神へと結びついていく。14世紀半ばに元朝が滅んだ後,モンゴル民族は北アジアの一角に勢力を後退させ,清朝時代にはほとんど民族としてのエネルギーを失ったかにみえたが,しかし奥深いところで民族的団結を失うことなく,20世紀になって独立を回復し大国の狭間で生き残ることができたのである。もちろん,その民族の精神的な核にチンギス・ハーンという英雄がおり,それが団結を促す求心力として大きく作用したことは否定できない。もしチンギス・ハーンという求心力と自立する民族魂がなかったら,近代から現代にかけての激動の中で生き残ることができなかったかもしれない。

 ただ自立の精神はうまく機能すればいいのだが,行き過ぎると利己主義につながってしまう。へたをすると一人一人が我を張って他との協力がうまくできずに,ばらばらになりかねないという欠点もあわせ持つ。強力なリーダーがいる場合はいいのだが,それぞれ自己主張が強いためにリーダー不在の状況下では容易に団結ができず,集団は簡単に分裂してしまう。わが道を行く者があちこちで頭をもたげて覇を争い,社会混乱を招くのだ。事実,強大な権力不在の時には,モンゴルは内紛の連続で国力を弱める歴史を繰り返した。卑近な例でも,わずか1年足らずで,3人で始まった会社が3つの会社に,4人で作った会社が4つに分裂したという例を私自身,身近に数多く見ている。

 自立の精神を基本とするモンゴル人は,家族内においても親子,兄弟が寄り添って,もたれあう姿はほとんど見られない。最近の日本では,親離れできない子供の増加が指摘され,また「パラサイト」のような現象が見られるが,モンゴルにはそのようなことはない。日本では「親は子供のために」がすべてに優先する傾向が強く,子供のために骨身を削ってその支えとなるが,モンゴルでは逆に,「子供は親のために」という考えが強い。従って,子供が親の手助けをすることは当然であり,それを幼少の頃から叩き込む。家族の絆は強いが,子供は親にもたれない,兄弟間もそれぞれが自立して生きていく。つまり,家族さえも寄り添うのではなく,個々が自立するなかで結びつきを持つ関係なのである。ただ「自立」といっても,西欧における「個人主義」とはやや内容を異にする。先に述べたように,あくまでも遊牧生活の生業を土台にして育まれた考え方である

(3)チベット仏教(ラマ教)の影響
 厳しい自然の中から生まれたモンゴル民族の信仰,世界観は,似たような自然環境でもある中東地域の砂漠に生まれた一神教の世界とはまた違ったものである。モンゴル西方に広がるイスラーム世界とは歴史的にも長年にわたりさまざまに接触してきたのだが,その信仰がモンゴル民族の中に浸透することはなかった。モンゴル人がイスラームに改宗したという例はきわめて稀である。

 イスラーム教徒が隣接して居住し,民族的接触も少なくなかったにもかかわらず,何故イスラームがモンゴルに浸透しなかったのか。明確な理由は分からないが,天を中心とする自然万物を敬う多神教的モンゴル民族古来のシャーマニズムに一神教のイスラームが適合しなかったのであろう。モンゴルにはチベット仏教が広まり,清朝時代の最盛期には成人男子の4人に1人が僧侶という仏教国家となる。仏教は一般に自然崇拝の世界に広まりやすいといわれるが,モンゴル民族の自然観がチベット仏教を受け入れる大きな要素であったことは間違いない。

 チベット仏教がモンゴルに入った第一波は,13世紀のフビライ・ハーンの元朝のときであった。フビライ・ハーンは中国を統治するに当たり,中国化するのを嫌ってチベット仏教の高僧パクパを帝師として迎え,チベット仏教を取り入れた。しかしこの時は王朝の上層部から民衆へ広めるというかたちであったため,広く浸透するところまではいかず,元朝崩壊とともに衰退した。その後,16世紀中頃,アルタン・ハーンの時代にモンゴル勢力が強大となり,チベットまで軍を進めたのを契機に再びチベット仏教がモンゴルに入ることとなった。元朝時代と違って,兵士が直接チベット仏教に接したこともあって民衆レベルまで一気に浸透し,全モンゴルを覆うほどに広まっていった。仏教の中でもチベット仏教が受け入れられたのは,それがモンゴルとよく似たチベットの自然環境,遊牧という暮らしの中で育まれたものであったからだろう。

 モンゴル人の死生観には,人間は死んだら天に帰るという天崇拝に基づくシャーマニズムの考え方とともに,チベット仏教の影響による「生まれ変わり」の考え方,いわゆる輪廻転生思想がある(活仏などはその好例)。つまりモンゴルには人が死ぬと天に昇る魂と六道の世界に生まれ変わる魂があるということである。このような考え方は現代でもしっかりと根付いている。インテリ層の部類に入る私の知人が,親が亡くなったとき,寺院に出かけて僧侶に故人の生まれ変わりを占ってもらう例をいくつもみている。

