東北アジア地域主義の根っことしてのモンゴリアン文化
―「モンゴル連合」の希望に燃えて

東京外国語大学名誉教授 河部 利夫

 

1.はじめに―21世紀は地域主義の時代

 2004年9月,韓国の首都ソウルにおいて開催された「蒙古斑同族世界平和連合」世界大会(IIFWP主催,PWPA後援)に出席する機会があった。同会議は,古くモンゴロイドまでさかのぼって世界各地に分布するモンゴロイド系民族の共通要因を探りながら,人類の新しい紐帯を形成して真の世界平和を実現しようとの大きな目的をもって開催された。この会議のメインテーマは,「心情文化世界と恒久平和の実現―蒙古斑同族(モンゴロイド)の歴史・文化・家庭的伝統の価値」であったが,アジア共同体を形成する上でのモンゴリアン文化の意義が据えられている。新しくアジアの共通基盤,すなわち「根っこ(ルーツ)を探す」課題として,古代のモンゴリアン民族文化をキーワードとして掲げることは,きわめて妥当にして,新しい思考として,感動させられた。

 と言うのは,私はかねてより「21世紀は地域主義(regionalism)の時代である」と述べてきた。すなわち,19〜20世紀の人間存在の原点であった「ナショナリズム(nationalism)」が,近隣諸国の語らいによって,「生活協力圏」をつくるようになったのである。まさに,「単ナショナリズム(a single nationalism)」を超えて,「多ナショナリズム(multi-nationalism)」が世界的傾向となっていることは周知のところであろう。その事例と成立年をあげれば次の通りである。

 EU(欧州連合,1993),SAARC(南アジア地域協力連合,1985),ASEAN(東南アジア諸国連合,1967),NAFTA(北米自由貿易協定,1992),AU(アフリカ連合,2002)の如くである。
しかし,世界の誰しもが期待している有力な地域「東北アジア」(Northeast Asia,韓国,北朝鮮,ロシア,モンゴル,中国,日本)のregionalismの形成は未だである。その原因については,種々論じられているが,所詮は未だぬぐいきれていない「冷戦構造」の残滓としていいであろう。しかし,われわれにとっては無視できない緊急課題であることを忘れてはならないと思う。

 その意味において,アフリカ連合についで,上述の「モンゴリアン文化」を基盤とする「モンゴル連合」の志向が示されたことは,大いに注目すべき現代史のイベントと思う。 
ところで,地域主義の台頭がはじめに見られたのは,ヨーロッパである。EU(1993)は,ヨーロッパ地域主義の展開の最終的表現なのである。ヨーロッパ,とくに西ヨーロッパ諸国は,第二次世界大戦後に米ソ二つの超大国に対する無力感と旧植民地のあいつぐ独立,離反からする劣敗感で,勝敗にかかわらず第一次世界大戦とは比較にならないほど,国民生活への影響は深刻であった。そこで,そこから脱却するための模索の中で従来の主権国家を至上視する国家観への反省と,国家を超えた西ヨーロッパの地域協力統合をめざそうとする,いわゆる「ヨーロッパ主義者」(Europeanist)の運動が生まれてきたのである。すなわち,その代表的政治家が,チャーチル(W.L.S. Churchill,1874-1965,英),シューマン(R.S. Schuman,1886-1963,仏),スパーク(P.H. Spark,1899-1972,ベルギー),アデナウアー(K. Adenauer,1876-1967,西独),デ・ガスペリ(A. De Gasperi,1881-1954)たちであった。

 そして,彼らがまず考え実行したのがヨーロッパの経済復活のための協力構想であった。さらに,そのための主体的協力機構としてEC(European Community,ヨーロッパ共同体)が実現した。すなわち,次の三つである。

@ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(European Community of Steel and Coal,ECSC,1952)
Aヨーロッパ経済共同体(European Economic Community,EEC,1958)
Bヨーロッパ原子力共同体(European Atomic Community,EURATOM,1958)

 このうちで,とくにEECは初のローマ条約調印(1957年3月)のフランス,西ドイツ,イタリア,ベネルックス3国(ベルギー,オランダ,ルクセンブルク)に,1973年以降に,イギリス,デンマーク,アイルランド,ギリシア,スペイン,ポルトガルの6カ国の参加も実現し,12カ国による地域経済協力圏を達成したのである。そして,その効果は別名「ヨーロッパ共同市場」(European Common Market)と称する如く実証され,西ヨーロッパの自信の回復に貢献すること大であった。

