イスラームの歴史と中東和平への展望
―「イラクの竜馬」の必要性― 

元エジプト・イラク大使 片倉 邦雄 

 

1.はじめに

 冷戦体制崩壊後の世界秩序は,米国が唯一超大国となり,経済的にはグローバリズムの名のもとに市場経済が世界を支配しつつある。そのようななか発生した9.11テロ事件は,グローバリズムを強力に進めてきた米国の世界戦略に大きな変化を起こすきっかけとなった。中東地域に関連する象徴的なできごとは,9.11テロ事件の首謀者19人中,15人が一番「親米でリッチな」産油国と思われてきたサウジアラビア出身であったこと。そのようなサウジアラビアが自爆テロの温床になっていたという事実である。そこで米国は中東地域に西欧型民主主義を植えつけようと,一方的に武力行使を行ない,イラクを手始めに民主化ドミノを狙った戦略を進めてきた。喩えてみれば,イスラーム世界に西欧的な民主主義を接木しようとしたわけだ。

 実際,イラク,パレスチナ,エジプトなど中東各地で民主化のための自由選挙が実施されたが,結果は逆にイスラーム急進勢力が台頭してしまい,米国の目論見の通りにはいっていない。元来「接木」は,もとの木の性質をよく理解してやらないとうまくいかない。とくに中東地域の歴史は非常に古く,さらに民族,宗教,文化が多様でそれらが複雑にからみあったモザイク構造を呈している。世界人口の五分の一を占めるイスラームに対する米国の理解とその対処方法は,いまだに試行錯誤の状態にあるような気がする。さらに世界各地で混沌とした情勢が展開する中,果たして真の平和と幸福を実現することが可能なのかとの重い課題を突きつけられている。

 そこで本稿では,近現代イスラームの歴史,文化,宗教などの特質をみながら,真の平和実現のためにどうすればよいのか,考えてみたい。

2.イスラームと欧米世界

(1)20世紀の中東の歴史と米国のかかわり
 20世紀の中東地域は,第一次世界大戦を契機としてオスマン帝国支配の時代が終わり,西欧列強による分割統治を基本とする帝国主義,植民地支配の時代を迎えた。例えば,レバノン・シリアはフランス,イラク・ヨルダンは英国の委任統治であった。その後,第二次大戦が終わり,冷戦時代が始まると,共産主義の拡張を抑えることが西側陣営の最大の政治課題となった。唯物論に拠って立つ共産主義に対峙するため,イスラーム諸国は米国を中心とする西欧諸国と歩調をあわせて反共政策を進めてきた。この時代は,民族,宗教・宗派などの要素は地下にもぐってあまり表面化しなかった。

 1979年にイラン・イスラーム革命が起こった。それに対して西側およびサウジアラビアなどアラブ周辺諸国はこの革命を主導した急進的シーア派による革命輸出を恐れ,その勢力を押さえ込もうと考えた。それは周辺国の中にもマイノリティではあるが,シーア派を抱えているためであった(注1)。
 イスラーム全体の中の多数はスンニ派であり,イスラーム史上,シーア派が権力を掌握し歴史の表舞台に立つことは少なかった。ところが,1979年のイラン革命以来,とくに2003年春の対イラク作戦以降,イランとイラクのシーア派間に連帯が形成され,最近では,肥沃な三日月地帯に相当する形で「シーア・ベルト」が形成されつつある。(図)

 ところでイラクの場合,シーア派が人口の約6割を占める多数派を構成していながらも,第一次大戦後はスンニ派のエリート集団によって支配されてきた。そしてイラク軍事政権に共通して見られる特徴は,いずれも反西欧・反帝国主義・親ソ連という姿勢であった。その後政権の中核を占めるようになったバース党は,もともとイスラームを政治から切り離し,政教分離を原則として発足した,アラブ民族主義,社会主義的傾向の世俗政治政党であった。その手法は,ソ連や東ドイツの秘密警察などから学んだ強権的なものであった。

