成熟社会に必要な「死を見据えた教育」 

浅井学園大学助教授 加藤 隆

 

1. はじめに

 私はこれまで内村鑑三について教育とのかかわりから研究してきたが,その大きなテーマの一つが道徳と宗教の関係である。つまり教育の本質をつきつめていくと,宗教の問題にどこかでぶつからざるを得ないからである。教育という営みは,最終的に目の前の人間(子どもたち)をどう育てていくのか,あるいはどのような状態にもっていくのか,さらには人間とはどのような存在なのか,などの問いを追求していく。そして,最終的には,哲学的第一命題である「人間とは何か」に行き着く。そうするとやはり宗教との接点を考えざるを得ない。

 ところで,最近の道徳教育では,従来の道徳教育に加味されて「生命への畏敬の念」という観点が打ち出されている。「畏敬」というキーワードが学校教育に導入されたわけだ。そして道徳と宗教がもっとも明確なかたちでかかわりあうのは,「死」の問題であろう。死を目の前にして「よりよく生きた生であったのか」が問われるように,死のなかに「生」が集約されている。「死」の問題は,自分や身内の身近な問題として突きつけられたときに,自分が生きるか死ぬかの岐路に立つという実存的命題として自分に迫ってくる。しかし,死の問題は,実存的問題でありながら,他の経験科学と違って追体験,再経験することのできない一回限りのできごとである。

このような視点から,道徳と宗教の関係,教育の本質を考えるために,死の問題を取り上げてみたい。

2.死をめぐる昨今のできごとから

 死に関する最近の出来事の中から,私が気になるものをいくつか紹介することからはじめたい。

1)「死んだ人が生き返ることもある」ととらえる子どもが5人に1人の割合でいるというアンケート結果である。この調査を行った精神小児科医の中村博志によると,死を正しく認識しているのは3割に過ぎないとし,「死から遠ざかっている今の子どもたちは,何となく死を認識しているに過ぎない。死はタブー視されてきたが,自然に話し合い,正しく学べる機会を積極的に持つことが必要だ」と話している。(「北海道新聞」,2004年12月12日付)

2)自殺サイトの増大とそこを通しての集団自殺者の増加である。ここには,人間の生きる意味,存在意義がわからないという重大な問題がある。

3)スピリチュアルな内容のテレビ番組への共感である。例えば,「オーラの泉」という深夜番組は,前世や守護霊,自分の存在意味などについてゲストとともに語り合うプログラムで,視聴率が10%を超えている。この番組に「愛の伝道師」として出演している美輪明宏は「若い人には信頼し尊敬できる身近な大人がいない。そういった迷える人たちのためにこの番組をはじめた。」と言っている。また,細木数子のいくつかの番組も多くの若者をひきつけている。これらの番組の特徴は,人生の問題について確信・権威を持ってはっきりと明言することである。逆に言えば,われわれの周囲(家庭や学校など)に人生のモデルとなるものがないこと,人生問題についてはっきりと教えられないことなどの課題があることを示していると思う。

4)NHKの世論調査によると,近代化が進めば進むほど減少するはずであった事柄(宗教行動,来世,奇跡,古臭いものなど)がかえって増えている。この事実が示す意味は,一体何か。

5)死や魂などは非科学的
ある教育関係の会合で,私が「死」や魂を話題として持ち出したところ大いに非難されたことがあった。つまりこの方にとって教育は,合理的,科学的にとらえられ進められるべきもので,死や魂などという中世かぶれしたような埃のかぶったテーマは教育の範疇には似つかわしくないということらしい。私は近代教育とこれからの教育を考える上でここに提出されているテーマは非常に重要なことと考えている。

 以上のような出来事は,氷山の一角だと思う。子どもたちや若者は実存に根ざしている命題について求めているのではないだろうか。あるいは自らの悩みや問いかけをまともに受け止めて語り合う人や,そのような場を求めているのではないか。もし,このようなテーマについて学校や大人たちが口をつぐんだり,タブー化してしまうならば事態はさらに深刻化(もっと言えば悲劇的に)するのではないかと思う。

3. 近代主義と死の風景の消去

 日本の近代学校は,明治以来西洋諸国から学び導入してきた制度であるが,その思想的根幹にはデカルトに始まる近代的精神があると思う。このような近代的精神(客観性,普遍妥当性,合理性の精神,数値化の原則など)が,どれほど社会的発展や人類の福祉に貢献したかは計り知れない。そして近代的批判精神によって精神的蒙昧や迷信妄信から解放されたという貢献もあった。しかし,「近代的な視点」は合理的,客観的であるという範囲を設定してその中で論じているのであり,その範疇に入らないものについては考えなくてもよい事柄か,あるいは存在しないもの,無視していいものと判断してしまった。その典型が,「死」ではないだろうか。