 しかし,こうした地域的統合の運営は,必ずしも平坦な道をたどることはできなかった。依然として根強い伝統的民族文化による考え方,域内の南北格差の経済状況などによる利害の対立は消えなかった。例えば,EC成立後に対抗的につくられた「ヨーロッパ自由貿易連合」(European Free Trade Association,EFTA,1960)にみられるであろう。すなわち,政治的志向を意図する気配に,消極的な国々が連合した。スウェーデン,ノルウェー,スイス,オーストリア,アイスランド,フィンランドの6カ国で,1973年にはイギリス,デンマークが脱退している。

 それでも,西ヨーロッパのEC的連合は,戦後の東西分裂の固定化に強く作用したことは否定することができない。ソ連,東ヨーロッパ諸国の経済協力として,「経済相互援助会議」(Council for Mutual Economic Assistance,COMECON,1949)がすでにできていた。ECはそれに強い対抗姿勢を示すことができたのである。そして,いろいろな問題をはらんでいたにもかかわらず,統合への努力のうちに,EC(ヨーロッパ共同体)が進展し,「経済的進展と政治的自信」が高まり,1950年代の対米依存は減退した。

2.地域共同体のあり方

 以上,この世紀における地域主義(regionalism)の台頭について述べたが,この問題に関しての私の予覚について述べたいと思う。今から67年前,東北帝国大学文学部西洋史学科(仙台)の卒業論文として,「クローチェ史観における欧州主義」を執筆提出した。要するに,イタリアの著名な歴史哲学であるベネデト・クローチェ(Benedetto Croce,1866-1952)の「欧州統合」の構想を追究したのである(参照;東北大学西洋史研究会編「西洋史研究」,第14輯,1939年)。以来,この視点は世界現代史専攻の私の世界動向分析の考究視点となっている。

 さらに,その後学究生活に入って,大きな参考となったのが,イギリスの政治史家,国際政治学者のE.H.カー(E.H. Carr,1892-1982)であり,とくに『ナショナリズムの発展』(E.H. Carr,Nationalism and After,1945,邦訳岩波版)であった。彼は,ナショナリズムの発展が福祉国家の実現という段階に達したとき,「単ナショナリズム」(a single nationalism)を超えた「多ナショナリズム」(multi-nationalism)になることを予想した。1926年に外務省に入り,第一次世界大戦後のパリ平和会議にはイギリス代表に随行している。第二次世界大戦中は,情報省外国部長を務め,戦後の国連憲章の起草にも関与している。また,ウェールズ大学教授(国際政治学),ロンドン・タイムズ論説委員なども務めている。すぐれた,国際問題,平和思想の考究者であり,まさに彼の予覚どおり,ヨーロッパはECを実現し,種々の変遷を経て「欧州連合」(EU)という完成的な地域主義に到達したのである。

 さて,ここで12カ国のECという地域共同体成立に関連して,結び合う要因について見ておく必要がある。言語,宗教,伝統などの差異,歴史の中に形成されてきた社会構造,政治様式,経済構造など,それぞれ異なっている。そうした中で,まず共通協力の志向となったのが,「経済共同体」であったことは当然と言えるであろう。次いで,共同体の中に民族主義国家が埋没しないために,国際的政治連合としてのあり方への意識も台頭保持されていた。すなわち,それを如実に示しているのが,フランスのド・ゴール(C.A.J.M. De Gaulle,1890-1970)大統領が主張している「祖国から成るヨーロッパ」(L’Europe des patries)の考え方である。

 そして,さらにこうした具体的な関心要因の底に強く存在している「共通文化」なるものがあることに注目する必要がある。それが,ギリシア・ローマ文明という「古典主義」(classicism)であり,キリスト教文化によるChristendom(キリスト教世界)である。同時に近世以来受け継いできた「自由民主」の法治主義(J. Locke,J.J. Rouseau,J.S. Mill, など)の豊かな政治思想的遺産であった。

 ロンドン・タイムズ社が,ECの統合について『1992年への案内』(Guide to 1992,Times Books,1989)という本を出している。その中にあげられている「統合」(integration)に関するいろいろな「かぎ言葉」(key words)を拾い上げて,経済的,政治的,文化的の三つに分類して列記したのが下の如くである。