 68年にバース党が政権を掌握,初代大統領としてバクルが就任した。ちなみに,バース党綱領を書いたのはシリア系のクリスチャン,ミッシェル・アフラフであった(フランスのソルボンヌ大学に留学し,ナチズム・ファシズムのような西欧的国家社会主義の洗礼を受けた)。そのあとを継いだサッダーム・フセイン(大統領在任1979-2003)は,カイロ大学法学部出身の根っからの党人で,十字軍と戦ったサラディンと同じティクリート(スンニ・トライアングル)の出身であった。イラン・イスラーム革命の輸出を恐れた西側および湾岸穏健アラブ産油国にとって,イランの動きを防圧し排除しようとする,野望に満ちた若手政治家フセインの登場は,密かな期待をもって迎えられた。米国は,頼りになる協力者としてフセインを位置づけるようになり,ある意味で彼を戦略的に利用していった。この過程においてフセイン政権は,こうした追い風を利用して軍事大国化の道を突き進んでいった。

 また79年にはソ連によるアフガン侵攻があったが,それに対して米国はアフガン国内の抵抗勢力をバックアップした。すなわちイスラーム急進派(ターリバンなど)などを含む広範なイスラーム勢力を後押しして反ソ抵抗勢力に仕立て上げた。この点でも米国は,急進イスラーム勢力を利用してきたわけだ。

 ところが,90年以降,冷戦構造が崩壊して世界の唯一のスーパーパワーとなった米国が登場して以来,民族・宗教(宗派)の要素が魑魅魍魎(ちみもうりょう)のごとく現れてきた。冷戦体制下で米国が自ら播いた種が,いま次々と芽を吹き出してきてしまったと見ることもできる。昨日の友が今日の敵となった。例えてみれば,自分が育てた「フランケンシュタイン」が,今度は自分(米国)に刃向かってきたと言える。アフガンのターリバンも、イラクのサッダーム・フセインもそうである。

 米国は主としてキリスト教国であるが,ユダヤ教徒,ムスリムもそれぞれ500万人ほどいる。現ブッシュ政権を支えているといわれるネオコン(新保守派)の人たちも宗教的背景をもっているはずであるが,それでもイスラームに対する理解はまだまだ足りないような気がする。その顕著な例が,「十字軍」的発想が政治家のことばについ現れてしまうことである。もちろん,イスラームに対する理解の不足は西洋社会に限った問題ではないが,やはり十分な配慮が必要であろう。米国はスーパー・パワーではあるが,文明の衝突の方向に突き進んではいけない。世界各地には独自の文化,民族的伝統,民族風習などがあることを十分わきまえて,行動する必要がある。

 とくに西欧近代の植民地主義,帝国主義の背景にキリスト教,ユダヤ教があったことを考えると,当時被圧迫側であった中東の諸民族は,列強の手練手管にだまされてひどい目にあってきた歴史があるために,そうした根深い殉教者・被害者意識がときとして噴出することになる。

(2)イスラームと西欧型民主主義
 次に,西欧型民主主義が果たして中東地域にうまく根づくことができるのかを考えてみたい。各国・各地域にはそれぞれの歴史・伝統というものがあるので,西欧型民主主義がそのまま移植されても,その国の大衆の福祉増進,生活水準の向上,貧富格差の解消などにつながる理想型となるとは限らないからである。

 イスラームを主な宗教とする中東地域には,例えば,昔から「ベドウィン民主主義」というものがあった。昔は複数の部族が集まって部族会議を行い,人格・執権・リーダーシップのある人物を選出して,その首長(アミール,シェーク)といわれる部族長が舵を取って治めた。しかし,選出された人物がいい政治を行わない場合は,引きずりおろすこともありえる。かつてサウジアラビアで国王が,財政紊乱を引き起こして引き摺り下ろされたことがあった。これは原始的民主主義と言えないこともない。中東の一部の国には,現在でも「苦情承り」として首長に会える場(「マジュリス」または「ディワーニーア」といわれる)があり,長蛇の列をなしている。このように中東地域には,部族社会という性格がいまだ残っている部分があるために,部族長に仕切らせた方がよく治まるという面があることもまた事実である。

 しかし,人口が増えて大きな範囲に拡大するとこのようなベドウィン民主主義では対応できなくなってしまう。それで立憲民主主義を徐々に導入する方向になっていることは確かだ。中東地域の首長制・王制を取っている国でも少しずつその方向に移行しているものの,立憲民主主義が定着するまでには時間がかかっている。

 その中で一番進んでいるのは,クウェートであろう。この国には議会があるが,第1級市民(何世代にもわたり住んでいる人々),第2級市民という区別がある。パレスチナ人は第2級市民扱いとなっている。また,サウジアラビアでは成文憲法もなく,シャリーアといわれる伝統的なイスラーム法に基づく政治が行われている。ようやく最近になって地方議会の選挙が行なわれたばかり。