(1)死のタブー化の拡大の諸相
 合理性・論理性・客観性を基調とする近代精神にとって,その対極にある死は,非合理性の典型である。それゆえ近代化の進展とともに社会全体に死を語り合う習慣も消えて,死が生活の中でおぞましく,忌み嫌うことがらという範疇に追いやられてきた。これは教育関係者の中でも同様の傾向が見られる。例えば,青少年の死への関心の高まりを「オカルト・占いブーム」という侮蔑的な表現でひとくくりして,「科学的な精神が子どもたちの中から奪われつつある結果として生じている」と表現している(佐貫浩,『平和を創る教育』新日本出版社,p155,1994)。裏返して言えば,科学的な精神が高揚すれば死や占いなどの非合理的なものは子どもたちの視野からなくなっていくということである。

 生理学者・医学者であるキューブラー・ロスは,多くの末期ガン患者に面接などをして死ぬことに関する研究をし,『死ぬ瞬間』という本を著した。その多くの事例を研究すると,ほとんどの人がトンネルのようなところを通る体験をしていたが,それはその人の主観的なものというよりは客観的なものとみることができる。そして死がタブー化された背景に,医療技術の進歩があったと述べた。

 すなわち,キューブラー・ロスは,死の恐怖が増大した究極的理由として,医療技術の進歩によって青年や壮年層に高い罹患率・死亡率をもたらしてきた多くの疾病が克服されたことがあると指摘する。これは逆説のようにも聞こえるが,医療技術の進歩によって現代では,「死」が却って多くの点で昔よりずっと気味悪いものになった。言い換えれば,死はひどく孤独な,機械的な,非人間的な過程となったのである。

これに関して,私自身の経験談をひとつ紹介したい。

 10年ほど前にある病院で,親しくしていた研究者の死に際の光景を目のあたりにしたことがあった。家族全員が部屋から出され,医師が最後の治療をするという。やがて出てきた医師たちは「今お亡くなりになりました」と告げた。医師にとって肉体は精密な機械のようなものであって,精密機械の停止が死というほどに,そこには命に対する尊厳や家族との最後の別れのときなどというデリカシーも配慮も感じなかった。しかし,これは多くの人が病院で経験する日常風景である。

 このような近代精神の流れは,学校教育にも大きく影響を与えている。戦後教育の一貫した精神は「人間尊重の精神」であり,今日的主題で言えば学校教育の基本テーマは「生きる力」である。決して「死する力」とは言わない。私には,これはどう考えても片肺飛行にしか思えない。生きることと死ぬこととは,物事の両面であるから,そのバランスをとってこそ完全な教育になる。聖路加国際病院の日野原重明は,「死を日常的に考えることは,豊かな生につながっていく」と述べたことにもつながっていく。

 性教育はさかんでも死の問題については沈黙する。本来,性教育(あるいは健康教育)を推し進めていった時,死の問題に言及せざるを得ないのではないか。西欧の教育の言葉に,「死の教育は性教育の妹である」という表現があるが,死の教育を見据えない生きる教育の充実はあり得ないと思う。ちなみに中世までの人生観の基本は,「メメント・モリ」(死を忘れるな)であった。

(2)「死」への関心が放置された理由
 大人や教師にとって「死」は知の対象ではない,簡単に言えば「死について考えてもしかたがない」と捉えてきた。しかし,果たして,知をプラグマティズムで狭く限定していいのだろうか。欧米では学際的な死学(thanatology)や死生学などが,心理学,社会学,哲学,文学,医学などを母体とした学問として歴史的に定着しており,単に「死」は知の対象ではないという見方は許されないだろう。

 大人や教師の内面にも死に対する恐怖があり,死について語りたがらない,語ろうとしない「死のタブー」が形成されている。このような大人側の心象風景に対してオウム真理教の信者のコメントは痛々しいほどに考えさせられるものだった。

 ―― 一連の毒薬取締法違反の有罪判決が確定したある信者は,依然としてオウムから脱会しない理由を次のように語っている。「私がやってきた教えは,……どなたが実践しても大きなものが得られる。一番恐れている死を越えることができる。富士宮に残っている人も,日々それを目指して瞑想している。死が怖いから。教えは教えとして捨てられない。」(「朝日新聞」,1995年9月23日付)

4.「問題の次元」と「神秘の次元」

 先述したように,大人や教師にとって「死」は知の対象ではないから関心を持たないという近代精神は,どこかにほころびをもっていないか。このことを考えるヒントとして,フランスの哲学者G.マルセル(1889-1973)の考え方をもとに展望してみたい。彼は,ものごとを次の二つに分けて考えている。