3.騎馬民族のガバナンス(統治能力)

(1)異文化に対する寛容性
 モンゴル民族には,前述したように多神教的なシャーマニズムが基層にある。そのためか異宗教に対する寛容さと異文化に対する謙虚さを持っている。

 モンゴルは異文化,異宗教を排撃したり,弾圧したりした歴史を持たない。唯一,1930年代の社会主義時代に宗教弾圧の歴史が残っているが,それはスターリン主義の影響でソ連の政治的圧力のもとでやむを得ず行われたもので,モンゴル民族の心情から生まれたものではなかった。

 日本は第二次世界大戦中に朝鮮半島や中国大陸で自らの価値観をさまざまな形で現地の人々に押し付けたとして,近代日本史の汚点としてしこりがいまだに残っているが,モンゴル民族の世界支配はずいぶんと違ったものだったようだ。

 チンギス・ハーンをはじめ歴代のモンゴル王朝のハーンたちの異民族統治をみると,「民族それぞれの習俗によって治めよ」というのが基本だった。モンゴル帝国内にはおびただしい数の民族がおり,さまざまな宗教,文化が混在したわけだが,それらを排斥することも,抑圧することもせず,寛大,平等に扱い,むしろ各民族の制度,習俗を活用し,その上にのって統治を行ったのである。例えば,イスラームのホラズム王国との戦いは,チンギス・ハーンが交易を求めて派遣した使者をホラズム側が殺害し,さらにその非を問うために送った使者をも殺害したことからその報復として7年の歳月をかけた熾烈なものであった。しかし勝利後は,「習俗によって治めよ」としてイスラーム弾圧などをしなかったばかりか,優秀だと思えば,敵方だった人材さえも起用している。強大な征服民族としては,他に例をみない寛容な異民族統治だったといっていい。元朝を建てたフビライ・ハーンもモンゴル民族が中国化することを警戒してチベット仏教を取り入れたりしたが,中国文化には深い理解を持ち,中国の伝統的統治機構を踏襲して統治した。

 人材登用の面からもその寛容さが見て取れる。身分や出身,それがもと敵方であれ,外国人であれ一切問わず,その人物の力量に応じて登用し,活躍の舞台を与えたのである。モンゴル帝国のリーダーたちの中には,そうして登用された者が数限りなくいる。また異宗教への寛容さということでは,チンギス・ハーンの長子ジュチ,末子トゥルイ,孫フビライ・ハーンなど,キリスト教徒の妃を迎えた者も少なくない。

 モンゴル帝国は,ユーラシアの大半を支配するほどの勢力を持ったわけだが,当時の人口は数十万人にも満たなかったであろう。その人口であの広大な世界の統治を可能ならしめたのは,高度な統治機構と異民族をうまく活用する知恵に他ならなかったであろう。モンゴル帝国は,力のみで統治できる広さの限界をはるかに超えていた。

 日本もモンゴルに似た多神教の世界だが,島国で小さな村社会を基盤としてきたためにウチとソトとを区分して考える。そこから異文化への排他的な社会を生み出した。これは外国人が容易に日本社会に入り込めない実情をみても明らかだ。一方,遊牧民は移動が生活の基盤であるから他との接触が身近にある。ウチとソトを分け,ウチだけを囲い込んでいては生きていけない。そうした暮らし,社会システムがモンゴル民族の寛容さを生んだのであろう。

(2)現代に通ずる合議制によるリーダー選び 
 日本社会は先祖伝来の土地に縛られた中で主従関係が結ばれた結果,世襲が重要な社会システムとなったわけだが,遊牧社会では世襲という考え方は希薄である。モンゴルでは伝統的にリーダーは合議制で選出してきた。日本では領主が嫌いだったり,能力がなくても,領民が領主を棄てて移動することは命綱の田畑を捨てることになり容易なことではなかった。しかし遊牧社会は移動が常態だから嫌なら家畜を伴って移動すればいい。住む土地も,仕える主君も,物理的に自分の意志で自由に選べる社会なのである。
チンギス・ハーンがまだ幼くテムジンと名乗っていた頃,部族長であった父親が毒殺される。すると家来だった部族民たちはテムジン一家を棄てて新しいリーダーを求めて去っていってしまう。草原に取り残されたテムジン一家は木の根を掘り,小魚をとって飢えをしのぐ生活に落ちていく。