 また,西欧型民主主義の導入として自由選挙を行った場合,選出された政治勢力には,それ相応のヴォイスを与えて認知していく必要がある。パレスチナ,イラク,イランでは米国からみて好ましからざる勢力が台頭してしまったが,そのような選挙の結果を否定するわけにはいかない。ここに米国のジレンマがある。

3.自爆テロとイスラーム

 最近西アジアにおいて「自爆」「テロ」が頻発している背景には,米国による一極支配と軍事優勢,パレスチナ問題の和平プロセスの挫折とイラク戦後の破局より派生した暴力の悪循環,そして貧富の格差の拡大などがあることはまちがいない。そして「イスラーム」「自爆」「テロ」の三要素が化学反応を起こして発火性の高いマグマを作り上げているのだ。そこでイスラームの宗教,思想の観点からこの問題について考えてみたい。

 ムスリムの宗教生活では,本来のイスラーム法とともにスーフィズム(神秘主義)がなくてはならない要素として発展した。この考えによると,始源においては神と人とがともに在ったが,創造の過程で人が神から分離し,求道者(スーフィー)はこの分離した点から再び神との合一を願い,そのために神秘主義的修行を積み,真の存在(神)に接近するという。

 スーフィーの主要な修行方法(ズィグル)として,常にアッラーのことを思考し,念じるように努め,さらに神の名や一定の聖句を繰り返し唱えることが奨励される。そしてそれによって究極的には,神と自己との合一の状態,亡我の境地に達するとされる。さらに集団のズィグルが教団,地域ごとに特色をもちながら発展してきた。このような神秘主義の系譜がイスラームの根底にあり,とくに草の根の間に浸透するに際して神秘主義的教団が大きな役割を果たしてきた。

 また,少数派であったシーア派には,殉教者の歴史がある。アリーの王子ハッサン・フサイン(預言者の孫)の殉教祭は特別だ(イスラーム暦の正月9〜10日に開かれる)。フサインの棺をかたどった模型や切断された手の模型などをかついだり,参加者が自ら鎖でわが身を打って血みどろになりながら,フサインの殉教の苦難を疑似体験する。ここにイスラームの殉教と結びついた自虐的法悦,恍惚境の世界を垣間見る。
 
このような祭りを「狂信的だ」ということは簡単である。考えてみれば,日本でも死を賭けて行う信州の「諏訪神社・御柱祭り」などもあるが,そのような雰囲気を想像すればよい。しかし,祭りの後は羊を犠牲にして料理して食べるが,そのときになると血走った目をした人たちも緊張がほどけ全く違った雰囲気をかもし出している。

 ところで,イスラームに入信するためには,五つの行があるといわれる。@アッラーに対して神は唯一であると証しを立てることA日に5回祈ることB断食の月(ラマダーン)の実践C貧者に対して収入の2.5%を喜捨することD(一生のうち可能であれば)12カ月の最後の月にメッカとメジナの巡礼をすること。

 この五つのほかにジハード(聖戦)というものがある。例えば,ある国の人民が為政者の暴虐により圧迫・虐待されている場合に,為政者に対して人民が抵抗・反逆することができる。あるいは外部から侵略してきた場合に,彼らに対して抵抗・反逆する。これも五行プラスアルファの「ジハード」と考えて,ムスリムの当然の行であると考える。この点ではシーア派もスンニ派も同じである。このような思想的背景の下,イスラームの中に反帝国主義,反植民地主義の意識が高まったのである。

 イスラーム起源のテロがいつごろから起こったのかと考えてみると,1960年代にエジプトでいわゆる防衛的ジハード(聖戦)という考え方が強く出てきたことが注目される。ジハードということばは,元来,アラビア語で「努力する」というような日常的なことばである。それが外界,外敵の侵入,あるいは暴虐な支配者に対する抵抗,その論理として,この防衛的ジハードということばが起こってきた。その中心的イデオローグは,1960年代のムスリム同胞団(イフワーン・ムスリミーン),イスラーム組織(ガマーア・イスラミーヤ)などである。彼らは場合によっては,自爆も辞さない。しかし,元来,イスラームの主流教義に基づけば,自殺・自決は許されるものではなく,自殺者は天国に昇ることはできないとみられているから,自爆,それも一般市民も巻き込むような自決行為は傍系変異として非難されるべきものである。