@経済的 「単一市場」(the single market),「ヨーロッパ中央銀行」(the European Central Bank),「ヨーロッパ連邦制度」(European Federalism),「ヨーロッパ標準化」(Standardizing Europe)

A政治的 「ヨーロッパ連合」(European Union,EU),「国境なき一つのヨーロッパ」(a Europe without frontiers),「超国家的ヨーロッパ」(a European superstate),「超国家的」(supernational),「外界に開かれた統合EC」(an integrated EC open to the outside world),「ヨーロッパ議会」(the European Parliament),「唯一のヨーロッパ条令」(the single European Act)

B文化的 「独自のヨーロッパ的個性」(an identified European personality),「言語の障壁をもはや大きく強調すべきではない」(the language barrier, no longer enough to shout louder)

 以上を総括すれば,共同体の成立には,約言すれば,「ある共通」と「つくる共通」の二つの志向があることを知るであろう。これについて,二つの学説を紹介したいと思う。
先ず,ドイツの社会学者テンニース(F. Tonnies,1955-1936)は,次のように立論している。すなわち,人間固有の本質意志と選択意志の区別にしたがい,社会を共同社会(Gemeinschaft)と利益社会(Gesellschaft)とに分け,この基本的範疇に基づいて,理論的分析を試み,以来共同体は共同社会の意味で考えられるようになっている。

 スコットランド生まれで,アメリカ人となった社会学者マッキーバー(マッカイバー,R.M. MacIver,1882-1970)は,同じく二つの範疇(CommunityとAssociation,共同体と協力体)を立て,前者を基本社会とし,後者は前者の成立発展の手段的なものとしている。

 ところで,こうした二つの範疇について,前者(共同体)を重視する立場は,単「ナショナリズム」の強調となって,全体主義思想の台頭となった。すなわち,イタリアのファシズム(Fascism),ドイツのナチズム(Nazism),日本の皇国主義であった。他方,後者(協力体)を重視するところの後天的形成として,多「ナショナリズム」への発展を助長しつつ,「地域協力主義」(regionalism)への展開となってきている。こうした展開の事例としては,ヨーロッパのECからEUへの展開があげられることは,言うまでもないことである。

 しかし,アジアに関連して考える場合には,ASEANの形成にこそ,見習うべきものがあるとしたい。ASEANの目的は,1967年8月8日バンコクにおける成立宣言が示している。すなわち,「域内の平和と繁栄の基礎を強化するための,平等と連帯の精神のもとに進める共同作業を通じて,地域の経済成長,社会的進歩,文化的発展を推進する。既存の国際機構および地域的機構と緊密,有益な協力関係を保持する。すべての東南アジア諸国の門戸を開放する」であった。そして,さらに71年11月27日のクアラルンプール(マレーシアの首都)での特別外相会議における「平和・自由・中立」(ZOPFAN,Zone of Peace, Freedom and Neutrality)宣言(略称KL宣言)において,東南アジアはいかなる形また方法であれ,外部勢力の干渉から自由であるという合意が確立した。

 しかし,バンコク宣言,クアラルンプール宣言を前にして,私たちは,19〜20世紀における東南アジアの苦難を忘れてはならない。植民地主義(タイも半植民地境位)の下に,第二次世界大戦後に与えられた独立にもかかわらず,やがて始まった「冷戦的世界」のシンボルとしての「ベトナム戦争」(1954-75)に,基地的利益を得たにせよ,主体性のない国際的境位に悩まざるを得なかったことは否定できない。

 ASEANがそうした状況の中から生まれるには,二つの宣言に謳われている政治的・経済的な言葉だけによるものではなかった。そうした「つくる理念」の底に流れている,東南アジアの内なる「ある理念」を,われわれは共感することをなおざりにしてはなるまい。

 すなわち,ASEANの背景にあるidentity(自己同一性),統一性,一体性を考えてみる必要がある。私は,1942年(昭和17年)のバンコク在外研究員としての派遣以来(文部省),東南アジアについては文献的ならびに体感的理解を続けている。そこから解説すると次の如くである。

 しかるに,私はいつも「二つの東南アジア」の把握を説いている。それこそ「内なる東南アジア」と「外からの東南アジア」にほかならない。「内なる」identityとは,その国土に固有伝統的な「稲作文化」(rice culture)という特性であり,ASEAN各国の社会文化に共通する基盤文化となっている。