 日本の武士の道徳からみれば,到底考えられない冷酷な主従関係のようにみえるが,部族民は自分が生きるために強いリーダーを求めたにすぎない。力のないリーダーの下にいては生きられない。力のないのが悪いのであって,去って行く者に罪はない。テムジンが艱難を乗り越えて次第に力をつけてくると,周辺からぞくぞくと人々が集まり,一度テムジンを棄てた部族民たちさえも戻ってくる。テムジンも当然のこととして迎え入れる。主家を棄てることといい,棄てた主家に戻ることといい,日本人の美意識からは理解しがたいものだが,これが草原の掟であった。徳川三代将軍・家光は「われは生まれながらにして将軍である」と言ったという話があるが,モンゴル社会ではあり得ない。能力のないリーダーは棄てられる。そこでは「忠臣蔵」の物語は誕生しないし,「幼君」を押し立てて世襲を守るなどという考えは生まれない。能力があってこそリーダーなのであって,そうでない者はリーダーとして認められない社会なのである。そんな意味では流動性に富む社会ということができる。

チンギス・ハーンも「クリルタイ」という部族長たちの会議体で推戴される形でハーンの位に就いた。ただモンゴル帝国の場合,チンギス・ハーンの力があまりに強大であったために,その後の後継者は彼の血統の者でなければならないという考えが定着したが,それでも血族の中から王侯貴族,部族長らのクリルタイ合議制で次のハーンを決めている。フビライ・ハーンがそうした合議制の伝統を無視して,自ら「自分が後継のハーンである」と宣言したことから帝国内の分裂が始まったという説さえある。

 このような民主的ともいえる伝統があったためだろうか,モンゴルは1990年,70年間に及ぶ社会主義体制を一滴の血も流さずに放棄し,見事な政治改革,体制変換を行ったのである。1989年12月に民主化の旗揚げからわずか1カ月あまりで一党独裁を放棄し(90年1月),5カ月後には大統領制の採用と憲法改正(同年5月)を行って自由選挙(同年7月)を実施した。そのとき与党の人民革命党はまだ政権能力を保っていたのだが,民主化を先取りするように一党独裁を自ら放棄したのである。さらに92年2月の新憲法で社会主義を放棄して民主体制を確立した。これこそ権力に固執せず,リーダーは皆で選ぶというクリルタイの伝統,民族の威厳を取り戻そうとする民族の知恵とも言うべきものではなかったか。世界的にみても,社会主義体制から民主主義体制に移行するに際して,このような静かな体制転換ができた国はモンゴル以外にない。

 また1990年7月の選挙後の新政府組閣に当たっては,与党が全議員の81%を占めながらもあえて連立政権とし,副大統領に第3野党の党首をあてた。この副大統領が兼務する国家小会議議長は閣僚の選出・任命,法律の作成などの権限を持つ重要ポストであるのに,そこに第3野党の党首を当てたのである。日本的に考えれば,圧倒的多数の与党の中から全ての大臣を任命できるのに,与野党を超えて人物本位で大臣を選任したのである。モンゴル的リーダー選びの伝統が行われた感がある。

(3)環境に対する姿勢
 モンゴル民族は天(テンゲル)を父神として最高位において崇拝すると同時に,天の対極にあって人や自然を育むエネルギー源である大地を母神として祀り,その属性として山や川,湖,樹木を大切に祀る。
人々は動物に血管があるように大地も生きていて血管があると考え,春に木を抜くこと,土地をむやみに掘り返すことを厳しく戒めてきた。乾燥しきったモンゴルの大地は,わずかでも傷つけることが許されない。その傷口から砂漠化が広がるのである。遊牧民が一季節を過ごして新しい土地に移動するとき,生活で掘った穴を丁寧に埋めなおして移動するといった光景を今も日常的にみることができる。

 大地への慈しみは死者の埋葬方法にまで及び,伝統的な野辺送りの方法として風葬の習慣を生んだ。社会主義時代には旧弊だとして排斥されて土葬が一般的になったが,元来モンゴル人は土葬を嫌う。厳寒の冬季など土葬が困難な自然環境のなせる業でもあろうが,土葬は屍体が土をけがし,掘ることで大地を傷つけると考える。風葬こそ風土に適しており,草原に何も痕跡を残さず,大地も傷つけず,春を迎えればそこには花が咲き,狼や鳥に餌として屍体を与えることで功徳にもなるというのだ。

 火や水,山を神聖なものとして尊ぶ文化は世界各地にあるが,モンゴルの場合,火や水の持つ神秘性,浄化力に加えてその貴重さが神秘性を高める要因になったかに思える。モンゴルは北部の森林地帯を除いて,国土の大半が樹木のないステップもしくはゴビと呼ばれる半砂漠の世界である。そうした風土での火や水の貴重さは想像に難くない。

 モンゴルにはチンギス・ハーンの定めた「大ヤサ」と呼ばれる法典があるが,そこには「水または灰の中に放尿したるものは死刑に処す」,「水に手を浸すことを禁じ,水を汲むには器をもってすべし」といった条文がある。今でも川に小便をしない,川で直接洗濯をしないなどといった習慣を残している。また13世紀の宣教師の旅行記には「小刀を火に突っ込まない」,「小刀を火に触れさせない」といった記述があるが,こうした火に対するタブーは現在でも守られている。

