国際政治におけるシーパワーの役割
―大英帝国の成立と大陸国ロシア・中国の海洋戦略

東京学芸大学名誉教授 青木 栄一

 

1.はじめに

 日本の高校の歴史教科書を見ると,大きく欠けている部分があるように感じる。それは海に関する視点が抜けていることである。日本は周囲を海に囲まれた島国,海洋国だといいながらも,国民一般は世界に開かれた海に対してあまり関心を持ってこなかったように思う。その背景には,とくに江戸時代二百数十年にわたり鎖国状態であったので,一部の国を除いて国際交渉がなく,基本的に国内問題にしか関心がなかったことが大きな原因のように思う。その習慣を引きづって,明治維新以降の対外交渉において,交通路としての海の重要性の視点が欠けてしまっていた。
 
 また現在の貿易を見ると,日本は必要な物資の大半を海外から輸入している。例えば,石油,鉄鉱石などの鉱物資源をはじめ,穀物類などの農産物もほとんど輸入に頼っているが,そのほとんどは船舶を利用し,海を経由して日本に入ってくる。その意味で現在の日本の存立にとっても,海は重要な要素なのである。もし,ある国によって日本が海を使うこと(船舶の航行)をなんらかの形で妨害された場合には,日本はたちどころに干上がってしまうことになる。
 
 島国に限らず,多くの国々は海を通じて国が発展し,あるいは衰えてきた歴史をもつ。しかし,そのような視点に立った歴史学的認識が日本では不足していたように思う。近年,川勝平太氏などが海洋史観を唱えているが,それはまだ多数派を形成するまでには至っていない。

 一例として,古代ローマ帝国を見てみよう。「すべての道はローマに通ずる」といわれるほどに,道路交通網が発達して地中海地域の各地からさまざまな物資がローマに運ばれた。しかし,実際の交通輸送の歴史を調べてみると,道路網だけで地中海のどこにでもいけるわけではなく,ことに物資輸送の点では船の果たす役割が大きいことがわかる。実は海路を利用した物資輸送を通してローマ帝国の繁栄が維持されていたのであり,それが断
たれた場合には国がバラバラになってしまうのである。

 そこで本稿では,近代以降のヨーロッパ諸国におけるシーパワーの歴史をかいつまんで述べながら,あわせて現代における大陸国ロシア・中国のシーパワーの狙いを探ってみたい。

2.シーパワーからみた大英帝国

 確立の道程
(1)ポルトガル・スペインの時代
 15世紀以降の発見時代(大航海時代)は,まずポルトガルとスペインから始まった。ポルトガルのエンリケ親王(1394-1460)は,サグレス岬に研究所を作り,航海術・天文学の研究を進め航海者を養成して西アフリカ海岸の探検事業に乗り出して,アフリカの西海岸沿いに南下させ,ポルトガルの勢力圏を拡大した。喜望峰まで達するのに50年ほどかかった。さらに喜望峰を回ってインド洋に入り,バスコ・ダ・ガマ(1469頃―1524)がインドの西海岸のカリカットに到達したのは1498年のことであった。一方,スペインは西方に進んで,コロンブス(1451―1506)がまずアメリカ大陸に到達した(1492年)。このようにスペインもポルトガルも船を使って遠くに植民地を作ることを覚えたのである。

 植民地を獲得すると,そこに宗主国の人々が住んで周囲との貿易を始めた。アメリカ大陸では,原住民を奴隷として使って農業開拓をした。新天地を開拓しながら得た珍しい産物や生産物をヨーロッパに運び利益を上げた。そのとき物資の運搬に船は不可欠である。あわせて本国と植民地間の船の航行がつねに支障なく往復できることの重要性に気づき,同時に自国が繁栄するためには,海を自分たちの都合のいいように支配しなければならず,時にはよその国が航路を利用することを拒否することも重要な要素であることを学んだ。

 これはスペイン,ポルトガルのみならず,後発国の英仏なども同様であった。英仏は,アメリカ大陸北部の東海岸など,スペイン,ポルトガルの勢力がまだ及ばない地域に進出した。同時にスペインの植民地との直接貿易の方がより利益が上がることに気づき,直接貿易に乗り出す。それに対して植民地に対する独占的権益を侵されたと感じたスペイン・ポルトガルは,英仏の進出を禁止し,取り締まろうとした。スペイン・ポルトガルの立場からすれば,英仏の行動は密貿易と映った。