 さらに,一方では東南アジアは,古来「インド化」(Indianization),「シナ化」(Sinicization,中国化とは言わない),「イスラム化」(Islamization),「ヨーロッパ化」(Europeanization)を受け,さらに現在の「世界化」(Worldization)などの外来文化の衝撃(impact)という「運命共同性」(Schicksalgemeinschaft,アメリカのインドネシア研究家ベンダH.J. Bendaによる)を確認することができるのである。

3.「東北アジア地域主義」の「根っこ」を考える

 アジア人として,われわれの願うところは,EU(欧州連合),AU(アフリカ連合),あるいはアメリカ合衆国(USA)が企図する「南北アメリカ連合」(American Union)に対抗する「アジア連合」(Asian Union)への志向であろう。

 しかし,その前に東北アジア地域民族として実行すべきことは,前述したように未だに実現されていない「東北アジア共同体」(Northeast Asian Community)の形成である。そのためには,東北アジアの人々が共通に理解するところの「根っこ」が必要である。その根っこを形作っているのは,まずモンゴリアン文化であると考える。しかし,もう一つ根っこがある。それは中国文化である。それらはちょうど,欧州の国々がギリシア・ローマ文化をその根っこに置いていることにたとえることができる。すなわち,モンゴリアン文化はギリシア文化に相当し,中国文化はローマ文化に相当すると思う。それらは自分たちの体質,言語,文化の中にすでにもっている共通文化,あるいは既に与えられた基礎的文化(given and basic cultural factors)といってもいいと思う。

 その「根っこ」をもう少し詳しく見てみよう。
第一は,モンゴリアン古代文化である。その主なものを列挙すれば,アジア人の体質に受け継がれた人種的特長である蒙古斑(Mongolian Spot)がある。また,言語系統では,日本に限られたことではなく,東北アジアの国々における言語文化は,ウラルアルタイ語系というようにモンゴリアンの系統がつながっている。また,騎馬民族文化がある。さらに生活文化として,麦作文化を指摘したい。

 ところで,冷戦後とくに,アメリカはグローバリズムを進めて世界を席巻しているが,実は13世紀のモンゴル帝国の始祖(在位1206-27)チンギス・ハン(成吉思汗,Chingis Khan,太祖,1167-1227)は,既にグローバリズムを実践していた。すなわち,彼は当時ユーラシア大陸を広く遠征してヨーロッパ方面まで支配し,そこには混血民族を残している。そう考えると,当時からグローバリズムの現象があったとすることができよう。
第二は,中国古典文化である。日本語の文字は中国から来た。カナもひらがなも,漢字から創案された。

 その他,儒教や道教などの中国古典文化,中国の政治・行政制度などの文化も東アジア地域に大きな足跡を残している。
また,中国の文化の中で強調しておきたいことは,稲作文化である。これは中国の雲南に源を発している。日本では,以前から,「米は日本の土地でできた神聖なる産物だ。絶対,外国から輸入してはいけない」としていたが,1996年の冷害の年にやむなく米を一部輸入したのをきっかけに,その後自由化され,輸入されるようになった。

 第三に,文化伝播の事例として「すもう」について述べる。
現在,相撲界には横綱の朝青龍を始め多くのモンゴル出身の力士が活躍しているが,その姿を見ても日本の力士の姿と違和感がない。日本の相撲の源流は,モンゴルにあるといわれるが,実はアジア各地に日本の相撲に類する現象があちこちに見られるのである。例えば,タイをはじめ東南アジア地域,シベリア地域,中国では角觝,近くでは韓国のシルムなどである。

 日本書紀によれば,古代の允恭天皇の葬儀に当たって新羅から楽人80人が見舞としてつかわされたとき,雅楽や舞楽が演じられたが,それが裸で行なわれたので,「素の舞」,「素舞」,この「すまい」から「すもう」という言葉が生まれたとされる。そして,奈良時代の聖武天皇(701-756)の時には,朝鮮半島との交流によって諸式が改まり,相撲が祭典や祝日などの儀式の中に加えられた。726年,聖武天皇は各地の力士を集めて,不作後の大豊作感謝の「節会相撲」を催した。節会とは,宮中で行なわれる祝いの宴会のことで,この節会相撲は,重要な儀式の一つとなり,約400年間も続いたという。このように,日本の相撲の儀式化,文化性が,韓国のシルムとの「文化融合」(acculturation)から形成されたことが理解される。そのような背景から,韓国の伝統国技である「シルム」(韓国相撲)も日本の相撲の根っこであるとも言われる。この文化一つを見ても,東北アジア文化の深い結びつきを感ずることができる。