 大地を大切にすることの一つの表れが,「オボー祭」という祭りである。雨乞いの祭りから始まった習俗とも言われており,一般的に山の頂に石積みをしてそれをお参りするものだが,それは大地を祭ると同時に天を祭ることになる。

 このような伝統は現代にも生きている。特に興味深いのは,1990年の民主化運動の過程で掲げられたスローガンの一つに「モンゴルの自然を守ろう」,「古来の自然観を復活しよう」というのがあったことである。社会主義体制の時代の宗教弾圧下で希薄になった天崇拝の考え方を取り戻そうという運動だが,民主化運動の中で「自然を守ろう」,「民族の自然観を取り戻そう」というスローガンが掲げられたのはモンゴルだけではなかったろうか。

 そして民主化運動で誕生した最初の国家元首オチルバトが民族の祭典「イフ・ナーダム」で白い民族衣装に身をまとい,白馬のたてがみで飾ったトクに額ずき,天を仰いで祈りを捧げて民主化宣言を行ったのである。公的な場で70年ぶり行われたこの国家元首の天への祈りを,息をのんでみていた大群衆は,やがて胸の高まりを抑え切れないかのように大歓声と拍手で讃えたのである。

4.新しいモンゴル

(1)甦るチンギス・ハーン――大モンゴル建国800年記念
 2006年はテムジンがハーン位に即位してチンギス・ハーンと名乗った1206年から数えて800年目に当たる。モンゴルは今年,「大モンゴル建国800周年記念年」として国を挙げて祝っている。その盛り上がりは異常なほどで,モスクワの赤の広場に相当する政府前広場にあった革命の父・スフバートル廟は取り除かれてチンギス・ハーン像が建ち,国際空港・ボヤント・オハー空港はチンギス・ハーン空港と改名された。国会で首都ウランバートルの名称をチンギス・ハーン市に変えようという提案さえ飛び出す勢いである。

 かつてソ連型社会主義時代のモンゴルでは,民族の英雄チンギス・ハーンは「残虐な侵略者」だというレッテルが貼られて称賛することはおろか口にすることさえタブー視されていた。表向きは「残虐な侵略者」ということが批判の理由だったが,内実は中国の内モンゴル自治区,ロシアのブリアート自治共和国など各地に分散しているモンゴル民族に求心力が働いて民統一運動に発展してしまうことを恐れてのことであった。1960年代半ば,チンギス・ハーン生誕800年を祝おうと企画した学者たちが数多く粛清された歴史は,人々の記憶に生々しく残っている。今年の800年祭の盛り上がりはその記憶を吹き飛ばそうとでもするかのようである。長い抑圧への反動でもあった。

 1990年の民主化以降,あらゆる束縛がなくなり,人々は英雄・チンギス・ハーンを取り戻した。そして世界各地に居住するモンゴル系の人々が民族の故地であり,「カマド」でもあるウランバートルに集う会合が行われたりしている。

(2)日本とモンゴル
 モンゴルが民主化を達成した1990年以降,日本とモンゴルの関係はきわめて密接になった。日本はモンゴルに対する最大の支援国となり,モンゴルの日本への期待は高まり,さまざまな分野での交流が深まっている。

 2004年10月〜12月にかけて在モンゴル日本大使館がモンゴル国立大学社会調査研究所に委託して対日世論調査(対象者2000人)を実施したが,その結果をみると,日本は「最も好きな国」で第2位(33.4%,第1位米国41.8%),「今後最も親しくすべき国」で第1位(37.4%),「行ってみたい国」で第2位(31.3%,第1位米国40.8%)など,強い親日感とともに,日本への強い期待がうかがえた。この世論調査でも明らかなように,日本に対するイメージはとてもいい。世界でも有数の親日的な国といえると思う。

 しかし,20世紀初頭の日本の大陸進出から第二次世界大戦終了までの間,日本はモンゴルにとって決して好ましい国ではなかった。満蒙国境を挟んで常に敵対し,日本はモンゴルの国家建設の障害であり続けた。その象徴が1939年のハルハ河戦争(日本では「ノモンハン事件」)である。こうした負の関係を持つが,モンゴルはそれを怨念として残そうとはせず,むしろ未来志向の姿勢でそれを乗り越えようとしているかにみえる。

  戦争の傷跡が容易に癒えないアジア,とりわけ東アジアの厳しい状況の中でモンゴルのような国は有り難く,かつ貴重であると思う。そうした意味でも,日本人がモンゴルに対する理解を深めるべく更に努力することが必要なのではないだろうか。
(2006年6月9日)