 これに対して英国は武力をもって対抗する手段に出た。例えば,スペインの船に対する襲撃,略奪で有名になったフランシス・ドレイク(1543―96),ジョン・ホーキンス(1532―95),マーチン・プロビッシャー(1535―94)などについて,日本の歴史教科書では,彼らを「海賊」と称しているが,彼ら自身は違法行為を行っているとの意識はなかった。元来彼らは船のオーナーであり,商人であった。彼らは英国のエリザベス女王から「略奪免許状」を与えられていた。英国にとっては,スペインやポルトガルは敵対国家であり,戦争状態にあるともいえる関係のなかで女王のお墨付きをもらって敵国船を襲い,貨物を略奪する。その免許を「略奪免許状」(letter of marque)といい,当時は他の国々も同様のことを行っていた。エリザベス女王もそうした商人たちの組織する海上掠奪会社の株主の一人でもあった。商人たちに資本金を出して船を買い,腕のよい船長と乗組員を雇って大西洋に送り出した。これを「私掠船」(privateer)という。もちろん命がけの仕事なので給料も弾まなければならないので多くの資金が必要だった。一方,免許状のないものを「パイレーツ(pirate)」といい,これがいわゆる「海賊」である。両者はやっていることは同じであるが,その違いは国王がそれを認めるか否かにある。略奪免許状をもっていると,もし負けた場合でも,捕虜になることはあっても殺されることはない。しかし免許状がない場合は,犯罪行為とみなされ,その場で処刑されても文句も言えない。「シーパワーの争奪」は,まずこのような半民間の私掠船によって行われ,17世紀に国家の予算で整備された海上戦闘の専門集団である海軍が成立した後も,戦時には海軍に準ずる機能を維持した。ここでいう「シーパワー」とは,自分が必要とする海を自由に使える力,同時に必要があれば他国がそれを使うことを妨害する力と定義される。

(2)オランダと英国
 16世紀には,オランダ・英国はその伸張に伴って,スペインやポルトガルのシーパワーを次第に奪っていった。スペイン・ポルトガルは植民地を持っていても,植民地と本国との間を自由に交易できない状態になった。逆にオランダ・英国は,実力によってスペインやポルトガルの植民地を奪いながら,彼らに代わって植民地帝国としての道を歩み始めた。さらにすこし遅れてフランスが加わった。

 オランダは,もともとスペイン領であったが,そこを支配するスペイン・ハプスブルク家から独立した国である。当時のスペイン国王フェリペ2世は熱心なカトリック教徒であり,他の教派に極めて非寛容であった。プロテスタントの多いオランダはそれに対して80年戦争と通称される独立運動を起こした。英国はオランダを応援し,オランダは独立を達成する(1581)。また英国がスペインの無敵艦隊を撃破し(1588),これを一つの契機としてスペインは国力が下り坂となった。

 スペイン衰退の根本原因は,オランダや英国が大西洋のシーパワーを握るようになったために,スペインの貿易活動が低下したことにあった。日本の戦争観では,戦国時代の戦いに象徴されるように,陸上戦で勝負を決するものである。それゆえ,英国がスペインの無敵艦隊を破った段階で勢力が交代したと日本では考えられているが,それは欧米の戦争を知らない人の考えで,実際はそうではなく,一番大事な要素は,スペインが徐々に海の支配を失っていったという点なのだ。

 ところが英国では,エリザベス1世(在位1558―1603)が亡くなった後,スコットランド王のジェームズ1世(スコットランド王としては6世,イングランド王として在位1603―25)がイングランドに迎えられてイングランド王となり(スチュアート朝),一人の王がスコットランドとイングランドを共通に支配するようになった。ジェームズ1世は,カトリックで平和主義者であったので,スペイン相手の戦争を止め,略奪免許状の発行を停止してしまった。ところが一方のスペインは止めなかったために,両国の船が遭遇した場合には英国の船は抵抗できないことになった。その結果,エリザベス女王の時代には大西洋でスペインを圧倒するような勢力を誇っていたが,ジェームズ1世の時代になって力が低下してしまった。その間隙をぬってオランダが台頭したので,17世紀の前半にはオランダが優勢となった。