@「問題の次元」
 知識が対象となり,客観的に見てHow toで解決できる次元である。近代精神の対象としているのはほとんどこの次元のことである。

A「神秘の次元」
 一方,@の次元に入らないものを「神秘の次元」と呼んだ。例えば,治る見込みのない末期患者には,How to的な手法,人知,自分の力では如何ともしがたいことがらが多くある。そのようなことがらを前にしての態度は,「問題の次元」とは異なって,驚き,不思議,畏敬,謙遜,自分の限界を認めるなどの新しい態度が必要である。大自然の営み,誕生と死(いつどこにどのように生まれ,どのように死ぬか),戦争,悪,愛,出会いなどがこの範疇に入る。つまり,知の次元から神秘の次元に入るのである。

 これを履き違えると,末期患者に対して「もう何もできません」としか言えなくなる医者,生命を人工的に操作しようとする試み,自然の営みを人間の知識・技術でコントロールしようとする試み,財力で愛を得ようとする試みなど,おかしなことになってしまう。また,このような視座は,R.カーソンのSense of Wonderや遺伝子学者の村上和雄のSomething Greatの思想にも通ずるものを感じる。

 これからの教育を考えると,近代学校は知の対象としての学問,教育を推し進めてきたが,もう一つの神秘の次元――驚き,畏敬,感動,共感,謙遜,自分の限界を認めるなどの次元――が,不可欠ではないか。

 自分の卑近な例を挙げてみよう。かつて絵画の勉強で,この作品の美しさは全体構成比がどうで,奥行きがどうでと数値化するような授業が続いた。それは頭だけの授業であった。その後,あるとき絵画展に出かけて,米国の現代作家A.ワイエスの絵画に出会った。その絵には,真っ青な空の下で開拓農家の前に洗濯物が気持ち良く広がっていた。「ああきっとこの家には子どもたちがたくさんいて,母親は子育ての喜びを感じながら気持ち良く洗濯物を干したんだろうな」と共感したら,構図や構成比の問題はもうどうでもよくなった。はっきり言って,近代教育は頭(知)の教育であったと思う。心とか身体はどうでもよいとは言わないが,二の次,三の次でしかなかった。ここに近代学校教育の限界がある。

5.時代相の変化とこれからの教育

 戦後60年を評価するときに単純に否定的にのみとらえる傾向があるが,私はそれぞれの時期に一番必要であった人間的な課題に取り組んでここまで発展してきた60年であったと思う。心理学者A.マズローによれば,人間は生まれつきの欲求に動機付けられており,それらは最も強いものから最も弱いものに至る階層状に配列されている(@生理的欲求;衣食住など,A安全欲求,B所属と愛情の欲求,C尊重の欲求,D自己実現の欲求)という。この論を借りれば,昭和40年代までは,@Aという身体面の欲求満足の時期,それから平成前後まではBCという精神面の欲求満足の時期,そして@からCまでがほぼ満たされた今日の日本はD自己実現の欲求の根底にある魂の充足や満足という欲求課題を乗り越える時期を迎えている。

 この各段階は,ひとりの人間としての人生の軌跡にも似ている。青年期は身体の時期,壮年期は精神の時期,そして老年期は魂の時期とも言える。例えば,若い時期には「食べ放題」は魅力的なメニューであっても,壮年期などになると少量でも満足するものがほしいというように変わってくる。ちょうど,昨年,戦後の還暦を迎えたということは,ひとつのエポックであった。すると,このような時代の相があるとするならば,青年期や壮年期で充実すべき教育と老年期に充実すべき教育は自ずとモードを変えなければならない。どうもこのような流れがあるにも関わらず,「若さがいい」という先入観がこの国を覆っていないだろうか。時代の相(モード)が変わったということをしっかりと認識すべきであろう。

 例えば,医師・柏木哲夫(大阪大学大学院教授)の指摘は,このことを示している。

――私はここ4,5年,「生命」と「いのち」の違いについて,とても敏感になりました。医学哲学を専攻していたある医師は,「いのち」と「生命」を見事に定義し,使い分けています。

 この先生は「私の“生命”はまもなく終焉を迎えます。しかし,私の“いのち”,すなわち,私の存在の意味,私の価値観は永遠に生き続けます。ですから,私は死が怖くありません」と言いました。

「生命」は有限であるが,「いのち」は無限である,と。「いのち」を「存在の意味」「価値観」と定義しています。

 また,先生は「これまでの医学は“生命”は診てきましたが,“いのち”は診てこなかった。これからの医学は“いのち”も診ていく必要があります」と,現代医学への助言を残され,亡くなりました。(「北海道新聞」,2004年1月18日付)