4.「アジアとは何か」−「モンゴル連合」,「アジア連合」志向の前提として

 既に述べたように,われわれの企図する地域主義,すなわち「東北アジア共同体」,その展開としての「モンゴル連合」,そして究極のあり方としての「アジア連合」を前提として,これまでの先達のアジア観を反省することで結びとしたい。
「アジアとは何か」,人々はよくその地理的範囲や文化圏について,まず語ろうとする。すなわち,アジアはアッシリア語で「日の出」を意味するアスー(assu)に由来するとされ,その地理的範囲をだいたいウラル(Ural)山脈以東,ユーラシア(Eurasia)大陸の東半分とその南の南洋諸島,日本列島までも含むものとする。あるいは,アジアは少なくとも三つの独立した文明が存在したとし,西アジア文化圏,インド文化圏,中国文化圏をあげるが,これは歴史的現実としての「モンゴリアン文化圏」が欠落している,誤った認識といわざるを得ない。それゆえに,さらに南北に分け,湿潤アジアと乾燥アジアとして,農耕と牧畜という経済生活を対比し,「イネとウシ」対「ムギとヒツジ」という主要家畜を使う栽培穀物を対照することも注目されよう。

 かつて私は,中国を,長江(揚子江)を境にして二つの農業文化圏に触れる旅をした。すなわち,江北の乾燥農業<麦作文化>と江南の湿潤農業<稲作文化>,二つの農耕文化を体験して納得している。そしてまた,ついでに言いたいことは,中国を歩いてその「こころ」に触れあう姿勢は,「ニーハオ」(你好)ではなく,「チーファンラマ?」(吃飯了嗎,飯を食ったかい?)であることの関心をもってほしいと思う。

 ともあれ,アジアについてはいろいろな解説がある。そして,アジアの多様性が指摘され,多元的複合的理解が強調されてきている。そうした中で,日本でしばしば批判されている,岡倉天心(1863-1913,初代東京美術学校長,思想家)の言った「アジアは一つである」の命題である。これを批判する人々は,この認識は天心の浪漫主義的発想であっても正確な把握ではないとするか,日本のアジア進出を正当化しようとする「大アジア主義」にもとづくものと説明している。 

 しかし,この批判はあたらない。かつて,私は「アジアの思考」(「朝日ジャーナル」1966年10月2日号)なる論考の中で,天心の言葉は「東洋の理想」の書き出しの一句であるが,「東洋の覚醒」にある「ヨーロッパの栄光はアジアの恥辱」という文言とあわせて理解した,竹内好(1911-77,中国文学者)の「アジアは屈辱において一つである」という第三の命題こそ天心の思想の核心であるという指摘を評価し,注意を喚起したことがある。

 ここにアジア人の主体的な理解があると思う。そして,その最も端的な表れとして,留意してほしいことは,「バンドン会議」(1955年4月,第1回アジア・アフリカ会議)における,インド首相ネルー(1889-1964)の閉会演説に耳を傾けたい。

「われわれはいまや世界において,いわば誰にも命令されることなく,自由を持つことを選ぶ偉大な国々となっております。まさに,アジアが世界に向かってなにかを話そうとするならば,つぎのとおりです。いまより未来においてなんらの命令もない,アジアにもアフリカにも,もはや『イエス・マン』はいないことをのぞむものであります。」

 このネルーの演説には,少なくともアジア・アフリカに通ずる心理がある。そのこころこそ,これまでの欧米の植民地主義のため停滞的,後進的な低開発のアジア・アフリカの国々に,発展の息吹の高まりを示したものである。
それゆえに,「アジアとは何か」の問いに対して,私たちはまず自らにとって何かと考えるべきだと思う。ヨーロッパ人によって,アジアは文化的にも社会的にもいろいろに説かれてきた。東洋的社会とかアジア的生産様式とかなどの論究がさかんに行われてきたが,一般的な認識としては,「非ヨーロッパである」という受け止め方の中で,アジアの前近代性,後進性,ひいてはアジアのへの蔑視がただよっていたことは否めないところである。