 オランダは北米,インドネシア,インドの一部などを植民地にして支配した。株式会社の世界最初の形態ともいわれる東インド会社を作り,それでもって広い植民地を支配した。このやり方は,その後の英仏にも受け継がれた。
英国ではジェームズ1世が亡くなり,その嗣を継いだチャールズ1世(在位1625―49)は,父親とは違って現実を直視した考え方をもっていた。すなわち,海を支配することが国の繁栄には重要であり,そのために軍事力である海軍が必要だと考えた。この発想はそれまでの歴史には見られない斬新な発想であった。それまでも英国王室は商船を所有していたが,通常はそれを民間の船主に貸してチャーター料などを徴収して収入を得ていた。エリザベス1世の時代でも海軍はなかった。その時代は,戦争になると民間から商船を徴用して,国王の任命した司令官の統一指揮の下に艦隊を運用したが,チャールズ1世の時代になって,初めて戦争専用の船,すなわち軍艦が登場したのである。商船では貨物を積んでいた部分に大砲を,船底には砲弾と火薬を積載すれば強力な軍艦となる。軍艦は国家が所有し,その建造と維持の費用は国家の予算でまかなわれた。

 チャールズ1世は,このような海軍を整備する費用調達のために「シップマネー」(船舶税)をかけた。この日本語訳は誤訳ともいうべきもので,この言葉の真の意味は,船舶にかけた税金ではなく,町や村にかけた税金であって,私は「建艦税」と呼ぶのが適切であると考えている。すなわち,軍艦を建造するための目的税である。最初は大きな港にだけ課税したが,後に資金不足となって山間部の町まで課税するようになった。チャールズ1世の論理では,海軍は英国全体を守るための防衛であるから,その費用の徴収対象は海岸の町か山の町かは問わないというものであった。実はある意味でこの考え方は,近代的な国防の考え方といえるが,当時はなかなか理解されなかったようだ。

 彼は議会を通さないでこの新税「シップマネー」をかけようとしたために,革命が起きた(清教徒革命)。そのリーダーがクロムウェル(1599―1658)であった。王党派とクロムウェル軍とが長い間の内戦の末,最終的には王党派が負けて,チャールズ1世は捕虜となり処刑された(1649)。
 その後主導権を握ったクロムウェルは,チャールズ1世の海軍を引き継いだ。チャールズ1世は確かに軍艦は造ったが,乗組員に対する給与の支払が悪かったために,海軍は王側に立たず,クロムウェル側についたのであった。それでシップマネーフリートと呼ばれた海軍は,クロムウェルの下でさらに強化された。彼はこれを使ってオランダのシーパワーに挑戦したのである。

 先述したとおり,オランダは17世紀の前半に世界のシーパワーを掌握して繁栄したが,それに対してクロムウェルが妨害を始めた。例えば,英国に入港する貿易船は英国籍,もしくは貿易相手国籍の船でなければならないと通告する。これによってオランダ船による第三国間貿易が否定され,オランダは大きなダメージを受けた。その結果,第一次英蘭戦争(1652―54)が勃発し,その後30年間,三次にわたり海上戦を主とする英蘭戦争が展開されて,最終的にはオランダが敗れる。これによって英国が世界のシーパワーを握ることになった。

 英国とアイルランドの間では宗教の違いからしばしば紛争がおきていた。また当時のヨーロッパの各王朝は,それぞれ密接に姻戚関係が結ばれていて,それを理由に多くの王位継承戦争が起きた。その他にも当時さまざまな戦争が行われたが,戦争の主要な目的は植民地争奪戦であり,その戦いの場は陸上ではなく海上であった。オランダが敗れた後,約150年にわたる英国とフランスとの対立の歴史の中で,大勢としては徐々に英国優勢で推移していった。

 英国がシーパワーを握ることができた主な要因は,大海軍を保有したこと,それを維持することのできる経済力をもっていたことなどである。海軍を維持するにはかなりお金がかかることも理解する必要がある。