 ところで,近代テロの歴史を回顧すると西アジアで「死ぬことを前提にしてテロが行われたのは日本赤軍のテルアヴィヴ空港襲撃事件(1972)がはじめてである」(加藤朗『テロ―現代暴力論』)。主犯格の岡本公三はイスラエルの軍事法廷に引き出され,その過程で赤軍メンバーがイスラエルに敵対するアラブ陣営,とくにPFLP(パレスチナ人民解放戦線;マルクス・レーニン主義を標榜する政治組織。この組織ですら自爆による抵抗運動には反対した)からの庇護を受けていたことが明らかになった。ただ,自爆・自決まではいかないのが,1980年代までのイスラーム抵抗運動の傾向であった。しかし,このような作戦が,やがて90年代以降頻発するイスラーム過激派による自爆テロの流れに影響を及ぼしたとの見方には一理があろう。

 その後,イラン・イラク戦争(1980-88)が勃発して以降,イラクに対する軍事作戦の一つとしてイランの少年兵を集めて鉄条網を切り開くために爆弾を持って突っ込むことをイラン政府がやらせ始めた。ちなみに,ムハンマド・ネジャート・イラン現大統領は,当時,「バシージ」といわれたこの少年決死隊の指揮官を務めていた人物である。

 最近の自爆テロ現象をみると,反権力側抵抗組織のトップ・リーダーからの中央指令によって実行される場合もあろうが,むしろ末端組織が独立主体となり,いわばアメーバの一部が切り離されても自立的に行動するように,一旦指令され,暗示されたことが現場の判断で実行されることが多いようだ。

 だからといって,イスラームは昔から自爆テロの伝統があるということにはならない。その宗教的・思想的源泉をたどれば,スンニ派の一部に見られるズィクル現象,シーア派特有のタァジァ現象が精神的エネルギーを発電するダイナモとなる。しかも日常祭事から離れて「ジハード」と結びつくときには政治的高電圧を放出するものと観察される。これを一口に「テロ」「悪の根源」と非難したり,世界のグローバル化に取り残された後進地域の挫折現象とみくびったりすることはできない。そうすることは,グローバル化の波に自立的発想を溺れさせるだけであり,もっと嘆くべきは,忌むべき暴力の悪循環に対する長期的視野に立った対症療法を見失うからである。

4.イラクにおける平和実現への展望

 米国がイラクを武力制覇をして早3年余が経過したわけだが,イラクは既に宗教・宗派間の内戦状態に陥っているのみならず,米軍の犠牲者も増え続けている。米国はフセイン政権崩壊後のビジョン・シナリオを明確に描くことができなかった,あるいは描かなかったのではないかとさえ思う。
 ブッシュ大統領は,自分の任期中,米軍撤退はできないと言明しているが,やはり外国軍の駐留についてはイラクの人々は非常に苦い経験を何度も味わっている。イラクには,モンゴルやオスマン帝国に対する抵抗運動をはじめ,第一次世界大戦後,英国軍などの外国人占領軍に対する住民の反発・抵抗など草の根抵抗運動の歴史がある。

 ブッシュ大統領は,占領後に最も親米的になった国の例として日本占領を引き合いに出す。これは歴史のケーススタディーとしては不適切だ。日本は原爆投下を契機としてポツダム宣言を受諾したように,勝敗がはっきりしていたが,今回のイラク戦争では勝負がはっきりしないままに米国が一方的に勝利宣言を行った。サッダーム・フセインは戦争犯罪として裁判にかけられたが,日本の場合は,マッカーサーの判断もあって天皇を処断せずに人間宣言させた天皇を国民統合の象徴として安堵させ,立憲主義に基づいて国を立て直す方向を示した。それによって日本の国体が保たれて国としてのまとまりを持つことができたように思う。しかし,イラクはそれとは違う状況にある。

 また,日本でレッド・パージが行われたように,イラクでは旧バース党系の有能な公務員や警察・軍隊をみな切ってしまった。バース党員の中には,いやいやながらもバース党に入っていた人もいたわけで,そのような区別なしに一斉パージを行ったために,貴重なマンパワーを失うことになった。中には失職・追放の身になって,反体制武装グループの方に流れるものもいた。