 しかし,学校教育は,時代の相に深くコミットし洞察力をもって呼応することなく,ステレオタイプ的に同じことを続けてきたように思う。壮年期にも老年期にも同じようなモードの教育を考えている。老年期(つまり人間としての成熟期)を迎えた日本に見合うような教育のあり方,トータルとしての人間教育,人間理解,人間や社会の幸福などについて,落ちつきのある風格を漂わせる国柄と教育が求められている。その試金石として「生きる力」とともに「死する教育」「死を見据えた教育」は,時代の要請ではないかと考える。

6.死を見据えた教育の姿

 それでは「死」とは一体何か。

 医師の判断による臨床死,細胞活動の停止という生物学的死以外にもいろいろな「死」の相がある。生活の場で地位・役割喪失といった擬似死,生きる意味の喪失などの精神的死(最愛の存在を失った時の思い),宗教的な死などである。その対語として,「いのち」にもいろいろな相がある。生命的ないのち,使命的ないのちがある。例えば,短い人生でも使命を果たしたときの「いのち」である。

 次に,死に際してその人の生前の死生観が問われることについて考えてみたい。

 「命はこの世に生まれてから死ぬまで」という直線的な死生観(死ねばすべて終わりだという考え)に立てば,死は人生の敗北であるとする見方に導かれやすく,葬儀も別れを重視する告別式を強調することになる。

 他方,信仰をもっている方などに見られるように,「この世の続きに来世がある」と信じる円環的,無限定直線的な死生観がある。この考え方では,葬儀は涅槃あるいは天国へ向う凱旋であり,葬儀では死者の来世での幸福(冥福)を祈ることが強調される。

 死が他の事柄と大きく違うのは,経験して学べないことである。だから考えないようにするという方法もあるわけだが,結局は各人が死に際してそのことが実存的に問われることになる。それゆえ,避けて通るというあり方は,ある健康な時期までは何とかもったとしても,実存的に問われるときに何も自分が携えている答えがないという事実に茫然自失することになる。

 先述の柏木哲夫は,「死に行く者にとって,社長であるとか,いい外見をしている,あるいは財とか権限は一切無力である。すべての鎧が剥ぎ取られてその人の魂が露わになる。」と述べた。その点,欧米では,生前から死についての話し合いがわりとフランクに自由になされており,これは大きなメリットであると思う。
最後に,死を見据えた教育実践につながるものをいくつか挙げてみる。

1)喪失体験の共有(生き物,植物,大切な宝物など)
2)家族などの愛する人の死の経験と回復体験
3)墓碑から学ぶ(内村鑑三の日本国の完成を祈るとして臨終した光景,内村の墓碑,ルツの墓碑)また,キリスト教会の地下教会(墓地,カタコンベ)
4)死の病にある人との交流

 神奈川県の大瀬敏昭校長の例を挙げたい。(「宗教新聞」,2004年3月5日/20日合併号より)

 ――(神奈川県茅ケ崎市立浜之郷小学校)大瀬敏昭校長は,冬休みの今年1月,末期ガンで亡くなった。大瀬校長は自ら「命の授業」を担当し,余命わずかなガンであることを明らかにした上で,二学期には「人が死ぬとはどういうことなのか」を児童たちに教え,考えさせてきた。大瀬校長が目指したのは,“考える授業”だというが,死を考えることこそ究極の思考であろう。そして三学期にはターミナルケアをテーマに授業をする予定だった。

 大瀬校長は「死の恐怖から逃げるために,児童たちに伝えていきたいと思った」と,その動機を率直に話している。校長の問いかけに,「(校長先生は)死んでも(自分のたちの)心の中に生きている」と考えるようになる。

 ターミナルケアを題材にすることについては,「死を認識して初めて,どう生きるかが出てくる。それを児童たちに伝えたい」と,大瀬校長は教師たちに相談する。どの教師も「子どもには無理だ」「難しい」と否定的だったが,次第にその意味を理解するようになった。大瀬校長は「いつでも自殺したい,朝起こさないでほしいと思っている」と心の中を吐露しながら,そうした気持ちを「児童たちに率直に伝えたい」と語る。

 そして,打合せを終えて職員室を後にした姿が映し出され,それが学校で見た最後の姿だという。その数日後に容態が急変したからだ。次のシーンは校長の「お別れ会」の場面になる。大瀬校長は,まさに身をもってデス・エデュケーション(死の教育)を行った。わが身をさらす教育者の生き方に心打たれた。
(2006年1月23日「北海道人格教育懇話会」にて発表)