(3)シーパワーをもてなかったナポレオン
 一方フランスは,ルイ14世(在位1643―1715)支配の時代より,とくに彼の側近である宰相リシュリュー(1585―1642)や財政総監コルベール(1619―83)がシーパワーの重要性を認識し,海軍創設に積極的に乗り出した。オランダが衰退期に入るころ,フランスが台頭し始めた。

 米国独立戦争(1775―83)において,強い英国がなぜ新興国に負けたか。それは強力なフランス海軍が全面的に米国を応援したためであった。フランスが大西洋のシーパワーをめぐって英国と争うようになったために,英国海軍は本国とアメリカ植民地との間で軍事物資や食料の輸送が困難になったことが致命傷となった。

 フランス革命戦争の過程で,フランスには英雄ナポレオン1世(ナポレンオン・ボナパルト,1769―1821)が登場する。ナポレオン1世は,イタリア,オーストリア,スペインなど陸上戦では大陸を総なめにする勢いであったが,こと海上の戦争になると弱かった。なぜフランス海軍が弱体化したのかというと,フランス革命を通じて,有能な士官や指揮官(大半が貴族)が大勢殺されたり,海外逃亡してしまったことが原因であった。その結果,下級士官が昇進して将官になったので,海上戦の指揮経験や技術が不足して,海の戦争には弱かったのである。

 ナポレオン1世はロシアを除いたヨーロッパ大陸の大半を征服した。しかし,ヨーロッパ大陸内のさまざまな資源,たとえば,船の材料になる木材を遠方からフランスに運ぶにしても,運搬手段が当時は馬車以外になかったために,資源輸送が困難を極めた。プロイセンやポーランドの森林から木材を運び出すためには,河に筏を組んでバルト海の河港まで運び,船でフランスまで運ぶしかない。ところが,ヨーロッパ大陸の近海はバルト海のような内海でさえも英国海軍がシーパワーを握っていたために自由に航行できない。大陸を占領して大きな資源を確保したものの,それを有効活用することができなかったのである。

 フランス海軍の大西洋艦隊は,ブルターニュ半島の先端のブレストを基地としていた。この艦隊はフランス革命戦争の初期に英国海軍と大海戦を行った(栄光の6月1日海戦)。このとき勝負は五分五分であった。英国海軍の妨害にあいながらも米国から小麦を積んだ船団をわずかの損害でフランス国内に到着させ,必要とする小麦をなんとか輸入することができたのであったが,激しい海戦で軍艦は相当なダメージを受けた。しかし,上述のように軍艦の修理のための資材を持ち込むことができないためにブレストでは船を整備・修理することが遅々として進まなかったのである。

 またナポレオンは,エジプトを征服しようとしたが,そのときも英国海軍に見つからないようにエジプトに行くことを考えた。事実,ネルソン率いる英国海軍に見つからずにエジプトに行くことができたが,その報が入るや英国海軍がやってきて,ナイル河口沖でフランス艦隊は全滅した。こと海上の戦いに関しては,万事がこのような状態であった。
1815年にナポレオン戦争が終わる。そのとき初めて英国のシーパワーが確立した。その後も,英国は世界中に植民地を拡大していった。その後のフランスは,英国と衝突するこを避け,北アフリカや西アフリカ,インドシナなどに植民地拡大を進めていった。

(4)英国の衰退と米国の時代
 帝国主義の後進国であったイタリアとドイツは,19世紀後半にようやく国民国家としての統一を果たす。これらの国も経済発展のために遅ればせながら,植民地拡大に乗り出した。しかし,既にそのころにはアフリカやアジアの多くの地は英仏等によって植民地化されていたので,両国は,東アフリカ,ナミビア,エリトリア(ソマリア),南太平洋の諸島などを落穂拾い的に征服していった。