 イラクに治安維持軍隊・警察を作り内政を彼らに任せてできれば撤退したいというのが米国の本音かもしれない。そこでベトナム戦争の経験を踏み台にして撤退時期を探っている向きもあるが,ベトナム戦争は失敗の例でもあるので先例にはならない。ベトナム戦争は,ホーチミンと親欧米勢力との対立であった。そこで米国は,後者の穏健派に経済援助して治安部隊を訓練していけば,勝てると当初考えていた。イラクもそれにならってやればいいと考える人もいるようだが,そう簡単にはいかないだろう。なぜなら,イラクの場合は,支配者と被支配者との間の階級闘争ではないからだ。スンニ派,シーア派,クルド系など宗派・民族間の抗争(communal civil war)である。

 かつてイラクのサッダーム・フセイン政権下で弾圧されたシーア派の指導者たちは一時イランなどに退避していたが,フセイン政権崩壊後に再び戻ってきたようだ。そして先の選挙で勝ったシーア派とクルド系を中心に構成された治安部隊によって治めていこうとしているが,スンニ派の旧軍人たちにとっては食べていけないという深刻な現実問題を抱えることになり,この状態ではスンニ派の人々はおさまらないだろう。このままでは泥沼状態化してしまう恐れがある。

 例えば,クルド系の人々はクルド共和国を立てたいとの思いがあったであろうが,その人口の多くはトルコ領内におり,そのほか,イラン,シリアなどに分散していて,総数で2000万人を数えるとも言われている。そのため周辺国のどの国もクルドの独立を考えている人は一人もいない。そのような背景もあって,クルド系の人たち自身も自分たちの独立国を立てようというところまでの考えはないようで,それぞれの国内でどれだけ自治が許されるかということであろう。

 そこでイラクでは連邦(federal)を作っていこうとの方向で進めている。たとえ現在の国境線が西欧列強による人為的なものであるとしても,その境界線の中でまとまって国づくりをせざるをえない。それゆえ,いま宗教・宗派を超えた坂本竜馬のような人物の登場が望まれている。すなわち,宗教・宗派の利益を超越したnational unityとしてのイラクという国全体を考えて行動する人物である。そのとき重要なことは,生活水準の向上と福祉の充実に直結する石油収入の公平な分配である。例えば,石油資源は,イラク南部と北部(シーア派とクルド系の地域)に集中しており,かつて石油のない地域にいたフセイン元大統領などスンニ派支配勢力が全体の利益を独占的に享受していた。しかし,そのような考えではなく,「オール・イラク」という国全体を考えて政策を立てる「ナショナル・リーダー」が多くなれば,まとまっていくに違いない。

5.日本の中東外交の課題

 輸入原油の88%を中東地域に依存している日本として,この地域の和平にどのような貢献が可能か。90年代以降,中東問題に大きな影響力をもつ国として米国,EU,ロシアがあるが,それらにUNを加えてカルテットと呼ばれている。日本のパレスチナ援助(ODA)は米国に次ぐ規模で,上記4者と並んで日本もそれなりの役割を果たしていた。ところが最近では,日本の中東外交はそうした枠の外で動かざるを得ない状況にまで後退してしまった感がある。

 近年の日本外交は,どちらかというと国際協調の名の下に対米協調,対米追従路線のようだが,とくに中東地域に関して日本の国益との関連で政策が立案されているのか?日本独自(pro-active)の自主外交をどのように構築していくべきか考えてみなければならない。

 過去の自主外交の例を挙げてみる。1973年の第一次オイルショックのときに,日本はアラブ産輸入原油を毎月5%ずつ削減されることになった。そのとき日本は欧米諸国の先頭を切って,パレスチナの民族自決権,占領地からのイスラエル軍全面即時撤退,撤退しない場合はイスラエルとの外交関係の見直しなどを骨子とする二階堂談話を発表した。原油カットに伴う,やむを得ざる措置とも言える。今度のイラン核開発問題においても,モッタキ・イラン外相を日本に招いて話し合いを進めるなどそれなりの役割を果たしている。