 それを徹底的なものとしたのは,ドイツの哲学者ヘーゲル(G.W.F. Hegel,1770-1831)「世界史哲学講義」(1837年)であるとしてもいい。彼は,世界史を「世界理念の展開の跡」とし,「絶対理念」の達成をキリスト教的ゲルマン的ヨーロッパ世界に結び付けて,そこに歴史の老成(成熟)期を指摘した世界史観の中に,アジアを迷妄の世界と貶価しているのである。

 そこに,アジアは二つの対応を示している。一つは,「脱亜入欧」として福沢諭吉に代表される欧州近代化路線である。日本は,このあり方で明治維新に成功し,近代化を進めた。そして太平洋戦争後の発展も「入欧米主義」によって,世界第二の経済大国になった。しかし,他は反発のアジアである。すなわち「反帝国主義・反植民地主義」のアジアであり,19世紀以来の根強い民族主義運動の展開となっている。

 そして,ここでもう一度ネルーのバンドン演説に耳を傾けてみよう。「アジアは,もはや受身ではない。過去においては受身であったけれども,もはや服従するアジアはない。是々あいだ服従に妥協したけれども,アジアは今日,動きである。アジアは生命(いのち)にみちあふれている」と。

5.「アジアの生命」−「その根っこ」としてのモンゴリアン文化の意義

 その生命(いのち)とは何か。アジアにとっても,アフリカにとっても,今日もっとも重要なことは,「生命の自覚」である。そこからこそ,アジアの自己開発,世界史の発展に参加する可能性が生まれてくると言いたい。

 アジアの生命への痛烈な自覚を打ち出した言葉として,私はインドネシアのスカルノ大統領(1901-70,在位1945-67)に共鳴している。
「われわれは,われわれが未開発だと自分自身をのべるには,異議がある。ものの言い方を的確にしよう。もし,いくらかの留保をつけ加えるならば,われわれの国が経済的に未開発である,あるいは技術的にも未開発である,ということには同意もしよう。しかし,精神的に,知的に,文化的に未開発である,ということには,私は断固として反対する」。

 インドネシアの諺にこういうのがある。「宗法(アガマ)は海から入ってくるが,慣行(アダト)は山からおりてくる」と。ヒンドゥー・仏教も海外からの影響によるが,そうした外来文化の挑戦を受けながらも,民族固有の伝統的文化を常に維持してきたことを確認しているのである。

 そして,こうした固有のこころに結合するインドネシア村落(デサ)共同体は,オランダ植民統治もつき破ることができず,新生独立インドネシア政府もここによらなければ,国家建設を進めることはできなかったのである。

 すなわち,アジアの生命とは,伝統的固有の土着の文化への回帰と言いたい。それは,まさにアジアの国々の下なる一般農牧民大衆の生きる基礎的社会に支えられているものである。

 ベトナムの諺を引用しよう。「皇帝の法令も廊(ラン,村)の慣習に一歩をゆずる」,あるいは,「皇帝の権威も,植民者の権力も,村の竹垣でとまる」というのがある。そうした,ベトナムの固有伝統文化に生きる村々の人々のつくる共同体は,30年ならんとする酷烈な南北内戦によっても,荒廃解体することなく,民族の生命をたくましく脈動させつつ,ついに1975年4月,サイゴン(現ホーチミン)の陥落,大国アメリカに勝利したのである。

 すなわち,アジアの生命とは伝統固有の文化への回帰と強調したい。そしてその個別的自覚を通貫する根っこ文化が必要である。
 EUの実現は,誰も予想しなかった変化である。しかし,EEC(ヨーロッパ経済共同体),EC(ヨーロッパ共同体)へと展開し,ついにEU(欧州連合)を実現し,貨幣の統一までにいたった。この傾向がNAFTAからスペイン人,ポルトガル人系の中南米の諸国との協力を実現するとしたら,荒唐無稽の立場とすませるであろうか。AU(アフリカ連合)もしかりである。世界中の黒人民族集団国家が結び合う,いわば地域主義団結を超えた人種主義(Racialism)的協力体に発展することもあり得るとしても,夢想ではないと思う。

 それゆえにこそ,この会議において「モンゴリアン文化」(あるいは蒙古斑同族文化)を基盤的共通要因として,アジア人の共同体形成を志向しても妥当であり,異論のないところである。(2006年1月25日)