 そうした動きの中で植民地保有の先進国と後進国との間で衝突したのが第一次世界大戦である。ドイツのヴィルヘルム2世(在位1888―1918)は,強力なシーパワーの確立を目指し,大海軍の建設に熱中した。ところが当時の英国とドイツでは経済力がかけ離れていたために,ドイツが戦艦1隻を造るうちに英国は2隻,3隻を造ってしまうありさまで,建艦競争をやればやるほど差がついてしまう。そのような状態であったから,ドイツ艦隊は大戦中は軍港に引きこもったままであった。たまに出撃しても敵の主力艦隊がくればすぐ退却するような状態であったから,海上ではドイツ海軍は北海沿岸やバルト海の内部に封鎖されて無為にすごす以外になかったのである。こうして最終的にドイツは敗れた。
第一次世界大戦前後の20世紀初頭になると,英国と米国との経済力の差が次第に縮まっていった。例えば,鉄鋼生産量において19世紀末には米国が英国を追い越した。こうして英国の経済的優位性が揺るぎ始めた。

 元来英国は,植民地拡大とともに外国に投資した。例えば,第三国に鉄道を敷設する場合に,その建設の技術指導から始まって建設資材などほとんどを英国から提供する。その第三国は資金がないので国債を発行してロンドンで販売し,英国で資金を調達するのが常道であった。例えば,日露戦争で日本が用いた6隻の戦艦はすべて英国製であったし,初期の鉄道建設も英国の資金でまかなわれた。このようにして英国は多くの外国債を保有していたが,第一次世界大戦で戦争費用を調達するために米国にそれを売却し,多額の戦費をまかなった。その結果,米国は経済的に潤ったが,英国は逆に経済的に落ち込んでしまったのである。

(5)シーパワーの本質とは
 米国は19世紀までは大陸国であった。そのころまでの米国海軍は,せいぜい沿岸防御程度のもので,19世紀末までは戦艦でも乾舷(水線から上甲板までの高さ)の低い海防戦艦であり,航洋性の低い艦であった。ところが19世紀後半に,工業が発達し経済的に豊かになっていくにつれて,海外に目を向けるようになった。まずスペインの植民地であった南米を勢力圏に置くようになった。英国がシーパワーを握ることによって世界最強国になったのだから,米国も同様の方法をとらなければならないとして,19世紀末頃より海軍増強に力を入れ始めたのである。

 1880年代から米国がシーパワーにシフトした戦略をとるようになっていたころ,米国の海軍大佐アルフレッド・セイヤー・マハン(1840―1914)(注1)がシーパワーを理論化して『歴史におけるシーパワーの影響』(原題:The Influence of Sea Power upon History 1660―1783, 1890年刊)を著し,その後の続編ともいうべき著作を加えた三部作を刊行した。彼は,英国が世界で最強国になったのはシーパワーを確保したからだとの観点から,英国がシーパワーを確立する過程の歴史を叙述したのである。マハンの理論に大きな感銘を受けたのがセオドア・ルーズベルト大統領である。彼はマハンの理論に従って大海軍建造に乗り出した。

 当時,日本もマハンの唱えたシーパワー論についてはいちはやく知っていて,4年後の1894年には彼の著書を翻訳して『海上権力史論』として刊行している。よく読まれたようであったが,当時の日本人は「シーパワー」の概念を正しく理解しなかったのではないかと思う。明治時代の海軍指導者たちは,海の支配を「敵の艦隊を撃滅すること」だと理解したようであった。しかし,戦争の要諦は,相手国の弱点を叩くことにある。例えば,英国を破滅に追い込むためには,貿易路を絶つことが最も有効な戦略である。ところが日本は従来からそのような考え方はなく,ナポレオンのような陸軍的発想であり,結局は英国のような発想をもつことができなかったといえる。

 第一次世界大戦でドイツは,戦艦をはじめとする水上艦艇の戦いでは英国に歯が立たないことが明らかだったので新兵器である潜水艦を大量に建造して大西洋や地中海で連合国の商船を無警告で撃沈する作戦を開始した。1917年2月のことで,これを「無制限潜水艦作戦」と呼ぶ。このようにしてドイツは英国のシーパワーに挑戦したのであり,資源のない貿易立国である英国をたたくために,英国にやってくる商船を潜水艦で撃沈させて日干しにするという戦略に出た。第二次世界大戦においてもドイツはまったく同様の作戦を展開した。