 また,自衛隊の海外派遣は人道援助に限って行っているが,イラクでもかなりの実績を挙げてきたことは確かである。しかし,自衛隊と言えども重武装している一種の軍隊であるし,日本の自衛隊を守ってくれている英国軍,豪州軍などが撤退することになれば現地に留まることは難しいと思う。現地の部族長などは協力してくれているものの,サマワにはシーア派の戦闘的な反米勢力もいるので危険地域であることには変わりない。状況によっては何が起こるかわからない。これ以上犠牲者を出すわけにもいかない。イラクの人々が自主的に治安を回復してくれることが重要だが,外国軍隊がある限りは,イラクの人々も他力本願の傾向から脱却できず,なかなか「坂本竜馬」が増えてこない。

 これまでの自衛隊の援助活動実績は実績として認めつつも,これからは日本のソフトパワーが意味をもってくると思う。例えば,地域復興援助センターや技術協力センターなどをつくって戦後復興に役立てる。これまでも日本は,イラクには石油関連施設のみならず,学校,病院(13病院)を建てるなどさまざまな援助を行ってきた。そこで築いてきた「友好の貯金」を活かしながら,そのような施設を準備して自立できるようにしてやることが大切であろう。

 世界平和と安定のための日本の貢献として,私はかねてから「ハイテク病院船」を常備することを提案している。天然災害や難民の発生に際して,緊急援助隊だけではなく病院船を派遣するなど多様な貢献の形が求められているように思う。武器をもって危険地帯に飛んでいくことだけを考えるのは不十分で,とくに近隣諸国の微妙な反応を考えた場合には,日本の貢献の手段としてはあまり勧められないと思う。

 イラクの人々は,サッダーム・フセイン政権の25年間,イラン・イラク戦争をはじめ悲惨な体験の連続であった。その一方で,サウジアラビア,アラブ首長国連邦,カタール,バーレーンなど周辺国はみな石油の恩恵を受け繁栄を謳歌しているのに,ただイラクのみ貧しさにあえいでいるような状態だ。いまはIT情報化時代で,そのような情況を日々知るにつけイラク国民は,平和を実現すればどれほど豊かさを得ることができるかわかるので,うらやましい思いにかられているに違いない。イラク人が真の主体者として歴史から学び,歴史の教訓を生かしていく時が近づいている。イラクにおいてサッダーム「倒幕」の後,スンニ,シーア両派,アラブ・クルド両民族の利害を超越して,真に共通の国益・公益の立場に止揚できる「イラクの竜馬」がひとりでも多く現れて真の平和が実現される日を願ってやまない。
(2006年3月28日)

注1 スンニ派とシーア派
 632年に預言者ムハンマドの死後,その後継者選びによって二つの宗派が生じた。シーア派は,彼らの最高指導者イマーム(預言者亡きあとの特別な存在で,シーア派独自の概念)はムハンマドの血縁関係にあるものでなければならないとし,初代イマームをムハンマドのいとこで女婿であったアリーのみを正統な後継者と定めた。それゆえ彼らは「アリーを支持する党派」とみなされ,その略称「党派」を意味するシーアと呼ばれるようになった。アリー以後,12代のイマームが地位を継承するが,ダマスカスのムアウィアによって代表されるスンニ派の圧迫下で殉教や暗殺にあい,幼少でイマームになった第12代が847年に人々の前から忽然と姿を消し,「かくれイマーム」となった。

 スンニ派から分裂したシーア派教徒は世界ムスリム人口の1割を占め,主としてイランとイラク南部に住む。スンニ派に比べ,シーア派聖職者は世俗権力への不信感が強い。一方,イスラーム人口の9割を占めるスンニ派では,アッラーと信者は直接に結ばれ,第三者は介在しないことになっている。聖と俗を結ぶ中軸的な存在である聖職者の手を借りることなく,礼拝などの宗教的な義務を果たすことになっている。シーア派の教義では,一般信徒は善悪が見分けられないから,お手本となる聖職者に導かれてその言動を模倣すべきだとされる。シーア派イスラームは16世紀以来イランの国教であり,聖職者と民衆の結びつきは強い。

 スンニ派とシーア派の対立は,宗派間の対立だといわれているが,イスラームの人に言わせると両者の違いはそれほど大きなものではない。イスラームの一般民衆からすれば両者の違いはほとんどないようなものだ。私の知るある外交官は両親の一方がスンニ派でもう一方がシーア派であった。両者の争いは,ある意味で政治的結社の争いとなっているといっていいだろう。(片倉邦雄,『アラビスト外交官の中東回想録』より)