 ところが,日本の海軍はそのような実例があるにもかかわらず,それをよく学んでおらず,戦艦同士の艦隊決戦にのみ興味を持っていたようだ。しかし日本も英国と同じように外国との貿易によって国が成り立っている国であり,明治維新以後,時代を経るにつれてその傾向は強まっていたので,ますますシーパワーの確保が重要になっていた。それを支えていたのは日本の商船隊であったのに,日本海軍はその護衛の重要性を認識していなかった。とくに,第二次世界大戦における日本の商船隊はほとんど全滅に等しい被害を受けた。東南アジアのインドネシアやマレーシアなどを占領してたくさんの資源を確保していたのに,それを日本に運ぶことができなかったのである。

 商船は一般に船団を組んで動くので,それを敵国の攻撃から護衛する必要がある。商船の船団は速度が遅い(10ノット程度)ので護衛する船は高速である必要はない。潜水艦攻撃のための爆雷や水中で潜水艦を捕捉する性能のよい音波探知機を装備していればよい。ところが日本はそのような船を戦前には造らずに,旧式の駆逐艦を配置した。艦隊決戦に使う駆逐艦は30ノット以上の速度が出るもので,船団護衛には不経済である。また隻数の確保もむずかしかった。それゆえ日本の船団護衛は,大変無惨な結果となった。これはシーパワーの概念を正しく理解していなかった証拠である。

 戦後の海上自衛隊は,米海軍と協力して商船護衛を第一の任務にした。日本は海上自衛隊の時代になってようやくシーパワーを理解したといえる。日本の周辺を含めてシーレインを商船が自由に往来できるような状態にしておくことが,国の生存にとっては非常に重要な要件となる。また強い艦隊で制圧するという軍事的な意味だけではなく,その沿岸国との友好関係を維持することも含むものである。例えば,マレーシア,インドネシアにいつでも日本の商船が自由に往来できるようにしてもらうことである。

 ところが,当時英国のオックスフォード大学の助教授であった政治地理学者マッキンダー(1861―1947)(注2)は1904年に「歴史の地理的軸」という論文の中で,「シーパワーの時代は終わり,これからはランドパワーの時代になった。」との趣旨を発表した。マハンがシーパワーについての著書を著したわずか10年ほど後のことであった。彼の主張は次のようであった。

 今までの時代は“コロンブスの時代”といってもいい。コロンブスに始まる400年間の時代には,海を通じてヨーロッパが世界に拡大していった。しかし,今は鉄道の時代だ。鉄道が一番有効に使えるのは,ユーラシア大陸の内部に広大な領土をもち,多くの資源を有するロシアである。いくらシーパワーが有効だといってもユーラシア大陸の中央部には及ばない。だから今後英国に取って代わるのはロシアである。ユーラシア大陸の陸側からはロシアの勢力が拡大しようとし,海側からは英国の勢力が伸びていこうとするので,そこでユーラシア大陸の海岸地域で両勢力がぶつかり合う。それゆえこれからの世界の紛争地域はユーラシア大陸の海岸地域となるであろう,とマッキンダーは結論した。

 しかし私は,彼の論点は間違っていると考える。ランドパワーの中心を構成するのは鉄道輸送力であるが,それは船の輸送力と経済性にはぜんぜん及ばない。彼は鉄道の力を過大評価しすぎたように思う。ナポレオンの時代には,鉄道はなく輸送手段としてはもっぱら馬車であった。馬車と鉄道を比較すれば確かにその間には格段の輸送量の向上がみられるが,その鉄道も船と比べた場合には大きく劣る。とくに輸送コストの面での差が大きく現れてくる。資源輸送という点では,陸上交通の輸送力は海上交通のそれには遠く及ばないという構図は今でも変わっていないと思う。

3.大陸国とシーパワー

(1)旧ソ連・ロシア
 第一次世界大戦後に出現したソ連はユーラシア大陸中央部を含む広い領土を帝政ロシアから引き継いだものの,シーパワーを握るという点では後進国であった。例えば,極東地域には,シベリア鉄道の起点であるウラジオストクにソ連の海軍基地があった。しかし,いったん米国と戦争状態になればヨーロッパロシアと極東地域は一本のシベリア鉄道で結ばれているだけである。戦後のソ連はシーパワーの重要性を認識し,ゴルシュコフ海軍総司令官を中心に大海軍の建造に踏み切った。大陸軍国であると同時に,大海軍国になろうとしたのである。スターリン時代にはまず大型巡洋艦隊をつくったが,それは時代錯誤の感があり,原子力潜水艦,航空母艦を中心にすえた大海軍の建設に切り替えられた。

 従来のソ連海軍の中心はバルト艦隊であった。しかし,バルト海は内海であるので,入り口を塞がれると外洋に出ることができない。黒海も同様である。それではソ連にとって外に開かれた海はどこかといえば,北極海しかない。ムルマンスクを基地として北極海艦隊を編成し,原潜を集中させて整備した。北極海をもっと自由に使えるようにしようとの試みもあった。北極海は自然条件が厳しいために,夏の期間でも船の航行は困難で,冬期は不可能に近い。ベーリング海峡は砕氷船があれば越えられる。ソ連は高性能の砕氷船を一番多く保有しているが,それでも真冬に北極海航路を維持することはむずしいのである。

 また北極海の利用は,シベリア開発においても有効な手段であった。シベリアの資源を輸送するのにコストの点で鉄道は船に及ばない。オビ川,エニセイ川などを利用すれば,大きな迂回になるが,大量の資源輸送能力の向上によってシベリアの西部開発はかなりのところが可能となる。ただ,船を使うにしても冬場を中心としてコストはかかることは避けられない。

 極東地域では,カムチャツカ半島南東部のペトロパブロフスク=カムチャツキーとウラジオストクの海軍基地を整備して,太平洋艦隊を強化した。ソ連は海軍を増備して,ビルマ(現ミャンマー)やベトナム(カムラン湾)に基地を作り,次第に太平洋やインド洋に出て行くようになった。当時の海上自衛隊の大きな任務の一つに,ソ連の艦船がこのルートをどのくらい往復しているかを監視することがあった。

 ソ連は米国と原潜の建艦競争をしたのであるが,結果的には経済力の差があって米国に負けてしまった。無理に背伸びした軍拡競争の結果,ソ連の国自体も崩壊してしまった。

(2)中国
 最近の中国海軍増強の狙いは一体どこにあるのだろうか。その狙いはシーパワーの掌握である。中国海軍は現在シーパワーの重要性を非常によく認識していると思われる。その核心にはアジアに対する影響力行使がある。軍艦の役割には,戦争時の戦闘手段の役割とともに,平和時には「砲艦外交」という言葉に代表されるように,軍艦を相手国に派遣して自国の勢力を誇示する役割もある。最近の中国のやっていることはまさにこの砲艦外交である。

 中国は中華思想によって東アジアの中心になる国でなくてはならないと認識しているので,そのためには周辺域の海は中国が支配しなければいけないと考える。南シナ海,日本周辺域などを中国の内海にしようとするようなつもりであろうか。日本に対する基本的戦略は,日本のシーレインを妨害する行動にでる可能性を常に維持することであろう。

 実は,中国も長い歴史の中でほとんどは沿岸海軍の国であった。かつての清国の海軍における日清戦争時の体制は,渤海湾・黄海などを担当海域とする李鴻章麾下の北洋海軍,また上海を基地とする南洋海軍,さらに福建海軍,広東海軍などがあった。しかしそれらは各々地方政府(総督)の指揮下にあったので,中央政府の指揮下に一元化された海軍ではなくばらばらであり,その総体が清国艦隊の実態であった。海軍軍人の幹部を育成する海軍兵学校も同様で,それぞれの地方にあった。

 このような歴史を持つ中国海軍であるので,一元化された外洋海軍としての伝統はとても短い。日清戦争や第二次大戦でもそうであったが,中国の歴史にはこれまで海軍が勝利した実績はない。そこで現在の中国海軍は,「英雄」を求めているようだ。その一人が◆
世昌である。彼は日清戦争時には巡洋艦「致遠」の艦長であったが,この巡洋艦は黄海海戦で日本海軍に撃沈され,彼は戦死した。彼は福建水師学堂の卒業生で,外国留学経験もあった。彼がそれほどの手柄を立てたわけではないが,勇敢に戦って戦死した英雄として祭り上げられている。

 南シナ海の南沙諸島は,戦略上重要な位置にある。かつて第二次大戦中は,日本が一時領有を宣言したことがあった。南沙諸島には日本名で長島(中国名は,大陳島)という島があるが,戦争中日本はそこで産出するリン鉱石を日本に送っていた。ただ大陳島は別にして,大部分の島は礁ともいうべき島で,満潮時には海面下に沈んでしまうほどである。

 日本の敗戦後,最初にその領有宣言をしたのは中華民国政府で,現在も最大の島である大陳島を保有している。現在では,中国,ベトナム,マレーシア,フィリピンなども自国に近い島々をそれぞれ実効支配している。南沙諸島という名称についても,これは中国式の名称で,日本のマスコミは安易にこの地名を使うが,本当はもっと注意して用いる必要がある。ベトナム,フィリピンはそれぞれ自分たちの立場から固有の名称をつけているからである。

 しかし,現在中国はこの南シナ海も自分の内海との認識に立ってシーパワーによる支配権を確立するよう行動している。現代社会では植民地支配はもちろん許されないが,経済的関係の強化という考えに立って,各国はシーパワーの確立に力を入れているのである。周辺国が海洋支配で虎視眈々と狙っているほか,海底地下資源があるとなると関係国間でさらに葛藤が増すことになる。

4.最後に

 英国は,一時期シーパワーを握って世界を支配した国であった。それゆえ領海支配の概念も英国が最初に設定した歴史がある。シーパワーを握った側からすれば,領海はなるべく狭くしたほうが有利である。しかし,自国の海底資源,漁業資源問題となると逆に領海を拡大したいという国益が作用する。それで19世紀に,英国の主張した3海里から始まって,現在では領海は12海里に落ち着いている。ただし排他的経済水域としては200海里を設定した。そこでは海上の船舶の航行だけなら可という「無害航行」はいいが,潜水艦が潜航したまま航行したり,石油などの海底資源の調査行為はいけないことになる。200海里の根拠は大陸棚の幅にあるが,このような海底資源問題がシーパワーの新たな要素として紛争の種になってきている。

 これからの日本と中国の間には,古典的なシーパワーの概念(交通路,漁業権を含む)のみならず,地下海底資源を確保しようとする新しい概念を含めた争いへと発展してゆくであろう。中国の海洋戦略の基本は,勢力圏の拡大支配と地下海底資源の確保に狙いがあることはいうまでもない。その意味で海の価値について,日本政府および日本の国民が認識するようになったのは実は最近であったとさえいえる。

 これまでの日本の歴史教育では,海にかかわる考え方・視点が欠如していたように思う。特に戦後,日本では軍事を考えることをタブー視してきた。戦争は絶対悪だから,研究してもいけない,考えてもいけないという極端な方向に走った。そのために軍事関連の知識・教養が,教育・研究分野から完全に排除されてしまった。しかし,人類の歴史は戦争の歴史といってよいほどのものであったのだから,戦争の歴史の研究を抜きにして正しい歴史認識は不可能だ。幸い最近では,だいぶ改善されてきたようだが,今後さらに冷徹な歴史教育が求められているように感じる。
(2005年11月23日)

 

注1 Alfred Thayer Mahan(1840-1914)
アナポリス海軍兵学校卒。南北戦争に従軍。1886年海軍大学校校長に就任し,海軍史,海軍戦略を講義した。それをまとめたものが『海上権力史論』である。巡洋艦「シカゴ」艦長を務め,大佐で退役。アメリカ歴史学会会長,米西戦争委員会委員などを歴任。1868年日本に来日(当時,アジア艦隊所属「イロコイ」副長)し,米国商船と米居留民の保護に当たった。著書に,『海上権力史論』(1890)『二十世紀の展望』(1897)など。
注2 Sir Halford John Mackinder(1861-1947)
英国リンカーンシャー出身。オックスフォード大学卒。1904年ロンドン政治経済学院院長,1910年下院議員(〜1922,保守党)を務めた。地政学の祖と言われる。主な著書に,『英国と英国の海』(1902)『デモクラシーの理想と現実』(1919)など。